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ちょっと変わった結婚式
変わった結婚式に招待された。場所は京都、
京都らしい和風造りの住居が会場だった。
そこを靴履きのまま歩いた。こんなのはじめてだった。
式場の大きな窓から『八坂の塔』が見える。 街中で花嫁行列したら、沢山の外人たちが大声出して驚いていた。
近頃、結婚しないとか、子供はいらないという若いひとの声も聞えてくる。しかし、豊かな時代身内の参加者の若い人達は、ロングドレス、見違えるほど美しき人たちに見えた。笑みと笑みばかり。
参加者は多く、新郎新婦の古い友たちで賑やかだった。
二人は同じ職場で、長年働いた知り合い。
席に着くと、写真入りの印刷でハガキのような物が置いてあった。
よく見ると『相手の好きなところは?』小さな字が読めた。
新郎『落ち着いていて寛大なところ』
新婦『穏やかで優しいところ』その他…
この結婚式は、この二人がいろいろ計画したとか。親はノータッチだったそうだ。面白かったのは、若い頃の映像が二度大きく映し出されたことだ。大きなスクリーンで愉しんだ。
60年前の自分たちの結婚式は、会費制で集まったメンバーの人数で食事会をした。それでおしまい。ただ、いまのように何事も豊かな時代と違っていた。サークルや職場活動が活発で大勢参加した賑やかな集いだった。
結婚式っていう新しいスタート っていいなあ。
真面目に育った孫たちよ
今後は共働きや子育てで苦労はあろう。でも そんな
苦労は当たり前、それを乗り切ると素敵な生活が待ってるよ。
90歳過ぎで参加された新郎の祖父は、「長生きしたから、こんな場に出られた」とひとこと。
障害のないまともな体に育った新郎新婦。その幸せに感謝感謝だ。
88歳米寿の輩のわれも、幸せ気分いっぱいで帰った
2024.11.10
88歳 米寿おめでとう おめでとう
この国で実際に起きた事件、1966年6月、静岡県で4人が他殺された。そして8月袴田巌さんが逮捕され、1980年44歳の時に死刑が確定した。
袴田さんは40年以上再審請求したが、死刑囚として執行と向き合い続け、精神を蝕まれた。
それが58年過ぎて、やっと無罪が確定した。なんとひどい人生だったのだろう。
袴田氏は88歳、この我も同じ88歳。『米寿おめでとう』の
便りが来るなんて…市からも敬老金が届くそうだ。
その昔、祖父は米寿を過ぎ89歳で旅立たれた。
校長を退職され、たんたんとした日々を過ごしておられた。同居のわが夫婦は「米寿って、長生きだね」と尊敬の目で共
に生きた。
袴田氏が80年に死刑宣告を受けたとき、我も仕事、子育て、活動と44歳の働き盛りだった。世の中は1960年に安保反対闘争が起き当時20代30代の若者たちが、「世の中を良くしよう」と心揺さぶられた時代だった。
こども時代は戦争だった。名古屋城に近い家で、空襲に逃げ廻り父を戦争に取られ、母の故郷にそ開した。
国民学校3年生で戦争が終わり、それなりに田舎の学校で育てられた。とに角いつもカボチャだけの生活で、食べる物が欲しかった。
突然飛び込んできたニュースがあった。
それは「日本の原水爆被害者団体に『ノーベル平和賞』」だった。68年間被ばくの実情を世界に訴え続けた。核兵器が二度と使用されてはならないことを訴え続けた努力への評価だった。ここにも88歳女性がいた。
新聞に載っていたNさん、自分も両親も広島で被爆し、「助
かった人生も生きる権利を失った。二度とあってはならない。核兵器をなくしたい」と署名を集めた。
自分は公務員になり、再び名古屋で生活した。生きることは
喜びもあり、失望してしまうこともある。人はみなそれを乗り越えて生き続ける。そしていまがある。
若い20代で知り合い、結婚したわが夫婦は二人とももうす
ぐ88歳、仕事と活動と子育ては厳しい生活だった。
よく生き続けられた。
何より、何より苦悩の人生に立ち向かわされた袴田さんの
58年、なんとか無罪を認められた年。証拠とされた衣類は捏造だった。刑が執行されていたら、袴田さんの姿はない。
どんな想いかを、同じ88歳は深く考えざるを得ない。
2024.10.20
電車のなかで「カンパ、カンパ」に びっくり
久しぶりに名古屋の歯医者へ行った。名鉄電車に乗って空いた車内にゆったり座った。目を閉じて「毎日こうして通勤したなぁ」と懐かしく振り返ったり、若い人が多い乗客の美しさに目を見張ったりした。
ある駅でひとりの男性が乗ってこられた。席一つあけた隣に座って何やらぶつぶつしゃべっていた。
顔中ひげだらけ着ている服はやや汚れていた。全体の印象はやせ型だった。
そのうち声を少し大きくして「なにがどうなのだ…」
と怒ったように言ったりしたので、席を変わろうかなとも考えたが、まぁいいやと目をつぶったり、開けたりした。
名古屋駅だ、さぁ降りようと立とうとした。すると隣席のその男性が小声で「カンパ、カンパ」と言った。
「えっ なに?カンパ?」「こんな電車の中で…」
客は四人、友人としゃべっている女性二人と、スマホに夢中の女性、それに本を読んでいた男性。みんな聞こえていない。
バックから財布を出してみたら500円玉があった。
その人の出す袋に入れた。そして頭を下げて電車を降りた。と、向こうも頭を下げていた。でも、でも、
電車の中でカンパなんて、初めてだった。
こども時代の戦争や、夫の失業体験で貧しさは体験済み。
貧富の格差、この豊かになった世の中でも、住む所がない。食べる物がない。生きる道が定まらない人たちが沢山いるのだろう。
この日本はいま、食べる物あり住む所あり、力さえあれば大学まで通って学び就職している。
しかし、貧富の格差は確実にあるのだろう。
