エッセイ仲間たち

〔3DCG 宮地徹〕

 

     私のまわりには、文を書き続けている人がたくさんいます。

     無名のその人たちが、戦争にほんろうされた青春を、恋の

     切なさを、親しい人の死の悲しみを、勇気をもってさらけ

     出す文章の多くは、ひっそりと紙の間に眠っています。

 

       その作品たちが私に『エッセイ仲間たち』というページを

       思い立たせてくれました。いろんな音色を心に響かせて

       くれるそれらの文章は、ネットに載せて多くの人に読んで

       ほしい、若い人に伝えたい文章です。

       このページを思い立たせてくれた作品たちに感謝します。

 

(作品をこのHPに載せることについては、すべての方のご了解を得ています。)

 

MENU

   1、山中れい子   弔いの焼き芋

   2、かみやこうじ  サハリン遥かなり  ある夜明け前

   3、伊左冶貞子   酔芙蓉  住居

   4、服部正三    気になることば

   6、田沢純子    水仙  彼岸

   6、水谷浩子    私の恋愛感  キェシロフスキ監督

   7、池山昌子    道連れ

   8、篠田淑子    鮎の一夜干し  柏餅

   9、渡辺節子    琵琶湖の小鮒  占星術

   10、城三男     さらば母国よ、死こそ我が道と決意

 

幸子のホームページに戻る

 

山中 れい子

弔いの焼き芋

 

 衣替えの季節になるといつも思い出す。

 夫が亡くなって二、三カ月した頃に、そのままになっていた夫の洋服ダンスを開けてみると、ぷーんと、生きた夫の匂いがした。こんな所に、まだ夫が生きているのだと、つい背広に顔を近づけた。まさに生前空気のように感じていたなつかしい夫の匂いであった。思わず涙があふれて、背広に顔をうずめてしまった。

 

 一昨年は夫が亡くなって五年も経っていたのに、まだどこかで夫を感じていたかった。夫が身につけていた背広や洋服をなかなか処分する気になれず、依然として洋服ダンスはそのままだった。そんな私を見て、遠地の大学から帰省していた次男が、いつになく思い切った様子で、「この休みに実行することがある。お母さんが反対しようと、決行するからな」と宣言した。わが家の庭で夫の衣類を焼くというのである。あまりに唐突であったので、私は返事に困ってしまった。だが彼は私の返事など待たずに、黙って夫の洋服を庭に運び出し始めた。

 

 何も言えず眺めている私には見向きもせず、彼は小さな庭の真ん中に火を起こした.一枚目のジャケットを火の中に入れたその時、私はやっとの思いで、「全部燃やしちゃうのはやめてよ」と遮るように言った。彼は振り向きもせず手だけを動かしていた。「取っておく必要もないし、取っておくのはよくないよ」と言いながら、どんどん火の中に入れていった。私は家のガラス戸の内側から、おそるおそるそれを眺めていた。背広から普段に着ていた部屋着まですべての洋服が出してあった。

 

 いよいよスポーツをする時に着ていた衣類に手がつけられた。多忙な仕事の合間をぬって、夫はよくテニスに興じていた。テニスを楽しむことは、夫にとって唯一のストレスの発散であった。バーゲンに行き、夫のテニス用のブランド品を安く買ってくるのは私の役目でもあり、ストレスの解消にもなっていた。買ってきた夜はどんなに遅くても喜んでそれらを試着してみせて、このスタイルなら次の試合には間違いなく勝てると、こぶしを握ってみせたものである。

 

 とりわけ夫が気に入っていたトレーナーが取り出された。休みの日には必ず着ていたものである。火の中に投げ入れられると、紺地に浮き出た胸元のアルファベットが、炎に包まれ、崩れて消えていった。どうしようもなく押さえきれないものが、私の胸に突き上げて来た。夫の衣類が一枚一枚、火の中に投げ入れられるたびに、その息苦しさが増した。ついには見ているのが辛くて、食堂の椅子に座り込んでしまった。飼い犬の次郎太も、最初は次男のまわりをふざけながら走り廻っていたが、いつしか彼のそばにおとなしく座って、火の中を見つめていた。

 

 ひとしきり焼き終えると、次男が何か手に持って、ガラス戸から入って来た。「はい、格別おいしいと思うよ」と言って、私の前に出した。それは、まだ湯気を立てている焼き芋であった。二つに割ると、焦げた皮の内側にみっちりと実が詰まっていて、黄金色に輝いていた。一瞬たじろいだが、おいしそうに頬張っている次男にすすめられ、つい一つまみした。口の中に入れると、ホクホクした実が舌の上に広がった。「おいしい」。私の閉じていた食道も、ゆっくりと入ってきた焼き芋の実に、柔軟に動き始めた。熱い焼き芋が、私の冷たい胸の裏を通って行くのを感じた。そしてそれは私のすべての内臓器官に染みていった。生前の夫の温かみが私の身体に伝わって来た。さっきまでの息苦しさは嘘のように、私の胸から消えていった。

 

 ふと庭に目をやると、次男が残りの衣類の焼却に取りかかっていた。先程のせっぱつまった様子はなく、犬と戯れながら火に向かっていた。彼も辛かっただろう。今年は夫が亡くなって七年目である.七回忌の法要を済ませたら、また面倒な衣替えの季節がやってきた。洋服ダンスには、夫の背広や洋服はもうすっかりなくなった。夫の生きた匂いも消えてしまった。その代わりに、私の洋服がタンスの中で幅をきかせている。そして私の生きた匂いが充満している。

