▼Deadend act.3

 歩くにつれて川の水量は減り、緩やかな土手や葦原の川岸は姿を消して、折り重なるように岩石が切り立つ渓谷へと姿を変えた。
 舗装された河岸道路が途切れた為、加持に対する追っ手が車を使っているなら、発見される可能性は減った。
 しかし薬の影響が抜け切らず、両足にダメージを負い、片腕が痛む加持の体力では、渓谷を溯るのも限界に近かった。

 月の無い夜、山あいの谷間はひどく暗い。
 灯かりと言えばライターがまだ懐に有った筈だが、万一、上空からも捜索されている可能性を考えると使うわけには行かなかった。目を凝らし、水流の白波だけを頼りに足を運ぶ。
 ほとんど手探りで、流れの中を這い蹲って歩いているようなものだった。
 浅瀬を見つけ、敢えて対岸に渡る。
 もし追っ手が犬を使っていた場合を考えると、身体を濡らし体温が下がる危険をおしても、臭いを断つ必要が有った。

 どのくらいそうして暗い谷間を歩いたか分からない。
 もはや時間の感覚が無かった。
 それが疲労と緊張から来るのか、打たれた薬の副作用かは分からない。
 どちらにしろ、電話も時計も持っていない上、月が雲に隠れていては時間の経過を知る術が無い。

 加持の主観的な感覚で、恐らく夜半を過ぎようとした頃、ついに谷間の流れが途切れた。
 岸辺から切り立った山肌をいくらか登ると、轍が辛うじて見分けられる林道に出る。
 車が走るとしても、軽の四輪駆動車でなければ走破は難しいだろうと思える、瓦礫と砂利の上に雑草が生い茂った、廃道と言って差し支えないような山道だ。
 真っ直ぐ尾根を越えるルートが有るかどうかは分からない。
 第三新東京市へ戻る、という選択肢は、有る意味自殺に等しい。
 戻ったところでどうすれば良いというのだ?
 NERVが敵か味方かは分からない。
 SEELEは敵か、政府は、国連は……。


 加持リョウジは孤独だった。
 NERV内の公式なポジションは特殊監査部。
 しかし国連軍から負わされた任務があり、日本政府と連絡を取り合い、SEELE、委員会の密命を受けて働く。
 そしてその実態は、どんな組織に対しても忠誠を誓わない。
 ダブルスパイ、トリプルスパイ、そんな言葉に意味は無い。
 加持リョウジは、加持リョウジの為に情報を集める。
 生き延び、さらに真相に迫る為に集めた情報を切り売りする。
 巨大な組織の狭間にあって浮遊する、フリーランスに等しい立場だ。
 どの組織からも、もはや利用価値が無いと判断されれば消される運命にある。

 NERV上層部は、加持からSEELEへ情報が流れるルートは当然掴んで居ただろう。
 加持は加持で、SEELEの狙いをそれとなくNERVに漏らす事で、双方から泳がせて貰っていた。
 どちらに足を踏み外しても、誰も助けの手を差し伸べてはくれないタイトロープの上に居た。
 いつでも切る事が出来る、捨て駒。
 組織と組織の間で、誰に対してもそう思わせる事で、結果的に今日まで生き延びてきた。
 いよいよその悪運の命脈も尽きたと見える。
 小さな尾根を二つ越え、林道は下り始めた。
 まだ天下の険、箱根を越えたと思うには高度が低すぎる。
 下にはやや水量の豊富な川の流れが聞こえ、煌煌とライトに照らされたコンクリートの施設が見える。

「……深良川か」

 芦ノ湖から流れ出す川は、二つあった。
 仙石原を抜け、強羅から小田原へと流れ下る早川。
 もう一つが、深良川。
 本来、静岡は芦ノ湖から見て分水嶺の向こうにあり、そちらに向かう流れは無かった。
 トンネルを掘り抜いて、富士裾野市へと用水が引かれているのだ。
 水門で調節される一定な水量を生かして、発電設備も備える深良川。
 川沿いの舗装路を歩いて山を越えれば、湖尻峠を越えて第三新東京市へと至る。

「そこを見逃してくれるほど間抜けな相手じゃないだろうな」

 加持は再び一人呟く。
 そして、舗装されたのとは反対側の山肌を川沿いに溯り始めた。


 深良用水の碑、と彫りこまれた石碑の元に辿り着いた。
 深良川の流れもここで姿を消す。
 道を避けて歩き続けた為、たいした距離でも無いのにもはや夜明けが近かった。
 朝霧にまぎれても、第三新東京市へ戻るのは不可能だろう。
 何処にどんな監視の目が有るのか、加持ですらその全てを知るわけではない。
 高低差の大きい峠道を避けるように、ジオフロントレベルに直通するトンネルも幾つかある。
 しかしそうした、遷都事業にともなって作られた通路、道路は全て、MAGIの管理するセキュリティシステムの下にある。

