くらしさまざま
〔3DCG 宮地徹〕
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「今日も起きれたね」
「今日も起きれたね」
「一日一日だ、精いっぱい生きよう」老人二人の朝の挨拶である。
連れ合いは三年前脳梗塞を患い、歩くテンポはソロリで、言葉がときにもつれる。
それでも23年前、インターネットに夫婦で開いたホーム・ぺージや、たくさんの読書量
は変わらない。
自分も予想もしない乳がんで手術し、3年余りが過ぎた。85歳の老夫婦である。
「明日、何が起きるかわからない」
このことばは先月末発行の最新本『寂聴九十七歳の遺言』にしっかり載っていた。
「毎朝目覚めると、あっ生きてた」などと思います。「今日も書ける」と思って元気になるのです。更に『すべてのものは移り変わる』と釈迦の教えの根本を書き、
『明日のことはわからない』とあった。
瀬戸内寂聴は先日亡くなった。残念である。この本は、評判でよく売れているらしい。
寂聴はこども時代いつも母から「お前は器量が悪いから、いつもニコニコしていなさい」といわれていたと。
母のいう通りにしていたら いつもニコニコして元気でいいねと言われた。
97歳でもいい笑顔が素敵で羨ましい。
著者は88歳で東日本大震災、原発事件に会い、社会的関心も深い
最近優れた人生の先輩たちが次々亡くなられる。
アフガニスタンで医者として働き、用水路建設に力を注いだ中村哲氏が殺されて、もう二年が過ぎた。少し前半藤一利氏も…
凡夫ながら、人生の先輩たちの人間として立派な生活を見習い、少しでも人社会のお役に立てたら…。
残り少ない日々なれど。 2021・12・26
85歳の誕生日がきた。
散歩で歩くこの田園都市、みどりのジュータンを敷き詰めたような稲田が、いつの間にか一面黄色に変わり、頭をたれている。
白、赤、ピンクのやさしい花たち、コスモスも一面に広い畑を覆う。その美しさ。
同年代の友たちと話すと必ず出ることば
「まだ自分の足で歩ける。これは当たり前ではない」。
詩人谷川俊太郎氏がこんな詩を書いている。
「歩く」谷川俊太郎
歩いている
自分の二本の脚で歩いている。
いつか歩けなくなるとしても
いまは歩ける幸せ……
素直さがいいと思う。
この詩は作者が自薦として10年近く前に出版された詩集にある。
びっくりした詩もある
「ベートーベン」
ちびだった
金はなかった
かっこわるかった
つんぼになった
女にふられた
かっこわるかった
遺書を書いた
死ななかった
かっこわるかった
さんざんだった
ひどいもんだった
なんともかっこわるい運命だった
かっこよすぎるカラヤン
誰もが認める天才音楽家を、ここまで書くのは勇気が要る。ドキドキした。
どんな詩でも、文章でもこのように率直さがないと、人の胸を打たないのだろう。
人の世は、いまコロナ禍と経済破綻で四苦八苦。若い人が希望をもって生きられる世の中とは…。
戦争はだめ! 平和な世の中をみんなで創りたい。真実を表現し合いたい。
2021.10.26
半年で50万円だまし盗られた!! 詐欺にあった衝撃
60歳過ぎまで 共働きし、二人の子どもを育てた。
仕事を辞めて以後、夫婦でインターネットにホームページを開いた。
あれから20余年間、庶民の目線で政治や世の中のことなどをホームページに載せ続けた。
ノーカーのわが家は、買い物を自転車か歩きで、自分が運動を兼ねて楽しんでいる。
最近はネット通販でも重い物など注文する。
連れ合いはネット通販に慣れ慣れで、支払は特定の銀行の預金から支払う。
ネット社会で便利で楽になったものだ。日頃からそう思っていた。
先日、JCBという会社から電話があった。
「ネット銀行の不審な点がないか確認のお電話です」
「いま連れ合いはいません」と断る。すると「ではお便りで確認を…」と電話は切れた。
数日後、熱心な社員の電話がかかった。
届いた書類を見ながら、銀行の通帳を一行一行確認している夫。
電話は延々と続いた。そして分かった。
この半年間で、身に覚えのないネット通販の注文が何件もあることが。
金額は15万円くらいが3件。50万円にもなる。
通帳を確認した連れ合いは「身に覚えのない金額だ。ネット通販でこんな不正があるなんて考えもしなかった」
乏しい年金生活の老夫婦、84歳は考える。
ネット暮らしの国は、犯罪国家くらしなのだ。
2021・10・2
道路を挟んで、家の前にゴミ置き場がある。
今日は秋のお彼岸の休日、
でもゴミは収集車が集めに来てくれるので朝早くからみなさんゴミ出し。
出す人は男性が多い。わが家もゴミ出しは連れ合いの仕事。
たまたま、昨日シルバーセンターに申し込んであった庭の草とりをして貰った。
連れ合いが体調悪く「脳梗塞」で、いつもしている庭の草取りはできなかったから。
取った草は、大きなビニニ−ル袋にいっぱいに詰められスロープに並べられた。大きな満杯のゴミ袋が数えたら30くらい並んだ。
珍しくいつもゴミ出しノータッチの自分が、どれくらい重いか、試しに持ってみた。
意外に重かった。ゆっくり運べばいいわと、ひと袋運んだ。
するとご近所の方が、犬を連れてきて「なんなら、手伝いますよ」と声かけしてくれた。
「いいですよ」と断って、またひとつ大きなゴミ袋を運んだ。
「取った草といっても、こんなにあったのね」「手伝いますよ」
そんなことばをかけながら、2袋ずつ運んでくださった。と、別の女性も「運びましょう」
とせっせと運んで貰えた。「運動になりますよ」と言う人もいた。
みんな若い方ばかりだった。
ありがとうございます。助かります。何度もお礼を言って頭を下げた。
清々しい気持ちだった。ご近所の方たちのこの助け合いのお気持ち。嬉しかった。
感謝しながら考えた。ふだん特に親しいといえる方たちではなかった。
自分もこれから人さまに何か助けになることに注意しよう。
人は助け合って、この世で生きているのだ。
そして、「先日自転車に乗っておられる姿見て、まだまだお若いなぁと感心しました」
そんな声も戴いた。40代50代の方からみたら、若いつもりのわれら夫婦は84歳の年寄なり。
そのときまで、この年寄もがんばるぞ。清々しい秋のお彼岸の朝だった。
2021・9・23
わたしはドクダミ係りです
空襲が激しくなり、国民学校二年で名古屋の学校から田舎の親戚に疎開してきた。
或るとき、近所の人たちが来て「ドクダンベ ドクダンベ」と大騒ぎ
なんでも自分と同じ歳くらいの男の子が倒れたらしい。
そのうちに家の敷地の裏に、ドクダミ草を見つけ「あった あった」と喜んだ。
取ったドクダミ草を絞り出した薬草の汁を男の子に呑ませたらしい。
ろくに薬もない時代、ドクダミ草は貴重な薬草だった。
男の子は元気を取り戻したようだ。
ドクダミ草は勢いよく成長し、アッと言う間に広がる。少し嫌われ者でもある。
わが家はこの薬草を干し、入浴剤に。市販の入浴剤はやや人工的匂いがする。
この薬草の自然な入浴剤に魅かれ、一日一回は薬草入浴剤の風呂で顔を洗う。
だから、ホントか嘘か知らないが「歳なのに、肌きれい」とお褒め戴くこともある。
ドクダミ草の勢いは強いので、庭の砂地と区別したラインが乱れないように
毎日少しずつ草取りだ。
貴重な薬草よ、もっと伸びてもいいよ。今年は白い花をいっぱいつけてゲンキゲンキ。
待っている人はここよ。
太陽が照るいい日は、かごに入れてドクダミ干し。こうして貴重な入浴剤を安定して手に入れる。
半世紀も前に、近所の人たちが大騒ぎして男の子を助けたドクダミ草。
いま われはドクダミ係りなり。
2021・6・9
春の香りのつくし取り、ノーカーが二本の足で歩くなんて
つくしがズクズク生えている。何も作物作っていない畑や道ばたに。
いまでは、つくし取りなんて流行らない。
白や紫、黄色の草花が咲き乱れる。世の中 平和だなぁ、勿体ないなぁ。
ハカマとるのに時間がかかるし…。10本だけ取って季節の香りと味を噛みしめよう。
夕食のサラダの上に、急いでハカマ取って茹でたつくしが載った。
翌日、道で逢った知人が「つくし? わぁ欲しい、取りたい」と
近くの畑にいっぱいのつくしをどんどん取り、袋いっぱいにして持ち帰った。
ひとり暮らしなのに…「卵と一緒に食べたわ」と言っていた。
さぁ買い物だ。近くに3つあるスーパーのどこへ行こうか?
重い物があれば自転車、そうでなければ歩きだ。歩いて買い物もいいよ。
いい運動になるし、食事が美味しくなる。急ぐときだけタクシー乗れば…
そんなのいまでは流行らない。
買い物は車が当たり前、みんなスイスイと自家用車、
道での人の姿なし…一軒で一台二台と車ありがふつう、三台の家もある。マンション前にも車びっしり並んでいる。
地球温暖化で、極端な気候変動が続く。
コロナ禍だけでなく、天災続きで苦労している避難所生活の人多し。
二酸化炭素(CO2)排出量は毎年増え続け、世界平均気温が今世紀中に3・2度上がるという
この地球という星で、生きられなくなりつつある。
二酸化炭素ばらまきの車社会。とならねば…いまでは流行らない
経済格差 「裕福な資産家26人は貧困層38億人の総資産と同額の富を独占している」とある。3・5%の人が本気で立ち上がると、社会は大きく変わるそうだ。
(新書大賞第1位 『人新世 ひとしんせい の資本論 斉藤幸平』集英社)
難しい事がわかり易く書いてある。
環境危機を乗り切り『持続可能で公正な社会』をと。
それが「脱成長コミュニズム」だと。
2月27日の朝日新聞(いちから わかる欄)にも載っていた。
およそ20年政治に関わった84年の人生で、ひとつだけ分かったこと。それは唯一絶対の真理はあり得ない。願いは公正な社会。さぁ3・5%になりうるか…
2021・3・26
さぁ 今日から新しい年のスタートだ。
朝7時10分の電車に乗るために、6時に起きる。
新鮮な気持ちで1月4日の新年のスタート、まだ混んでいない私鉄電車に乗った。
遠い昔、若い現役時代だった頃の話。60年前を顧みれば女も子育てしながら働き続けた。
2021年仕事はじめ、私鉄の駅に行く人は、わずかしか姿を見ない。
駅まで歩いてみた。と、自分と同じ年頃と思われる少し腰の曲がった男性と女性が、駅トイレの掃除をされていた。仕事はじめである。
コロナ禍で、正月も親族に合わず我慢した人は多いはず。こどもたちもお歳玉手渡しでは貰っていないのではないか。
不安がいっぱい。感染者の数は増え続け日本の感染者は25万人以上、死者も4000人近くになっている人間社会。何か明るくない仕事はじめ、パッとしない新年である。
電車に乗れば全員マスクマスクで異常な風景が当たり前に続いている。
でも働きに行く現役世代は、何とか新しい年が 良くなるように願いながら職場に向かっているだろう。
気象予報士が異常気象について「雪は年々減っているのに、温暖化で海水の蒸発が進み、空気中の水蒸気が増えてドカ雪となる。
このまま何の対策もとらないと、日本の平均気温は20世紀末に比べて21世紀末には約4、5度上がる」と語っている。(朝日新聞2021・1・4)
コロナ禍の不安とそれに伴う経済的な不安、異常気象への不安などいろいろある新年。
それでも、明けまして おめでとうございます。
自分の持ち場で、少しでも世の中の役に立つ日を創りたいと願わずにいられない。
1月のスタート、仕事はじめ。
2021・1・7
歩いた道を振り返り ことばを想う
息子の保育園保母さんのメモ
1歳11か月のとおるくん、道路わきの小さなみぞを見て
『カワあるね。おかあちゃんと、めだかのがっこうみたよ』
『徹くんは赤ちゃんね』『ちがうよ あかちゃんとちがうよ』
『じゃぁ とおるくんはなに?』『ト オ ル クンよ!』
孫、4歳のことば
『しゅん君はじいちゃん、ばぁちゃんが4人もいて、いいね』
『違うよ。常滑にじいちゃん1人、ばぁちゃん1人。岩倉にじいちゃん1人、ばぁちゃん1人。みんな1人だよ』微笑ましい幼子たちとの、ことばのやりとりである。
幼くても人間は自己主張をする。そんな子たちも、いま50代で働く社会の中心メンバーである。
長年文章講座でお世話になった講師は、初級と研究科に分けて、4〜50人の人数の生徒が納得いくようにきめ細かく文章にして、指導を続けられた。
「人間にとって、自己実現、自己顕示は本能的欲求である」と言う講師は、「文章を書くのもある意味自己実現の手段である」
「若者たちの語彙の貧弱さについて『うそ!』『ほんと?』『かわいい』の三語でしか話せない。『三語族』という流行語を生んだが、片言でしかしゃべることが出来ない人間同士が大人になったところで、豊かな精神の交流など出来るはずはない」
この講座に人気があったのは、年二回、全員の文章を文集にしていた事や、多彩な人たちの参加者が多かったから。自分は定年退職後に参加したが、年齢的にも社会的にも先輩だった男性も多かった。
『天皇のために死ぬ。それのみを生き甲斐として、18歳で少年兵になった』この男性も言動に筋が通り、魅力ある仲間K氏だった。そして『なぜ生き残ってしまったのか』と苛立ったという時期もあったと聞く。
もう一人、大企業でエリートサラリーマンを終えた男性H氏と、長年学び合った。
『共働きは貧乏だからするのだ…』初めてその言葉を耳にしたときは驚き、抵抗を感じた。
仕事を続けながら、子育てしてきた自分。確かに貧乏だった。大変なことだった。
女が社会で働き続ける。そんな人が随分増えた。貧乏だけの問題ではない。
ひとりの人間として、女性も世の中で活躍し続ける意味はあると思う。
人の言葉、考えは多面的であっていいのだ。
講師のN氏も、仲間のK氏もH氏も、すでにあの世に旅立たれただろう。
みどりが美しかった稲穂、いまは背丈1メートル以上になり、黄緑の頭を垂れている。
2020・9・21
新型コロナウイルスの感染者がどんどん増え、東京の増え方は1日181人で100人を超している(4月9日)。そんな状態のなかで6割が感染源不明という。
それが人々に「いつ、どこで感染するかわからない」と、不安の気持ちにさせる。
専門家の「感染経路が不明なケースが多く、蔓延期に近づいている」との発言もある。
「コロナ疎開」とは、そんな不安な都会生活から地域へ逃げることを考える。そういう人も増えているとか。つまり「県外移動」である。
「疎開」と言えば、さきの戦争で米国の空襲が激しくなり、「早く疎開せよ、疎開せよ」と追い詰められ、国民学校2年生のとき、親と離れて親戚に縁故疎開した。
連れ合いは同学年であるが、田舎に親類や知り合いもなく「それなら集団疎開だ」と、子どもだけで集団で疎開させられた。
当時の寂しさや不安は深く心に残っており、みんな寝小便してともに生活する先生たちは、毎日布団干しに追われた。
これはやってはいけない戦争の悲惨さのひとつである。疎開ということばにドキッとした。
いま現在、世界中で150万人が感染し、8万8000人以上が死んでいる。
コロナウイルス戦争に振り回されている都会人は、地方へ疎開したい。
気持ちは分かるけれど、そのことがこの問題解決になるのか?
それはウイルスを地方にまき散らすことになる。
医療従事者などの崩壊も指摘されるいま、みんなで出来ることは何か。
政府は突然学校の休校宣言をしたり、東京、大阪など急速に感染者が増えている全国7県に「緊急事態宣言」を発令した。
さくらまつりは中止になったが、五条川に沿って2000本も3000本も静かに美しく咲くさくらが勿体ない。土の道をひとり歩きながらそう思った。
「コロナ疎開」ということばまで聞かれるようになって…確かに、「コロナ戦争」である。
学校も観光施設も、個人企業や商店、落ち込んでいく経済をどう考えたらいいのだろうか…。世界の人類全体の問題として考え、話し合い、助け合って行きたい。
2020・4・11
七年前、連れ合いが背丈50センチくらいの苗を取り寄せた満月ロウバイ。
3メートル近い高さに育った2本の木に、黄色のつぼみがつき始めた。
葉が散り1つずつ黄色の花が咲き出す。
花が少ないこの時期、やさしい黄色に心安らぐ。
1年半前、乳がん宣告をされ気持ちが揺らいでいた。
近所の0さんが、何度も励ましのメモをポストに入れてくれた。その優しさは少し前、近くのアパートの両親を介護して亡くされた体験があるからだろうと、勝手に判断している。彼女にロウバイを一枝持って行こう。
若い頃連れ合いを亡くされたTさんにも、よく絵画展のチケットを戴くからロウバイをお渡ししたい。
まだあった。絵描きとピアノ弾きの芸術家夫婦。教職を退職されてから、いつも絵画展のお誘いを受け、愉しませて貰っている。
持っていったら「わぁー ロウバイ」と喜んで貰えた。
忘れていけないのは、わが娘と同級生のお母さん。2年前に連れ合いをなくされ、大きな家にひとり暮らしである。その寂しさはどれほどだろう。
小学校の教師を退職された保育園時代のママ友は、働き世代の娘がガン手術された。
世の中は、苦しいときに苦しい試練にさらされる。
まだまだロウバイ配りはある。
その方は最近連れ合いを亡くされ障碍者施設で働いておられる。70歳過ぎなのに。それを知ったのは、自分たち夫婦が市から結婚50年記念で表彰されたときである。
頂いたお祝金を、ささやかでもカンパしようと、施設に行ってそこで働いていることを知った。現役時代の保育園通いに、保母さんだった顔見知りであった。
人の世は、どこにご縁があるかわからないなぁ。
かくして、今年も細い枝に1センチ位のやさしい黄色の花が明るく輝く。そのロウバイ配りが出来た。この幸せ、少しだけみなさんに喜んで戴けたかな。
残り時間少ない80代の老夫婦は、この喜びを忘れない。
2020・2・4
よくも経済成長のおとぎ話ができるわね」
今週末にまた強烈台風が日本に近づく。
海温が上昇し、次々うまれる台風。それが極端な雨、強風で人間社会を襲う。
魚がとれない。異常気象が、様々に人間社会を脅かしている。
世界中で災害が多発し、海の中で海草が枯れるという国あり。山林火災で林が燃え尽きる国もある。
国連本部(ニューヨーク)で世界70か国以上の首脳が集まり、各国が地球温暖化対策を出し合った。
「生態系が破壊され、絶滅の始まりに直面しているのに、あなたたちはお金や経済成長という信じられない話ばかりだ」
これは、この会議で発言したスェーデンの16歳の少女のことば。強烈だった。
『温暖化で米フロリダ沖の海水温が上昇し、「嵐の燃料」になっている』と中日新聞が書く。
朝日新聞は世界の科学者で作る組織(IPCC)の研究を載せている。
『世界の平均海面は、20世紀の初頭から現在までに16センチほど上昇した。近年、かつての2・5倍ものペースに加速し、毎年3・6ミリずつ上がっている。
南極やグリーンランドなどの氷がとける量が増え、水温の上昇にともなって海水が膨張していることが背景にある』
『気温上昇を2度未満に抑えたとしても、今世紀末の海面上昇は最大59センチになる』
82歳の年寄りも、悪い所が次々出て来たように、この地球も終わりの始まりなのか。
世界の出来事だけでなく、この日本の異常気象も強烈な台風の雨、風で住む所がふきとばされている。次々発生する台風や大雨に、どう生きていったらいいのだろう。
どの家も車持ち2台3台も珍しくない。歩かないですぐ車、便利に慣れっこになっている。
二酸化炭素の排出は凄い増え方だろうな。
わが家はノーカー。なるべく歩くようにしている。でも、通販でよく買い物するから、大きいことは言えない。
英紙ガーディアン紙の書くように『地球温暖化』⇒『地球加熱化』である。
地球温暖化じゃなくて地球熱帯化だ。
何とか出来ることはないか、みんなが考え合わなければ。そんな時代になった。
2019・10・10
この夏は異常な暑さの中、姉妹たちと先祖の永代供養のため集まった。その帰りに楽しみにしている食事会、夏休みでもあり早めに予約した。そして確認のためその食事所へ出掛け、食事内容と出席人数の確認をした。これが普通と考える。
さらにもう一件、この真夏の暑さの中、現役で忙しい娘が正月の集まりを早々と予約してくれた。そうでないと10人の泊りは中々とれないからと。
ところが、最近は無断キャンセルで、例えばサークルの飲み会で何十人と予約しても、誰も来ない、連絡もなかったという。
また四人客の予約が時間になっても来店なし。電話すると「もうすぐ着く」との返事、席を空けて待っていたが、閉店時間になっても現れなかったという。
こんな事態に、飲食店の損害は、年2000億円という。(2019・9・3中日新聞)
同紙は、ネットで簡単に予約できる手軽さが原因かとも書く。
飲食店では、材料の仕入れや他の客の予約待ちなど、精神的ダメージが大き過ぎる。
予約したら予定通りその飲食店へ行く。当たり前の事。事情が出来てその飲食店を使わないなら、断るのは常識だ。
飲食店は材料の仕入れから席の確保まで、様々な配慮をして客を待つのだから…。
最近、このように人の立場も考える。それが無くなりつつあるのではないか?