(風花文学賞優秀賞受賞作品)

 

 

かみや こうじ

サハリン遥かなり

 

 兄貴分のFが新しい女を連れてきた。ハタチの俺たちより若いかもしれない。けれど、おとなっぽいふてくされたような空気が女を包んでいた。俺たちはタバコをやらないが、女はプワーと、まるで莫連女(ばくれんおんな)だ。どこでどう知り合ったのか、Fは説明するような奴じゃない。女は俺を無視し、俺は黙って、Fたちにくっついて戦火に焼け残った街をうろついた。

 

 晩秋のたそがれ、ふいに女が酒が飲みたいといった。酒を買って、女に導かれるままに、とある小学校の教室に土足で上がり込んだ。女がぼそっと言った。「かまわないよ。私の教室なんだから」「君、先生だったんか」とFも知らなかった。代用教員らしい。くらがりで酒を飲んだ。

 少しの酒で若い三人は酔いつぶれた。寒さにふるえて気がついたとき、どこにいるのか、なぜここにいるのか、しばらくは判らなかった。

 コオロギがいっぴき鳴いていた。すがりつくような生き残りの声。しろじろと月光がひろがり、窓ガラス、小さな机、小さな椅子、そして俺たちの酒宴の乱雑を照らしだしていた。女の青い指が俺の額に触れていた。つめたい、心にしみる光景だった。

 

 女の、巫女のような一人語りが月明の床を這った。「逃げて来たの樺太から。帰りたいわ、樺太へ」「ななかまどって知ってる? いまごろは山じゅう深紅に燃え上がるのよ。ルビーのような実と紅葉が」「あなたたちにみせたいわ、ななかまど。連れてゆきたいわ、樺太。あなたたちのこの街は、焼けたけれど残っているわ。でもね、私は風景全部をなくしたのよ。私は私をなくしたのよ」。

 俺とFは声を失っていた。Fよ、彼女を抱きしめてやれ、でなければ俺が抱く、俺は無言で叫んだ。誰に見とがめられもせずに教室を抜けでた。山茶花の咲く早霜の道を黙って歩いた。駅へでた。

 

 俺はありったけの金で、北へ行く二人分の切符を買った。すこしでも北へ行けば、すこしでもななかまどに会えるかもしれない。ななかまどの紅葉に会えたら、彼女の心のバランスはからくも崩れることはないのではないか。ふてくされ仮面を脱いだ少女の肩を抱いたFが、「ありがとう」と俺の手を握った。

 列車が遠ざかり、女ひとり男ふたりの危うい構図の幕が降りた。

 五十年の歳月が流れた。私、俺はFにも女にも、サハリンの深紅のななかまどにも、会っていない。

 

ある夜明け前

 

 中学生の弟が焼け跡の街から燃え残りの柱などを拾いあつめ、空襲で燃えた家のあとに、三畳、四畳半の掘立て小屋を造っていた。私は軍隊からもどり、ふたりの妹も疎開先からかえり、空襲で負傷した母と四人の子が再会した。愛人がいた父は私たちから身を隠し、その女性からひそかに送ってくる食料で私たちは屈辱的に救われてもいたが、加速するインフレーションと飢餓で、暮しはどん底に落ちた。

 

 私は転々と職を探して歩いた。旧友たちは軍隊へ入るまえの学校へ戻ったが、そういう当然のコースを私が選択出来るはずはなかった。十八歳の私が働いて得るものは私ひとりを養うにも足りなかったが、家長であるという状況が私を縛った。

 しかしそれよりも重いくびきが二重に私を捕らえていた。

 「天皇のために死ぬ」ことのみを生きがいとして少年兵になった私、日記に軍紀批判を書いたために「天皇」の名によるリンチで追いつめられ、死に瀕した私、にもかかわらず天皇信仰に魂をからめとられたままの私は、なぜ神の国が敗けたのか、なぜ私は生き残ってしまったのか、苛立ち憤っていた。

 

 その年の冬はことのほかに寒かった。乏しい炭火、すきま風、浅い眠りから醒めると、ふとんのえりが息で凍っていた。昭和二十一年一月一日午前四時、今日も占領軍の荷役である。母が闇市で自分の着物と交換したのであろう、正月の新しい下着、地下足袋、軍手が枕元に用意されている。階級章を剥がしたあらいざらしの軍服を着て外へ出る。氷を砕いてばらまいたような星空が頬を刺す。霜が降りてくる。シリウスが冷たく輝いている。

 闇の街に低く電灯の灯が洩れ、掘立て小屋がうずくまっている。黄色い灯がゆれて市電がくる。暗い埠頭へ着く。暗いはしけに乗る。暗いタラップをあがり、凍りついたデッキを踏みしめ、暗い口を開けた船倉へ降りてゆく。

 

 日の出まで二時間、天皇が神性を否定し「人間宣言」する、その数時間前であった。

 

 

伊左冶 貞子

酔 芙 蓉

 

 九月になると、秋に先がけて前庭の酔芙蓉の花が開きはじめる。雨戸をくると、まだ明けきらぬ庭にぼんやりと白い花が浮き上がってくる。近くで見ると夜露に濡れた純白の花には、神秘的な気品すらある。盛り時は数えきれぬ程に開くが、一日だけの花で、十月の中旬には終わる。

 

