師、友

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〔3DCG 宮地徹〕

〔メニュー1〕→〔メニュー2〕246は下

      いきなり 頬をつままれて

 

      いきなり 頬をつままれて

 

突然「貴女も元気そう。顔色とてもいいし、白いし…」と言って、いきなり頬を直接つままれてしまった。天下の黄金色の田んぼの真ん中で…。化粧はしていても、まさかお面をかぶっているわけでもないのに…。

 

考えてみれば、毎日のドクダミ風呂効果? 庭にいっぱい生えるドクダミ草を天日に干して、入浴剤に使っている。市販の入浴剤は買ったことがない。

夜、連れ合いにこの話をした。80歳どうしの老人男女がネー、とワハハ ワハハの大笑いになった。

 

ここは名古屋市郊外の4万都市、みどり一面の田が広がる一角がある。その美しさに目を奪われる時期。と思ったら、あっと言う間に稲穂が頭を下げ始めた。

次第にみどりが黄色味を帯び、いまでは一面真っ黄色に変身した。束の間の自然界のおしゃれ変身劇に感動する。

 

田舎道を自転車で買い物に走る。向こうからも自転車が角を曲がってくる。おじいさんが乗るその自転車とぶつかりそうになって、自転車を降りた。おじいさんも同じように自転車から降りて話しかけてきた。

 

太平洋戦争で名古屋も空襲が激しくなり、国民学校2年生でこの地に疎開してきた。

自転車のおじいさんは中学時代の同級生だった。「O君?」パッと名前が出たのは今年の春、お誘いを受けて何年ぶりかの同級会に出たからだった。

 

彼の印象は、社会科だけは飛びぬけて良くできた生徒だった。

隣町に住むその古い友はいきなり「S君知っている? この間死んだんだって」と言った。

「M君も少し前逝って、葬儀に近くに住む4〜5人行ってきた」

 

「そんな話ばかりネ。M君は同級会にいつも連絡くれたわね。お互い、もう80歳だものネ 貴方まだ働いているんだって?」「土日だけね」

「偉いわネ とても健康そうだし…。お互い命ある限り、何かして一日一日大事に生きなきゃネ」「年取ってから、家の中にじっとしているばかりじゃボケてしまう…」

 

ここまでは、普通の高齢者ばなし。

冒頭の「ほほつまみ」は、その後だった。

 

自他ともに認める出歩き女は、働き続けた名古屋の街も用がありよく歩く。

途中電車内で見る若い人たち、この歳になれば50、60代まで、みんな若い人たちである。ぴちぴちの顔を見ながら、若さっていいなぁと思う。

やや暗い表情の人が多いのも気にはなるが。

 

80歳ともなれば振り向かれもしなくて当たり前と、いつも車内読書で時間を有効活用している。「出歩き女」は、一回の出歩きで買い物読書それに運動と荒稼ぎしている。

 

黄色に輝く田舎道で、頬をつままれてしまった80歳。もう少しだけ元気で生きよう。

半世紀前の友との立ち話はこれでおしまい。

                         2017・10・15

 

 

〔メニュー2〕246は下

    280歳が91歳にする 世話ばなし

    3笑えない大笑い

    4人生織り込んだ ある集い

    5朝5時スタートの友はいま

    6こんな笑いが嬉しいのよ

    7小さな白い山茶花が、一輪咲いた

        三人続いた死に会い ぶっ倒れた80歳

    8こころ温まる「握手」と、一斉に起立して「拍手」

    9「今日は『出歩き女』の日ですか?」

   10伸びのび つくし、1日10本

   11歩かにゃ

   12ローゼル」騒動

   13滴り落ちる雨水が 涙にならないよう

   14個性派友たちのことば

   15「出歩き女」の或る日

   16ただいま 子育ての真最中

   17友あり 遠方より来たる その2−もうひとつの77会

   18わるいやつ

   19かえりみれば 77年(喜寿)

        青春の寮生活を共にした仲間の「大活躍」

   2025年前 反原発と言った人

   21中学生になったけんた君

   22すごい音の飛行機が上空を飛ぶ ヘリでも民間機でもない

   23「初めての夜」で、道三も信長も笑った

   24美女の会

   25最後の「イカナゴくぎ煮」

   26タイガーマスクとトヨさんの詩集『くじけないで』

   27抱き合う−ノーベル賞と、チリ鉱山事故全員救出、そして私も

   28五回の花見で華やぐ心

   29人生8勝7敗−紙芝居になった50周年クラス会

   30女王たちは いま

   31私も「むりしない、らくしない」と言っていた友が驚きの大手術をした

   32むりしない らくしないがん戦争と向き合う

   33続 出歩き女記

   34泉岳寺との決別

   356万円のカンパと、じゃがいも甘納糖

   36『重荷を負うて、山道を行くがごとく』

   37贈り物

   38出歩き女記

   39はくもくれんが花ひらく頃

   40Gさんへの追悼

   41道連れ 石堂清倫氏のこと      幸子のホームページに戻る

   42蔵書を売る                次の『家族』へ行く

   43近頃、励まされたこと

   44わが人生の師

   45冬景色

   46一期一会

 

       80歳が91歳にする 世話ばなし

 

異常を感じる暑さだった。そんな夏、91歳でひとり暮らしの中学時代の先生が気になっていた。何よりお風呂に入れないから、ヘルパーさんに体を拭いて貰うだけと聞く。この暑さで汗だらけだろうにと、お気の毒でならない。

朝夕だけ少し涼しくなった9月の始め、80歳の年寄りが91歳を訪ねた。

 

家の中でも杖なしでは歩けない。座敷から台所への移動もゆっくり「ドッコラショ」という感じだった。お寿司を二人の昼食にしようと頼まれて買っていった。

「いま帰ったヘルパーさんに髪を洗って貰い、染めて貰ったの」には驚いた。黒々とした髪の毛にモダンな幾何学模様のブラウスがよく似合う。座ったままなら若々しく91歳には見えない。

 

訊き上手でいろいろしゃべってしまう。私の連れ合いが心臓弁膜症など体調不良ながら、朝30分の散歩だけはできる。夏の暑さで花はダメと言ってある。が、花大好き人間の先生に持参した小さい花は紫色でバーべナと説明する。

 

「買った花もいいけれど、小さい花はうれしいわ。この紫色ステキ…」

こんな調子で話がはずむ。いつもこうして花瓶に花を活けながら話しながら、と忙しい。

 

「80歳のお祝に市から5000円貰った。貴重なお金だから障害者施設へカンパした」と話す。「連れ合いも同学年なので、先日お祝い5000円が貰えた。やっぱり何かの役に立ちたい。『北朝鮮に消えた友の物語』の著者萩原遼氏が、胃がんで胃の6割を失くしながら、雑誌を出しカンパを訴えている。何百人もの拉致問題は全然解決していない。北朝鮮が核実験で世界を騒がしているし…」と、それへのカンパに使うことにしたと話す。

 

すると「貴方たち夫婦、エライね」とくる。とても91歳とは思えないテキパキさ。

春に訪れたときは、佐藤愛子の『90歳何がめでたい』を持参した。「面白かった。先生の友人が図書館で借りようとしたら90人待ちだったからと、貸してしまった」とか。

 

今日は五木寛之の『孤独のすすめ』を持参し、「共感した事が多い」と話す。

人生を山登りにたとえ50歳までは登りで必死。あとは下山、下りこそしっかりしないと事故が起きる。孤独になって本を読むのもいい。

 

古代インドでは学生期、家住期、林住期、遊行期と、人生を四つに区切る考えがあった。登山で考えると前半50年は頂上目指し必死の登り、それから下りになる。

 

林住期で余裕をもって働き、最後の遊行期は人生を振り返りながら…いい生き方とは、つまり「社会貢献」できることではないか…。

賢老社会へ…。と読んだ自分が筆者の考えを話す。

 

91歳の喜びは俳句、通信で指導を受ける先生が「深い所を読みとってくれてうれしい」と言う。先生のことばと、最近作を聞き共感した。

       風白し 音なき世界 原爆忌

見送りて 次の出逢いや 天の川

 

80歳も91歳も命ある限り、不安も多いが前向いて歩く。それでせわ話は終わった。

                        2017・9・12

 

 

       笑えない大笑い

 

阪神大震災で娘夫婦を亡くし悲しみに打ちのめされた友人夫妻は、瓦礫の中から奇跡的に娘の童話作品を発見した。遺児として残された孫もいる。

 

亡くなった娘なるみやますみ「ミドリの森のビビとベソ」で第19回毎日童話新人賞優秀賞を受賞し、童話作家としてこれからおおいに才能を発揮できるはずの人物だった。

残された親夫婦は、遺稿を童話本として発刊した。「源吉じいさんとキツネ」「ふうみん池にワニがでた」など多数の童話を発刊した。

 

そのとき、文章仲間のEと共に少しはお役に立ちたいと、いろんな人に童話本を紹介した。あれから20年以上の月日が流れた。

1年に1回くらい、三女会で思いっきり話し合っている。

 

友人Eが連れ合いの認知症で、電話の声もやや沈んでいるように聞こえた。二人共教師として活躍し退職してからも「源氏物語」や俳句など愉しみながら、経済的にも安定し理想的な夫婦だったのに…。久しぶりに、やはり逢って話し合いたいと約束した。

 

その日が近い或る日、スーパーで両手いっぱいの買い物をした。することはあれこれいっぱいある。歳も忘れて次はこれ、それが済んだらこれと出来るはずだった。

道路を渡ろうとした途端、ほんの少しの段差に躓き勢いよくバターンと転んだ。両手の痛みもあったがすぐ起き上がり、必死で広い道路の向こう側にある自転車置き場に行くしかなかった。

 

こうして若いつもりのわが80歳は、整形外科で左足膝骨折と診断された。手術もいいが歳から無理かもと言われた。膝を曲げないような補助器具を着けて帰った。

 

三女会は以前からの約束だから、こんな歩き方でも逢いに行こうと決めた。二人共元気だろうなと考えながら、待ち合わせ場所の名古屋駅へ行った。

いたいた。既に二人は待っていてくれた。しかし、驚いたことに1人は杖二本を慣れた手つきで持っていた。「エッ何? 杖?」見た目は二人ともまだ若々しい。

 

けれど、大震災で娘を亡くした友はがんになり、8年間も自然食など独自な治療法で闘い克服した。医師は学界に報告すると言っているとか。

それなのに、彼女はベッドから落ちて背の骨のどこかを骨折した。だから杖なしで歩けないと言う。更にもう一人の友Eも少し前から股関節の下あたりから痛みがあり、階段を上がるときに痛むという。

 

かつての「三美女」が全員「傷もち三ババ」に変身した。3人で思わず大笑いした。

イヤイヤ笑いごとではないのです。80歳まで生き長らえるということは、こういうことなのですね。

 

連れ合いが前立腺がんだとか、認知症だとか…元気いっぱい能力発揮してきた三女たちも、まだまだ人生の苦と向き合わねばならない気配である。

 

ここまで生かして貰った命、苦労すると幸せの有難さが身に沁みるのよ。

 

暗い沈黙でなく、感謝の笑顔を忘れず、さあ出発!という事になりました。

 

                    2017・6・10

 

 

 

       人生織り込んだ ある集い

 

ある集いの言い出しっぺが二人いた。HPの文章を読んでくれた尼崎在の友から電話あり。「あと何回会えるでしょう。会いたいね」と。言い出しっぺだから連絡を取り始めた。

現役時代、中堅幹部試験に合格し半年間、三重県で寮生活しながら勉強し合った。もう半世紀以上もの昔ばなし。その頃から女も働いていましたよ。

 

岐阜県関市から担当講師が参加され、静岡から関西地域から、或いは岐阜県から、三重県の熊野市や上野から駆けつけた友たち。当然ながら名古屋、愛知県からも…。17名もの老人が、ようこそ集まってくれた。積極的に何人も電話かけてくれた友のお陰と思う。

 

当時若き教官だった先生は90歳で、昨年「高齢者叙勲(瑞宝双光章)を受賞された。

 

若かりし吾らもみな75歳以上の高齢でボツボツ80歳を超える人も何人か現れた。

全員,日本茶で乾杯! 「珍しい。けど日本茶の乾杯!いいね」と言われた。

 

会費の中から、ささやかなお祝金を先生に。代表として渡してくれと頼む。気持ちよく実行してくれたKさん。

先生からは篆刻と自筆の書を全員に戴いた。90歳の腕とは思えない。

 

「隣家の火事の類焼で不参加を決めていた」三重県の友は、何とかみんなに会いたくてと、参加してくれた。以前、保育園に頼まれて壁に50号の絵を描いたひと。そんな才能の持ち主だった。

それがスタートになり、いつの間にか進行係になってしまい「一言でいいから生きている喜びや、近況報告を」と促す。

 

静岡から来た友は、障害のある子たちに水泳指導をして、もう15年になると言う。

「子どもだから、言う事を聞かない子もいるでしょ?」「障害のある子も元気な子と同じで、めげる子にも向かい合うのよ」

「水泳連盟が私を放さない」という。日程はいつも詰まって忙しい連続。

 

長年、生け花の先生を続けている友は、最近4歳くらいの子たちにも教えているとのこと。「幼児から生け花?」など質問が。「幼い子の方が教え甲斐があるくらい」とか。

書の達人は以前、県知事賞に輝いて書と書画で活躍した人、或いは老人施設への絵手紙の指導を長年続けている友がいる。

 

地域の老人の話を訊くボランティァで活躍する人、変わったところでは、「生ごみから微生物を育て、ミニトマトなど栽培している」友がいるかと思えば、シルバーセンターで働きつつ、老人たちとつながっている人がいる。

連れ合いがない人も多くなったが、尼崎の友は、1人で子育てしながら生きるための職業の中で、腕の確かな料理人になっていた。

 

みんな80前後の老人なのにネ。この「世界の片隅で」活き活き活躍するばぁちゃんたち…。お互い「励まされた」「来て良かった」と元気に別れた。

ここまで長生きできた命に感謝。「おわかれ会」という言葉がフト、頭をよぎった。

 

遠くの友たちが帰り、地元の4人でコーヒーを飲んだ。「先生の戦争体験を聞いたけれど、私たちも空襲で攻撃を受け、敵機の兵士の顔見たわ」豊川の軍事工場が近かった豊橋の友が話す。と、名古屋城近くだった人が「私も兵士の顔見た」と言う。

 

恐ろしかった空襲、残酷な殺し合い戦争。

自分も名古屋城近くで育つ。国民学校3年生で「疎開先でさえ祖母と近くの小川にいたら、攻撃された。確かに飛行機の兵士が見えた」と怖かった話をした。

 

一強といわれる安倍政治、安保法だの共謀罪だの、十分な審議もなしで、やりたい放題。

また悲惨な戦争の出来る国にするのですか? 

 

注、瑞宝賞は国家や公共のため公務に長く従事し功績を残された者に授与される賞

 

                  2017.5.31

 

 

 

       朝5時スタートの友はいま

 

照子が早朝5時から9時頃まで、畑仕事に精を出すようになって半年近い。それにはわけがある。連れ合いは現役時代お酒に強く、努力してその部署のトップの座で活躍した。部下たちの信頼もありよく酒の場を作った。

酒に弱いと中々そんな場で交流は出来ない。酒に強い事が仲間づくりに有利に働いて、それなり安定したポストの責任者で退職した。

 

それが思いもかけない「アルコール依存症」発症となり、家庭破壊の状態で照子は必死で夫の医者通いを手伝った。しかし、アルコール依存症は簡単に治せるものではない。

ときには「悪いナ、畑仕事、ほんとはオレがやらなきゃいかんのに…」とは言う。

 

酒を断つといらいらして、怒鳴る、内緒でコンビニの小瓶酒を買って飲むなど家庭は壊れた。

アツアツの遠距離恋愛の末、夫婦になれたのに。

 

朝5時だ。さぁ! 武くんと畑に行こう。

車で5〜6分も走れば、武くんと思いきりしゃべりながら畑仕事が出来る。

 

「武くん、そこの草随分伸びたよ。ちょっと釜で刈ってくれない?」「うん、わかった」

「ほら、人参とねぎが大分大きくなったわね。少し離れた田んぼの方は農協頼りだけど、れんげ草のやさしい赤紫がきれいね」

それにしても近ごろ、ヌートリアが折角育ち始めた農産物を次々食べ散らかす。これには参った。

 

真面目一筋の次男が、来る日も来る日も残業で月80時間から100時間働いた。当然ながら体調不良になり、鬱(うつ)病と診断された。

職場を休んで、医者通いしながら早朝の畑仕事を応援してくれている。早朝の田舎畑で小鳥たちが元気に飛び廻る。母子で一時的に穏やかなときが流れた。

 

ある朝、さぁ今朝も出かけようと納屋の車止めまで行って照子は思わず「ワァー」と大声で叫んだ。まだ床の中にいる夫に武の自死を知らせた。二人で号泣した。

 

照子は、次男武の自死には打ちのめされた。が、それでも生きなければならない。

 

アルコール依存症のいい医者を見つけた。患者と家族と医師が一緒にアルコール依存症の勉強をしながら、治療するのだ。夫を車に乗せて通院する日々が続いた。

照子は最近自分の食欲がないのに気付いた。無理に食べないで畑に出かけ、出来た野菜を友たちに送った。することはいっぱい、何とかそんな日々を積み重ねた。

 

照子と現役時代から親しくした自分は、気分転換になるからと名古屋駅で落合い、食事しながらしゃべりまくった。

膵臓がんで「余命3ヵ月宣告」を打ち明けられたのは、花花花いっぱいの「なばなの里」で逢ったときだった。

 

まもなく自宅近くの病院の緩和病棟に入院、何回目かの見舞いのとき「私たちやるだけやったもの。いつ逝ってもいい」と照子と言い合った。毎朝、名駅から官庁街まで20分、自転車で走ったよね。雨の日も雪が降っても…。

「ホントにそう、仕事と子育て、それに活動…」そう話しながら、心で泣いた。

 

食べ物も水も入らなくなってひと月、起き上がれなくなった照子は横になったまま「いいこと見せてあげる。かき氷なら喉とおるのよ」と、看護士が持ってきた氷のかけらを飲み込んだ。

 

昨年秋、自分が80歳を迎えた翌日、照子は旅立った。

朝、5時になると目が覚める。あっ5時だ。照子の時間だ。

 

                        2017・5・11

 

 

 

      こんな笑いが嬉しいのよ

 

中学時代のM先生が、時々美術館へ連れて行ってくれた。中学時代は疎開先の田舎だった。当時若手の先生3人が仲良く名古屋から通ってみえた。若々しい青春先生たちだった。

その中の一人がM先生で、田舎育ちの生徒に「都会の芸術の味」を味あわせてやりたい。そんな優しさだったのではないかと、昔を思い返す。

 

先生はお歳すでに91歳、親や連れ合いも亡くされ、子なしの1人暮らしは寂しいだろうと、たまに名古屋のお宅を訪問する。

昨年末に訪問したのは、花好きな先生だからと庭に咲いた小菊を持って行った。いくつもの花瓶の水替えくらいは手伝えると思ったから。買ってきたお寿司で昼食を共にした。

「いつもひとりだから一緒に食べるとおいしいわネ」と喜んで貰えた。

 

佐藤愛子の『90歳何がめでたい』が評判で本屋に電話したら無かったとか。先生の友達が図書館で借りようとしたら30人待ちだったと言う。

「あっ、その本ならもう読んだから、先生にプレゼントするわ」とバックから取り出した。

 

買物や掃除はヘルパーさん頼りの日々。「ここ2カ月、風呂に入っていない」、「え? 風呂なし?」と驚く。「ヘルパーさんに体を拭いてもらうだけ」という人生の先輩に「いま、一番のよろこびは?」と訊く。「やはり、俳句を詠んで認められたとき」とのこと。最近評価された句は?と問う。

「そうね、『曼珠沙華 白きは死者のまつりかな』が講座のトップに評価されたわ」

 

そろそろ帰ろうかというときに玄関にお客さま、腰が悪くて椅子からさっと立ち上がれない先生に「出てくれない」と頼まれた。

 

玄関で「どちらさまですか?」と言うと、中高年の感じのいい男性が「Sです。先日お邪魔したとき、ヤカンでなくお鍋でお湯を沸かしたので、この小さいヤカン買ってきました。渡してください」と頼まれた。やさしい人だな。

 

自分もお茶沸かしを頼まれると、ヤカンがなく言われるまま鍋でお湯を沸かす。先生の好みかな?と、ヤカンを買って来ようなんて、気が付かないぼんやり者だった。

 

男性が帰ったあと、先生に「ああ、時々来てくれる一つ歳下のクラスの生徒さん、そのお父さんなのね」と言った。「本人よ」に全くびっくりした。

 

一級下の男性の、お父さんなのね」「いえ、本人よ」に「ワハハワハハ」と大笑い。

自分の80歳という歳はすっかり忘れたこのぼんやり加減、思い返してはまたまた「ワハハワハハ」だった。

救いは先生のことば「こんな笑いがしたいのよ」だった。

 

人はみな老いる。幸せいっぱいだった先生も。

昨年末仲良しの友が旅立ってしまった。友と言い合ったように「やるだけやった」と言って笑って終わりたい。

 

                                 2017・1・24

 

 

 

       小さな白い山茶花が、一輪咲いた

          三人続いた死に会い ぶっ倒れた80歳

 

考えもしなかった。80歳まで生きさせて貰うなんて。

10月誕生日がきた。

その翌日、信頼し合った友が逝ってしまった。膵臓がんで余命3ヵ月と宣告された通りになった。

 

二週間後に、妹の連れ合いが突然倒れてそのまま旅立った。驚きと嘆きで心が動揺した。更に現役時代、子どもが通った保育園のT先生に久しぶりに会ったら「夫が心臓の手術失敗で逝ってしまった」と涙ながらに話され、うろたえた。

 

あと何年?あと何日?生きられるのだろう。

連れ合いといつも口にはしても、この現実の厳しさに打ちのめされそうだった。

 

それにしても、身辺整理は全然出来ていない。これではダメと、文章関係の書類やファイルを少し整理した。

「毎日ほんの少しでも捨てよう」と自分に言い聞かせて、衣類の部屋に手をつけ始めた。と、片隅に箱がある。中には親しい人から頂いた手作りの財布や小袋がいっぱい。丹精こめて作られた贈り物が多い。その他買い物に役立つかばん、持ち運ぶことが出来る立体的袋物など、商品のおまけに貰った物など十個どころか二十個以上あった。

 

みんな新品、いくらなんでも捨てるわけにはいかない。どうするか…。

迷った末、市役所に問い合わせることにした。電話に出た受付の人は「さぁ、少しお待ちください」と、福祉関係の内部でいろいろ訊いて、係りを二度ほど変わってくれた。

結果、「市内に障害者施設がありますから、そちらへ問い合わせてください」と言うことになった。連れ合いがネットで調べ、障害者施設がこの街にもあることが分かった。

 

翌日ダンボールに入れた品物を自転車に積んで、地図を頼りに探した。途中で3人の人に聞き、尋ねやっと見つかった。二階建ての木造家屋、ガラス張りの広い玄関から担当の人に理由を話した。

 

社会福祉法人福祉会として、知的障害者40人の生活を支援している施設だった。非常勤で医師一人、責任者一人、あとは5人の生活支援員などで月曜日から金曜日まで、朝9時から午後4時まで運営しているとのこと。

 

「近くバザーを開きますから、置いて行ってください」にやっと荷物を下せてホッとした。少し前、「施設の子たちに会いにいく」と言われたTさんを思い出しその人に訊いた。

「Tさんという方ここにおられますか?」「あぁみえますよ」全くの偶然だった。彼女はここで働いていたのか。本人が出てきてくれた。

 

「捨てられない袋物をカンパさせて貰った。先月80歳の誕生日で市長から祝金5千円を頂いたの。有効に使いたかったから、ここに寄付します」とTさんに渡した、ささやかなカンパを係りの人と喜んで受け取ってくれた。「80歳まで働くぞ」大声で言うTさん。

 

「見学していく?」のことばに3つの作業室を見て歩いた。自転車の荷物の紐を編んでいた。次の部屋も自転車の紐つくり、ダウン症の表情の子が二人いた。みんな向かい合って仕事している。二階からいい匂いがする。クッキーつくりのグループだった。

 

そのとき、突然廊下でキャーというような奇声がした。見直すと女の人が落ち着いた口調で、その男性に何か話しかけていた。

障害のある人たちが必至に生きる道を学んでいる。刺激的だった。

 

しかし次々親しい人たちが死んで行く。さすがに心が参った。めまいと吐き気に襲われ倒れた。

 

1日中寝続けた。なんとかめまいがおさまり、ふと思った。ほんの少しだけいい事したのかな。

 

白い山茶花が一輪ひっそりと開いた。

 

                  2016・11・23

 

 

 

       こころ温まる「握手」と、一斉に起立して「拍手」

 

90歳で一人暮らしの女性にとって、今年の夏の酷暑は厳しかっただろう。自分が何とか普通生活が出来ているなら、連絡して見舞うべきではないか。最近、久しぶりに納得して読んだ本「世界でもっとも貧しい大統領の言葉」のホセ・ムヒカ氏の影響かも。

 

中学時代お世話になった先生だったが、腰を痛め室内でも杖をついてしか身を動かせなかった。 限られた時間の中でヘルパーさんに頼む買い物と掃除、思い通りにはならないだろうなぁ。

ささやかな花を持参し、花瓶の花が枯れ始めているのを見つけて水を替えた。頼まれて買ってきた昼ご飯用のお寿司を一緒に食べながら、しゃべり合った。

 

「花はいいねぇ。慰められる」と満足気だった。

3時間近く時間が過ぎ、帰ろうと玄関で靴を履こうとしたら、突然両手でしっかり私の手を握り「ありがとう」と言われた。もう逢えないかも知れない。無言でそう言われた気がした。

 

6月に現役時代の友の家に近い、花いっぱいの「なばなの里」へ行った。花好きの彼女も数多いアジサイの花々に満足して、食事処で昼食を共にした。

 

現役の頃、私鉄で名古屋に着き、地下鉄がなかったので駅から官庁街まで、自転車で走った。もう一人同じように自転車で走る仲間がいた。二人とも仕事と子育ての両立に必死な時期だった。40年以上の昔ばなしになってしまった。この職場へ転勤して15年以上走った。ほとんど男性の職場で、心の本音がぶつけ合える友になっていった。

 

その友は退職後、夫のアルコール中毒、息子の死と苦が続いた。

7月、突然「膵臓がんで余命3ヵ月」の宣告をうけたと連絡して来た。信じられなかった。が、もう緩和ケァ病棟に入院中のがん患者になっていた。

 

3回目の見舞が出来たのは9月30日、宣告を受けた3ヵ月が経とうとしていた日だった。ベッドに横になったまま起き上がれなかった。目もつむったまま、時々開けてボソボソと話してくれた。

