社会的、経済的地位の上下に関わりなく、優れたリーダーと言われる方は、良いマナーを示しております。
これは民主主義の社会において、ますます妥当性を増しているものです。軍隊的な服従が第一と見なされてきた社会においても、近年ではすっかり様変わりしています。
命令は、簡潔に与えられはしますが、命令の与え手と、受け手の個人的、法的関係の著しい変化は、お互いの話し方にも良く理解できるものがあります。
従属者を丁寧に扱うことは、甘やかすことではないのです。彼らの自我と権利を認めていることを示すものです。これを認めなくては、命令は、リードの域にまでは達するものではありません。
「これをしろ!」「あれをやれ!」などと言うのは、命令を受ける者への思いやりを欠いていることを暴露しているようなものだけでなく、また、同時に命令の効果も薄くなっています。
そこには、命令を受ける人々の気持ちを動かし説得しようという努力が見られません。リーダーの欲求だけがむき出しになった形だけです。命令を受ける人々は、自分の反応が全く無視され、踏みにじられたような感じにしてしまいます。
また、「頼む」をつけたくらいでは、従うものにとって、リーダーの無愛想な高慢な性質の持つ刺は消えるものではありません。
命令に従う人々は、自分の誠実さと自尊心を絶えず心にかけて貰いたいと望んでいるのです。かさにかかった、あるいは、見え透いたうわべだけの、謙虚な調子では感情を害するだけです。
従属者の感情や、関心が十分に考慮されていると思わせるような言葉と調子が是非ともなければならないのです。
多くの管理者は、露骨な命令口調は絶対に用いないと語っています。
「……するのがよいと思わないか」「……して貰えないだろうか」「……した方がよくはないか」「どうぞ頼むよ」というそうです。
ある著名実業家の秘書が、指導者としての実業家について語ったことがあります。
「私は5年間も、同氏の役員室で働いて毎日顔を合わせましたが、「こうしろ」「ああしろ」とか、「これをするな」「あれをするな」ということを聞いたことがありませんでした。いつも「こう考えられるだろう」というような表現をしました。氏は、私に命令をしたことがありませんでした。いつも「提案」だったのです。
丁寧な言い回しは、古いボス型の人には、まどろっこしくて、効果が薄いように思えるかも知れません。
実際、荒っぽい言葉を投げつける親方の下で、きつい仕事になれた男性は、急に命令が物柔らかい御願いになったりしたら面食らうものです。
しかし、こうした命令の仕方は、前時代の遺物であって、正しいリーダーのやり方の反対の局をなすものと見なされます。このような命令は、感情を害し、いやいやながらの服従しか生みません。個人の尊厳を傷つけられたように感じさせるものであることは確かです。
平素やさしい態度に慣れていない者にとって、これは軟弱のしるしと、誤解されることもあります。そのためにも、生まれつき温和な性質のリーダーは、控えめな物腰のうちにも、きっぱりとしたところを見せなければならないのです。
リーダーが、命令がまともに受け取られなかったり、たびたび繰り返さなければならなかったりするようであれば、リーダー自身のテクニックには致命的な欠陥があります。それは、改めるように努力すべきです。
混乱のもとになる、多くの命令を一時に出すケース、あるいは、矛盾する命令、人間の本性を無視した「あれもするな」「これもするな」などの禁止命令、等々、前の命令が良く果たされたかどうか、確かめるだけの余裕をおいてから与える必要性もまた大切です。
リーダーの意図をしらせて納得させるマナーと、努力は、決して欠かしてはならないのです。
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