 この花に出合ったのは、五年前の秋の植木市であった。五十センチほどの細い木にしゃくやくの花に似た淡いピンク色の花が、まるで見本のように一輪だけ咲いていた。

 花の色が一日の間に白からピンクに変わり、夕方には酒に酔ったように赤くなるという。半信半疑で、残り花だからと安くしてもらって庭先に植えた。

 なるほどその花は、夕方になって気がつくと、本当に赤に近いピンクになり、翌朝にはそのままピンポン玉位にしなびて葉蔭に隠れていた。そのうちに葉も落ち、細い木も枯れて、何だかだまされたような気がしたが、いつのまにやら忘れてしまった。

 

 翌年の春、落葉に埋まったまま芽を出している小さい株を見つけた。思いがけない酔芙蓉であった。周りの草を抜き、肥料をやるとお礼のように芽を伸ばし、枝を張って見る間に私の背丈を追い越してしまい、同時に沢山の蕾をつけた。

 九月早々には、直径が十センチほどもある八重咲きの花が開いた。早朝に見る花は真っ白であるが、時間と共に微かずつピンク色が濃くなって、午前十時過ぎには、あどけない十二、三歳の少女を連想させる花となる。

 

 さらにお昼近くになるころには、ういういしい十七、八歳の娘盛りの装いを見せ、夕方に近づくにつれて妖艶な女盛りとでも表現したいような濃いピンクに変わって行く。日が沈むころには「酔芙蓉」とはよくぞ名付けたものと感心するほどの色に染まるが、酔いつぶれてしどけなく乱れることもせず、しずかに夕闇の中に包まれてゆく。

 

 この花は花後がまたいい。翌朝には、新しく開いた花の邪魔にならぬところでしぼみ、知らぬ間にひっそりと「生」を終えて土に帰ってゆく。ドラマチックな花である。

 私は毎年、この花を見るたびに「女の一生」を見せられる思いがする。心して自分もこのように終わりたいものと、しみじみ思うのである。

 

住居について

 

 五年前、この八事に住むようになってから、時々近所を散歩する。昔からの住宅地なので、立派な石垣に囲まれた大邸宅が点在している。よく手入れの行きとどいた庭は、外から見ても美しい。

 散歩の途中、夫が「若い時はいつの日か、家族をこういう立派な家に住ませたいと思っていたが、金に縁のない男でついに実現出来ずじまいだったなあ」といった。

 私は「そんなことご免ですよ。この頃は人件費が高いから、お手伝いや庭師をたのめば大変でしょう。それに、今何一つ財産が無いからこそ、良かったと思いますよ、お金儲けが下手で何よりでした」と言って、二人とも笑ってしまった。

 家や土地などの財産を残されたら、折角仲の良い子供達も、何かと後々厄介なことになりかねないと思う。

 

 思えば、結婚して五十五年の間に、疎開も入れると、十回も住居を替えた.四人恵まれた子供達もそれぞれ別の住居で生まれ、次女は戦時中に幼くして急逝している。

 ただ、夫は建築家であったせいで、どの住居も日当りの良いことを第一にして選んだ。これ迄、家族が健康に恵まれてきたのは、そのためのように思う。

 昭和四十三年の暮れに、夫が事業に失敗して全財産を失い、墓だけが残った。幸いに、長女は既に嫁いでいたので家族四人、名鉄国府宮駅前の二DKアパートに入り必死で働いた。

 

 翌年、当時宝くじ並といわれた住宅公団の空家募集のくじに当たって、名古屋市中に戻ることが出来たが、二DKに大人四人の生活はきびしかった。しかし二年の間に子供達は結婚して巣立って行った。

 

 夫婦二人にもどった私達はそこを「終の住家」と心にきめていたが、高齢になった両親を案じてくれた長女夫婦の好意で、思いがけなく今は、八事に住むことになった。「今度こそ、ここが最後の住居ですね」というと、夫の返事は「いや、そういうわけにはいかんよ。そのうちに金ピカの自動車が迎えに来れば、断れまい。しかたないが總石造りの最終住宅へ引越さんならんよ」。

 

 

服部 正三

気になる言葉

 

 アウトドア

 何かと外国語を使って恰好をつけようとする風潮は、相変わらずである。戸外活動を「アウトドア」、庭いじりを「ガーデニング」などと呼ぶ。新しい感覚で見直したのだと弁明するが、それは、PRしたい業者や雑誌の策略でしかなかろう。官庁や自治体が思いつきで乱発していた「小役人外国語」は、さすがに叩かれて最近は自粛しているらしいのは、まことに喜ばしい。しかし、テレビなぞでは、要らざる外国語化がはびこる一方である。

 ランキング(序列)、ノミネート(参加、登場)、スタンス(位置、姿勢)、サーガ(物語)、グツズ(品、商品)などすべて、日本語で足りるのにと思う。

 

 頭の中が真白

 突然起きた衝撃的状況に狼狽して、どうすべきかわからなくなった状態を言う。以前にはなかった表現であるが、あまり誰もが「真白」「真白」と言うので、意地悪く「本当に貴君には白色が見えるのかね」と尋ねたくなる。私自身そのような状況に置かれたことももちろんあるが、その瞬間色々な像が多彩に飛び交って混乱し、とても白色なぞではあり得なかった。中には、本当に白色になる人もあるかもしれないが、誰もが「真白」になる筈はないとにらんでいる。

 

 (いや)

