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1973年から、ヤマハがパラレル配列の2ストローク4気筒で、MVアグスタが全盛の500クラスでGPに復帰。その年のうちにスズキ社内では、ヤ マハと同じ500クラスでGPに戻る決定が下された。
スズキのGP参戦の歴史は、1960年のマン島TT125クラスで幕を開ける。1962年に新たに設けられた50クラスでタイトルを獲得したのを皮
切りに、スズキは50、125の小排気量クラスで猛威を奮い、その名をヨーロッパの人々に強く印象付けた。しかし同時に参戦した250クラスでは、思うよ
うに成績を残すことができず、1963年には遂に250cc2ストローク・スクエア4を搭載した RZ63が
登場するに至ったのである。
このRZ63は、125ccのパラレルツインを前後に配した構成で、2本のクランク・シャフトをプライマリー・アイドル・ギヤで結び、もう一つのアイド
ル・ギヤを介してクラッチへと取り出されていた。吸入方式は当然の事ながらロータリーバルブであり、これで52ps/12,500rpm、リッター当たり
200ps以上ものハイ・パワーを絞り出していた。
その後、このRZ63は、RZ64、65と進化していったが成績自体はさして良いものにはならなかった。しかしながら、この一連のRZシリーズこそ、後の
500ccGPマシン、RG (レーサー・オブ・グランプリ) シリーズの原点となっているのである。
1974年 XR14
GP復帰が決定したスズキの技術陣は、まず高回転でも安定した出力が得られるロータリー・ディスク・バルブの採用を決めRZのノウハウを活かしたスクエア
4配列となった。2ストローク水冷スクエア4のエンジンは、56x50,5mmのボア・ストロークを持ち、総排気量は497,5cc。
95ps/11,200rpmを絞り出す強力なものであった。
しかしながらエンジンの出力向上ばかりが先行したために、フレームの開発が遅れ当初はエンジンをマウントする際に変形してしまうようなダイヤモンド型フ
レームを採用していたほどである。
これはシーズン途中でダブル・クレードルに変更されたもののエンジン出力とフレーム強度がうまくマッチングしなかったためトータル・パフォーマンスでライ
バルのヤマハに一歩遅れをとっていた。
1974年のランキング
1st | フィル・リード | MVアグスタ |
2nd | ジャンフランコ・ボネラ | MVアグスタ |
3rd | チューボ・ランシヴォリ | ヤマハ |
4th | ジャコモ・アゴスティーニ | ヤマハ |
5th | ジャック・フィンドレイ | スズキ |
1975年 XR14
初代RG、XR14
は出力はあったものの、特性そのものは決して扱いやすいものではなかった。
そこでこの年のXR14では、中低速域でのトルク・カーブの見直しが行われピーク・パワーでも約5psアップの100ps/11,200rpmに達してい
た。
このマシンではさらに、サスペンションのプログレッシブ化がはかられた。つまり100psものパワーを確実に路面に伝えるためにモトクロスですでに使われ
ていたレイ・ダウン・タイプの極端に前傾したソフトなリア・サスペンションが用いられ大幅な戦闘力アップがなされたのだ。
しかし、XR14は登場以来、前後のクランク・シャフトを中央のプライマリー・ギヤで結び、アイドル・ギヤを介してカウンター・シャフトを回してい たが、そのアイドル・ギアのボルトの剛性が足りず、走行中にせん断されるトラブルに悩ませられ続けていた。それでもこの年は、 バリー・シーン の ライディングで、GP500初勝利を収めるとともに、次のシーズンに向けての新たなる足がかりをつかむことができたのである。
1975年のランキング
1st | ジャコモ・アゴスティーニ | ヤマハ |
2nd | フィル・リード | MVアグスタ |
3rd | 金谷秀夫 | ヤマハ |
4th | チューボ・ランシヴォリ | スズキ |
5th | ジョン・ウィリアムス | ヤマハ |
1976年 XR14
前年、移籍2年目のジャコモ・アゴスティーニの活躍で、GP復帰後3年にしてチャンピオンを得たヤマハは、オイルショックの煽りを受けて一時的に GP参戦を中止した。しかし、一方のスズキは、XR14で得た確かな手応えと、大事故から立ち直ったバリー・シーンの心意気に応えるべく新たに設計された エンジンは、54x54mmのボア・ストロークで、よりロング・ストロークとなった。もちろんその狙うところは、中 低速のフラットトルク化である。494,6ccのエンジンは、一気に14psアップの114ps/11,000rpmにまで高められ、フレーム形状も変更 された。それはまさに、スズキが世界のナンバーワンを目指して作り上げたといいきるだけの実力をもっていた。そしてヤマハと同じく3年めにして、 RGとシーンはチャンピオンの座を手に入れたのである。