一庶民として歩きながら想った。カンパしたあの男性、貧しさと深い生きる苦しみを胸に「カンパ」と言ったのだろうな。
千円札にすれば良かったかな
…
2024.9.14
『戦争の八月』って
何年か前、小学生の孫に聞いたことがある。
「戦争の八月」って知っている? 「知らない」
「そうだろうなぁ。自分は国民学校3年で戦争が終わったもの…あれから79年…」戦争を知らない人たちの世の中になった。
当時名古屋から疎開してきたわが家のラジオしかなかったから、農家の庭に近所の人たちが集まって「天皇の放送」を聴いた。
「終わった、終わった戦争が…」と大人たちは言い合った。
子供は何もわからないけれど。
あの頃食べる物がなかった。農家の人が何とか作ってくれたかぼちゃだけが食事だった。今のような美味しい味ではなく、ぺちゃぺちやだった。まだ乳幼児だった妹だけは、ほんの少しご飯つぶが貰えた。
羨ましかった。
あの乏しさを知っているから、いまの豊かな食生活がどんなに有難いか、理解できる。
父は戦争に取られ、名古屋から疎開した。田舎のばぁちゃんの畑仕事についていった。突然上空の攻撃機から「バ バーン」と狙われた。
その怖かったこと。何も動かない、畑ばかりの田舎で動くものがあれば狙われる。
戦争という殺し合いはどんなにこわいか、恐ろしかった。
桑の木の下に隠れよう。ばぁちゃんと逃げ隠れた…
少し落ち着いた頃、母と名古屋駅裏の闇市へついていった。食べる物を探して…。
浮浪児になった飢えた子たちが、道端に並んでいた。
8月6日 広島に原爆が落とされ、瞬時に14万人が死に、今年34万4306人の死が報告された。
式典会場で小学生2人が挨拶し、「あの日の広島は地獄だった」と報告した。よく調べて「平和をつくっていくのはわたしたちです」頼もしく宣言した。
間もなく8月9日長崎に原爆が落とされた日がくる。
19万人以上が殺された。
長崎市長は『原爆を作る人々よ 今こそためらうことなく 手の中にある一切を放棄するのだ』と「平和宣言」をうたい上げ、核廃絶を迫った。
8月15日の敗戦記念日もくる。
戦争の8月、戦争の8月を忘れない。
2024.8.13
われら人間は 大自然や生物たちとも ともに生きるのだ。「イナゴ取り」に想う。
水を張った田んぼに、みどりの稲の束が行儀よく並んでいる。ついこの間まではみどりの苗も痩せて5〜6本のかたまりだった。
今日見た稲の苗は背の高さも20センチ位に伸びているし、稲の本数も20本くらいに増えている。きちんと行列をつくり見事なみどりのジュウタンだ。
そこへ二匹の大きな白い鳥がたちよる。もう一方で黒いカラスが三匹、田んぼの餌をつついていた。
当分の間、この田園都市は目を見張るばかりのみどり敷き詰めた美しい絨毯に輝く。
子どもの頃は戦争だった。
「早くこの都会から疎開せよ」いつも急かされた。集団疎開でなく縁故疎開でもなんでもいい。
仕方なく幼い子二人は母親と名古屋にとどまり、上の子ども3人だけで、母の育った田舎のばぁちゃんにお世話になった。
当時、国民学校二年生のわれは、とても苦手な授業に苦しんだ。
それは「イナゴ取り」。学校の周りの田んぼに黄色く実った稲が広がる。授業として「イナゴ取り」があり、布袋をもって田んぼのあぜ道でイナゴを探す。友人たちはみんな見る見る袋いっぱいのイナゴを得意気に先生に渡す。食べる物が乏しいので、学校の食としてイナゴを集めるのだった。一匹も取れない疎開児童は小さくなっていた。
人の自然と生物たちの自然、人も一生物として自然体で仲良く生きたい。
殺し合いの戦争なんかもっての外である。
2024.7.13
『今ココに』だけが生きているとき
世界的指揮者 小沢征爾氏が88歳で亡くなった。
さらに『魂のピアニスト』と言われたフジコ・ヘミングさんが4月に92歳で旅立たれた。優れた音楽人の死が続く。
フジコ・ヘミングさんのこころに響く
『ラ・カンパネラ』で素人のクラシックファンの自分も夢中になった。
アルバム第一作『奇跡のカンパネラ』は、
200万枚を超える大ヒットを記録したと新聞は伝えた。
人に言えないような苦労を味わった過去があり、NHKドキュメンタリー番組で取り上げられた。
我が家の二階廊下に、いままで読んだ本が行列している。
手に取ってみると、親しかった友たちの活躍のまとめのような俳句集がある。
短歌作品集もあるし、立派な詩集など懐かしい。
フジコ・ヘミングさんの本はあったはずと探したら、あった。あった。
20年前2002年の発行で『フジコ・ヘミング 魂のことば』である。
『お金がなく病院の掃除婦をしたことがあ る。おばあさんの下の世話をしたこともある。
いい経験になった。若くして、一流のピアニストになっていたら、こんなことはしなかっただろうから』
もう一点。『お金なく、コネなしで、自分で指揮者に手紙を書いてピアノを聴いてください。と頼むしかなかったのよ。
バーンスタインは心の温かい人で、私のピアノを聴いてくれた。彼の推薦でデビューできることになった。…人生は思い描くようなストーリーにならないものです。直前に風邪をひいて両耳の聴力を失い、リサイタルは惨憺たる結果に終わりました。』
この二点の現実だけでも衝撃だった。
自分もこども時代は戦争に父を取られ、空襲で家を焼かれ貧乏体験した。
このピアニストの奏でる曲が、単なる音でなく、こころに伝わる何かがある。
『人生にはいいこともあるけれど、悪いことはもっとたくさんあるわ』と、フジコ・ヘミングさんは書く。
その本棚近くに並ぶ中野孝次氏の著書、発行は2000年、『風の良寛』も折ったぺージが多い。
なかでも「今ココに」だけが生きているときなのだ。とあるのは納得させられる。
これらの著作を読み直す自分は、人生の総復習してるのかな。
2024.6.15
花見は出来ないよ
この町はさくら名所として有名である。
