インターネットことはじめ
〔3DCG 宮地徹〕
〔メニュー〕1、庶民の「武器」 接続は15万件
4、小母さん先生の生き甲斐探し…岩波書店発行『定年後』掲載文
5、マニュアル
7、初めてのメール
8、インターネットで心のふれあい(4人の方との出会い)
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夫婦でインターネットにホームページを開いて5年半になる。二人とも職業生活を卒業した時、人生の曲折を何かで表現したいと思ったのだった。
昨年、兄が急死した直後のこと。迷ったが、予定していた東北の月山(山形県)に登った。兄もよく山歩きをした。あいにくの雨を「兄の涙雨だ」と言いながら、夫婦で歩いた。
月山は「死者の行く山」である。山頂では自然に手が合わさった。その体験をエッセイにしてホームページに載せた。
山好きの友人、メール仲間、よそに住む子どもらから、「泣けた」「何か神々しいものを感じた」とメールがきた。ホームページは恥もさらすけれど、人の世の悲しさや喜びへの共感も得られる。
夫は「戦争と平和」や「革新運動の歴史」などの政治論文が中心。息子の専門であるコンピューターグラフィック(CG)も取り入れ、運動体験者、大学の先生や学生からのアクセスが多い。
件数は私の拙文のページと合わせて15万件を超えている。
インターネットは、無名の個人でも自由な研究や文章が発表できる庶民の武器である。それは夫婦の生きがいになっている。
朝日新聞 声欄掲載(2003.6.29)
インターネットには、損得に関係ない世界がある。知り合いの教授はホームページに、いつも中身のある「おすすめサイト」を紹介したり、書評のページを作ったりして、最新の良書を知らせ、アクセスもおよそ20万件になった。
4年前に職業生活を卒業したのを機に、よちよち歩き出した私たち夫婦のホームページも、夫の方が6万7千件、私の方も1万件を超えた。人生の晩秋を迎え、夫は政治研究、私はエッセーという形で、今まで歩いてきた何かを表現したいと考えている。
ドイツ在住の日本人Aさんはポーランドから便りをくれた。「ベラルーシ国境から2キロのこの村はひっそりと、時計の針が止まったよう」と。異国で1人働きながら、娘さん2人を芸術方面で育でておられる。
東北からはBさんのメール。「映画『ホタル』を見て」という私の投稿を「声」欄で読まれ、「高校生のころ特攻隊の写真を見た精神的ショックがその後の人生を決めた」と、メールで詳細につづってこられた。
未知の人々との交流は金銭的利益とは無縁でも、狭い地域社会にとどまらない広い視野を与えてくれる。
(2001.9.11 朝日新聞「声」欄掲載)
60歳を機に仕事を卒業し、夫婦で家を2棟作った。1棟は夫の政治問題研究室、もう1棟は料理店。
店のメニューは百品以上で十分だったが、近寄りがたい印象もあったらしい。
京都に住む息子が、モダンな看板を10枚も描いてくれた。娘は、リンゴやさくらんぼの絵を壁紙にせっせと塗り込んでくれた。
こうして「注文メニューの多い料理店」と命名した店が開店した。お客さんは約六千人、夫の研究室と合わせて三万四千人もの訪問客で商売繁盛、もうけはゼロながら大忙しになった。
実はこの店、インターネットに開いたエッセイ専門のホームページだ。今月で開店3周年になる。
「ごっつあんでした。おもてなし、味付け、満足しました」「知的ご馳走に飢えて、ふらっと寄りました」。頂いたお便りに励まされ続けた。
私の周りには、長年文章という料理を作り続けている人がたくさんいる。その作品は、苦い味、甘い料理、公募入選の作品など様々で、「こく」のある人生の味料理が多い。その多くは若い世代に伝えたい、忘れてならない日本の味なのに、紙の間に眠っている。そこで、無名の庶民の味をネットに載せ、多くの人たちに賞味して貰ったらと思い立った。
