【リーダーシップ発揮の場所】

社長、重役、支配人、店長、教師、野球チームの監督、職場の職長、あるいは、暴走族のボスでも、そのチームの地位につくことは、リーダーになれるチャンスでもあるのです。人の上に立つあらゆるポストは、潜在的にリーダーのポストでもあるのです。

仮にそうでないならば、仕事をするグループは、精神的なつながりを持たない勝手気ままな個々の仕事の寄せ集めに過ぎなくなります。誰しもが、自分がグループに属し て、グループのために行動していることを忘れてしまいます。リーダーシップは、このバラバラな動きをグループの単位に纏めて誇りと協調精神を自覚させるもので す。

驚くべきことに、組織で働く多くの人々が、真のリーダーシップに接したことが非常に少ないのです。彼らは、ただ、自然に、協同体の中で働いているに過ぎません。彼らは、連帯感を高揚させられることなど、殆どなきに等しいのです。

この連帯感は、単にグループにとって価値あることばかりではありません。それは、グループ内で働く人、一人一人が感じている最も基礎的に欠くの出来ない要求なのです。やりがいのある仕事をし遂げたという気持ちは、全ての人にとって最も望ましいものであす。それは、芸術家のように、孤独の作業によって得られる場合がありますが、その他の殆ど全ての人は、社会的な協同作業によってしか得られないのです。今日では、個性の社会的表現は、グループへの参加とグループ活動によってのみなされます。

この様に、リーダーの務めの大部分は、グループを通おして、各人に自己の表現を可能たらしめることです。これは、可能なばかりでなく、個性の限界を押し広げ、各自の自己表現を要求されるのと同じ幅に拡大するために、是非とも必要なことです。

しかし、この連帯感は、自然に生まれるものではありません。それは、各メンバーがリーダーに導かれて、だんだんと生まれてくるものです。個人の側からみれば、そのようにリードされることは道徳的な権利となり、リーダーとしての見地に立てば、このリードすることは道徳的な義務となるのです。

「人は良く導かれることを渇望する」というのは真理です。管理職者に、このリードする責任を持たせることにより、この渇望を満たさせるように努めなければならないのです。

要するに、組織は命令と管理指令に加えて、リーダーシップを必要としているのです。それはリーダーは部下のエネルギーを発露させ、彼らが到底自分達に、出来るとは考えても見なかったレベルのものの達成を、促進するように要求されていることです。

問題は、リーダーの役割に対する現在の先入観の中で、自分達が、如何にすれば、リーダーになれるかということではありません。リーダーとして、如何にして当面する事態に対処し、リーダーシップを効果的に発揮して、可能な限りの力と成功をもたらすことが出来るかということです。もし、リーダーに、これ以下の役目しか与えないのであれば、彼を軽ん じることであり、リーダーとしての地位とリーダーシップそのものに対する観念を軽視する結果になるということです。

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