目を覆いたくなる事件が多発している。簡単に刃物で人を殺す。交際相手の幼い子を殺す。親さえ気に入らなければ殺す。いじめを苦にして自殺する子も多い。
人としての道義心と言うか、倫理観がなくなった? と考えるべきだろうか。
こどもの頃、戦争で名古屋から疎開した田舎、お世話かけたおばあちゃんにいつも言われた。「人の悪口は言うモンダないよ」と。
食べる物も着る物も恵まれたいまの若い人たち、どの家にも車が待っている便利な生活になれた社会。人間らしさをみんなで考え直すときなのかも知れない。
散歩で田舎道を歩くと、生まれたての柔らかそうな緑の稲が目を愉しませてくれた。それなのに、背丈が1メートル以上に伸びた稲が、しっかり米の実を育てているではないか。農家の人たちが丹精込めた米つくり。実りの秋もそう遠くないのだろう。
実るほど こうべ(頭)を垂れる 稲穂かな
子どもの頃よく聞いたことばを思い返す。
こうべを垂れる、実りあるいい人に少しでも近づきたい。そう願う老人ここにあり。
(2019・9・7)
選挙で何が決まるの? あの手術から1年が過ぎて
人間世界は、全く思いもかけない事が起きる。
1年前、突然乳がん宣告され、衝撃を受け入れられないまま「命のためには手術」となった。何人もいるがん経験者の友の励ましに力を貰い、連れ合いや二人の子どもに負担をかけた。
7月10日の手術から丁度1年の月日が流れた。
月1回最寄りの医者の診察と、ホルモン剤1日1錠を飲んでいる。1年に1回執刀医の診察とマンモグラフィなどの検査を受ける。
医学が発達したお陰で、二人に一人がなるというがん患者も82歳で何とか生かされて、ふつう生活をさせて貰っている。
その現実には感謝しなければと思う。
さて、いよいよ参議院選挙が公示された。あと10日余りで選挙であるが、「政治の話なんて真っ平」そんな言葉が返ってきそうな近頃である。
ほんと、テレビで知る問題発言の議員続出。特に「北方領土問題は、戦争でないと解決しないのでは?」なんて驚くような発言をした議員は警告されても、「私は議員を辞めない」という。
「年金だけでは生きていけない。2000万円ほどないと生きられない」という見解に、大多数の庶民は不安を抱いた。年金はあてにならない、人生100年時代をどう生きたらいいか分からない。そう考えた人は多い格差社会でもある。
それなのに、長期に政権の座に着く首相が次は改憲と乗り出し、芸能界にまで顔出している。このことに不安を抱く研究者や、真面目な良識派も多いと思う。
そうは言っても若い人たちの安倍人気は下がっていない。
何故なの? 前の大戦で日本の民は原爆投下など、立ち直れないほどの打撃を受けた。
長年平和が続き憲法改憲で自衛隊が他国へ戦いに出る。そんなとき若者たちこそ対象になる。
ひとつの意見として、かつて政治は新聞やテレビなどが情報源だった。それがSNSなどの普及でブログ、ツイッター情報は短くなり、長くて複雑な政治など深く考えない。
「いいね」と数で評価される。政権に異を唱えるとネット上で炎上するほど攻撃する現象も広がった。
投票日近くなり、この国は真剣に、まともに庶民のことを考えることになるのだろうか。
(2019・7・9)
『終わった』ひとたちがくるみ割る
半年ぶりに、中学時代からお世話になった先生宅を訪れた。
同居されていた連れ合いも母親も亡くし、子なしのひとり暮らしの93歳。
毎日入れ替わり立ち代わり来宅する何人ものヘルパーさん、それと訪問看護師さん頼りの生活が続く。
長らく入浴なしはお気の毒。ヘルパーさんに体を拭いて貰い、頭も洗って貰うとか。
洗髪も液体なしでできる洗剤が開発されたという。
ここ1ヵ月ほど体調をこわし、いつもの買い物や昼間の食事づくりのほかに、寝室のある二階から階段が降りられず、夕食まで作って貰ったとか。
それはいいけれど、本人の介護支払が1割負担で10万円だったと、驚きの告白をされた。
もしも介護代全額本人もちなら…100万円となる。これでは財力なくて生きられない。そうこうしているうちに、二階から降りることだけは出来るようになったという。
『きまりしこと 理解できずに くるみ割る 』
この句は93歳の先生の作で、通信教育で指導うけている先生に褒められた句という。
施設では、このくるみを割る作業で手先を使い、認知症防止に役立たせているそうだ。
雑談の中で、先生が突然「沖縄の基地問題では腹が立つ。選挙で意志表示しても政府は無視なんて…」しっかり世の中をみている姿勢に驚いたがとても嬉しかった。
「ヘルパーさんに『教え子って何歳?』と訊かれたので、82歳よ」に先生と二人で大笑い。93歳はそれが嬉しいと。…そして「80過ぎてもピアノも弾くのよ」なんて言ってしまったとか…。
連休明けに満員のクリーニング店に並んでいたら、しっかりした口調で話す人がいた。「歳は90、ここまで車運転してきたわ」にびっくりした。
最近高齢者の運転事故が多発しているのに、大丈夫なのかなと思った。何より背筋もしゃんと伸び、表情も若々しい。
「とても90歳には見えない。80代に見えるわ。実は私は82歳なの」するとその人は「えっ、80代に見えない。背もピンとしているし70代よ」と、お返しに褒められた。
『人生100歳時代』と言われて久しい。が、いままで80歳、90歳と言えば文字通りジイサン、バァサンだった。それがみんなまだまだ元気で、日々の生活を楽しんでいる人も多い。それでも歳相応に、あちこち人間機械がガタがきて医学の助けで元気を保っている。そんな人も多い。
買い物帰りに同年配の1人に逢った。夫を亡くし子たちは自立してひとり暮らし。その人は最近目が見にくくなり、何回も手術していると言う。
目が見にくいと、転べば骨折になり危ない。歩くのも慎重に、慎重に…。そうなる。
「目の不調、そして貴女の乳がん手術ね。率直にいいお話ができて良かった」と喜ばれた。
長寿社会が「1日1日」いい日でありますように。
2019・5・11
長年の習慣で、1週間に1度の美容で髪のカット、首、顔など剃刀で整える。
退職して一時美容室に通った時期もあった。しかし自分床屋で床屋道具の、そぎバサミと髪切りハサミを買って自分流の長さや形にしてみた。美容師の好みもあり、自分流も捨てたものでもないと分かった。以来後ろは合わせ鏡で処理し、「若く見える」だの「個性派」だのとおだてられ、20年以上我流美容室で通している82歳である。
今日、街を歩いて美容室の側を通ったらカット2000円 毛染め2000円と看板に書いてあった。市販のトリートメントで月1回くらい軽く染め、それで簡単な毛染めになっている。…カットと毛染めで4000円稼いでいる事になるのだな。
我流美容室は、子どもの頃戦争中の貧しさから、母親が兄妹の床屋は全てやってくれていた体験によると思う。兄はバリカンで丸刈り、女姉妹はみんな鋏でオカッパに。
自分の娘を育てるときも、母にならって娘の床屋を受け持った。
連れ合いも母親が4人の男の子と女の子1人、バリカンや鋏で床屋をやっていたと言う。
考えてみれば、これも貧しかった戦争中の乏しさや生活体験が活きたのかも知れない。
どんな事も体験してみないとほんとうには理解できないと思う。食べるも物着る物も、お金さえ出せば手に入る豊かな生活に慣れてしまった。
元号が後少しで変わる。令和が万葉集からと、人気がありもてはやされる。
退位される天皇皇后両陛下は、戦争体験で全滅した島などを誠実に廻られた。一目逢いたいと考えられない多数の人たちが宮城などを訪れた。熱狂する人たち、それらには納得する。しかし、少し違う観方も要るのではと思った。
それはもうひとつの万葉集で作者は大伴家持。いまでも口からすぐ出るほど教え込まれた。
2・26事件の年に生まれ、5歳に太平洋戦争、国民学校2年で田舎へ疎開させられた。戦争、戦争だった。
国民学校1年2年のときから、歌い続けた大君 天皇のための命と歌い続けさせられた忘れられない歌である。
海行かば水漬く屍 (うみゆかばみずくかばね)
山行かば草生す屍 (やまゆかばくさむすかばね)
大君の辺にこそ死なめ (おおきみのへにこそしなめ)
顧みはせじ (かえりみはせじ)
忠君愛国に利用された歌、それを想うと、もっともっとこの国の苦い戦争の歴史に頭のどこかを働かせる事が要るのではないか。
戦争の残酷さ無意味さを知る人が次々死んでいなくなる。
…あと2日で元号が変わる日に。
2019・4・28
寒い2月 輝くロウバイの黄色
7年ほど前、連れ合いがロウバイの苗を取り寄せて、玄関横に植えた。
そのロウバイが今年はとても元気。薄い黄色の花をいっぱい咲かせ花たちが、美しさを競っている。花がない季節だからとりわけ黄色が輝く。
木の高さは3メートルくらい。10センチ幅の木、伸びた枝は幅3センチほどで更にその先には細い枝がびっしり黄色で彩っている。
蕾は丸い5ミリ、花が開くと1センチから2センチくらいになる。
寒風で葉は吹き飛んでしまった。が、その花たちが枝に薄い黄色で地味な庭に美しく、おおらかに輝いている。
なんて美しい光景だ。道を通る人も心慰められていると思う。
中学時代の女先生は、ひとり暮らしの93歳、足が不自由で週5回ヘルパーさんに来て貰う。看護師も。施設に入る予定が取りやめになり、子なしのひとり暮らしは寂しかろう。
その日は長い間風呂に入れない先生が、体を拭いて貰っていた。先生宅へ運ばれたロウバイ君、訪れた知人に褒められた。
「黄色が素敵」「匂いがいい」「枝ぶりもとてもいい」知人や訪れた客は玄関に立ち止まってほめてくれた。
「花屋にロウバイは売っていないよ」そういう声も聞こえた。
始まりは家の人が「乳がんで手術しなきゃ」と衝撃をうけていたとき、近所の人が一番に可愛いワンちゃんの小物を持って励ましにきてくれた。嬉しかった。
お礼にと、小枝を持って行ったのだ。「わぁいい匂い、春の香りうれしいです」と喜んで貰った。
家の人はいい気になって、ご近所さんにぼくの枝を運ぶ。
夫婦で先生退職者は絵とピアノの達人で、いつも展覧会にお誘いしてくださる。
連れ合いを何十年も前に失いひとり暮らしの人からも、いつも美術展のチケツトを戴く。
つい2年前に心臓病の連れ合いが、手術するか迷っていた。「やるべし」と勧めたのに、夫は逝ってしまった。責任を感じるという友。
更に、連れ合いをあの世に送り出して、やっと1年が過ぎたという友…みんなひとりでがんばって、ぼくロウバイ君が訪れるといい匂い、色がいいなどと喜んでくれるのだ。
ロウバイ君 良かったね。この世で人はひとりでは生きられない。
5人も6人もの方々にシロッポイ黄色がいいとか、匂いがいいとか、褒められ喜んでもらった幸せ。まだまだ、人さまのお役に立つとはこの程度ではないと思うけれど…。
それにさ、家の人が20年余りやった学習塾にお子さんが通ってくれた親さんたちが殆どだもの。
ひとまず、ありがとう。ありがとう。
2019・2・22
昼12時近く、人の声なし。名古屋市郊外、誰もいない過疎地域のようなこの辺りである。
郵便局の用事で近くを歩く。仰ぐと空は雲ひとつない快晴、風もなくこの穏やかな日差しはどうだ。これで今年も終わる年末? 考えられない温かさ。地球温暖化で氷河も溶けているらしい。
でも、雪が降っている地域もある。北海道の友や、岐阜高山の友たちを想う。
雪や霜で寒かろうなぁ。
歩きながら眺める私鉄駅近くにずらりと並ぶおよそ300台の自転車たち、日が暮れて真っ暗になった頃、寒さの中を自転車で走って帰る人たちの苦労を想像する。かつての自分も真っ暗な中を走ったものだ。
人、人で賑やかな都心、クリスマスのイルミネーシヨンが見事に輝き別世界へ入り込む。
平和だなぁ。平和っていいなぁ。
平成という年号が30年で終わるという。それを30年でなく、50年さかのぼって考えてしまうのは、82歳という歳のせいなのだろう。古代インドでいわれていた家住期(25歳〜50歳)、 林住期(50歳〜75歳)にあたる時期である。
子どもながらに、戦争と敗戦の酷さ苦しさを体験した者は、経済も次第に回復し始め、若者たちは世の中の革新を求めた。世のため人のため そういう道こそ理想と、それぞれの持ち場でみんな頑張った気がする。
しかし、東欧革命、社会主義の崩壊など唯一絶対という理想はあり得ないと分かった。
朝のNHKドラマ『まんぷく』が視聴率一番の人気らしい。時々戦後の貧しさや、主人公が憲兵に虐待される場面がある。戦争体験者も少なくなっているから、忘れてはいけない貴重な事実をドラマにしているなと納得する。
政治の世界では、身勝手さに驚き嘆く気分だ。公文書偽造ひとつとっても (森友問題など)審議したのかしないのか、あいまいなままで、多数決で法案を通してしまう。
米国の軍備を無条件で買い取る政府。沖縄では庶民多数の反対意見を無視して12月14日、辺野古の青い海に土砂が投入された。
戦前のようなファシズムの気配を心配する研究者もいる。
さらにいまの世の中、道義心がなくなったと思う。すぐ人を切る、殺すというニュースが多過ぎる。さらに地震、台風、集中豪雨…の災害に苦しめられた。
わが身は今年、思いがけない乳がんが見つかり全摘手術をした。残り多くない日々、何が起きても不思議でないところまで来た。
みんなが平和で、自由な世の中を守り続けたい。そう願う年の瀬である。
(2018・12・23)
白い山茶花が、すっきりと爽やかに咲き始めた。ときは秋真っ盛り、空がやさしい青色で見守ってくれる。暑くもなくまだ寒さもない素敵な自然の陽気が嬉しい。
最近、外出して電車の中を見渡すと、みんなスマホ、スマホで会話もなし。しかも、スマホなしの人でも、明るい表情でなく暗い顔の人ばかりだなぁと思う。世の中暗いニュースが多く希望が持てないからなのか…。
『親の介護を2年、母には腹が立つ。ため息ついたり、怒鳴ったり。或るとき親の歯みがきを手伝って自分の顔を鏡でみたら、まさに鬼ババだった。こんな顔で話しかけられたら誰でも悲しくなる。これからは「口角上げて」笑顔になって世話しようと思った。』
新聞の投書欄に載った意見文を読み、ずばり正直な文章表現に感心した。
同時に人ごとではないとわが顔を思った。鏡を見ると口角上げればいい顔になる。それなのに無意識の表情では口角が上がっていない。なら、鬼ババになってしまう?
思い返せば40年前、連れ合いが理想を求めた政治活動で組織に異見を持った。安定した職業を捨て専従の政治活動家の道を選んだ。しかし組織は理想的に自由平等ではなかった。
あのとき、政治的にも経済的にもドン底に突き落とされた。長年働き続けた自分は、社会活動もしていた。だから必死で現実の試練に耐えながら、暗い顔で職場に出勤していたのだろう。
技術者のベテランから「あんな暗い顔した女は嫌いだ」と言われた。忘れるはずがない。
男ばかりの管理部門の中で僅かな女性社員は、どの部門でも目立った。
その後、世界で東欧革命ソ連邦崩壊と激変があった。私生活でも借金の積み重ねで抗議の裁判闘争をしたが、2年で打ち切った。生活できなかったから。
連れ合いが始めた学習塾がスタートから好評で生活は安定してきた。旅も山も復活し、外国へも旅が出来た。
亡き祖父はいい顔だった。羨ましい。「目尻を下げて、口角上げて」そのもので、毎朝、仏壇に手を合わせながら学んでいるつもりだ。
顔とか表情はその人の心の底まで表すのだろう。いまの内閣でただ一人女性が選ばれたが、美人かおしゃれか知らないが、政治資金の誤魔化しなど、人として信頼など出来ない顔というものがあることを、毎日学んでいる。
投稿した女性は親を介護していたが、鬼ババと自ら認め、口角上げて笑顔になろうと誓った。自分も鬼ババではなく、「目じりを下げて、口角上げて」笑顔で生きたい。
もち時間が残り少なくなってしまったもの。
2018・11・15
始まった 第三の人生が 「乳房全摘」手術
「もう部屋ですよ」遠いどこかで声がする。
苦しみ、もがく81歳の老人は管をいっぱいぶら下げている。
「酸素吸入器」「点滴」「胸の傷から出ている管」「尿管」…
「痛い、苦しい」真っ赤に鉄を燃やすような激しい炎と、静かな草地
アッ、この線の向こうはあの世、こっちはこの世だ。これが生と死の分かれ目なのだ。
苦しい、こんな思いをしてまでも5年6年と生きねばならないの?
ここまで生きてきたのに……。境界の向こうの死界でもいい。……。
息もつけないで呻く。
ウンウン唸りながら、声を出そうにも出ない。
でも、「乳房全摘」手術は終わった。後で訊くと午後2時から4時頃までらしい。
立ち合い人になってくれた連れ合いと長男は、執刀医が切り取った肉片を見せてくれたと言う。直径3センチほどの乳首を含む皮膚と、1センチ厚さで直径15センチほどの肉と、やや黒いガンのしこり19ミリを。
それらの手術で乳房がなくなった患者の胸の切り口は、15センチの傷口が残った。
連れ合いと長男は、苦しむ老人を見て帰るに帰れない。
看護師が「苦しそうだから、痛み止めの薬を入れましょう」と言ったそうだ。
5時頃になり、薬が効いたのか、うめき声もおさまり長男は京都へ帰った。
痛みもなくなり、息も穏やかになった81歳は、ようやく落ち着いた。
テレビで西日本の水害の映像を見た。「過酷です」と言う女性。みんな苦労しているなぁ。
広島、岡山など死者行方不明者は250人を超えそうとか(7月13日)
こんな時に自民党幹部たちは、首相も含めて宴会を開いたとか。庶民の苦労をなんと心得ているのか、一市民として怒りを覚える。
主治医から「80歳台の乳ガン手術もしたけれど、この80歳の筋肉は60代ですよ」
そう言って励まされた。そして5日後に退院出来た。退院して2日目の夕方、久しぶりに少し散歩した。
稲田のみどりが輝き、真っ赤な太陽が沈むときだった。生き返った気分。
前方から歩いてきた人が「こんにちわ、お元気そうですね」と挨拶してくれた。
自宅に帰りついた所で、数軒先から見つけた知人が駆けつけて、「エッ? 手術済んだんでしょ? エッ? もう散歩? 眼を疑うわ、すごい! 考えられない!・・・」と驚いてくれた。握手して別れたが。
81歳は思った。
第一の人生は、働き続けた現役時代。
第二の人生は、退職して、文章やビアノを弾く愉しみを味わえた時期。
そして、生き返った気分のこれからは、オマケの第三の人生だ。
もっと若い50代、60代で全摘手術をした友だち。「女じゃない」と悪口を言われた口惜しさを語り、HPを読んで「涙がにじんだ」友。それらの励ましで頑張れた。
「もう少し生きて、世の中にお返しせねば…笑顔を忘れない、いい顔で…」
2018・7・17
「悪性」の宣告 突然の激変も、受けて立たねばならない
年配の人はみな「いつ旅立ってもいい」と言いながら、明日その日が来るとは考えていないと思う。自分も「持ち時間は少ない」と、いつも実感していても「明日その日が来たら」までは考えていなかった。
指定された診察日に乳腺外科に行く。すると女医さんが自身はテンポ速くPCを打ちながら、別画面で細胞検診の結果を描いた画面を示す。
「17ミリ、小集塊状異型細胞 悪性」急いでメモした。専門用語は分からないが、「17ミリ」という字と、大きな字で書かれた「悪性」だけは分かった。
頭の中が宇宙をウロウロし出した。
女医さんは「家族に乳がんになった人はいますか?」「長女が乳がんの手術をしました。いまは名古屋の職場へ復帰し元気に働いています」「どこの病院で」「知多半島の…」
「そこなら仲間同士の医師だと思います…」
外科なので「切る手術は当然」という感じで話をする女医さん。何かの折りに「部分切除なら1年、全摘なら5年」という呟きに似た言葉が聞こえて、心穏やかではなかった。
話の途中で「81歳の自分は、切る、手術するはイヤ。自信がない」とは言ったけれど。
「帰りに『マンモグラフィー』の検査をして帰ってください。
次回から『超音波』検査を。その4日後に『乳腺エコー』で、一度話し合います。そして6月に『MRI』検査…など次々予定と注意点を聞かされ、混乱しそうだった。
苦労もしたけれど仕事を卒業してから20年、いまの生活が順調すぎる。と夫婦で言い合い、感謝しなければと毎日のように話し合っていた。
それが突然、こんな形で不幸を試されるのか…。あと1年? 終いの病はがんなのか…。
帰りに駅から歩いていて、同年配の友人に会った。背の高い中々の美人である。
「足の具合はどう?」と訊く。「そちらはいいけれど、朝方胸のあたりが息苦しくて医者で薬を貰ったの」「お互い歳だから悪い所はいろいろ出てくるわね」と、立ち話が弾んだ。
その友は「昔から80まで生きたら、あとはいつ死んでもいいと思ってきた」と言う。
そのことばで、何故だか気が楽になった。
そうなのだ。この歳まで生き永らえたことに「ありがとう」なのよね。
夕方、現役時代の友二人から電話があった。若いときに乳がん、子宮の手術体験者である。
「大阪のNに訊いたけれど、80歳でもがんは治る。だから手術しないなんてダメよ!」
「手術は全摘で、もっと生きて活躍するのよ!」
2018・5・20
生まれたての柔らかい緑が風になって包んでくれる。ピンク色のツツジがびっしり彩る春4月、朝4時半頃、胸に丸くて固いしこりを感じた。15ミリくらいの。
3日前の出来事である。毎朝の乾布マサツのときも全然わからなくて痛みも感じていない。右胸の上のほうを手で触る。丸いしこりがしっかり存在する。まさに突然の夜明け前の衝撃である。
医者嫌い薬嫌いで、最近は健康診断も受けていない。現役時代の職場では毎年健康診断が行われた。81歳を超えた老人だもの、「とても80歳には見えない」とおだてられても、人間機械のあちこちにガタがきていて当たり前。やれ激痛だ、それ出血だとなったら仕方ない医者へ行こう。そう考えてきた。
時計は午前5時を指している。いつものように起き台所に立つ。
朝食は玄米ごはんに味噌汁や野菜、魚などバランスを考えていろいろ食べる。一日の食事では、夜は軽く朝はしっかりをと心がけている。長生きでなく健康老人目指して。
それでも、何となく気が重い。仕方なく連れ合いに「明け方初めて気づいた胸の丸いかたまり」と話す。連れ合いは触って「ほんとだ、15ミリは確実にある」と驚く。
このまま何もせず、様子見では駄目だし、何科の医者に行けばいいのか…精神的に迷い、心が落ち着かない。やはり、近くの個人医へ行くべきか…
突然の事で、日頃医者なんか行かないと、偉そうに言っていた者がオロオロとまではならないが、やはり弱虫なのか。まず近くの医者へ行く。そこでの診察で必要なら紹介状で他の診療科へ行こう。となった。
個人医で若い医師の診断「うーん、確かにしこりが…」、触診の末、「乳腺関係だ。紹介状書くから」と待たされた。渡された隣の市にある市民病院外科宛ての封書にドキッとした。
いきなり手術?? いや、どういう病気か検査して診断して欲しい。そう主張しよう。
病むとは、生きるとはこのように、突然何が起きるかわからないのだろう。
午前10時半雨が降り出す。タクシーで隣の市にある市民病院へ。そこの大きな入口に入った途端、人人で空気がもうもうと動く感じだった。あっちの科、こっちの受付をうろつき、何とか外科の紹介受付に辿り着けた。評判はいい病院らしい。
若い人もいるけれど、あぁ、半数は老齢者だ。みんなどこか悪くて良くなりたい。良くなろうとこうして「わんさわんさ」と押しかけるのだろう。
外科の待合室はざっと50人の席。ほぼ満席で待つ。診察室は4つで一人15分ほど丁寧に検査、診察をしてくれる。さて、2時間待ってやっと診察。触診、超音波検査、更に患部に針を刺して細胞診。「痛いですよ」にこころの痛みに比べたら、これ位我慢できるよと心でつぶやく。
かくして、心身共に疲れた一日は過ぎた。検査結果は速く知りたい。しかし、連休の関係で3週間後とか。えっ? 遅すぎない? でも、待つしかない。こころは焦るけれど。
さて、我はどんな結果で試されるのだろう?