 近頃書物でもテレビでも、やたら「癒しの…」と言うのが流行しているが、その「卑しい」に似た語感も、文字自体の感じも好きではない。もともと「癒す」という動詞はあったが、それから「癒し」などという名詞を、自慢げに創り出したのは、恐らく英語の“healing”を翻案したのであろう。心理的、精神的傷害やストレスの緩和という意味自体は、わからない訳ではない。しかし私には、どうも皆大したこともない状況にありながら、「私は落ちこんでいる」(この言葉も大嫌い)とか「心に傷を負っている」とか言って、自分を憐れみ甘えているとしか思えない。そして、独りで胸に秘めて困難に耐え抜いて来た、われら戦中世代に比べ、近頃の連中がふやけている証拠だとうそぶく。とは言いながらも、「癒しの音楽」として、カラヤンの「アダージオ集」やグレゴリア聖歌のCDが大評判になると、つい私も買い込んでしまう。

 

 カウントダウン

 ある出来事の開始までの残り時間を数えることを言うが、「秒(分)読み」で足りる筈である。この類のカタカナ語の氾濫は挙げれば切りがない。たとえば「バリアフリー」は「無段差」、「ホームレス」は「宿なし」、「ランキング」は「序列」か「順位」、「リラクセーション」は「くつろぎ」で足りる。その方が字数もはるかに少なくて済むのにと思う。

 

 駆け抜けた

 ある人物が活躍奮闘を続け、その割には短い生涯を終えた場合、よく「人生を駆け抜けた」と言われる。初めてこれを聞いた時、中々うまい形容と思ったが、その後誰についても「駆け抜けた」と評するのを耳にすると、その人物は、実の所は、周辺にお構いなく勝手に駆け抜け、砂塵を上げ小石をはね飛ばしたりして、随分人に迷惑をかけたのではないかと、私の記憶にも残る「駆け抜けた」人物たちから類推する。

 

 サミット

 主要国首脳会議を指す言葉であるが、近ごろでは幾つかの団体が集まると、すぐ「サミット」を名乗る。私の住む愛知県を例にとっても、豊橋市で「路面電車サミット」、七宝町で「宝サミット」が行なわれた。前者は、路面電車のある十九都市のうち、十の市や鉄道の関係者が、後者は、東海三県で「宝」の字の付く四町村のうち、三つの商工会長や事務局長らが集まっただけのことである。「首脳」にも値しない連中の、イベント宣伝でしかない。

 

 シンガーソングライター

 この言葉も定着して久しい。英語の直訳であろうが、まずその長々しさが気に入らない。私にとっては、およそ無内容な「ポピュラー」というふやけた歌ばかり作って自慢げに歌う奴、というイメージであり、「自作歌手」とでも呼んでやればよいと思う。クラシック以外は音楽と認めない偏屈な私は、彼ら自身、ミュージシャン(音楽家)とかコンサートを名乗るのは僭越と考えている。「音楽家」ではなく楽隊屋かせいぜいが楽士であり、彼らのやりたがる「ライブショー」も「実演」の一語で足りるからである。

 

 迫る

 『続さざれ石』にも記したが、その後もこの言葉のNHK御愛用は激化しており、極めて耳障りなので再び採り上げる。最近は報道番組ばかりか、いわゆる教養番組でも、冒頭「‥‥‥に迫ります」というものが多い。そして実際には、すべて上辺(うわべ)を一瞥(べつ)するに留まること、相変わらずである。先日も、茶器について茶の宗匠の話を聴く番組で、アナウンサーが「茶器に迫ります」と言ったのであきれた。

 

 他界する

 敬語使用に自信がないためか、過度に丁寧な言葉を使う人が多い。最近「死ぬ」の代りに多用されるのが「他界する」であり、更には「鬼籍に入る」と勿体をつける人もある。

しかし、向田邦子は、「亡くなる」すら尊敬語ではないが丁寧過ぎるとして、少なくとも身内には「死ぬ」しか使わなかったという。確かに、色々と無雑作な言葉を使っておきながら、「死ぬ」だけを「他界する」と言う者が多いことに気付く。

 

 みそぢ

 「みそぢ」という古めかしい語感が好まれてか、最近女性たちの中でよく使われているらしい。「みそぢ」の「ち」は「はたち」の「ち」と同じ接尾語であり、丁度三十歳を指すのに、「三十路」とも書くため、どうも「三十代」と誤解しているようである。四十歳目前の連中が、「私はみそぢ」などと言っているのが滑稽である。

 

 身のひきしまる

 ある会社の社内新聞を見たら、幹部たちが交代し、新任四人の挨拶文が載っていた。いずれも無内容の、形ばかりの言葉が並んでいたが、その四人のうち三人までが、「身のひきしまる思い」と述べているので笑ってしまった。そう言えば私の周辺でも、何人この言葉を吐くのを聞かされたことか。そして彼らは必ず、「ここが正念場」「頑張れ」と言い続け、最後は「大過なく」と自らを評して去って行った。

(これらは服部氏が出版された『さざれ石』からの抜粋です)

 

 

田沢 純子

水 仙

 

 去年の一月のことだった。その日は良く晴れて暖かかったので、息子の墓まいりに行った。息子のKは大学を卒業後、一年もたたぬ間に病歿。その後九年の年月が、ようやく私の悲しみを薄めはじめていた。

 

 小高い丘陵地にあるその場所はいつも、ひっそりとして訪れるのは私と夫ぐらいのものである。ところがその日、Kの黒い墓石の前には筒にあふれるばかりの水仙が生けてあり、見知らぬ女性の姿があった。