五条川添いに見事なさくら並木が続く。ぼつぼつ満開らしい。
連れ合いが数年前、脳梗塞で倒れた。杖ついてそろそろ歩きしかできない。家から外へ出られない。だから散歩も出来ない。春の花見はだめと諦めていた。
しかし、京都に住む長男がやってきた。朝5時に家を出て。
「花見に行こう」という。「えっ 無理よ」というと「弁当買ってくる。そして木の椅子を車に乗せて行けば大丈夫…」
町なかは人で満員。車も停車できないだろうし、渋滞 渋滞だろうな。だから五条川のおしまい近くに来て、車を停めた。
連れ合いが、車からおりるのを息子が手伝った。
頭の上にずらりと桜並木、その下に黄色の菜の花が盛り上がるように咲き誇っている。草の匂いのする所に腰掛けを置き、3人で弁当をひろげた。
他に二組の弁当たべ組がいた。その程度で静かな大自然の中で白っぽいさくら さくらを満喫した。
そのころ、下の五条川を小さな子船が通った。
穏やかな、澄んだ水を静かにながれるように小舟が行く。
若者たちが4、5人手を振ってくれる。こちらも手を振った。
なんと穏やかな川と桜並木だろう。
平和だなぁ。…いい花見ができた。幸せの春である。
2024 ・4 ・6
生きるために 食べなきゃ
山茶花の垣根が、赤い花をいっぱい咲かせ花どうし競っている。
垣根の長さは、門の右に15メートル以上ある。左にも同じ長さの山茶花の垣根が咲き競う。
愛らしい赤い花が葉を押しのけて、押すな押すなと盛り上がりながら競り合っている。
この辺は死んだような田舎町。人は誰も通らない。でもたまに歩いて通る人が満足気に眺めてくれる。
少し離れたところにあるスーパーだけは賑やかだ。食べなきゃ生きられないから。近頃男性の客が増えた。弁当らしい食べ物を求めて…。
そうでない男性も車の運転か、奥さんと自分の食品を探している。
さて 我が家も87歳の老夫婦が食べるために、毎日のように買い物に出る。我が家はノーカー、自転車か歩きだから
いい運動にもなる。
魚や肉たち、青物 果物 海藻類「あれがない」「これがない」…健康で生きたい。 だからバランスよく食べなきゃ…
名古屋から越してきて40年以上過ぎた。
健康のために一日一回は散歩する。
道の両側にまだ田んぼや畑がある。稲わらの根っこや、緑色の草たちが広がる。これらを見ながら楽しんで歩く。
「草の匂いがする」。都市に住む息子が来たとき言った。
山茶花満杯の時期は過ぎた。花たちは散って行った。
今度は花よりやや小ぶりの葉たちが、ミドリ色で「押すな押すな」と盛り上がってせめぎあっている。
その様は、若い頃の現役時代周りの世の中に、褒められたり、ときにけなされたり…の繰り返しで生きてきた私たちのようだ。
花たちが、今度は葉たちと競い合い、「きれいだったね」
と言い合うように、終わった老人は「やるだけやった。あの頃の女が子育てしながら、よく働き続けたよね」
「あの頃は綺麗だと言われたり…(わかさだよ)、」
「いろいろ人の助けを頂き借りがある。けれど、貸しもある」「働き続けて人のためにも役立ったよね」
老いるとはそういうこと…そういう老いの残りを愉しみたいものだ。
2024・3・30
悲劇のはじまり
暖冬ぎみだった2024年の新年に能登半島で最大震度7の地震が起きた。元旦の地震で世の中はひつくり返った。これで歴史は変わってしまう。
子どもの頃は戦争だった。戦争も地震も残酷さは同じだ。
国民学校二年でアメリカ軍B29爆撃機に逃げ回り、家を焼かれ父は戦争に取られた。
「田舎へ疎開せよ、疎開せよ」と、先生にきつくいわれ、母の育った田舎へ子ども3人(兄姉と)逃げた。
あの寂しい体験は、地震の避難生活で、親と離れた子どもたちの寂しさにも通じる。
戦争は一人一人の小さな庶民が、市民生活を叩き壊される。地震もそうだ。
地震から1カ月経った。
石川県の死者は241 人で不明者もあり、13000
人が避難生活している。
我ら暖房した部屋で地震のニュースを繰り返しテレビで見た。
水がない。寒い。食べるものなし。
ああ、何をどうしてあげることも出来ない自分たちだった。
新聞社を通じてカンパはできたが、一刻も早く水、電気を避難の人たちに与えて欲しい。
2024・2・11
ピアノさん ありがとう
いま売ると1〜2万円のピアノ
娘が4歳になったとき、いまは亡き義母が「お祝いに何がいい?」と電話があった。
「欲しいのは、おひなさま」「おひなさま? そんなのダメです。ピアノならいいけど…」
そんなやりとりがあって、にわかにピアノのお祝いを戴く事になった。
連れ合いは就職して3年、「政治活動の専従活動家に」と誘われて共産党の専従活動家になった。当時の状態で積極的に活動したが、ある時党の方針と意見が違い、「お前なんかくび!」と宣告された。
もともと、給料の遅配、欠配が多かった。そんな息子に母親は心配し、他の兄弟はしつかり社会的地位があったのに、わが連れ合いを心配して貯金をした。それが五十万円になった。
ピアノなら贈ろうと、想像できないことが起きた。
他の兄弟はなし。ここに五十万円のピアノ実現だった。
考えられない貧乏所帯で、このような異常事態が起き、わが長女は4才からピアノを習った。都合付けながら付き添った。それは苦でなく音楽が好きだったからだろう。
共働きの忙しい親の通り、人並みに成長し公務員で働き出した長女、ピアノは家で待たせて。
一方、当時55歳定年だった自分は、退職して学習塾で再スタートした連れ合いを『塾ニュース』の発行で手助けしながら働いた。
そんな頃、名大の水田教授の何かのお祝の場があった。そこでピアノを弾いた連れ合いの友人に「奥さんもピアノやったら…」と言われた。そのひとことで63歳からピアノ教室に通い出した。
講師は音大元教授で、難曲を素人でも弾きやすく編曲し、音楽を奏でる喜びを与えてくれた。
