その男の人とは、クラスノダールの国際学会のレセプションで一度会っただけのことである。
ちょっとよろけたような借り着のように身体に合わない短いジャケットを着て、ズボンの膝が見事に抜けきっていたのが印象的であった。がりがりに痩せた体。濃い髭をきちんと剃っていないせいか、物の哀れを誘うような風貌だった。
レセプションの間の最高にあげられたボリュームの生演奏に頭の中はごちゃごちゃになり、ウォトカも手伝って、気分は朦朧としていた。
新鮮な空気を吸いに外にでようとしたら、その男もついて来た。
「自分は世界政治を憂いている。特にロシアが政治的、経済的主導権をなくした今、日本の果たす役割は大きい。アメリカに追随し、アメリカのご機嫌を終始取っているような日本が見ていて情けない。これからは日本はロシアと手を組んで、アメリカのしたい放題に手をこまねいているのを止め、世界の平和を考えなければならない。
これぞ、ジャーナリストとして糊口をつないでいる私の役目ではないかと考える。
だから、ここであなたたち、日本人にであったと言うのは運命と思わざるを得ない。
どうか、わたしの真の人類的目的のために、モスクワに帰ったら、一つなんとか、助力をしていただきたい。
ここで会うのが最後と言うのではなく、これからも何度もコンタクトを持って、世界政治、悪しき世界思潮の流れの中に一石を投じて、この流れを阻止したいのであ〜る。アメリカが勝手に小さき弱き国々に戦闘を挑み、その民を貧からしめている。これが正義だと、あなたはおっしゃるのか。日本も日本だ。それを平気で後ろから援助している。まずはアメリカ大使館と日本大使館に行って、大使に会い、その旨を断固抗議しなければならない!そして奴等の考えることを自分の発行している雑誌に暴露してみせなければならない。それが、自分の今果たさねばならない義務と考えております。」
「それで、あなたの雑誌はどんなものなのですか。どれくらいの部数を発行していらっしゃるのでしょうか。」
「いや、まだ、発行にはいたっていないのだが、これは強烈に世界知性を目指すようなものを日の当たる所に出さなければならないと、今、思っているわけです。」
「なるほど。すごいお考えですね。」
「で、手帳を今もっていらっしゃるかな。それに私の電話番号と住所を書いておいてもらいたい。」
「は・はい。」
「あなたの電話番号と住所もお聞きしておこう。」
と、広大に広がる平原を散歩しようとしたら、粘りつくように喋ってくる。
おっしゃるご説はごもっともなのだが、何だかおかしい。
早目に言っちゃうと、変なオジサンという印象なのだ。
だって、世界の潮流に一石を投じるのに、アメリカと日本に真っ向から挑むつもりの鼻息が荒すぎる。(鼻の穴からはちょっぴり伸びた黒いものが見えている。)
このところそのオジサンから何度となく電話がかかって来ていた。
ヘンヘンと私に日本国民として、現在行われている経済的、政治的世界戦略を断固として今すぐ止めさせるために、アメリカ大使館と日本大使館へ明日連れだって行こうと、いうのである。
「いや、ちょっと明日は忙しいので・・・・。」
「それでは、1週間したら、また電話をするから、時間を空けておいていただきたい。なんとしても我々のこの手で、阻止せねばいけないのですからな。」
またまた、かかってきたが、どうも彼の自己満足の戯言のような気がしてならない。それに付き合わされるのはまっぴらゴメンだ。
ヘンヘンは
「今度、電話がかかってきたら、ボクはいないって言ってくれない?」
と、ドゥニャンに頼む始末。
さて、昨日がその今度だった。
「もしもし、あなたも良く知っておられるように云々・・・・」
よ〜く、お話を聞いてから、
「うちには夫は今おりません。彼は忙しすぎるんです。それにそのお話は私ども、ちぃっとも興味を持つことができませんの。他の誰かとお話しなさった方がずっと、効果が上がると思われます。」
と、言ったその途端、そのオジサンはとても静かになった。
「そうですか。・・・・・。」
長い沈黙。
「そうなんですか・・・・・・。」
再び沈黙。
ドゥニャンの胸ではなんとなく良心の呵責というものがチクリチクリと針を刺す。
なんでこんなに後味が悪いんだろう。断り方にもっと風情があっても良かったのではないか。彼の自尊心を傷付けることなく、なんとかやり過ごすことができなかったか。
長電話には辟易していたのだが、こんな形でバシっと言ったら、きっと次から電話のしようがないではないか。
しつこく自己主張し、自説を押し付ける以外に悪いことは片鱗も出来ないような人だった。
「あ〜。ドゥニャン、ひどいんだ。ロシアはね、みぃんな包み込んじゃうものなんだよ。ドストエフスキーの作中人物を見てご覧。」
なんて、ヘンヘンは私の哀しさに追い討ちをかける。
何さ、自分こそ、今度電話がかかってきたら、居留守にしてくれって頼んでいたくせに・・・。
あれほど、面倒くさい電話だったが、かかってこないかもしれないとなると、心配してしまう。今度かかってきたら・・・。
どうするんだろう、私。