2018・4・29
「戦争のあとだなぁ」と思った。自転車戦争の。盛り上がるような自転車置き場、10台20台30台どころではない。一区画50台くらいの自転車がずらり並んだ場所がある。私鉄線路に沿って自転車置き場が続く名古屋市郊外の人口4万都市。
100台200台…それ以上の自転車だった。更にその線路と直角に高い道路があり、下が自転車置き場になっている。そこにもおよそ200台あまりの自転車が並んでいた。これは時間の余裕ある退職老人が買い物の帰りに数えたから間違いない数である。
決められた時刻に来る私鉄電車目がけて、毎朝自転車が殺到しているのだろう。無理に列に突っ込んだ乱れた自転車を並べ直す整備員。
必死のサラリーマンや学生たちが目に浮かぶ。真っ暗になった帰宅時間を走る自転車、降り出した雨と闘い、寒風吹く夜も置き場から一目散にぺタルを踏む.離れて生活している息子や孫を思う。
自転車の前籠も、新しそうな籠あり、古い自転車についた形の崩れた籠ありである。若い人が多かろう。が、中年のサラリーマン男性あり、子ども用腰駆けを後ろにくっ付けた自転車は、子どもを保育園に連れて行き、さぁこれから自分の持ち場と急ぐ女性が目に浮かぶ。若い女性や子育て中の女性もいるはず。必死で自転車から乗り継ぐ電車……。
体力あり若さあり、元気に行く学校があり職場があるのは幸せかも知れない。
現役時代、毎朝名古屋まで私鉄に乗り、名古屋駅から官庁街まで20分余り自転車で走った。仲良しの友も一緒に。その地域の地下鉄が未だ走っていなかったから、交通手段は市バスか歩きだった。あれから半世紀のときが流れた。
整理する人がいなければ、自転車がごちゃごちゃに道路に乱れ、倒れる混乱状態だろう。
朝の一定時間、シルバーさんとして委託料時給500円で自転車整備員として働く。この高齢者が「500円は安い」とつぶやく。
地球温暖化による異常気象を考えると、自然にやさしい自転車なのだ。この田舎町では、通勤通学の自転車は益々必需品になっているようで良き事だと思う。
近ごろ郵便配達にバイクも勿論あるが、自転車で走る配達員が増えている。しかも局員は猛烈なスピードで必死に各ポストに配っている。顔は真っ黒に日焼けして。
これらは郵政事業の厳しい経済性からくる姿かも知れない。ガソリン代節約と個人ノルマ増……すると聞こえてくる「いまごろ手書きの手紙なんか書いておれるか!」
世はスマホ時代、メールが簡単で速い。手紙や郵便物など時代遅れかも知れない。でも、時代おくれ人間はポストにしっとり入っている手紙を見たときは、胸がドキッとして「誰から?」と喜びと期待感が湧く。
自転車配達員はつぶやく。「広告郵便物の増えたこと。個人のハガキや封書など何十通に一通あるかなしだ」「忙しくてもいい。以前のような心を届ける喜びが欲しいなぁ」と。
2018・4・12
ここは、名古屋市郊外の人口4万余の都市、車社会で一軒に一台はマイカーが鎮座している。2台、家によっては3台もが所狭しと玄関先に並んでいるのも珍しくなくなった。
さらに、外食産業大はやりである。こんな田舎街でも、以前からあったラーメン店に並んで回転すし屋が広い駐車場と共に開店してからいつも満員、その真ん中に最近、「COCOs」系列の店が出来た。駐車場の自家用車を数えると、土曜、日曜などは、すし屋が30台以上、肉料理店とラーメン店はそれぞれ20台余りの車が停まっている。
一家揃って車で外食店になだれ込む。まさに車社会と外食時代である。
女も働くようになり、料理は女が作るべしより、よほど女にも余裕が出来て外食も又良しではないか? そんな考えもあり得る。
それにしても、車から吐き出される二酸化炭素は増える一方で、地球温暖化だの、今年のような寒波と温かさが激変する陽気に、生物の人間社会は生き続けるために考えなくていいのだろうか? そう言いながら、ネット通販で遠くからの宅配も使う吾も、大きな事は言えない。
わが家はノーカー。急ぐときはタクシー利用すればいい。と割り切って買い物は自転車など、なるべく運動のために歩くようにしている。
「これだけの広さの庭があって、車なし?」と驚く人もある。
今年の冬は近来にない寒さで、身が縮む。だから買い物も自転車でなく歩く事が多い。
先日も雪混じりの小雨がぱらつく中、運動を兼ねて買い物に出かけた。傘さして。ほんの少し買うつもりだったが、かさばったビニール袋になった。
スーパーを出て荷物を持って歩き始めた。と、車が扉を開けて待っているではないか。他所の誰かを待たれているのだと、通り過ぎようとしたら、一人の男性が「どうぞ、乗ってください」と声かけてくれた。
「えっ?」と言いつつ、あらためて見る男性は、少し離れている近所の人だった。
「お宅の前を通りますから…」歩いてもいいけれど、小雨も降るし荷物があるので助かる。
「そうですか。すみませんね」と言って乗せて貰った。
「働く人たちも成人の日までの連休明けで、新年スタートですね」と言うと「働く人はとっくに働き始めていますよ」という返事だった。
そう言えばこの方の奥さんが早朝からどこかへ働きに行かれていることに気付いた。現役の頃の自分も出勤するのは朝7時ころだったなぁ。
「ほんとにそうですね」と納得した。
5分ほどで家に着いた。
日頃、ごみ出しのとき位しか顔を見ないご近所の方。よくお声をかけて下さった。
「ご親切にありがとうございました」お礼を言って別れた。
政治の世界だけでなく、殺したとか、騙したとか、暗いニユースが多いこの頃である。
久しぶりに心穏やかになった。
昨日の昼頃、若い頃からご縁があった友と道でばったり会った。何年ぶりかと言うほど久しぶりだった。お茶飲んでしゃべりたいと喫茶店に入った。
その友は40代で自営業の夫を亡くし、苦労して3人の子育てと仕事をやり遂げた。半世紀も前の女が働くための保育園時代、心の奥深くで一致するものがあった。
話の中で「先日、ご近所の方にこんな親切をして貰った」と言うと、友は「私も、赤ちゃん抱いて買い物する帰りの女性にどうぞ乗ってください、と乗ってもらった経験があるわ」
それを聞いて、「自分が苦労して体験したことは身に染みているからね」と言いながら、こういう人たちがどんどん増える世の中がいいな。
「二人とも、いまは仕事を卒業して、こんな時間にお茶飲んで話し合えるゆとりに感謝ね」
そう言いながら、握手して別れた。
さあ、わが年寄り夫婦も、新しい年のスタートだ。
2018・1・18
連れ合いが80歳で悪い歯1本だけ。「8020歯の健康コンクール」で表彰されるという。
表彰なんて、もう縁ない歳なので、久しぶりに少し明るい気分になる。
子どもの頃、集団疎開中の栄養失調で歯茎が腐り、1本だけ歯の異常があったが、今日までホッタラカシだった。
それを80歳になって少し食べにくいからとやっと歯医者へ。すると「1本以外完璧な歯、これは8020で表彰ものです」と、突然「市へ連絡します」となった。
コンクール会場は市の体育館ホール。
真ん中に演壇、その両脇に二列の椅子がずらり並ぶ。
そこに座る50数人は男女ほぼ半々で「オントシ」80歳か81歳、ほぼ虫歯なしか、あっても1本か2本のいわゆる「8020」の人たちだった。
例外もあったが、みな元気そうだった。ひとりひとり住んでいる町と名前で紹介された。
少し離れて、向かい合った椅子に座る自分たちは、付き添いか、福祉関係の人たち。
80歳81歳なら同学年、知った人がいるかも知れないと記者気取りで、連れ合いと出席した。ところが、この圧倒される人数に驚いた。
表彰者59名(男性31名 女性28名) 80歳は何人いるのか。
市役所へ行って調べたら
人口4万余のこの市で、80歳397人、81歳377人だった。
(80歳以上は、最高齢105歳で2988人)
同級生が一人いた。地域の顔見知りが4人。開始前そのうちの1人と話す。
「私は長女だったので、親が若いからいい所ばかり貰ったのかしら。甘い物も結構食べた」
省みるにわが身は、上の歯はほぼ全滅、下の歯も奥歯は駄目で入れ歯やインプラントで何とか食べさせて貰っている。姉妹もみながっぷり入れ歯である。なぜこんなに差が…と思わないこともない。しかし、まあ80歳まで生き長らえ、半世紀も前から必死で子育てと仕事の両立目指して、やり遂げたからいいか。そんな考えで自分を納得させた。
最近、ある週刊誌に歯科医が書いていた。「歯は絶対に削るな。虫歯も歯周病も自然治癒できる」と興味ある発言をしている。
考えてみれば、30代頃から、虫歯で痛む。歯医者へ行く。すると患部を削る。そして埋める。繰り返すうち歯全体を被せる。そしてさらに悪くなって歯を抜く。親の世代もそういう治療の積み重ねで、50歳過ぎたら入れ歯、総入れ歯が普通だった。
「8020」運動は、愛知県が全国で一番早くから取り組んだとか。
歯の健康コンクールでは、市長、市議会議長や歯科医師会などが祝辞を述べる。
「人は生きるために、最後まで自分で自分の歯で食べることが出来る。それが最も幸せで大切な事です」「沢庵をポリポリ食べられる歯を」
隣の席に若い知り合いが座られた。「お久しぶり」「表彰なんて縁がなくなったから、思い切ってきたのよ」
「でも、もうすぐ金婚式でしょ?」「それも済んだわ。終わった人よね」
8020の元気な友や、知り合いとしゃべり合えてよかった。
元気な友たちよ、90歳、100歳までも生きて、世のためにがんばって。
歯の悪いわれらも、「無理しない」「らくしない」で80代を生きて行こう。
「歯なし 話」はこれでおしまい。
2017・11・17
Wikipedia
資料1 日本8020達成者 1999年 約15%
2016年 約51% (歯科疾患実態調査)
資料2 スウェーデン8020達成者 80%
市役所「長寿介護関係」の職員が来訪された。名刺を渡しながらその女性は、二枚の紙に印刷された項目を見ながら、高齢者の実情を巧く聞きながらメモされる。
「体調の悪いところはありますか?」から始まった。「眼科、歯科はかかっています。もう歳ですから…」と言うと、庭の草とりをしている連れ合いを見ながら「お二人ともお元気そうで」と言われてしまった。
「いえ、少し前スーパーで両手いっぱい買い物して、いつものようにさっさと道路を渡ろうとしたとき、少しの段差でバタンと道路に転んでしまったんです。左ひざ骨折で2ヵ月装具をつけてこつんこつん歩きで苦労したんですよ」
「連れ合いは3年前に熱中症で倒れて大変でした。救急車で名古屋の国立病院に入院してから、心臓弁膜症だの大動脈瘤だのが見つかり、何とか朝30分の散歩は出来るまで回復はしましたが…」「そうでしたか。大変でしたね」と、静かに訊いてくれた。
かかっている医者は? 買い物は自分で出来ますか? どこのスーパーでされていますか? 次々出される質問に簡単に答え続けた。
質問の中で注目したのは、近所付き合いは? 親戚付き合いはされていますか? の問いだった。いまの世の中は、子どもたちとの同居も少なく、近所付き合いや親戚との関係も薄くなりがちなのだろう。
「近所付き合いも親戚付き合いも巧くやっておられるようで何よりです。趣味というか、何か好きなことをされてますか?」の問いに、そろそろ質問も終わりを感じた。
「半世紀も前から共働きで、子どもたちにも苦労かけたと思う。いま生き甲斐というか愉しんでいるのは、夫婦で20年前に開いたインターネットのホームページ、庶民の目線で書き続けること。それと、下手ながら続けているピアノを愉しむことです」
「えっ ピアノやって、パソコンやってみえるの? 」と少し驚いた様子だった。「80歳だからなぁ」とこころの中で呟いた。
「文章もピアノも、世の中への庶民の目線と、発表会などそれなりの目標があるといい」と言うと「そうですね。愉しみも目標もってね」と納得して貰えた。
最後に、「緊急連絡はここに記入し、かかっている医者や薬の一覧表を書いてこの入れ物に入れてください」と20センチほどの高さの入れ物を渡された。
「救命バトン 救急情報が入っています」と張り紙と市の人形マークが張ってあった。
「この人形マークを玄関と冷蔵庫に貼ってください。救急隊員はそこを開くと処置が速くなるから…」
知人友人が次々亡くなり、寂しくなった。独り暮らしで体調不良の友も沢山いる。
老いるとは、人生の下り阪。みんな体力も落ち、寂しさの日々の中で安らぎを見つけつつ、生きている。92歳の有名な脚本家が「安楽死をのぞむ」発言で関心を持たれている。
今回の訪問で、市政の高齢者への配慮、力の入れ方に心動かされた。とりわけ「冷蔵庫に 救命バトンを」の発想に温かさを感じた。
苦労が多かった現役時代、でもいま現在は恵まれ過ぎかも知れない。
連れ合いが長年続けた高校進学の学習塾は「入塾テスト」も「定例テスト」もあり、結構きびしかった。しかし、「ここの子も来てくれた」「こちらのお子さんも来てくれた」と、歩きながら「お陰様で」といつも想う。
自分も退職後はテストや「塾ニュース」などで応援した。「塾ニュース」は「社会や国語の勉強よ」と出し続けたが、「ワー、今日はニュースの日だ」と子どもたちが喜んでくれ、父母の反響も良く100号まで出す事ができた喜び。
その子たちは、結婚や仕事でこの地を離れていない。現役の中心世代だ。この歳まで生き長らえさせて貰えた命。
ここまで来たら命は1日1日なり。
市政にこころを感じて思った。過日、夫婦それぞれに80歳のお祝に貰えた5000円を障害者施設と、拉致被害と闘っている友にカンパしたささやかな行為が、活きてきた気がする。
2017・10・1
住み心地 名古屋のベットタウンの片隅で
評判がいい映画『この世界の片隅で』。広島で育ち、呉へ嫁ぐ女主人公。やがて軍港のある呉が爆撃され、右手を時限爆弾で失う。それまで描き続けた風景、畑、野原の美しさ、見事さ。それらを思いながら歩く。
世の中、車社会と言われるようになり、買い物も車、出勤も車の人が増えた。玄関先に車が並び、それも一台ではなく、二台三台と並んでいる家も珍しくない。日曜日など散歩で歩くと、じっと並んで主を待つ車たちが睨んでいる。
細いキツネ目で、或いは太くて長いつり上がった目で、中には丸くデッカイ目で笑っている目もある。車は便利でいいが、最近の極端な天候や大気汚染の事を考える。すると本当に大きな動物たちが静かに睨み続けている気がしてくる。
わが家はノーカー。公営鉄道派。急ぐときはタクシーで、なるべく歩くか自転車である。パソコンやるけどスマホなし、時代遅れと言わば言え。という感じで人生歩み続けてきた。
午後5時、南に真っ直ぐ伸びる道を歩く。両側は畑で五条川までおよそ15分、ここ名古屋市郊外の人口4万都市は、最近桜名所百選に選ばれた。桜の大木が並ぶ川が南北に流れて、それがカーブして東西に流れている。
寒い時期の川は底の土が盛り上がっている感じの浅い場所もあり、カモたちが仲良く2匹ずつペアで餌をつついている。
西方の遠くに鈴鹿山脈が薄い青色で並び、間もなく沈む陽が眩しいほどのオレンジの光を放つ。ひとりで見るのは勿体ないくらい。穏やかな夕暮れの情景を愉しみながら歩く。
この道の左側に4階建の市営住宅が三棟建っている。建ってからもう50年は過ぎる古い市営住宅だから、設備も古くなり住みやすいとは言えないだろうと思う。
歩きながら数えると、一棟で16軒あるから約50軒、収入が少ない人しか入る権利はない。
道の反対側に6軒の借家が並んで建つ。ここにも、月々家賃を払わなければ住めない人たちが生活している。
寝る場所の確保にこだわるのは、先の戦争で名古屋の家を焼かれ、母の故郷の一室へ無理やりなだれ込んで住まわせて貰った子供時代の経験があるから。
戦争という異常事態だったとはいえ、人が生きていくには食べる物と寝る場所が最低の必要条件だと、子どもながら身に染みて感じながら育った。
借家に暮らす一組の夫婦を知って、会えば挨拶する。結婚50年の金婚式に市が祝賀会を催してくれた。その時その夫婦も招かれた。
そうか、結婚して50年もの長い間この平屋建ての借家暮らしをされたのか。少しだけ驚きに似た気分だった。それぞれいろんな経済的理由があったのだろう。
門構えの立派な家に住む人が、人間的にも立派とは限らない。当たり前ながら幸せとばかりは言えないだろう。
高度成長期を経て、経済的に豊かさを知った日本である。
最近自宅周辺でも次々新築家屋が建ち、たちまちという感じで若い人たちが住む。
一方、安定感のない仕事の人達は、ローンを組んで払うというそれも出来ない。折角ローンを組んで建てた家も、ローンが払えなくて取り消す人も増えているという。
豊かな生活の人がいる反面、6人に1人が貧困児童というのが現実である。これを格差社会と言うのだろう。
わが家は贅沢な住環境である。学習塾だった二階建てと、生活する家と二棟建つ。広い敷地は塾生たちの自転車置き場が必要だったから。大勢の子たちが学んでくれ、住み家が広いのは、今は亡き一人暮らしだった祖父と共に暮らしたから。
共働きは必死だった。働きながら子育てし、子育てしながら活動し続けた。
およそ50年前、産後休暇42日明けの翌日から出勤した。育児休職は無給なので取れなかった。二人の子どもを育てながら働き続けた。
当時の定年は55歳だった。子が出来ても働き続けられたのは公務員だったから。
政治活動の専従だった連れ合いは、異見をもってくびになった。理想が崩れ夫婦ともどん底の苦を体験した。親しい人に借金し、ボーナスで返してやりくりした。いろんな方のお世話になり、迷惑もかけた。
40歳、一人で組織に裁判で闘った。しかし経済的に生活の限界で、2年間の裁判を取りやめた。理想社会実現の夢は破れた。唯一絶対の真理なんてあり得ないと思う。
42歳から学習塾を始め、21年間真剣に生徒たちと向き合った。巣立っていった2人のわが子には散々苦労かけた。大勢の塾生たち共々、いまは社会の中心である。
63歳で塾をやめてから、当時未だ珍しかったインターネットにHPを苦労して開いた。全国の優れた学者、研究者に知り合いが出来、励まして戴いた。
恵まれた住環境に感謝しながら、愉しみながらの日々。あと何年?…あと何日?…
今日一日、今日一日なら、笑顔で行けそう。
2017・3・2
名古屋市郊外のわが家、裏は地続きでこの地域のお墓が並んでいる。お盆やお彼岸になると、人の出入りが賑わしくなり、気がつくと墓石にお花がきれいに飾られる。30年前、土地区画整理でこの場所に移転が決まったとき、「お墓のそば? 怖くない? イヤだな」と言った。
「でもお墓には人が寄るから、商売は繁盛するそうよ」と言う人もいた。
確かに、子どもが多い時代だったこともあり、遠くから塾生が大勢通ってくれた。そのお蔭で塾舎や家の借金も返済できた。何より、みんな活き活きと努力して、志望校へ進んでいった。
先の戦争で焼野原になった名古屋市は、戦後の復興のひとつとして、広い道路を作った。もうひとつ復興の特徴は、市内の寺院のお墓を名古屋市東部に集中させた。見渡す限り墓、墓、墓で墓石が立ち並ぶ丘陵地が「平和公園霊園」になった。
東山動植物園までしか市街地はなかった名古屋市東部、現在は高層ビルが建ち並び、高級住宅地として発展している。
彼岸、正月ともなると墓参りの車で道路は渋滞ぎみ、市バスも地下鉄駅から臨時バスを走らせる。
わが家も平和公園に墓があり、亡き義父母と連れ合いの兄が眠っている。今年も9月の彼岸に墓参が出来た。体調を崩している連れ合いとタクシーで最寄りの私鉄駅へ走り、私鉄に乗り20分、地下鉄に乗り換えておよそ20分。地下鉄を降りバスに乗って平和公園へ行く。やっと墓に辿り着く。墓参もひと仕事である。
廻りの草を取り、簡単に墓石の掃除をしてお花、線香、ろうそくを供えて手を合わせる。
義父は連れ合いを亡くしてから一人暮らしだった。83歳から89歳までわが家に同居した。
義父は名古屋駅からタクシーに乗り、平和公園の墓の側でタクシーに待って貰い、名古屋駅までタクシーで戻る。それから、お伴の息子とうなぎ屋でうな丼を食べる。
毎年、お彼岸には89歳で逝く歳まで頑張った墓参りだった。
平和公園の廻りはうっそうとした緑が垂れさがるような木が歩道を飾り、散歩には素敵な環境である。ふと、見ると「無名戦士の墓」だ。沢山の数の戦死者たちが並ぶ。70余年もの歳月、墓石になって並び続けたのだ。
訪れる人もなさそうなその石碑の真ん中に、花がまとめて供えてあった。戦後71年の記念に考え直された戦死者たちなのだろうか。
海や山に遺骨を撒いて自然に還る。沢村貞子たちが旅立った「自然葬」の会に入って10年以上になる。最近はお墓を守って維持することが出来なくて、ここ平和公園でも「お墓のお墓」になっている場所も見た。
一か所のビルの中でまとめて供養する施設や、「樹木葬」など訴える業者も出来ているようだ。
現役時代からの親しい友、腹の底から本心で話し合えた友が、膵臓がんで余命3ヵ月の宣告を受けて入院、2ヵ月が過ぎてしまった。切なさに迫られ続ける。
みんな骨になって自然に還るのだ。
2016・9・28
「古今東西 人間みなチョボチョボ」小田 実
一度何かで読んだが、チョボチョボ人間の一人である私は共感し、関心を持った。
「このことばを黒御影石でデザインしたのは妻の玄順恵(ヒョンスンエ)さん、人をかたどった文学碑にした。除幕式が行われたのは、JR芦屋駅近くにある特別養護老人ホーム(あしや喜楽苑)。小田実と仲間たちは、阪神大震災(1995年)で市民救援基金を立ち上げ、被災者へ配り始めた。
澤地久枝さんが『生きている小田実』について講演した。
この高齢者施設の理事長は『ひと・いのち・つなぐ』という著書もあり、人権を守る理念に貫かれているとあった」 (2016・8・1 市民の意見157号)
最近、簡単に人を殺す事件が多発しているこの日本で、障害者殺人事件が起きた。
相模原障害者施設で起きた事件で死者19人、26人が負傷した。意図的に障害者を抹殺する計画的犯行だった。
犯人は衆議院議長宛ての手紙に「世界経済の活性化、第三次世界大戦を未然に防ぐために『障害者総数470名を抹殺する』と安倍晋三様のお耳に伝えて」と記していた。
犯人は捕らえられたが何の反省もなく「ヒトラーの思想が降りてきた」と言い、顔には薄笑いさえ見られた。
子や孫に障害があり様々な苦労をしている友人が3人いる。その中の一人が幼い頃、わが家に来て犬が好きになり「ワンワン」と仲よく遊んでくれた。その子もいまは中学生に成長し、特殊学級で学んでいる。
3人の友人を考えただけでも、子や孫の障害は様々に違う。が、共通するのはただひとつ、保護する立場の友たちの必死な愛情である。何度が胸引き締まる話を聞いた。
今回の事件は、大きな障害者施設に計画的に侵入して、あの部屋この部屋で次々刺し殺すとは人間のすることではない。
ナチスの「優生思想」とは、「障害者は世の中の役に立たない。20万人を殺す」という差別思想である。
加藤哲郎氏のホームページによれば「優生学的差別思想が公然と現れる土壌が日本社会にもある」とあった。
東京都知事選挙で外国人差別・ヘイトスピーチを公言する候補者が11万票を獲得した。
考えてみれば、世界で初めて原爆を投下するのに、アメリカはドイツか日本か迷った。白人社会のドイツより、黄色人種の日本国に原爆投下を決めた。この話は有名である。
長所あり欠陥ありの人間、「人間みなチョボチョボ」この地球という星で、「ひと・いのち・つなぐ」で生きていきたい。
2016・8・9
朝5時半ごろ、牛乳屋さんが箱に牛乳を入れる音がする。
「早朝から大変だなぁ」などと思いながら、わが家も5時半に目覚まし時計が鳴る。一日のスタートだ。
ところが異変が起きた。牛乳配達する奥さんに、車の運転で協力していた夫が病に倒れられた。「今月でやめます。後はこの方に引き継ぎます」と。引き継がれた新しい人は、元気な40代くらいの男性だった。
いままでの牛乳屋さんは愛嬌のある人柄で、配達も集金もこまめにされていた。運転される連れ合いが病気なら仕方ない。
引き継いだ人も、早朝配達をきちんとしてくれた。朝起きて冷たい牛乳を飲む、これがわが家の健康習慣なので助かる。
順調に行くはずだった。しかし1ヵ月過ぎて代金の集金がない。2ヵ月過ぎたころ牛乳箱に「代金の集金お願いします」とメモを入れた。なしのつぶてのまま、3か月、4か月と過ぎていく。配達はきちんとされたが、集金に廻る余裕はないのだろう。
考えてみれば、どんな企業でも機械化され、特に代金請求は金融機関の通帳番号を最初に訊かれる。それがいままでの「おばさん配達」では、長い間自宅訪問での集金だった。引き継いだ人もそのままで、金融機関の通帳番号を聞かれることもなかった。
個人や零細な商売屋さんは、天引きの金融機関を教えて貰うほどの信頼関係ではない。と考えられていたのではないか。
仕方がないので、牛乳元売りの会社に電話したが、居住区の違うその会社は「調査して返事します」のまま。
牛乳代およそ半年分5〜6万円が払えないまま、配達も中止になった。何かがあったのだ。
考えるに、お父さんの体調が悪いと訊いていた。「倒産」ではないか?
個人に連絡するどころじゃなくなった?