 三十五、六歳であろうか、グレイのニットと同色の帽子がよく似合って、あたりを明るくするような風情があった。「ありがとうございます。Kのお友達でしょうか」と尋ねると、私の突然の出現に、やや戸惑いを見せながら「はい。今日はKさんのお誕生日なのでお参りにまいりました」と墓石を掃除していた濡れ布巾を手の中に丸めた。そして「御命日には御両親がいらっしやると思いまして」とつけ加えた。

 

 火をつけた線香が燃えつきかけている。この人が来てから、かなりの時間が経っているらしい。線香の横には缶ビールもあげてあった。彼女の眼がほんのり潤んでいたのは、ビールに酔うて墓をみがいていたせいなのか。あの世のKとビールをくみかわしていたのであろう。

 感謝の気持がこみ上げてきて、もっと話したいと思った。だが相手にも事情があろう。私は祈禱を済まし早々にその場を辞した。

 

 帰りを急ぎながら、あの女性の真情が率直に伝わってきて、体が熱くなる程であった。それ以来水仙の花を見ると、あの女性の面差しが重なって浮んでくる。

(サントリー公募『花の思い出』準優秀作入賞作品)

 

彼 岸

 

 彼岸とは「あの世」のことだと考えている。まだ若い頃は他人事のように心の隅に追いやられていた言葉だったが、あの日、突然それが口に出た。三十年前、母を亡くした時のことである。「あの世へ行けば母に会えるでしょうか」と会う人ごとに問わずには居られなかった。

 

 三年が過ぎ、今度は私の長男が二十四歳の若さで逝ってしまった。激しい歎きが消えやらぬある日、私は息子の亡霊をみた。彼は襖の前に座っていた。それは夢でも幻覚でもなく現実のものだった。その証拠に長女のところへも彼はやって来たのだ。ある説によると幽霊は、死人の想念が波動の塊りとなって現れると云う。私はこの時から霊界とか彼岸というものがあることを朧げながら感じるようになった。

 

 芥川龍之介は『杜子春』の中で「彼の魂は静かに体から抜け出して地獄の底へ下りて行きました。この世と地獄との間には闇穴道があって、そこには暗い空に氷のような冷たい風が吹き荒んでいるのです」に続き、エンマ大王や大勢の鬼が杜子春を責め苛む話がくり拡げられる。彼岸とは、こんなに陰惨なものなら身の毛がよだつ。

 

 しかし、一方遠藤周作のエッセイを読むと、ほっとする。それは女医キュープラ・ロス博士から聞いたという蘇生患者の話しである。要約すると「息が絶えた者は、先に死んだ愛する者たちが傍に居ることを感じ、次に何とも云えぬ慈愛に満ちた愛の光に包まれる。そうした体験をした後、彼等は息を吹きかえした」という報告である。

 死のあと愛する肉親たちと彼岸で再会できるという話は宗教の説話ではなく、臨死体験者の談話であるから心に迫る。昔から懸命に尋ねても分らなかった回答が示されたような気がした。

 

 たまたま、図らずもその遠藤周作氏の訃報が伝えられた。氏は御本人が書いたように「滑り落ちるように彼岸へ到着。白い水仙が繚乱と匂い、かぎりなく優しい光りに満たされている」だろうか。そして病状がシビアになったとき見舞った安岡章太郎氏に、「母や兄に会えるから死ぬのは怖くない」と語ったというその言葉通り母上や兄上に再会できただろうか。そう念じながら、なお胸の底から滲み出るこの寂しさ。彼岸との壁は重く冷たく、中をのぞくすべもない。

 

 

水谷 浩子

私の恋愛観

 

 恋に落ちる、この表現は恋愛の本質を突いているように思える。今生活している現実の世界から別の世界へ、すーっと落ちてしまう、そんな感覚をよく表している。

 もしもこれから先、誰かと恋に落ちることがあるのなら、落ち方は浅いほうがいい。大した支障もなく恋して、愛し合って、結婚するというお定まりのレールに乗りたい。その場合、二人は、何からも逃れる必要がないので、あまり深く恋に落ちる必要はないはずだ。

 

 かつて社会の規則や常識などに受け入れられない恋をしていた時、それらから逃れるために、あるいは身を守るために、深く落ちるしかなかった。そこでの恋愛は、純粋で、密度の濃いものだったが、その状態を維持し続けるには非常なエネルギーを要した。こういう類の恋愛は、常に悲劇と背中合わせでもある。綱渡りをしているような緊張感は、二度と味わいたいとは思わない。

 

 深く落ちていくにつれ、恋愛は人に至福の時と絶望的な悲しみとを、交互にもたらすようになる。二人で過ごす時間を必死で作り、どんなに熱く愛を語り合っても、時の流れだけは止められない。離れ離れになる時間の長短に関係なく、その人がそばにいないこと自体が、世の中の不条理のように思われて、離れた途端に涙が止まらなくなる。これもまた、辛すぎて二度と陥りたくない状況である。

 浅く恋に落ちて、適度な情熱と節度ある浮かれ方で、いわゆる恋愛期間をしばらく楽しみ、適当な時期を見計らって結婚し、『少し愛して、長く愛して』を地でいくような夫婦になりたい。そういう、平穏で平凡なのが今の私の望みだ。

 

 あまりに激しく恋に生き、恋に命を落とした恋人達は、たとえばボニーとクライドのように、いまは伝説になった。浅く恋に落ちて、平穏に愛し愛されたい・・・などと思えるようになったということは、かつての恋がやっと私の中で伝説になったからであろうか。