「若い時は体力もあり、苦もあったけど希望もっていたよね。今の若い人たちは希望がもてない世の中じゃない? 非正規雇用4割だの、結婚しないだの…。私たちやるだけやったものね。こんなに頭もしっかりして、どこも痛くないというのは、天のご褒美かも知れないね」そう言い合いながら、涙が滲んだ。

 

「何も食べられなくなって50日、一日一回の点滴だけ、それとかき氷」そう言って唯一食べられるかき氷を横になったまま、美味しそうに食べるのを見せてくれた。

それから両手で握手の意志表示をした友。温かな柔らかな手を握り合って病室を出た。

 

友が逝く。肉親の別れとは違う息苦しさ、切なさに胸が震える。

 

先日、安倍首相の国会演説をテレビで観て、うつむいてメモばかり見る演説だなぁと思った。演説の途中で首相が突然「極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りをもって任務を全うする海上保安官や警察官、自衛隊員に、今この場所から、心からの敬意を表そう」と、議員に拍手するよう促した。

 

首相の呼びかけに応じて自民党議員が一斉に立ち上がって拍手し続け議長が着席を促しやっと収まった。

 

加藤哲郎氏のHPには「安倍首相の所信表明演説の台本に『拍手』『水を飲む』『間をとる』と、ト書きがあった」

中日新聞の社説(2016・10・4)では「拍手促す首相 三権分立に反しないか」とあり、加藤哲郎氏「衝撃的」「感謝のスタンディング・オベーション」と書き、『情報速報ドットコム』のページがリンクされていた。

 

ナチスドイツ時代そっくりの、一斉の拍手にゾッとした。日本もここまで来たのか…。

人の手による表現でも、こんなにも違うのか。

 

子どものとき、「一億一心」「勝った勝った」「お国のために」と、殺し合いの戦争を体験させられた者には「背筋が寒くなる拍手」である。

 

    『情報速報ドットコム』台本に「拍手」「水を飲む」とト書き、「表す」に「あらわす」のふりがなつき

 

                                 2016・10・8

 

 

 

       「今日は『出歩き女』の日ですか?」

 

長い間、JR名古屋駅の待ち合わせは、駅舎の壁の大時計だった。

現在その時計はなく、デパートに挟まれた駅構内のエスカレーターあたりに、大勢の人が待ち合わせている。

 

何年ぶりかで昔の文章仲間2人と逢う約束をした。女性が多い。中年女性や学生のように感じる若い人、いろんな人たちを眺めながら、友はいるかと目で探した。

すると「今日は『出歩き女』の日ですか?」と元気な声が聞こえた。振り向くと20歳位の若い女性と一緒の50代の女性、文章仲間だった。

 

以前綴った拙文『出歩き女』を覚えてくれていたのだ。思わず笑顔になる。

「今日は『出歩き女』ではなくマチなの」

「お嬢さん?」と訊くと「えぇ、下の娘です」の返事、若いって美しいなぁ。その二人と別れて、相変わらずの人、人、人の中から、やっと待ち人が現れた。

 

「お久しぶり、二年ぶりかしら…」自分も、友二人も長年働いた仕事を卒業し、いつの間にか「終わった人」になっていた。しかし、友は二人とも高校の先生を辞めてからも、俳句の世界で、或いは「源氏物語」の世界にこだわった生活で、とても80歳に近いとは思えない表情の若さだった。

 

「兎に角80歳までは頑張って生きようと、夫婦で言い合っている」と言うと、一人が「とんでもない。90歳でも百歳でも、何しろこれからよ」と言うのには驚いた。その友は、夫婦とも体調不良もあって、老人ホームに入っているから。

 

現在は体調がよくなりホームに籍を置いたまま、養老の自宅で自然農にこだわった生活とのこと。経済的にゆとりがあるんだなぁ。

阪神大震災で娘夫婦を亡くした試練も、21年の昔になった。

 

もう一人の友は子どもが出来なかった娘に、体外受精でやっと子に恵まれた。苦労の末に勝ち取れた喜びはどんなだろう。その幼い孫の世話など、年取った「ばあちゃん」にはきつかろう。が、俳句のグループの編集責任も果たしている。

 

その友と一緒に、娘を失った友を励まし、娘の遺稿の童話が本になったとき沢山の知り合いに買って貰った。ささやかながら支え合った3人の仲である。

人の一生は順調にばかりはいかない。終章期になって体で分かった。

 

いろんな人たちと出逢い、別れて、この世で共に生きさせて貰った。信頼し合い誤解もあり、それが人間世界、少々の不理解を気にしていたら生きられない。

 

退職しておよそ30年、連れ合いが開いていた学習塾応援も辞めて15年以上、音楽に文芸に園芸に、自由に人生愉しませて貰った。

インターネットのホームページは生きている証し、庶民の目線で、「殺し合いの戦争だけは絶対ダメ」が基本。

 

「一日一日を楽しもう」淀川長冶のように。

2016・5・13

 

 

 

       伸びのび つくし、1日10本

 

3月20日、さくらの便りも聞かれる春分の日だ。

「暑さ寒さも彼岸まで」、現在のように暖房がない子どもの頃、寒さに震えながらみんなで待ちこがれた春だった。

 

日暮れどき、散歩で田舎道を歩くと、草の中に土筆がすくすく伸びている。春だなぁとほっとする。いまどき、こんな土筆に目をやって取っている子も、人もいない。

散歩に出ると日に10本くらいと決めて、ここ数日毎日つくしを取る。10本と決めたのは、はかま取りに時間がかかるから。

 

帰宅後、はかまを取ってさっと湯に通す。サラダに添えても、小魚などと食べても、春らしいほろ苦さが天下一品だ。

 

戦争が激しくなった昭和19年(1944年)、名古屋の学校から国民学校2年生でこの学校へ疎開、転校した。名古屋市郊外にある田舎の学校で、食料不足で全校生徒が授業として布袋をもって「いなご採り」をさせられた。つくしも取ったが、土地の子たちは素早い動作ですぐ袋いっぱいになった。慣れない自分は下手くそで、田の中で転んだりして泥だらけだった。

 

子どもの数が多い時代だったが、一学年2クラスで90人弱だったと思う。先日、小学生時代の同窓会があった。

既にあの世へ旅立った友が29人という名簿を届けてくれた友がいて、長年欠席だったが、そのショックな資料を見て出席を決めた。

 

半世紀も前の子供の頃の友なのに、男女半々で25人もが出席した。

歳は満年齢ならもう80歳、よく元気で集まれたものだ。

 

短時間の食事会だったが、順調そのものだった現役時代の社長業の友が「一人っ子を最近亡くした」と話す。双子の兄弟でいつも一緒の行動だった片方の兄弟を亡くしたと語る友、話上手でもない私と「しゃべりたかった」と言っていたと聞き、嬉しかった。が、双子の兄の死は衝撃だっただろうと胸が痛んだ。

 

永遠の命はない。ならば誰にでも起きるし、歳から言って明日起きても不思議ではない。

 

この会に出て良かったのは、こころに響く現実を2人から直接訊けたこと。

出席したメンバーたちは現役時代、長らく仕事で社会に貢献し続けた。

 

子どもが大人になり、恋もあっただろう。結婚子育て仕事を重ねた日々を思う。

既に3分の1が、あの世に去った。長いようで、アッという間。それが人生なのだと思い知らされた。

 

ここ数年夫のアルコール中毒で散々苦労している現役時代の友がいる。その友の連れ合いは丈夫だった。彼も流石に杖なしでは歩けなくなり、週2回ディサービスに通っている。現役時代大活躍だったのに…。

 

アル中で怖いほど暴れた連れ合いは、近頃静かになり、1日3回こんな言葉を言うそうだ。

「ありがとナ」「世話かけるナ」「無理するナ」

 

それを訊いて思った。すでに半分、仏の世界に踏み入っておられるのではないかと。

 

桜名所百選になったこの地の桜 間もなく満開になる。そしてすぐ桜吹雪で散り果てる。

  「散るさくら 残るさくらも散るさくら」良寛

 

                    2016・3・23

 

 

 

       歩かにゃ

 

現役時代、名古屋城近くの官庁街にある電気通信関係の職場に転勤になり、名古屋駅から毎日走った。自転車で。

自転車なら二十分ほどの距離だった。40年前まだその地域は地下鉄が開通していなかった。そのうち同じビルに通う友人もでき、駅前に自転車を置いて晴れた日は勿論、雨の日も雪が降っても自転車で走った。

 

真っ白に雪が積もった朝、止まろうと自転車のブレーキかけたら見事にスッテンコロリンとスキー場のごとく滑って、道路に横倒しながら何とかビルに着く。友と笑いながら話し合った。

 

ビルには岐阜や三重からも大勢の職員が通っており、みんな名古屋駅から歩いていた。

その中にいつも自転車で追い抜いていた課長がいた。或る日何かの折りに「歩かにゃ」と言われた。

しかし、当時子育て真最中で、朝7時過ぎの名鉄電車に乗り降りしてから、名古屋市内を歩いて8時半の始業時間に間にあうのは無理、自転車で必死に走る毎日だった。

 

考えてみれば、国民学校2年で戦争が激しくなり名古屋の学校から母の実家のある田舎へ疎開して来た。名古屋の学校は5分も歩けば直ぐ学校だった。疎開先の学校は、田舎道を40分も歩いてやっと着いた。その遠かったこと。お蔭で随分足は鍛えられたはずである。

 

先日、現役時代の友たちと久しぶりにしゃべりあった。若かったころ、中堅幹部の試験に挑戦し、合格したら半年間、寮生活で勉強した。技術系男子も、全国から千人位が1年間寮生活で勉強だった。華やかな青春のムードいっぱいの学園で少数の女子はモテモテ、数多い生徒が恋愛し、結婚に発展した。

 

半世紀以上の時が流れ、みんな若々しいが、70代の高齢者になっていた。

独り身でキャリァウーマンを通した人あり、夫に先立たれた一人暮らしありで、みんな人生の山も谷も歩いてきた

 

一人の友は早く結婚したが夫の浮気が原因で離婚し、3人の子を一人で育てた。子育てのため外勤はやめ、食堂を開いた。40年間やった店、「いかなごくぎ煮」「おからの煮つけ」など作らせたら絶品、立派な料理人になっていた。

 

少し前、店をたたんで娘と同居し始めた。現役で働きながら子育てする娘一家の食事を作っているとか。そして言った言葉は「毎日リュックを背負い、歩いて買い物する」だった。

私も買い物は歩いてが多い。「リュック背負って買い物する」は他にもいた。

 

その人は京大名誉教授で医学博士、定年退職していろんな本も書いている。毎日リュック背負って、歩いて買い物する楽しさが書いてあった。

 

「『よく噛むこと』と『歩くこと』どちらも直接脳の働きを活性化させる。体から脳に行く刺激の最大のものは足の大腿筋、二番目が咬筋、つまり歩けば歩くほど、そして噛めば噛むほど脳に刺激が伝わり、脳を活性化してくれる」と本に記されていた。

 

さあ、前向いて歩こう。歩けないと嘆く日が、みんなほどなくやって来るから。

              『歩くとなぜいいか』大島清 PHP文庫2007年初版

                      2016・1・29

 

 

       「ローゼル」騒動

 

「ローゼル」という赤い実のなる枝を初めて知った。

現役時代親しくした友は退職後、次男を亡くした。土に種を撒いて野菜や花を育てる事に生き甲斐を見つけ、安らぎの日々を重ねている。

車で連れて来てくれた畑に、コスモスと真っ赤なケイトウが咲き乱れていた。

 

畑の端の空中に、活き活き輝いているのが「ローゼル」だった。赤い枝に固い赤マントを着た3センチほどの実をいくつも整列させていた。爽やかな秋の空気の中、真っ赤な装いで踊りながら待っていてくれる子供たちのようだった。

 

長めに枝を切って貰い、私鉄内の乗客を気にしながら自宅へ辿り着いた。

帰宅して「ローゼル」を花瓶に活けると見事に輝いた。花大好き人間の夫が何も言わずネツトで検索し始めた。ローゼルでは無い。

仕方がないので中国産チャイナチェリーを注文したという。

 

そう言えば友も、分厚い「生物辞典」を広げながら「載っていない」と言っていた。ローゼルは花より食品、ハーブとして評判とか。

夫は粘り強く、他のサイトを探したら「あった、あった」と大喜びで2株注文した。

 

さて、以前から予定していた中学時代の恩師90歳の誕生祝い。夫を亡くし、子もないひとり暮らし。花大好き人間なので、二軒ほど名古屋の花屋をのぞいたけれど、季節のせいか胸躍る花がなかった。

 

そうだ、「友の花屋」だと、昨日逢ったばかりの友を再び訪ねた。大忙しで名鉄、近鉄二つの私鉄を乗り継いで…。

近鉄のY駅で下車、公衆電話を探す。日頃「携帯なし、車なしで何の不自由なし」急ぐときだけタクシーで。ところが最近公衆電話はめっきり減った。

 

やっと見つけたボックス公衆電話に入った。さぁと思ったらテレホンカードがない。仕方なく10円銅貨を入れようとする。

入らない。何度も何度も試みた。駅に着いたら電話する。その約束守れずに時計を見ると

15分も過ぎた。仕方ない!と、思い切って近くのコンビニに跳び込んだ。

 

「公衆電話に10円が入らないんです」すると、忙しい店長らしい男性が、さっさと電話ボックスまで来て「銅貨が入らない。ちょっと待って…」

店に戻ってテレホンカードを10枚ほど手にして、一枚を電話に差し入れ「どうぞ話して」と言ってくれた。

 

その温かい言動に感謝しながら、早速心配して待ちくたびれているだろう友に電話をかけ、コンビニでお礼にチョコを買った。何が起きるか分からないのが人生か…

友は車で駅まで迎えに来てくれ、家にはローゼル、菊、ダリヤなどが待っていてくれた。

 

やっと納得できる花を持って、誕生祝いが出来た。先生は家の中でも杖つきながら、「丹波の黒豆ごはん」と昆布だしで煮詰めた「揚げとうふ」を出してくれた。体中に沁みる美味しさだった。そして「ローゼル」に感激して貰えた。

 

先日椅子に掛けたまま、気分が薄らぎ「このまま死ぬのかなぁ」と思った。そう言いながら、俳句は続けている。見習うべき人生の先輩ここにあり。

少し前、優秀作品に選ばれた句を教えて貰った。

「落ち方を 考えている 冬の滝」

 

夫はインターネットで、ローゼル3株と他のハーブ1株を注文した。すると「他のハーブ株は枯れて来たので送れない」とのメールが来た。そこで「その枯れハーブの代わりにローゼル3株にしてほしい」と返事メールを送った。ガタガタと忙しいやりとりだったが、数日後新しいローゼルが6株も届いてしまった。

 

夫は庭に6株分の穴を掘り、肥料と共に植えた。わが庭は8株のローゼル庭園になってしまった。爽やかな赤で輝いてくれるか…

かくして「ローゼル」騒ぎ終了。大騒動の4人共、60過ぎまで十分働いた。残り少なきときを、心いくまで愉しむ花大好き人間ばかりだった。

 

子どもたちが、子育てしながら元気に働き続けているから、こんなときに恵まれてと、感謝の日々なり。 

しかし、夜、娘からの電話あり「乳がんで入院手術…」に驚愕。眠れない一夜だった。

 

何が起きるか分からない。これが人生である。

                        2015・11・9

 

 

 

       滴り落ちる雨水が 涙にならないように

 

名古屋の中心地のひとつ 栄交差点、

少し向こうから「なごや ど真ん中祭り」の賑やかな踊りばやしが聞こえる。

 

よく通るこの一角に、年寄りが、若い女性が真剣な表情で集まり始める

街路樹の枝からときおり小雨が滴り落ちる。傘をさしたり、つぼめたり。

 

二列の輪を作り、通る人の邪魔にないようにとマイクが何度も注意する。

10時半には、5〜600人か700人、それ以上の人たちが司会者の宣言を待つ。

新聞、テレビ関係の記者やカメラマンなどが動き廻る。

 

安保法制反対の、一斉行動の日とされた8月30日

国会前に10万人、全国で100万人が戦争法案反対の意志を示そうという。

 

この栄地域で「100万分の一行動栄」の呼びかけあり

「戦争反対」「憲法を壊すな」「安倍内閣の暴走許すな…」と。

 

7年前、「イラクに大量破壊兵器あり」と断定し、戦争仕掛けたアメリカ、自衛隊も協力した。

裁判で争い、違憲という画期的判決が出た名古屋高裁。あのとき何度も裁判所で傍聴した。

中心になったのは弁護士会。「先の戦争で弁護士会は反対しなかった」反省からと訊く。

 

この100万分の一行動に知った人無く、前回は一人で行進について歩いた。

今回も行進があると思い、体調不良の連れ合いは無理。ならば、1年に1〜2回会う現役時代の友と会おう。と連絡し合う。

彼女の夫もとても行進出来ない体調

 

わが連れ合いとはいつも行動を共にしたいままで。でも元気いっぱい活躍した無理がきたのか…。

男二人は参加したいが無理となり、ばあさん二人で栄交差点集会にきた。

「5歩でも歩くつもりだったから、10歩は歩いてくるよ」と言って。

 

行進はなかったが、久しぶりの友と言い合う。

「ど真ん中祭りの踊りも平和でなきゃ出来ないよ」

「大事な集まりに参加して納得ネ」

 

参加した人800人と司会者、みんなで手を上げて叫び合った。

「戦争反対!」「憲法壊すな!」「戦争法案反対!

 

国会周辺では12万人、全国350か所で数十万人「安保法案廃案を叫んだ。

 

時々街路樹からしたたり落ちた小雨は秋の始まり、傘差しかけて頂いた親切な男性あり

この雨が、苦しい戦争させられる国民の涙になりませんように。

 

                      2015・8・30

 

 

 

       個性派友たちのことば

 

いまから20年も前、エッセイや文章を書く講座に参加した。講師は大手新聞社論説委員だったベテランであるが、毎回宿題の全作品に、きちんと朱書きで評価・欠点を書いて返された。優れた作品は全員の前で朗読する。みんなやる気を出して書き、公募に入選する受講生は多かった。

 

当時70代80代の女性が何人も居られた事に感心し、人生の先輩たちの健筆に新米は脱帽したものである。

ときが流れ、この世を去られ(おそらく…)お逢いすることもなくなってしまった先輩たちを、ときに懐かしく想い返す。それは、自分がどんな場に出ても歳だけ長老になったから。

 

 死ぬまでの道連れは彼しかない

 

「わが道づれは、父親のひざの上に座っていた頃からの付き合いだ。小学校二年で父に死なれ、彼とも疎遠になった。成人し会社で働くようになった私の前に、茶褐色の苦み走った第二の彼が現れた。若かった私は相手の新鮮さにたちまち心奪われてしまった。

 

男女平等も進み私も女だてらに、第二の彼のほか、焼けるように熱い彼やとろけるように甘く優しい彼、清々しい彼など相手を変えて付き合ってみた。こんな状態が四十代なかばまで続いた。…いまでは、死ぬまでの道連れは彼しかないと決めている。

 

…さて、わが道連れの彼とは男のことではない。酒、それも日本酒のことだ。

最初の彼は辛口吟醸酒であり、茶褐色の彼とはビール、そのほか洋酒類でアブサン、ジン、ウィスキー、カクテル各種のことである。

 

最近は茶褐色の彼と口切りの挨拶ていどに付き合うだけで、ほかの連中とは一切縁を切って、道連れただ一筋の日々を過ごしている」

 

ユニークな発想で綴る友M子とは、働き続けて書き合う共感があった。

 

 恋に落ちるなら、落ち方は浅い方がいい。私の恋愛観

 

「かつて社会の常識などに受け入れられない恋をしていたとき、恋愛は人の至福のときと絶望的な悲しみとを、交互にもたらすようになる。

 

これから先、誰かと恋に落ちることがあるのなら、落ち方は浅い方がいい。大した支障もなく恋して、愛し合って結婚するというお定まりのレールに乗りたい。その場合二人は何からも逃れる必要がないので、あまり深く恋に落ちる必要はないはずだ」

 

こんな恋愛観を書いた友人H子は、文章講座に同じ時期一員になったが、優れた書き手で映画通、私より10歳位若かった。

 

 外国語で恰好つけるな 音楽通のH氏

 

講座のメンバーの男性たちの、反骨精神がしっくり来る。世の中を批判する力量があった。

それだけ積まれた社会体験が豊富なのだろう。

 

「外国語で恰好をつける風潮は相変わらずで『戸外活動をアウトドア、庭いじりをガーデニング、』…など日本語で足りるのに。

また『死ぬ、の変わりに他界する、鬼籍に入ると勿体つける。向田邦子は身内には死ぬしか使わなかったという』」と、率直な文を書き続けた男性も受講し始めたのは同時期だった。

 

長年年賀状をやりとりしたが、全部手書き、誠実な人柄だった。

「共働きは貧乏だからする」と言ったのはこの人、人間の価値はお金持ちが上、貧乏人は下、ではないからいいよ。

 

 一度だけの人生を最高に終わりたい それだけだった。特攻隊員のS氏

 

「昭和20年2月、特攻隊員として『一人乗りのベニヤボートに自動車のエンジンを搭載し、爆薬を装備して敵の艦船に体当たりするというお粗末な物で、それに搭乗するのが成人前の私たちだった』」と、死こそわが道と決意した当時を書いた海軍特攻隊体験者である。

 

「さらば祖国よ、いつまでも美しく長閑であれ」とスタートしたが、南中国アモイの海軍特別根拠地帯にたどり着いた。そこで待機中に終戦となり、捕虜生活を経て復員した」

受講生に、特攻隊員経験者がおられたとは…

 

 気持ちが通じ合ったK氏は少年兵だった

 

「天皇のために死ぬことのみを生き甲斐として、少年兵になった。日記に少し軍記批判を書いたら『天皇の名による』リンチで死に瀕した。…にもかかわらず生き残ってしまった私。神の国が負けたのに…」

 

「昭和21年1月1日午前4時、今日も占領軍の荷役である。氷を砕いてばらまいたような星空が頬を刺す。シリウスが冷たく輝いている。…日の出まで2時間、天皇が神性を否定し『人間宣言』をする、その数時間前であった」

文才あり、反抗心あり、こころも通じ合った氏は、いまの世をどんな思いでみておられるだろうか?

 

私がこの講座の一員になったのは何故か? この幅も奥行もある人たちに交じって。

 

いまでは珍しくないが、50年以上前に女が働き続ける人ばかりではなかった。

仕事と子育て、それに思想をもって活動しながら30年以上も働き続けた。

 

振り返れば、手持ち時間が少なくなっていた。楽しいことも苦労も織り交ぜて、体験した。

思想が一致し共に苦労した夫の、組織に異見を持ったから首切り、ショックが大きかった。

 

どんなことも、体験してみなければ真実は掴めない。書きたい。ことばで書き表したい。

拙文ながら、書き溜めた文章を当時始まったばかりのインターネットのHPに載せよう。ということで夫の友人の支援も得て、何とか開いたホーム・ぺ−ジだった。

 

それらの文章を朝日新聞で校正して貰って、自宅で印刷し、出版社から本120冊に製本した。それを厚かましくも、夫が活動で知った研究者の石堂清倫氏や、大学教授の水田洋氏、加藤哲郎氏などに送り、驚かせた。若さだった。

 

70年間平和が続いたこの国が、愚かな殺し合いの戦争が出来る国にしようとする動き。

ひとりひとりが考え、出来る事をしないと。ざわざわと。

 

このHPも書き続けよう。庶民の目線で。生きてる証だから。

 

2015・6・24

 

 

       「出歩き女」の或る日

 

 孤独を噛みしめてたんたんと

 

中学時代の恩師は89歳、母上と夫君が逝かれてかなりの月日が経つ。子がないので名古屋で独り暮らしを続けておられる。世話好きで、田舎の中学生だった私を、名古屋の美術展に連れて行き芸術作品に触れさせて貰った。ときには自宅へ招いて母上の手料理を味わった事もあった。

 

11月が誕生月なので久しぶりに訪問した。腰が痛く自由に動けないので、週二回ヘルパーさんに来てもらい掃除や買い物を頼んでいるとか。

 

 印象的だったのは、先生が首から赤い物をぶら下げておられた事。それは「家の事でも、体の事でも、何かあったら、それを押す。『セコム』という企業が直ちに来て、『体の異常は?』『どの病院がいいか』と直ちに行動してくれるらしい。1万5000円位払うと、孤独なひとり暮らしには力強い味方ができた」という先生に同感である。

 

 花好きの先生に、持参したネコヤナギの枝と白いトルコキキョウを活けた。花瓶の水を入れ変え、枯れ気味の古いユリを捨てた。それだけで「きれいだ。花が一番」と喜ばれた。

 

 お茶を入れ、持参した弁当を二人で食べた。

朝たっぷりの味噌汁ごはん、野菜に魚など食べている自分とは違って、朝食は殆ど食べておられないようだったので、食欲旺盛だった。それは食後に甘い栗きんとんや果物をたっぷり食べられるのを見て思った。

 

先生は長年俳句に親しみ、いろいろな場で入選しておられる。私が読んでいる俳人金子兜太の「私はどうも死ぬ気がしない」に目を留めて言われた。「金子兜太の句は季語なしの現代俳句で、季語重視の私がやっている俳句とは違う。けど人間に関心があるわ」と。

 

 俳句に無知な私は、よく俳句の選者などして、有名な金子兜太氏が現代俳句の達人ということは知っていたが、現代俳句は季語なしということを初めて知った。

 89歳の先生は、頭シャンシャンだなぁと感心した。

 

 その本には「産土(うぶすな)」について、金子氏が「産土とは、生まれ育った土地のことで『うぶすな』こそが人生を支えてくれる」と、その本の冒頭で綴っていた。

 そして、「高校時代から俳句を作り続け、1943年に東大を繰り上げ卒業し、戦争だったので銀行に就職してすぐ、激戦地トラック島に行かされた」とあった。

 

 「敗色が濃くなると、飢えと殺しあいの戦地で兵士たちが次々死んでいった。

 敗戦で捕虜として島に残り、翌年帰国した。神戸の埠頭を歩きながら、これまでの自分は海に突っ込んで死んだのだ。死んだつもりになって新しい人生を歩いていこうと思った。それを句にしたのが、朝はじまる海へ突っ込む鷗の死である。そして、いつも死んでいった仲間たちの姿がある」とあった。

 

引き上げて仕事は定年まで銀行マンを通した。当時レッドパージがあった時代で、地方の銀行を転々とした孤独な経験が「当然のように、季語なしでも社会と人間を歌う現代俳句に取りつかれた」とあった。

 