これが大手の牛乳販売業者だったらどうだろう。代金は通帳番号で申込み、引き落とし。配達は毎日でなく、昼近い遅い朝か、午後…。なんて想像しながら、牛乳なしではおられなくて大手牛乳会社に申し込んだ。するとまさにその通りだった。
配達は週二回午後、代金は始めに金融機関の個人番号を知らせた。配達する人はアルバイトらしい若い人。その人が悪い訳ではない。
ここに大企業と零細企業の格差がある。あんなに誠実に、早朝配達してくれたのに。
一旦病気になったらオシマイ。世の中、矛盾だらけの格差社会なり…
牛乳屋さん、このお金どうしましょう…。
2016・6・30
「ガラケーって、何のこと?」
パソコンやるけどケータイ持たずのわれ、電車に乗れば客10人中8人はスマホに夢中。恥ずかしながら「ガラケー」が分からず、時代おくれと言われるのを承知で訊いた。
ただ20年前、友人の指導で必死になってインターネットに夫婦のホームページを開いた。以来、読者の反応に励まされ、夫婦で文章を載せ続けている。庶民の目線で。
梅雨入りした今頃、この地域は水が張られた田に、5〜6センチ丈のみどりの苗が整然と植えられ、美しい田園風景である。緑やさしいこの風景に心和ませている。
以前は蛙の鳴き声で賑やかだったが、農薬のせいか蛙の声が少ない。
気象の異変はみんな感じている。平均気温がこの10年で1.5度上がったという。特に今年の夏は猛暑の予報で、もう4月5月のころから、平年を大きく上回る夏日のような日が続いた。季節の花々もさく日が早め早めで、いまはアジサイ満開である。
天災だけでなく、私たちが作り出した自然への破壊活動があるとしたら…。
一軒に2台3台の車が珍しくない世の中になった。大量の廃棄ガス、農薬などの化学肥料や合成洗剤など、身近な生活に入りこんだ、現代生活の便利さの代償は限りなくあるだろうな。
朝、洗濯機を廻す。洗剤は、長年障害者が「自然にやさしい石鹸」を製造、販売してきた会社の天然粉石鹸である。
少し面倒なのは、水道水だと合成洗剤のようにさっと水に溶けない。湯で粉石鹸を溶かして洗濯機に流し込む。そうしないと、洗濯石鹸の粉が詰まってしまう。
半年ほど前に洗濯機からの排水が詰まって工事屋さんにお世話になった。
面倒でも粉を湯で溶かす、というひと手間かけての洗濯機使用である。
でもこんな石鹸を意識し使っている家は極くまれで、大多数が便利な合成洗剤だろう。
少し前、石鹸会社から製造販売停止の通知が来た。残りはダンボール3個になった。
先日、中日新聞に「時代に逆走わが人生」と題した文が載った。筆者はヴァイオリンの千住真理子で「私はガラケー。スマホは持ってない。パソコンも使わない。不便だと思ったこともなく快適に暮らしている」とあった。
「羊の腸を馬の尻尾でこする」の小見出しで「羊の腸をもととしたガット弦を楽器に張り、弓に馬の尻尾をくくりつけ、それに松ヤニをぬってマイクも使わず生音のまま弦をこすって音を出す… 人の心のひだに触れたいと悩み、今日も私は誰かの心に届くように願いを込めて羊の腸を尻尾でこする。
かように時代に逆走するわが人生…便利なことが幸せとは限らないのだから、あなたもガラケーにもどりましょうよ」
あの有名なヴァイオリン奏者が…と、何故か気持ちが安らいだ。
2016・6・15
子どもはエネルギーがあり余る。
北海道の7歳、田野岡大和君(小2)が、人や車に石を投げた。父親は罰として大和君を車から降ろした。親として間違っていたとは思えない。
わが家の長男も、いろいろやったもの。よくお菓子持って謝りに行った。その度に「家族会議」を開いてしっかり話し合った。日頃、夫婦は忙しい共働き、子どもはほったらかし保育だった。子どもは「家族会議は、親2対子1」だから嫌だったとも言っていた。
それにしても、7歳が1週間近く、水だけ飲んで夜真っ暗な所で、よく頑張ったよね。
居場所が分かったとのニュースに、国中が、いえ外国メディアも驚き、喜びの報道をした。
テレビを観て、久しぶりに心の底から喜びが湧いてきた。「もう命はないのでは」と思ったほどだったから。
学習塾をやっていたとき、中学生の男子3人(うち野球部員2人)が起こした石投げ事件が起きた。休憩時間に少し離れた裏に住宅があるのを気付かず、塾の高い囲い越しに石投げ遠投競争をしていたらしい。
石が新築の家の玄関に当たってガラス戸が割れたという。抗議の訪問に申し訳なく、頭を下げた。そしてガラス代1万5千円を弁償して許して貰った。
授業が終わってから3人を残し「囲いの裏に道がある。人の家がある。バンバン石を投げたらどうなるか、分からんのか!」と怒鳴った。そして「歯をくいしばれ」と言ってから、3人にビンタを一回ずつ食らわせた。
塾生はみんな真面目で、勉強も真剣に取り組んでくれていた。それでも、こういうことが起きてしまう。
自分の息子でもそうであるが、エネルギー溢れている子どもたち、元気でときに乱暴もいいが人には「していい事といけない事」がある。
勉強の実績を上げるだけでなく、「塾ニュース」で、世の中の事、知っておかねばならない事など、多面的に子どもにも家庭の親にも通信で知らせ好評だった。
ニュースは100号を超えていた。
3人の家庭にはそれぞれ連絡し、「半額の7500円は塾が出します。残りを2500円ずつ負担してください」と言うと、どの親もビンタを含め、納得してくれた。
もう二昔前の話になる。今度の事件で、当時を懐かしく想い返した。
子どもたちよ。これから様々な出来事を創り、苦しみにも喜びにも向き合って生きなければならない。
人としての基本、ルール、マナーが守れる人になってね。大人も一緒に考え合って歩きたい。
2016・6・9
冒頭のことばは、なかにし礼『平和の申し子たちへ』の詩の中のことばである。
風邪をこじらせて10日あまりぐずついてしまった。医者嫌い薬嫌いだったが、近くの個人医の診察と投薬を受け何とかふつうになった79歳。
東日本大震災も5年目の3・11を迎える。
明日は3月11日、東日本大震災の日である。5年という月日が経って、いまだ10万人以上の人たちが、避難先で苦労し続けている。という現実を忘れてはならない。
解決を遅らせているのは、放射能汚染。テレビの映像で見ると延々と並ぶ汚染土の袋々。受け取ると答える地方自治体がない。それにも拘わらず原発再稼働の動きがある。考えられない日本と言う国だ。
そんな中で、昨日(3月9日)大津地方裁判所が隣接する滋賀県の住民29人の訴えを認めた。「過酷事故時の安全対策が十分とは証明されていない」と、1月に3号機2月に4号機が再稼働した高浜原発3、4号機再稼働の運転差し止め判決が出された。
暗いニュース続出の中、久しぶりの明るいニュースだった。
もうひとつ忘れてはならない日がある。
10月21日、それは私の誕生日、70年続いた平和な時代には国際反戦デーだった。
忘れてはならないのは先の戦争末期である昭和19年、神宮外苑競技場で第1回学徒出陣壮行会が開かれた日である。しかし、いまこの日を若い学徒が戦争に駆り出された悲劇の日、そういう記憶を蘇らす人はごく僅かになっただろう。
子どもの頃は戦争だった。名古屋に住んで町内会の役員などしていた父、或る日みんなで行列を作り町内を歩いた。
「勝った、勝った」「一億一心」「欲しがりません勝つまでは」
赤紙が来て父が戦争に駆り出されたのは、昭和16年だった。母ひとりで5人の子どもを育てた苦労は、並みではなかった。
地震という天災と原子力の放射線汚染に、必死に生きようとしている東日本の被災地の人たち。
お国のための戦争だと信じ込ませられた、先の世界大戦、広島と長崎に世界で初めて投下された原子爆弾。
70年間人を殺さず、殺させずに来た日本。それなのに2014年7月
集団的自衛権が閣議決定された。憲法に違反するこの日の決定。
忘れてはならない日である。
2016 3 10
大きな買い物袋を下げて、必死に名古屋の歩道を歩いていた。
中学時代の先生が90歳の誕生日、一人暮らしなので是非お祝いしたいと、土産の品と花束の入った紙袋は結構重かった。
うしろから何か声がしたので、振り返ると、自転車に乗った中年の男性がわざわざユーターンして、私を眺めた。そして「バアバか」?と聞こえた。男性は自転車で走り去った。平日の昼ごろで車の数は少なかったが、車道を逆走したら危険なのに。
うしろすがた見て、恰好いいと思って下さったの?…
悪かったわネ。バアチャンで。オントシ79歳、若く見て貰おうなんて気はありませんよ。
長いワンピース着ていたからかな。それとも、真っ直ぐな髪がややオカッパ風に見えるのかな。
美容院でなく自分で髪を切り、毛染めはヘアーマニキュアで、いわゆる毛染めはしない。そのかわり、細く弱った毛の手入れには椿油を温め、地肌に塗って栄養を与える努力をしている。そのせいか、いい髪形と時々褒められる。
少し前、木綿のワンピースを京都西陣の染物屋に送って真っ黒に染めて貰った。新品同様になった。丈の長いワンピースはいまあまり売っていない。だから捨てない。
自宅クローゼットに、ワンピースが10着以上ぶら下がっている。
現役時代、結構おしゃれをした。パンツスーツ一本やり。それにはわけありで、オフィスの冷房が強烈で、スカートの女子は人数が少数だったからか過冷房、冷えから下半身冷え病で、近くの医者で毎日注射をして貰った。いまでも右腕の静脈は太く膨らんでいる。
以来パンツスーツ、そして流行り始めの紺色のジーンズスタイルに。
といってもいまのようなぴんぴんではなかった。
退職して、足に負担がかかる、かかとの高い靴は止め、パンツスーツは捨てた。
いま若い人だけてなく、中年の人も穿いている「ピンピンスタイル」は女の私でも目を背けたくなるほど、お尻の線丸見えスタイルだ。
男性に刺激与え過ぎではないかしら? エスカレーターに乗ると、目をどこに向けたらいいか迷う。
どうして、あんなに体の線出すの? 世の中スタイルのいい人ばかりじゃないのに…。
流行に踊らされないで、自分らしさを愉しめばいい。そう、自由がいい。
服装だけでなく、世の中で賛成でも反対でも、どちらでもない意見も、自由に言える世の中がいい。自由のない戦争だけは駄目。
そういえば今日12月8日、74年前この国が愚かな戦争を始めた日だった。
2015・12・8
『君たちに憎しみという贈り物を与えない。…君たちは死んだ魂だ…』こんな深い、重みあることばを、パリのテロ事件で妻の命を奪われたジャーナリストが綴った。
『息子が憎しみを抱かず生きるために書いた』それが多くの人の心をとらえた。
テロ、仕返しの空爆、人間世界が乱れている。世界中で…。考えはいろいろあるだろう。
子どもの頃、疎開した田舎で百姓をしていた叔母や祖母が、夕方になると「おしまいやす」と声かけ、何か貰うと「ごたいぎさまです」と、自然に挨拶を交わしていた。
お百姓さんにしては、丁寧な言葉だなと子供ながらに感じながら育った。
先日、Hさんと交わしたことばで、人柄に感心した。
「お近くですから、呼んでください。すぐ来られます」ごく自然に出たこの言葉、
Hさんは自宅でやっている公文教室を、いよいよやめようと思い、後輩の新先生に「お宅の空いている塾舎を使わせて貰えないか」という相談だった。
一階は夫のパソコン部屋、空いている二階の教室にはまだ沢山の机やいすが並んでいる。しかし、照明設備や冷房装置は取り外した。
実際に教室を見て貰い「ここでお宅のお子さんも、沢山の子たちが必至で勉強してくれました」というと、「あの時期の塾ニュースまだ取ってあります」の返事がうれしかった。
子どもたちは「いまから、ニュースの時間だ」と大喜びした。
塾を辞めて15年余りのときが過ぎた。若々しいHさんも60代とか。「お子さんたちは帰られません?」
「子たちは自立して京都や名古屋で暮らしています。私たちも80近く、残り時間も少ないですよ」と、雑談していたとき冒頭のやさしいことばに出会った。
少し前、散歩していると、畑の草とりをしている男性に花の名を聞いたら、花を切ってくれただけでなく「また、声かけしてください」と言ってくれた。
また、最寄駅で電車を降りたとき、かつての塾生がもう可愛い赤子を抱いていた。「まあ、こんな子のお母さんになられて」と、一緒の母親に言った。
「あのときのがんばりがあり、いまがあります」と言ってくれたのは元塾生。
とっさにパッと、こんなことはなかなか言えないと思った。
ことばによる表現が下手と自覚している自分はおおいに見習うべし。
最近の若い人たちがものもいわず、携帯に夢中の様に、何か違和感がある。それはことばがないこと。電車の中でも、歩いているときでも、或いは自転車に乗りながらでも、携帯、ケータイである。
人は一人では生きられない。ことばを交わして交流し、文章で書き表すことで理解し合い、暮らしを織り成すのだろうなぁ。
2015・12・2
にわかに決まった師走の総選挙に思う
庶民の暮らしなんてどうでもいい?
とうとうわが家にもオレオレ詐欺が
とうとうわが家にもオレオレ詐欺が
「もしもし、みやちとおるだが…」電話に出たのは夫だった。息子の声に似ている。が、咄嗟にことばが出ない。口から出たのは「本名は?」で、考えてみれば変な対応だった。
電話に出たのが男だったからか、電話はすぐにガチャンと切れた。考えてみれば、「本名は?」といきなり聞いたのが良かったかもしれない。「しまった悟られてしまったか」と思って、本当ならあれこれ尤もらしいこと言うところなのに、本名なんぞ聞かれてはと警戒して電話を切ったと思う
気が引き締まる。対象とするには様々な角度から綿密に資料を調べるらしい。「本名は?」といういきなりの対応は、オレオレ詐欺を瞬時に撃退する返事なのかも知れない。
慣れた声でいきなり、「息子だが」と名前を掴んでいる。息子が他所で生活していることを知っている。高齢者である。…などなど個人情報を多面的に掴んで、詐欺を多発していることがよく分かった。
早速、高齢になっている2人の妹に体験を電話で話し、お互い用心しようと気をひき締めあった。
戦争ができる国にしたい人たちが、戦争に行くべきだ
近くに住む友人が他の用事で寄ってくれた。「いまから期日まえ投票に行く」「原発再稼働だとか、近頃の政治は勝手にやりたい放題、戦争を知っている私は許せない」
涙ぐまんばかりの表情に全く同感。「ホント、庶民のことなど考えずやりたい放題の政府、コワイわね。一票も無駄にしてはダメよね」
日本の心ある人たちが「憂鬱だ」とか「気が滅入る」と、これほどいう政治情勢は近頃なかったのではないか? テレビを観ても新聞を読んでも…。
何しろ、12月10日には、既に自民、公明が賛成した「秘密保護法」が施行された。何を秘密とするかときの政治をするものが勝手に決め、もらした公務員などは懲役10年だという。
そうなれば、うっかり事件や起きたことを取材したり、報道する側はびびってまともに真実を知らせられない。庶民は一面的、表面的なニュースを信じるしかない。先の大戦のときも、「勝った、勝った」「一億一心」と信じ込まされた。
安倍政権は、アベノミクスで経済はよくなり出した。雇用も賃金も上がった、とそればかり宣伝しているが、株をもっているか一部大企業のみで、大部分の中小零細企業や非正規雇用の人たちは、物価高と生活不安におびえている。
そして、安倍政権は思ったようにいかない政策で支持率が落ちることを知り「いましかない解散」を断行した。700億円も使う総選挙を。
70年平和が続いた国の憲法を変えて戦争の出来る国にする。そのため武器輸出を緩和し、同盟国が攻撃されたら自衛隊を戦わせる。こんな見取り図を基に、先に結論ありきである。
十分な議論もせず、自分勝手に都合よくごまかし続ける政府。
こころある人たちの気が滅入るはずである。
若い世代にこんな世の中を残していくのか…と。辛い戦争を体験した者、旅立ち近い老人は思う。
いよいよ明日は投票日、忙しい現役世代よ、若い人よ、良く考えようよ。
2014・12・13
配る 「ほどほどがいい」は時代遅れ?
後ずさりする車
その日やや大き目の封筒を持って、近くの郵便局ポストまで歩いていた。
最近ここは日に二度しか集配しない。すると狭い小道で赤い郵便局の車に追い抜かれた。
局はすぐそこである。暫くしてその小型の車がズズズズッとバックして来た。
運転席の人が「郵便なら頂きましょうか?」と言ってくれたので驚いた。「ハイ、投函しょうと思って…」と言うと「ありがとうございます」と礼を言われた。
こんな体験初めてで、郵便事業は変わったなぁとその丁寧さに頭が下がった。
今年の夏は35度を超す日が何日もある猛暑だった。
真っ黒に日焼けした郵便局員が、急停止したオートバイで郵便物を家のポストに入れ、再び、急発進させたバイクで次の家のポストに向かった。局員の日焼けは焦げたように黒く、並みの日焼けではない。ただれるような陽ざしの下で宛名を読み、正確に投函しなければならない。
近頃は携帯でメールを打てば、素早く相手と交信できる時代になった。多分郵便で配達される手紙は激減しているだろう。わが家へ来る郵便物でもそうだけれど、手書きの便りが減り広告宣伝文書が多くなった。配達する人も配り甲斐がないのではないかと、気の毒な気がするときもある。
一方、新聞配達もぐっと新聞読む人が減って大変なのではないかと思う。夜明けの4時半ころ、オートバイの音がする。C新聞の配達らしい。
忙しい現役世代は出勤前に新聞なんか目を通す暇がない。帰宅後、朝夕刊一緒に読む毎日だったなぁと、かつての自分が長年そうだったことを思い出す。いまの若い人は携帯で最低必要なニュースを拾い読みすれば、わざわざ新聞なんか読まなくても…という考えかも知れない。
しかし、新聞でハッとする、或いは納得できるいい文章に出会うことは少なくない。固定読者をやめない理由はそこにある。
それにしても、今年の夏の35〜6度を超す異常な暑さの中、早々と夕刊を配る女性の汗まみれの顔と、首に巻いたタオルに会うと申し訳ないような気持ちになるのは、子どものころ新聞配りの体験があるからかも知れない。
経験してみなければ
戦後間もなくのころ、疎開先の田舎で中学生になった。そのときの区長に「新聞配達しないか?」と勧められた。配達体制が不十分のころ、地域のお寺にまとめて届く新聞を区域ごとに分けて配った。戸数はおよそ80軒ほどだった。2人の妹と区域分けして配ったが下の妹はまだ小学生だった。
何事も豊かになって恵まれた現在では考えられないが、配り易い街道筋は下の妹、南地域は上の妹が受け持った。
一番多かった北地域は私が配ったが、あるとき大きな屋敷のポストに新聞を入れようとした瞬間、走ってきた犬に猛烈に吠えられた。あわててポストに新聞を入れて逃げた。噛みつかれそうで怖かった。
夕方、学校から帰ってからその家に行き「犬を放し飼いにしないでください」と、必死で書いたメモをポストに入れた。
また、当時地域に珍しい経済新聞をとっている人がいた。その人は出勤前に新聞に目を通さないと話にならない。「もう少し早く配って欲しい」という苦情がきた。当然の苦情で意識して配る時間を早めた。
配達した新聞代金を集金して歩くのも、配達する者の仕事だった。集金して収めるとやっとバイト代が入った。卒業式当日まで配達した。
いいこともあった。
集金に歩くと「ひといき入れて、オヤツでもどう?」と庭で一家が一休みしている農家の人が言葉をかけてくれ、お菓子を頂いた。
「犬を放し飼いしないで」と、メモをいれたお金持ちの大きな家の小母さんが門の所で待っていて「あんた、学校でも勉強がんばっているんだって?」と励ましてくれた。
当時の日本は貧しかったけれど、そんな人と人のことばかけや、情があったような気がする。どんなことも経験してみないと分からない。
ほどほどがいい
手紙人間の自分は思う。手紙に一字ずつ文字を書くとき、心はその宛先の人に集中する。投函して届くまで1日か2日かかり、メールのようなスピードは望めない。が、それはそれでいい。自宅ポストに思わぬ人から手書きの便りを見つけた喜びは大きい。
先日届いた高山の旧友から「洪水は何とか無事」の便りが届き胸なで下ろした。
静岡からは現役で障害のある子に水泳指導している。或いは水泳大会監督など張り切っている友人の元気な便りが届いた喜び。
愛知の友は絵手紙で「ミョウガ」を描いて送ってくれた。根本と先っぽは黄色、本体は赤茶色のミョウガを葉書一面に見事に描き、ひとこと添えた便りを自宅のポストに見つけたときは、何とも言えないほど心安らぐ。
最近は車持ちの家が増え、どの家にも、1台は停めてある。いや1台ではなく2台3台もふつうになった。わが家はノーカー、「こんな大きな庭で車なしですか?」と驚かれる。
パソコンでインターネットはやるけれど、携帯なし。通信販売で全国からの宅配便が届くから、大きなことは言えないけれど…。
速くて、便利な世の中になったが近頃の異常気象と、何でもどこでも車という人が増えた。それと異常気象、地球温暖化や二酸化炭素は関係無しと言えるか?
便利さも「ほどほどがいい」は時代遅れ?
余裕が少しでもあれば歩こう主義。公共交通機関を使い、どうしても急ぐ時だけタクシーを使うがいい。
メールも速くていいけれど、この先も自分の字で心を綴った手紙派で行くだろう。
2014・11・12
届いたハガキに驚いた。
「お手元の日記も残すところ2ヵ月余りとなりました。2冊目をどうぞ。5万人を超える人が2冊目を書き継いでいます」
10年前から書いている日記がおしまいになる。それを誰かが知っていることに。現代はそういう管理社会なのだ。
10年? 命がないよ。どうしようかな。この歳になると命は1年1年で、明日の命さえ分からない。5年過ぎたら82歳、10年日記なら87歳だもの。
友たちもみんな、元気でコロッと逝きたいと言う。
遠藤周作が最近出た本で書いていた。「誰でも老いて死ぬ。『楽に死なせる研究』がされないかなぁ・・・」
過ぎた10年間は充実していたような気がする。昔なら60代は年寄りという印象だった。職業生活卒業を期に、夫婦でインターネットにホームを開いた。
30年以上続けた職業生活だった。
夫婦ともに書き表したい。人に伝えたいものがあった。パソコンのプロである友人に教えて貰いながら必死だった。画面の表紙やバックの壁紙を、2人の子どもたちが応援してくれた。
わが家と似た体験をされた優れた研究者、学者の方たちが見守ってくださり交流の輪が広がったのは励みになった。
青春時代から抱いた世の中の変革の夢、そのために職業を投げ打って、職業革命家になった連れ合い。理想通りでない組織の現実に異見を持ったら、監禁され長いときは21日間に及ぶ監禁査問だった。
専従者だけでなく活動家の中に神経症が多発したのも当然だった。夫の頭脳は問題ないが、人間的にやや抜けたところがあったから耐えられたと思う。
やがて風呂敷包みひとつで組織を追い出された。裁判までして抵抗した。
妻は中央の訴願委員会へ何度も訴えたが無視して握り潰された。
「組織とはそういうもの」を実感させた。妻だけの収入では子どもと一家4人の生活はできず、2年で借金も限界になり裁判を取りやめた。
活動家として必死な日々重ねたのは夫婦とも15年間、ともに42歳になっていた。
深刻な試練から10年過ぎ、夫が学習塾で生活を立て直したころ、社会主義国ソ連邦が崩壊した。貧しさと孤独、精神的空白から、新たな命を貰った夜明けのような気分だった。
誰にでも言えることであるが、辛い体験があっても、必ずいい条件に変わっていく。それを信じなければ生きられない。それが長所もあり短所もある人間であり、人生だと思う。
ただ、「世のため、人のため」と信じて青春を過ごしたつもりでも、誤解も含めて人に迷惑をかけたことも多かったのではないかと思う。
この日記の10年間は、仲間と始めていた文章の勉強も、下手なピアノレッスンも続けた。そういう10年だった。夫婦の会話「やるだけやったね」。
古代インドでいう人生最後の「遊行期」を愉しんで老いていきたい。そして、凡才ながら庶民の目線で書き続ける。
それにしても、この国のこれから10年はどうなるのだろう。
放射能の問題でふるさとへ帰れない人がいるというのに、平気で原発を輸出しようとする政治家、「特定秘密保護法」とか言って、知る権利が侵されようといる。
庶民は贅沢を望んでいない。格差のない社会、自由な世の中がいい。
戦争だけは絶対いや。戦争の悲惨さ、理不尽さを体験した人たちが次々亡くなっていく。
生活や仕事に追われている現役世代も、これだけは譲らないで。
2013・11・1
秋の行楽シーズン最後の日、朝10時ごろ電車に乗った。
車内は結構混んでいて座る席がなかった。仕方がないので立って本を読んだ。肩にかけていた大き目のバックも軽くはない。
二駅ほど過ぎたとき、すぐ前の席に座っていた若い男性と目が合った。するとその男性は「本を読まれるんだったら、どうぞ」と、サッと席を立ってくれた。
その笑顔に安心して「すみませんね」と言いながら空いた席に腰かけた。本当に助かった。
お蔭で安らかな車内読書の時間になった。
次の駅でまだ若い40代くらいの女性が、けがでもしたのか杖を持って乗って来られた。すると、向かい側の席に座っていた女性がすぐに立ち上がり「どうぞ」と席を譲られた。
当然ながら杖を持った女性は、笑顔と「ありがとう」で席に座られた。
そのとき電車内に、一瞬サッと微笑みの波が光のように走った。こちら側の席にも向こう側の席にも。
先日、大事な用で久しぶりに朝の通勤時間帯の電車に乗った。一番強く感じたのは、誰もが例外なく暗い表情だったこと。男性も女性も。それがとても印象に残った。
現役世代は大変だからナー。日頃の職場の状況を見る気分だった。日本は暗いと思った。
自分の現役時代もこうだったのだろうか?