さっそく「エッセイ仲間たち」と名づけた10人分15品を食台に載せた。このプランを話した人生の大先輩が、ことのほか喜ばれたことに勇気づけられた。
楽しみつつ中高年も社会参加、ホームページ開始3周年のいい記念になった。
(2000.10.7 朝日新聞「ひととき欄」掲載)
小母さん先生の生き甲斐探し
--岩波書店発行『定年後』掲載文--
〔一〕自分で選択した定年
「辞める? 嘘でしょう」職場のビルの、十階にある談話室で、半年前から胸に秘めた退職の意志を所長に伝えた。ああ、これで組織とは縁がなくなるのだと、何とない頼りなさ、心細さもありで、勤続三十年の感慨が突然に身体中を走った。言葉は冷静だったが、窓外から、滲んだ名古屋城が私を覗き見ていた。
「私に至らぬ所があったら改める」。誠実な所長は、たしかそう言ってくれた。定年まで、まだ七年あった。経済力のない女性がどんなに惨めかを、夫がまだ戦地から復員しなかった戦後の混乱期に、母が体で教えてくれた。
そして私は公務員試験を受けた。長く働けたのは、安定した公務員だったからだと思う。
結婚しても共働きを続けた。長男誕生、その六年後に長女が生まれたが、十二年間保育所通いをし、夫婦と、働く仲間同士の助け合いでしのいだ。
官庁だった職場は公共企業体になり、民営化した頃から職場環境は一段と厳しくなった。数多い職種、局舎を集中し、別会社化した。
五十歳の大台に乗り、給料が増えた分仕事の責任も増え、残業続きだった。子供たちも大学、高校と進み、仕事に集中できた。
そんな頃から、駆け足ばかりだった人生の夏を振り返り、朝早く家を出て、穏やかな黄昏も知らず、自然のうつろいに耳傾けるゆとりもない人生でいいのだろうかと考えるようになった。
定年は山登りに似ている。苦労して辿り着いた頂上に立つときの達成感、空気のおいしさは格別で、梅干しの握り飯が、どんな御馳走にも勝るおいしさである。小休止すると間 もなく汗がひき、思わず上着を羽織るほど冷える。登山の事故は下りで多く起きるから、気を引き締めて下山するのである。
定年で満期になり、コロッと亡くなる「まんころ」にならないよう要注意である。
定年後、どのような道があるのか模索した挙げ句、夫が十年来やっている小中学生の学習塾へ合流した。新しい事を始めるなら、一年でも早い方がいいと、安定を捨てたのだ。
〔二〕小母さん先生誕生(一回目の定年後)
こうしてスタートした「定年後」だったが、新米先生は「センセイ、ほんとに頭いいの?」と生意気盛りの生徒に言われたり、大人流に崩した黒板の字に、文句がつけられたりした。
しかし、一ヵ月もすれば生徒の気分に溶け込めるようになった。
「よく頑張った子供には努力賞を作って励ましたら?」「漠然と授業を受けるより、定例の確認テストをした方が意気が上がるんじゃない?」「そうだ、月一回面白いニュースを出そう」塾長である夫は「うん、それはいいなあ」「ニュースは出したかったけれど、いままでは余力がなかった。いいねー」と提案はすべて受入れになった。その代わりに、私の仕事はどんどん増えて行った。
夫の人使いのうまさに感心しながら、いつの間にか新しい職場で、小母さんセンセイ大活躍の場面展開になっていったのである。
定年後は、誰でも一時腑抜けになり勝ちである。実は私も退職後一カ月間休んだ時、「もう社会の用なし人間か」と妙に寂しかったものだ。定期券を買って、毎朝同じ通勤電車に乗って通ったという人の話も聞いた。退職後、急に体調を崩して逝ってしまった友人もいる。「定年を楽しみに待つ」と言われる欧米とは、ここが違う、心のゆとりの問題なのだろうか。
「T子のルーズさを直さないと・・」「M男は授業中、すごい集中力を出すようになったね」。自分達の子育ては終わって、毎晩夫婦で生徒の一人一人について意見を交わした。
一クラスの人数が学校より少ないとは言っても、入塾して学習に意欲的になる子が多いのを見ると、クラスのムードや生徒の心の掴み方など、年の功もあり巧くいったと思う。