先生が読みたそうだったので、途中まで読んだその本をプレゼントとして差し上げた。

 

帰りに本屋でその本を探したが見つからない。三つ目の本屋でやっと見つけた二冊、金子兜太「私はどうも死ぬ気がしない」と、ノーベル平和賞に輝いた「少女ママラの祈り」を買った。「いい日が終わったな」と思った。

 

 片手上げっぱなしで、雑誌を売る

 

出歩き女は、週1回のピアノレッスンとその他の用事で、週1〜2回は名古屋の繁華街を歩く。現役のような顔をして…。

 

青春時代もよく歩いたその道のケヤキ並木は、少年たちのように背丈が低く葉は幼く柔らかそうだった。いまではすらりと背丈が伸び、格好よくなったケヤキの木が当時の倍以上に背丈を伸ばし、幹が太くなった。ファッシヨン自慢のケヤキたちが、思いっきり枝葉を伸ばす様は心和む。

 

地下鉄の出口から少し歩くと、片手に雑誌を持って売っている男性がいる。片手は上げたままである。いつ手を変えるのだろうと思うこともある。

売っているのは「ビッグイシュウ」(THE BIGISSUE)1冊350円、ホームレスの人が1冊売ると180円が収入になるそうだ。デパート沿いのその道は歩行者も多く賑わっている。が、そんな雑誌や売っている人に注目する人なぞ90%以上いない。

 

この雑誌を知ったのはいつだったか、もう2年くらいになる。その中味の充実した素晴らしさに驚く。先日買った号には米国の作家ル・グウィン女史がポートランドの活火山の噴火で60人もの人が死んだ経験を語っていた。定例のコラム欄に貧困対策にがんばっている雨宮処凛が子どもの貧困について書いていた。

「小学5年でやっと施設に入った子が、はだしばかりだったのに、生まれて初めて靴下をはいた喜び」を載せている。

 

もう一人の常連はエコノミストの浜炬子氏で、健筆爽やかに綴っていた。「イクメンパパの微笑ましさと、『妊娠のため降格となった女性が職場を訴えた』事件、上告審で違法という判決が出た。朗報だが当然の話で、世の中少子化でやたらパニックしているのに、笑止千万だ。」と粘った原告側の勝利を讃えていた。

 

格差社会の世の中、一部のお金持ちの株価なぞどうでもいい。住む所も食べる物もない貧しい人たちにも安心して住める世の中になって欲しい。

売れた本代の半分がホームレスの収入になる。こんな中味のあるいい雑誌が心ある人々の手にもっともっと届くといいのになぁ。

 

                    2014・11・29

 

 

 

       ただいま 子育ての真最中

 

 自転車で走る

 

現役時代、名古屋駅から官庁街まで自転車で走った。バスで通うのがふつうであるが、忙しい朝少しでも早く職場に着きたいと名鉄電車から乗り継いで、30分近く自転車で走った。そのコースの地下鉄は未だ開通していなかった。職場は違うが、同じ局舎の友人のたつ子もよく一緒になった。

 

雨でも、雪の降る日も走った。雪の日に自転車のブレーキをかけると、必ずステンコロリンだった。男性ばかりの職場の少数いる女性たち、2人ともまだ若く、仕事と子育てに必死だった。たつ子は、夫の失職で苦労している私を理解して耳傾けてくれた。

 

2年ほど経って、生きるためにやっと学習塾を開くところまできたとき、教室を建てる資金を労働金庫から借りる保証人の一人になってくれた。誰もが嫌がるのにと、感謝した。

たつ子は以前、子育て休職をとり少し楽になったと思った。数ヵ月は子育てと家事に専念しようとしたら、義父から「遊んでないで、パートにでも行って働け」と言われたとか。

 

こころ癒される コスモスたち

 

退職してから20年近く過ぎても、2人は年1〜2回会ってしゃべり合う。場所は名古屋駅近辺である。先日「そろそろしゃべりたいけれど、コスモスがきれいだから、こちらに来ないか」という電話があり、近鉄で20分ほどの彼女の住む町に行った。

 

2人で訪れた畑にはコスモスが咲き競っていた。茎の高さは30センチほどだった。

やさしいピンクに濃い赤色、その間をとりもつように白色が爽やかに散りばめられ、その姿は小学校の子どもたちのように生き生きとして新鮮だった。

 

コスモスは50センチ位の幅で、およそ10メートル、咲き揃っていた。

 

その少し奥に、よく見かける背丈2メートル近いコスモスが、不揃いながら自然体でのびのびと咲いていた。

若くてぴちぴちの子たちと競争している感じだった。よく見ると、その花たちに直角に背の低いみどりの列が延びていた。種から生まれて間もないコスモスの苗らしい。

 

少し離れた場所に真っ赤なケイトウが太い幹で堂々と、小山が盛り上がるように輝いていた。最近の花屋にはこんな太くて赤いケイトウの花は売っていない。懐かしく魅せられた。そして畑の片隅には、背高のっぽのススキが勢いよく秋到来を告げていた。

 

花とススキの間を縫うように、野菜の緑が植わっていた。大根の葉が一列、間隔をあけて人参が一列、そして名を知らない薄紫色の小菊?の集まりと、黄色のキバナコスモス?が、ひとかたまりになって咲いていた。

花いっぱいの中に、少しの野菜たちが遠慮がちに育っている。こんな畑は、いままで見た事がない。

 

畑の持ち主であるたつ子は「あの子は少し元気がないから、間引いてやらないと…」という。「…あの子?」と心で呟いてから、納得した。たつ子にとって花たちは「あの子」なのだ。「あの子は種から育った子、そっちの子は茎を切って植え変えたら枯れる子なの」

「時期をずらして種をまくの。すると長い間咲くのを愉しめるでしょ?」

 

少し離れた道路には車が行き交うが、この辺りは静かな田園地帯で、朝晩涼しさを感じられるこの頃は稲が黄金色に輝き、隣の田では稲刈りも始まった。

畑仕事もよく手伝ってくれた健二は、仕事が息つく間もない残業続きで精神的に疲れ、精神科に罹り薬に頼らないと安定し気分にならなくなっていた。そして、あの納屋で自死した。

 

見つけた姿にたつ子は大声あげて泣き叫んだ。その声で家から飛び出してきた夫と共に泣いた。

やさしかった健二が逝ってから3年になる。

 

死ぬより 生きよう!

 

退職後体調をこわしたたつ子の夫は、アルコール依存症になった。怒りっぽくなり、怒鳴ることもあるが調子がいいときは「おれがしなきゃならん農業なんかやらせて、こめんな」と言う。苦学して管理職トップとなった彼を知る者として、アルコール依存症の話は胸が痛んだ。

 

怒鳴る、暴れる、内緒に酒を買って飲む。どうしようもない状態を相談した医者から「断酒以外、道はありません」と宣告され、医師の指導でみんなと一緒に学習しながら、断酒と体操など無理やり夫婦で継続してきた。

 

週2回ディサービスのお世話になっている。異常に暑かったこの夏、たつ子は朝5時には一人で畑に行き、9時ごろまで働いてから朝ご飯だ。誰もいない畑で「ケンチャーン、休みのときは一緒に種まきしたり、草取りしたねー」と亡き子と話しながら働く。

 

何回も死にたいと思った。でも死んだら夫は? と考えると「自分が死んだら全滅だ」と思い直す。少しの野菜を貰ってくれる人に、必ず花のおまけつきで喜ばれている。1人2人、5人6人…人懐っこい人柄のたつ子だから出来る、第二の子育て、ただいま真最中

 

                  2014・10・16

 

 

 

       友あり 遠方より来たる その2

           もうひとつの77会

 

ことの始まりは、夫のHPを久しぶりに読んだ友人I氏が「ネットでがんばってるね、久しぶりに会ってしゃべりたい」と電話をくださった。

氏は糖尿病を患い、週3回透析しないと生きられない状態なのに、囲碁や句を続けている。夫は早速名前の出た高校時代の友人Mに連絡した。人の世話に慣れたその人は更に何人かに連絡する。

 

特に「はやく会いたい」と積極的だったのは鎌倉のS氏、そのときの夫婦の会話は「みんな77歳と年齢や体調のことを考えたら、いま逢わなければもう会えないと考えての事じゃない?」だった。

 

連絡や食事の予約など雑用を手際よくこなしてくれた人たちがいて実現した集まりだった。世はまさに夏休み真っ最中、子どもたちと海や山で遊んだり、孫と夏合宿を愉しんだのも全て過ぎ去った思い出になった「過去形人間」のおじさんたち

 

猛暑の中、鎌倉から大阪や京都から11人もが寄った。長年使った人間機械だから当たり前ながら、糖尿病だの腎臓が悪いだのと言う人が多かった。でもみんな元気で、体調不良ではないかと気にしていた鎌倉人は、医者にも罹らず元気だったという。

 

現役の医師が2人いた。「どうしてそんなに頑張っているの?」の問いに「家にいると母ちゃんと喧嘩になるから……」と笑わせ、「でも、整形外科にくる年寄りたちにはよく分かってくれると信頼され、好かれているよ…」と言った。奥さんは評判の美人らしい。

 

もう1人の医者は、経済学部に入ったが何か違うと、医学部へ入り直したという。途中で道を変えてからずっと現役で頑張ったが、最近息子に譲ったとか。とても若々しかったそうだ。

 

今回骨折ってくれたM氏はパソコン関係の仕事を卒業して、ボランティァで教室の講師を続けている。ときには自宅にも押しかけてくる人もいるとか。根っからのお世話好きで、10数年前わが夫婦がネットにホーム・ぺ−ジを開こうとしたとき、まだ珍しく難しかった立ち上げを、いろいろ教えて頂いた。M氏なければ開けなかったかもしれない。

 

鎌倉のS氏は企業に就職してから、思い切ってNHKに就職し直し、いまでもFM放送に関わっているという。メンバーには音楽好きが多く、以前から、I氏とは大好きなモーッァルトの曲は、ケッフェル番号だけで話し合う仲だった。

 

もう1人、京都で音楽会に出演予定の人がいた。大学コーラス部でずっと音楽に精通し、定年退職後も、プロのコーラス部員として歌い続けている。10月に京都コンサート大ホールで、バッハの「クリスマス・オラトリオ〜降誕 受難と復活のはじまり〜」を演奏するとか。夫は立派なビラを貰って来た。

 

道を変えたと言えばわが夫は、これこそ「世のため、人のため」と世の中変革の夢を抱いて、職場を辞めて専従になった。組織に異見を持ってくびになり、またまた苦難の道を歩いた。

今が一番幸せかも知れないと言った。「HPのアクセス85万を超えている」にみんな驚いていたとか。

 

道を変えた人も、歩き続けた人も、77年間人生を歩んで来られた。

子どもの頃は戦争だった。集団疎開でお寺に寝起きし、寂しさから寝ションベンする子ばかりで先生は毎朝大変だった。食べる物も少なく可哀そうだったと、当時のご近所の方の話も聞いた。

 

戦争体験者は2割とか。戦争を知らない世代が多数になり、またまた愚かな殺し合いの戦争が出来る国に着々と転換している政治に要注意。

それを考えながら、戦争が終わっても暑い夏は、いまのようにプールなんかなく川で泳いだ。ドジョウ、ザリガニ、へびまで捕まえて食べたあの頃を思う。

 

親しくして頂いている、一橋大学名誉教授の加藤哲郎氏の言われるように「古代インドでは人生を四つに分ける思想で『学生期』『家住期』『林住期』『遊行期』」にならって考えれば、みんな人生の「遊行期」まで生きて来られた。

 

それぞれの持ち場を確認して別れた、貴重な男11人の七七の集いだった。

 

                   2014・8・2

 

 

 

       わるいやつ

 

子どもの頃のわるいやつ

 

小学校時代仲良しだったT子は頭も良く、運動神経も良かった。或る日学校の帰り道で、前を歩くおとなしい同級生のKちゃんの「スカートめくり」をしようと言う。

「そんなのだめ」という勇気もなく、一緒にスカートめくりをした。

当時小学4年生、少しくらい勉強ができたからといって、同じ学年の子のスカートめくりをするなんて、本当に悪い奴だった。

 

別の日にT子とソロバンを習いに電車で通っていたが、駅の売店に並んでいた駄菓子を盗ってこようとT子が提案した。電車がくるぎりぎりにさっと目的の菓子を盗ってきて、二人でホームに入って来た電車に乗った。

 

T子のお父さんは大手電力会社に働いていて、部屋がいくつもある社宅に住んでいた。戦争がやっと終わったが、空襲で家を焼かれた人は多く、疎開してきたわが家はバラック住まいだった。当時電力会社の社宅では温かいお湯がふんだんに出る風呂があり、貰い風呂の焼け出され組とは違っていた。

 

社宅には卓球台があり、学校でみんなとやる卓球は、T子が抜群の腕だった。

 

赤紙が来て「ばんざい、万歳」で出征した父は、軍人として朝鮮や満州に行かされた。出征から4年後、1945年の敗戦になってもまだ帰って来なかった。

 

社会人時代の友人が聞かせてくれた話に涙が出た。自慢の父が戦地で戦死したが、お骨はない。空っぽの箱の中に「南無阿弥陀仏」と書かれた一枚の紙だけが送られてきて、母、祖母共々大声で泣き続けたという。苦しい記憶を聞かせてくれた。

 

赤紙で一家の主をとられた家と、徴兵を免れた家とは、このように生活に差が生まれるのである。

 

人さらいといえば、子どもの頃「悪いことすると、知らない人が連れてってしまうよ」と教えられた。それが「いい子になろう」のひとつの支えだったかも知れない。

人さらいは悪い人で、捕まったらひどい罰を受けると聞かされていた。

 

でも堂々と人さらいしても罰を受けない人さらいもあった。それは突然来る赤紙だった。簡単に人さらいし、罰も受けず延々と人さらいを続けた。

その人さらいの赤紙が来た人と、来なかった人の生活は天国と地獄ほど違ってしまう。

 

太平洋戦争勃発の1941年当時日本の軍隊は380万人だったが、敗戦前の1944年には800万人になっていた。それは、殆どが徴兵制によって採られた一兵卒だった。(保坂正康著『あの戦争は何だったのか』より)

 

「挙国一致」で「欲しがりません勝つまでは」と、子どもたちまで歯を喰い縛って軍国主義教育で育った日本だった。結果的に広島と長崎に2発の原爆を落とされ、瞬時に10万人単位で焼き殺された。日本だけでも敗戦までに310万人が死んだ戦争だった。

 

現代のわるいやつ

 

子ども時代の悪い奴も、それなりに苦労した大人を見て育ったが、今、戦後生まれで戦争を知らない戦争ごっこの好きなように思える宰相が、過半数を超える反対意見を聴こうともせず、憲法さえ解釈で変え「集団的自衛権」の行使をしようとしている。

 

日本は大きな転換期になってしまった。

他国で戦う自衛隊に死者が出る。(自衛隊員の自殺が多く問題になっている)

 

本当に戦争になったら、誰が戦争に行くのか?若者たちなのですよ。

徴兵制だって考えられる。

 

もしも、日本に誇れるものがあるとするなら、苦い体験から68年間「戦争はしない」を守ってきたこと。世界の信頼はそこにあると考えても間違いではないと思う。

 

国の体制を間違わないよう監視するはずの憲法を、ときの政府が勝手に解釋を変えていいのですか?

 

「秘密保護法」も、ろくに審議もせず制定した。「安保法制懇」「天下の公共放送NHK」の役員も、みんな自分たちに異見をもたないオトモダチで固める横暴さである。

やりたい放題の政府は、また5月30日に「内閣人事局」なるものを作ったと、新聞は伝えた。言うままになる人事で益々勝手な前のめり政治を考えているとしか思えない。

 

さらに、もう一つ忘れてはならない事、

それは原発事故で避難させられ、家族ばらばらで苦しんでいる被災地の人たちが15万人もいるのに、核のごみの捨て場もないのに原発再稼働だとか、原発輸出とか、およそ庶民生活を考えようともしない政治家たちである。

 

なんというわるいやつ現代のわるいやつなのだ。

 

 「今はみんながいるから笑っていられるけど、本当は毎日死にたいと思っている」という。

 仮設住宅に住む年寄たちの声(雑誌ビッグイシュウ239号 2014年5月15日)が聞こえませんか?

 

                         2014・5・31

 

 

 

       かえりみれば 77年(喜寿)

        青春の寮生活を共にした仲間の「大活躍」

 

ソチのオリンピックで、10代の選手たちが活躍中である。スノーボートの平野選手15歳、平岡選手18歳、フィギュアスケートの金メダルに輝いた羽生選手19歳など、若さ溢れている。羽生選手は16歳で震災に合い、苦労した体験が活きたと思える。

 

一方でジャンプの銀メダルをとった葛西選手は41歳、初の個人メダルという。人に言えない苦労と努力の積み重ねが実ったのだろう。

人生を20年ごとに区切って振り返ってみると、20代からの若さ溢れる20年間こそ、体力、知力、見た目の美しさなど輝くときだったと思える。

 

 )、たったの紙切れ一枚で

 

 現役時代それなりに、より向上することを目指して電電公社の中堅幹部試験に挑戦し、三重県鈴鹿で半年から1年の寮生活をした。全国から技術系男性約1000人、女性は30人余りで、青春を謳歌し、全国に散った。

 

その中の一人の友が、わたしが赤紙という一枚の紙の人さらいに父を戦争に取られ、辛い苦しい戦争体験をした母を見て育った。時々HPに書いていたのを読んでくれ、先日丁寧な手紙が届いた。そこに書かれていたことにドキッとした。

 

 「先日、フィリピンのジャングルから戻って来られた小野田實郎さんが亡くなられたニュースを見て母のことを思い出しました。父は満州から南方に送られて、ルソン島で戦死したそうです。私が7〜8歳の夏の日で、家に帰ったら祖母と母が泣いていました。

 

泣き声も覚えています。遺骨が帰ってきましたが、中には南無阿弥陀仏と印刷した紙きれが一枚入っていました」

 

更に文面は強烈に続いた。

「小野田さん帰国のとき母は狂ったように、まだきっと父は生きている捜しに行かなきゃと毎日言っていました。同じ部隊にいた広島の人が父の最後を伝えに来てくれました。負傷した人や弱って歩けなくなった人をジャングルの中にひとかたまりにして置いて行軍したそうです。その中に父がいた…ということでした。

 

……何年も前なのに……涙が止まらなくなってしまいましたからストップ……」

 

この友は、水泳指導のチャンピオンでもある。障害のある子に長年水泳指導をしている。年齢を考えると冬でも週3〜4日教え、打ち合わせに参加しているということは肉体的にきついはず。県水連会長から褒められるほど熱心に指導している75歳である。

 

世界遺産になった富士山の雄大な美しさに、いつも励まされているとあった。

 

 )、寒い雪国でも危険な法律に抵抗する人たちがいた

 

もう一人の友は、氷点下12度13度という寒い雪国からの便りである。さすがに今年の寒さは身にこたえるとあったが、弱虫の私なぞ風邪ひきっぱなしではないかなと思える。

 

戦争という殺し合いがない平和が70年近く続いた日本、自由にものが言える民主的な社会がどんなに有難いか、体験した者が若い人たちに伝えなきゃとHPに書いたのを読んでくれた。

 

手紙には「秘密保護法」を無理やり通した内閣に「いつか、あの時の結果がこうなったのかと思うときが来るようで怖い」とあった。そして、ビラまきを手伝ったが、若い人たちは受け取らない人が多かったとか。

 

 「秘密保護法の危険なことを、若い人たちにこそ知ってほしいのに、東京都知事選で賛成派と思える候補者に60万票も投票したのは、20代30代の若い人たちと新聞に載っていた」

孫たちの未来が明るいものであるよう願いたい。そう結ばれた手紙におおいに共感した。

 

 )、保育園に絵を頼まれる腕前の友

 

新年の賀状にあった「頼まれて、保育園に50号の絵を描きさすがに疲れました」は三重県から届いた。気取らないタッチの絵は人柄同様親しみが持てる絵が描ける人だから、幼い子たちに人気の楽しい保育園になるだろうと思い嬉しかった。

 

働きながら育てた2人の子の保育園通いは12年間と長かったから、余計そう思う。

 

何年か前になるが、クラス会で夜寝るのにパジャマに着替えない彼女。理由を聞くと「ひとり暮らしになってしまい、夜何が起きるかわからないから服のまま」の答えに、自分の粗雑さを反省したことを思い出した。

 「家内です」言われてみたいもう一度 亡き夫の声 忘れゆくなり 彼女の句である

 

共に生活していた時は気付かなかった友たち、それぞれが持っている才能が老年になって花開いている感じである。

 

 )、絵手紙で奉仕する友

 

もう一人、老人ホームへ絵手紙の指導にと誘われて、長年指導を続けている友がいる。

絵が上手いだけでは続かない奉仕の気持ちが要るのではないか。そう考えると、そうか彼女もはやくに愛する夫と死に別れ、孤独を味わったからこそ、出来ることを長年やってきたのだろうなと思える。

 

75歳の節目の友たちの頑張りは私の誇りである。

書道の達人が岐阜に、点字で社会貢献している人が三重に……まだまだ書きたいが別のチャンスに。

 

五木寛之が近著『新老人の思想』で書いている「人には去りどきがあるのではないか。高齢社会で百歳以上の長寿者は5万人をこえていて、80%以上が寝たきり老人という。あれこれ考えて『人生75年』このあたりがそこそこ現代にふさわしい言葉ではないか」

 

そうか、逝き時75歳をもう2年も過ぎたわが夫婦、いつも「あと何年?」「取りあえず今日一日元気で」と言い合う日々である。誰にも終わりが来る。

やるだけやったと言いつつ、やはり老いとは不安、寂しさありである。

 

今朝の朝日新聞に「瀬戸内寂聴さん(90歳)澤地久枝さん(80歳)が、戦争を知っているから、背中の方から軍靴の足音が聞こえてきます。街で一生懸命ビラを配っても若い人たちは足をとめてくれません」とあった。

 

これだけは言える。戦争が出来る国を次世代に手渡すわけにはいきません。

 

2014・2・17

 

 

 

       25年前 反原発と言った人

 

 「この暑さに耐えるだけが精一杯という情けない時間の連続です。・・・自分との戦いも難しい年になりましたが、それでも生きることへの謙虚さを忘れずにと思っています」

 中学時代の恩師は88歳の女性ひとり暮らし、暑中見舞いの返事が届いた。

 

 今年の夏は、ばてそうだった。40度を越す暑さの地域もあり、熱中症患者が何万と出た。冷房なしでは、夜眠れない日が続いた。

 突然の竜巻や、たたきつけるような猛烈な雨に襲われ、かと思えば雨なしのからから天気で野菜が育たず農家も大変だった。誰もが実感した異常さだった。

 

 本棚から「言いたいことがありすぎて」という本を何気なく取り出した。有名な「原爆の図」を描いた画家丸木俊さんが1987年9月に出版した本である。

 あの頃忙しさに追われてよく読んでいなかった。が、あとがきを読んでハッとした。

 著者は25年前にいまの私の歳になり、25年前に「反原発」と言っていたのだ。

 

 「ひろしま、長崎、アゥシュビッツ、南京、沖縄と描き続けてとうとう86歳と75歳になってしまいました」

 丸木夫妻の年の差は、私と先生の年の差と同じ位である。

 

 「地球全体が確実におかしくなっている。原爆を落さなくても、地球が滅びる日が確実にやってくると思えてしかたありません」

 

「ベトナム戦のときアメリカが使用した枯葉作戦の薬物は、日本の除草剤と同じものです。大気汚染、原爆実験、飛行機や自動車の排気ガスなど、全部空にのぼっていって、何キロメートルか上空で層を成してるそうですね」

 

 広島で原爆がさく裂したとき、丸木家は3キロ弱の所にあった。

 俊さん自身も血便が続き、腸出血となった。「救助や親類縁者を探し歩いた人々が、8月末頃から突然毛が抜けたり、血を吐いたり鼻血が出たり、・・・紫色の斑点が全身に現れたりする中で息を引き取り始めた」

 

 3ヶ月ほど続いた出血で、もうだめなのではないかと思った俊さんは、「奇跡的に命拾いをし、放射能の恐ろしさをしみじみ思う」と記してある。

 

 そうだったのか。自身が原爆の放射能を浴びて苦しんだなら、放射能で人はどうなるのか、絵や文章で描かずにおられないのは当然だろう。問題になった「はだしのゲン」の作者だって。

 

 あらためて読み直してみる。「戦争のときは原子爆弾で殺される。戦争が終わった時、原子力発電所に化けて出て放射能で徐々に殺される。戦争の時・・・原爆  平和の時・・・原発」が印象に残る。

 

 3・11の東日本大震災、津波、加えて原発事故がなければ、関心が薄かった事実を恥じる。被曝したから、体験したからこそ、丸木夫妻は恐ろしい愚かな戦争にこだわり、惨めを描き続けた。

 

 「『原爆の図』を持ってアメリカへ行き、フランスへ渡った。

 その頃〔1978年〕地震大国日本に20ヶ所の原発があった。東海村の死の灰がここフランスの再処理工場へ運ばれていた」と書く。

 

 原爆を落とされて、大きな絵だけでなくやっとできた絵本「ひろしまのピカ」を、35年たったいま、子も孫もない丸木さんは遺言状と言う。

 

 福島原発の汚染水もれで放射能をばらまいていると、世界から非難されている日本が原発輸出するという。

 

 「戦争になったとき日本はひとつではなかった。戦争をやる日本と、戦争を止めようという日本と二つあった」

 あらためて重く丸木俊さんのことばを考えた。伊里氏1995年、俊さんは2000年に死去した。

 

 残暑見舞に、なだいなだ氏のことば「とりあえず今日を生きよう 明日もまた今日を生きよう」と書いた。少し力づけられたという先生。

 私も、先生のことば「生きることへの謙虚」を忘れずに。

 

2013・9・7

 

 

 

       中学生になったけんた君

 

 10年前、現役時代の友と久しぶりに会う機会があった。自然な会話で「孫が生まれた」と言い合った。

 よかったねと喜んだはずなのに、その友のことば「孫はダウン症なの」に驚き、以来孫の話は禁句になった。

 

 何年か過ぎ我が家の飼い犬を見に来てくれた。小さくて愛らしい男の子で、ワンワンと言いながら犬の背をなでていた。

 先日、4月から中学生というその子と、ばぁちゃんが来てくれた。わぁ大きくなったね。送迎バスで中学特殊学級へ通うという。

 

 体が小さいからホルモン剤を注射して何とか成長してきたとのこと。

 もう中学生なのだ。ほら犬を触ってやって。いいです、吼えるからぼくいいです。のことばに確かな成長をみた。

 

 5月になってけんた君の手紙が来た。字は○の中に書いてあった。

 

てがみ

 

 よく書いてくれたなと、心が弾んだ。

 

 同封してあったけんたくんのお母さんの手紙

 

 「小さいときは病弱だったのに、いまでは元気もりもり、中学では将来に向けての作業訓練も始まり、何か身につけてくれればと願っています。

 不安になることもありますが、けんたと一緒に私も強くなっています」

 

 障害のある子の親になってみないと、ほんとの苦労はわからない。

 

 ダウン症の子はとても創造的だという。何が出来て何が出来ないのかと、腹話術でダウン症のことを明るく世間に知らせている親もいる。ダウン症の女書道家の活躍もよく聞く。

 

 けんた君、中学生、がんばろうね!