名古屋駅で大勢の人が降りる。立ち上がりながら、席を譲ってくれた男性に「ありがとう、本当に助かりました」と笑顔で礼が言えた。若い男性から、素敵な笑顔が返ってきた。
車内で読んでいた本は阿刀田高の「ユーモア革命」(文春新書、平成13年10月)
家を出るとき本棚から適当に持ってきた。12年前発行の本だった。最近勝手に「折ページ読書」と名付けている読書が続いている。読んだ大事なページを折っておく。
それを読み直して、あらためて大事なことを確認し直す、私流読書である。
「6歳の子とそば屋へ行った。壁の品書きを眺めていると『お父さん、おそば屋さんには.動物が3匹いるんだね』『うん? キツネ、タヌキはわかるけどあとは?』というと、つぶらな瞳を輝かせて『あと 大ザル』・・・子供たちはユーモリストぞろいである。」
電車を降りて、「口角あげて、目じりを下げて」というが、一日のスタートが笑顔で出来てよかったと、にこやかに歩く自分に気がついた。
2013・10・18
1、くばる
ネットで注文した「わけありほっけ」が宅配で届いた。北海道漁連から僅か1日で届く便利な世の中になった。もうひとつ、重い液体の焼酎大瓶4リットル入りと、ウィスキー同じく4リットル入り4本もネットで注文した品で、重い。近くの酒店が廃業で車なしのわが家は、こうしてネットでまとめ買いする。
連れ合いは、昼と夜の食事どきに2センチほど水わりしたウィスキーを飲む。それが楽しみ、生きる喜びのひとつらしい。「もう歳だから血圧も高いし、肝臓に悪いんじゃない?」と言っても、「2センチと決めてるから」と、馬耳東風である。
猛暑の中、車から重い荷を運ぶのは楽ではない。仕事だから頑張っている宅配業者なのだろう。
配るといえば、一番身近に大変だなぁと思うのは、新聞配達と郵便である。
新聞は夕刊をやめたとか、朝刊もやめて主なニュースはネットで読むとかいう若い人が増え、新聞業界も大変だ。
朝刊の配達は早朝4時半ごろ、暗い日も寒い朝も。バイクの音で分かる。
一方、手紙の世界も何でもメールで用が済む時代になって厳しい。
犬の散歩や買い物で外を歩きながら毎日目にする光景、それは郵便職員が、背中の色がすすけたように感じる黒っぽい制服にヘルメットで、一軒一軒束ねた封書などをポストに入れる。猛列なスピードのバイクを飛ばしている姿である。働くとはそういうことなのだ。
真っ黒に日焼けした顔や首すじを見せながら、配る。配る。配る。確認し、ポストに入れる。
あて先は必ず大きく見易い字ばかりではないだろう。以前のように手書きの手紙は少なくなり、かなり広告っぽい印刷物が増えて、働き甲斐というか、気持ちの上での張り合いはどうなんだろうと思ったりする。
新聞もそうであるが、確かにテレビの映像よりは情報速度は遅いかもしれない。しかしどの新聞にも必ず読みこたえがある一文がある。中日、朝日、毎日と、3紙に目を通していつも感じる。
郵便でも思う。手紙なんて時代遅れと言われそうであるが、その人らしさが滲んでいる表現や文字に接して、しみじみ感ずる喜びがある。
少しくらい時間が遅くたっていいではないか。お互い当日でなく翌日には届く手紙に向き合い、しっとり世の中を感じることが出来る社会がいい。
新聞や手紙を日々配り続けてくれる人たちに、感謝する年配者がここにいる。
2、寝る場所がない
「さんきゅうだより」というニュースが届いた。ホームレスの人たちがアパート生活が出来るよう活動を続けているNPO法人で、さんきゅうハウスという。
以前ささやかなカンパをしてから便りが来るようになった。
「少子高齢化が進む日本では、一人くらしの高齢者が500万人にもなりました。そのうち生活保護受給者が215万で、その8〜9割が働くことが困難な高齢者、傷病者、障害者世帯です」
とあった。
格差社会というけれど、生きるためには最低寝る所食べる物が要る。豊かになったと言われる日本で、それがない人たちがいる。
場所は東京立川市、ニュースに記されていた40代の男性の場合「8月から生活保護費が切り下げられる。8月からは1000円、今後3年間で4500円切り下げになる」とある。
参院選挙が自民党圧勝で終わった。翌々日、途端に「集団自衛権来月にも議論〔朝日〕」「首相 憲法解釈変更に意欲 集団的自衛権行使で〔中日〕」。
二紙のトップ記事を見て、やっぱりな、と思った。
投票したのが2人に1人、52パーセントという低さ。自民党というより、野党がバラバラで入れるところがない。周りのそんな声が聞こえてくる。
そんな中で唯一明るいニユースは俳優山本太郎の当選だった。
原発反対でこの2年間、経産省前ひろばでテントを張って680日目という味岡修氏からのメールには「原発反対の山本太郎を応援してハチ公前のスペースは満員、夕方にはスクランブル交差点を挟んだ反対側の歩道も拍手と歓声で包まれた」と送られてきた。
そこに、庶民の底力がある。
日々仕事に追われ、選挙にも行く気が起きないという現役世代たち。
お金持ちになりたいとか、贅沢がしたいのではない。安心して働く場所が欲しい。先行きに不安ばかりではない、ささやかな希望をもって生きられる社会、普通に働けば、寝る所と食べることは出来る。
そんな世の中を望んでいるのだ。
放射能のために住み慣れたふるさとへ戻れず仮設住宅くらしの人たちがいる。
当選した山本太郎は言った。
「ばんざいだけはやらない。原発被災者のためにまだ何もしていない。何かできたときにバンザイをする」のことばに、心の中で思わずバンザイをした。
2013・7・28
運動を兼ねた買い物、それに車内読書のために自称「出歩きおんな」が、現役のような顔してよく電車に乗る。
先日も比較的空いた車内で座席を見渡すと乗客が10人だった。若い人8人が携帯に夢中、スマフォに必死だった。
残りは年寄りの二人で自分は読書、もうひとかたはゆったり車窓から景色を眺めておられた。時間帯がもう少し早いと、中年の人も増えていつも思う。みんな顔つきが暗い。というか険しく感じる。それだけ、現役世代の現実が厳しいのだろうといつも思う。
自分の現役時代はどうだったか。偉そうなことは言えないだろうなと思いながら、帰って書棚から以前読んだ本を出し、折ったページを読み直した。
「風の良寛」という書の冒頭で、著者中野幸次が書いていた。
「過去半世紀、日本人は便利、快適でゆたかな生活を求めて、ほぼそれを実現した。・・・かつては大尽〔だいじん〕しか所有できなかったクルマ、冷蔵庫、洗濯機などがどの家にも備わっているなんて過去の日本人には想像もつかない状態にある。テレビ、コンピューター、ファックス、携帯電話なども日用道具で…
そのゆたかになった社会に生きる自分たちに真の幸福感が薄いのか…ほんとうに幸福ならば、もっとまわりがいきいきとたのしげで、笑顔やよろこびの声がありそうなものなのに、どうもそんな気配はない。むしろ、電車に乗れば仏頂面をした、人をとがめるような顔つきの人が多い。無表情でちっともたのしそうではない、ギスギスした感じばかりが強い。…」
2000年発行だから、この本を読んでから13年の月日が経っていた。いま自分が感じている、人々の暗い、険しくさえ感じる表情は10年以上前にも感じた人がいたのだ。
良寛と言えば子どもたちとまりつき、自分にはそれくらいしかない「良寛さん」である。
「つきてみよ、ひふみよいむ、なやここのとお、十とをさめて またはじまるを」
生きるとは、つねに今日このいまを生きるだけ が身に沁みる。
名家を継いで地位に居座ってもいい良寛は、39歳で越後に戻り五合庵に住み、来る日も来る日も乞食行脚した。どこにも属せず、何も所有しないという生き方に賭けた。
みずからの一生を「無能の生涯」といいながら、心とか魂という世界、宇宙とか自然という世界の事柄においては最も醒め、生涯をそれのみに捧げて生きた良寛は多くの詩を残した。
首を回らせば七十有余年
人間の是非、看破に飽きたり
往来、跡幽かなり深夜の雪
一ちゅうの線香 古窓の下
生涯をふり返れば、はや七十有余年を生き…はまさに人生の卒業生を自覚する自分である。
良寛は人々が勝手に是非善悪を主張しあうのを見きわめるのに飽きあきした。夜更けまで降り積もった雪に、行き来の跡も幽かになろうとしている。古い窓の下に一本の線香を焚いて、座禅しているだけだ。
死病〔直腸ガンか〕で、下痢に悩まされ1831年〔天保2年〕に74歳で亡くなった。
筆者が書くように、世間の人は有であるのに対し、良寛は無である。
私たちも、1945年の子ども時代に無を体験した。
当時食うに食なく、着る物なく、何より住む家が空襲で焼かれてなかった。
あの飢えと、何もない無の時代を体験した自分たちと、親の世代である。
先に希望がもてないという若い世代。辛いときはあるよ。
自分たちも苦しみ、落ち込んだ時期はあった。でも必ず変化はある。何より若いときは体力がある。
物が溢れ、恵まれた時代に人間の幸せとは何かを考え、明るく生き生きした心と表情で「いまを生きる」といきたい。
2013・6・27
洗濯せっけんを10年近く取り寄せていた会社から閉店の便りが届いた。
「天然の植物油脂だけを原料としたせっけんです」という環境問題のささやかな抵抗意識と、従業員のほとんどが障害者と知って以来使い続けてきた。
閉店はもう一つ。数年前に店主が急死し、その息子が後を継いで来た商店街の酒屋。母親が体調を崩し、1人では切り盛りできないと閉店の挨拶に来てくれた。
配達もしてくれるので車がないわが家にはとても助かる存在だった。
消費者は大型店で安くまとめ買いする傾向で、個人店では成り立たないのだ。
なぜ商売している人のことを、自治体や国は見守ってくれないのか。
消費税により冷え込むであろう地元経済である。小さい店では、増税分を店側が負担するところも多いはず。
地域に根ざし頑張ってきた人たちが見捨てられたような二つの閉店で、少し政治をうらんでしまった。
2013・5・9 〔朝日新聞『声』欄5月8日掲載〕
半世紀もの無人駅での出会い
この駅は名古屋市郊外にある。名鉄犬山線の大山寺駅、1852年3月から無人駅になったというから、もう60年間無人駅で普通しか停まらない。以前、この地域は戸数100軒足らずの村で、中部電力の大きな変電所があるから、この名鉄電車で通う人も結構多かったようだ。
現役の頃、この駅から名古屋に通った。或るときは出勤前に名古屋の保育所へ子どもを預け、それから職場へ行くため、毎朝6時50分の電車に乗った。
子どもたちがこの地の保育園や学校へ通うようになると毎年、1月4日が新年御用初めだったので、駅員もいないこの駅から初出勤した。客は誰もいないときが殆どだったが、たまに知った人が一人「おめでとうございます。今日から出勤ですか?」と、お互いことばを交わした記憶が懐かしい。
いまのような車社会とは違い、こんな無人駅でもなくてはならない貴重な通勤の砦だった。現在、この無人駅のホームには狭い待合室があり腰掛が4つある。
出歩き女を自認するおばさんは、少しだけ早く駅について腰掛けて電車を待つ。
時間帯にもよるが、よく逢うのは書道の達人を目指す隣町の女性で「まだピアノ頑張ってます? お互いにがんばりましようね」と言い合う。
少し前、黙って腰を下ろすと「こんにちわ」と挨拶してくれる若い男性がいた。「ごめんなさい。どなたでしたかしら?」「塾でお世話になったSです」
真面目な生徒だった。しっかり成長し社会人として活躍中らしい。思わぬ嬉しい出会いだった。
その日の帰り、やはり塾生だった女の子の父親と一緒になり、いろいろ話した。定年で次の職場をとも考えたけれど、長年共働きしたのでここらで生活を楽しもうと、退職しいま横笛を吹いているとのこと。「能楽堂で吹いたんですよ」には驚いたし、嬉しかった。「私もピアノ楽しんでいますよ」と言いながら、駅から家近くまで歩いた。
「娘は国家公務員試験に合格し、今度岐阜へ転勤です」「先日赤ちゃんを抱いている所を見たけど、やはり共働きの頑張りやさんですね」と言うと笑って頷かれた。
小さな無人駅では、人とつい言葉を交わしてしまう。先日も中年の女性から「こんにちは」と言われ、その人はすぐサングラスを外してくれた。同じ町の人だ。「あっ 医療関係にお勤めでしたよね」と言うと、「退職しました。年金はまだ3年間貰えませんが…」の答えから話題が弾んだ。
「よく働きましたからね。どこまで働くかですよ」「これから楽しんで生きることも大切ですよね」と言うと、医療関係者らしく「そうですよ、『笑いヨガ』というのがあるでしょ?あれほんとに笑顔になれて、健康にいいんですよ」などと明るくしゃべり合った。
私たちの世代はいいのよね。いまの若い現役世代は大変ですよ。話がこんなに理解し合える方とは、思っていなかった。親しめる無人駅でよかった。
古代インドでは、人生を「学生期、家住期、林住期、遊行期」4つに分けて考える思想があるといわれている。まさに吾はいま「遊行期」と思えば、意識して楽しく生きねばと思う。
最近帰りが午後5時近くなった日が続いた。可愛い赤ちゃんを抱いた若い女性を、その母親らしき人が迎えに来ていた。「あれ?」よく見ると、またまたかっての塾生らしい。みんなよく勉強してくれたが、優秀だったその女性もこちらに気付いてくれた。
「やっぱり貴女だった。いつもお母さんがお迎えですか」と言うと、「保育園に迎えに行くので…」「共働きなのね。頑張ってね」で別れたが、成長した美人に心が弾んだ。
共働きが特別な目で見られることもあった40年前とは、時代が変わったのだ。 苦労かけた2人のわが子たちも、現役の中核世代、共働きでがんばっている。
狭い線路の踏み切りを渡るとき、村の人と目が合った。頭を下げて笑うとそのご婦人は「玉ねぎ要らない? 」と言われ「欲しい。いいかしら」と言うと、長い青いねぎの先に新鮮そうな白玉ねぎがぶら下がっている。
10個ほどを「どうぞ、どうぞ全然気にせんでいいよ」と手渡ししてくれた。「うれしい!。ありがとうございます」と頂いてしまった。
幸せな、危ない線路上でのやりとりだった。
「特別愛想がいいとは言えない自分でも、死んだお祖父ちゃんのように『口角上げて、目尻を下げて』が、やっぱりいい事を呼ぶんだな」。
戦後と同じ大震災に遭い、生活のめども立たない被災地がある。原発事故など、私たちの子ども時代のように、疎開して苦労している人たちがいる。それらを風化させず、それだから、なお明るく生きねばと思えてくる。
田んぼに整然と並ぶ緑の苗、田植えの時期だ。その新鮮な美しさが目に沁みる。
2012年6月3日
ひとり暮らしの義父と5年半同居した。毎年1回、近くの岩倉五条川で桜見物をした。「見事な桜だなぁ、名古屋の山崎川の桜よりすごい。もっと宣伝しなきゃ」と言っていたが、最近は桜名所百選に選ばれ観光客で大賑わいになった。
少し寒かった今年の春、近くの五条川桜を見に夫を連れ出した。昨夏の熱中症以来、ふつう生活は出来るが、少し遠くまで歩くとまだ疲れるという。現在も脳波などの検査継続中である。
見事な桜並木を歩くと花びらがひらりと散った。「散り始めたな、散る桜もいいね」などと言いながら歩いた。
いまは亡き祖父は、80代後半になっても背筋を伸ばして、毎朝、庭の入り口近くまで行って門を開け、新聞と牛乳を取りに行ってくれた。当たり前のようにして貰っていたが、朝は戦争のように忙しい共働きにはとても助かった。
義父が逝って20年、共に仕事を卒業した私たち夫婦は「人生卒業のボランティアだ」と、インターネットに開いたホームページに載せた文で、世の中といろいろ繋がっている。
朝、新聞と牛乳を門まで取りに行くのは夫、両手に抱えて台所へ持ってくる姿はじいちゃんそっくり。同じことを律儀にしている。
台所で味噌汁、玄米食をつくり、いろいろな野菜の取り合わせや魚を焼く。納豆など用意してから、1階の夫の先祖、2階の私の先祖の仏壇に、それぞれ花とご飯を供える。いま自分たちが在るのは先祖のおかげと、毎朝手を合わせて挨拶する。儀式と割り切っても心が落ち着く。それから朝の体操だ。
先日、夫の中学時代のクラス会があったが、75歳の63人中23人が亡くなっており、4割近くは率が高いと思った。戦後の極端に悪い食料事情が、名古屋の学校では深刻だった。疎開先の田舎だった私の中学では60人中せいぜい10人弱と聞いているが・・・。本当はどうなのだろう?
そう言えば『大往生したけりゃ 医療とかかわるな』が、7刷りで何度も書店の売り上げNO・1になっている。著者の中村医師は「『自分の死』を考えるのは、『死に方』を考えるのではなく死ぬまでの生き方を考えるということ」と言う。「棺桶に入って、これまでの人生を振り返ってみることですと、自分も実際に棺桶に入っている。来し方を振り返り、今後どう生きるか思いを馳せて見ることです」と。
16年間「自分の死を考える集い」を開いている。 全国から参加者があり例会は180回を超えているそうだ。
長年老人ホームの医師を続ける著者の、説得力が人々を惹きつけるのだろう。
先日、政界引退したはずの鳩山元首相が、イランへ行って勝手に首相とあったニュースを知り、夫婦で言い合った。
「甘い、おぼっちゃんだな」「全くネ、でも貴方も甘いと言えば言えるよ」「えっ?」「大学出てさ、さぁこれからというときに、共産党の常任になってくれといわれて素直に従った人、『折角いい大学まで出したのに、お前なんか勘当だ!』と家を追い出されたんでしょ?」
「そうだなぁ、君だって、党活動に必死で『例の1964年春闘のとき、4・17ストは謀略だ。中止させよ』って党中央の指令があったら、そのまま信じて、職場の前で『ストライキを中止せよ』とのビラを撒く先進党員だっただろ? 『ソ連の核実験はきれいな核実験』なんて、常識外れの言葉を鵜呑みにするなんて、いま考えると、恥ずかしいよね、全く。当時の社会党組合幹部が頭に来て当たり前だよ」
「世のため、人のための理想に燃えていたのにね、組織ってなんなのだろうと思うわ」
異見を抱いて、査問されたのは40歳。「くびだ」と、風呂敷包み一つで追い出された。桜は散った。
一人で法律の勉強をし、2年間裁判で闘った夫。働きながら活動し、一家4人を支え、借金に走り回った妻。孤独と貧乏と暗闇の2年間だった。
1991年ソ連崩壊で心が躍った。人々が自由で、よりましな生活ができるような夜明けを願った。
去年4、50代の文章仲間と花見をしたとき「いまの彼と結婚したのはどうして?」と言い合ったときのこと、最後に私が「思想の一致、趣味の一致」と言ったら、みんな「思想の一致? 全然わからない」って・・・時代が変わったんだ
人で賑わうさくら並木をゆっくり歩いた。また一枚、桜の花びらが舞い降りた。
「散るさくら、残るさくらも散るさくら」
2012年4月16日
名古屋市営地下鉄の階段を登る。
そこはメインの広小路通りが東西に走り、南北に広い道路が伸びている交差点である。目の前に10階の高層ビル、建物が高いのでいつもそのビル風にあおられる。退職してから20年以上の月日が過ぎ去り、このビルの設計者で当時お世話になった建築士はすでに黄泉の国に旅立たれた。
あの頃右肩上がりの日本経済が続いた。そんな状況の中でも、「官公庁があまり立派なビルを建てては・・・」と、気にしながらの建築士のことばが懐かしい。
ビルの1階には自動車メーカーと、スイーツ売り場が店開きして久しい。若い人が行列して順番待ちをするほど有名らしい。
暫く歩くとビルの片隅に、人が顔を隠すような感じで座り、下向いている。その前に大きなビニール袋にいっぱいの空きかんがふた山積んであった。この寒風吹くなか冷たそうなジュースの缶詰めが一つ置いてあった。ハッとして、思わず見直した。回りの雰囲気と違い過ぎる様子に胸が詰まった。
自分はいまからピアノレッスンに行くゆとり生活なのに、あの人は不運続きだったのだろうなぁ。
若い頃から働き続けた。長男が生まれ半年間の育児休暇は、その間無給だったから休みたくても取れなかった。連れ合いは給料遅配続きの政党常任活動、40年前、共働きは珍しかった。
いまでは当たり前の共働きも、あの頃大手企業のエリート幹部に言われた。「共働きは貧乏な人がするもの」と。だから、恵まれているいまに感謝しつつ、長年働いたご褒美と思っていた。
明日も文章関係の集いに出る予定だ。
一橋大学の名誉教授とご縁があって、「古代インドでは人生を四つに分ける。それは『学生期』『家住期』『林住期』、そして『遊行期』という考え方である」ことを知った。
この歳になって、残り少ない人生の「遊行期」、多少のゆとりは許されるのでは。そう考えると気が楽になった。近頃読んだ評判の本、五木寛之著『下山の思想』にもその章があった。
帰り道、再びこの地下鉄の駅を使って帰宅しようと、道路反対側の降り口まできた。降り口付近で寒そうな身なりで震えながら何か売っている人がいた。
あっ、いつか買ったあの雑誌だ。そう思ってその寒さに震えている人に言った。
「おいくらですか?」「ありがとうございます。300円です」。とてもうれしそうな笑顔に、ホッとした。
その雑誌『ビックイッシュー日本版』は、表紙に「300円のうち160円が販売者の収入になります」とあった。ホームレスの仕事をつくり自立を応援するボランティアの雑誌らしい。
編集の中身がしっかりしている。今回は特に特集「時間を旅する―宇宙からあなたの身体まで」で、好きな池内了氏が他の2人と共に書いていた文章に救われた。
池内氏は『多様な時間』という題で、「運転免許も携帯も持たず、小説を読んだり映画を観たりしている。本来文明の利器はゆったり時間を過ごすためだったのに、便利になるほど忙しくなるというのは・・・」
なるほど、同じく車も携帯も持たない者は納得、納得。
甲南大学教授田中修氏は「厳密に時間をはかる植物」、千葉大学准教授の一川誠氏は「伸び縮みする人間の時間」みんな面白く、読んだ。気がついたらビラが挟んであった。
「ビッグイシュー名古屋ネットは、販売者とボランティアの集まりですが、なかなか認知度が上がりません」。
ガン子が生まれたのは、働き盛りのつるさんの胸の中だった。
つるさんは、特別美人ではない。でも誰にも信頼されていた。みんなが信頼するのは、人の悪口を言わない。人の言い分によく耳傾ける。誠実で威張らないから。職場での信頼度は高かった。
つるさんは言ってみれば、れんげ畑。
バラ園やチューリップ畑のような華やかさはないが、背の低いみどりの草を土台に咲くれんげ草は、落ち着いた紫がかった紅色だ。風に揺られながら小さな笑顔を並べる幼子のようにも見える。
一面に生い茂ったれんげ畑を見ると、なぜか心安らぐ。ガン子もそんなつるさんが好きだ。
その頃、つるさんは子どものことで悩んでいた。
大事な娘が、引きこもりで職場に行かなくなった。考えてみれば、つるさんは忙しい職場で残業もよくあったが、娘の仕事の忙しさは並ではなかった。
時間外労働は月50時間以上だった。女でも責任を持たされるのが当たり前の時代になり、気持ちに余裕がなかった。
特に気を遣ってやることもせず半年近くが過ぎた。ある日、出勤しようとしても、できない娘に初めて気がついた。つるさんは大雑把な自分を責め、引きこもった娘を気遣いながら働き続けた。
そんな頃、つるさんは左の脇の辺りから乳房にかけて、何か突っ張るような違和感を感じた。
ガン子は乳腺で誕生した。成長は速くはなかったが、それでもガン子は、ガン子なりに大きくなっていた。
ガン子は居心地のいいつるさんの乳腺で、幸せな日々を送り始めた。
つるさんは、市役所から届いた「乳ガン検診を受けましょう」という通知を受け取り、「去年パスしたから、受けよう」となった。
医師は「初期の乳がんです。すぐ手術で患部を取ります」と、淡々とことばを続けた。
「えっ?手術ですって?」と驚くつるさんに言った。
「手術と言っても、いまは胸の脇から針を刺し患部を切り取るのです」。
ガン子は「やばいな」と思ったが、仕方がないと覚悟した。
恐怖の手術日、あちこち削り取られる痛みを必死でこらえて逃げ回った。
やせ細りながら、何とか生き残ったガン子はひと安心した。
胸はリンパ線がいっぱいで、いよいよとなればすぐ「転居」という手もある。手術が済んで、やれやれだった。
ところが、つるさんは研究熱心で、京都の病院がやっている「酵素療法」というのに惹かれ出した。大金を払って酵素療法に任せたとき、ガン子はやめてくれと叫んだ。
医師は分かり易い図を描いて説明した。
「誰でもガンを抱えているんです。図の真ん中が境界線で、左側に変な細胞があっても、まだ病気とはみない。右側になるほど破壊組織がどんどん増えていく。こうなるとガン、病と診断して、必要な措置をとるのです」。
なるほど、そう言われてみると、ガン子も何となく気持ちが落ち着き、まだ生き残ってやるぞと、元気づくから不思議だ。
つるさんは、基礎体力をつけるのだと玄米自然食にも凝り始めた。
都会育ちで、野菜は買うものとして育ったつるさんが、無農薬で野菜を育て始めた。食するのは玄米、無農薬野菜、大豆か豆腐だけ。生きるための食事療法は徹底していた。
つるさんは言う。「がんを治す決定的な力は、高価な薬や抗がん剤などではなく、玄米食、味噌、わかめだったと確信もって言える。6年半自分の体で実験した結果だ」と。
いつものつるさんと少し違って、強さのある言い方だった。
ガン子は「抗がん剤や薬を全部否定してるな。しめしめ、その方がわれらには有難い。けれど、そんなにがんも、世の中も単純ではありませんよ。
乳がんは散らばり易いが、固形がんで塊を作る骨とか脊髄とかのがん仲間は、抗がん剤でやられてしまうって、よく聞くよ。だから医者に『ほぼ治りました』と言われた人で、俄かにおれたちとの戦争に負けた有名人は多いよ」とこれまた自信ありげに言った。
近頃の研究者たちは、ガン子のすみかのような、「乳がん」と「子宮がん」だけを老化させる奴を見つけたんだとさ。そいつは「マイクロRNA」というんだそうだ。
先の大戦で原爆を落とされた広島。命が助かっても放射能によるがんで、大勢が苦しんだことをガン子は知っている。見つけた犯人は、その広島の大学研究チームらしい。
ガン子はそれでも「負けないぞ!」と、自分を励まし、逃げないで生きようと思った。
しかし、「マイクロRNA」の話を聴いてから気分が沈み、体力が衰え出した。
ガン子は「当分の間眠りながらときを待とう」と思った。そのうち、動き出すときが来るぞと考えて・・・。
でも、ガン子の精力の衰えは急速だった。
若かったガン子も、ばあばになったことを認めざるを得なくなった。
ガン子はつぶやいた
「つるさんの生きようとする熱意には負けるよ」。
「だけど、まだ動いて、生き延びる先はある。大好きなつるさんには悪いけど、すい臓なんかどうだろう。発見され難い臓器だから・・・。ま、つるさんのストレス次第だけどね」。
田舎道を犬と散歩していると、沢山の大根を細かく刻んで、風をあてるため斜めに広げた竹製の敷物に干してあった。切干し大根は干すことにより、大根よりぐっと栄養価が高くなるという。
傍に立っていた顔見知りの男性に、思わず「何日間くらい干すのですか?」と聞いた。
すると、答えは意外だった。
「盗られてしまうで、干せんのだわ。見張っている時しか、干せんのだわ。ほら、ここの所がないだろ?
