▼Demand act.1

 ハスキーなスキャットが、低い天井に響いて降ってくる。
 絡み付くようなテンポで、ピアノの音色が後を追う。
 バンドではなく、アップライトのピアノと一つの歌声だけが、店内に響く音楽の全てだった。
 磨き込まれたウォルナットのカウンター。バーテンが背負う窓ガラスの向こうに、街の灯かり。夜の街よりカウンターの方が暗く思える程に、落とされた照明。
 ジャズが似合うバーでは、無性に辛い酒が呑みたくなる。

「テネシーをストレートで。彼女にはマティーニを」

 古い付き合いの友人に、余計な言葉は要らない。
 まだ、食事の後のコーヒーの香りが口の中に残っていた。
 加持は咥えたマルボロに火を付ける。紫煙を吐き出し振り向くと、リツコも鞄から煙草を取り出している。
 セイラム・スリムのライト。吸っている煙草は、お互い大学の頃から変わっていない。

「ありがと」

 ジッポの放つ微かなオイルの匂いが、メントールと混じる。
 リツコはいつもガスライターで火を付けるから、ジッポの匂いは加持の隣でしか口にしない。

「これ、こないだのお土産のお返し」

 リツコが差し出した小さな紙包みには、細いリボンが幾重にも花のように飾られていた。加持は受け取ったそれを、丁寧に解いていく。
 あらわれたのは、手の平に収まる程の小さな壜。
 厚いガラスの中で、濃厚な青紫の液体と、細かな雲母とが交じり合う。

「ふーん、マニキュアかい?」
「ええ、男の人にプレゼントする物なんて思いつかなくて」
「ありがとう。葛城に似合う色だと思うよ……それで良い?」
「もちろん、そのつもり」

 二人の前にグラスが運ばれた。
 カクテルグラスの細い足を摘まむように捧げて、リツコは意味深な微笑みを浮かべた。

「私に出来るのは、それぐらい」
「ありがたいね」

 分厚いショットグラスの端と、カクテルグラスの足が軽く触れ合い、リンと澄んだ音色が響く。
 一息でテネシーウィスキーを口に含んだ加持は、ゆっくりと飲み下しながら手にした壜を小さく振った。
 真上から落ちるスポットライトの光を受けて、マイカの片鱗が煌めきながら壜の中を舞う。その中に、かろうじて見分けられる程度の、別の何か。
 丸く小さな雲母の粉に混じり、四角い粒が浮遊していた。
 恐らく、マイクロチップ。
 リードを繋ぎアンテナにすれば情報が読めるタイプの、最も小さなメディア。
 容量は何キロバイトだろうか?


 加持がリツコに頼んでいたのは、ユイと、初号機と、シンジと、レイ。それぞれの持つ固有情報のパターン分析の結果だった。
 けれど、それらは単なる証拠に過ぎない。
 結論は、既に加持の中に有る。

「どうやって造ったんだい?」
「企業秘密」

 外部から、MAGIを通じて本部内は監視されていた。しかし何処から何処までが監視下に有るのか、最も熟知しているのはリツコだった。
 リツコのラボには、MAGIに繋がっていない専用の機材が幾つか有る。枝の付かない方法を考えたと信じる以外に無い。

「オールドファッションを」
「私はジン・トニックで」

 空いたグラスが下げられた。
 カウンターの端に座った二人の近くには、呼んだ時やってくるバーテン以外は近付かない。声を潜めて囁き合うように言葉を交わす。

「それが何処へ行くのか、聞いても良い?」
「俺は根無し草なんでね……これは仕事じゃないのさ」

 仕事……NERVの仕事より、スパイのアルバイトより、もっと古い。
 いつの日かミサトと交わした約束、ライフワーク。

「じゃあ何?」
「趣味、かな……どうしてリッちゃんは、これを俺に?」
「聞きたい?」
「ま、中身が嘘でも、これが罠でも、リッちゃんに嵌められるなら諦めも付くさ」

 そう言って苦く笑いながら、加持は深く煙を吸い込む。

「本物よ。保証するわ」
「そりゃどうも」

 加持に情報を流す危険性……ミサトはともかく、リツコはそれを熟知している筈だった。

「けど、どうして?」
「理由が要るかしら?」

 NERVに付くか、情報を流し続けて危険を冒すのか。スパイ稼業から足を洗えと忠告を受けたのも、一度や二度では無い。

「私、まともに付き合った男は二人しか居ない」
「司令と、誰?」
「貴方」
「嘘だろ」
「今更嘘をついても仕方無いわ。でも、後悔はしてない……むしろ、感謝してる」
「どういう意味だい?」
「だって……」