 おじちゃんもおばちゃんもがんばるよ。

2013・5・28

 

 

 

       すごい音の飛行機が上空を飛ぶ

         ヘリでも民間機でもない

 

 高山の友がくれた便りにビクッとした。

「お昼ご飯を食べて居間でテレビを見ていたら、ヘリでも普通の民間機でもないすごい音の飛行機が飛んでいきました。雲が厚くて機影は見られなかったのですが、軍用機だったと思います。基地周辺の人たちは、いつもこんな音に悩まされているんでしょうね」

 

 この友はいま体調を崩している。「原発のこと基地のことなど、モヤモヤしていますが人に伝えることができません」と書き添えてあった。

 

 太平洋戦争の末期、疎開先のいなかでの体験を思い出した。静かな上空に突然、轟音と共に大型の飛行機が飛んできた。祖母と二人で家の近くを流れる川で洗濯しているときだった。

 当時小学校2年だったが、私たち2人を見つけた飛行機が突然、ダダダダーと機銃掃射のように撃ってきた。1945年日本の敗戦も近い頃であまりの恐ろしさに震えながら、近くの桑畑に逃げた。

 

 米軍は余裕で、B29爆撃機からみたら面白いほどの爆撃だったろうと思う。

 

 名古屋市にある「戦争と平和の資料館ピ−スあいち」から送られてきた最新ニユースに、「高齢者の証言―戦争の記憶を語り伝える」があり、その中の文に目がとまった。

 

 「敗戦の3年前1942年、11歳だった私は、名古屋広小路通りにあった百貨店の北の空を、飛行機が1機西方へ飛んで行くのを見た。子どもたちは『変な飛行機』とか『なんだ、見たことない型だな』とか言い合って見ていた。

 するとボッ、ボッ、ズドッ、ズドッと白煙が上がり、誰かが『高射砲だ』『あれは敵機だ』と言いました。高射砲は1発も命中しませんでした。初めての日本本土空襲でした。

 

 日本は67年間、戦争のない平和な社会で生きることが出来たから、こんな体験はピンと来ないだろう。60代団塊の世代の人でさえそうだから、若い現役世代の人たちは現実の厳しさもあり、関心がなくて当たり前かも知れない。

 

 日本は高度成長期に経済大国になった。名古屋の街中で食事すると、あの店もこの料理店も元気な小母さんたちでいっぱいである。働く男性たちはワンコイン〔500円〕弁当か、それ以下の安いカウンターランチでしのぐ人が多いらしいのに・・・。

 

 小母さんと言ってもいろいろだけれど、私の場合現役時代の仲間がたまに会ったり、やっと見つけたゆとりのピアノレッスンのメンバーだったりする。

 いつの間にかみんな元気に70歳を通過し、年寄り小母さんになった。

 

 おしゃべりでは、戦争の苦しかった思い出がよく出る。「さつまいもだけだった」「空襲で焼け出された」「父を戦争に取られた」などなど、いかに乏しかったか、どんなに平和が有難いかで、みな納得して語りあってもいる。

 

 苦しい体験をした人ほど、いまの幸せが理解できる。

 だから最近の沖縄で米軍に性的乱暴をされたり、「未亡人製造機」ともいわれるオスプレイが沖縄に配置され、轟音と危険にさらされる様子に抗議しているのは人ごとではない。

 

 震災で家も職もなくして、その上放射能不安で子どもたちを疎開させている被災地が、あの戦後に重なる。

 

 戦争だけは絶対ダメ。歳を重ねて、次の世代にいい世の中を渡さねばならない。

2012・11・16

 

 

 

       「初めての夜」で、道三も信長も笑った

 

 岐阜城を見学中、「昨日の夜、同じ部屋のKさんがネ、『初めての夜よネ』と言うので笑ってしまった」「えっ、初めての夜って、初夜のこと?」もう一人傍にいた友と3人、「アハハアハハ」と思わず大声で笑ってしまった。

 

 現役時代、当時の電電公社が行った中堅幹部試験に挑戦した合格者は、半年から1年間寮生活で研修を受けた。同じ釜の飯を食べ生活を共にしたが、全員とは中々深く語り合えない。その後の長い人生経験も様々で、話し合いは寝る間も惜しんで続いた。「初めての夜」とは「初めてこんなに親しく話し合った」意味、でも「初めての夜」にはたまげた。

 

 岐阜城には、暦女なら大喜びしそうな斉藤道三と織田信長にまつわる資料や刀、槍など整然と展示してあった。その城で道三や信長がびっくりするほど笑い声を響かせてしまった。

 

 前回の集いは紙芝居とテレビで報道された。好評だったその紙芝居の絵を見ながら、再度自分たちで上演し合い、みんな笑顔で青春を懐かしんだ。参加者20人は、北海道から、東海四県や横浜、関西までの広い地域から参加し、4〜5人ずつ泊まる部屋に別れて、延々としゃべり続けた。

 

 過去の美女たちは、全員70歳を超えてしまった。この顔で70歳?と思うくらい若々しい人も多く、この元気は何なのだろうと思う。

 

 若いハンサムだった教官も86歳、やや太めながら元気で参加された。刃物産地岐阜県関市の観光案内ボランティアは辞め、篆刻(てんこく)一筋でハイレベルの作品を数多く創り出しておられる。

 

 障害者に水泳指導を続ける仲間、ダウン症の人を「ダウンちゃん」と呼びわが子のように慈しむ「水泳さん」。長年老人施設で絵手紙の指導に通う「絵てがみ」さんもいる。書道や書絵で県知事賞受賞レベルの「書道さん」もいるし、「書絵かきさん」たちの作品はさすが堂々としている。こんな能力の持ち主だったんだ。

 

 新たに点字を学んで目の不自由な人の力になりたい「点字さん」がおり、地域の清掃活動や生け花、染色、編み物などの芸術的ボランティア活動に積極的に参加している「ボラさん」がいる。

 さらに、老人施設で働いていたら「20代の人が入るから」と暗に退職を迫られた人や、「あと1年働く」という「仕事こだわり派」もいる。

 

 各地に素敵な仲間がいるのが喜びである。積極的、意欲的な仲間を見ていると、生きる甲斐とは、ささやかでも人のためになることなのだなと思う。

 

 現役世代はまさにゴールデンウイークの真っ最中、職業生活を終えたわれら卒業生は関係なし。でも、公園で楽しそうにイクメンパパと遊ぶ子たちを見ると顔がほころぶ。

 

 ここ5年間くらいで仲間3人が逝き、体調不良で今回不参加の人が何人かいた。これも自然の成り行きと受け入れるしかない。夫を早く亡くし故郷熊野に戻り、近所の人たちと絆を深めながら農作業に励む人が「田舎もいいわよ」と言った。

 

 岐阜から帰り、暫くして、写真や感想の便りが届いた。

 「素晴らしい仲間にめぐりあえた幸せをかみしめており、お一人お一人の言葉を思い返しながら、これからの人生の糧にしていこうと思っております」。

 

 「もう十日も過ぎてしまいましたが、仲間と合い語らうだけで元気が貰える、良い事ですね。原点はあの研修生活、感謝しつつ次回が楽しみ」。

 

 「ぎりぎりまで頑張って連絡してくれた高山のNさんに連絡したら、骨粗しょう症からくる腰痛なので長びきそう」などとあり、私は心配していた仲間に知らせたいと思った。

 

 そのNさんからの便り「テレビは見られる、本は読める、少しは歩けるし…出来ないことより出来ることを楽しみたい…」に、こちらが励まされる。

 

 夫を亡くして17年のSさんの便りにあった短歌が心に響く。

 「『家内です』言われてみたいもう一度 亡き夫の声忘れゆくなり」

 

 離婚でひとり頑張った「頑張りやさん」も何人かいる。「3年間笑いを忘れた」。その言葉を聞いて、「私も2年間笑えなかった体験がある」と言った。すると、もう一人が言った。「いいときばかりの人はいないわね」のひとことが重い。

 

 命ある限り前を向いて歩きたいものだ。

 

2012年4月28日

 

 

 

        美女の会

 

 近くの公園で子どもたちが走り廻っている。角度が180度にもなるブランコ大揺すりで楽しそうに笑う子、面白そうにすべり台を逆さまに滑り降りる子を見ると、こちらも思わず笑顔になる。

 しかし、放射能が心配で運動場で遊べない子たちがいる。徐染しなければ外へも出られない地域がある。仲良しと別れて全国へ疎開した子も多い。まるで、寂しさを我慢して疎開した戦争末期の自分たちだ。

 仕事や家族を失い一人になった人々がいる。大震災でまだまだ苦労の連続の人々が大勢いることを忘れない。

 

 そんな或る日、KさんSさんがばったり会ったのは孫の保育園、その日は「敬老の日」だった。

 「娘がパートで働こうと保育園を申し込んだ。どこも満員でやむを得ず民間の『キッズ』に預けていたの。やっとこの公立保育園に入れた」とSさんが言えばKさんも言う。

 「何度も何度も申し込んでやっと家から遠いけれど、公立のこの保育園に入れてよかった」。

 

 そして、孫たちは既に保育園は卒業して、小中学校へ通う私にも、ぜひと誘われたしゃべり会だった。

 20年ぶりのおしゃべりは自宅近くの喫茶店で、コーヒーとケーキを味わいながら、途切れることなく2時間以上続いた。

 

 かつて、子どもたちが同じ保育園で育った仲間のKさんSさんだ。

 あの当時は第二次ベビーブームと云われ、子どもはあっちにも、こっちにも大勢いた。娘が生まれて間もなく、夫が市役所の窓口を訪れ「産後休暇は42日間で、43日目から出勤しなければならない。この市は始めて『産休明けの乳児保育』をやるという。なんとか入りたい。子どもをみる人がいないし、働き続けなければ生活ができない」と切々と訴えた。

 

 しかし、窓口の職員は「もう既に入園者は決まっています」と繰り返すばかりだった。そこで夫は大きな声で怒鳴った。「いろいろ調べたら、未だ生まれていない人も生まれる予定ということで入園できて、もう生まれて産後休暇が明けたらすぐ出勤しなければならないのに、同じ市民でなぜ入れないんだ!」

 事実、わが家は夫が政党の専従活動家で給料は遅配続き、妻は安定した公務員とは言え、無給の子育て休職を取る訳にはいかない。ぎりぎりだった。いまから40年近い昔話になってしまった。

 

 Sさんもしゃべり出した。「当時大きな団地で保育運動が活発になり、次々保育園が建った。でも乳児の産休明け保育は全国でも始めてだった。もう一人Bさんと大きなお腹をかかえて、何度も市役所の窓口へ行き『教員とマスコミ関係の職場でも、働き続けなければ生活できない』と訴え続けた。それで何とか未だ生まれていなかったのに、入園予定者にしてくれたのよ」

 

 大きな団地で、若い母親が多かったこと。中心メンバーが集団保育の意義をよく勉強していたことなどが力になり、政党活動も活発で、保育園が地域ごとに誕生した。

 

 やっとスタートした乳児保育も、問題山積みで「1日1回しかおしめが替えてなかった」「おやつや、食べたものの記録が少な過ぎる」などなど、人不足からくる乳児へのしわ寄せで、職場から帰った夜の「市交渉」は頻繁に行われた。

 「保母さんも働く者の一人として、この切なさ理解出来るでしょ?」と言うKさんの発言は、弁舌爽やかで説得力があった。

 

 1日の勤めを終えてから夜参加する父母の会は、肉体的にも厳しかった。しかし、大事な子どもたちにいい保育をとの、親たちの真剣さが次第に市の職員にも伝わり、理解を示してくれた。ある管理職は個人的な会話の場で「真面目な心を感じて、皆さんを尊敬していますよ」とまで言ってくれた。

 

 保育園通園5〜6年で卒業のとき、誰からともなくこれからも「美女の会」をやろうと、発言があった。Kさんは均整とれた長身で大きく整った真っ赤なリンゴ、Sさんはやや小柄でいうならしっかり実ったさくらんぼ・・・などなど、勝手に美女と言っても変でもない。未だ若さのある母親、女性たちだった。

 

 時代が変わり、専業主婦より働き続ける女性が多数になった。

 40年も前から、職業を一時的と考えない意志の女性たちはいた。子育てとの両立に苦労しながら何とか、働き続けた。そして「美女たち」は、バァバになった。

 

 Kさんは連れ合いの死から20年、一人で頑張り通した。「孫の世話だけでなく、呆けないよう英語でも習おうかな」という。

 退職後も地域のコーラスの指導に生き甲斐を感じるSさんは「可愛い子や孫たちに、戦争の世の中にはさせない」と張り切る。

 幼かった子どもたちが大人になり、現役世代を頑張っているから頑張れる。

 

 季節は風から秋に。この地域でも黄色い稲穂が、頭を垂れ始めた。この夏熱中症、脳炎で倒れた夫もひとまず復活した。

 かつての美女たちにも、やっと訪れたゆとりのとき。残り時間の少なさを自覚して、「無理しないけれど、らくしない」で、さぁ再出発だ!

 

2011年10月10日

 

 

 

       最後の「イカナゴくぎ煮」

 

東北、関東大地震という、考えもしなかった災害で3万人に近い、もしかすると4万を超える死者、行方不明者と原発事故で「日本沈没」ということばが浮かぶほど。

 

生き残った人たちの、生々しい避難所生活の様子が連日報道され、ため息と、ときに涙が滲む。

出来ることは資金カンパくらいと、夫婦でささやかなカンパを送って、ほんの少しだけホッとした。

 

毎年いまごろになると、「イカナゴのくぎ煮」を送ってくれる友がいる。

16年前の阪神大震災のとき、兵庫県伊丹市で震災に遭ったその友に、見舞いを送ったのが付き合いの始まりだったような気がする。

 

イカナゴは2月から3月半ばまでしか獲れない魚で、神戸を中心にその時期は、どの家もどの人も、イカナゴのくぎ煮を作るらしい。

イカナゴの幼魚(体長3〜4cmほど)のシンコは、鮮度が命なので午前中に仕入れ、すぐ調理しなければならない。飴、生姜、砂糖、醤油など味つけや、煮るときの細かい動作や集中力で炊き上げる。

 

食堂を一人でやっているので、毎日の仕入れと商売のメニュー料理を準備しながら丹精込めて作られ、送られてくるイカナゴに舌鼓をうった。

 

その時期にしか味わえない、甘くもなく辛くもない深い海の味がする逸品だった。

名古屋のデパートなどで見ると、びっくりするほど高い値段で売っている。

 

その友は、毎日雄大な富士を眺めながら育った。

現役時代、全国から中堅幹部試験に挑戦、合格した仲間が、三重県で研修のため半年間、寮生活を共にした。

 

体育の時間になると、当時流行ったフォークダンスを楽しんだ。

彼女が講師と踊る。しなやかな姿態、動きは誰も真似できない見事な美しさだった。

 

何より、毎週末になると恋の相手が会いに来る。夫々に生活をエンジョイした学園生活だったが、みんな彼女を羨ましがった。

 

学園を卒業して、その彼と間もなく結婚し、子どもも出来て幸せいっぱいのはずだった。何年ぶりかで会った別の友人が「彼女離婚したって。彼の勝手な浮気らしい」と教えてくれた。

 

全国に散った仲間の消息は、何年かに一度のクラス会でしか分からなかったが、離婚して、退職後は関西に越して食堂を開いたとか。苦労しながらの子育てだったと思う。

 

「阪神大震災から16年もの月日が過ぎました。いま、この大災害に日本全体で向き合っています。こんな時期、40年間、みなさんのご支援で開き続けた食堂を、今月末に閉めることになりました。

他市に住む娘のマンションに行くことになり、道具も持ち込めません。最後のくぎ煮です。どうぞ味わってください」。

 

そんな手紙を添えて、イカナゴのくぎ煮が届いた。

「そうか、いよいよ店を閉めるのか」と、感慨深く手紙を読んだ。

 

こんな心のこもったくぎ煮を、わが家だけで頂くのは勿体ないと、近くに住む一人暮らしの友におすそわけした。

ご主人を亡くされてから、カルチャースクールで長年水泳を教えておられた。

 

「イカナゴのくぎ煮? 高級品ですね。いつも心にかけてくださってありがとうございます」と、目を潤ませてお礼を言われた。

産みたての卵が手に入ったからと、土産まで貰ってしまった。

 

もう一軒、必死で共働きした頃、保育園乳児保育で苦労を共にした仲間にもおすそわけした。時々、ご主人自慢の「無農薬野菜」を頂くお礼と思って。

その友も教員を退職し、同じく退職者のご主人と元気に暮らしている。

 

翌日、ご主人が菜花、レタス、ねぎなど、野菜いっぱい抱えて現れた。

「スッゴク美味しかった。くぎ煮は二人とも大好きです」と、頭を下げられた。こちらこそと、負けずに頭を下げた。

 

ああ よかった。無縁社会と言われる世の中、ほんの少しでも喜び合えた。

 

伊丹の友よ、閉店まで1週間、40年間お疲れさまでした。

苦労も多かったでしょう。看護師などで働く三人の子を一人で育て上げたのは立派、

 

長年開き続けた店は、地域の人たちにも親しまれ、社交の場にもなっていた様子、最近は外食産業大流行で競争も激しく、いつかの電話では「他の店が閉まった頃に来てくださるお客のために、途中で休んで、遅い時間まで店を開いている」とも言ったわね。

 

チユーリップの花束を贈ります。

多くの客に親しまれた店を、華やかに幕引きして欲しい。

 

赤とピンクのチューリップたちよ、

晴れ晴れと閉店を飾っておくれ。

2011年4月1日

 

 

 

       タイガーマスクとトヨさんの詩集『くじけないで

 

 1、タイガーマスク ブームだ

 

 タイガーマスクの主人公、伊達直人ブームである。

施設で育った伊達直人が、プロレスラーになり、児童施設にいろいろな贈り物をするマンガ、1960年代から1970年代の子どもたちをとりこにした。厳しいニュースばかりの日本で、善意の行動にほのぼのとした人は多い。

 

群馬県の「伊達直人氏」が施設の新しい1年生にランドセルを贈った行為がスタートだった。

去年4人目の孫が1年生になり、ランドセル1個を贈るのが精いっぱいの年金生活者は、何個も贈ることそのものがスゴイと思う。

 

何より全国に3万人もの児童が、養護施設で生活していることすら知らなかった。

1月半ばには日本全国の県に広がった。養護施設に贈られたランドセルは620個、2400万円のカンパ、件数は700件を超えるという。

 

 わが家の長男は60年代後半生まれ、「タイガーマスク」世代である。「あしたのジョー」「マジンガーゼット」などに夢中のアニメっ子になった。

現役の頃、一日の仕事を終え保育園に子どもを迎えに行って帰ると、休む間もなく夕食の支度だった。夫の帰宅は夜遅くで、夕食の支度中はテレビに遊んで貰う。

 

大雑把な子育てで、ただひとつ、寝る前の本読み聞かせだけは2人の子どもに続けたが・・・。

妹は1年生になったら「自分で読む」と言い出し、兄は4年生まで読み聞かせをした。

そしてテレビの「タイガーマスク」であり、「あしたのジョー」だった。夢中になる何かがあったのだろう。

 

新しく1年生になって、ランドセルを買って貰えない子がいる。その子たちに注がれる人としてのやさしさが、次々ランドセルだけでなく、文房具やお菓子を贈る。テレビを何度観ても、胸が熱くなった。

 

中には小学生、中学生の伊達直人が、「お年玉で買いました」。というのや、白菜やねぎなどの手作り野菜を送る人たちもあり、苦しい財政事情の施設の人も喜びは大きいだろうな。

 

 2、『くじけないで』の励まし

 

 タイガーマスクブームの少し前、ある詩集が評判になった。

 百歳ちかい柴田トヨさんの詩集『くじけないで』である。92歳から詩を書き始めたとか。

 

 その詩が短く、人の心に素直に寄り添う感じで、一気に読んだ。

 長く詩を書いている男性と、もう一人中学時代の恩師に訊いた。先生は俳句の達人で、連れ合いを亡くされて、独り暮らしが長い84歳。「トヨさんの詩はどうですか?」「句の達人からみたら、素人っぽいですか?」

 

2人とも、素直な表現で、共感できるとの答えだった。

 先生は、いくつかの詩の中で、「貯金」とか「風や日差しが」が好きと、礼状が届いた。

 

 その詩集を、最近糖尿病の治療ミスで片目が見えなくなったと悩む友に贈った。夫に先立たれ、高校で先生をしながら、2人の息子を研究者に育てたしっかり者、「詩集の字が大きいから、読めそう」と、元気な声に安堵した。

 

ピアノ仲間で、心臓病の夫が最近いらいらしているという焦り気味の友と、乳がんの宣告にショックで手術を受けた友にも贈った。

 

現役時代の友人は、百歳近い実母を亡くした。その一人暮らしの友に贈ったら、「母」の詩に涙が溢れたと返事がきた。

まだ仕事の現役、明日からその厳しさに立ち向かう。

 

離婚して、伊丹の地で、苦労しながら立派に子育てをし遂げた友、得意の絵手紙を老人ホームで指導し、自ら未亡人暮らしを元気づけている友、いずれも現役時代の友人である。

『くじけないで』を贈ったことに、「温かさをありがとう、元気が出た」との礼状が届いた。

 

何人に差し上げただろうか・・・。

 こちらが、何かとお世話になっている友たちへの、お礼のつもりだったのに。

 

そうそう、子どもたちに伝統文化をと、お花を教え続けている静岡、御殿場の友は、体が不調の夫が「一日ひとつの詩を読み続ける」と言って喜ばれたとか。嬉しかった。

 

トヨさんの『くじけないで』は、昨年末2歳違いの姉が急死してしまい、寂しくなった私自身への励ましのことばにもなってしまったが。

 

風や日差しが

 

      縁側に腰をかけて

      目を閉じていると 風や陽射しが

      体はどうだい? 少しは庭でも歩いたら?

      そっと声をかけてくるのです

 

         がんばるぞ

         私は心のなかでそう答えて

         ヨイショと立ち上がります

 

貯金

 

      私ね 人からやさしさを貰ったら

      心に貯金をしておくの

      さびしくなった時は それを引き出して 元気になる

 

         あなたも 今から 積んでおきなさい

         年金より いいわよ

 

 3、人の世の絆

 

タイガーマスク世代は、現役の中心、世の厳しさと向き合いながら人の役に立てる喜びを感じているだろうなぁ。

親が行方不明でも知らん顔、死んでしまったら、葬儀代もないしと、そのまま年金を受け続ける人もあり、世知辛いニユースが多すぎるから。

 

 人生の卒業生、中高年は自然体で、まだまだやること、やれることはいっぱいよ。

 「むりしない、らくしない」で、子どもたちに成るべく迷惑をかけないように・・・と、元気で残り時間を楽しんでいる。

 

みんな、感謝、感謝を忘れずにね。そう言い合っているよ。

 ころりと逝くことを願っている年寄りたち、吾もそのひとりなり。

それは、『くじけないで』が100万冊も売れたことにも現れているよね。

 

新しい年が始まり、心温まるタイガーマスクブームと

 くじけないで笑顔で生きようとする中高年、年寄り族

 一緒に手を取り合って、がんばろう。

 

折角生まれて、この歳まで生きてこられた。

80代の先生の友人から、よく電話があるとか。「死にたい、死にたい」と。

苦労も、生きているからこその苦労なのよ、死んだら、みんな終わる。

 

いつの間にか出来た絆、人の絆こそ宝物という友あり。

いつ、何が起きても不思議はないと言いながら、

みんな、前向いて歩いて行こう。

 

 

 

       抱き合うノーベル賞と、チリ鉱山事故全員救出、そして私も

 

今年のノーベル化学賞に2人の日本人が選ばれ、久しぶりに国中が沸いた。

受賞者のひとり鈴木章氏は80歳、13歳で父を亡くした。苦労して大学へ進み、いつも本を手放さなかった読書家で「二ノ宮金次郎」と言われとか。誠実そうな人柄が感じられた。

 

 もう一人は75歳の根岸英一氏、就職した企業で知識が足りないと痛感して休職し、米国で学んだ。そこで研究に目覚めたと言う。

日本に帰っても研究者として働く場がなく、米国に戻ったとか。

 

一面トップニュースで、受賞者根岸氏と米国パデュー大学の女性学長が抱き合った写真が載った。その紙面にほのぼのとしたのは私だけだろうか。人間、心の底から喜び合うときは、自然に抱き合えると思えた。

 

チリ鉱山の落盤事故で33人が生き埋めになり、17日間は連絡もとれない地獄だった。事故発生は2010年8月5日、地下700メートルで、絶望の中、救出チームから細い穴を通じて送られてくる食料の配給制を断行した。2日に1回、ツナ缶スプーン2さじ、牛乳はコツプ半分、など極度な自制がいる量を、3つの班に分けて守った。

 

そのため班長を決め仕事班、睡眠班、休憩班など、任務を分担して、それぞれ班長が統率することをみんなで決めたという。

驚くべき冷静なリーダー54歳のルイス・ウルスワさんがいたことが大きな鍵のひとつだった。

 

ウルスワさんは14歳のとき父親を亡くし、母親と苦労を共にした。その話は、日本のノーベル賞受賞者鈴木章氏に通じるものがあり、一層その苦労された生活と人柄に共感した。

 

全員救済のニュースは、世界中の歴史に残る喜び、2010年10月14日〔日本時間〕である。どんな小説も及ばないノンフィクションの「希望」だと思った。

本人も家族も、どれほどの苦悩に耐えたかを考えれば、ひとりずつ助け出されるたびに家族と抱き合う姿は、目頭が熱くなる光景だった。

 

日本は暗いニュースばかりが多く、中でも国の基本の一つである司法界、特捜部というエリート組織で起きた証拠改ざん事件は、心寒くなるような現実である。

 

その日本で、レベルはまるで違うが、つい最近、私も抱き合った。

 

先日、数年間続けた文芸関係の研究グループの一つを辞める決心がついた。職業生活を卒業してから、あれこれ欲張って好きなことに挑戦した。文章の勉強もそのひとつだった。

 