『50歳からのピアノ教室』は、ベテランや自分のような素人で生徒数は40人以上で、クラスごとの演奏会も年2
回は開かれた。
自分のような素人はいつも「もっと練習してこい」と忠告ばかりだった。しかし、ある時異変が起きた。
演奏会にやさしい曲を選んで、黒人霊歌『アメージング・グレース』を弾いた。
はじめて教授の褒め言葉が聞けた。「音がいい。顔つきもいい」
奏でる音で無心になれ・孤独も忘れいいこころになれる。
その教授、いまは亡き人。真剣にピアノ指導に取り組まれ、多くの曲を弾きやすく編曲された。いい人生だったなぁ。
いい思い出を胸に。自分は死ぬまでピアノを離さないだろう。
2024・1・27
『足がん』との戦い
連れ合いの足の裏に黒い点ができた。2か月位前から、足の裏の出来物が治らなかった。久しぶりに出かけた個人医院、皮膚科医師は「なんでこんな状態になるのだ。これはガンだ」
いきなり大きな声で怒鳴り出した。
「足の手術をしたら、…寝たきりで歩けなくなる」
ばんばん投げつけられる言葉に衝撃を受けた。
「この個人医院ではやれない。大きな病院に変われ…」
こんなやりとりは初めてだ。
早速紹介状を貰って、翌日小牧市民病院へ行った。皮膚科の医師は「ここではガン治療は出来ない。名大病院へ行って欲しい」即座に断られた。しかし、「検査だけはする」と、まともに相手になってくれ、少しほっとした。
CT検査の結果は「ガンは体全体に散らばっていない」の結果に、やれやれとほんの少し安心した。
80代半ばの年寄りには、あちこちの転院は容易でなく、大変な作業だ。
こうして、娘に職場を休んで貰い、遠くの大学で「痛いですよ」と宣告されながら、足の裏を直径4、5cm位削った。老人にはキツイ我慢だったが、何とか切り抜けた。
『足ガン』なんて、あまり聞いたことないが、現実に立ち合えば戦うしかなかった。
長寿社会というが、このような個人の戦いの積み重ねなのだろう。散歩は出来ないが、新聞や読書は出来る日々。杖ついて自分のことは自分で出来ている。
ご近所は若い夫婦ばかり。「86歳老夫婦ここにあり」である。
2024・1・27
ひとり墓参と ぴかぴか墓石
名古屋の東部に墓が集中している所がある。平和公園である。
道路の両側を占める墓石の数はすごい。酷暑の夏は熱中症を恐れ墓参しない。家の仏壇には毎朝お参りし、花は欠かせないが…。9月のお盆にやっと墓参ができた。
いまは亡き祖父は89才で旅立つまで、名古屋市郊外からタクシーで墓参された。生き甲斐だったようだ。同居しているわが連れ合いをお供にして。
義父が旅立ってからは、同居していたわが夫婦が二人で墓参した。しかしここ数年は連れ合いの体調不良で、われ一人のひとり墓参だ。87歳のひとりは少し寂しい。
猛暑だコロナだと人の出は少なかったが、9月になって人出も増えた。
私鉄、地下鉄、市バスを乗り接いで1時間以上の距離だ。周辺を係の人たちが掃除していた。
何となくいつも草ぼうぼうの墓が、今年は綺麗だ。やさしい花も供えてある。すっきりした気分で帰りのバス停まで歩いた。…あの花はどなたのご好意なのかしら…。心和んだ。
『世話する人がいなくなって、先祖代々の墓を処分する 墓仕舞いは、近年少子化や核家族を背景に目立つ』
新聞記事が目にとまった。
『有名人 島村抱月の墓 整理』とあり時代の変化に驚く。
『果敢なき世、著名人さんの墓も空き…』
別の新聞にも『無縁遺骨が増えている。身内がいても、弔う人がいない死者が18年4月から21年10月までの3年半で10万6千人に上った』
帰宅して東京の親類に墓参の報告をした。と、その返事に感動した。息子のラインでの連絡あったと。
『成田空港から中部空港まで飛行機に乗り、平和公園で父のお墓参りに行って来ました。お花も飾って来た』
飛行機で墓参とは…。墓石も綺麗、花もやさしく美しい…。
このやさしさに胸打たれた。(2023年10月)
「なんで戦争せな あかんの」
「なんで殺し合いしなかんの」
「いまでいう小学3年生のとき、戦争が終わったのよ」
「そう二年生のとき母の故郷の田舎へ疎開したの。名古屋の家は空襲で焼かれ、父は戦争に行かされたのよ」
京都に住む長男が久しぶりに来て、しゃべり合った。
息子は言う。「僕たち戦争知らない。お母さんたちはそういう時期があって苦しんだから、今自由に音楽を楽しんだり、文章書いたり…そういうことが許されるんだよ」
「そうね。そう考えれば働きながら子育てして、必死だったことが納得いくわ」
戦争の8月、78年も過ぎたこども時代の戦争が昨日のことのようによみがえる。
いま物が溢れるほどあり、豊かな生活を送っている若い人たちに、戦争の残酷さを伝えないと…
そういえば、先日の中日新聞に『予科練 総決起事件』が載っていた。
「あっそうだ、貴方もあの学校の生徒だった」
1943年7月のこと。県立旭丘高校(当時愛知一中)で14歳から17歳まで700人が『予科練 総決起集』を開いた。国語教師で予備役の陸軍大尉が言った。
「諸君の若い命を戦力として国に捧げる決意を」と。
『征くものは立て』と誰かが叫んだ。すると生徒全員が立ち上がった。
「立ち上がらないと 非国民と非難される。嫌々立ったやつが大半じゃないか」
天下の旭丘高校だったから誇り高く国のために命を落とせ…
あのとき貴方が生徒だったら そう考えると、頭がくらついた。
当時の3年生が『積乱雲の彼方に』という本を残した。
3年生以上700人のうち560人が身体検査を受けた。(180人が志願表を提出し)56人が入隊し5人が特攻などで命を落とした。
現在94才のA氏のことば「なんで戦争せなあかんの」
「なんで殺し合いしなかんの」
2023・9・2
あの世へ旅立った友よ
いつもの貴女のように元気??