 再び、二人の前にグラスが並んだ。
 琥珀色のグラデーションを描くロックグラスと、氷が満たされたタンブラー。
 加持の前にスモークチーズとナッツ。リツコの前にはビターチョコが共に運ばれた。

「加持君に抱かれてなければ、あの人が全てだった。他の男を知らなければ、きっと今でも、裏切る気にはならなかった」

 そう言って薄く、リツコは笑う。
 微笑みとは、幸福なそればかりでは無い。
 リツコの笑顔には、いつも何処か、寂しさが付きまとう。
 それは哀しげな泣きぼくろと同じく、彼女が生まれついた星回りと同じく、消す事の出来無い表情だった。

「裏切るつもりなのかい」
「ええ……方法は、聞かないで」

 そう言ってリツコは、手にしたグラスに視線を落とす。
 復讐を企む、悲しげな微笑……猫科の表情だな、と加持は思う。
 リツコには猫が良く似合う。
 人肌の温もりに憧れて、身を擦り寄せては来る。がしかし、こちらから手を伸ばせば、束縛を嫌う気高い肌は、逃げてしまう。
 ゲンドウはそれを知っているのか、それとも知らないのか。

「怖いな……俺もリッちゃんだけは、敵に回したく無いね」

 そう呟きながら、遠くを見詰めた加持はタンブラーを煽る。

「あら、酷い言われようね」

 リツコの眉間に張り付いていた暗い決意が、ふと薄れた。
 そして再び、何かを企む顔に戻る。今度は何処か、楽しげだ。

「加持君は何時までそうしてるつもり?」
「そうって、何がだい?」
「趣味は、何時か終わるの?」
「終わらないさ……とりあえず、生きてる間はさ」

 ずっと響いていたBGMがふと途切れ、ピアノの前が無人になった。
 気付けば、客も随分まばらだ。
 リツコは腕時計の盤面に視線を落とす。

「最終が出たわ。スパイさんも、タクシー拾って家に帰ったりするのかしら」

 ゆっくりと、下から加持の顔を伺うような視線。
 やはり、猫科のそれだった。
 加持は自分が鼠になった事を知る。

「さてね、歩いて帰るには少々遠いが……タクシーはヤバイな、足が付く」

 バーは洒落たホテルの最上階に有った。
 食事をしたレストランが、一つ下のフロア。
 どちらも第三新東京市では最も眺望の良いレストランであり、バーである。
 そしてその下は地上まで、全てが遠来からこの街を訪れた者の為の、最上級のシティホテルだった。

「飲酒運転はしないのね。意外だわ」
「警察のお世話になったら、この稼業は続けられないよ。普段は品行方性な一般市民で通ってなければね」

 此処で逢って食事をした時点で、全ては予定調和と言うべき流れなのだが、核心に触れぬまま周囲を巡る会話が続く。

「飲酒検問で捕まって、トランクを開けられたりしたら?」
「警官殺しは重罪だよ。絶対見逃してはくれないしな」
「『向こう』から、そうなっても困らない身分でも与えられてるのかと思ったのに、そうでもないのね」
「他の国なら……いや、この街でなければある程度融通は効くさ。けど、此処ではダメだな」
「行政もNERVの管理下に有るから?」
「そんな時でも泳がせてもらえると思える程、司令や副司令の意向は確かじゃない」
「MAGIがネックになるなら、私が消せるわよ」
「駐車違反や飲酒運転も?」
「身分証の偽造でも諜報の尾行でも」
「それは意外だね……これまでも、頼めば多少は手伝って貰えたのかな」
「さあ、どうかしら。私、『加持君の趣味』には興味が無いから、協力したかどうかは分からない」
「じゃあ何故、これを?」