なお、この年からは前年度のモデルをベースとした 市販レーサー、RG500が発売されている。
1976年のランキング
1st | バリー・シーン | スズキ |
2nd | チューボ・ランシヴォリ | スズキ |
3rd | パット・ヘネン | スズキ |
4th | マルコ・ルッキネリ | スズキ |
5th | ジョン・ニューボルト |
1977年 XR14
前年チャンピオンに輝いたRGとシーンは、この年に復活したヤマハ・ワークスのYZRを相手に、何としてもチャンピオンを守り通す必要があった。な ぜならば、ここでYZRに敗れれば、前年度のチャンピオンさえも、ヤマハが活動を停止していたために得られていたのだと見る人間が必ずやでてくるにちがい ないからである。この年も続けてチャンピオンになり、RGのポテンシャルの高さを証明しなくてはならない。
エンジンは前年と基本的に何ら変わるところはなかったが、119ps/10,800rpmと若干のパワー・アップが施され、ピーク・パワー時の回転 数は、低く押さえられていた。また、目に見えるところでは、ダウン・フォースを得るために小さなスポイラ−が、フロント・カウル横に装備されたこと。そし て2年目以降、極端な前傾をしていたリア・ショックが、幾分かその角度を取り戻したことなどがある。そしてシーンと共に再びチャ ンピオンの座についたのである。
1977年のランキング
1st | バリー・シーン | スズキ |
2nd | スティーブ・ベイカー | ヤマハ |
3rd | パット・ヘネン | スズキ |
4th | ジョニー・チェコット | ヤマハ |
5th | スティーブ・パリッシュ | スズキ |
1978年 XR22(RGA)
2年連続でスズキにチャンピオンとメーカー・タイトルを奪われたヤマハは、必勝を期してアメリカ最速の男、 ケニー・ロバーツ を
GPに送り込んできた。一方スズキのエースは、もちろんシーンである。たとえシーズン中といえども、常に開発が進められ、細かなところで毎レースのように
異なっていたRGは、1978年のシーズンを前に、その 心臓部が大幅に改良された。スクエ
ア4の基本は変わらなかったものの、クランク・シャフトからクラッチの間に存在していた2つのアイドラ−・ギアのひとつが省かれ、ギア・ボックスを前方に
移すことがでくきた。
それに伴い、スクエア4の後方2気筒がそれを避けるように上方に移され、エンジンのコンパクト化が成功した。ミッションはカセット・タイプのものと なり、メンテナンス性も向上、パワ−は122ps/11,000rpmに達していた。このマシーンはそれまでのRGという呼称からRGAと変わり、開発呼 称はXR22である。しかし、この年はシーンの不調もあってロバーツにタイトルを奪われ、メーカー・タイトルを守るだけにとどまった。
1978年のランキング
1st | ケニー・ロバーツ | ヤマハ |
2nd | バリー・シーン | スズキ |
3rd | ジョニー・チェコット | ヤマハ |
4th | ウィル・ハルトッフ | スズキ |
5th | 片山敬済 | ヤマハ |
1979年 XR27(RGB)
段付きのスクエア4となって2年目、RGAはRGBへと変わり、熟成が進められた。パワーはわずかにアップされて124ps/11,000rpm。クラッ
チのレリーズがプッシュ・タイプのものからプル・タイプのものへと変更されたことが、大きな変更点と言える。
前年ヤマハのロバーツにチャンピオンを奪われたスズキは、心臓部に以上の変更を施し、さらに足回りには世界初のアンチ・ノーズ・ダイブ機構を装備。 コーナリング性能の向上をはかった。 ANDFと呼ばれるこのシステムは、ブレーキング時のフロント・フォークの 沈み込みを油圧で抑えようというものだ。しかし、足回りの充実をはかったにもかかわらず、またもロバーツにタイトルをさらわれてしまった。
なお、この年から市販のRGの プライベート・ライダー が活躍。スズキの4年連続メーカー・タイトル獲得に貢献 した。
1979年のランキング
1st | ケニー・ロバーツ | ヤマハ |