学校の教師に社会体験があることは、考える以上に効果が大きいかも知れない。それは月一回発行の「塾ニュース」を一人一人音読させ、教育、社会問題の解説などするときの、生徒の表情から分かるような気がする。
中学生は英語、数学が重点になるが、小学生は算数、国語、小学校までに国語の基礎を固め、思考力をつけることで、中学へ進んでからも学力全体が伸びるとみているが、国語の時間はどんどん減らされている。
社会科戦争の単元では、教科書の記述も十頁におよんでおり、中身も充実している。この子たちの親でさえ、戦争を知らない世代になった。私たち夫婦は子ども時代に戦争体験をした。だから歴史の授業に力を入れた。
ときには「不戦兵士の会」から、実際の戦地を体験した人などを招き、充実した授業をして貰った。授業の後で書く子どもたちの作文は、どれも大事な点を掴んで書かれていた。
戦後五十年を記念した各種行事で、当塾生が学校代表で広島へ行ったり、市が募集した作文に何人も入選したり、そんな事が町の勉強屋のささやかな喜びにもなっている。
愛知県は公立高校に伝統あるいい学校が多い。首都圏や大阪、京都のように私立中学受験のために、小さな頃からの塾通いという傾向は少ない方であるが、近頃は小学校低学年から中学受験の勉強をする生徒も増えてきた。
『学力づくり人づくり』という本を出版したのは、そんな動きに批判的な意志表示でもあった。無理な勉強漬けではなく、公立中学、公立高校で十分。教育論や、生徒の作文、月々のニュースなどを夫婦でまとめたが、地域の三軒の本屋でも販売され、好評だった。
その続編を発行してから三年、私の退職から十年が過ぎ、塾ニュースは百号を超えた。中学校に校内暴力が吹き荒れたころ、塾がつっぱりの巣になったこともあった。いじめで塾内が微妙に揺らいだ時期もあった。塾はやはりいい高校へ進学出来る真面目で、優秀な生徒が多いと、評判を聞いて生徒が増える。こんな個人塾でも、多いときは中学生中心に百数十人を越える生徒が元気に学んだ。
第二の折返点は突然やって来た。新規募集に応募がない。夫が塾を始めて二十年だった。
原因は子供の数が激減したことと、減った生徒を追って、大手の学習塾が四つも五つも、名古屋から進出して来たことである。この人口四万人の小さな町に、大手チエーン塾の自社ビルが次々建った。
毎年三月に、二、三十人ずつ卒業していくと、新規の応募がなければ数年で生徒は半分以下になり、塾は風前の灯になった。やむを得ず小学生クラスは廃止し、中学生だけの塾にしたので、小学生担当の小母さん先生は、文字通りの定年を迎えた。
〔三〕インターネットの魅力(二回目の定年後)
「これが潮時かなー」と夫が言った。私は、「そろそろ減速せよという天の暗示じゃない?惨めな終わりは嫌だから、年代物のパソコン買い換えようよ」と提案した。
一階、二階の教室にそれぞれ最新式の機器が備わった。生徒も休憩にゲームをしたが、夫がインターネットにはまってしまった。
私たち夫婦は、若い頃世の中の革新を願って情熱を燃やした六十年安保世代、「政治の季節」に、お金や地位より生き甲斐を求めた。どの人生にもある紆余曲折を経て、胸の奥に秘めてきたものを、何かで表現したかった。
インターネットの魅力は、どんな個人も組織でも対等に自由に表現できるところである。塾業のかたわら、ホームページを開くために、半年間、悪戦苦闘した。買った本は十冊、夫の友人の技術者の「六十過ぎてやる人は大体挫折し、棒を折る」との温かい脅しにも耐えて夫は冷や汗流し、私は粘り過ぎて子宮出血、ガンの疑いが無罪放免になるまで神経を使った。
一昨秋、遂に夫婦のホームページが開通した。よちよち歩きの私たちのホームページを見つけ、励ましてくれたのが一橋大学教授の加藤哲郎教授と、自らを地べた人間と称しながらホームページに立派な『丸山真男論』を展開するH.田中氏、メールで私たちを育ててくれた。