 加持はポケットから再び、小壜を取り出す。
 加持に渡し、そこからミサトに手渡される事まで考慮した偽装。
 リツコがこれまで、これほど協力的だった試しは無い。
 ゲンドウを裏切るという動機が無ければ、リツコと加持は共犯者には成り得ない。全てはリツコの胸の内に在る。
 そして、そんな曖昧な足場をあてにする程楽観的では、この稼業で生き延びる事は不可能だ。

「言ったでしょう……昔の想い出に借りが有るのよ。それを返しただけ」
「想い出か。俺がもう、過去の人物だと言われてるようで、少し寂しいな」

 その言葉を、リツコは加持から聞きたかっただけかも知れない。
 一瞬、薄暗いカウンターで並んだ二人の視線が交錯する。
 視線を外したのは、リツコの方だった。

「マティーニをもう一杯、ドライで」
「チャーチルでよろしいですか?」
「まさか、普通にドライでお願いするわ」

 バーテンの軽口にリツコが微笑んだ。
 チャーチルとは、ベルモットを横目で眺めながら――正視すれば甘すぎる――ジンを飲む事で、エクストラ・ドライ・マティーニを好んだイギリスの宰相にちなんだ名だ。

「酔っ払うつもりかい?」
「酔い潰れるまで飲むなんて、学生の頃に一度有っただけ。こう見えても強いのよ、知ってるでしょ?」
「そうだったかな……良く覚えてないな」
「嘘吐き」

 加持とミサトが付き合っていた頃、リツコの視線はいつも厳しかった。
 後になって、大学に入って初めて出来た友達を取られたようで悔しかったと、リツコが漏らした事が有ったが。
 人付き合いが得意ではないリツコ。
 ミサトとの関係が一旦ご破算になった後も、加持とミサトとリツコは、三人で居る事が多かった。
 学内では三人とも、浮いていた。
 加持は自らそれを選んでいた。
 ミサトやリツコを除けば、打算と駆け引きで付き合う人間を決めていた。
 ミサトは一見社交的なのだが、その実、誰よりも他人に対して臆病だった。
 近付いて来る男を追い払う為に、そういう関係でなくなった後も、傍らに加持を必要としていたのかも知れない。
 そして、三人の中ではリツコが最も、普通の学生生活に憧れが有ったのに、それを果たせないで居た。
 周囲の学生ばかりでなく、教官達まで、母ナオコの名声と無関係にリツコと接する人は居なかったのだ。
 親友と呼べるのはミサトだけ。
 そして、男友達は加持一人。

「葛城やリッちゃんと付き合って、最初に潰されるのは何時も俺だったからなぁ。その後でどっちが沢山飲んでたかなんて知らないさ」
「そうかもね。ミサトが酔っ払ったままふらふら帰っちゃって、加持君が潰れてて……」
「起きたらリッちゃんのアパートだった。迷惑だった?」

 リツコの前にマティーニのグラスが置かれる。
 オリーブをピンで弄ぶリツコの爪が、天井のスポットライトを映して光る。

「楽しかった……ドキドキしたわ。なのに貴方ったら」
「ああ散々だった。二日酔いで起きたとたんにトイレで吐いた」

 加持は苦笑しながら、無言でバーテンに空のグラスを捧げる。
 程なく、オールドファッションが再び届く。
 溶けていく角砂糖を眺めながら、浮かんだレモンとライムのスライスを、潰すでもなく取り出すでもなく、ただマドラーでかき混ぜる。
 琥珀色のグラデーションが、マーブルの渦へと姿を変える。

「余り飲むのは、良くないか。酒は好きだが、酔うのはそれほど好きじゃない」
「あら、どうして?」
「もちろん、弱いからさ。リッちゃんと一緒に飲むと、醜態を晒すのは何時も俺の方だ」
「そうだったかしら」

 リツコの顔からいつもの哀しさが薄れているのに、加持も気付いていた。
 普通のそれではなかったが、彼女にとって大学時代のひと時は、短い、ほんの一瞬の青春だったのかもしれない。

「男の人の弱い所を見るのは好きね。安心するわ」
「何故?」
「取り繕ってる上辺だけ眺めたって面白くないもの」
「司令は今でも、リッちゃんの前でくつろいだりはしないのかな……」

