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封印された真実 〜A級戦犯・東條英機首相が、獄中で残したメモが語るもの



東條手記引用:佐藤早苗著『東條英樹・封印された真実』(講談社)


 敗戦により、A級戦犯(政治犯)として死刑が確定、執行されるまで、この大戦の日本の最高指導者東條英機首相は、獄中で大戦における自らの考えを示したメモを残しましたが、それらは今日まで日の目が当たることはありませんでした。



市ヶ谷の極東国際軍事裁判(東京裁判)法廷での東條英機首相

 それによれば、東條首相は、

 「欧米が人道、人権、自由、平等、法の支配などを唱え、゛民族主義゛といっていた十九世紀は、アジア人にとって欧米による゛アジア隷属化の世紀゛ではなかったのか」。

 また「欧米が資本主義と世界自由貿易によって文明と繁栄を享受したといっても、その陰には原料産地及び製品市場として植民地もしくは半植民地としての地位を強いられ、愚民政策によって民族意識を抑圧されたアジア、アフリカの十数億の有色人種の隷属があったことを忘れてはならない」

 と訴え、そしてこの大戦の原因を、

 「大東亜戦争の根本原因は歴史的矛盾の累積であるが、最たる直接の原因は、世界経済の構造変化によって起こった世界恐慌のなかで、持てる国が経済的国家主義、排他主義による資源封鎖の経済戦略を行ったために、持たざる国が窮地に追い込まれ、資源獲得を実力(武力)でせざるを得なくなったことにある」とし、

 「日清・日露戦争から満州・支那事変そして太平洋戦争まで、日本は常に自衛に名を借りているのは、常套手段ではないのか」という東京裁判における想定質問に対しては、

 「断じて違う。外圧によって防衛の必要上起こった結果である。日本が自衛に名を借りるのは常套手段と決めつけるのは、世界の指導者が東亜の実状を知らぬために誤った見方をしているか、東亜の民族に同情がない偏見である。東亜は過去数世紀にわたってロシアを含む欧米列強の侵略と、今世紀になってソ連の東亜赤化戦略にあい、安定をはかる必要があった。しかも日本は東亜における唯一の独立国家としてその中心的地位にあり、日本は日本自体と東亜の民族国家全体のため、それら侵略に対して防衛する必要があった。そのために自衛措置を頻発させたのである。よってきたる原因は外部の圧迫にあり、自ら求めたものではない」

 との答を用意し、



 勝利国の一方的な理論によって裁かれたこの東京裁判の在り方については、

 「世界大戦が勃発するには、それ相当の歴史的に根深い要因があるのであって、戦争責任を一方の指導者にかぶせ、国際法上、外交上の開戦責任を論じても、戦争の本質的原因を究明することはできない。一方の国だけが犯罪として戦争を起こすことはあり得ないし、一方が百パーセント平和的だとする主張も問題である。戦争の本質的原因は謙虚に歴史的に反省し、根深い歴史的矛盾まで掘り下げなければ、正しく把握することができない」

 との訴えを用意していました。

 が、結局、これらの見解はこの裁判では日の目を浴びること無く闇に葬り去られ、東條首相は無念の思いを心に残したまま絞首刑台に向かい、絶命しました。そして東條首相の伝えられなかったこれらの価値観の欠落、それがそのまま、今日の日本の価値観の形成につながっていったと作者には思われます。

 作者としては、後世の我々は、大陸問題等、日本の犯した過ちに対しては謙虚に反省しまた謝罪すべきはし、しかし、根本の史実のとらえかたとしては以上の見解の上に立って、大戦前の歴史にも目を配りつつ、敗戦から今日まで日本がたどった歴史を検証し、未来に目を向けていくべきであると考えています。


 (尚、日本が受諾したポツダム宣言の無条件降伏は、軍隊にだけ適用されたものであり、日本国に適用されたものではありません。我々日本人の多くは、無条件降伏を、占領軍に対しすべての権限を失ったものと思い込んでいますが、これは、国務省が「軍隊のみならず天皇、政府及び国民にも適用されるものと解釈してしまった」のがその原因で、またこの解釈については議論されたものの、マスコミはその議論を取り上げず、誤った形の無条件降伏を定着させてしまったためで、この間違った受け取り方が、いわゆる「自虐史観」により今日引き起こされるさまざまな諸問題の、大きな要因の一つとなっているのでないかと思われます。)


>> 東京裁判の正体〜東京裁判とは何か〜/國際倫理調査会
>> 占領軍政策と平和について<認識すべき根本的な問題>


参考: 大東亜戦争の真実―東条英機宣誓供述書 (2005.08/出版:ワック)

amazon カスタマーレビュー

僕たちは子どもの頃から、「戦前の日本は他国を侵略した悪逆非道の国家」であり、「連合国はその日本からアジアを解放した正義の国々である」と教えられてきました。それは、ある「意思」を正しい「歴史」=客観的な「事実」として教えられてきたのだと思います。
本書は敗れ去り断罪された者が残した、もうひとつの「事実」だと思います。もちろん本書に書かれた記述が客観的な「事実」であると言っているいるのではありません。自身を正当化した部分もあるかも知れません。

しかし、これまで教えられてきた視点とは別の視点にも触れることは、与えられたものではない、自分なりの「歴史」を構築するために必要な作業だと思いました。