半年間で夫の政治論文数篇と、私のエッセイ九十篇を登録した。その間アクセスは八千を超え、夫婦で驚き、喜び合った。
ある時、その一部を印刷して知人に送った。「文化財から阻害されている者にとって送られた印刷物、うれしく感謝して読みました」との便りを受け取り、考えさせられた。人生の先輩たちの、優れた文章はたくさんある。
私は大胆にも、四人の有名人に手紙を書いた。「あなたの好エッセイを、ホームページに載せて、字を読まない今どきの若者にも読ませたい」と。心をこめてホームページの目次と共に送ったら、快諾の返事が来た。あの感動は忘れられない。無名の私の、突然の申し出をよくぞ了解して頂けた。思わず「人間っていいな」と叫んだ。 元朝日新聞論説主幹の松山幸雄氏、回虫研究三十年でやっと注目され始めたという東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授。世界的視野で活躍する女流写真家の大石芳野氏、あるいは『悪魔の飽食』の作家森村誠一氏など、どれにも謙虚さが溢れていた。
「お世話になります」とか「光栄に存じます」との添え書きに、私の胸は躍った。インターネットは、心を未来につなぐ虹の架け橋だと。
定年後のいま、負うた子たちもそれぞれの伴侶と共に、全員がメール仲間になった。人生の戦友である夫と、映画、音楽、山歩きを楽しみ、女友だちと自主企画の旅を続ける。
そして、つたない文をネットに載せ、人生の先達の心の糧になる文で電子図書館を作りたい。そんなささやかな夢がふくらみ始めた。
逝く日をば定年ときめ春うらら 暉峻康隆
〔『定年後』 1999年1月21日 岩波書店発行〕
一橋大学 加藤哲郎教授からのメール
久しぶりで幸子さんの部屋に入り、ベストセラー『定年後』に収録された珠玉の一品、しみじみと味あわせていただきました。私とH・田中さんの話まででてきて恐縮。こんな所でも紹介していただいて、感謝しております。最後のてるおか教授の句も効いています。
パソコンのマニュアルがもっと平易で、分かりやすかったら、退職して自由時間を持て余し気味のおじさんや、元気溌剌のおばさんたちがわんさと電子世界に参入し、面白くなると思います。インターネットで、地位や組織に関係なく、自由に意見交換し合えたら、世の中、もう少しましになるかも知れません。
パソコンを習い覚えたころ、マニュアル頼りに2日間、せっせと打った文章を画面に出したまま来客と長話をして帰ってくると、画面から文字が全く消えていました。この衝撃的事件で、機器に圧倒された形でした。が、習うより慣れろでやっていれば、機器との力関係が逆転してきます。そして「これが駄目ならこの方法」というゆとりも出てきました。
パソコンならず、世はマニュアル時代、文部省は4月から「しつけ」のマニュアルを配布したそうです。時代はいまや「人間の取り扱い説明書」が要る時代であります。それは乳幼児と小中学生の親向けに分かれ、「家庭教育手帳」として、懇切丁寧に書かれております。例えば、家族一緒の食事をする。間違った行いはしっかり叱る。あるいは、他の子との比較にとらわれない、などなどきめこまかく記されております。しかし、これだけ親切な手引き(マニュアル)があれば、いい子が育つと思うのは早計で、すべてマニュアル通りに運ばないのが世の中です。
思い返せば、私も相当なマニュアル人間でした。初めて人の子の親になったとき、育児書に「3時間毎に授乳し」とあったので、時計とにらめっこして、お乳を与えたこともありました。離乳食の時期に、離乳食だ栄養だと缶詰なんか使っていて、子どもがおなかをこわしたとき、職場の先輩に「大人の味噌汁の残りにご飯を入れて柔らかくすればそれが離乳食よ」と教わり、それから肩の力が抜けました。
マニュアルを「信じて疑わず」が一番怖いのです。子育てもパソコン同様、これが駄目ならあの方法という、多角的柔軟思考が不可欠と考えます。