 リツコがまた、寂しげな微笑を見せた。
 いつでも哀しい恋をしていると、指摘したのは加持自身だったが。

「そうね……今でも、まるで他人のままだわ。あの人はユイさんしか見てないの。今も、これからも」
「そうか……それは、辛いな」
「きっと、母さんも同じだったのよ。そして私も、もう居ない二人と自分を比べてる」
「司令だけじゃなくて?」
「ええそうよ。お互い相手を直視してない。だから、辛いのは自分のせいなのね……分かってるわ。なのに……」
「せめて、楽しく飲もうや」
「あーあ、損な性格かしら。ミサトが羨ましいわ」

 そう溜息と共に憂いを吐き出して、リツコはグラスを一息で煽る。
 タンッ、とカウンターにグラスを置くと、加持の方を振り返る。

「朝まで此処で飲むって言ったら、付き合ってくれる?」
「腰を据えて飲む気かい? 勘弁してくれよ」

 加持も付き合うように一応グラスを空けて、タバコを咥える。

「それに、忙しいんじゃないのかい」
「一晩くらいの息抜きは必要よ」
「息抜きか……俺も、もう昔の俺じゃない。リッちゃんだってそうだろ?」
「老けたって言うの?」
「違うさ。ただ……戻りたいと思えるような時代の事は、想い出にしたままの方が良いかも知れないと思ってね」

 今の話をするのは、お互いに辛いばかりだ。愚痴ばかりが口をついて出てしまう。
 けれど、楽しいはずの昔話もまた同じように、辛い。
 想い出は、積み重ねた時間が蜜のように取り巻いて、ますます甘く感じられる。
 戻れない、巻き戻せない時間だからこそ、それは甘い。
 それが分からないほど二人は若くも無く、また想い出をただ甘く幸せなものと受け容れられるほどにはまだ、老けていなかった。

「付き合ってくれないなら、お酒じゃなくて、貴方に酔わせて」

 リツコはそれを、わざわざ加持から視線をそらしたまま、呟くように言った。
 まるで思い出した古い歌を口ずさむような調子で。
 そして、ゆっくりと試すように、加持に視線を向ける。

「そうまで言われて断る男は居ないさ……リッちゃんはずるいな」
「それは貴方の方……どうして私から言わせるの?」
「何時も誰かを誘ってるから、かな……たまには誰かに誘われるのも良いもんだ」

 リツコはすっと、加持のジャケットの内ポケットに手を伸ばす。
 タバコかと思ったから、加持も構えなかった。
 しかし、抜かれたリツコの手に有ったのは、カードサイズのキー。
 二人が今居るホテルのロゴと、部屋番号が記されている。

「なら、どうしてこれがココに有るのかしら? 色男さん」
「シングルだよ。初めからそのつもりだったわけじゃない」
「家には帰らないつもりだったのに?」
「レストランの入り口まで、尾行が居た。真っ直ぐ帰ったんじゃ根城がバレる。まあ一つ二つセーフハウスがバレても問題は無い……けど、リッちゃんと逢った後じゃあ、これ見よがしにガサ入れされて家中メチャクチャにされても文句は言えない」
「それはお互い様。私にだって尾行が付くかもしれない」
「司令の家に帰るかも知れんのにかい?」
「諜報の黒服にもスパイが居る。どっちから監視されてても同じ事」
「じゃあ、今夜は黒服さんにはご退場願おう。それで良い?」
「もちろんよ」

 二人は立ち上がり、加持がバーテンにカードキーを渡す。
 バーの飲み代はホテルのカードキーに記録され、翌朝までのツケとなった。


 最上階から下りるエレベーターには、二人だけが乗った。加持はエレベーターの中でリツコに愛用のサングラスを掛けさせる。そして二人は、並んで地上階にあるホテルのラウンジへと足を向けた。
 思った通り、深夜を過ぎたラウンジで、黒服が新聞を広げてコーヒーを啜っていた。
 そ知らぬ顔で通り過ぎ、ドアボーイに見送られながらタクシーに乗り込む。

「三号線のアンダーパスで停められるかい?」
「お客さん、すぐそこですよ」
「金は払うよ。俺達を下ろしたら、これで走れる所まで走ってくれ」

 そう言いながら、加持はキャッシュを運転手に渡す。深夜割増料金と高速料金を使っても第二東京へ往復できる程の、一晩分の稼ぎより確実に多い金だった。

「何かヤバイんで?」
「こう見えても芸能人なんだ。俺じゃなくて、彼女がね。文屋がついて来てる気がするんで、よろしく頼む」
「へへえ、そうなんですか。何かワクワクしますな」
「高速に乗って遠くまでぶっ飛ばしても良いし、良く知ってる道をぐるぐる走っても良い。朝まで走ってくれるかい?」
「これだけ貰っちゃ断れませんよ」