 

キェシロフスキ監督

 

 ポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキという映画監督が世界で一番好きである。

 この五年間で、『殺人に関する短いフィルム』『愛に関する短いフィルム』『ふたりのベロニカ』の三本が日本で公開されている。もともとドキュメンタリーやテレビ用劇映画を手掛けていた人で、三十代半ばから劇場用映画を作り始めた。現在、五十三歳。痩せ型、学者タイプの男性の監督である。

 

 この人の作品には、私の心を強烈に揺さぶるシーンが必ず二、三箇所はある。『愛に関する短いフィルム』を例にとると、主人公の郵便局員の青年が、向かいのアパートに住む年上の女性に密かに想いを寄せていて、彼女に近づこうと、そのアパートの牛乳配達を始める。ある日やっと直接対面することができたとき、ろくに口もきけなかったのだが、彼の喜びを描き出した次のシーンは、とりわけ忘れ難い。

 

 彼はアパートの屋上まで階段を駆け昇り、牛乳を冷やすための氷を両手に一片ずつ持って両耳に当てるのだ。心の高揚と一体になったようなスピード感あふれるカメラワークや、彼の表情をいきいきととらえるために青空を効果的に使ったカメラアングルなど、様々な要素があいまって、観る者に主人公の心情が痛いほど伝わってくる。

 

 この監督は、映像自体の持つ力を知っており、それを見事に駆使する、数少ない「映像作家」と言えるだろう。

 映画評論家の川本三郎氏が、同監督の新作『トリコロール・青の愛』のことを、人に勧めたり紹介したくない、ひとりで胸にしまっておきたくなるような作品だ、と書いていた。ファンとして、氏の気持ちはよく分かる。私ももったいないから他の人にはちょっと教えたくないのである。

 

 [付記]同監督は、私がこの文書を書いた二年後の一九九六年三月、心臓病のため急死。『トリコロール・赤の愛』が遺作となった。その後、八八年製作のTVシリーズ『デカローグ』が劇場公開された。彼以上に好きな監督はいまだに現われていない。

 

 

池山 昌子

道連れ

 

 わが道連れは幼い日、父親のあぐらのひざの上に座っていたころからのつきあいだ。彼は父に対して熱くなってみたり、冷たかったりと、時には変化して接してくるが、結局はいつも飲み込まれていた。

 稚かった私は、彼に時々口付けなどして、はしゃいでいた。こうして気楽に接していたころは、彼が生涯の道連れになるとは、思ってもみなかった。

 

 小学校二年生で父に死なれて、彼とも疎遠になったが、成人し会社へ勤めるようになった私は、ここで再び未来の道連れと、出会ってしまった。当時の彼は、ひどく荒れていて、記憶の中での彼とは、かなり違っていた。ピリッとした辛さだけが取り柄で、お世辞にも快い相手とはいえず、時には胃が重くなることもあり、少々嫌気がさしていた。

 

 たまたま、そのころ目の前に茶褐色で苦味走った第二の彼が現われたのである。若かった私は相手の新鮮さに、たちまち心を奪われてしまった。当時は戦後の混乱も少し落ちつき、世の中も自由を楽しめる時代になっていた。男女平等も進み、私も女だてらに、第二の彼のほか、焼けるように熱い彼、蕩(とろ)けるように甘く優しい彼、すっきりと清々しい彼、等々、相手を変えてつきあってみた。

 

 もちろん最初の彼は見捨てた訳ではなく、時々は相手もしていた。こんな状態が四十代の中頃まで、何となく続いていたが、ある時、最初の彼が、思いがけなく引き締まって、端麗な姿に変わっているのに気がついた。「これはなに?」と見直し始める。そして、付きあうほどに彼の良さに、のめり込んでゆき、今では「死ぬまでの道連れ」は、彼以外にないと思い込んでいるほどだ。

 

 さて、わが道連れの彼とは、実は男のことではない。酒、それも日本酒のことである。

 いま一番惚れている最初の彼とは、辛口吟醸酒であり、茶褐色の彼はビール、そのほかは洋酒類で、アブサン、ジン、ウイスキー、カクテル各種のことである。

 

 最近は、茶褐色の彼と、口切りの挨拶ていどに付きあうだけで、ほかの連中とは、いっさいの縁を切って、道連れただ一筋の日々を過している。

 

 

篠田 淑子

 

鮎の一夜干し

 

 「私の夫は漁師です」と言っても信じられるほど、夫の顔は潮焼けしている。

 この春、巨大な黒鯛釣りにはまってしまった夫は、もう夢中。まるで新しいゲームを買ってもらった小学生のように、興奮と期待感で心は満ち満ちている。きちんと背広に身を固めたサラリーマン時代の彼と、その風貌、生き方が全く違い、まるで新しい男と、新しい生活をしているみたいな錯覚に陥る。

 

 昨年、一昨年と九月の転がし釣りの解禁時には、二ヶ月弱それに没頭した。

 天然鮎の塩焼きも、贅沢なことだが、毎度毎度では有り難味がなくなる。というわけで、去年は一夜干しに挑戦した。

 鮎を水洗いして、腹開きし、腹を上にして、頭の付け根に包丁をいれ、頭も左右に開く。薄い塩水で骨のあたりについている血や汚れをきれいに洗い落す。

 あとは、約10パーセントの塩水に30分〜40分漬け、軽く水気をふき取り風通しのよい所で約1〜2時間干して完成。

 夫はたくさんの鮎が載るように、網状のお盆のようなものを作りベランダにぶら下げた。

 