そこで一緒だった4、50代の若い仲間と、人の出入りが多い、立派なレストランの入り口で抱き合い、別れを惜しんだ。

 

会の参加者にはいろいろな性格の人がいて、講師の真面目な講義が続くと「こんな難しいことばかりやるのか」と文句を言う人。或いは、身につけた文学的知識を、ながなが弁舌したがる人など、決して悪人ではないのに、まとまりにくいときもあった。

 

みんな挑戦して、各分野の文章募集に応募した、あるいは、したい人がほとんどだった。その中で見事、○○賞を射止めた人が何人もいた。

 

小説、エッセイ、評論など多面的に書く、それに感想批評などが書かれ、参考にしてまた綴る。終了後はみんなで食事という、なんとも幸せで恵まれたときを重ねた。

 

「みんな仲良くできたのは、長老がいたから」と、お世辞でもうれしいことを言ってくれたが、歳だけ長老を自覚する自分から言えば、感覚や経験の違いがありながら、若々しい感性に触れて楽しめた。

 

「抱いていいですか?」こう言ってから、「この講座辞められるなんて、ショックです」と思わず抱きつかれた。仲間はもう2人いたので4人で抱き合い、「また逢いましょう」と涙滲ませて言ってくれた。

 

その友の新鮮な感性は、文章にも表れていた。「続けてきた児童文学を・・・」と言った。

 

もう一人は「私だけの、たった一冊の本にしたい」と言った。「女性の権利にこだわる」友もいる。みんな書き続けるだろう。

自分も、若い人たちに負けずに、少しだけ整理したけれど、書き続け、HPも質を下げない努力をしよう。

 

信頼する友たちと、抱き合って別れを惜しんだ。

こんな別れが出来た幸せを噛みしめながら、残り少ない「とき」に、僅かな寂しさを感じた。

 

そして、来日したキム・ヒョンヒが、拉致被害者の長男に会ったとき、「抱いていいですか」と断ってから、拉致された人の息子と抱き合ったことを思い出した。万感の思いを抱いて抱き合った2人。

 

心の底から抱き合いたい人、そんな人をもっともっと創りたいものだ。

 

 

 

       五回の花見で華やぐ

 

 春はさくらで気持ちまで明るくなる。五条川がさくら百選に選ばれてから、花見客も増えたようだ。

 犬山まで延々と続く桜並木、市内だけでも1400本、しかも樹齢60年ほどの老大木が多い。川の両側から桜が覆いかぶさるような風景が目を奪う。

 

 「花見にいらっしゃい」と、友人たちを誘うような社交性に乏しく、仕事は卒業したのに何かと忙しく、1回くらいは家族で花見をする程度だった。ところが、今年は花見を5回もした。寒い日が長く続き、花見を楽しめた日が長かったこともある。

 

 1回目は三分咲きの頃、夫と下見を兼ねて歩いた。それは「五条川の桜が見たい」と、4〜5人の文章仲間が名古屋から来るという申し出があったから。

「いいよ、いいよ」と、駅から何分歩くと桜並木が美しく見えるお勧めの場所、竹林公園に着けるか歩いてみた。

 

 上着なしでは空気が冷たく、風邪をひきそうでも、蕾たちは縮こまりながら出番を待っていた。人出も少なく、それなりに満足して歩きながら「お祖父ちゃんが元気な頃は、毎年1回は来たね。

 いつも『山崎川よりすごいな、もっと宣伝しなきゃ』と満足気だったよね」と、89歳で逝った義父を思い、15年も過ぎてしまった月日をなぞった。

 

 花見の帰りに駅まで歩き、駅前に出来たイタリー料理店で昼のランチを食べた。ここには塾の生徒だった店員が2人おり、言葉が交わせた。

 

 名古屋から客が来るという日は、早朝から雨だった。でも予報通り午後から晴れた。4人の中に晴れ女がいたお陰らしい。

 八分咲きほどの桜に満足してくれていた友たちは、昼食時間がとうに過ぎた空腹を我慢しながら、屋台に並ぶだんごや焼きいかを横目に「わぁ きれい!」とか「ここはダンゴ」とかしゃべりながら、川沿いの道をゆったり歩いた。

 

 女の賑やかなおしゃべりで、いつの間にか30分以上歩いて、川沿いに去年できたばかりの竹林公園で小休止。

 ここまでくると売店も何もなく、静かな桜並木の薄桃色と、緑の草原に生える黄色い菜の花、絶妙な春色を、遠路来てくれた人たちの目に、感動に似た喜びを見たようで安心した。

 

 昼食は、例のイタリー料理店のランチを勧めた。駅までの道々の話題は「こんな可愛い人と一緒に生活できるなんて、おれはなんて幸せ」と言われたプロポーズの話。

 50代の友たちは若いよ。

 

 「貴女はどうだったの?」「貴女は『貴女がいるだけで空気が楽しくなる』でしょ?」とか、「いまでも喧嘩すると、散々言い合ってもゆずらない。すると○○ちゃん、ごめんな」で終わり・・・とか。

 

 歳だけ長老の私が「思想の一致、趣味が同じ・・・あれがプロポーズになるのかしら」と言うと、「思想の一致、趣味の一致??」と、みんなびっくり。

 自分たちが青春だった1960年からの「政治の季節」、それから20年後が青春だった人たち。考えられないだろうなぁ。

 

 長老の「けんかするのは、仲がいいからよ」で青春談義はおしまい。

 

 ランチに追加した、イタリー仕込みのケーキとコーヒーにみんな満足。「イケメン店員と一緒に写真が撮りたい」の申し出は、仕事繁忙につきお断りだった。

 

 続編がある。4人の中の2人が、五条川の桜が気に入り、次の日家族と訪れたとか。

 1人は家族3人で、かなりの距離を歩き、イタリー料理店にも寄ってくれた。

 

 もう1人は夫婦で夜桜見物、「散り際と花筏の風情大好き」と。

 みんな満足してくれたんだな。

 

 3回目の花見は京都だった。平野神社の花見が出来た。

 さすが古都の春、人も屋台も大入り満員だった。少し離れた敷地の隅で、草と若い桜の木を愛でた。

 

 京都へ進学し20歳前に家から離れた長男、京都でいい人を見つけて住み着いてしまった。その日は4月生まれの孫の誕生祝いだった。

 

 4回目は、現役時代の友2人と満開の桜、散り初めた花筏を楽しんだ。

 そのうち1人は、後1年仕事をするという。どんな職場も苦はあるけれど、年齢のこともあり、日々それらと闘っているが、昨年母親を亡くし、ややウツ的思考に苦しんでいた。

 

 「花見という風流を初めて体験した。何十年という古木から気を貰ったのか、元気になれた。心から楽しんだ」と礼状が届いた。

 そうなのだ。働き続けるということは、大変なのだ。

 

 楽しいことも、いやなことも思いっきりしゃべり合い、笑い合い、桜の古木に心和み、良かったね。

 撮った写真を見ると、とても歳には見えない若々しい70代の二人である。

 

 さらに5回目の花見。

 わが夫婦は週1回しかやらない定例の清掃日に、折角だから満開の桜の下で昼食にしようと、五条川まで歩いた。

 

 屋台で買った串かつと肉おにぎり。このおにぎりは、ご飯を握って肉で巻いてある新製品らしい。それに味噌田楽を持って歩く。

 川沿いの草地をみつけ、そこで食した。

 

 満開の桜が、時折吹く暖かい風で花吹雪となり、着ている服が桜色になるほどだった。

 天気がよく、澄んだ川面にさくらが舞い降り見事な、見事な花筏。

 

 その優雅な自然の美しさには、どんな気持ちの人も川面に引き込まれるだろう。さすがにテレビや新聞でも報道された。

 

 今年の花見、スタートから天候不順もあり、寒さもあった。しかし、みんなに満足して頂けた花見。

 雨のち晴れ、最後に花吹雪と花筏の優雅な花見だった。

 

 5回も花見ができた幸せ。

 さあ、今年も前向いて、むりしない、らくしないで歩き続けよう

 

 

 

       人生8勝7敗−紙芝居になった50周年クラス会

     

 「女が働く」は当たり前の時代になったが、50年前は珍しかった。どんな分野にしても、管理職試験に挑戦し寮生活して勉強しようという人は多くなかった。
 現役時代、中堅幹部養成試験に挑戦した。合格者が半年コース、1年コースに別れて寮生活で勉強した。

 

 主に技術系で、全国からおよそ千人、殆どが男性だった。

 私たち女性クラスはわずか33人、50年の月日が、ほぼ全員「古来稀なり」といわれた70歳前後になり、2人が鬼籍の人になった。

 

 現職で働き続ける立派な友たちがいた。退職後、趣味の絵や書で県知事賞レベルに、力を出している人たちもいた。

 障害の子に水泳を教えたり、生け花の伝統を子どもたちに指導したり、或いは施設で絵手紙指導を続ける人、編み物の先生、染色や刺繍の技術で世の中と結びついている友がいる。本の読み聞かせで社会貢献している人などなど、みんな活き活き活躍していた。

 

 ふともらした友のことばに共感する。「これからはお返し人生よ」。

 

 そして、プロの紙芝居屋さんに紙芝居で演じたいと申し出られた。

 率直に言って当初は、幹事の中でも「紙芝居にはお金かかるし、何も残らない。単なる余興ではないか」と、反対意見もあった。

 でも話し合いを重ね、50年の歴史をまとめたいとの結論を出した。

 

 教官が保存していた写真や、「苦情申告」事件や、その後の半世紀、女性たちの喜びと苦労を、何とかまとめることが出来た。

 教官が「風速33メートル」と命名したこのクラス、

 苦情申告とは、いつもあるテストに「結構な試験問題、目から汗が出ました」「先生が2晩も頭をひねった問題、どうして私たちが2時間で解けましょうか」「ヒドイよ先生、あんな落とし穴で裏をかくなんて・・・」などなど苦情申告書を届ける不埒者たちだった。

 

 入学式の日、写真部からいきなりモデルにと説得された美女、演劇にテニスにコーラスにと、ひっぱりだこだった。

 夜、別棟にある食堂やお風呂に仲間と歩けば、後をつけられ、窓辺に宿舎が傾くほど男性たちが集まり、名前を覚えられた人は、当時流行りの「オーイ ナカムラくん」と、声がひときわ高まった。

 

 50年前は青春の始まり、人生のスタートだった。

 独身を通し、仕事に燃えた人も、結婚して仕事と子育ての両立をやり遂げた人も、或いは、よき連れ合いと巡り合い、幸せな結婚生活を送ったのに死別の苦悩を味わったり、離婚という道を辿った人たちがいる。

 自らも病気で苦闘したなどなど、生半可な50年ではなかった。

 

 さあ、紙芝居だ!

 寒い雪国から、大阪から、全国各地からここ名古屋に集まったメンバーは、会場に自転車で登場した演技者に驚いた。

 水あめを配って本物のムードを作りながら紙芝居の絵と文で、「バッハのハハはバッハハハ、 はい3回言って!」とリードする。

 

 水あめをしゃぶりながらの早口言葉に大笑い、全員、口角を上げて笑顔、笑顔になる。プロの演技だった。

 その様子がテレビ放映というおまけまでついた。

 

 歳を取ると、話は病気や死から始まる。しかし、いきなり青春時代の挑戦と合格の喜びのスタート、クイズや早口ことばをとりいれて、笑顔のワハハからスタートした。

 

 何人もが「涙がこぼれそうだった」「青春の記憶が甦り、みんな一つになって楽しんだ」と言った。

 「50年前にタイムスリツプして、楽しく、元気をいっぱいいただいた」などなどの感想

それらを言葉や文章にしてくれ、幹事は安堵した。

 

 紙芝居の絵と文章、それに、傘寿を超えてなお元気で、伊勢湾台風時の苦労や、通信事業の驚異的発展を支えた当時を、総合的に綴ってくれた杉山教官。その文章を、出席者と都合で欠席された方全員に送った。

 

 特に欠席者の、病気や、身内の種々の問題に立ち向かいながら、「宝物、元気なみんなに負けないよう、がんばろうと思った。励まされた」との便りに、心通わせられた喜びは大きかった。

 

 12月1日の中日新聞で「大相撲の魁皇関が今年の6場所すべて8勝7敗」と紹介し、

 宇宙物理学者池内了氏 の「宇宙誕生の時、物質と反物質が生まれた。同じ量ならぶつかりあって光になり全部消えていたが、10億分の1だけ物質が多かったから、銀河も生物も存在した」を紹介していた。いま在ることの微妙さに納得できた。

 

 半世紀前、苦学生たちの学園卒業の日、桜並木には桜が咲いて、鈴鹿おろしに雪が混じった。

 この風景に気がついた多感な人がいた。人生、七転び八起きなり。

 

  紙芝居になった50年目のクラス会

    発案者がいて、

    沢山の笑顔に会えて

    会費の予算内で出来て

    残すものが出来てから、紙芝居の写真コピー330枚を印刷したパソコンプリンターが壊れて

    テレビまで応援してくれて

    大成功! バンザイ!

 

 

 

       女王たちは いま

 

一度だけ、女王と言われたことがある。「継続の女王」と。

 

そう言った友は、長年文芸講座で一緒だった。名のある賞も受けたことのある才能の持ち主だ。

 その人が何年か前、別の講座に誘ってくれた。

 

 新鮮なムードでよかったが、時間が夜だったので、その友は体調不良でやめてしまった。が、積極的な性格で、別の大学の夏休み講座に行き、気に入ったその講師が昼間の文芸講座を始めるからと、再び誘ってくれた。

 

 夜の講座を続けているので迷ったが、かけもちをやってみることにした。気分としてはこのホームページの、文章の質を下げたくなかったというところか。

 文章表現にこだわるのは、この歳まで生きてくれば、当然世の中の試練も受けた。それを自分なりに考え、生きる糧にしたかったからだ。

 

 その友も49歳で夫を亡くした。その衝撃を感性豊かに表現できる才に恵まれ、そのことを書かせたら、右に出る者はいないと思えるほどだ。

 

 二つの講座かけもちになった自分は、それぞれ講師の味の違い、魅力に惹かれた。どちらでも、メンバーとの関係や、講座での一定の役割もあり、止める訳にはいかない。いつの間にか、ほとんどが年の若い後輩世代と言った感じになってしまった。

 

 時々、かつて参加した講座で、年配の文章の達人が何人も一緒だった頃を思い出す。すばらしい先輩たちだったなあと、いまでは縁がなくなったその方々を懐かしむ。そして文章表現をそれなりに継続してきた。

 

 もうひとつ続けているものがある。ピアノである。

 そこも音大の名誉教授の巧みな作曲、編曲、指導に魅せられ、或いは若いピアノ科出身の女性たちの指導も的確であり楽しんでいる。元々音楽好き人間だったことにもよるが・・・。

 

 ピアノは弾く以上は、3カ月に1回の演奏会に休まず出ることが進歩の土台と心得、1日でもピアノに触れないと、物足りなく必ず弾く時間を作っている。当然ながら弾けるようになれば、こころ楽しむ。

 

 10年間、演奏会を休んだことはない。ということは年4回で40回、倦まず、たゆまず精を出したことになる。これだけは自慢できる? というか、いつの間にか10年という年月が走り去ったと言うべきか。

 

 仕事、政治活動、それに子育てと、忙しすぎた日々を転換し、60歳で仕事を辞めた。考えること、表現したいことがいろいろあり、夫と、このホームページを必死になって開いた。 インターネット時代の幕開けの時期だった。

 何でも継続させる人間は、ホームページの質や更新で、益々継続の女王となった。

 

 考えてみれば、才能なき者は、努力の継続なしに何も生み出すものはないではないか。

 この夏、世界水泳大会中のローマで永眠した、日本のトビウオといわれた古橋広之進は「魚になるまで泳げ」が、現役選手たちへの口癖だったという。

 プロ野球のイチロー選手や、張本選手の頑張りは並みではない。

 

 もう少し身近かで、現役時代の仲間が、日本画や水墨画で三重県知事賞や岐阜県知事賞をとっているが、25年もの修行をしたと知ったのは、最近である。

 

 ピアノの10年選手は、あの教室の過半数のメンバーであるが、この夏うれしいニュースがあった。

 ある書道のグループで、ピアノ仲間の一人が市長賞に選ばれた。

 

写真右下のラベルは「市長賞」の張り紙

 

 その人は同じ時期にピアノを始めたが、歳は私より10歳若い。それまで老いた母の介護に必死だった。

 母が逝き、自分の生活をスタートさせたようだ。文章を綴り、書道に親しみ、若い頃は演劇にも取り組んだとのこと。

 

 書の時間は、太い筆を体全体でおよそ2時間、肉体労働さながらに百枚単位の枚数、書き続けると聞いたことがある。

 能力もさることながら、「努力は実る」を実感させられた。

 

 女王さまは、私のまわりにはいっぱいいる。

 今年、99歳の親を看取った人、現在百歳の親を看ながら継続している人、或いは病気の夫を看病しながらのピアノ、考えて見れば立派な、普通ではできないことだ。

 

 教室のメンバーは約50人として、70代後半の高貴な高齢者が6人以上、70代が約20人とみたが、大きな間違いはないはず。

 そして、明日の命はわからない。そう思っているのも、自分だけではないと思う。

 

 女王たちに囲まれている自分は、幸せな「継続の女王」なのかも知れない。

 

 

 

       私も「むりしない、らくしない」と言っていた友

          驚きの大手術をした

 

 現役時代、全国から選ばれた職員が研修施設で学ぶ制度があり、半年間寮生活をした。

 技術系の男性約千人、その中におよそ30人の女性がおり、青春を謳歌した。

 

 その後、さまざまな試練の人生を歩いたが、昨年までは一人も欠けることなく、若かった当時の教官も驚いていた。

 しかし、独立心旺盛に生きてきた女性たちは、それだけストレスにさらされるのか、がん体験者が5〜6人以上いた。

 

 そして昨年、優等生だった友人が一人旅立った。

 

 テレビで札幌の雪景色が写ると、北海道で、退職後資格を取り、ヘルパーで働き始めたという友を想い、気温がこの辺りのそれに比べて低く、氷点下を示す映像を見ると、寒い高山の友の生活を考える。

 

 伊丹で食堂を経営している友の大変さを思い、伊賀忍者のニュースで、書や絵の芸術活動をする三重県上野や、岐阜の友の芸術的力量に、或いは愛知在住の、絵手紙の講師などなど、高い技術が更に上がっているだろうなと、想像を逞しくする。

 

 元教官の篆刻の技も折り紙つきの一級品で、全国にこんな師や友たちがいる。そのことが、こころの励みになっていることに気づく。

 

 奉仕活動は当然の前提の人ばかりで、障害者施設への奉仕などみんな前向きである。それは、みんな苦労した証拠で、この友人たちを勝手に「苦学生」と呼んでいる。

 

 一番近いのは、穏やかな富士の姿に感動した三保で会ったときであるが、気候温暖な静岡地域に何人かいる元気な友を想像していたら、驚きの便りが届いた。

 

 並外れて体格のいい、健康優良児で、障害者 に水泳を教え続ける人だけに、本人の希望もあり、その手紙をHPに載せ、そのコピーを、みんなに送ろうと思った。

 

 2月に71歳になった私の身の上に、変化がありました。

 

 昨年10月定例ガン検診で、大腸ポリープが発見され、それが少し大きかったので、すぐ町内の県立病院に紹介され、年内最新のPET・CTや、MRIで調べた結果、すい臓に腫瘍が見つかりました。

 

 思ってもいなかったことで、ドクターはとっても幸せなどと言っていました。

 

 1月19日にオペしましたが、大腸ポリープは簡単でしたが、すい臓は大変なことで、7時間半にも及ぶ大手術になってしまいました。

 

 全く健康と思っていたのに、もうすぐ退院できそうですが、やせて足が棒になってしまいました。

 でも、考えてみるとラッキーなことばかりです。

 

 1、体調に異変がなかったので、前日まで研修会で働くことができた。

 2、そのままでは見つからない腫瘍が見つかった。

 3、何よりも、70歳を過ぎているので、入院費がびっくりするほど安かった。

    老人も保険料の負担について、もう一度考えなくてはいけないと今、思っています。

 4、検診も毎年受けていたので発見された。やはり必要なことですね

 

 4月のプールに向けて、今病院内を歩いています。

    という訳で71歳のスタート、新しくなりました。

    お元気で、楽しいお話、お聞かせ下さい。 K..

 

〔2009年2月〕

 

 

 

        むりしない らくしない−がん戦争と向き合う

 

 がんで死なない

 

 「がん宣告マニユアル 感動の結論」の著者吉村達也氏は、「がんは戦争、医者は司令官で、患者は一兵卒である」と表現し、「がんが他人事ですんでいる人は非戦闘員」と書いている。

 

 その本のあとがきにあるように、「まさしく、がんは人の残り時間を残酷なまでにはっきりと区切ってくれる。しかもそれには、精神的痛みよりもっと苦しい肉体的な痛みを原則として伴う」とし、生半可な心構えではパニックになる。それが、がん戦争なのだろう。


 「一兵卒」は、「司令官」の指示に従うほかないのか・・・。

 何人もの人が異議を唱えた。医師安保徹氏もその一人だった。

 

 氏は大学卒業後、2年間研修した病院で15人のがん患者を担当したが、全員が帰らぬ人となった。

 がくぜんとして落ち込み、病人を治せない現代医学の無力さを実感した。

 

 「がん治療は現在、手術、放射線、抗がん剤で、この三大療法が死亡率をあげている原因である」と言う。

 

 安保氏は続けて「『自律神経免疫療法』の理論を実践している臨床現場からの報告では、ストレスを軽減することでリンパ球による免疫力が活性化し、どんな病気も快方に向かうことが証明されている」

 

 「白血球は通常、顆粒球60%、リンパ球35%で構成されるが、強いストレスで交感神経が過度に緊張すると顆粒球が急増し、リンパ球とのバランスが崩れる。増えすぎた顆粒球の活動で体の組織を破壊する活性酸素が大量に拡散し、細胞再生の異常でがんなどに至る」と主張する。

 これを、新聞記事で読んだ。

 

 先日、その「自律神経免疫療法」で、病気から立ち直って3年半になるという友人が、その体験を以前知り合った報道関係の人と会って話し合う。インターネットにホームページを開いている貴女にも、同席して欲しいとの連絡を受けた。

 

 当初、あまり気が乗らなかったというのが本当の気持ちだった。が、徐々に10年前、このホームページを開いたときの、鮮烈な記憶が甦った。

 

 夫婦が長年の仕事を卒業したとき、当時まだ珍しかったインターネットにホームページを開いて、表現したいものがあった。何かしなければという夫婦の思いがあった。

 携帯も、ブロクもまだあまり普及していなかったときである。

 

 夫は、来る日も来る日もインターネット関係の本を読んだ。そして、パソコンを仕事にしている友人の助言を得ながら、ホームページを開くための機械操作に向かい続けた。

 

 私は、書き溜めたささやかな文章を、必死で整理しホームページに載せるべくパソコンに向かった。暑い夏の盛り、汗は流れっぱなし、冷房を弱くし、扇風機の風に直接あたり続けた。

 そして、下腹の鈍い痛みと、かなりの出血に気づいた。パターン通り、翌日ガンセンターへ跳び、検査した。

 

 結果が出るまでの1週間は、不安と焦りの塊だった。待合室での数時間は、深刻な結論も覚悟していた。

 

 出血の原因は、がんではないと診断されたのは本当に幸いだった。

 がんの宣告を受けた人は、あの不安、ストレスに日々さらされている。そのことを自分は忘れていた。

 

 誰でも、明日がんの症状が出て「司令官」の指示を仰ぐ「一兵卒」になるかも知れないのに・・・。

 人間は勝手なものだ。傲慢だった自分を恥じ、深く反省した。

 

 見渡せば がん患者ばかり

 

 名古屋市医師会の資料によると、平成18年、日本人の死因の第1位がんは全体の30%、約33万人で、間もなく男2人に1人、女3人に1人ががんになる時代とあった。

 

 考えてみれば昨年、3人の近しい人たちをがんで亡くした。

 義兄と、妹の義姉は骨髄異型性症候群、つまり「血液のがん」、70代前半だった。

 

 「上顎がん」で死んだのは、現役時代の友人で60代半ばだった。

 また友人の妹は、日頃よくお腹が痛いと言っていたそうであるが「胃腸系のがん」しかも末期と診断されたと、先日電話があった。

 

 更に、自分の妹の連れ合いは、およそ5年前「前立腺がん」と診断された。医師は肺とリンパ、関節にも転移しており、手術は不能と宣告した。これは衝撃だった。

 

 妹の家族全員が病院に呼ばれた。娘たちが余命どれだけですかと質問すると、「余命なんて、あなた達、月、週単位ですよ」医師のことばは厳しく冷たかった。

 打つ手なしといわれれば、ぎりぎりの精神状態で、どんなことでもやってみるしかない。藁をもすがる思いで。

 

 その少し前、東京の義姉が心身の不調を訴え、病院でレントゲンを撮ったら肺に影があった。落ち込んだ義姉は市販のサブリメント、なかでもアガリスク、メシマコブという、きのこの類や、フコイダンという海草が原料の高価なものを、手当たりしだいに飲んだ。

 数ヵ月後、別の病院で再びレントゲン写真を撮った。影は跡形もなくなっていた。

 

 医者も不思議がっていたというが、それを聞いて自分の妹に話した。そして東京から、いろいろな本や資料とサブリメントを送ってもらった。

 妹の連れ合いは、「前立腺がん」で打つ手なしと診断され、初診でマーカー値2600だった。衝撃的数値である

 早速、東京の義姉にならって、手当たり次第教えて貰ったサブリメント、アガリスク、メシマコブ、それにフコイダンを毎日毎日飲み続けた。

 

 とくに、フコイダンは海草のぬめり成分のなかに含まれている食物繊維の一種で、96年の日本がん学会での研究報告で注目を集めた。

 

 それは「がん細胞に対して直接働く」という。安藤由朗元ガンセンター医師著『がんになったら 私はこの代替療法を選択する』がそれを詳しく紹介している。

 医学的メカニズムはまだ解明されていない部分も少なくないが、研究成果が報告されている。

 

 2600だったマーカー値は次第に下がり始め、数カ月後の検査で、一挙に1.8に下がっており、医師も「これなら正常値、こんなに下がるなんて、とても考えられない」と言ったそうである。

 

 血色もよく、「転移もしており手術不能」の宣告が嘘のようである。きのこを毎朝煎じるのは妹、それを必ずポットに入れて持参し、定年退職後通い始めた語学専門学校へ通った。授業中でも、時間になるときちんと飲んだ。

 同時に、3カ月に1回のホルモン注射と、病院が処方してくれる薬は、初診以来およそ5年近く続けているという。

 