 ホテルとは目と鼻の先にある、環状線と放射線の立体交差。
 薄暗いアンダーパスの中で二人はタクシーを乗り捨て、コンクリートの柱で車道から隠れやすい歩道へと身を潜める。
 タクシーが走り去って程無くして、黒塗りのセダンが二台、同じ道を疾走して行く。
 ナンバーは見慣れたNERVの公用車のそれだった。

「あらあら、あんなに間抜けで務まるのかしら?」

 尾行するのにわざわざ公用車を使うのは、二人に対して組織が見張っていると主張する為だろう。他に理由が思いつかない。

「さあね。おかげで助かってる事は、否定しないが」

 第三新東京の市街地には、いたる所に地下道が有る。アンダーパスは言うに及ばず、公共施設の地下室同士を繋いだ普段は灯りの無いメンテ用の通路までも、多くが解放されている。これらは使徒襲来などの非常時には、全て避難誘導路となるのだ。
 加持は仕事柄、それらを熟知していた。
 蓄光塗料の僅かな明りを頼りに、ホテルの直下へと向かう。
 人一人がやっと通れるアクセスハッチを潜り抜けるとそこは、ホテルが扱う膨大なリネン類の洗濯施設だった。
 ボイラーと乾燥機、そして巨大な洗濯機のドラムが踊る騒音で、二人が歩く音は全く聞こえない。
 そのまま非常階段へと辿り着き、客室が始まる三階まで上る。
 客用では無くサービス用の貨物エレベーターに乗り、加持がリザーブした部屋の有るフロアへ。
 その間、全く人目に付かないどころか、監視カメラにすら映らない。

「この部屋を借りてるのが誰だかバレたら、無意味じゃないの?」

 部屋に入り、あっさりと尾行を捲いた加持の手並みに感心しつつも、リツコは当然の疑念を口にした。

「カードキーを受け取った所は連中には見られてないし、ホテル側は俺が誰だか知らないさ。レストランで食事中にウェイターにチップを渡して頼んだ」
「あらそう、気付かなかった」
「リッちゃんがお化粧直しに行ってる間に受け取ったからね」
「なるほど……ちょっと見直したわ」

 部屋は大して広くなく、単身のビジネス客向けといったスタイルで、調度類は落ち着いた雰囲気だがスペースは最小限だった。
 窓の向こうに街の灯りが煌めいて見え、それだけなら多少雰囲気も有るのだが、室内に目を転じればセミダブルのベッドが一つだけ。後はソファが二つにテーブル一つ、カードキーで後払いになるTVと冷蔵庫、と全くビジネスライクな装いだった。

「ま、こうなるならスウィートでも良かったかな」
「それじゃあ逆に、醒めたかも」
「そうかい」

 リツコの表情は明るく感じられた。
 それは酔いが残っているせいでは無い。
 リツコ自身は、諜報のガードを捲こうと考えた事すらない。必要があればMAGIにアクセスし、スケジュールを調整すれば済む話なのだ。
 加持が黒服に対する悪戯を仕掛けるまでも無く、ガードと尾行をキャンセルするのは容易い。
 けれど、TVドラマかスパイ映画のような『演出』に胸が高鳴ったのは確かだ。

「こうしてみると、この街の景色も悪くないわね」

 窓辺に近付いて夜の街を見下ろしながら、リツコが言う。
 遠くに二十四時間無人で走りつづける環状線のリニアが見えた。
 動いている灯りはその車窓と、時折切り替わる路上の信号だけ。

「司令のプライベートスペースの方が、見晴らしが良いんじゃないか?」
「どうかしら。外から見るより、こうして街の灯りに包まれてる方が落ち着くわ」

 リツコの頭の何処かで、これは単なる吊り橋効果、もしくはストックホルム・シンドロームよ、と囁く声も有ったのだが、今夜は酔いに任せてロジカルな思考を断ち切る事に決めた。

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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