2nd | バージニオ・フェラーリ | スズキ |
3rd | バリー・シーン | スズキ |
4th | ウィル・ハルトッフ | スズキ |
5th | フランコ・ウンチーニ | スズキ |
1980年 XR34(RGB)
スズキがGPの舞台に戻ってから、共に栄光の歴史を築き上げてきたシーンが、前年を限りにスズキから去り、この年からのエースは若きアメリカン・ラ
イダーの
ランディ−・マモラ が勤めることになる。
段付きのスクエア4エンジンは、さらに熟成が進められ、キャブレターが34mmから36mmに変更されるなど、細かな改良によって 125ps/10,800rpmとなる。しかし、この年も前年と同様に足回りの充実が最大の課題となっていた。1979年はフロント・サスペンションに ANDFを採用したが、この年はリア・ショックがコンベンショナル・タイプのものから、モトクロッサーで実績をあげていた フルフローター・ サスペンションに変更されたのである。これはサスペンションが沈み込むときはソフトに、ボトム部に近づくにつれてパワフルに働く特性があり、よりプログ レッシブなものとなった。
この年もしかしながらチャンピオンはロバーツとなり、スズキは最終戦で マルコ・ルッキネリ が勝つことで、辛うじて メーカー・タイトルを守りきった。
1980年のランキング
1st | ケニー・ロバーツ | ヤマハ |
2nd | ランディー・マモラ | スズキ |
3rd | マルコ・ルッキネリ | スズキ |
4th | フランコ・ウンチーニ | スズキ |
5th | グラシアーノ・ロッシ | スズキ |
1981年 XR35(RGγ<ガンマ>)
スクエア4を踏襲したままに8年目を迎えるRGシリーズは、この年に大きな前進を遂げた。打倒ケニー・ロバーツを旗印に、ロバーツがタイトルを取った年か
らすでに開発コンセプトを探し始めていた。そしてコーナリング性能を向上させ、サーキットを最短距離で走ろうとのコンセプトが固まったのが1979年の半
ばであり、そこからコンセプトに沿ってマシーンの軽量、コンパクト化がすすめられていったのである。前年までのRGBでさえ、かなりのコンパクト化が進め
られていたエンジンであったが、コンマ1ミリの単位でさらに小さくされていった。これに伴い車体関係にもコンパクト化の手が加えられ、前面投影面積を小さ
くする作業が進められた。前年のRGBに比べてエンジンで7kg以上、トータルで17kgもの軽量化に成功し、パワーも130psに迫る実力を持ってい
た。ネーミングもRGBから、 RGγ ( γ<ガンマ>はギリシャ語で"ゲライロ"栄光の意
)へと変更を受けて、遂にルッキネリのライディングで打倒ロバーツの念願を達成するに至ったのである。
1981年のランキング
1st | マルコ・ルッキネリ | スズキ |
2nd | ランディー・マモラ | スズキ |
3rd | ケニ−・ロバーツ | ヤマハ |
4th | バリー・シーン | ヤマハ |
5th | グレーム・クロスビー | スズキ |
1982年 XR40(RGγ)
RGγはただひとりのライダーのためのスペシャル・マシーンではなく、最短距離を最速で走るために作られた、いわばコンセプト先行のマシーンである。つま
り、コンセプトに沿ったライディングをすることのできるライダーが速く走ることができるライダーということになる。前年のチャンピオンのルッキネリは、こ
の年からホンダに移籍し、RGγでGPにフル・エントリーを果たすのは、マモラと フランコ・ウンチーニ の二人であった。
この年のRGγは、エンジンのボア・ストロークが54x54mmから、再び56x50,5mmへと変更され、シリンダー高が低く抑えられた。しかも 出力特性は中速でも充分使えるだけのフレキシビリティーをもたすことに成功しているのである。また、キャブレターは出力重視にこだわらず、37,5mmを 基本に36mmのものも用意され、サスペンションとのマッチング、ライダーの好みに応じたエンジン特性の選択も含めた開発がされて、ウンチーニがγで2人 目のチャンピオンに輝いたのである。
1982年のランキング
1st | フランコ・ウンチーニ | スズキ |
2nd | グレーム・クロスビー | ヤマハ |
3rd | フレディ・スペンサー | ホンダ |
4th | ケニー・ロバーツ | ヤマハ |
5th | バリー・シーン | ヤマハ |
1983年 XR45(RGγ)
2年連続で個人の、そして7年連続してメーカーのタイトルを手中に収めたスズキは、 3年目のRGγの熟成をさらに