この前もこの全体の半分くらいが盗られちゃって、ホント頭にきた」。
その男性が笑顔で語ってくれたことだけが救いだった。
そう言えば、農作物も道路近くに出来るものは平気で取っていく人があるから、柵や網で囲うという話もよく聞く。
ミツバチが養蜂箱ごと盗まれて大弱りという農家の人の話には驚いた。
また、ある新聞のコラム欄に載った「本屋閉店します」に衝撃を受けた。
何もかも不況で苦しい中、出版業界も例外ではない。
しかし、本屋を閉じる理由にあった「本の万引きで1冊盗られると、4〜5冊売らないと元がとれない。万引きの多さは驚くほどで、本屋はとてもやっていけないのです」。
なんで、こんな人の心が欠けた世の中になってしまったのだろう。
年寄り世代になった自分たちにも、責任があるのだろうかと考え込んでしまった。
朝日新聞 声欄 22・4・17 掲載
最近、夕刊を辞めたという友人が何人かいる。新聞を読まない人も増えた気がする。インターネットで情報が掴め、辞書もネット検索の方が速く豊富に分かる。
しかし、わが家は贅沢承知で二紙取っている。
10年前、長年の仕事を卒業し、夫婦で苦労してインターネットにホームページを開いた。表したい何かがあって開いた。レベルを下げないためには公正な情報が要る。
A紙は夕刊に読む記事が多いとか、人物や文化、コラム欄が優れているとか、B紙は時事、歴史問題がいいとか、或いはテレビで新聞ニユースの紹介はあるが、文化欄の特に優れた個人の文章、意見をみつける喜びはない。
まだ暗い早朝4時半、バイクが走る音で目を覚ます。それは新聞を配る人の音、いい陽気ばかりではなく、仕事とはいえ大変だ。新聞は一軒一軒配るしかない。
私も新聞配達の経験がある。名古屋から疎開して住みついた地では、村の集会所にまとめて新聞が来る。そこで区分して配る。
ときに、広い屋敷の庭に放し飼いされた犬に吠えられ、追いかけられたこともあった。
「もう少し配る時間を早くして」と言われたこともあった。
月末には代金を集めて歩いた。「ひとつどうぞ」と、おやつをくれたおばさんに励まされた。
日本が貧しかった昭和20年代半ばの思い出、新聞配達は中学卒業の日まで続けた。
新聞へのこだわりには、こんな思いもあるのかも知れない。
朝日新聞 声欄 新聞週間特集に掲載〔2009・10・16〕
永住許可が・・・・・私のささやかな日中友好
1年前、近くの中国家庭料理店で、頼まれて「長期滞在申請書」を書いた。
その夫婦は日本に来て10年近くなり、調理師の免許も取得した。
しかし、永住許可ではないため、何度も滞在申請の更新、再認可を出入国管理局へ出し、不安と不便な生活をしてきたという。
中国語と日本語チャンポンで話し「文章カケナイ」と、片言交じりの日本語で頼まれたのだ。数ヶ月に一度くらい昼食に行くが、昨日食事しに行ったら、奥さんがコップの水を私たち夫婦に差し出しながら「許可ガデマシタ」と、笑顔で迎えてくれた。
いろいろ面倒な申請をしてから半年以上経ち、先月やっと念願の永住許可が下りたとのこと。「そうですか。本当によかったですね」と、喜び合った。
昨年2月21日の新聞投書欄に、「ささやかでも 私の日中友好」と題した拙文が載ったが、1年前の店主の困った表情を、そして、朝から深夜までの営業で忙しいのに、夫婦と息子まで出てきて、渡されたメモを懐かしく思い返した。
「日本好き、息子大学合格した、調理師免許、日本人に本物料理を・・・」。文字から切実な願いが迫ってきた。
深刻な不況のせいか、地味ながら、味がよく、値段も安いこの店に客の数が増えていた。
店主が「お礼です」と、一品余分にサービスをしてくれた。
食後、近くで見つけた花を、心ばかりのお祝いにと届けることが出来、庶民同士の日中友好だったなと、いい気分になった。
12月の冷気で、わが家のさざんかの垣根も、紅白そろい組みで競い始めた。
30年前、通勤途上の幼稚園の垣根が、凛としてさざんかを咲かせていた。あの頃、夫は失業し、精神的にも経済的にもわが家はどん底だった。
請われて政党の専従活動家になり、忠実に任務を果たしていたが、組織の方針に疑問を持った。党勢拡大、つまり機関紙と党員を増やすことのみに偏った活動に、大衆の要求を闘う運動の指導はまるで入り込む余地はなかった。
会議で発言しても、一面的にとられて批判され続けるだけ、こころある同志と話しあったら、分派活動と批判され、21日間も監禁査問された。
同じように活動家だった妻には、何も知らされないので、いつものように泊りがけの会議が毎日続くとばかり思い込み、事務所の入り口で洗濯物を受け取り、着替えを渡した。
そして、退職金もなく、風呂敷包みひとつで組織を追い出された。
これは自ら選んだ道、政党の専従活動家なら何があっても覚悟のうえだから文句は言えないかもしれない。
専従活動家の給料は、当時で約10万円、それも遅配が常態だから貯金も何もない。
当時は、世の中の革新への夢があり、希望があった。
資本主義社会の矛盾、繰り返す恐慌、多くの良心的な人たちが社会主義社会への希望を持った。計画経済、平等社会に。
社会主義の次は、必然的に共産主義社会になり、自由に働き、必要に応じて受け取る理想社会になる。
これが社会発展の歴史的法則である。マルクス・レーニン主義こそ真理と学んだ。
革命の拠点として、綱領決定の大会に代議員に選ばれた。県や地区の会議ではいつも先進的手本として、活動報告をさせられていた。あの必死さ、真剣さをピエロだったと思いたくない。
ただ、終身雇用が崩れた現代の厳しさから考えると、過去の経過があったにしろ、年次休暇、生理休暇など「働く者の権利の主張」に行き過ぎた、思想的にはやや一面的なところがあり、世の中変革の夢破れたいまとなっては、その運動の先頭に立った者として、恥多き人生だったとは思う。
夫は、政党を相手に「専従解任は不当」と裁判に訴えたとき「君に迷惑をかけるといけないから離婚する」とも言った。「じゃ2人の子どもはどうするの?」胃がきりきり痛んだ夫婦の激論だった
それに対して、組織あげての反党分子キヤンペーンが繰り広げられた。
一人で法律の勉強をしての裁判なのに、どこかと連絡をとっているのではないかと、自宅の張り込みが続いた。
自宅から近い中電変電所に、いつも不審な車が止まっていた。それは、玄関を出ると視界に入る位置で、人がこちらを伺っていた。
散歩に出ると、距離をおいてその車がついてきた。尾行は、本人の精神的破綻を期待するかのような、執拗な攻撃だった。
あるとき、小学生の長男が学校から帰って「変な車がそこに止まって、中の人がこっちをみているよ」と言ったので、夫は玄関から靴を持って来させ、裏の部屋の窓から飛び降りて、車まで走った。
「お前は、誰の命令で毎日張り込みしてるのだ!」と怒鳴った。急発進して車は去ったが、メモしたナンバーを陸運局で調べたら、持ち主はトヨタ関連の組織が、県委員会の命令で見張っていたことがわかった。
経済的貧困もさることながら、生死を共にするとまで支え合った同士たちのすべてが「中央がすべて正しい」の姿勢で、「本当は何があったの?」の質問は誰からもなく、それが何よりこたえた。
普通なら、同じように査問された人たちの多くがなった自律神経失調症になる日々だった。妻の友人はその話を聞いて、よく自殺しなかったわねと、驚いていた。
夫の脳は、知能的鋭さと、人格的なのんびりと抜けたところが同居している。病気にならなかったのはそれ故ではないか、毎日、仕事から帰って話を聴く妻は、そう考えた。
友人たちに助けて貰った借金も限界になり、生活のために裁判を打ち切り、始めた学習塾だったが、最初から50人近い子どもが来てくれた。
夫婦で、学校の門前でビラを撒いた。先生が出てきて、配布を止めるようにいわれた学校もあったが、これは活動慣れした2人には何ともなかった。
夫は大胆にも、名古屋の大手進学塾へ飛び込んで、テキストを使わせて欲しいと頼んだ。すると、相手は偶然にも父親が校長時代の教頭だった。「本当は駄目ですが、お世話になったお礼です。テキストはどうぞお使いください。教室は2部屋作りなさいよ」。
深刻な苦闘の日々が続いた2年間だったが、その出会いが運を切り開く発端になった。
妹に30万円を借り、労働金庫に預けると、150万円借りることができた。もしもの場合の保証人は、危険ありで嫌なものだが、職場の友人が保証人になってくれた。お陰で物事が進み始めた。
知り合いの大工さんが、「困ったときはお互いさま」と言って、仕事仲間5人ほどで来てくれた。
そして裏地に借りた土地に、1日で塾舎を建ててくれた。
建設の槌音が響いた。高らかな槌音に、あのときほど胸躍らせた記憶がない。
進学実績も上がり評判になると、生徒は毎年どんどん増え続けた。
これはあの教頭先生のお陰、大工さんたちのお陰、教えた子の親たちのお陰である。子どもか増える時代で、経済的にもやっと立ち直れた。
1989年から東欧革命で社会主義国が次々崩壊し、91年ソ連邦の崩壊で、権力のためには平気で命を抹殺する社会が終わったことに、血が踊るほどの喜びを感じた。
どんなことも真に理解できるのは、体験すること。貧困も、子育ての苦楽も、職業を持ち続ける苦労も、或いは障害者を育てる苦労も喜びも。
理想の崩壊、ユートピアの崩壊に直面したとき、その建設に全てを投げ打ち、しかも、そこから排除され苦闘した体験者だけが、血が踊るほどの喜びを味わうのではないか。
女ひとりの給料で一家4人を支えた2年間。何回も、友たちに借金を頼み、しのいだ体験があるから貧困、貧しさは人ごとではない。現在の貧困は、不安があるだけで何の夢も希望もない。
とりわけ、この昨年末の大企業各社は、世界的不況の深刻さにあわて、住む場所も追い出す残酷な「派遣きり」を実行している。
先日、第8回大仏次郎論壇賞を受賞した『反貧困「すべり台社会」からの脱出』の湯浅誠氏は、反貧困ネットワーク事務局長で実際に貧困と向き合いながら、執筆した。
従って、選考委員諸氏はみな「研究力と実践による説得力がある。貧困問題に取り組む社会こそ、つよい社会であるという提起」を評価していた。
湯浅誠氏本人のことば「貧困は『彼らはかわいそうだから、何とかしてあげましょう』という問題ではなくて、私たちの社会をどうしていきたいか、という問題なのです」と、簡潔に意見を述べている。
また、教育社会学者本田由紀氏の「悲惨」という題の文章の中で、湯浅誠氏の「反貧困」を引用し、
「金銭、人間関係、教育歴などの諸資源が不足している人々が、よりむき出しの『悲惨』に直面することになる」とし、
「地震が逃れられない天災であるのに対して、社会的な『悲惨』は人災である。・・・それに直撃された人々に対して『悲惨』を相対的に免れ得ている人々から、侮蔑や無視、時には憎悪すら注がれがちである」と書いている〔岩波書店「図書」12月号〕>
これを読んで、「哀れみなら分かるけれど、侮蔑?まさか」と思った。
しかし、よく考えてみると似たような経験はあった。
現役時代、殆どが男性のエリートたちが配属される部局で、結婚より仕事一筋の、独身のキャリアウーマンたちが、立派なスーツで出勤していた。
子持ちは、パンツスーツだったが、ジーンズの身軽さに惹かれ一時期切り替え、ジーンズで通した。
通勤途上で会う男性の中に、感じた視線がそれだった。いまなら、ジーンズ大流行で、通勤女性の8割近くがジーンズとみたが・・
30年前のジーンズ着用は、ファッションの先進だったのだ。
また、ある時仕事が終わった夕刻から、子どもを保育所から引き取り、会議に出かけた。会議を終え、子を背負って通勤の大きなカバンを持ち、私鉄の駅ホームに立った。
夜10時近かった。そのとき、同じ局社で働く他部門の男性に出会った。
無言で注がれた侮蔑の視線は忘れられない。
紅白の山茶花が12月の寒風の中でひときわ美しく咲き競っている。30年前と同じように。
そして30年前と同じように、悲惨の中で泣いている人たちが大勢いる。
あの頃と違うこと、
それは、唯一絶対という考え方は間違っていると納得できたこと。
1989年からの東欧革命、ソ連邦崩壊以来、人は助け合い、信頼し合えるということがわかったこと。
そして、この花のように、人はやがて散りゆくものだ ということである。
出歩き女 のつぶやき
わが家には車がない。
一軒の家に車2、3台留めてあるのも珍しくない時代なのに・・・。
夫婦でインターネットにホームページを開いて10年、下手な文章を綴り続けているのに、ケータイもない。
「いまどきケータイもたないなんて、不便でしょ? 時代に乗り遅れてしまわない?」
郊外だから、敷地も広い。だから「これだけのお家に住んで車がないのですか?」 と驚かれる。
質問はもっともな常識感覚だ。
近頃は外食全盛時代、近くのラーメン店やイタリー料理店に、若い人たちがマイカーで外食を楽しみに来る。家族と、或いは友人と、ドヤドヤと車から降りて食事処へ吸い込まれる。特に土曜、日曜はそんな人たちが多い。
女が3度3度、食事の支度や買い物に追われる時代ではない。働く人も増えているし、家事に追われっぱなしより、女もゆとりをもって家族や友人とくつろいでする外食も悪くない。
わが家も時々外で食事するが、その店までは意識して歩く。
スーパーなどへの買い物でも、年寄りは歩きか自転車、若い人ほどマイカーで駆けつける。たしかに、小さい子がいるから、仕方ないという人も多いだろう。でも、そういう人ばかりだろうか?
仕事でどうしても車が要るという人は当然、マイカーは必要であるが、エコ、エコと声高に叫んだり、スーパーのレジ袋有料化もいいけれど、近くの買い物くらいは自転車にしたい。
便利だからと、近くでも安易に大きな車で買い物をしていては、CO2削減目標なんて達成は不可能だと思う。
例えば、子どもが3歳過ぎたらマイカーでの買い物自粛とか、歩きか自転車利用の人にはCO2削減証のスタンプが貰え、割引で買い物ができるとか、そうなるともっと関心が高くなるのでは・・・なんて勝手に考えたりしている。
そんなある日、次のような新聞のコラムを読んでホッとした。
「いまどき車に乗ってるのは格好悪いんです」。「うちの大学でチャリ〔自転車〕通勤が増えてきたんですよ。このままじゃまずいと考え始めた」。
これは、ある大学の、教授のことば、勿論考えたのは地球の未来のこととあった。
近所に、中国人夫婦が開く家庭料理店がある。腕が確かでおいしく、値段が安い。
ぎょうざ問題の影響を受けているのではと、久しぶりにでかけた。
客はいなかった。
ゆっくり、ぎょうざと白身魚の野菜和えにおかゆを味わい、満足した。
奥さんは日本語が話せるが、料理をするご主人とは中国語で話している。
と、ご夫婦が私たちの席へ来て、中国語交じりの日本語で何かを書いて欲しいと、メモを渡した。
それは、出入国管理の役所へ出す「長期滞在申請書」だった。
「私たちは日本に10年近く住み、調理師の免許もとりました。
妻と息子も日本に滞在することを望んでいます。長期滞在の許可を申請します」とまとめた。
すると息子さんも出てきて、メモを見ながらしゃべろうとする。
メモには、日本好き、大学合格、日本で中国料理、などが読み取れた。
私は、申請が認められることを願いながら、ささやかな日中友好の気持ちで次の文章を書き足した。
「日本が好きです。息子も今年、大学工学部に合格し、この店の評判も上々です。
調理師免許を生かし、日本の人に中国料理を味わって欲しい」と。
(2008・2・21 朝日新聞 声欄 掲載)
師走になると、夕方から街がぐっときれいになる。イルミネーションが輝く。
サンタやトナカイ、可愛い列車や鳥たちを形どった色とりどりの光の競演である。
木々の枝1本1本に取り付けた豆電球。美しいけれど、大小さまざまな木には、負担だろうな、多分。
立ち並ぶ木たちには悪いけれど、宝石が光るような街の美しさには心が弾む。
一方、京都清水寺恒例の行事、今年の漢字は「偽」だそうだ。
庶民はよく分かっている。
防衛省から食品の数々まで、偽りに満ちていた。自身もふくめて、ほんとうに人の心は少し順調だと、すぐ傲慢になる。
延々とゴルフで接待を受け、国の防衛関係を私的な利権に使う。軍需産業は何しろお金の桁が違う。まさに、死の商人、米国のそれも絡んでいるとなると・・・。これはただ事ではなくなってくる。
年金問題でも、呆れるほどのいい加減さである。大勢の人が、長年かけた年金が不払いにならないか、大きな不安に怯えている。
C型肝炎の集団訴訟はほとんどの原告が女性である。出産と関係がありそうだ。
製薬会社と国の責任というが、命がかかっている。特に製薬会社「みどり十字」は、以前もHIV訴訟で問題になったし、何より人体実験した悪名高い731部隊なんでしょ?