 このように、西洋医学と代替療法の二本立てで、一先ずは安定を勝ち取っている。

 短期間、好きな米国へ行き語学のとりこになって帰国し、その後、がんを発病したのであるが、英語でのスピーチが巧くなり、一度だけみせて貰ったその原文が、中身のある優れたものだった。

 

 なぜ、英語にこれほど凝るのか分からないが、長女が大学を出て間もなくの頃、海外青年協力隊として、2年間ガーナへ行った。次女は夫の仕事の関係でタイ暮らしが長かった。

 もしかしたら、妹夫婦の視点は世界、英語にこだわるのはそのせいかも知れない。

 

 病気が完治したわけではないのに「これから50年生きる」と言っているとか。

 好きなものに打ち込んでいるせいか、たまに会うと、顔色も表情も活き活きしていて安堵する。

 

 幸せとは

 

 これらは事実である。

 そこから、私たちは何を考えたらいいのだろう。

 

 このホームページで、ありのままの事実を伝えたい、綴りたい。

 勿論、サブリメントの宣伝をするつもりはない。

 

 代替療法、さらに、安保理論は説得力がある。しかし、それらを広げようとまでは、いまの自分は考えない。

 それぞれの患者の置かれた状態で考えることだと思う。

 

 この文は、私の友人がバセドウ病の宣告から放射線治療を受け、子宮、卵巣にも影響を受けた。検査数値に怯えそれらと格闘していて安保理論に遭った。

 加えて私が、妹の連れ合いの前立腺がん宣告と、その後の変化を話題にしたこと、この事実に自信をもち、共鳴した経過からスタートした。

 

 その友人は、意志強くもって、玄米、自然食を土台に、「自律神経免疫療法」で体力回復した。

 彼女はいつも「こういう方法が駄目なら、別のこんなやり方はどうかと手探りする」と言う。

 それはもの作り愛知の始まりの頃、トヨタ関係の職場で、彼女の父がいろいろ発案し、その数は豊田佐吉の次に多かったと、さらりと言ってのける 。

 

 自分の畑で完全無農薬の野菜を作り、無農薬玄米での食生活。たんぱく質は大豆と豆腐で十分だという。外出も多くて、外食が必要なときも、ご飯だけは自分で炊いた玄米ごはんを持参するという徹底ぶりである。

 

 彼女 は、文学の研究、特に長年「源氏物語」の研究会に喜びを感じて続けているが、体力回復は、精神的なものが大きいのかも知れない。近頃は、結果を気にするとストレスになるので、血液検査以外の検査は受けていないという。

 

 彼女は、なぜ、こんなすばらしい理論や、経験が伝わらないのか。

 打つ手なしと悲嘆のどん底に突き落とされた人たちが、「手術、放射線治療、抗がん剤」の現代医療で救われず、死んでいく現実がやりきれないと言う。

 

 95年ごろには、福田、安保理論は、もっと医学界に広がると思ったのに、医学界の壁は予想以上に厚かったと嘆く。

 彼女はがん患者として、どん底から、徹底した食事療法と、自律神経免疫療法で元気になった。

 

 他人に伝えたいと思うのは、がん患者の苦悩を知ったからだろう。それとも、クリスチャンだから人道的立場から考えるのだろうか・・・。

 私は強いて人に伝えなくても、元気になれた、それでいいと考えるが・・・。

 

 それは若い頃、「政治の季節」に、働きながら子育てし、世の中の革新を願って政治運動にのめりこんだ。いつも、他人に伝えなければ、他人を説得しなければという生活だった。

 

 その後の歴史の流れを考えると、正しいこともあったが、首を傾げることも多く、恥多い青春だったとも思う。真実とは何だったのか。

絶対的真理なんてあり得ない。

 

 今回は、折角出来たチヤンスで放送局へ行ったのに、報道部の幹部になったその人は、「『免疫力』を高める療法の理論には注目するが、一番いい方法は何か客観的には言えない」という。

 友人は、そのことを、口惜しがっている。

 

 安保氏によれば、米国の医科大学では6割が代替療法のカリキュラムを導入しており、がんの罹患率も死亡率も90年を境に下がり続けているという。

 

 たまたま、日本の現役世代の厳しさを象徴するように、07年30代を中心に仕事のストレスから精神を患って労災と認定された人が268人というニュースが伝わった。

 過労自殺が81人で、ともに過去最高という。自殺者は相変わらず3万人を超え続けている。

 

 残業時間が月120時間なんて、考えられない酷さである。

 そのことと、安保氏の著作で読んだ「むりしない。らくしない」のことば、日本の現状からいいえて妙、名言だと思った。

 

 夫の親しい友人も、この1年で、3人ががん患者になった。1人は大腸がんで手術し、抗がん剤のコースで5年近く体調は良かったが、最近食道に転移・再発したという。それは、抗がん剤、放射線治療で治ったと喜んでいた。しかし、さらに喉頭への転移が見つかり、つい先日急いで逝ってしまった。

 他の一人も食道がんになり、発症から2年で死去した。そのニュースは、最近伝え聞いたばかりで驚いた。

 

 もう1人は扁平肺がんで手術不能、抗がん剤、放射線で治療を続けたが、これ以上がんの治療法なしとの診断がくだり、緩和ケア・ホスピス病棟に転院した。そこで1カ月過ごして、帰らぬ人となった。

 長年、靴問屋の社長をしながら、連鎖倒産で廃業に追い込まれた。がん発病の原因はストレス以外考えられないと、夫は親友の死を悔しがる。

 

 名古屋市医師会の「がんの終末期対策」の文には、緩和ケア病棟での臨床体験が綴られ、しっとり考えさせる。

 

 「患ったり、死を身近に感じたりすると心が動揺し、平静でいられないのが常です」。

 「どうしたら幸せでいられるのでしょうか。日頃、これだけ病苦を背負いながら、どうして穏やかでいられるのかと不思議に思うことがあります。

 

 緩和ケア病棟で感じることは、生きてきたように死に逝かれます。過去の生を振り返り残りの今を精一杯生き、安らかに往生される方々に、平安を垣間見させて頂くことがあります。

 

 幸せとは、心がいつも穏やかである涅槃(ねはん)ということです。

 心穏やかに生きることは、上手に老いて、病期を乗り切るコツかも知れません」とあった。

 

 安保医師、緩和ケアの医師に共通するものがあり、とても救われた思いがした。

 

 この数日間、必死に読み、書いた。

 書き終わって、がん戦争という重く切実な問題を、真摯に考えるチャンスを創ってくれた友に、感謝の気持ちが沸いてきた。

 

 大宇宙の、小さな太陽系の、小さな星に生き、やがてその星に還る私たち人間の生とは、ほんの束の間のことなのだ。

 不運だった人も、努力が実った人も。

 

 貧富の格差や、戦争のない平和な世界で、心穏やかに生き、安らかに旅立ちたいものである。

 

〔2008・5〕

 

 

 

        続 出歩き女記

 

 出歩き女は、10月に、連れ合いと世界遺産の白神山地に登った。

 その直後、連れ合いが、「突発性難聴」に襲われ、医者から即、入院、安静、点滴を命ぜられた。

 そのため、期せずして3週間、毎日名古屋の病院へ通い、毎日、街を歩いた。

 

 11月、出歩き女は、ここ静岡県三保へ来た。

 現役時代、中堅幹部養成として、全国の職場から応募し、合格した約千人の技術系の男性に混じって、研修施設で半年間寮生活した女クラス33人。およそ半世紀近い月日が流れた。

 寝食を共にしたことが、懐かしさと楽しさの理由かもしれない。青春の幕開けだった。

 

 「遠い北海道から、旅費が大変だったでしょう?」「えー、質に入れて来た。ついでに旦那も質に入れてね・・・」。

 ニックネーム「吉本興業」さんは、こんなことばがパッと出る。頭の回転が速い。

 

 三重出身で、独身でキャリア・ウーマンを通した女性も、最近母親を亡くし、介護のボランティアも卒業と言いながら、明るく言った。 「年取るって楽しいね」。

 「エッ  どうして?」「60になったらいやなことぜーんぶ忘れちゃう。70になったら全然覚えられん・・・」。

 みんな、わっはっは、わっはっはと大笑い。

 

 「快晴の富士を見せたい」静岡の幹事たちが必死で願ったという。願いが叶い、晩秋の空は暖かく晴れた。海岸に近いホテルから、かなりの距離がある三保の松原までみんなで歩き、帰りの砂浜を歩きながら眺めた富士は、悠然と華麗な姿を見せ、神々しく輝いていた。

 

 今回の会で、初めてクラスの一人が天へ旅立った。何と言っても、その事実が重い。

 3年前彼女は言った。「お風呂の掃除をしていたら、ぽとぽとと鼻血が出て、それが始まりでした」と。そんなこと、自分だって、誰だってあり得る。だから切ない。

 

 5年前から「上顎がん」と闘いながら、明るさを失わなかった優等生、最後までミニテニスの指導に燃えて逝った。

 

 彼女の夫と職場が同じだった。遠慮しながら電話すると「5年前から覚悟はしていた。ミニテニスに燃え、指導に最後まで駆け回っていたから本人も満足でしょう。私と結婚したのか、ミニテニスと結婚したのか分からないくらいで…」。

 漫談口調は現役時代のままで、少し救われた。

 

 みんなで黙祷し、「千の風になって」を歌った。

 

 メンバーの中には、がん闘病経験者が56人いる。また、連れ合いが、がん闘病中と言う人もいて、がんとの闘いは切実である。

 みんな気配りのできる人たち、ストレスと闘っての人生だったのだろう。

 

 夫や子に恵まれた人ばかりではない。 独身でキャリァウーマンを通した人、羨ましい恋で早々結婚しながら、離婚した人も何人かいた。

 離婚して一人で子育てをやり遂げ、伊丹で客席8つの食堂を経営し続ける人は、食べるだけはできるからと、いまも店を開き続ける。

 

 大繁盛した食堂も、近頃の外食産業ばやりで客が減った。しかし、夜9時過ぎるとそれらの店が閉まり、馴染みの客がやって来る。だから、遅くまで頑張っているとか。

 現実に向き合うその逞しさに感動する。

 

 親の介護体験もいろいろある。その中で、親4人が次々倒れ、介護が10年間続いた人は「闘いの日々だった」というが、その人の口から「壮絶な」という言葉が出ると真実味があった。

 

 夜、同じ部屋の人が寝巻きに着替えない。「なぜなの?」 と、理由を訊いた。

 その人は、若々しい自然の表情で言うのだ。

 「夫が逝き、ひとりは何が起きても自分がやらなきゃならない。だから普通の服で寝る」と。見習うべき、天晴れな心構えだ。

 

 「出歩き女」も、深刻な政治的、経済的試練にあった。苦労かけた2人の子供たちも心合わせて共働きをし、元気に孫たちを育てている。ここ10年ほど穏やかな日々が続く。

 しかし、歯が悪い、ピアノの楽譜やパソコンで目が疲れる、山歩きで痛めたひざも要注意だ。ボツボツ「修理工場」での手当ても要る。手当てしながら、やっぱり元気に出歩きたい。

 

 静岡で、障害のある子たちに、NPO〔非営利組織〕の水泳を教え続ける人がいる。

 彼女は言った。「障害者やそのお母さんへの指導はすばらしく、彼女たちの健気さに励まされる。若い頃は楽しいことがいっぱいあったけど、年齢を重ねても、やはり楽しいことがいっぱいある」

 「私にもいろいろなことがありまして、エネルギーに溢れているときは、『生きてるよー』となり、そうでないときは『私の人生不幸せ』となる」。感性豊かなこの言葉に、私の心も励まされる。

 

 以前、新聞にある医師が書いていたように「障害者は一定の割合で必ず生まれる。自分の代わりに苦労してくれている。そういう見方が、いま必要ではないか」。

 出歩き女も、大いに共感する。

 みんな、退職後も何かのボランティアをしている人が多い。

 

 「ダウン症の孫のために、私は元気で長生きするのだ」と言い切る人がいた。その孫は今年1年生になった。

 「ある日、その孫が『ばあちゃん、ここにしわよってる』って言ったの。眉にしわ寄せて、こんな可愛い孫の世話してる自分にハッとした」と。

 大いに反省したという話には、降参した。

 

 たった一人の男性教官、若きエースだった男性も齢、80歳とか。兵役体験ありとは初耳だった。平和だったから、自由な社会だったから、働き続けられた。教官はきっとそう考えておられると思う。いい戦争なんてあり得ない。

 平和が続いた世の中だからこそ、ボランティアで社会と結び、ピアノだ、絵だ、書だと腕を振るえる生活があり得たと思う。

 

 教官の穏やかな人柄が、このようなクラスを維持し続ける。趣味の篆刻の腕は芸術品。岐阜県の関市から、新幹線に乗らずマイカーで駆けつける、その気持ちの逞しさ、見事な体力である。

 

 幸せの真っ最中の人も、試練と戦っている人も、ときを無駄にせず、前を向いて進んでいる。こんな友たちがあり、素晴らしい富士と会うことが出来たこと、これが幸せなのだ。

 

 庶民が織り成す、これらの事実が20あれば20通りの小説が書ける。出歩き女は、そのことに感動を覚えた。

 人生は一筋縄ではいかないけれど、人間っていいなと思った。

 

 会は終わり、雪の札幌、高山に、横浜、浜松に、そして、大阪、東海など全国に散って行った。

 

 出歩けば、世の中が見えてくる。電車に乗れば車内読書が出来、文章が出来、買い物は運動になる。コーヒー1杯分の交通費で、一石三鳥にも四鳥にもなる。

 

 出歩き女は新年早々から出歩いた。子供たちとの新年会を北陸敦賀でやろうということになったから。総勢10人の宿が取れた。出歩き女の、出歩き初めである。

 

 元旦の敦賀は雪だった。4人の孫たちは、大喜びで雪だるまを作って遊んだ。いまの子供たちは、あまり雪を知らないからとても良かった。

 雪の中、敦賀の「気比神社」と、最後の敦賀城主、大谷吉継ゆかりの寺「永賞寺」へ参った。

 吉継は、当時、特に嫌われた「らい病」だったが、それを意にかいさなかった石田三成の友情にひかれ、関が原の戦いで死んだ。

 

 長女の仕事始めは1月4日。小学1年と4歳の保育園児を預かるために、朝7時半に家を出て、8時半に私鉄の駅ホームで2人を受け取った。

 電車は、ほぼ満員だった。現役の頃、1月4日出勤する人は少なかったのに・・・。

 

 風はやや冷たかったが、新しい年は始まった。

 新しい年が、去年の「偽」ではなく、せめて「真」か「情」の年になりますように。

 

 

 

        青い記憶の丘阪神大震災から12年

 

 阪神大震災でおよそ6000人が亡くなった。ますみも、夫とともに天空へ駆けて逝った。幼い娘を残して。

 

 ますみの母親は、岐阜県の養老で、自然農の自給自足を実践している。わたしは気の合った友と2人で、2年ぶりに彼女を訪ね、3人は打ち解けて話し合った。

 

 ますみの母は、持病を克服するため、農薬を使わない自然農を徹底し、快復しつつあると言う。

 一緒に行った友人は、俳句仲間との吟行での、四国の話を生き生きと語った。「俳句は季語があって、またなかなか難しいね」と言うと、「全国的に有名な先生が一緒だったけど、この旅で百句はつくれと言われてしまった」と、驚いた顔で言った。

 

 落ち着いた10畳ほどの和室、襖の横に真新しい掛け軸が下がっていた。

 

あまりこの娘を悪く言わないでくれ、この娘は土偶なんだ。

あの記憶の丘にうまれていたのだ。土に青い草が生えていた。

それを月夜に俺がほりだしてきたのだ。頭が悪いといって不行儀だからといって、

あまりこの娘を責めないでくれ

 

 「この字、品があってすごく巧いね。書いたの誰?」

 「これはますみの字、あのときますみと一緒に、地面に埋もれてしまったのを、必死で掘り起こし、字も読めないくらいに汚れた掛け軸を5年かかって磨いてもらったのよ」。

 

 部屋の一角が大きな書棚になっており、ますみの自画像が飾られていた。それは、まるで、そこにますみがいるようだった。「あれから、もう11年?」思わずつぶやいた。

 

 ハッとするような西条八十の詩を書いた掛け軸と、等身大の絵に囲まれていると、話は自然に、あの震災の衝撃的な話題になったが、子を亡くした母に言う言葉は多くなかった。

 

 「『ミドリの森のビビとベソ』は、どろぼうの話なのに、ビビもベソもやさしかったわね。童話の新人賞になって、祝賀会は盛大だった」。

 「絵でも書でも、才能のある人は、はやく逝ってしまうのかしら」。友が言った。

 

 そのとき、部屋の空気が少し揺れたように感じた。いつの間にかますみが、話の輪に入っていた。穏やかだが、不思議なムードが漂い始めた。

 

 「ますみちゃんはいっぱい童話を書いたけど『さびしばけ』も、さびしい子だけの友だちになるおばけで、さびしい子のお友だちよね」。

 ますみは黙って頷いた。モダンなセーターにスカートが若々しい。

 

 「童話書いて、書もやって凄いね」「ほんと、その感性にも、やさしさが満ちていて…」

 

 ますみの母親が「遠くから来て頂いて…、遅くなるから、そろそろお茶にして、帰り道に続きを話しましょ…」と立ち上がった。

 そのとき、また空気がほんの少し動いた。

 

 晩秋の、夕ぐれにまだ間がある時刻、ゆったりお手製の小豆茶を味わっているときには、いつの間にかますみの姿はなく、3つの茶飲み茶碗の前の3人だけになっていた。

 

 

 

        泉岳寺との決別

 

 あさくらさんは、年1回は必ず泉岳寺に参った。その寺は17世紀に家康の命により創建された有名な寺で、東京港区高輪にあり、赤穂義士の墓所になっている。何でも、骨董が趣味の夫の菩提寺らしかった。

 

 あさくらさんと知り合ったのは、名古屋広小路まつりだった。

 柳橋にユニークな服を売る店があり、当時5歳だった娘と夫、3人で通りかかった。いまでも「あのとき買って頂いた服は、紺の刺し子の服」と、彼女は言う。念願の自分の店がもてた直後で、印象深かったのだろう。

 

 いま、ジーンズ全盛時代で街は、伸び縮みして、下半身の線にぴったりのジーンズで溢れているが、あの頃はそれほどでもなかった。が、ジーンズで硬い職場へ出勤するのは勇気が要った。

 

 あさくらさんの店には、和服の大島のような感覚の服や、カンボジャの変わった異国模様の、絹織物で作った服が並んでいた。「これを作った人たちは、貧しくて絹の服なんてとても着られない人たちです」。つぶやいた横顔が美しかった。

 

 一点ずつ求めるうちに、そんな感覚の服が自分にあっているようで、気に入った店だった。何より、あさくらさんの率直でいて、センスのいいアドバイスが客をひきつけた。彼女は、ファッションモデルのようなスタイル満点の美人だった。とりわけ和服姿は美しかった。

 

 その頃から、カルチャーセンターの帰りに立ち寄る常連客も増えた。

 誰にでも、気軽に振舞う一杯のお茶で、みんなの溜まり場、気楽なおしゃべり場になった。

 「その服変わっている。いいわね、どこで見つけた?」そう言って、あさくらさんの店を一度は訪れたという友人が何人もいた。

 

 ある年の広小路まつりに、この店は、ユニークな優良店として表彰された。骨董品なども店の飾りに生かされた。

 また、ある年の美術展には、友達の描いた「あさくらさんの店」が入賞し、あさくらさんが絵の中のモデルになり、絵葉書も出来た。

 

 そんな店も、土曜日は彼女の休養日で、静かにご夫君が店番していた。心臓が不調で、よく医者へ行くとか。お茶などは出ないが、それなりに気さくにファッションについての質問にも、対応していた。

 

 知り合って20余年が経ち、暫くご無沙汰していたら、閉店のお知らせなるハガキが届いた。驚いて駆けつけた。夫の急死は初耳だった。長年助け合って、衣料の店にこだわり続けたが、ひとりではやはり無理とのことだった。

 

 悲しみの中で、葬儀を終え、彼女らしく、閉店セールでてきぱきと品物を整理していた。もうすぐ泉岳寺へ出かける予定とか。

 長年、店のために、休んで旅行というわけにいかない日々だったが、泉岳寺への旅だけは続いていた。心の癒しだった。

 

 それから1週間ほどして、広小路通りで用を済ませ、あさくらさんの店を訪れた。ひとりで、どんなに寂しいだろうと思うと、心がうずいた。

 やがて閉める店の中で、話を聞いてあげようと時間を取った。

 

 突然、あさくらさんの目から、大粒の涙が溢れ出した。「うんうん、自分だったら、突然夫が旅立って、こんなに冷静でいられるだろうか」そう思うと、逝ってしまった人のことをあらためて思い、涙が滲んだ。

 

 暫くして、やっとあさくらさんは語り始めた。

 女も働き続けたい。自分の好きな得意分野で。知識欲も旺盛だったし、気が合った。いつもそうだったように、静かに話した。

 

 「先日、遺品の処理をしていたら鍵のかかった金庫があった。引き出しの鍵を見つけて開けたら、なんと、浮気の相手と一緒の写真が出てきた。

 旅のスナップや、ホテルらしいところでの写真、仕事で出かけたと思い込んでいたのに・・・。ショックで、ショックで、立ち上がれなかった。夫の死への悲しみと追悼が、瞬時に怒りに転換した。

 

 ほんとうの事言うとね、気に入らないことがあると、私に暴力振るったわ。1度や2度じゃない。でも、私は友達もたくさんいたし、お店が楽しかったから我慢した。小さな子どもを保育園に預けて懸命に働いたのは何だったのかと思ったら、泣けて泣けて・・・」。

 

 話を聞きながら考えた。

 人は死んで何を残すか。お金や地位。じゃないよね。ああ言ったとき、こうしたとき、ホッとこころが和む、人間としてのそんな触れ合いがあったことだけが、ふつうの庶民が残せる宝ではないか。

 

 あさくらさんは、話してから、すっきりした顔で言った。

 「泉岳寺は、もう1回だけ行って来るわ。そして、縁を切って来る」。

 

 休んでいたモダンダンスを再び始めるという。また四葉のクローバーを探す旅に立ち上がった。

 

〔06・12・1〕

 

 

        6万円のカンパ と じゃがいも甘納糖

 

 1、ホームページを読んで、6万円のカンパ

 

 今日はちょっといい話をさせてください。

 2月、3月は、手紙書きで大忙しでした。話というのはこのことと関係があるのです。

 

 Kさんという、奇特なお方がおられました。

 その方は、お若い方ですが、青春時代から政治的関心が深かったようです。インターネットで私たち夫婦のホームページを読み、私の連れ合いに、値打ちのある古い本などを贈ってくださっていました。

 1月に突然、その方から連れ合いへ図書券3万円と、「出歩き奥さん」へと3万円のカンパが送られてきました。

 

 東京はいま、バブル景気で、例えば百万円もする防音ドアの注文が殺到して、仕事がとても忙しいとのこと。

 多分、私の「出歩き女」という文章の中のこんな箇所が目に留まったのでしょう。

 

 「出歩くと世間が見えてくる。名古屋市の郊外の自宅から交通費は1回往復800円ほど、週3回で約2500円、月およそ1万円使う。高いか安いかは、その人の価値観だが、コーヒー一杯分と思うことにしている」。

 

 或る年賀状に『ふりむけば、ご恩をうけし人ばかり』という言葉があった。

 新年のスタートで思った。この歳まで生きられて、これからはお返し人生だ。途端に、天が贈り物をくださった。

 

 少し前、現役時代の研修仲間とクラス会をしました。

 全国から挑戦した技術系の職員約千人、女は30人ほどでした。

 半年間の寮生活は、長い人生から考えてみればほんの一瞬なのに、とても新鮮に、楽しく甦りました。貧しかったけれど、寝食を共にしたことや、青春のスタートの時期であったからでしようか。

 

 一人も死んだ人がなく、退職後も元気で一流の趣味や、ボランティアなどで活躍している様子だった。ただ、複数のがん手術体験者、連れ合いとの死別や離婚した人など、クラス会を開いた岡崎の公園にあった碑のように「人生は、重荷を負うて山道をゆくがごとし」を実感したものです。

 

 最近、その状態を『重荷を負うて 山道を行くがごとし』と題して、自分のホームページに載せました。その文章を、ささやかなお菓子を添えて、親しい仲間に送りました。

 お菓子というのは、昨年、姉妹とその連れ合い7人で、北海道を旅したとき、「馬鈴薯甘納糖」という珍しいお菓子を知り、取り寄せたのです。

 

 2、感激して読んでくれた研修仲間たち

 

 今年は、大雪が降り、雪国は大変だろうと、北海道と高山の友に送りました。

 

 北海道からは「毎日、除雪でヘロヘロになっていたので、貴女からのプレゼントで一気に元気が出ました」とあり、高山の友からは「今年の雪は一度にドカッときたので大変でした。でも東北や新潟の方々のことを思えは゛弱音も言っておられません」とあった。

 大変な人ほど、もっと大変な人のことを思う。そのことに感動しました。そして、こちらも勇気がわきました。

 

 大阪の友が電話で「ホームページの文、とても感激して読んだ。もっといろんな人にも送ったら」と励ましてくれたのです。一人でこどもを育て上げ、いまも現役で食堂をやっています。

 それ以後、ホームページを印刷しては手紙を書き、馬鈴薯甘納糖と共に送る作業を続けました。インターネットやメールをやり慣れている人にも、そうでない人にも。

 

 以前、乳がんの手術をした愛知の友のメールには次のようなことが綴られていました。

 「このところ寒さに負けて、体の動きが鈍くこのままではいけないと思っていたところです。懐かしい学園時代の文章に触れて、気持ちが若くなり、もう少し張り切らなくてはと思いました」。

 

 やさしいご夫君に先立たれた三重県の友からは「いろいろなことが走馬灯のようによみがえり、主人の思い出とも重なるようです」とありました。

 

 しっかり管理職を務め上げ、自らはがん手術の苦悩を乗り越えた愛知の友は「若かった学園時代が甦り、感動しました。あのクラスは私の生涯でも大切な財産となっていると、あらためて感じました」と、書き送ってくれました。

 

 さらに、最愛の孫が障害をもって生まれてきたうえに、自らもがんの手術体験者の友は「孫が白血病の手術で入院し、なんとか移植手術も成功しましたが、サポートする老人は体力、気力共に限界でした。学園時代の文章を、涙、涙で読み返しています」。

 しっかりした文字のその手紙には、こちらもホロリとしました。

 

 NPOで障害者に水泳指導をしている友からは、「私にもいろいろなことがありまして、エネルギーに溢れているときは『生きてるよー』となり、そうでないとき『私の人生不幸せ』となるのです。障害者やそのお母さんへの指導は、なかなかすばらしいもので、彼女たちの明るさ健気さにはげまされます。

 

 若いころは楽しいことがいっぱいありましたが、年齢を重ねても、やはり楽しいことがいっぱいあります」。紅に染まった富士のすばらしい写真と一緒に届いたそのことばが、心をやさしくたたきました。

 

 3、「じゃがいも納糖のような俳句が創りたい」 その他の友たちは・・・

 

 その他の仲良しにも、ホームページの、「映画『スタンドアップ』を観て」をコピーして送りました。

 「何と珍しい、じゃがいもを砂糖づけにするなんて。こんな発想をどんな人がしたのだろう。俳句も結局、発想の文学かな、なんて思い巡らして元気を貰いました」。そんな便りをくれたのは、俳句に燃えている元高校教師。

 

 「おいしい、不思議な味のじゃがいも甘納糖ありがとう。週2回ヘルパーさんに、週1回は看護士さんに来ていただいて、すっかり病人らしくなりました」。

 元気溌剌だった彼女も、今年の寒さで持病の糖尿病から足に壊疽ができ、暫く歩けないとか。若くして連れあいに先立たれ、息子たちは独立し、ひとり暮らしの友、離れて住む子たちも心配だろうな。がんばれ!