『体重が14kg減って、それでも絶食、水絶ちはきついです』
『でも まだ歩けます。 頭は爽やかで手紙もかけますよ』
『わたしも会いたくて 会いたくて、本当に嬉しかった。貴女というよき友をもって
私は幸せでした。名古屋駅での別れる前のおしゃべり、いっぱい、いっぱい思い出ありがとう』
『先祖 みな往ったこの道 我も往く。思い出感謝 胸いっぱいに』 2016・7・29
童顔で、元気いっぱいだった現役時代の友、その友が逝ってもう7年が過ぎた。
管理職で張り切っていた彼女の連れ合いは、アルコール中毒になり、真面目な働き手の次男は過労自殺で逝ってしまった。
息子の自死はなんの慰めようもなく、夫婦で泣き合ったという友。
そして彼女は膵臓がんになってしまった。電話でそれを聞き涙で声が出なかった。
やっと、その友を見舞った日だった。茨木のり子の詩集(株式会社思潮社)を渡してくれた。死の床で。
『よりかからずに』は有名で手元にあるが、今日貰った詩集はなかった。
戦争の残酷さと、人間の愚かさが「りゅうりぇんれん」には書かれている。
「この詩を読むと、私の苦悩なんかふけば飛ぶようなもの…脳天をぶちたたかれた感じでした」
来月は戦争の8月、たまたま読んでいる『通販生活』に、特集でまじめに戦争をさせない願いの人たちの意見が載っていた。
梯 久美子氏は、かつての戦争で『予科練』知って、当時の10代の少年たちが消耗品にされた事実を書いている。「人も飛行機もただ消耗品」戦死率8割に怒りが沸いた。
二度と戦争なんてあってはならない。
2023・7・22
熱い みどりの季節
柔らかな緑が、行儀よく並ぶ。3センチくらいだった稲の苗束が、
もう倍の6センチくらいの稲の苗束になっている。
目にやさしい刺激を与えてくれる稲田にホッとする。
田園都市のこの地域も田植えが終わったらしい。
住宅地になっていない地域の、田んぼのみどり。その美しさに慰められる。
都会に住む長男は「建物ばかりみているから、こんな柔らかみどりに救われる感じだ。匂いもする。」匂いなんてしない自分にはわからない…が。
当分の間、この柔らかみどりに救われる。
先日乗ったタクシーの運転手に「田の色を見るとすっきりしますね」と言った。
すると「ホント」「でも、田植えの田は減りましたよ」「そうですか?」
タクシーの運転手は、いろいろな客と接しているので、視界ひろく色んなことを知っておられる。
そうか、田は減ったのか。よく散歩で田舎道を歩くが、そこまでは気かつかない自分である。
『市民の意見』という雑誌が送られてきた。(197号
2023・ 6 ・1)
『深刻化する食料、農業危機』とあった。
「食べる物がなくなる」なんて、ドキッとした。先の戦争で「食べる物がない」を経験した。
食べる物は、ぺチャぺチヤのカボチャだけだった。兄妹みんな我慢した。
これを書いたのは、東大大学院の鈴木宣弘教授である。
『コロナ禍、異常気象、中国の爆買い(小麦、大豆、トウモロコシなど)、それにウクライナ紛争、海外からの物流が停止したら、世界で最も餓死者が出るのは日本だ。そんな試算も米国のラトガース大学で出されている。
農家は赤字とローン返済不能にあえぎ、廃業が激増している』
『食料の6割は輸入なので、みんな国産農産物使用に置き換えよう』と訴えていた。
2023・7・1
『かあちゃん、あんちゃん、あついよ、あついよ』
まんが『はだしのゲン』の作者中沢啓治氏は、小学1年だったとき
一瞬にしておやじ、姉、弟、妹を広島原爆で失った。
孤児になった中沢氏は、核兵器の非人間性が世界には全く知られていない。
だから、この悲劇をまんがで書き表す決心をした。
まんが通でもない自分でも『はだしのゲン』くらいは知っている。
その『はだしのゲン』が『週刊少年ジャンプ』に連載された年から50年たったそうだ。
「戦争と原爆の責任を徹底的に追及してやる」まんがが、長年雑誌に連載された。
しかし、広島市教育委員会は次のようなことを決めた。
小中高生向けの平和教育教材に掲載されていた『はだしのゲン』を削除し、別の教材に差し替えた。(2023年度版)
原爆投下で一瞬に20万人近い人が殺された。広島で10万人、長崎で7万人。
75年以上過ぎた現在、50万人以上が死んでいる。
原爆投下が1945年8月6日広島で、8月9日が長崎。それさえ忘れかけている。
世界中に13000発の核弾頭ありというが、先日日本でやられた G7(広島サミット)の参加国でも『核ゼロ』で一致はなかったと、ノーベル賞受賞した被爆者が不満を言っていた。
「首脳たちの声明からは、体温や脈拍を感じなかった」91歳の被爆者サーロー節子さん
もうすぐ戦争の8月がやってくる。
2023.6.4

朝日新聞2023.5.24
ピアノに触って 音楽を考える
わが家の居間にはピアノがある。娘が小さい頃弾いたが大学生の親になった。現役の公務員で忙しい毎日を送っている。家を離れて20年以上になる。
いまは亡き義母から、娘の誕生祝いに何を贈ろうと相談があった。ひな人形かピアノといったら「人形なんて…」と、世の中まだ貧しかった当時、50万円のピアノを20年のローンで契約して支払ってくれた。
いまピアノを売れば1万円とか2万円らしい。だから売らない。
この家には弾く人もいるし…。86歳のわれ…。
公務員退職して、知り合いから勧められ元音大教授の講座へ行った。中高年のピアノ教室、教授が難曲でも短く編曲してくれていた。
生徒は40人、50人以上と多かった。演奏会もあり、みんな10年以上続けていた。
ピアノ上手の人は、子ども時代からピアノと何かの縁があったと思う。
自分のように63才からピアノレッスンを始めたなんて…レベルが知れている。
若い頃、風邪をこじらせて肋膜炎になった。当時公務員だったので、結核の前段階になってはと、大事をとって入院させられた。
そのとき、患者会のレコードコンサートで素敵なクラシック音楽に出会った。
大好きなショパンの『幻想即興曲』や、ベートーベンの『合唱』