香りも味もないが、すばらしいくだものがあることを知った。
インターネットに、夫婦で2世帯住宅風のホームページを開いたので、結婚した娘に「ひまなとき見ておいて」と電話をした。翌日すぐ返事があり、「文字ばっかりで、いかにも素人が苦労して、やっとホームページを開いたっていう感じね。壁紙でも貼れば?」
「壁新聞? 字ばかりだから?」母と娘は遠慮ないやりとりをした。
確かに言われる通り、論文やエッセーがほとんどのホームページであるが、文章なのだから字ばかりで普通と思っていた。しかし「壁新聞」は少しこたえた。
次の土曜日、娘夫婦と夕食を共にしたら、「壁新聞なんて言わないよ、壁紙を貼るだけでぐっと変わる」そういう意味だという。
そして「今日はくだもののプレゼントに来た」と言うが、手には何も持っていない。
食後、娘は早速パソコンに向かい、私たちのホームページを出して流れるように指を動かした。
そのスピードは私の倍ほど速い。そして娘の夫はさらに速かった。
若い2人が確認し合う言葉は、ときに専門的で、どうやら「コンピューター用語」が2人の共通語、私たち夫婦の共通語が「政治用語」であるようなものだなと思った。
程なく文字がぎっしりの画面に、見事に薄緑の壁紙が貼られ、画面が活きてきた。そして「くだものは何がいい?」と言うので、「そうね、チェリーが可愛いし、トマトもいいかな」と答えると、再び娘の指が動き出した。
見る間に可愛いチェリーとトマトが、次々画面上に誕生した。「すぐ取り出せるようにいろんなくだもの入れといたからね」「これお母さんへの誕生日プレゼント!」。娘夫婦は、そう言い残してさっさと帰っていった。
仕事の合間に、文章をネットにのせるだけで必死だったが、娘夫婦が思いがけずプレゼントしてくれたくだものが、画面の中で輝くように踊るのを見た。それは体中にしみわたるおいしさだった。
10月に、夫婦2世帯住宅風のホームページを開いて10日後、立派な方々からメールが届き胸が躍った。ヨチヨチ歩きのホームページに、メールは百人力の励ましだった。瞬時に交わせる双方向情報の実体験だった。
日本文芸家協会所属の能戸清司氏は「小説を少しずつ連載の形で発表したいと思っているが、先を越された形ですね」とあった。
「感動しました。続編が楽しみ」と送ってくださったのは「市民のための丸山真男」という立派なホームページを開いているH・田中氏で、行き届いた技術の持ち主である。誠実な人柄と思いやりがうかがえた。
法政大学の高橋彦博氏からは「愉しく読みました。夫婦の共同作業とは、羨ましい限りです」とあり、恐縮した。
一橋大学の加藤哲郎氏は「『事件』後の苦労話など感動してダウンロードしました。なかなかのインターネット文学」と過大に評価され、こちらが大感激。恐らく『政治の季節』に書いた事実に注目してくださったのだろう。
若い日、世の中の革新を信じて大企業で働き続けた私と、専従活動家として20年近い日々を共に活動に明け暮れた夫、やがて意見の違いでその政党から除名され、理想の崩壊に苦しみ、経済的貧困と闘った私たち夫婦、どんな体験も、時の流れと共に忘れ去られる。
私たちの体験を、何らかの共通体験がもつ嗅覚で嗅ぎ取り、共感を示してくださったのではないか。
加藤哲郎氏のホームページに載った『日本共産党への手紙』を読み、7年前のあの感動が甦った。東欧革命のうねりが、10年間すべての政治的なものから目を背け続けた私たち夫婦にも届き始めた頃、この本を偶然本屋で見つけ、むさぼり読んだ。深い暗闇の中で見つけた心の灯火だった。
学者文化人15名の手紙、それぞれに納得のいく説得力ある手紙だったが、中で最も長文の手紙を綴られた加藤氏の手紙から、私たち夫婦は強烈な何かを感じた。
フォーラム型の革命をこそ、古在氏の死亡記事を載せない赤旗、或いは有名な「田口、不破論争」について『歴史的見通しの問題としていえば、田口氏の方が現在社会主義の問題を深く洞察している』と論破し、「人間の顔をした社会主義」をと願い、誠実な人民の護民官としての再生を願った手紙だった。