進め、132ps/11,000rpmを発生する超小型のスクエア4エンジンを搭載。そのうえ車体重量は110kgを切る108kgという驚くべき数字の
中に詰め込んでしまった。パワー・ウエイト・レシオは0,818kg/ps。そのパフォーマンスの高さは、ここにひとつの究極をみいだすことができよう。
しかし、急速なテンポでタイヤの開発が進み、グリップ力の増大、ラジアル・タイヤの登場などの新たな局面の中で、γの最大の特徴であるコーナリング性能に
おけるパフォーマンスが徐々に薄れてしまい、フレームの弱さもあり、デビューした1974年以来の無勝利という屈辱的な結果に終わってしまった。そしてこ
の年を最後に、スズキ・ワークスは直接的なGP活動を停止。以後はワークス・マシーンの貸し出しのみの活動となる。
1983年のランキング
1st | フレディ・スペンサー | ホンダ |
2nd | ケニー・ロバーツ | ヤマハ |
3rd | ランディー・マモラ | スズキ |
4th | エディ・ローソン | ヤマハ |
5th | 片山敬済 | ホンダ |
1984年 XR45/51(RGγ)
スズキのワークス活動の停止もあって、前年から基本的な構造の変化は見られない。しかし、この年からはサブ・チャンバーを備えた 排気デバイスを
装備したマシーンがGPを走ることになった。これは、前年のマシーンの最終型にすでに装着されていた機構だが、実際にレースを走るのはこの年からである。
シリンダー・ヘッドと一体化されたこのパワー・チャンバーは、エンジン回転が8,000rpmになるとバルブが作動して、排気がこのチャンバーに流入して
くる仕組みになっており、中速域でスムーズな出力特性を得ることができる。もちろん中速域の扱いやすさを考慮に入れなくてはならなかった従来の方式からす
ると、その制約を外されたことにより、ピーク・パワーを上げることが可能になったのである。
1984年のランキング
1st | エディ・ローソン | ヤマハ |
2nd | ランディー・マモラ | ホンダ |
3rd | レイモン・ロッシュ | ホンダ |
4th | フレディ・スペンサー | ホンダ |
5th | ロン・ハスラム | ホンダ |
1985年 XR70(RGγ)
ヤマハ、ホンダのV-4が熟成の機に入り、戦闘力を高めているのに対し、ワークス活動を行っていないスズキのチームは、苦しい戦いを強いられる。1985
年は
新しいフレーム に排気デバイス付きのスクエア4で臨むものの、ピーク・パワーの劣勢はいかんともし難く、この年のRG
の成績は、イギリスのヘロン・スズキからエントリーした ロブ・マッケルニア の5位入賞が最高位という結果である。
1985年のランキング
1st | フレディ・スペンサー | ホンダ |
2nd | エディ・ローソン | ヤマハ |
3rd | クリスチャン・サロン | ヤマハ |
4th | ワイン・ガードナー | ホンダ |
5th | ロン・ハスラム | ホンダ |
1986年 XR70/50(RGγ)
1986年も基本的にはさしたる変更はなく、RGγは戦力的に上位を狙うポテンシャルを失っていた。しかし、V-4への準備実験的に初めて吸気に リード・バルブを採用してみたりと、 次の年に向けての動き が見えていたことも
確かである。
1986年のランキング
1st | エディ・ローソン | ヤマハ |
2nd | ワイン・ガードナー | ホンダ |
3rd | ランディー・マモラ | ヤマハ |
4th | マイク・ボールドウィン | ヤマハ |
5th | ロブ・マッケルニア | ヤマハ |
1987年 XR72(RGV-γ)
1974年から続いていたスクエア4から、クランク・シャフトを2本有する V-4 が登場。ポテンシャルの程は未知数であ
るが、56X50,5mmのボア・ストローク、140ps/11,500rpmというパワー、そして吸入方式はすでに1986年に試験的に使われたリー
ド・バルブを採用することになる。
1987年のランキング
1st | ワイン・ガードナー | ホンダ |
2nd | ランディー・マモラ | ヤマハ |
3rd | エディ・ローソン | ヤマハ |
4th | ロン・ハスラム | ホンダ |
5th | ニール・マッケンジー | ホンダ |
※このページに記載の本文は、1987年4月時点での雑誌記事を引用したものです。
よって「スズキRGV−γ500」「スズキGSV−R]についての記載はありません。