若いときの病もあり、胸に響いた。
いま弾いている曲はシベリウスの『フィンランディア』、ヘンデルの『ラルゴー』、ドボルザークの新世界より『家路』かと思うと、簡単でいい曲の黒人霊歌『アメイジング、グレース』やアダモの『雪が降る』などなど、多面的な編曲もあり、愉しんでいる。
字を読んだり書いたりしていると、夜の頭は疲れて眠りが浅くなる。
だからピアノなのだ。弾くピアノの音色に包まれて、頭脳が和むのだ。
振り返れば、仕事を卒業してから文章を学び、音楽にふれるのは喜びだった。
文章の先生いまは亡き人、元音大教授も旅立たれた。よく指導して戴いた。
可愛がって頂いた中学時代の女教師も、仲良しだった 0もこの世に居ない。
自分や連れ合いの死を考えねばならないときが来た。
苦労もあったが、この歳まで生きさせて貰った。
その喜びを、感謝を忘れるな。と繰り返す86歳がここにいる。
2022.5.13
わるい奴の 頭に浮かんだ
朝5 時、台所に立つ。 そのとき、ふと頭に浮かんだのは、いまは亡き叔母だった。
当時農業で生きるのは楽ではない。なのに叔母の妹のこども3人(兄姉自分)が、空襲が激しくなった名古屋から子供だけで疎開してくるという。
父は戦争に取られた。
赤子の下の幼い妹2人は、母と名古屋に残り、上3人のこどもは早く田舎へ疎開せよと、学校から急かされた。我は国民学校2年生だった。
こんな無茶苦茶が戦争というものなのだ。
間もなく名古屋城と一緒に家も焼かれてしまい、母子3人が田舎へ押しかけた。
寝る所も食べる物もない生活でも、妹一家の目茶苦茶を無視できなかった。取りあえず物置に一家が寝起きし、さつまいもだけ、かぼちゃだけの食事にも耐え生き続けられた。
これは母の生家のばぁちゃん、おばさんおじさんたちのお陰だった。
戦争が終わり、世の中が次第に落ち着きだした時代、忙しさに追われ、死に物狂いでお世話になったばぁちゃん、おじさん、おばさんが亡くなったこともしらず、葬式の知らせもなく逝ってしまわれた。なんという恩しらずの悪い奴なのだ。我は。
戦争という殺し合いも人間のバカな行為なのに、いまも世界中で殺し合いがやられている。
ウクライナで、アフガンで…世界中で…。
頭をよぎる自分の愚かさも…。
残り僅かの日々、戦争の愚かさも、自分の愚かさも忘れずに、生きていきたい。
そう想いながら、台所での豊かになった朝ごはんの支度に戻った。
2023・4・22
振り返る人生 残されたことば
大江健三郎氏が2023年3月3日、88歳で逝かれた。
ノーベル文学賞に輝き、反核を訴え平和、社会的な目も正確だった。
近くに住む友人が氏と同じ学校の出身だったと話してくれた。(愛媛県松山市東高校)
担任に「君たちの先輩の大江という男は凄い奴だった。君たちも頼むぞ」と言われた。
そういわれても自分たちは、平々凡々のんびり楽しく暮らしたとその友は言う。
凡夫の自分は歳だけ二歳違い。でも、ここまで生きさせて貰い、人生しっかり振り返らねばと真剣に想った。
最近、人生の偉い先輩たちが、次々あの世に旅立たれる。
アフガンで惜しい人が凶弾に倒れた。中村哲氏73歳、2019年2月4日だった。惜しい命だった。
自分なりに若い頃、世界の平和を考えた。ペシャワール会に入って会費を払い、
ニュースなど読んだ。そんなご縁が中村氏とあった。
氏は20年もの間、医師として働き現地に水が来て干ばつを避ける工事を延々とやり、地域の人たちの信頼は厚かった。
『命を粗末にする風潮が世界的に広まってきている』
『人が生まれてきて、生きて死ぬという実感をなくしつつあるのではないか』と、大切なことばを残されている。
もう一人世界で最も貧しい大統領と言われた南米ウルグァイのホセ・ムヒカ氏である。
凡人の自分がその人に親しみを感じる事がある。一つはケータイを持っていないこと。もう一つは車だけでなく、自転車を持ち続けていることである。
氏は13年間投獄生活を送らされた。
氏のことば『人生は貰うだけでは駄目なんです。まずは自分の何かをあげること』に、ぐっとくる。
本当に真面目だけが取り柄の凡人の自分、「貰って、もらって」どれだけ助けられたか。
残り少ない日々、貰うだけでは駄目なんです。何かを上げること。凡人なりに考えよ…。
先日、関西の友人が「イカナゴのくぎ煮」を送ってくれた。かつての職業が料理人、おいしかった。
いま、イカナゴは「いない」「減った」そうだ。
必死で探してくれた料理の達人のことば「海も温暖化で魚たちにも異変が起きている」を忘れない。
2023・3・30
幸せ道と孤独道
我が家はノーカーなのでよく歩く。毎日違う道を歩く。
『幸せ道』の地域は寿司屋、ラーメン屋があり、チェーン店の食事処も賑わっており、いつも車が15台位停車している。喫茶店もありで自分たちもたまには行く。
近くに二階建ての新しい住宅が次々建ち明るいムードである。
一方『孤独道』の両側は畑でほとんど人通りなし。道の突き当りまで歩くと、さくら名所の五条川につく。
道から少し離れた地域に平屋建ての借家あり。反対側に古い4階建ての市営住宅が3棟建っている。全部で約50の家族が住んでいる。
低所得の資格がないと入れない。築45年くらいの建物もかなり汚れている。
自分が散歩する夕方5時なんてまだまだ職場で仕事中、現役のころ体験ずみである。
『幸せ道』と『孤独みち』は極端に貧富の差を感ずる。
コロナ禍で親族とも中々会えなかったが、この新年久しぶりに会えた。
現役の子たちは忙しく働いているが、孫たちもそれぞれ活躍していた。公務員の男子孫がおり、大学で遺伝子をしらべている女子孫がいる。
テニスコーチのバイトをしながら得意の絵で力を発揮している女子孫や、やっと大学に入ってアニメーターの夢をいだいている男子孫など、孫たちは恵まれた環境で頑張っていた。なんと幸せなことだろう。