 加持が目を付けたのは、深良用水と呼ばれる、芦ノ湖から深良川へ水を引く地下トンネルだった。
 遷都事業とも使徒迎撃システムの整備とも無関係に、ずっと昔から箱根の山を貫いていたトンネル。
 作られたのは実に、江戸時代の事だ。
 当然そんな頃に発破は無く、もちろん重機も無い。鑿とツルハシで人の手が掘り上げた水路。
 どちらにせよ、日が昇ればどこかに身を潜めなければならない。
 加持は地中から湧き出す水の流れの元へと向かった。

 入り口を覆っていたのは簡単な鉄格子のみ。
 水路は一定した水量を流しつづけており、端に一段高くなった足場が有る。
 けれどそれも掘り抜かれた当時のままの岩肌であり、水没し滑りやすい場所も多かった。
 何より天井が低い。ずっと身を屈めて歩かねばならず、ペースは稼げない。
 地下水路に足を踏み入れたときには、既に空が明るくなり始めていた。
 人の手で掘り抜かれた水路は、固い岩盤を避けて複雑に左右に曲がる。水を流すために高低は一貫して緩やかだが、幾らも歩かないうちに外の明るさとは無縁の地底の暗闇に包まれる。

 耳にはずっと、流れる水音。
 自分の足音と息遣い以外には何も聞こえない。
 水路の距離は何キロだったかな? と加持は思い出そうと努力するが、どこかで目にした筈のその数字がどうしても思い出せなかった。
 頭の中を支配する白い靄は、時間を経ても弱まったとは感じられない。むしろ体力の低下と共に、思考力も衰弱しつつある。

 自白剤の種類によっては、被験者の脳や神経に非可逆的なダメージを及ぼす物も有る。捕虜や犯罪者から情報を取り出すのに、人道的な処置など必要では無い、と言うことだろう。
 それでも拷問によって、苦痛や痛みで口を割らせることを思えば、まだマシな処置なのかも知れない。
 どちらにしろ、加持は『処分』される運命にあったのだから、手間が掛からない方を選んだだけ、という事だった可能性も高い。
 そうした思考が、全て自分の口から微かに漏れ出ている事に加持は気が付いた。

「嘘が吐けないんじゃスパイは失業だ」

 安全な場所は果たして在るのだろうか?
 第三新東京市に辿り着いたところで何になるというのだろう?
 NERVに連絡を取るリスクは冒せない。
 ミサトと個人的なコンタクトを取ることも危険すぎる。
 セーフハウスの幾つかは誰にも知られていないと考えていたが、市街地に近づくだけでもリスクは大きい。
 使徒迎撃用要塞都市である第三新東京市では、至る所に監視システムがある。個人の身体的特徴をインプットしておけば、自動的にその行動をトレースすることも、MAGIには可能だ。

 加持は、とうとう地下水路の途中で膝を付いた。
 座り込んだら立ち上がれないかもしれないと思って、休む時も腰を下ろさずここまで来たが、もう限界だった。
 手足が痺れ、思考も鈍る。
 薬の影響か、疲労か、それとも心が折れそうになっているのか。
 傍らを流れる水路の水を、口に運ぶ。
 多少生臭く感じるが、飲めない程では無い。
 地下水路の出口も入り口も、同じく見えない。

 同じように、たった今置かれた状況も、八方塞がりだ。
 生き残る術が有るとするなら、過去を全て消し去って別人となる事だろう。
 ブツブツと絶えず一人言を漏らす正体不明の男として、社会の底辺を這い回るようにただ生きていくなら、NERVやSEELEも見逃してくれるかもしれない。
 しかし、そうまでして生き延びる事に、何か意味が有るのだろうか?
 ミサトに渡したデータが役に立てば、もう自分の存在は消えてしまっても構わないのだと、その時ようやく認識した。

「死にたがりが、贅沢に死に場所を選んでどうする」

 自嘲も呟きとなって漏れる。
 生きる実感を得る為だけに危険に身を晒してきた。
 望み通り、こうして生命の危機に直面しているのに、心は躍らなかった。
 やはり、ライフルと拳銃を持って廃工場に立て篭もり、殺しに来た連絡員と派手な銃撃戦でもすれば良かったかなと、少し後悔する。
 けれど、それは似合わないなと苦笑した。
 余り派手なアクションは苦手だ。
 日の光の届かない水辺で、誰に知られることも無く死ぬ方が性に合っている。

「とにかく、疲れた」

 そう呟いて、加持は冷たい岩肌の上で目を閉じた。

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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