このHPでも、森村誠一氏の貴重な体験を載せているけれど・・・。
考えれば、空恐ろしくなる。
そんな、深刻なことばかり多い、気忙しい年の瀬のある日、午後4時の私鉄に乗ろうと、駅まで5分ほどの距離を自転車で走っていた。
四辻を左に曲がったら、右側からイケメンの男性が、同じように自転車で走ってきた。
歳は四〇代ぐらいで、上着も格好よく着こなしている。すると、そのイケメン男の左手から、軽い音を立てて何か落ちたので、思わず大声で「あっ!何か落ちましたよ」と言った。が、その男は声を無視して自転車で走り去った。
仕方なく自転車を降りてよく見ると、それはタバコの空箱と一緒に捨てられた袋に入った紙くずだった。
公道に堂々とごみを捨てて、平気な感覚が分からない。なにがイケメンだ。近頃、こんな人が増えたなぁ。
何がイケメンだ。おしゃれが泣くよ。
声が行き場を失って、あたりを漂った。真面目に大声で話しかけてやって損した。
妹夫婦は60歳で退職後、誰に頼まれたわけでもないのに、毎日、散歩のついでに、黙って道路に捨てられた空き缶を拾い集めている。
そして、昨日読んだ新聞記事にいい事が書いてあった。もう1度しっかり読み直した。
岐阜県のある店、その店で高校の先生が、「生徒が勉強しない」と悩んでいるのを知って、店に大きな檄文を書いた。
「80点以上とると、コロッケ2個おまけ」と。
コロッケは40円売りを18年間通しているのだそうだ。連日30人ほどの生徒が立ち寄るとか。
親父さんは79歳、胃と大腸を切除したとはとても思えない。背筋を伸ばしたいい姿勢だという。こうして近くの学校の生徒たちを励まし続け、悪いことしたり、ズボンがずり落ちそうに履いている子には、きちんとしないと売れない。そう注意しているとか。
エライなあ。こういう心がけの人がいると知っただけで救いになる。
私も見習わなくちゃ。
安心して生きられる人の世は、こうしてみんなで創っていくものなのだろうなあ。
この年ももうすぐ終わりだ。
〔2007・12〕
ガスが点火しないときがある。流しの下の開き戸が壊れた。築20年にもなると、家もあちこち悪くなる。火の扱いは慎重にしなければいけない。以前、自転車置き場を作って貰ったトタン屋さんに連絡した。
トタン屋さんのグループで仕事をしている人が、台所を見て工事見積もりをしてくれた。
始めは「工事手付金で5万円お願いできませんか」だった。
数日して「電気工事屋さんに5万円を」「台所壁材等の工事屋さんに10万円を」。さらに「メーカーへの支払いのうち、何万円かを工事開始の時支払って頂けませんか。完成時に全額支払で結構ですが」。
腕の確かな、信頼できる人たちだから出来るだけ都合した。
要するに、どこも零細業者には資材を出さないのだ。資材がなければどんなにいい腕でも仕事はできない。自分で支払うだけの財力はない。だから「前借りで・・・」ということになる。
わが家も年金生活、リフォームもこれで最後だ。
今年3月、「前借りで願います」と題して新聞に投書し、掲載された。その続編になってしまった。
事態は深刻らしい。一部の大手業者以外、みな必死で仕事探し、資金ぐりに悪戦苦闘と聞いた。
工事が完了して、トタン屋さんのお母さんから電話があった。「お礼に伺いたいのですが、息子が体調を崩しまして、伺えませんのでよろしくと申しておりました」
「えっ?どうかされたのですか?」「はい、仕事中に倒れて病院に運ばれまして・・・。過労か栄養失調かしりませんが、栄養剤の注射を打って貰って元気になりました」。
給料の他に、1ヶ月50万円も100万円もの政治資金が支給される政治家、「何万円の領収書から出せばいいか」でもめている。政治をする人は特権階級ではない。
国税庁の調査で、民間企業で働く人の平均給与は9年連続で下がり、年収200万円以下の人は、1000万人を超えたとのこと。
前借りでしか仕事が出来ない人たちの現実を、一度しっかり見て欲しいものだ。
ひろ子の学校帰りは、いつも仲良し4人でぺちゃくちゃしゃべりながら歩いた。
街中の駄菓子屋は、クラスが隣のすみちゃんのお母さんがやっていた。バラ売りの飴や、くじつきのお菓子は人気があった。めったにくじは当たらなかったが、みんな楽しんで買っていた。
隣が肉屋、ガラスケースに美味しそうな肉が並んでいた。赤い霜ふり肉はあまり買わないけれど、母に言い付かって豚肉は時々買った。客も結構あり、大柄な小父さんと、丸顔の小母さんが順番に、愛想良く売ってくれた。
呉服屋が2軒向かい合わせに並び、同じような着物を売っていた。ひろ子にはそう見えた。茶碗屋、布団屋さんがあり、その向かえが畳屋さんだった。おやじさんが、いつも大きな針で畳のへりを縫っていた。
少し先に美味しいと評判の中華料理店があった。店で見たのはいつも小父さんだけだった。無愛想だったが、評判が悪くなかったのは、腕がよかったのだろう。
この店の角を曲がった奥にお寺があり、珍しい菩提樹の木があった。かなり太い幹だったが、松かさのような細かい割れ目があった。ここでみんなと別れる毎日だった。道はやや細くなったが続いており、この先にひろ子の家があった。
長い間、この商店街はそんな風景のまま、特別賑やかに人が押し寄せるわけでもないが、つぶれもせず、地域の人たちが買い物する場だった。
学業を終え、社会人になったひろ子は、或る年の職場旅行で北陸の蟹を食べに行った。
蟹は1人1匹ずつで、食べ始めるとしゃべってはいられない。みな、黙々と食べた。蟹みそから始まり、足の1本1本までしゃぶった。それからが、やっと楽しいおしゃべりのときだった。若さもあり、酒の勢いもあって大声が飛び交った。
同じ部署のふみは丸顔の美人で、お酒にも強く人気があった。ふみは、男まさりで、負けず嫌いのやり手だったので、ボーイフレンドは沢山いた。男性では、みんなが一目おいていたのは健で、仕事も出来たが、笑みを含んだ眼に特徴がある表情は独特で、人気があった。
ふみは、彼らと行動を共にし、飲んだりおしゃべりしたりのときを楽しんだ。仕事では、男に負けないだけの自信もあった。が、特定の男性と生涯を共にするのは、縛られるようで抵抗があった。
大勢の男性と女2人は、会話も噛みあい北陸の蟹の夜を楽しんだ。
宴たけなわのころ、トイレに立ったひろ子は、何となく海の匂いが嗅ぎたくて外へ出た。
空の星が大きく、こぼれそうだった。空気が綺麗だと、星空はこんなにも違ってくるのかと驚いた。
少し離れた所に人影があった。後から来たのは健だった。2人の他には誰もいなかった。近寄った健は、ソッとひろ子の手を取って言った。「好きだよ。憧れてた」。
健が好きなのは、やり手のふみだと思いこんでいたから、ひろ子の心は高鳴った。
あの夜から、もう5年余りも経っていた。
健と結婚し、2児の母になったたひろ子が、久しぶりに子ども時代を過した商店街を通ると、新しい店が開店していた。当時は珍しかったジーンズ専門店だった。
好奇心旺盛なひろ子は、流行のパンタロンスーツがお気に入りで、通勤に愛用していたが、米国で流行しているというジーンズを手に取ってみて、気取らない木綿地の感触に惹かれた。試着して気に入り、太目のパンタロンスーツに替えて、これで職場に出勤してみようと決めた。
「この職場は管理部門、女性はきちんとしたスーツで来るべきよ」。そんな批判の声を上げたのは、同じ部に働くふみだった。男社会のこの職場で、女性の数は1割以下だった。仕事のやり甲斐に燃える独身女性が多かった。
生き生きと職場で働く女性たちの仲間で、よく旅に出た。「年末年始やゴールデンウィークはイヤね」「そうね、私もそんな連続休暇は大嫌いよ。親子が楽しそうにくつろいだり、買い物したりの光景はあまり見たくないわね」。旅に出て自由な雰囲気に浸ると、幸せを感じると言い合った。
きちんとした服装で、という感情は仕事に生きる者のプライドで、結婚してこぶつきの者には負けたくないという気分の裏返しでもあった。ふみたち独身仲間3人は、経済的に自立してマンションを購入した。名古屋の高級住宅街のマンションは流行の先端で、仲良く相互に行き来し合った。
ひろ子は、ジーンズ通勤への反応を予期したとおりだと思ったが、2人目を妊娠し、切迫流産で病気休暇を取ったときのことを思い返した。当時の上司は「あんた!休んで子どもなんか生んで!」と言った。あのときのショックを考えたら、なんのこともなかった。試みたジーンズ通勤を止める気はなかった。
それは、小さな子を保育園へ送り迎えするのに都合が良かったし、仕事上で特に営業関係のような客を意識する必要がなかった部署だったから。
ひろ子は、長年働いた職場を定年前に辞めた。ファッションで、あんな迷いがあった頃を懐かしく振り返った。いまのジーンズのようにピタピタではなかったが、このジーンズ全盛時代は、当時とても考えられなかった。女の働く歴史は、闘いの歴史であり、ファッションの歴史でもあるのかな、と勝手な考えを楽しんだ。
そして、新しがりやの先見性も捨てたものじゃないなとほんの少し愉快な気分になった。
毎日が日曜日になり、ふと思いついて、若いころ、ときどきギヨーザ、ライスを食べた中華料理店へ、久しぶりに出かけた。
ない! あんなにはやっていた中華料理の店はシャッターが下りていた。呉服屋は2軒とも移転したとか。肉屋も、畳屋もシャッターが下りて廃業だった。ちょっとした小物を買おうと、辛うじて店に布団が並んでいた布団屋に入った。
布団屋の若い主人は多分2代目だろう。ひろ子の問いに答えてくれた。「畳屋の小父さんは病気で倒れて、店を閉めたんです。畳も需要は極端に減ってきていたようです」。「茶碗屋さんは特徴のある赤土の常滑焼を多く扱っていたんですが、中国からの輸入で、そんな急須は百円で買えるとかで、とても採算なんか合いませんよ」。
軒並みシャッターが下り、すみちゃんのお母さんがやっていた駄菓子屋も普通の家になっていた。ひろ子は、かつては生き生き人の動きがあった街が、シャッター通りに変わった道を、胸をつかれるような思いで歩いた。
比較的新しい店のはずだった、ジーンズの店がガラス戸越しに見えたので入ってみた。店内は着物をリフォームした服が並んでいた。
品のいい白髪の婦人が、ひとり店番をしていたので話しかけた。「随分以前は、お宅のジーンズをよく買いましたよ。ご主人は、お元気ですか?」「そうですか、主人はいま他所へ働きに行ってます」「でも、いまはジーンズ全盛ですよね」「ダメですよ。安いユニクロに圧倒されて・・・。私が辛うじて着物をリフォームした物で遊んでいるくらいです」。
ひろ子は、シャッター通りも、ここまでとは思わなかった。
自分たちの人生も、やがてこのようにシャッターが下りる。結婚しなかったふみたちも、愛する人と命を育てる喜びを味わったひろ子たちも、みんな。
この通りはその象徴のように思えてきた。
ひろ子は、急にあの菩提樹に逢いたくなり、思い切って遠回りをした。久しぶりに逢ったその木は、幹がひとまわり太くなり、ひび割れた皮を着たようになっていた。しかし、大きく空に伸びた枝たちは逞しく、生まれ変わった若緑の葉を、4、5センチもあるほどに輝かせていた。
その若い緑の1枚1枚から、シューベルトの心に沁みる『菩提樹』のメロディが流れ、ソッとひろ子を包んでくれた。
以前、自転車置場を作って貰ったトタン屋さんから、突然電話があった。
「何か毀れたような所はありませんか?」
「特別何もないですね」。
「前に直させて貰った裏の物置の透明トタンが、確か外れかけたままだったと思いますが・・・」。
住んでいる者より、詳しく家屋の状態を知っているこの職人さんは、2月は仕事がなくて困っているから、直させて欲しいと懇願した。
それならと、岐阜の遠い町から来て貰い、簡単な工事を頼んだ。
「アノー 誠にすみませんがトタン代3万円、前払いで頂けませんでしょうか?」
「いいですよ」。思わず大きい声で言った。
見栄も外聞もかなぐり捨てて、工事材料代金の前借りを申し出る職人さん。仕事の態度は誠実で、腕はいい。材料を仕入れるお金さえ無いのかと、同情した。
暖冬とは言え、家の北側はまだ2月の北風が身を刺す。朝9時から、透明トタンを打ち付ける木材部分を直しながら、早々と工事を終えた。
「これで、強風や台風が来ても大丈夫ですよ」のことばにホットした。
「少し、相談したいことがあるんですが・・・」。
この際と、風呂場の戸と洗濯機の間の僅かな隙間の板が、どうもブカブカしているようで気になっていると言った。
トタン屋さんは、靴を脱いで浴室まで来てチェックしてくれた。
「これは、どうしても風呂場の湯気や水分がこういう所に溜まって、腐りやすくなるんです」
「トタン屋さんでも、この板の腐りかけたのを取替えできます?」
「わたしたちには、グループがあるんです。明日その人を連れて、また伺います」。
見積りはおよそ15万円だった。「この際ですから、お願いします」と、すぐ決断した。
「アノー 申し訳ありませんが、材料費のうち6万円だけ前借りお願いできますか?」
「いいですよ。いいですよ」。木材を整えるお金も、材木屋に先借りする顔もないんだ。
翌日、トタン屋さんは50代らしい大工さんと木材切る人、釘打つ人、外したり組み立てたり、手際よくやってくれた。
「土台の柱から取替え、防腐剤も塗っておきましたよ」との完了報告だった。
予定外の出費は痛かったが、築18年の家の水廻りは完璧になった。
ひといきついて3時のお茶にした。
居間の片隅のパソコンを見つけ「2階も1階にもパソコン置いて、ご夫婦でやられるんですね」
「わたしら、丈夫な体があるだけで、なーんにもできませんわ」
「とんでもない、工事のプランを立てなきゃならないし、いい腕をお持ちで。仕事が途切れず、順調にあるといいのにね」
「春先はいつもこうです。工賃は以前の3分の1だし、メーカー大手に行けばそれ以下で、この先もどうなるか不安ばかりですわ」。
プランを立て、材料の仕入れ設計、施工、それに営業までこなす、まさに総合職なのに・・・。とひとりごと。いつの間にか、企業ばかりが儲かるシステムに変わったの?
格差社会の片鱗に触れた思いの、3日間だった。
(朝日新聞・声欄 2007年3月17日掲載)
名古屋駅から官庁街まで、自転車で走る。
バスは時間がかかる。通勤時間を5分でも、10分でも縮めたい。自転車通勤に切り替えておよそ半年、遅刻もなくやや早めに出勤できるようになった。
朝8時前、住宅街の狭い生活道路を選んで走る。四辻だ。まだ人通りも多くない時間、職場まであと7、8分で着く。もう少しスピードを上げようと、右足のペタルにぐっと力を入れた。その瞬間、車を見たような気がしたが、何が起きたのか分からない。
ただ、倒れた自転車と一緒に、道路に座り込んだ自分がそこにいた。痛くも何ともない。何の音もしない無音の世界だった。
その辺りの人たちが家から飛び出して「ボーンというすごい音がしたねー」などと話していた。
自転車は、横あいから来た車に飛ばされたらしい。
自転車は、生身の人間がむき出しに乗っている。刺身のようなものだ。
車の男性も、出勤時間が迫っていて四辻での一旦停車を怠ったらしい。
「四辻では一旦停車じゃないんですか?」と、自転車も一旦停止と知りながら思わず非難した。「どうもすみません。急いでいたものですから・・・」。「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。真面目そうな青年と見た。
私が何とか立ち上がったのを見て「何かあったら連絡してください」と、紙切れに名前と電話番号をメモして私にくれた。それを私が受け取ると、車で走り去ってしまった。
左の腰から足がおかしい。ビツコひきながら、それでも自転車に乗り、30分ほど遅刻して職場に着いた。
上司に事情を話すと、すぐ厚生課の係員が跳んできた。取りあえず病院の診察を受けるようにと、指示された。
「ところで、その車のナンバーは?」と訊かれ「ナンバー?・・・知らない」。
その人はあきれ顔だった。「こういうときはね、何より、まず車のナンバーですよ」。言い聞かせるようなやさしい口調だった。
左の腰から足の不調は、ねんざだったのか、治るまで3ヶ月かかった。
30代が終わる現役時代の、瞬間の出来ごとだった。
1、私って認知症?
先日、買ったばかりの傘を名古屋駅の洗面所に忘れた。夜八時半ごろだったが、家へ着いてすぐ駅の忘れ物係に電話した。係りの人の答えは「女性用トイレですから、終電車が出てから確認します」。翌朝確認したら、やはりなかった。事故でなかったのは幸いと思うことにした。
数日後、旅に出た。時間を忘れ、のんびりと走る、静岡県大井川鉄道のSL機関車に乗った。新緑の季節、平日でも満員の列車は汽笛の音も懐かしく、ゆったり茶色の煙をはきながら、茶畑の間を走った。
深いみどり、黄色っぽいみどり、葉先だけ薄茶のみどり、風までみどり色のような気がする新緑列車だった。
終点の売店で買い物をして、傘のカバーをカウンターに忘れた。手に持つ物が傘、カバー、それに買った物と3つ以上になると、全てに気が廻らなくなるのは歳のせいか。
おまけに、夜、旅館で荷物の整理をしていて、往復切符の帰りの分を、要らない物と一緒に破ってしまった。
わたしって認知症? とやや不安になった。夫は不安をあおるように言う。「三連続だからな。後から考えると、あのときが曲がり角だったということになるかも・・・」そう脅す。そして、帰宅した朝、一大事とばかりに言った。「夫婦ともが認知症になった夢をみたよ」。
2、Hさんが?まさか
最近、同じ町内のHさんが認知症と知った。
買い物をされるのはいつも夫婦一緒、温和な表情の人で話しかけやすい。あるとき、病気のことは知らずに挨拶して、娘さんの近況を訊いた。戸惑ったような表情だったので、悪いこと訊いてしまったのかなと、気になっていた。
認知症と知ったのはそれから間もなくだった。まさか、と信じられなかった。長年、鉄鋼関係の自営業をされ、頭がいいと評判の一家だった。
季節は初夏、近くの大きな公園の、若い緑が美しい。
3、歩き続けるMさん
半年ほど前の昨年秋、駅から歩いて帰る途中、ここを通った。
4、5メートルの道路を挟んで向こう側の道を、男の人が歩いて来る。あ、家の近くのMさんだ。
奥さんと2人、住宅街になってしまった地域の畑で、野菜づくりをされている。ときには、ねぎや大根を頂くこともある。
軽く微笑んで、頭を下げられたように思ったので、「こんな所までお散歩ですか?」と声をかけた。「医者に、歩かないかんと言われるでな。歩くんですわ」。
道を挟んでの大声の会話だったが、瞬間の、穏やかな笑顔がとても印象に残った。
そのとき、にわかに強い西風が吹いてきて、落ち葉が舞った。樹木の多いこの公園の落ち葉は、道路にまで飛び出し、津波のように走った。それは、気持ちのいい季節が去り、厳しい季節の近いことを予感させた。
Mさんはそのまま、どんどん駅の方角へ歩いて行ってしまった。
冬の寒さが厳しく、長かった今年、漸く日差しが春めいて来た頃、Mさんの奥さんが1人、帽子と手ぬぐいで日差しをよけながら、畑仕事をされていた。
「暖かくなってお忙しいですね。今日はお1人ですか?」と声をかけた。
「じいちゃんは入院したんです」。驚いて訊き返した。「え?入院ですか?」
「秋ですわ。病院へ行くと出かけたまま、夕方近くまで帰らない。病院に訊くと来ていないとのこと。遠い隣街で見かけたという人を頼りに探しに出かけ、やっと連れ帰りました。警察から連絡があって引き取りに行ったときは、道が分からなくなったと言ってました。名前、住所と電話を着る物に書きました。夜中でも、ガバっと起きて、歩いて行ってしまうんでねー。認知症ですわ。80歳でも健康でどっこも悪くない。だから先は長い。仕方ないです」。
奥さんは堰を切ったように話し出した。親しみ易い丸顔から、いつのまにか笑顔は消えていた。
あれから2カ月ほど過ぎた。近くの病院は個室しかなく、費用は20万円、とても生活できないので、遠くの病院に変わった。
入院費は、大部屋で月およそ10万円かかる。洗濯物を取りに行き、洗った物を届ける生活で週2回は病院通いとか。
近くの公園は、公園になる前の長い間、樹木が生い茂っていたらしい。
ハナミズキなどの若い木も植えられたが、樹齢百年は超すと思われる楠の木は、幹から伸びた枝が、それぞれ1本ずつの大きな木で、大空に伸びる様は、まるで緑の小山である。
土曜日午後の公園らしく、子どもたちの歓声が聞こえてきた。
横から、たてになるまで〔ぎっくり腰寝たきり体験記〕
暮れに、大きなかめに挿した蝋梅の、水を取り替えようとして、ぎっくり腰になつた。
28日から、新年3日までの1週間、寝たきりの正月になった。
医者にも行けず、寝るしかない。仰向けに寝たまま、2時間もすると背中や腰がたまらなく痛くなる。寝返りしようと体を動かすと、たちまち恐怖のギクギクッがくる。
トイレだけはどうしても、横からたてに体位の移動が要る。起き上がるとき、人間の体はごく自然に、付け根から足の先まで折り曲げるように、人体仕様が設計されている。そんなことも知らずに、さあ、起きようと体位を変えると、ギクギクッが来て思わずうめき声が出る。背中が痛い。さあ起きるぞ! と気合を入れ、観念して3回うめき、暫く四つんばいになる、やがて横からたてになれるのである。
1日3回の食事と、5回から6回のトイレの度に、このような拷問に耐えた。
私は、ギクギクッを発作と呼ぶことにした。どんなときに発作が来るか。
たてになって歩けても、方向転換すると発作で暫く屈みこむ。
手を上げるとき、うがいなど上を向くときは間違いなく発作に見舞われる。
食事くらいはゆっくりでも作ろうと、台所で水の入った鍋など持てばたちまち発作。立ち上がっても、亀のようにゆっくり腰を押さえながら移動し、寝たきり5日ともなると、ほんとうにこのまま治らないのではと、焦りが出る。そんな心と闘って、すべて受容するしかないと悟る。
6日寝て、なんとか普通に近い縦の生活ができるようになったときには、世の中の正月は過ぎ去っていた。
離れて住む長男、長女がそれぞれ子連れで来るという計画は勿論キャンセル、申年正月、猿が人間に進化し、四つ足歩行から、2本足になった進化の実体験は、かなり厳しいものであった。
わずかの成果といえば、寝てばかりで本が読めたこと。人の体は回復するという希望がもてたこと。もう1点は、友人が、94歳の寝たきりの母のじょくそうを毎日2人がかりで消毒している。じょくそうになる苦痛と介護する人の苦労が、実体験でよく分かったことである。 (2004年1月)
友人の息子が引きこもりになった。会社へ行かなくなってから、食事は電話の内線で呼ばないと部屋から出てこないという。
勤務していたころは、朝6時半に家を出て帰りは夜中の0時という日々。休みのない月が続いていたという。精神科で受診し、「がんばりなさいは禁句です」と言われたそうだが、病院へ同行した友の心を思うと切ない。
別の友人の息子も、やはり早朝6時出勤で帰りは0時近いという。その職場で先輩が突然休んで引きこもったと息子から聞いた友人は「あなたの方が心配だ」と思わず言ったそうだ。
今は優良企業といわれた会社でも大型のリストラを計画し、首切りの不安がいっぱいである。みんな生きるために働く。しかし、それに「人間的に」という言葉を加えるのは、今の職場では禁句であるかのようだ。
この不況下、働く場があれば上等というのであれば、年間3万人を超す自殺者の予備軍は増えるばかりだろう。
働く人たちの悲鳴聞こえる
(2001年11月23日、朝日新聞『声』欄掲載)
茨木県東海村で「臨界事故」が起きて1カ月が過ぎた。事故直後、ドイツ在住のAさんから、連日報道機関のトツプニュースは日本の「臨界事故」とのEメールが届いた。
事故当日、現場から半径10キロメートルの、ひたちなか市に住む知人のMさんは、事故を知らずに午後3時ごろ、古本屋へ出かけた。バスも電車も人も、通常どおり動いており、ゆったりコーヒーを飲んで、夕方帰宅して事故を知ったという。最も危険なときに外をうろついていた訳である。
事故発生は午前10時半ごろ、半径350メートルの住民が避難所に運ばれたのが午後4時、そこには飲み物も防護服もなかったとのこと。
10月初め、木曾駒ケ岳の山小屋で、日立市に住むご夫婦と一緒になった。その人も、買い物で歩き回っていたと不安な様子だった。JOC所長は、事故発生後10分で「臨界事故」と認識したと語っているそうだ。消防署に救急搬送を要請したとき、事故を隠して「テンカンだと言え」という通報受信電話だったことを知り、危険な原子力に関わっている人の、人間的マナーの崩壊に愕然とした。
JOC社員はさっさと避難していながら外部の人に危険を知らせず、ごまかして被爆者を増やしたことは、会社だけでなく、科学技術庁等、政府の重大な監督責任ではないか。
チェルノブイリで原発事故が発生してから、医師や、医薬品を現地に送り続ける市民組織に、ささやかなカンパを送り続けて13年目、あの大事故はレベル7で被爆者約2万人、バルト3国のうちリトアニアでは、被爆者9千人、以後80人が死亡している。 今度のそれはレベル5で、世界第2の事故に遭いながら、情報提供の遅れとごまかしで被爆者を増やした。
木の葉が色づき、1枚また1枚と静かに舞う。1年で1番過ごしやすい、美しい日本の秋。残念ながら、庶民としてやりきれない不安と、憤りを感じる秋である。
毎朝飲む牛乳を取りに、門扉の隅にある牛乳箱を開けた。「あれ、ないわ。 今日は配達のない日だったかしら」と玄関に戻った。
そういえば先週も、先々週も同じだったことに気付いた。隔日配達だが、近ごろ牛乳が足りなくて時々、スーパーへ買いに行く。それでも特定の曜日だけ、ドロンされているとは、考えもしなかった。
牛乳屋さんが集金に来られた時に聞いてみた。「水曜日は配達なくなったんですよね」「えー、そんなことありませんよ」「そうですか。 じゃあ毎週盗まれてたことになる。ほかにも、年末年始のまとめ配達で、冷蔵庫がいっぱいだったのに、ことしはそんな記憶全然ないわ」。のんびり、ぼんやりもいいところだ。
牛乳屋さんは「猫を追うより皿をひけ」とのことわざに習って、箱の置き場所を奥にしましょうと言う。でも出来心なのか、何なのか見届けたいから「もう一週間このままで」ということになった。
それからは意識して、朝六時すぎに起きると、すぐ牛乳を取りに行くようにした。数回続けたら、敵もさるもの、今朝は六時十分すぎにもう箱は空っぽ、不愉快で、精神衛生上まことによろしくない。もう「皿をひく」しかないか。
まだ見ぬヌスット氏よ。牛乳飲むなら自分のお金で買いなさい。人が見てなきゃ何をしてもいいのかい? 凍える夜明け前に、配達する人の苦労が分かるか? 清らかな小鳥のさえずりが聞こえないか?