しかし、やはりいい道ばかりではない。姪の一人が両親を亡くし働きながらの一人暮らしをしていた。40代で肺がんを宣告された。ショックをうけて入院したり職場に戻ったり、並みの苦労ではなかった。医療費も月10万円かかったと。いまは5万円ほどになったそうだ。肺がんが転移しているとか。
これからどうなる……いまは何とか職場に復帰して校正の仕事をしているとか。
助け合おうと、みんなでやや高額のカンパをし合った。その姪はポロポロ嬉し涙を流し続けた。
自分たち80代姉妹3人は働き続けながら子育てやり遂げたよ。苦しいときもあったけれど。
今日のいとこ会は40代50代が5人、みんな助け合おうと集まった。それがうれしい。幸せ道なのだ。情熱のカンパだよ。
2023・3・1
88人の元気な年寄りが
祝いの集いは市の主催で行われた。
金婚式の人が22組、ダイヤモンド婚(結婚60年)の人が22組指定された席についた。なかには車椅子の人もいたし,杖を頼ってしか歩けない人もいた。が、みんな表情若々しく、元気な年寄りたちだった。わが連れ合いも病に倒れ、今日の会を目標にして体調を整えて何とか参加できた。
写真撮影の後、市長が一組ずつ名前を紹介した。
ダイヤモンド婚の22組が終わり、元気な年寄りがおよそ90人集まると、何かいままでこの社会で土台になってきた人たちのエネルギーが感じられた。
正直なところ「終わった人」という自覚もある自分たち、80代後半の者も、まだこの世に生きている想いをしみじみ感じた。
琴の演奏は全国で活躍されているという紹介どおり、力強く見事な『千鳥の曲』『日本民謡集』だった。
ご近所に夫婦とも85歳過ぎの老人はない。
考えてみれば、60年という長い月日を共に生きて来れば、山あり谷ありだった。
20代30代は若さで体力もあった。仕事と子育ての両立、さらに世の中を良くしたいという行動もした。連れ合いが社会人3年で、請われて共産党の専従になった。
しかし、40代のスタートで政党に異見をもってくび。裁判までして抵抗したが、生きるためには、連れ合いのわが給料だけでは二人の子もあり、食べていけなかった。
活動を止め、学習塾を開いて大勢の子たちと真剣に勉強した。
公立高校への進学を目標に、みんな頑張ったから20年間学習塾をやり続けた。
63才で学習塾を止め、既に定年退職した妻と新しい道を始めた。
一つは 当時まだ珍しかったインターネツトにホームページを開いて、庶民生活を綴った。もう一つは山歩き、旅、ドイツ在の兄の力も借りてスイス、イタリアなど日本だけでなく、世界を歩いた。
85才過ぎて、いまどこにも行くこときは出来ない。終わった人はもうすぐ旅立ちのことも考える。さぁ 何を考えて生きようか。
ときの政府が言う自衛戦力なんか増やさず、
戦争なき世の中、みんなが幸せに暮らせる世の中こそ必要だ。
2022・12・1
笑顔がいい
義父の大きな写真に、毎朝花を供え、手をあわせている。
その顔は文字どおり、目じりが下がり、口角が上がる。いいお顔。
89才で逝かれたが、連れ合いの義母に先立たれひとり暮らしの寂しさもあったのに。
現役の校長時代もこの顔で評判が良かったらしい。
先日、99才でこの世を去った瀬戸内寂聴さんが最後に残された『寂聴97歳の遺言』で「ニコニコして笑顔でいると他者への立派な施しになる」と繰り返して書いている。
80才まで生きれば、みんないいことばかりではない。
現役時代の気の合った友は、息子が働きすぎで精神的に参って自死してしまった。その友も連れ合いはアルコール中毒になり、明るい絵顔の彼女は膵臓がんで旅立った。切ない。
5年前自分も乳がんの手術をした。その時いろいろ友が見舞い状をくれた。
絵手紙の先生で張り切っていた友は認知症、芸術的手芸やちぎり絵でがんばっている達人は、自分も病になり連れ合いも死んでしまった。水泳の先生は子供たちと元気に活躍していた。が、うつになったと。
それでも、笑顔のところに幸せがくるそうだ。笑顔、笑顔で行こう。残された寂聴の遺言だ。
『私たちは幸せになるためにこの地球にやってきた』これは南米ウルグァイの元大統領のことば。更に『貰うだけではダメで、まず自分の何かを上げること』と書く。
そうだ貰いすぎたわが86年の道。貰うだけではダメなのだ。
86歳の誕生日が過ぎた。まだいのちがある。さぁ前向いて笑顔で歩こう。
2022・11・10
保育園からの車の中で、3才の子が死んだ
あのニュースに胸打たれた人は多かろう。自分も長年二人の子を、保育園にお世話になりながら働き続けた者として苦しく聞いた。
25年前、夫婦でこのホームページを立ち上げたが、そのころの文章にこんな一文が。
『夏だというのに、おしめが1回しか変えてない』という親さん
『ノートに記録がない。1日この子はどうしていたのか』という保護者
そうなのです。子供を保育園に預けて女が働くということは、厳しい保育現場なのです。
だから不注意で起きた事件は許されない。
『命育て』なのだから。
ただ、現場の厳しさを考えると人の配置など、もっともっとゆとりをもって保育園児が
育つように経済的にも配慮すべきだ。
昨日、元首相の国葬が行われた。反対、賛成と意見が分かれる中で。
庶民の反対運動は当日もやられた。16億6000万円ものお金は税金で出される。
それでいいのか。自民党葬ならいいのに。そういう友もいる。
戦争体験者は「戦時中は一億一心・勝つためにひとつになれ」と強制された。
ウクライナでは見つかった集団墓地を掘り起こす。この悲劇を新聞で読んだ。
447人の遺体。 215人が女性、5人が子どもだった。
そういう恐ろしい戦争、自由のなさはごめんだ。
行儀よく並んだ黄みどりの稲が、いつの間にか実をつける田園都市。平和だなぁ
実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな
2022・9・30
『ダイヤモンド婚』だ 『自分床屋』だ
市役所から頼りが届いた。
『ダイヤモンド婚』のお祝をします。希望者は申し込んでください。
『ダイヤモンド婚』って、なに? 結婚60年?