日本共産党への信頼で、日々誠実に活動する人達、しかし信頼する党に、もしかして人間として、あるいは民主主義の重大な問題があるかもしれない、とはなかなか考えられない。それは体験した者のみが分かるという現実がある。
苦労してやっと歩きだしたホームページに素晴らしいメールを貰って、幸せ気分に浸りながら『しあわせ眼鏡』という、国際日本文化研究センター所長の河合隼雄氏のエッセイを読んだ。
「音のない音に耳を傾ける態度が、他人を深く理解するのには必要である。幸福の絶頂にあるようなときでも、それに対して深い悲しみという支えがなかったら、それは浅薄なものになってしまう」。
(4人の方との出会い)
インターネットに、夫婦で2世帯風のホームページを開いて9カ月が過ぎた。2人共60歳過ぎての挑戦だったから、半年間悪戦苦闘した。夫は画面操作で失敗すると冷や汗たらたらで、何度も下着を替えに走った。私は夏の暑さに、つい扇風機をかけっぱなしで画面に夢中になり、体を冷やし過ぎて異常出血したりもした。 半年間失敗を重ねやっと家を作ったという感じである。夫は論文、私はエッセイを、夫婦合わせて6千人以上の方に読んでいただいた。
よちよち歩きのホームページを元気づけようとの、メール仲間の励ましが最初の感激だった。夫がある文章の一部を印刷して知人に送ったとき『インターネットという文化財から疎外されているだけにたいへん嬉しい』という礼状が来た。そのとき、人生の先輩の文章をホームページに載せて、本を読まない人たちに、その心を伝えたいと思った。
『悪魔の飽食』の作家森村誠一氏は、中国で自分の著作の海賊版が出回っていると、出版社を相手に裁判を起こし、勝訴した。そのお金を、全額戦後補償支援にカンパしたという。そんな新聞記事を読みスカッとした。氏の「私の生きてる証し『悪魔の飽食』」と題した文を読んだ直後だったので、感動して「私のホームぺ―ジに載せたい」と便りを出した。返事は期待していなかったが、「光栄に存じます」「喜んで」と丁寧な毛筆の返事が届き、胸躍らせて読んだ。
30年間回虫の研究を続け、「回虫が、花粉症などのアレルギー病にヒトが罹らないようにしていた」と、清潔になり過ぎた日本に警鐘を鳴らした藤田紘一郎氏(東京医科歯科大学教授)は、医学会で孤独な闘いを強いられた。 その体験をエッセイにまとめられた。その『笑うカイチュウ』が、講談社出版文化賞、科学出版賞を受賞した。「ユーモアに溢れた好エッセイを、私のホームページに載せて、字を読まない若者に読ませたい」。そう大胆に申し込んだら「私の本を読んでくださり感謝して居ります」と気持よく承諾のお手紙が頂けた。やはり苦労された方は謙虚だなあと、段々気持がたかぶり始めた。
私は、さらに『ゆとりの中から個性が生まれる』というエッセイで、日本社会の「シャクシ定規」やゆとりのなさを、豊富な海外生活の体験から多面的に書かれた松山幸雄氏(共立女子大学教授・元朝日新聞論説主幹)と、地球的視野で、庶民の表情を温かく撮り続ける女流写真家の大石芳野氏に、勇気を奮い起こして手紙を出した。
世の中の第一線で活躍された方らしく、心のこもった的確なお手紙で、それぞれのエッセイをインターネットに載せる了解をいただき、思わず「バンザイ」と叫んでしまった。
未知の者からの申し出に、よくぞ耳を傾けてくださった。「人間っていいな」と思う。インターネットで心が触れ合うのだ。心に残るエッセイの、「電子図書館」をという夢がふくらみ始めた。
わが家は目下ネット漬け、夫婦で自由な「双方向情報」を楽しんでいる。
(注)、この文は、1998年8月23日付、朝日新聞「ひととき」欄に『夫婦でホームページ』の題名で掲載された文章に加筆したものです。
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