 

 やはり、週2回ヘルパーさんに来て貰っておられる、中学時代の恩師は俳句朝日入選の常連、「北海道の旅、お話が聞ける日を楽しみに待っています」。1人暮らしは明日のわが身。暖かくなったら訪問しよう。

 

 急死した夫の遺品を整理していて、夫の浮気が分かった古くからの友人は、「あのショックからすっかり立ち直ったつもりでしたが、貴女からの贈り物とホームページを読んで涙があふれました」。

 

 みんな、不安と寂しさを胸に生きているのだ。心と心との交流、ささやかな文章表現が多少は活きたかもしれません。

 今度の「ホームページ送り」は、全部で40人の方に送り、ほぼ全員の方からご返事を頂きました。お金は、送料込みで3万円余り使いました。

 

 あのカンパがなければ思いつかなかった。忙しかったけれど、生きる喜びとは、こういう事なのかも知れないと思いました。

 

 4月になって、朝日新聞の「声」欄が「寮」特集をしたことのついでに、応募しました。『仕事の仲間と情熱に燃えて』という題で載りました。直後、4〜5人の方から電話や手紙が届き、喜びのおまけを味わいました。

 このおはなしの最後は、マスコミにまで載り、うれしい〆となりました。

 

 Kさん、ほんとうに、温かいおこころを、ありがとうございました。

 

 4、仕事の仲間と、情熱に燃えて

 

    朝日新聞 声欄 特集「寮」 2006年4月19日掲載文

 

 三重県の研修施設に、全国から選ばれた約千人の技術系職員が集まった。目的は中堅幹部養成。

 女子はおよそ30人で、2〜3人ずつ分かれて半年間の寮生活をした。寮は古びていたが、エネルギーが満ちあふれ、男の訪問者が絶えなかった。寮と離れたところに建つ食堂、風呂などへの移動は、女子の後を男が追い、さながら青春の花園に乱舞するチョウのようだった。

 

 寮生活には三つの流れがあった。難しい研修に、いつもまじめに取り組む「有望幹部派」、部屋ごとに男子と交流をしながら勉強もする「両立派」、組合、サークル活動などに飛び歩く「いつも空室派」で、私は「空室派」だった。

 

 約50年ほどたち、全国から当時の仲間ほぼ全員が集まった。中にはがんで闘病中の仲間もいたが、「1人も死んでいないとは珍しい」と驚き、励ましあった。

 

 全員が長年働いた職場を退いた今の時代、物があふれ、社会は豊かになったとは思う。だが、長時間労働や派遣労働、パートが増え、労働環境は厳しさを増すばかりだ。当時は問題がありながらも、安定した終身雇用だったから、情熱的で人間らしく生きることができたのかもしれない。

 

 

 

        『重荷を負うて、山道を行くがごとく』

 

 半年間、三重県の研修施設で寮生活をしたのは、青春の門出の時期だった。

 

 全国から、技術系を中心におよそ千人の研修生が集まった。その殆どが男の中、僅か30余人の女たち。

 45年過ぎて、女クラスが集まった愛知県岡崎市。クラスのひとりも死んでいない。それは稀有なことだと教官は驚いていた。

 北は北海道、神奈川、静岡あたりから、南は大阪、伊丹まで、はせ参じた友たちは、それぞれ人生の試練を乗り越えてきた。

 

 当時、2〜3人ずつ、寮の部屋に分かれた。寮は古く、狭かったが、青春のエネルギーが充満したそれは、春の花園だった。

 夜のサークル活動はとりわけ活発だった。いつも部屋を空ける友に、見廻りに来た教官が言った。「お姉さんたちは何かと忙しいから、あなた達は勉強しなさい」と。

 

 どこかの部屋に男性が遊びに来たことが分かると、年長のクラスメートで寮監になった人が、わざと部屋の戸をノックしたという話。

 夜、お風呂のある寮舎へ行くために連れ立って構内に出ると、植え込みに隠れていた男たちが後をつけて来る。まるで花園を舞う蝶たちだった。そんな話を面白可笑しく語り合うかつての少女たち。

 

 半年の研修なんて、人生のほんの一瞬なのに、体に刻まれた懐かしさが沸くのは、寝食を共にしたせいか、苦学生の連帯感か、それとも青春の華やぎが始まる時期の心地よさなのか。

 

 若くして伴侶と離婚せねばならなかった人が複数いた。

 女が働きながら、1人で子どもを育てる苦労は、やった人でないと分からない。幼い命を育てるには忍耐が要る。見返りに貰う子たちの愛しさを「子を持って知る子の恩」というのだろう。

 

 ここ数年で夫に先立たれた人も何人かいた。

 「機械オンチの私のために、夫はソケットの取り替え方やスイッチのことなど全部分かるようにしておいてくれた。やさしい愛する夫でした」。

 別の1人は「お父さんごめんね。私はまだ死ねないからね」と西方浄土へ旅立つ愛する夫にささやいた。だから、感謝して毎日を大切に生きなきゃと話してくれた。

 

 誰でも、いつかは、どちらかがと思いつつ、自分は耐えられるのか。彼女たちの心情が切ない。

 音楽評論家で、優れた文章家でもある吉田秀和氏は、90歳過ぎて愛する妻を亡くし「体の半分がなくなったような気分」と書いている。「考え方や思想でそれぞれアイデンティティーが明確になったことはあろうが、もたれあいはなかった」。

 

 そして「どうしようもない大きな空白が心にできた。2人でいた時が一番幸せだったのに、これからはそれが味わえない。むしろ悪くなるばかりだという絶望感。オルフェオとエウリディーチェの神話のように、黄泉の国へ行って妻を連れ戻せればと本当に思う」と孤独を表現している。

 

 胃がんや乳がんを患った人も数人いた。ストレスの多い人生行路だった証明ともとれた。みんな、手術に耐え精神的苦闘を乗り越えてきていた。

 

 とりわけ私がシヨックを受けたのは、つい最近、上顎がんの手術を受けた人の話だった。

 ある日、風呂の掃除中に、鼻からポトリと血が出た。膿のような鼻水も出たという。それが自覚症状の始まりだった。「場所が場所だけに手術しても、完全に患部を取り除けず、転移の可能性が高いと言われています」。

 

 夕食時の近況報告で、その人は淡々と話した。腰の骨を採っての再手術について、やるべきだという家族と、そこまでして延命する気がないという本人の意志で揉めた。手術しないことで、なんとか家族が一致できて良かった。そう話す彼女や、家族の気持ちを思うと、心の中が波立った。

 

 教官は、長年の事業への貢献が評価され、功労賞を貰ったと報告された。その教官の穏やかな人柄もこんな集いの結集に一役買ったと思う。

 

 長年働いて、しっかり管理職など責任ある仕事を果たした仲間たち。

 それだけではなく、社会活動への意欲も旺盛で、ヘルパー、ケアプランナー、介護福祉士と、資格を取って積極的に福祉施設で働いている人が多く、その数10人以上には驚いた。そして全員が、老人資格も取得した。当然、ボランティア参加者も多かった。

 

 きっかけは、親の介護体験からだったり、障害をもって生まれた孫からの行動だったりするが、前向きの生きる姿勢、これに集約できると思えた。

 「介護されない老後を目指しています」そう言う人たちは、ゴルフ、水泳や筋肉トレーニングで自らを意識して鍛えている。

 

 書の個展を開いたり、水墨画などで県知事奨励賞を貰った人、或いは、別の県で県知事賞を受賞した。そういうレベルの人たちが誇らしい。

 巧みな絵手紙や、編み物暦20年のベテランが、それぞれ腕をふるっている。 みんな「活き活き、コロリ」が願いとみた。

 

 帰る日の朝、「私は落ちこぼれです」。ソッとそう言った人がいた。がんを克服し、優秀な子を育て上げ、ボランティアにも参加している。健気に生きているのに。おちこぼれなんてとんでもない。

 

 私こそ、栄えある落ちこぼれである。

 政治に真実の夢をかけた日々、絶対的真理、社会発展の法則とユートピアを信じた活動に裏切られ、世の中に絶対的真理はあり得ない。それを実体験した。幻滅する体験から、苦しかったが、闘ったからこそ本当のことが分かった。

 

 吉本隆明氏は「人間として真に重要なことは何か。すごい仕事をしたとか、偉い学者だったとか、そんなことはすっ飛んでしまう。いささかの実感から言うと、逆に子供を育てる以外、つまらない生涯を費やして来たなあというのが本音だ。長く生きると、刻むしかない。細かく刻んだ幸福感が残る」と書いて「偉大な人たちの存在する領域の向こうに、もっと偉大な無名の領域がある」とフランスの女性思想家シモーヌ・ヴェイユのことばを引用している。

 

 その私は「職業生活を卒業すると、ホームページに拙文を綴り、ピアノを奏でる喜びを味わっています」。

 「戦闘中のイラクに自衛隊派遣するのは憲法違反という裁判の原告です。戦争に大きく流れそうないま、市民運動でいろいろやることが必要です。マスコミなどでそのニュースが出たら、注意してみてください」と、一気に言ってしまった。偉そうに。

 誰かからの強制や義務でなく、自発的だったことだけは事実である。

 

 いい人生とは何を言うのだろう。

 お金持ちになること? お金持ちになったら、いい人生と言えるのか? ある程度の富がなくては生きられないのは事実であるが、誰が考えても答えは分かる。

 地位、名誉があればいい人生なのか? そうとばかり言えないのが人生の奥深さ。とりわけ最近の世相は、立派に社会生活をしながら、晩節を汚す人たちの多さが目立つ。

 

 さらに、簡単に人を殺す。肉親さえ殺してしまう事件の続発である。この寒々としたこの国の現実をどう考えたらいいのだろう。

 若者は希望を持てず、ニートやフリーターが400万とも500万とも言われ、働けない人も多い。集団自殺も相次ぐ。それらを貧しかった私たちの青春時代と重ねて考えてしまう。

 

 北海道へ帰った人からの電話があった。

 「空港へ障害をもった孫と一緒に見送りにきてくれた友、そして今もがんと闘っている友、それを考えると、いままでもいろいろあったけれど、これからも、へこたれずにがんばれそう」。

 

 遠くの地に嫁いで、ときには雪の中、幼い子の手を引いて故郷へ帰ろうとしたと話していた彼女も、研修中に知り合った素晴らしいご夫君と手を取り合って、しっかり北の大地を歩いて行くだろう。

 

 雨の岡崎城公園に家康の有名な遺訓が彫ってあった。

 「人生は重荷を負って山道を行くがごとし」で始まる遺訓。

 いまは充実した生活ができている私には、「人を責めるな、自らを責めよ」が、自戒とともに心に受け取ることばであった。

 

 

        贈り物

 

 最近は、歳暮をごく親しい人だけに贈る人が増えたそうだ。これはデパート関係の情報であるが、夫の兄弟たちは数年前から、歳暮は辞めようと約束している。何でも手に入る時代、形式的なやりとりは無駄というのも一理あり、合理的に考えるようになってきたのかも知れない。

 ただ、贈り物が届くと気持ちが温もるのは事実で、時期やお金の多寡ではない、贈り物にはこころの触れ合いが確かにある。

 

 秋に摘む「秋摘み茶」が美味しいからと、妹が贈ってくれた。姉は旅行先から東北名物を、夫の友人からは珍しい「りんごせんべい」などが届き愉しんで頂いた。

 十一月になって、奈良の仏像たちのカレンダーが友人から届いた。穏やかな仏像たちの表情は、胸の奥深いところが、なぜか落ち着く。

 

 趣味の伊勢型紙に凝り、労作の藍染めで、ひな人形や、カレンダーつきの鳳凰などを贈ってくれる友人がいる。その方の能力がまるでない者には、豊かな感性にただ、感動するのみである。

 

 師走に入って間もなく、奈良の「柿の葉ずし」がお歳暮として贈られて来た。中学時代の先生からだった。

 先生には子はない。母上とご夫君を亡くされ80歳で独り暮らしである。

 

 私たちの中学に赴任されたのは50年も昔であるが、田舎の中学生にも本物を見せてやりたいと、何回か名古屋の美術館に連れて行ってくれた先生だ。

 大手新聞社へ転職し、退職後は趣味の美術館めぐりや、俳句の世界を愉しんでおられた。

 

 以前、久しぶりに訪問したとき、美術担当の男の先生が絵の評価をするときに、生徒数がひとクラス40人を超え、6クラスもあったので「えーい、面倒だ、並べた順に左から評価5、4、3、2だ」なんて決めたという話を聞き、大笑いし合った。

 たくさんある思い出袋から、こんなエピソードを語り合うと心が若やぐ。

 

 来春にはこの家を売ってホーム入居予定を知り、「最後まで住めないでしようか?」と訊いた。「みなさんに迷惑をかけるから無理」との答えに、やはり、あの事件だナと思った。

 二階の鉢植えを持って階段からすべり落ち、足を骨折し、倒れたまま動けなくなったとき、手の先、ほんの数10センチのところに電話機があっても、救急車が呼べなかったとか。

 

 幸い、半日くらい過ぎたときに近所の人に分かり、およそ1カ月世話をかけた体験は、ホーム入居を真剣に考えさせたのだろう。

 「他人のお世話になるのは1カ月が限度」と何度も言われ、「いまは週2回、ヘルパーさんに掃除や買い物を頼んでいる」。「もし子どもがいても、頼ってはいけない」と、自分に言い聞かせるような口調だった。

 

 「柿の葉すし」は、すし飯に鯛、鯖と鮭が載った上品な風味が舌をとろけさせた。美味しかったが、なぜか、ほのかに匂う柿の葉の香りが切なかった。

 

 

 

        出歩き女記

 

 1、損得勘定

 

 出歩き女を自認する。出歩かないと胃腸が動かない。夕方の犬の散歩と出歩きは、健康体操であるのかも知れない。

 交通費は、名古屋市郊外の自宅から、往復およそ800円を使う。

 かりに、1日おきに週3回出歩いて1週2500円、月1万円である。高いか安いかはそれぞれの人の基準による。コーヒー1杯分と思うことにしている。

 

 その損得計算で、得の第1番目は、何と言っても車内読書、ときには文章が出来ること。片道20分でも往復で最低3、40分は本が読める。そうでもしなければ、雑用が多い女は、読書までなかなか辿りつけない。家の近くで用を足すと、これがない。出歩きは読書と運動、買い物の一石三鳥である。

 車内読書は現役の頃は満員電車で、立ってするのが当たり前だった。空いた車内で、腰掛けて本が読めるなんて贅沢の部類に入る。

 

 次の得は、世の中の移り変わりが実感できることである。

 電車の座席に座って早速読書にとりかかる。と、若い女性が斜め前の席に座った。字を追う目を休めて、見るともなく見る。手鏡を持ち出し、電車化粧が始まった。どうやら、下地とファンデーションだけはつけてきたらしい。まず目の周りにアクセントをつけ始める。人形のような、目の化粧に一番力をいれているかに見える。次に頬紅と口紅を引く。電車が名古屋駅に着くまで、すべて車内は己の世界とばかり、下りる直前まで化粧時間であった。

 

 車内化粧って、寝坊しましたという、だらしなさの証明みたいなものではないかしら。

 5年ほど前、夫婦でやっていた学習塾で、車内化粧についてのアンケートを取ったら、中学生の女子ほぼ全員が「人に迷惑をかけていないからいい」との回答だった。こういう時代になったのかと感慨深かったのを思い出す。

 実際は、連れ合いと映画を観に外出した折りなど、化粧が始まると、夫は不愉快だと席を変わってしまう。

 

 若い女性でもうひとつ、ジーンズ全盛時代をまざまざと実感させられた。私にもジーンズの時期があったから、30年もの大先輩というところか。

 当時はみんなスーツか、ゆったりしたパンタロンスーツだった。偶然の機会にジーンズのはき易さを知り、パンタロンスーツより若さも表現出来そうで、かなりの期間ジーンズ派だった。

 

 いまの流行りのように、腿からお尻まであまりにもピチピチで、歩く度にお尻モコモコではなかった。娘に「あんまりピチピチだと、エコノミークラス症候群になるんじゃない?」と言うと、笑いながら「いまは生地が伸びるように改良された」と言う。

 そうか、世の中進歩したのか。でも、車内化粧と言い、ピチピチパンツと言い、男性は目のやり場に困っているのではないかな。

 

 若さは特権と言った友人がいたが、卵の白身のような艶やかな肌や、伸びやかな姿態は、やはり美しいと思う。

 ただ、すらりとしたスタイル自慢の人ばかりじゃないし、短足も太めもいるのだから・・・。猫も杓子もピタピタ、モコモコではなくて、みんなそれぞれ自由にスタイルが楽しめる方がいいと思う。

 

 髪の毛も、ほとんどの女性が茶に染めている。美容院が「真っ黒な髪より、表情が柔らかくなりますよ」と、上手に勧めているのだと思う。私も若い頃、そう勧められた。ここ10年ほどは、美容院を止め、自分でカットをしている。

 折角の髪を、みすみす毛染めで弱らせるのはもったいない。白いものが目立つようになれば、いやでも毛染めを考えるようになるのになと思う。

 

 先日も3人の若い女性が、同じ髪の形で、同じピタピタジーンズで歩いていた。まるでジーンズ人形の複写が動いているように見えてしまって困った。

 

 損得勘定3番目の得を忘れてはならない。それは夫の料理の腕前が上がることである。女は退職したら当然、三度の食事を作るゆとりを喜んで料理作りに励む。

 出歩く日は帰宅するのが昼少し過ぎになる。やむなく夫があり合わせの昼食を作って待つ。要領がいいから、洗ってある野菜のみ使い、手間の要らない物を作る。それでも、何もしないよりましと、有難く頂く。近頃は、材料をいろいろ整えておくと料理の種類も段々増えてきた。

 

 残りの野菜や魚、貝など適当に炒めて、ワイン、ケチャップ、からしなどで味付けして「イタリー風ブイヤベース」だと言う。あるいは、魚や野菜の天ぷら、トンカツ、それらは衣に卵やマヨネーズを入れて、ふっくら美味しく仕上がっている。褒めると喜んで、よくフライものやブイヤベースになる。

 

 少しずつ料理の技を伝授して、いまでは客にも出せる腕前になった。友人が料理教室へ通い出したとかで、食への関心が強いわが連れ合いは、教室へ通いたい気はあると言う。

 夫は20年間学習塾の塾長をやったが、それを早目に切り上げ、電脳政治にはまっている。連日4時間はパソコンに向かい、アクセスが30万を超えて増え続けるのを愉しみながら、研究に余念がない。

 

 自ら選んだ政党の専従を、異見を持ったため首になり、たった一人で裁判までした。早いものであれからおよそ30年の月日が流れた。いまは、時間が許す限り読書、研究に忙しい毎日だ。ネット上での研究者たちとの交流も盛んにやっているから、貧しく孤独だった当時では考えられない充実感ではないか。

 

 大好きな朝の庭仕事もあるし、料理教室へ通う余裕はないだろう。

 それにしても、男も台所の後片付けばかりではつまらない。創作意欲をくすぐる新鮮な感覚の料理づくりに、いっとき集中するのもいい。「毎日15分以上料理を作ると、脳の血流がよくなり、脳が活性化する」という新聞記事に励まされ、最近とくに意欲的である。

 出歩き女に、専ら昼食は据え膳で味わう幸せが到来した。

 

 2、世の中が見える

 

 1年半逢っていない親しい友人2人と、積もる話がしたいと出かけた。その朝、最寄りの名鉄の駅で、現役時代、毎朝の駅で挨拶を交わした男性に会った。

 マスクで顔の半分が覆われていたので「花粉症ですか?」と尋ねるとパッとマスクを外され、ハッとした。鼻から透明な細い管が出て、小型のリュックとつながっていたから。「心臓の手術をして、出歩くときは酸素器背負って行くのです」。

 

 訊けばもう70歳、「この機械を借りるのに月7千円かかるのに、今度から医療費の2割負担で1万4千円負担になるんです。息するのに、毎月1万4千円、医療費負担増は、年金生活者には痛いですよ」。

 出歩けば、こうして世の中が見えてくる。

 

 昼近く、名古屋の中心部広小路を歩くと、昼休みのサラリーマンが大勢歩いている。そのほとんどが胸から名札をぶら下げているのには驚いた。自分が現役だったころには考えられない。現役世代は、企業意識を強く要求されるということなのだろうか。

 

 もう一つ変わったのは、男が大きなカバンを提げていること。かつて、男は手ぶらで出勤するのがふつうだった。重そうなカバンの中にパソコン、携帯で歩きながら会社や取引先と話をし続ける。サラリーマンは何と忙しいことか。

 近頃、帰りのラッシュアワーは2回あると聞いた。夕方6時頃と夜9時過ぎ、電車は満員、そんなの常識と笑われそうだが、パソコンで家でも仕事するとしたら、考えられないほど長い勤務時間になる。

 

 『死ぬまで働かない』で、筆者森岡孝二氏は次のように指摘している。

 「30代の男性勤め人が働くのは平日平均9時間46分、睡眠は6時間56分と睡眠時間の方が2時間50分短い〔NHK、2000年国民生活時間調査〕」。

 

 さらに同じ本で、宅配便業界の勤務時間の長さにも触れている。

 「最近、宅配便〔トラック輸送〕の取り扱い個数は急増し、1985年度は4億9300万個だったのが、2003年度は28億300万に増加したとあり、この他にメール便の取り扱いは13億4500万冊にのぼる」と、国土交通省の調査を紹介している。

 

 先日も大手宅配便の小父さんに、「忙しいですね」と言うと、「朝5時半から、昼飯は車の中でパンをかじる程度です。夜は十時半頃まで、事務処理もしますから11時半です」との答えに、驚いた。

 出歩くと現役の厳しさが見えてくる。

 

 3、小さな幸せ

 

 女3人は,ホテルのロビーでくつろいだ。常連らしい客も多かったが、防音設備万全のこのロビーは、とても静かで疲れない。コーヒー1杯で2時間も話し合った。

 

 1人が「この1年の間に、心臓が苦しくなって、救急車で2度運ばれた」と言う。2度とも心電図には異常なしだったと聞いて安堵した。悩みは膵炎を患っていること。

 退職したので話す気になったのか、「現役のころ娘が登校拒否になり、高校教師をしながら自分の子が登校拒否なんて、教える資格を疑って一人苦しみ、悩んだ」と話してくれた。何年も親しくしていたが、初めて聞いたことで驚いた。

 

 もう1人は、バセドウ氏病と、原発不明のがん〔?〕で、マーカー値が安定しない悩みをもっている。

 定期に検査を受けているが、この友人は11年前、強烈な試練に遭った。阪神大震災で、突然、娘夫婦を失った。

 あの朝、6時前、いままでにない強い揺れにとび起きたのを思い出す。それが、あの大震災だった。その天災で、愛しい娘夫婦が孫だけ残して逝ってしまった話は衝撃だった。

 

 「娘が書き残した原稿が・・・」と、彼女の連れ合いは、連日夢遊病者のように崩れた建物の跡を探し続けた。やっと原稿は見つかったが、愛しい娘は逝ってしまった。あのときの喪失感はどれほどだったろうと、あらためて切なく想い返す。

 遺稿の童話が新人賞に輝いた。出版されたその本をまわりの人に紹介し、大勢が買ってくれた。あれからもう11年もの月日が流れたのか。

 

 彼女も、高校で教えるのを辞め、専ら自然農の野菜つくりに精を出すようになった。

 話を訊きながら、どんな苦労も体験しなければ本当には分からない。自分はせめて、人の不幸への想像力だけは失いたくないと思った。そして、ストレスがいかに深刻に体調を壊すかを実感した。

 

 病気の話だけではと、私は、哀しく衝撃的なイラク映画『亀も空を飛ぶ』のことを話した。

 この映画は、世界各国で28もの賞を受けている。監督は「この映画は政治的な映画ではない」と語る。

 イラク戦争は、「イラクには大量破壊兵器がある」と断定したアメリカが、一方的にイラクに攻め込んだが、実際に大量破壊兵器は見つからず、その情報は誤りだったことはアメリカも認め、世界の常識になっている。

 

 戦争はいつも一番弱い者が傷めつけられるものである。

 映画の主人公は、レイプされて生まれた子を育てる少女である。生まれた子は目が見えない。その兄も地雷で片手を無くしている。

イラクの子どもたちは、地雷を掘り起こし、国連事務所に15ドルくらいで売って生きる。悲劇の子どもたちが、自分たちだけで明るく生き抜こうとしている様子を、映画は生き生きと映す。

 

 私は、感想をホームページに載せた話をした。驚いたのは、既に、ホームページでその映画を紹介している人が、19万6千人いたこと。彼女たちもその映画を知っていて、「ネットの威力って凄いね」と、共感してくれたことが嬉しかった。

 見た目はまだまだ若々しく、美しい彼女たち。でも、ヒタヒタと何かが寄せて来る。かつて娘が登校拒否になった友は、「いまは俳句ばかりの生活だけど、やっと娘も結婚したし、まだまだ死ぬわけにはいかない」と言う。

 

 震災で娘を亡くしたもう1人の友は、「自然療法で病に立ち向かって、マーカー値もなんとか安定した。父は現役時代、豊田佐吉の次に発明が多かったのよ。私も、いつもこういう方法を思いついたとか、こんな手があるのじゃないかと考える」。

 クリスチャンでもある彼女は、死を覚悟で西洋医学から、自然療法に切り替え「駄目なら、天国へ行けるし」と明るく言った。

 幸せだった彼女たちも、世の中の試練を受けた。でも、確かな足取りで歩いている。

 