 できたてを、さっとあぶる。くれぐれも、焼きすぎないように。

 鮎はあくまで鮎であり、その味は上品で、微かに苔の香りを残していた。

 川魚は苦手という人にも、これはぜったいイケルと、夫の自慢がまた一つ増えた。

 一枚一枚、大事にラップに包み、急速冷凍。旧友、悪友からの呼び出しの際は、いそいそとそれを取り出し、お土産持参のおでかけだった。

 

 この歳で初めて食べた鮎の一夜干しは、年輪を重ねた中高年の男に似て、どこか繊細で味わい深い。

 きんと冷えた地酒の減り具合が、ことのほか速かった。

 

柏餅

 

 五月に入ると、御茶屋の前にはためく新茶の幟についつい吸い寄せられ、新茶を少量買い求め、お茶受けに柏餅を買うのが随分前からの私の行事のひとつだった。それは、留守番の母へのお土産だった。

 

 母は四十四歳で末娘の私を産み、私の家族との同居で穏やかな老後を送り、幸せな一生を終えた。母は私との語らいの中から若い息吹を感じ、フレッシュな感覚を持ち続けていたように思う。決して老いた雰囲気のない人だった。

 

 ややぬるめにいれた新茶は香りがよく甘い。そこに、しんこのもちもちっとした感触と、甘味をおさえたこしあんのバランスがよく、ひとつでは足らず、あと半分ずつと分け合って食べた。

 『私の若い頃はこんなものみっつくらい平気で食べたのに、あんたは少食だね。』といつも言っていた。甘いものはダイエットに大敵と言っても、明治の女には通用しなかった。

 

 久しぶりに和菓子屋を覗いてみると、この時期、あやめの紫、新緑のみどり、藤の花のふじいろ、三色ダンゴのピンクと、ショーケースの中は実にカラフルである。その中で柏餅は深緑の大きな柏の葉にくるまれた昔のままの姿で、実に素朴である。

 何だか無骨ささえ感じる。柏の木は高さ八メートルにも達するというから立派な男の子に育てと端午の節句に飾ったのだろう。しかし、私はその形から、いかにも中味で勝負だぞと威張っていた、むかしの男の姿に似ていると思った。

 

 母がだんだんと感情を無くし、言葉も発しないという呆け症状を表しだしたのは九十の声を聞いた頃だった。

 五十年近く身近にいた私にとっては身を切られるほどの辛さだつた。それでも、私は季節ごとにお菓子や旬の果物を買ってきた。無表情で食べる姿に胸が詰まった。新しいものに目を輝かせた動きのある表情を思い出し、老いるということの残酷さに怯えた。

 

 だんだんと咀嚼(そしゃく)する力がなくなり、柏餅のしんこの部分はいつまでも口に残るようになっていた。それでも懲りずに私は餡だけをスプーンで口に入れ、新茶で口をしめらせてやった。゛そのとき、ふっと正気が戻ったか、母がこぼれるような笑顔を見せた。一人きりで介護をしていた私と母が、久しぶりに心が通じた一瞬の出来事だった。私はベッドの傍らで母に「おいしいね。」と語りかけながら、涙の味のする柏餅をパクパク食べた。

 

 庭の新緑が眩しかった。

 

 

渡辺 節子

琵琶湖の小鮒

 

 結婚した年の冬を滋賀県の草津で迎えた。夫が道路工事の現場で働くためである。私たち夫婦は農家の納屋を借りて住んだ。町から離れていて買い物が不便なところだった。

 ある日、吹雪いてバスが運休した。そこへ琵琶湖で獲れたばかりの小鮒を老人が自転車で売りにきた。見ると、元気よく跳ねている。甘露煮にでも料理するつもりで私はそれを多めに買った。

 

 ひとまずブリキの洗い桶に水を張り、鮒を放つと、いっせいに背を立てて泳ぎだした。桶が狭いような気がしてきて、たらいにも鮒を分けてみた。すると、泳ぎの動きが大きくなり、中には走るようにして水しぶきを飛ばしていくのもいる。眺めているうちに、すっかり食べる気は失せてしまい、結局みんな川に流してやった。

 

 そのあと、シチューに水を足して温め直しながら、小鮒たちのことを思った。無事に琵琶湖へたどりつけただろうか、いや、ドジなのがいて、また人間に捕まっていやしないかと。

 三十五年も前のとびきり寒い冬のことである。

(サッポロビール ハガキエッセー『私の冬物語』優秀賞受賞作品)

 

占星術

 

 趣味は「テニスと絵を描くこと」という看板を降ろして、もう久しい。一日のうちで本を読む時間は多いが、他人様に読書が趣味だとは、なんだか気恥ずかしくて言えない。まして文章を書くことなどは、ただいま少々修業中とはいえ、キザっぽくてとても言えない。

 

 ただ、趣味かどうか分からないが、一時凝っていて、まだ捨てきらずにいるものがある。それは生年月日時の四つの柱から占う中国古来の占星術で、「四柱推命(しちゅうすいめい)」というものである。