もう、ぼんやりは返上するよ。牛乳一本たりとてとらせないゾ。
〔1999年2月19日 中日新聞 『くらしの作文』欄に掲載〕
風呂の脱衣室に、数カ所鮮血が飛び散っていた。私は風呂上がりの気持ち良さに、呑気な調子で夫に聞いた。「けがでもしたの?」。「しない」と言う返事に改めて注意深く辺りを見直し、原因が自分である事に気づいた。足にも、今着けた下着にも真っ赤な血が付いていた。そこで初めて血の気がひいた。突然の不正出血だった。まだ続く出血に取り敢えず横になり、急に重くなった腰をかばった。
横になりながら読んだ2冊の医学書には、「更年期の出血はがんを疑え。自覚症状がまったくないから、症状が出たときは手遅れの末期がんである場合が多い」とあった。
青ざめるもう1つの理由があった。この春60代の義兄が、ある朝突然の血尿に驚き病院で検査の結果、膀胱がんと診断され即入院となった。そして膀胱の全摘出手術をした。その後人工膀胱など着けたが、体調不良で現在も入院中だからである。
先日、本人から電話があり「とうとう障害者になりました」という声に、かつての剛腕検事正の、りんとした響きはなかった。
自分の人生の終わりが、数カ月後に迫ったのかと、嘘のような現実にたじろいた。
翌日は日曜日で病院は休み、やむを得ず朝から夫婦で名古屋の書店に出向き、医学書から実用医学書まで読みまくった。
手術、抗ガン剤、放射線、それぞれ強烈な副作用覚悟で治療に身を委ねるか、何もせず静かに人生の幕引きをするか、末期がん?の疑いが濃厚になったいま、選択を迫られた。
考えてみればこの1年、ふたりの子どもが相次いで結婚し、先日は孫まで産まれた。母の33回忌の法要を済ませ仏事も一区切りがついた。本棚の整理を思いついたのも何かの暗示だったかも知れない。おまけに、ここ数年書き散らした雑文の「インターネット出版」を思いつき、夏の終わりと共にやっと整理が終わったところである。神の「お前の役目はもう終わり」とのお告げかとも思った。
休日明けのがんセンターは、改造で明るい建物に変身していたが、半ば彼岸に行った気分なので、人の声が遠い海辺のざわめきに聞こえた。「念のため細胞検査をしますが、がんではないでしょう。更年期のホルモン変化による不正出血です」。ベテランらしい医師の確信ある言葉だった。
帰宅後夫に「もう暫くお付き合い願う事になりました」と言うと、入院、手術を覚悟した夫の目は、涙が滲む赤い兎から、安心した象のような柔和な目になった。
ボーナス時期のこの頃、毎日のように立派なカタログが一抱えもあるほど届く。その中に、手書きのはがきや封書を見つけたときは心が踊る。私は断然手紙派、時を選ばずかかって来る電話はどちらかというと苦手である。女性たちがよくやっている長電話はあまり縁がない。
手にした便りは繰り返し読むことができる。直接会っては言えない心の機微を、うまく書いてくる人に感心したり、胸を熱くする。
しかし、そういう手紙派の私にとって、先日起きた「朱書き手紙事件」は大きな衝撃だった。
近辺に何棟かのマンションが建ち、静かな住宅街も人が増えた。そういう中で近くの一戸建ちに住むHさんは犬好きで、朝晩2回の散歩を欠かさない。そのHさんの門にある日、1通の手紙が貼り出されていた。それは、わら半紙に血が滴るような毒々しい赤ペンで書かれ、ベニヤ板に貼られていた。
『犬のなきごえがうるさい。早く声帯手術でもせよ、殺すぞ』心の芯まで寒くなる言葉が並び、差出人の名はなかった。
言葉の凄味に不似合いな、女性文字が並んでいた事が一層私の心を震えさせた。そしてベニヤ板には本物の安全カミソリが、何重かのセロテープで取り付けられており、いまにも切りつけられそうで、ゾクッとした。
Hさん一家の驚きと悔しさが目に見えるようだった。そしてその手紙の横には『この手紙を書かれた方はお名前をお知らせ下さい』とあった。精一杯のHさんの抗議に思えた。
確かにあの朝以来、この近所の空気が梅雨のようにべっとりと陰うつになった。いままでのように、親しみのあるまろやかさが消えた。
手紙はときとして一方的になり、残忍にもなる事を知った。このギスギスした人間関係には耐えられないと思った。あれから10日、Hさんの家の前を通ると、声帯手術で声を奪われた犬の、かすれた声が哀れを誘う。
今日も匿名の手紙は貼られたままだった。
雨が降り出す。
天井のない屋根裏に、雨が滲み始める。やがてその位置から、少しずれたあたりがふくらんで、雨漏りが始まる。
昭和20年、戦争が終わったばかりのそのころ、疎開先の間借り生活に、母子6人身を寄せ合って暮らしていた。戦地に赴いて6年、毎日のように絵ハガキをくれた父は、戦争が終わってもまだ復員してこなかった。親戚中で、戦争に行ったのはわが家だけ、「運が悪い」と母は嘆いた。空襲で焼け出された戦災家族の間借り生活に、雨は無情だった。バケツや鍋をすべてかき集めて雨を受ける。しかし、寝ることさえままならない状態だった。q
当時、東京では『戦災者30万人が掘っ建て小屋に住み、1千万人が焼け跡での飢餓生活』という。音楽も映画も、本を読むことさえ縁遠い悪夢のような、あんな時代が確かにわれわれにはあった。
あれから48年、雨が降り出すと私は家中を見て廻る。それはほとんど本能的である。どの部屋も、どんな土砂降りでも雨漏りしない。その安心感と幸せ感に私は浸る。
南側の出窓から、娑羅の木がうっとり雨に打たれているのが見える。掃きだしの座敷から見える沢山のバラたちは、口を開けて雨を喜んでいる。現在(いま)雨は恵みの雨、「こんなに恵まれていいのかしら」と思わずにいられない。
その反面、いまも地球上の多くの国で、掘っ建て小屋で暮らし、雨の日は身を寄せ合ってそれに耐えている沢山の家族がいる。「Tシャツやジーンズが一番喜ばれます」と日本救援衣料センターからの便りがあった。「そうだ、せめて難民に衣料でも送ろう」。
船賃など、送料しめて1万円。日々豊かさにどっぷり漬かり、贅沢に不感症になり勝ちな、自分への戒めのためにと。
私は久しぶりの静かな雨音を聞きながら、衣類のダンボール詰めに精を出した。
体力がある方でもないのに、ここ10年ほど歯医者以外の医者にかからず暮らせているのは、平凡な「ひたすら歩く」せいかなと思う。
例えば買い物、歩いて15分のスーパーに向かって歩くと、何台もの車に追い越される。乗っているドライバーから見たら、歩いて買い物をする初老のおばさんなぞ、前世紀の化石に見えるかも知れない。
歩くのはなるべく狭い生活道路、春なら沈丁花が香り、白木蓮がシャンデリアのように辺りを明るくする素敵な道を知っている。緑の初夏、古い寺の境内に菩提樹の大木を見つけたうれしさ、天を覆うようなその木を、何度も仰ぎながら歩く。
真夏の暑さに、夾竹桃のピンクの花が咲き乱れる空き地、秋深い頃、神社の樹齢数百年のケヤキがはらはらと、きびしい冬に備えての武者ぶるいのように葉を落とす道、背筋を伸ばして歩くと生き返るようだ。
名古屋へ出れば、栄から名古屋駅までくらいがちょうど手頃な距離、あれこれ考えながらよく歩く。評判の映画を観て、近くの白川公園を歩くのもいい。公園の欅並木を歩くと、ヨーロッパの街を歩いているような気になる。知人に話すと「いいねえ、この忙しい時代に歩くなんて、いまでは贅沢よ」と言われたが、昔の人は実によく歩いた。それを実感したのは一昨年箱根旧街道を歩いたときだ。
江戸幕府がつくったこの街道は、東海道で屈指の難所として詩歌などにうたわれているが、元箱根から1時間近い登りである。石畳が敷きつめられた山道は樹齢400年弱の杉の巨木で昼でも暗い。へたばる寸前に辿り着く峠、そこに古くからの『甘茶茶屋』がある。江戸時代の旅人気分で甘酒で一息いれ、下りは1時間歩いてバスに乗った。昔の人はさらに2〜3時間以上歩いて、小田原などへ赴いた事になる。
1日最低5千歩、約1万歩目標に歩くと、脳が活性化し筋肉量も増えるという説もある。これからも上手に気分転換し、自然を楽しみながら歩き続けようと思う。
私達夫婦が「カサブランカ」というエキゾチックな名の百合に出合ったのは、ある祝いの席だった。純白の直径が20センチほどの大輪で、その上品な香りと姿は花の女王だと思った。
中学生時代から、大の花好きだった夫は、早速関東のY農園から5個の球根を取り寄せた。値段は1球千円で、さすが値段も女王だった。毎日の水やりは私、厳選した肥料をやるのは夫と、共同作業で必死に育てた。だが全部ビールスにやられ、腐ってしまった。
翌年の秋ころまた10個の球根を取り寄せ再挑戦した。今度は順調かと思ったが、6月の長雨で茎の色が微妙に変わり始めた。せっせと草取りし、土がむきだしになったところの茎が、特に弱った事に気付いた。試みに近くの田にあった藁を敷いてみた。ぼつぼつ日差しが強くなり出した7月、藁を敷いたあたりの茎ががっしりと太く育ち、1本の茎に2つの蕾、もう1本に3つの蕾が毎日目に見えて大きくなり出した。やっと2本が生き残った。
こうして初めて自家栽培のカサブランカが咲いたときは、家中が有頂天になった。あれから3年、球根の8割ぐらいを咲かせることが出来るようになった。
毎年7月半ばになると、毎朝庭に立って蕾のふくらみ具合を観察し、翌日には開きそうなのに目星をつけ、親しい知人の都合を聞く。花の宅配は大忙しになる。
家業の学習塾の仕事は結構忙しいが、幸い午前中はゆとりがある。その時間を最大限に利用して、せっせと手入れし、朝切った花を知人宅に運ぶ。花のお蔭で話に花が咲く。ひとり暮らしになられた恩師、苦境のときお世話になった友たちや姉妹、かつての職場の仲間、ご近所のあの方この方と、ささやかな「幸せ」配りはいつの間にか30人を超えていた。
「今朝直径22センチの素晴らしい開花をみせました。端正な気品ある美しさにほれぼれします」というような礼状を読んでは夫と喜び合った。
およそ5年間ほど続いたこの花配りが終わるときが来た。産地から、素人の花作りでは考えられない安価で、カサブランカが出回るようになったから。多分、温室の無菌栽培で大量に収穫できるようになったのだろう。
もうひとつの理由、それは、もともと2つの仏壇の花が必要で始めた花作りだったが、カサブランカに気品と高級感があるためか、心をこめて差し上げたとき「このゆとりたるやわが家とは天と地の差」と言われたり、「わが家にはふさわしくない花」などと言われ、人にはいろんな感じ方がある事を知った。心のゆとりがなくなっている時代、意に反して、自分の幸せを誇示するような結果になっていたと悟ったから。人との関係は善意だけでは通じない事もある。それが分かっただけでも、私たち夫婦にはいい経験だった。
結核が国民病だった1950年代、風邪をこじらせて肋膜に水が溜まった。半年間、注射をうち、くすりを飲んでよくなった。それが新薬のストレプトマイシンとパスだった。注射した日は、副作用で1日耳が塞がったような不快感があったが、驚くべき威力を発揮して日本の結核を一掃した。
平均寿命が短期間に世界一になった日本で、くすりが果たした役割は大きい。けれど、その10年後、食道がんの母が悶え苦しんだがん末期は、人生の幸せをすべてはぎ取ってしまうくらい悲惨なもので、それを救うくすりは何もなかった。そのとき、もし自分がこのような病気になったら、なんとしても自分で死を選べるくすりを手にいれようと思った。
あれから30年が過ぎ、いまは残酷な末期がんの患者には、モルヒネで痛みをやわらげるのが普通になったと聞く。
長年、終末医療に携わった聖路加病院院長は、「日本では痛みを訴えると鎮静剤や睡眠薬で昏睡状態にされてしまうが、モルヒネを少量ずつ与えて痛みを止め、人間らしい最後にすることで、『終わりよければすべてよし』となる」と近著『豊かに老いを生きる』に書いている。「ただ生きるのでなく、よく生きた」ことこそを考えた医療になって欲しい。
老齢化社会で、元気なお年寄りが増えた反面、あちらでもこちらでも、ボケ老人やその介護の苦労話でいっぱいである。長寿社会はいまのままでは幸せな社会とは言えない。
「自宅に塩化カリウムのアンプル2本と注射器がある」と言った夫の友人の医師S氏。「静脈に注射すれば狭心症ですぐ死ねる」と言う。3年間老人病院の院長をやっているうち、おしめをされベットに縛られて死んでいく老人を、100人以上みてきたという。それからの結論だろう。
くすりを上手に使って、世の中での活躍期を延ばし、不治の病と悟ったとき、S氏のような死に方をむかえられるなら、老齢化社会ももう少し人間らしく生きられるのではないかと共感を抱いた。
亡き義父の紋付を仕立て直そうと思い立った。
ところが性が抜けて、紙のようにビリビリ破れて仕立て直しどころではなかった。そのときふと「50年間働いてくれた私の臓器も耐用年数を過ぎ、人に差し上げる代物ではなくなっているかな」と思った。
その日、家族で脳死と臓器移植が話題になったら、
高校で「生物」を選択している長女が「ある1つの臓器だけが悪い若者がいたとする。その人が臓器移植によって生き返り、才能を発揮して世の中に貢献したとしたら、やはり臓器移植は意義があると思う」と主張した。
私は自然界の一部に過ぎない人間の生死は自然に任せるべきだと思っているから「臓器の1つである脳が死んでも他の臓器は生きている。それを自分に欲しいというのはエゴではないか。信仰心のない私がいうのはおかしいかも知れないけど、天の摂理に反すると思う」と私見を述べた。「だから、どんなときも延命装置は要らないよ」というと黙って聞いていた夫が割り込んできた。
「脳死は意識不明と違って、絶対助からないという。いままで心臓死のみを死としていたのに対して、もう1つの死の考えが出てきたという事じゃないか。そのせいか神からの預かり物の命を有効に使って欲しいと、臓器提供者にはクリスチャンが多いというよ」
と、にわかに脳死談義になった。
脳死=臓器移植という考えに賛成という夫の意見で私は少数意見になった。けれど「脳死臨調」の報告があってからの新聞紙上では、むしろ慎重派、反対派の意見や論文の方が多かったように思う。
「脳死」段階での臓器移植に反対する人は、最低条件として「本人の意思確認」を強調している。そのことは、生きているうちに「死」を生きるプログラムに組み込む、真剣な生き方でなければ不可能である。
日頃「思うように生きてきたから、いつ死んでもいいよ」と言っていたわたしであるが、関係ないと思っていた「脳死」の問題はにわかに「生きる」テーマとして私に迫ってきた。
朝の雑用すべてを終え、2階に上がり、化粧をする。
朝洗顔した顔に化粧水をたたき、下地を作っておく。そこへベースローションを塗り、
さらにファンデーションを上塗りして、粉おしろいをはたく。思えば、この繰り返しを40年してきた。
頬に紅をさし口紅をひくと、表情が生きてくるから不思議だ。
お化粧をして、明るい陽のあたる廊下で机の前に座り、手が届きそうに近い、青い 12月の空を見ながら、ひとり紅茶を味わう。退職して化粧がゆったり出来るようになった。午後からの塾を開くまでの間、私だけの自由な時間、最高のひとときである。
近頃老人病院などで、痴呆症のお年寄りに化粧をしてあげたら、気分が明るくなり、多少症状がよくなったという新聞記事を読んだが、確かに、化粧には魔力があると思う。
若い人達が、つるつるの肌にこってり化粧をしているのを見ると、勿体ないと思うが、
年をとって素肌をさらけ出す勇気は私にはない。
洗顔だけは毎日せっせとやっているが、皮膚のしみが、額や頬のあちこちに浮き出ている。点々と薄い茶色のしみが右頬にも左頬にも、まるでいりごまをばらまいたように散らばる。そして、目の下にはさざ波がたち、生え際に白いものが見えると老人資格十分の顔になる。
20年前、理髪店に行かず自分でオカッパ頭に整髪したら、よく似合うとオダテられた。40歳になったらやめよう、50歳でオカッパでもあるまいとか言いながら、ここまで来た。このままで終点まで行きそうである。
20年ぶりに会った友人は「全然変わらないわね」とお世辞を言ってくれるが、髪形と化粧で上手に化けて、いつまでみんなをだませるか、密かに愉しみにしている。いやそれとも、先刻お見通しかも知れないが・・・。
近頃、縁台を出しての昔風の夕涼みは滅多に見られなくなった。
日本が経済的に貧しかった昭和10年代、名古屋の下町で育った私にはわずかに夕涼みの記憶がある。陽が沈んで間がないころ「ごはんだよー」の一声で遊びをやめて、家に帰らなければならなかった。それは大抵「かごめかごめ」か「はないちもんめ」で2列に並んで最も興に乗っているころだったので、とても残念だった。
5人の兄妹は順番にたらいの行水で汗を流して食卓についた。品数も少ない質素な夕餉でも、いきいきと楽しかった記憶が強いのは、「とき」が溢れるほど一ぱいあったからだろうか。当時は4〜5軒に1台くらい縁台があり、家の外と内の境界があいまいだった。
近所の小父さん達がドスのきいた怖い声で「お化け」の話をしてくれたり、裸同士で碁に向かい合って真剣に勝負している周りを、子供たちがうろうろと動き廻ったり、みんなで花火をし合ったりした。
経済的に豊かになり、どの家も冷房して戸を締め切るようになり、生活道路から人の姿が消えた。行水か銭湯だった生活から家庭の内風呂になり、裸の付き合いはほとんど無くなってしまった。特にこども達の姿が消えた。
先日のテレビインタビューで、映画監督の山田洋次氏が「こども達の歓声が聞こえない。
日本の動脈はどんどん発展したが、毛細血管がつぶれていく」と嘆いていた。
わが家は「塾」という職業のお蔭で、夕方はこども達の歓声が溢れる。授業からの解放感に浸りながら小学生が「かくれんぼ」をしたり、何匹もいる子ウサギを抱いたり、ジョウロで水をかけあったり、小1時間遊んでいく。パソコンゲームや漫画に夢中の優等生達に「遊べ、遊べ」という変わった塾である。
昔と変わらない、活き活きした子供達の顔がここにはまだあった。そのことに安堵するのである。
「昨日パチンコで5万円使った」「私もおよそそのくらい」
地下鉄の隣の席から聞こえてきた会話に驚いた。見ると、40代後半の女性ふたりである。「今池のあの店、 10時開店の40分前に行ったらもう長い行列よ」。
一体どうなってるの? 他にする事ないの?
よくそんなお金があるわね、あなたたち。何で生活してるの? 私は怒鳴りつけたい衝動にかられた。
長引く消費の低迷で、景気の悪い話ばかりなのに、ひとりパチンコ業界だけは元気溌剌、30兆円の有望業界と聞く。それもそうだろう。こんな遊び人たちが、ワンサといるんだもの。いくらパチンコ発祥の地名古屋といっても・・・。
あとで夫にこの話をすると「女もパチンコするようになったのだなー」と
感慨深げに言う。「女がパチンコやったっていいけど、子どもをほったらかして夢中になってしまう、何か魔力のようなものがパチンコにはあるんじゃない?」と私も考えながら言った。
若いころ、職場の同僚と1度だけパチンコをやったことがある。バネではじくと小さい金属の玉がいろんな迂回路を経て、どこかに入ると小気味よく玉がいっぱい出てきた。「次は」「次も」と確かに引き込まれる。ダイヤル操作の現在はスピードがけた違いのようだ。1時間に1万5千円も損することもあるという。
数日後、T新聞で「過激なパチンコ業界、改めます」という記事を読んで、これだと得心がいった。
『1回5万円を超える勝ち負けをなくす。多額の勝ち負けが出る機械の撤去。使用金額や連続大当たりを制限する機械の開発。大当たりが出る確率を操作して射幸心をあおる営業の禁止』
そうなんだ。人間が機械に操作されてはいけないのだ。
指先だけ動かし、考えることはお金お金、儲けか損かだけでは。しかし今日パチンコ店の前を通ると相変わらず『軍艦マーチ』が威勢よく聞こえ、店内は満員。パチンコ隆盛は、亡国日本の象徴にも思えてきた。
いま通販が面白い。
カタログハウスの『通販生活』は、定期講読者約150万人というベストセラーである。そのコマーシャルに曰く「わざわざ誌代を払ってまで読む人が多い理由は、@こわれたら直せない道具は扱わない、A便利なだけ、安いだけの道具は扱わないのだ」。
この春には「もったいない課」をつくり、肌着と靴下以外はすべて修理するという。これなど地球環境を守るための資源節約という現代の時流にあっている。
表紙をきんさん、ぎんさんで飾り、遊び心と世直し心で、楽しく読ませまくるのだ。
『へんな生活』などとして「にんにく、ネット450円」なのに「人肉、ネット450円」と書いた市場の写真で笑いを誘う。
10年前、空気を汚さないイタリア、デロンギ社のヒーターを買った。安眠暖房が快調で、同社の売上げベスト100の順位表のトップを維持し続けた製品だ。5本指靴下、抗菌まな板など、いまは市販されているが、この通販で買った頃は珍しかった。
親指が1番長い妙な形で、足の健康を守る「ヤコホーム」という靴は、ドイツの職人の手作りで需要に追いつかない逸品らしい。わが家も、靴から下着、バッグからガラス扉の野菜冷蔵庫まで、いつの間にか通販の常
連になってしまっていた。
それは、カタログハウスが、関係ない原発事故の『チェルノブイリの子どもたちに』と、定期のカンパを集めたりする、その心意気に共感したせいもある。
もうひとつ『リサイクル運動市民の会』がやっている通販もなかなか味がある。
先日、縄文末期に日本人が初めて栽培したといわれる赤米と、中国で滋養強壮に珍重されたという黒米を買った。白米に一握り混ぜて炊いたら真っ黒なこくのあるご飯ができた。
自宅の塾で、ちょうど社会科「縄文時代」を勉強している時期だったので、生徒たちにひとくちずつ食べさせた。「いままで食べたこともない味」「絵の具がじわーっと白いご飯に染みた黒い赤飯」などと、いっとき2千年前の古代のロマンを味わった。
通販はいま、わが家にとってとても新鮮だ。
庶民のささやかな貯金は、現在金利わずか1%にも満たない。
一方、1996年度の銀行収入は、軒並み史上最高記録だったというニュースを、腹立たしく聞いた。それは、当然であろう。預貯金の金利をいつまでも無茶苦茶低くおさえて、貸出すローンの利率が高ければ、ぬれ手に泡と面白いほど儲かる事は、小学生でも分かる道理である。
お金を貯めることには、どちらかというと無関心な方だったが、消費税が上がって何を買っても割高感を感じているこの頃、気がつけば、2ヵ月に1回受け取る年金からも、律儀に税金が引かれている。こうなれば、自衛のために、わずかなお金でも利子はいくら?と関心を持たざるを得なくなった。
そこへ耳よりな新聞記事が目に入った。中日新聞の『家計運営みに講座』である。
郵便貯金の利用法『申込み用紙に、期間は1ヵ月、自動延長に○を打ち、一口千円とするだけで手続きは完了』とある。そうすれば『現在金利0.3%であるが、千円の利息1円以下は繰上げで、実質金利年1.2%となる上に、複利計算でとても有利である』。さすが金融のプロ、庶民のためによく研究して下さった。
実は4年前、歯の治療で50万円ほど要った。何年か後に、別の所がまた要治療となる。仕方がないので、毎月1万円ずつ歯医者貯金をする事にしたのである。
塵も積もって、4年後の今年42万円のお金ができた。利息はほとんどゼロの金融機関へ預ける気もなく、引き出し貯金だった。
色めきたって、新聞の切り抜き片手に郵便局へ走った。窓口で用紙を貰い、一口千円を420口、期間1ヵ月、自動継続とそれぞれ○をうって手続きが完了した。局員に少し積極性がないと感じたが、断固がめつくいこう。
あれから3ヵ月、毎月貯金局から現在額、利息額と自動継続の手紙が届く。「郵政のみなさん、事務量増大ごめんなさい」と心で謝りながら、私はにっこり微笑むのである。
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