この白頭鷲をかたどったヘルメットがケニーのトレードマーク
ケニーJrや、ジョン・コシンスキーらもこの意匠を真似ています。
71年にヤマハと契約。
73年、74年のAMAグランドチャンピオン。
78年から世界GPロードレースに転向。
同年から80年まで圧倒的な強さで3年連続で500ccチャンプとなった。
83年シーズンの"ファスト"フレディ・スペンサーとの壮絶なバトルが有名。
83年のデイトナ200マイル、名高い33度バンクでの#19ファストフレディーと#2キングケニーの超高速バトル。
83年を限りにGPの現役ライダー生活にピリオドを打ち、「チームロバーツ」を結成。
86年から96年まではヤマハのWGP500ワークス・チームとして、
マイク・ボールドウィン、ランディー・マモラ、ウェイン・レイニー、
ケビン・マギー、エディ・ローソン、ジョン・コシンスキー、ルカ・カダローラ、阿部典史らを擁する。
ウェイン・レイニーが90、91、92年とWGP500のチャンピオンに。
ウェイン・レイニー/TEAM Marlboro ROBERTSの91年型”ヤマハYZR500”
97年から自社製GP500→MotoGPマシンを開発し、参戦継続中。
ユルゲン・ファンデン・グールベルグがライドする01年型”Proton KR3”
00年GP500チャンピオンのケニー・ロバーツJrは、ケニーの長男。
ケニー・ロバーツJrの01年型”スズキRGV−γ500”
フィンランドのヤーノ・サーリネンが編み出した”ハングオフ”を、
ライディング・スタイルの主流としたのはケニー・ロバーツだといわれています。
グッドイヤーのスリックタイヤや、レクトロンのフラットバルブ・キャブをいち早く採用するなど、
ヤマハYZR500の開発方向を決める技術革新に深く関わり、
同時に、ライバルメーカーのマシン開発の指標ともなった天才的なライダーです。
コースの安全性や、エントリーフィーのことなど、
ライダーの待遇面にも関心が深く、この面でも牽引役を果たすなど、
あるゆる意味で今日のオートバイ・レースのベンチマークとなった人物です。