 十年も前になろうか。私はこれに夢中になって、やたら友人、知人の運勢を占っては得意になっていた。そんなある日、見知らぬ老婦人が訪ねてこられ、息子の見合い相手の娘さんとの相性を是非みてほしいといわれた。驚いたのは私の方で、どんなに断っても玄関から動こうとしない。そこで意を決して、私は調べてみることにした。相性は悪くなかったと思うが、占いではすごく気性のきつい娘さんだと出たのを憶えている。私はそれを、しつかりして頭のよい方だと、プロのように上手く伝えた。それで気をよくしたのかどうかは知らないが、老婦人が帰り際に、チリ紙に五百円札を一枚包みかけているのを見たときは、二度びっくりした。自分に白い着物を着せて、もったいぶって金五百円也を受け取っている図を想像して、ぞっとしたものである。そして、その縁談がまとまって、その後、もめていないかと気にかかっている。

 

 それでもう懲りたはずなのに、四柱推命で私自身を占うと、“文昌貴人(ぶんしょうきじん)”と“天乙貴人(てんおつきじん)”という星がでる。これは二つとも文章に秀でる星で、作家の大部分の方は必ず一つはもっているといわれている星だそうだが、その星が私には二つもある。この占いが好きなのは、そんな点にあるのかもしれない。

 また“感池(かんち)”という色情のあやまちを暗示する星もでる。凶星である。が、よく考えてみると、色気のない私にはまずあり得ないことで、その方の心配はあるまい。それでも、ひょっとしたら・・・・・・、と思ってみるのも楽しい。

 

 そんなわけで、今ではときおり、こっそりと一人で占っている。

 

 

城 三男

さらば母国よ、死こそ我が道と決意

 

 太平洋戦争の敗色が濃くなった昭和二十年二月二十三月の払暁、私たちは南の前線に向け軍用船で佐世保の軍港を発った。朝靄は晴れることなく春雨に変わり、視界がきかない。港を出ると敵の潜水艦の攻撃を警戒しながら、海岸線沿いに北に向かった。この天気や回り道の航路から、多難な航海が予想された。

 青い海に雨雲がたれ、鉛を敷いたように凪いでいた。陸地の断崖や松の緑が映える様子に心が引かれ、「これが母国の見納めだよ」とつぶやいた。なぜか感傷的になり、過ぎし日々が蘇ってきた。

 

 物心ついた頃から戦争で、これを讃える教えで国のために命を捧げるのが男の本懐とされてきた。そんな当時の若者の私はまだ弱冠前の十八歳、海軍に入って一年と少しである。基礎教育の後、厳しい特別攻撃隊の実戦訓練を終え、戦況逆転の最後の切り札として期待をかけられ前線に向かうのである。

 生還が望めない特攻隊員といっても特別の気負いや覚悟があったわけでない。この戦争を生き抜けないと知った時、一度だけの人生を最高に終わりたいと願っただけである。

 

 急造の臨時駅に降りた。しばし歩いてベニヤの掘っ立て小屋の兵舎に着くと、そこが、最後の実戦訓練をする所であった。新しく開発されたという新兵器は一人乗りのベニヤのボートに自動車エンジンを搭載し、爆薬を装備して高速で敵の艦船に体当たり、損害を与えるというお粗末な物で、それに搭乗するのが成人前の私たちであった。日本の能力や技術の現実がこれかと思うと寂しく不安で悲しくなった。

 

 私のこの不安を救い安堵させたのは、鬼教官の異名がある学生出身の織田博文将校の言葉であった。「この戦争は勝てないよ、日露戦争のように負ける戦を面目よく終わらせることだ。我々はそのために・・・・」と率直に話した。

 私はこれまで聞いた忠君愛国、勇猛果敢、滅私奉公、尽忠報国、八紘一宇など空虚な四字言葉にない真実さを感じた。これなら、かえって納得して訓練に励めると思った。

 

 一人に一艇が任されるから海の戦士としての総べての知識と技術を習得する必要があった。例えば航海術から操舵、信号、通信、動力機関から爆薬、機関銃やロケット発射などである。連日連夜の苛酷で厳しい二カ月の訓練が終わると、あの鬼教官が私たちの隊長として第三十七震洋特別攻撃隊を編成して前線に向かうことになった。

 同年輩の若女将がいた下宿も未練なく出てきた。最後の休暇も大変な降雪で実家に帰れなくても姉の婚家で一夜を過ごし、駆けつけた母と一時であったが思い残すことなく別れてきた。そして、思い出の故郷の山や川にも別れを告げてきた。病気の父は、「出た船は目的の港に着くものだ」と手紙で励ましを寄越したから一層気分が安らいだ。

 

 そのような思い出に耽っていると、私たちの隊歌になった隊長の愛唱歌、「テルテル坊主」の歌が聞こえてきた。私たちは戦勝も凱旋も味わえない「十死零生」の特攻隊員である。だから最初で最後の出撃をする時まで、平穏な航海を続けられるよう祈る気持ちが特に強く、それをこの歌に託している。

 

 そんな私たちが今更未練がましく「母国の見納めなど」と可笑しくなった。泰然とせよと別の自分が囁いている。では「さらば母国よ、いつまでも美しく長閑であれ」「子供たちよ、明日のために健やかで」と祈った。母国は遠のいてゆき、春雨は晴れてきた。

 

 航海中に空襲を受け戦死者など被害がでたが、基地の南中国アモイの海軍特別根拠地隊にたどり着けた。しかし、そこで出撃待機中に終戦となった。助かったという実感はなく、死より辛い困難を乗り越えるのだと自分に言い聞かせた。捕虜生活を経て翌年二月復員した。

(公募『孫たちへの証言』入選作品)

 

以上

幸子のホームページに戻る