覚え始めたのは確か結婚してしばらくの頃だと記憶しているので、恐らく昭和37年後半から38年前半にかけての頃だと思う。
小倉駅裏のゴルフ練習場で基本の練習をし、仕上げは小倉競馬ゴルフ場と、熱心に通ったものだ。ここは競馬が催されていない時 はゴルフ場となるのである。9ホール、パー31と非常に短い練習コースである。確かパー5が1つ、パー4が2つ、 残りがバー3だった様に記億しているが、すべて砲台グリーンで池越え等もあり、それなりにスコアをまとめるのが難しく、結構面白く練習にはもってこいであった。何より低料金だったのが初心者に受けたのであろう。いつも満員だった。栗田工業も法人会員になっていたので 通称「競馬場出身ゴルファー」が非常に多かった。
昭和44年4月、直方近郊の北九州カントリークラブにオープンと同時にメンバーとなった。 非常に嬉しかったのは1年後の45年、開場記念杯で10位に入賞した事である。貫品として銀製の果物皿を貰ったものだ。
上・伊都CC、下・福岡CCの ハンデキャップ表 |
私のゴルフ歴の中で、全盛期は四国支店長時代である。優勝2回を始め、何回となく入賞したものだ。特に48年度は年闇アベレージ95(ラ ウンド数20ラウンド)、ベストスコア41、42の83が二回と絶好調であった。
そこでオープンしたばかりの観音寺近郊の瀬戸内海パークゴルフクラブ(現在のエリエールゴルフクラブ)に入会した。
ハンディキャップ25である。ここを主舞台に志度カントリークラブ(高松)、鳴門カントリークラブ(徳島)等でゴルフに打ち込み、めき めき上達し、これからという時にギックリ腰になり、以後持病になり進歩がとまったようだ。
福岡CC社内報"わじろ"に掲載(昭和56年6月号) |
悔しい思い出は貝石杯(栗田工業社長杯)、プラント事業部長杯、九水会杯(粟田工業九州販売店会)のコンペである。いずれも17ホール 迄はトップ、優勝確実と言われながら最終ホールで確実に刻めばよいものを、果敢にチャレンジしてミスしたため、1打差で優勝を 逃した事である。立派なトロフィーを……、と思うと残念でならない。
その後、門司カントリークラブ、福岡カントリークラブ、伊都カントリークラブとメンバー経てきたが、腰をかばってショットをする為無理が利かず、 ハンディキャップ25とそのままである。
現在、ゴルフに対する執着心がなくなったのは事実だが、今後はスコアにこだわらず、勝負にこだわらず、健康管理の為、楽しいゴルフが 出来たらと思っている。