とてもそんな場に出られる状態ではない。と暫く便りはそのままにしておいた。3カ月前脳梗塞で転んで,救急車で入院したわが連れ合いである。
大騒動の救急車入院が一週間、苦しい検査が続いた。
それが済んだら一刻も早く退院しないと、足がヨレヨレになる。そんな話で薬を投与して貰い自宅に戻った。
暫くは痩せて食欲もなくなり、無理に朝食を食べて「すぐ寝る」「エライ」「だるい」の毎日だった。
「寝てばっかりだと、もう立てなくなるよ」そんなことばで、京都の長男がネットで調べて、退院するときに指導を受けた数々の電動工具を取り寄せた。
杖ついて、リハビリの設備が整った部屋へゆっくり歩き、散歩は出来ないけれど設備に沿って歩く。積み重ねで1回が2回になり3回が4回となって6往復歩けるようになった。
そんな頃だった。杖ついて歩く85才の老人が、風呂場に新聞紙を敷いて何かを始めた。そういえば「床屋に行けないから自分床屋やってみる」そう言っていたなぁ
左手で左の頭をバリバリ、右手で右の頭をバリバリ、ネットで新式のバリカンを取り寄せ、自分床屋を30分位やって、すっきりした顔で風呂場から出てきた。
「やった。出来たね」考えられない。3か月前救急車で運ばれた病もち老人が自分床屋を…
子供時代は戦争だった。床屋なんてなかった。何人もの子供の頭刈りは本人と母親の仕事だった。特に左の頭は誰も刈れなくて母親の仕事だった。しかし連れ合いは左利きで、ひとりだけで床屋ができた。
自分床屋と言えば、20年ばかり美容院に行っていない85才の自分もここにいる。
連れ合いは大学卒業後3年働いて、理想に燃え専従活動家になった。給料は遅配続きの貧乏共働き生活だった。
朝起きると「今朝も起きられたね」が二人の挨拶。
一日一日がいつ終わっても、悔いない二人とも85歳
そうだ。11月にあるという『ダイヤモンド婚』に出るのを目標にしよう。
2022・8・29
近頃はどのお茶屋にも、スーパーでも「知覧茶」は並んでいて手軽に手に入る。
鹿児島に旅し、知覧の茶畑を夫婦で歩いたのは、20年以上昔になってしまった。
帰りのタクシーの運転手に聞いた。「知覧茶では売れないから、業者が有名な静岡茶として売っている」には驚いた。勿論「知覧特攻平和会館」へも行った。
一度は来たかった知覧、それは先の戦争で若き命が特攻隊として次々死んで行った歴史を知ったから。
若い人たちを親身になって励まし続けた女性、その寮にも行った。心意気に打たれた。
今年は戦後77年、長寿社会と言っても、あの戦争を体験した人たちも残り少なくなった。
当時国民学校生だった自分たちは、空襲だ、疎開だ、父親は赤紙一枚で戦地へ駆り出された時代である。
家は焼かれ、寝る所も食べる物もなしで、集団疎開か田舎の親類を頼って縁故疎開を強制された。
現在のウクライナも、残酷な殺し合いでふつうの人たちが苦しんでいる。早く殺し合いをやめてほしい。
救急隊さん ありがとう
まさか、救急車で緊急入院なんて…
昼近いころ、買い物から帰ったら連れ合いが居間で倒れていた。
「どうしたの?」 と言うと「転んだら起きられない…」
二年前くらいに脳梗塞の診断を受けた。特にひどくはないが、散歩に出て二度ほど転んで、近所の人に助けられた。
「足を延ばして」と言っても、「向きを変えて」と言っても思うように体が動かせない。
そのうち、足が痙攣(けいれん)し出した。
「だめだ! 救急車呼ぼう」
かくして、必死の119番通報になった。
ほどなく救急車が大きな音を響かせ、3人の隊員が到着した。
病院のベッドに横になる。
「鼻から管入れて胃まで届かせる検査、苦しいですよ。」「水分がのどを通らない検査」などなど、誠実そうな医者がどんどん進める診療…。苦しくても、いやだと思っても、ここまできたら受けるしかない。本人は「このあたりの記憶、まるでない」と言う。
一週間がアッという間に過ぎた。検査が済んでベッドに横たわるだけの患者になった。
明日の命がどうなるか…不安ばかり、最寄りの担当医師から「脳梗塞は治らない」と日ごろ言われている。
「検査終了ならすぐ退院を」長男が忙しい医師に「京都からです」と何度も電話したそうだ。
入院を続けると、足ヨレヨレで寝たきりになる。…一週間でにわかに退院した。
退院後「ダルイ」「エライ」の連続で、朝食後はすぐ「寝る」というばかりだった。
でもここ二三日、変化が出てきた。
最近「息子が作ってくれたリハビリ器具の、少し盛り上がった坂を六往復し、差し入れでマンガにも目を通す」少し意欲が出てきた。講談社の『センゴク』宮下英樹作、大評判で70
冊余…
「85年生きて、何が起きても覚悟すべきだろう」夫婦の話し合い一致点。
それにしても、入院時の救急隊員さんの献身でどれほど助けられたか…ありがとう!
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連作短編3『めだかのがっこう』 『電子書籍版』
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