 自分も、世の中の革新という、描いた青春の理想が崩れ去り、厳しい試練も受けた。悔いはないが恥多い人生だったとは思う。あの試練を受けて、初めて本当のことが見えてきたと、夫婦でいつも話し合っている。

 いまは、子どもたちも自立し、恵まれた幸せを生きている。

 

 4、光り輝く黄昏

 

   私のお墓の前で泣かないでください

   そこに私はいません

 

      千の風に

      千の風になって

 

          あの大きな空を

          吹きわたっています

 

 以前読んだ詩、作者不明というその詩が妙に懐かしく思い出される。

 夕方の用事で街に立って、出歩き女は、目が眩みそうになった。

 

 11月の声を聞くと、この広小路通りは、輝く空の星が地上に降ってきたように明るくなる。師走までまだ間があるのに・・・・。

 街路灯という街路灯に豆電球が飾られ、片袖を出したような格好の光りの行列だった。それは成長した街路樹にも飾られ、街並みを輝かせている。

 発光ダイオードで、電気代はあまりかからないという。夢に現れる光の国、おとぎ話、ああ、この華やかな街は、しあわせのひとびとの街だろうか。

 

 日本財界のシンボルだった三井、住友や、UFJ銀行の頑丈な作りの建物が立ち並ぶこの通りを歩くと、毎日が日曜日になった出歩き女の心は、せつなく、楽しい青春時代にたち戻る。

 

 月曜日はピアノレッスン、音楽の時間である。いつも歩く伏見から広小路通りには、けやきが立ち並ぶ一角がある。

 街の歴史と共にけやきの木も大きく見上げるばかりに成長した。数メートルの黒っぽい幹、その先には、黒々とした枝が、バレーでも踊るように、伸びやかに大空を泳ぐ。先端の細かな枝々は、人間の毛細血管そっくりで、大空に幾何学模様を描く。

 出歩き女は、木の毛細血管を仰ぎ見ながら歩く。

 

 1ヵ所にじっと立ち続ける木も、動き回る人間も、やがて死ぬときがきて、宇宙の一粒子に戻る。地球上の生物、一分子であることでは同じである。

 赤茶がかった葉が強い風に舞い、道行く人々に降り注ぐ。

 中央分離帯にはいちょうの黄色が、街を彩っている。

 その辺りには、何体かの彫刻が、静かに人々を見守る。ひとつひとつに題名が彫ってあり思わず立ち止まる。清々しい表情の少女像の前には『心の旅』『追想』とあった。

 

 そこに立つと、ピアノレッスンを共にしたS氏を懐かしく思い出す。彫刻との両立は難しく、ピアノは辞められたが「若い頃、彫刻の若手が狙う賞を思いがけず受賞した」と話されたのも、いまでは懐かしい想い出である。

 人生は一期一会、『光り輝く黄昏』なんて彫刻があったらいいな。

 

 

 

        はくもくれんが花ひらく頃

 

  〔一〕

 丸顔の桃子は親しみ易く、とりわけ酒席ではもてた。酒に強い体質なのか、いくらでも飲めた。だから座が楽しくなる。人生、酒ありてこそ。それが桃子の口癖だった。知り合った研修仲間の剛も体格よく、酒に強そうだった。

 

 大手メーカーの、3カ月新人研修は寮生活で、全国から選ばれた技術系の寮生の中に、一割ほどの女性がふくまれていた。

 一日の研修が終わる夕暮れどき、研修棟から寮への移動、そして夕食や入浴のため寮から食堂などの別棟へ移動する。真っ暗な校庭の植え込みに潜む男性が、数人ずつで好みの女性たちの後をつける。

 或いは好感がもてる女性が、どのサークルに入ったかなど調べて自分たちも入会する。あのサークル、この集まりなど、まるで蝶が追っかけ合う春の花園風景だった。

 

 夜、寮の部屋は2人ずつだったが、桃子と同室になった女性は社交性があり、いろいろなサークルに顔を出してほとんど部屋にいなかった。あるとき、寮監の先生が見廻りに来て言った。お姉さんたちは何かと忙しいから、貴女たちはしっかり勉強なさい。実際、定期にある試験だけでなく、研修はハイレベルで真面目に取り組めば、遊ぶ余裕はなかった。

 

 桃子は同室の女性に、土曜の午後、広い運動場の片隅で、みんなでうたを歌うから来ないかと誘われた。うたごえ運動が盛んで、ロシア民謡など歌っていると青春の胸は高鳴った。

 真面目一筋の生徒、あるいは研修はそっちのけで遊びほうけた落第すれすれの生徒など、若さと若さがぶつかり合った3カ月はアッという間に過ぎ、全国の職場に散って行った。

 

 桃子は、剛と別れてから毎日手紙を書いた。出身地静岡から、愛知へ、一年で365通、それは4年続いた。封書は、軽い薄紙の航空便用を使えば7枚書けた。

 剛は豊かとは言えない農家の長男、桃子は、文通の4年間で理想を描き続け、夢みがちな性格が、益々人生の夢をふくらませて行った。5年目の春、剛のプロポーズを母に打明けた。

 

  〔二〕

 農家の嫁なんて労働力としかみられないよ。反対する母に幸せいっぱいの桃子は言った。じゃあ、米が主食の日本で、だれが米を作るの? 大丈夫よ。お母さんのようにやさしい人が、もう一人増えるのよ。

 

 桃子の母は、淋しがりやの桃子を包み込むようにして育ててくれた。家に誰が来ても、さあお茶をと必ず出す。お茶がすむと、何もないけれど、ご飯くらいとなる。必ず。ご飯を振舞うと、お泊りになって。そういう接待をせずにいられない人柄だった。

 

 桃子は働きながら2児の母になり、休みの日は農業を手伝った。生まれて初めての農作業はこたえた。

 年一回の田植えは手作業で一家総出の大仕事だった。手で苗を一本一本抜き、束ねる。苗田に入るぬるぬるした泥の感触や、いつも襲うヒルの攻撃は耐えられない。何度もそう思ったが、若く、体力があったからやり抜いた。

 整地され水を張った田に、ロープで間隔を測りながら、その線に沿って苗数本ずつを泥の中に差し込む。重労働の田植えだった。中腰を続けるうち、桃子は腰痛が持病になった。

 

 家で食べるのは、曲がった大根やくずの芋。それが農家の常識だった。ホーレン草やねぎの小さな葉、黄ばんだ葉などを取って、形よく整えるのは夜なべ仕事になった。形のいいものはすべて市場用。売って金にしなきゃ。それが姑の口癖だった。

 

 ひとときの休みも怠けとしか見ない姑に、職場にいるときの方が余程楽だと、桃子は思った。息つく間もない農家の嫁体験、必死に耐えた桃子に試練が訪れた。

 

 順調に実力を認められた夫は、人柄を見込まれて労組の役員に選ばれたりしたが、間もなく、ある地域の支店長の辞令が出た。それは、違う部署に働いていた桃子の退職を条件にされた。

 

 同じ学歴で就職したのに、女は子育てがあり、実力を試す場はないのか。信頼し合った夫でも、心を覆うモヤモヤした陰りはどうしようもなく、所属職場のトップに直訴しようと考えた。が、夫の立場を思うとそれも出来ず、20余年働いた職場を去る決心をした。

 

 人を安心させるような桃子の笑顔はいつの間にか消えていた。退職挨拶をして廻るうち、ときに涙がこぼれそうになった。

 同僚たちが心ばかりのお金を集め、記念に何がいいかと桃子に訊いた。桃子は迷わずに言った。出来ることなら、はくもくれんの苗木が欲しい。と。

 

 その頃、やさしい性格に育っていた息子がうつ状態で、引きこもってしまった。電器部品メーカーで真面目に働いていたが、休みが取れるのは3カ月に一日くらいで、残業が月100時間という職場だった。

 時代の最先端をいくそのメーカーは、競争が激しく、やる気十分の若い職場だった。指名されて行った東京での研修が、時代最先端の中身でついていけず、落ちこぼれてしまった。

 

 ある日、ペンを持つ手が震え出し、字が書けなくなった。神経科の治療を受けるうちに、誰と会う勇気もなくなってしまった。辛うじて、親とだけは顔を合わせられた。

 桃子は、自分自身心の整理がつかないうちに、一年近く、ただ食事に部屋を出るだけの息子と、毎日共に生活する姑の間で、自身も次第にうつ的な状態になり始めていた。

 艶やかな銀色だったネコヤナギも、毛の間隔が開き、ボサボサと毛のふやけた、いもむしのような残骸を晒していた。

 

 朝の食事に顔を出さない息子を、桃子は気にはなっていたが、夫の剛が出勤する時間に、いつものように家事をこなしていた。

 日の出が早くなったと言っても、まだ薄暗い6時前、玄関脇に、ずぶぬれの衣服で夢遊病者のように現れた者がいた。桃子は思わず大声を上げた。まぁ! その格好は何ッ!

 

 相変わらず無表情で物言わない息子に、桃子はピンとくるものがあった。お父さーん、ちょっと来てー! そう叫びながら息子に努めて冷静に言った。

 その格好、一体どうしたの?

 僕なんて、生きていても何の意味もない。

 …だから近くの木曽川に飛び込んだ。けど怖くなって、泳いでしまって……。死にたいのに…死ねなかった。 ボソボソと息子はつぶやくように言った。

 

 あれは、たった一週間前の出来事だった。

 その子が、またまた虚ろで、異常な顔つきで庭に立っていた。裸足だった。

 

 桃子は咄嗟に、物置の灯油を隠そうとした。一瞬早く、息子は肩から灯油を被った。桃子は油でぎとぎとの息子を押し倒し、ガスの元栓を締めに走った。

 泥足のままの息子を、ひきづるようにして風呂場へ引っ張って行った。そして、上着を脱がせて熱いシャワーをかけた。

 

 誰でも苦しいときはあるんだよ。哀しいときは泣けばいいんだよ。泣けば。

 桃子はシャワーをかけ続けながらことばをかけ、話しながら涙を流した。

 

  〔三〕

 毎日何をするでもなく、朝から酒浸りの剛は最近妙に体がだるく、気分が悪いので、自分で近くの開業医へ行った。

 

 貴方の体調不良の原因は、お酒です。だから酒を飲んで医者へ来るなんて意味ないですよ。ベテランの内科医は率直に剛に言った。

 酒止めろだって? 酒止めるくらいなら、死んだ方がましです。

 死ぬ死ぬって簡単に言うけど、死はそんなに簡単なものではありませんよ。泥まみれ、血まみれで苦しまなければ…。

 総合病院の内科部長の体験者だけあって、説得力ある言葉を患者である剛にかける。

 

 出世が早かった分、剛は60歳を待たずに退職し、下請け企業に天下った。支店長時代競い合った島井は、出世頭の剛と下請けの職場で共に働くことになった。

 人付き合いが巧いが事務処理能力にやや欠ける剛にたいして、島井は人あしらいが苦手な分、事務的能力があり、出始めのパソコンを操作して、表など作成し、てきぱきことを進めていた。

 

 剛は支店長時代のように部下に押し付ける訳にも行かず、必死でパソコンと向かい合いつつ、島井の皮肉にもとれる言動を受け流す日々だった。

 現役時代も剛の仕事は厳しかったが、何かというと酒席を設け、人間関係を柔らかく保った。酒が強いのを力に出来たが、部下の殆どいない下請けの職場ではそれが出来ない。焦りと苛立ちに、独り深酒を浴びるようになっていた。

 

 およそ3年でその職場を辞めた。仕事ひと筋の人間が退職して身を持て余す日々に、酒量はどんどん増えていった。

 自宅近くの畑で野菜を作ったり、雑用に追われる桃子に、そんなにあくせくなぜ働くんだ? 畑なんか放っておけよなどと言う。

 勝手な言葉を浴びせては、朝からだらだら飲む。

 精神的緊張感をなくした生活で、体重はどんどん増え、住民検診で糖尿病と心臓病と診断された。うつ的症状もあり内科医は、即刻、夫婦で神経科を受診するよう指示した。

 

 夫婦で神経科に通い出して半年、ある日医者は桃子に話しかけた。

 奥さん、どうですか? 最近のご主人は。

 先生、この人は検査の前日だけお酒を止めるのです。くだくだ、何もせず食べて飲んで…体重は20キロも増えて93キロです。

 

 神経科医は何をしなさいとは決して言わない。そうですか、そうですかと話を粘り強く聞く。息子もこの神経科を受診したのはそれから程なくだった。

 私の育て方に問題があったのでしょうか?

 奥さん、そんな風に考えたら貴女までうつになりますよ。

 

 毎朝、夫のシーツが庭に干されるようになった。男の下ばきが何枚も風にはためいている。敏感な近所の人達は、とっくにこの家の異常を察し、噂になっていることだろう。桃子はそう思った。そして、いつ、おしめに変えようかと、深刻に考えるようになっていた。

 

 ある日の朝だった。ぶよぶよ太って、まるでふやけた肉の塊のような夫が 医者に連れていってくれと苦しげに言った。

 医者? 何言うの? 貴方死にたいんでしょ! だったら死になさいよ!

 苦しい、頼む。医者へ…。

 だらだら酒びたりで、医者なんか診てくれるものですか!

 …苦しい! 酒ヤメル…。

 

 あえぎながら言った夫の、酒ヤメルの一言は、いつもの夫にない、弱々しいが、桃子には死に物狂いの絶叫にも聞こえた。

 桃子は軽トラックを運転して神経科へ走った。診察室で医者が口を開く前に、剛がことばを発した。

 苦しい。先生助けてください。酒やめます……。

 

 忘れもしない一年前の7月、あの日から、剛は一滴の酒も口にしていない。

 体重は徐々に減り、一年間で20キロ以上減った。上背のある剛は70キロとごく普通の体格になった。顔つきが変わり、桃子は人間らしくなったと思った。

 男の顔は履歴書とはよく言った。桃子は、女の顔も履歴書だ。この頃よくそう思う。

 

 この一年で桃子の家は激動した。気丈な姑も病には勝てず、入退院を繰り返した。

 遠い他県で所帯を持つ娘には頼れず、介護が桃子の主な仕事になった。

 とりわけ印象的だったのは、自宅のベッドで体の清拭と下の世話をするときのことである。腰痛持ちの桃子は困って引きこもっている息子に助けを求めた。

 

 姑が元気だった頃、嫁はこき使うものと決めてかかっていたような日々に、こんな非情な姑なんか、死ねばいいと本気で思った。一度や二度ではない。

 その姑が寝たきりになったら、世話しながらお尻やからだをぶったり、つねったりしそうで怖かった。介護に全く自信がなかった。

 

 おばあちゃんっ子の息子は、嫌がりもせず毎日手伝った。実の子である夫がしない介護を、親身になってやさしい態度で尽くしてくれた。

 

 3カ月後、姑は自宅で安らかに逝った。

 息子は近くの鉄工所で働くようになった。給料も安く、力が要る仕事だったが、息子の顔に表情が戻った。

 

 僕は、おばあちゃんの世話したことで、うつから立ち直ったよ。僕でも役に立つことがあったんだ。

 桃子は、地獄の日々の果てに、息子から、こんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。

 ほんとうによくやってくれたね。ありがとう。桃子は心の中で呟いた。子をもって知る子の恩とはこういうことなのか…。

 

 おーい、行くぞ。今朝も剛は声を張り上げる。毎日の日課、2人で近くの喫茶店のモーニングサービスに行く。

 はーい、桃子は小走りに玄関から出て来た。新婚のようなムードさえ感ずる夫婦である。

 

 酒断ちしてからの剛は、あんぱんが大好きになった。夫婦で喫茶店に行く。あんぱんのモーニングサービスが朝食になって久しい。

 

 桃子は思った。死ぬまでこのアンパンマンと一緒に歩こう。

 退職記念に庭の西角に植えたはくもくれんが、蒼空の下で舞うように、一気に開き始めた。

 

 

        Gさんへの追悼 

 

新ミレニアムのスタートを待っていたように、11日、Gさんは黄泉の国に旅立った。

一昨年「エッセイ」誌の編集委員になったとき、前号の編集委員だったGさんとよく話すようになった。

その秋、インターネットに載せた文をまとめて私家製本にして送ったら、お礼に、手作り本を戴いた。「自分らしい本を作りたい」と、透明なクリアーブックに、和紙に印刷した約40編のエッセイと写真が入っていた。

 

その頃からGさんは体の不調を訴えていた。筋力が落ちて、台所仕事も苦痛のときがあり、本や筆が持てないと悩んでおられた。最近、生命科学の研究者柳沢桂子氏が、似たような難病で寝たきり状態であるニュースを聞いた。病床にありながら、『癒されて生きる』という本を出版したことを知り、早速取り寄せて読んだ。

生物学者らしく、点滴を打つベッドから庭へくる鳥たちを観察し、思索する日々の中で、ときには家族にさえ分かってもらえない苦しさが書かれていた。その本を参考になればと贈ったら、自分も注文しようと思った本だったと、とても喜ばれたのがせめてもの救いだった。

 

Gさんは、『昭和と私』というエッセイの中で「終戦によって、それまで真実と教えられたことが根底から覆った。自分はどんなことにも、若干の不信をもって対する姿勢に努めている」と書いている。それを読んで物静かなGさんの、公正な心の源に触れた気がした。また、「エッセイの小冊子を前に『あの人は何でも一生懸命やったけど、成果はそれほど上がらない人だった』とか『やさしいことはやさしかった』と、勝手に故人を偲んでもらいたい」とあり、慎み深い人間味に共感した。

5年前からは、留学生のホームスティ先となり、スウェーデン、イギリス、アメリカ、オーストラリアなど、世界の人たちと交流されている文章や写真は、視野広く、時代を先取りした「地球人」だった。

 

ある日、教室に来られた折りに、「まだ痛みがないので『筋萎縮性側索硬化症』の終わりのひどさから目をそむけているが、一家で泣いてます」と言われ、どうしょうもない不条理に胸が痛んだ。あれが交わした会話の最後だった。

良寛は、「死ぬ時節には死ぬがよく候」といっている。Gさんはいまをよく生きられたが、69歳の死は早過ぎるとしか思えない。

 

エッセイ集には、敗戦のとき17歳だったGさんが、「豪華な花束を投げ込まれたような思い」で、ゲーリー・クーパーやバーグマンの映画に憧れたことが綴られていたが、映画が大好きのGさんは、『並木通り』という題で綴られたエッセイに、『第三の男』のラストシーンを描いている。私も同じ所を一文にしていたので、その偶然に驚いた。

チターの音が切なく胸に響く。美しいウィーンの並木通りを、女優アリダ・バリが通り過ぎたように、Gさんは走り去ってしまった。

 

        道連れ…石堂清倫氏のこと

 若いころ、たくさんの志を同じくする道連れがあった。働く人がみんな幸せになる世の中を、という理想をもっていた仲間たちだ。

 その中で生涯の道連れになる夫と出会ったが、彼は共産党の専従活動家となって約15年経ったころ、異見をもったのを理由に解任された。その非民主的なやり方に怒り、裁判に訴えたことで除名された。誰1人「何があったの?」と聞かないまま「反党分子」キャンペーンを信じて、大勢の道連れは瞬時に去って行った。

 夫は孤立無援のなか、かつて除名されたことだけ知っていた、東京の片山さとし氏の著書『共産党に与える書』を読んで共感を覚え、一面識もなかったが、自分が解任された事と、裁判で闘う意志を手紙に書いて片山氏に送った。

 氏は、友人の評論家で、翻訳家の石堂清倫氏に知らせ、2人から励ましの手紙と、2千円のカンパが送られてきた。それは、凍りつきそうな冬の時代を過ごす私たち夫婦に、温かな心の灯火になった。これが付き合いの始まりだった。

 2年後、生活のためやむを得ず裁判をうち切ったとき、2人は「道義的勝利」とねぎらってくれた。

 ときが流れて東欧民主革命が起こり、ソ連邦も74年の歴史の幕を閉じた後、心ある若者や研究者らから勉強会を紹介された。意見の違いを超えて、真面目に世の中に目を向ける知己を得、人生の道連れがまた増え始めた。

 新年になって、東京に大雪が降ったとき、石堂氏から便りが届いた。

 『めずらしく1尺ほど積もった雪の前で、足萎えた爺と背の曲がった婆がオロオロしている姿をご想像ください。そろって90を過ぎると、手も足も出ないのです』

 あの孤立無援の時代に、励ましてくれた片山氏は92年、86歳で逝き、石堂氏は94歳になる。心細い手紙の後半で目を見張った。

 『昨年11月はファシズムの暴虐に倒れたイタリアの思想家グラムシの、死後60年記念国際シンポジウムで記念講演をしました。現在、メドヴェーデフの論文翻訳中で、原稿用紙70枚は4月に完了の予定』とあった。メドヴェーデフは、旧ソ連の有名な反体制歴史学者である。

 石堂氏の便りは、昨日、寒風吹きすさぶ冬枯れの庭に、紫色のヒヤシンスを見つけた時の、あの驚きに似た喜びを与えてくれた。

 夫婦が共に90歳を超え、なお活発にペンを握る人生、その心のしなやかさに、限りない感動と励ましを受けた。

 恐れながら、石堂氏はわが夫婦の人生の、得難く尊い心の道連れである。

 

       蔵書を売る

 石堂清倫氏から手紙が届いた。三年前、カナダ・トロント大学のE・M・ウッド女史が、史的唯物論についていい本を書いているから、日本語訳をある出版社に勧めたら、800枚ばかり目を通して欲しいと持ち込まれたとのこと。『1日8時間、訂正、補正に追われております』と書かれた夫宛の便りに、『先年、生活に困り蔵書を全部売り払ったため、必要な資料をあらためて買ったり、友人から借りたり、普段なら無用の苦労を重ねています』とあった。

 

 本を売る話は身につまされる。

 夫が共産党の専従をくびになり、独りで裁判闘争をした40歳のとき、お金がなくて手元の蔵書を全部売った。貴重な全集などもあったが、当時のお金で2万円にも足らない額だった。それでも長年の専従貧乏生活の上に、2年間の無給生活には、必要なお金だった。

 夫は、その頃、故片山さとし氏が、苦い共産党体験を綴った本を読んだ。そして、専従を解任されたが、納得できないと、裁判に踏み切ったことを手紙で伝えた。間もなく、片山氏と石堂氏から、励ましのことばと共に、二千円ずつのカンパが届いた。

 受け取った手紙と、4枚の千円札が、真っ暗闇の荒野に投げ出されたような気分の私たち一家に、輝くばかりの力を与えてくれた。その後も、お2人からは、2回、3回、激励の手紙とカンパが届いた。あれから20数年の月日が去り、21世紀がスタートする今年も、冬の花山茶花が、冬晴れの青空の下で、清らかに咲き競っている。

 

 私たち夫婦は、昨年春、職業生活を卒業し、インターネットにHPを開いて3年になる。夫は、石堂さんの、いくつかの論文を掲載させて貰ったお礼にと、ささやかな金額を送った。

 『未知の方にも読んでいただけるのは、何とも晴れがましく、毎日取り出して感動をくり返しています』『御厚志はうれしくいろいろ考えたが、秋にロイ・メドヴェーデフを歓迎する会と、もうひとつ、ゾルゲ問題国際シンポジュウムを計画したが、いずれも資金不足で苦労しているから、私とあなたの連名でそこへ寄付したいがどうか?』とあった。

 これは一昨年6月のことである。95歳の人生の大先輩のお金に対するこのさわやかさ、清らかな、少年のような感性に、夫婦で感動した。

 

 1904年生まれ、文字通り20世紀を生きた石堂氏が、ちょうど1年前の1999年12月25日、図書新聞『20世紀を生きる』に歴史的出来事を語られ、その記憶力の確かさには脱帽した。軍隊も監獄も体験され、とくにロシア語や中国語は獄中で習得されたとか。在野のままの研究者、翻訳家としての人生で、私たち後輩に、人生どう生きるべきかを、教えられた気がした。

 お互いに、20世紀に抱いた夢と期待は、大問題を残して崩れ去りましたね。

 

 石堂氏は、私のHPに載せた拙文を、『注文メニューの多い料理店』という本にして送ったとき、『こんな世界があり得ることは伝え聞いても、目にするのは始めてで息を呑む思いで読みました』『老妻は91歳ですが、いま全日本ソフトテニス高齢者大会に出ています。家では草花を描いて楽しんでいますが、頂いた本には仰天しています』とのお便りをいただいた。元気だった奥様も11月28日に逝かれたことを雑誌で始めて知った。どんなに力を落とされたことだろう。

 

 夫のHPに『袴田除名問題』で、宮本批判を載せたとき『片山さとしが生きていたら、どれほど喜んだことか』とわがことのように喜んでくださった。片山氏の愛娘坂本春生女史が、問題山積みの愛知万博事務局長に指名されたは、何かのご縁かも知れない。

 

 いまの時代、清らかな人でお金に縁がない人も多い。

 90歳過ぎまで現役で、世の中のことを考える研究者には、国が生活全般の責任を持ち、報奨金をたっぷり与えてもいいくらいなのに、96歳の石堂さんにはお金がない。そんな日本が哀しい。

 

       近頃、励まされたこと

3月初め、朝日新聞夕刊の『時のかたち』欄で「石堂清倫」を読んだ。

昨年末、93歳の文子夫人が急逝されたとあり、独り残された清倫氏は96歳である。

その後夫に届いたはがきに、「執筆や読書は日常化しましたが、一日一日難儀しながら暮らしています。余喘(よぜん)というのかしらん。今日は『3・15』かと、憮然たるものがあります」とあった。

1928年、『3・15事件』で検挙され、5年間の獄中生活でロシア語や中国語を独学し、多くの文献の翻訳をされたが、その後イタリア語も習得され研究活動に活かされた、20世紀の生き証人である。

夫人が描き遺された絵を、周囲の人が協力して『花とわたし』という画集にして送られてきたのは、それから間もなくだった。そのはしがきに、「米寿近くになって、絵のトリコになってしまったが、それは暗夜にともし火がともったようで、ほのぼのとした」。と清倫氏が記された。

作品の多くは華麗な、あるいは清楚な花であるが、故中野重治や、亡くされた愛娘の人物画もあり、素人離れした作品ばかりだった。

夫人は60歳まで市民運動で活躍されたが、その後91歳で「高齢者テニス大会」にも出場されたと、画集後記にあった。夫の投獄や戦争、愛娘の死など波瀾の人生が思われたが、「もうだめというふうに考えたことはなかった」という、インタビュー記事が輝いていた。

夫婦揃って、前向きの人生を創られた大先輩に、感嘆すると共に、大いに励まされた。

 

       わが人生の師

 中学時代の松下先生との交流は40年を越える。先生の最大の特徴は聞き上手、70歳過ぎてもおしゃれで若々しい先生は、好奇心旺盛である。次々上手に聞かれると、いつもついこちらがしゃべり過ぎてしまう。

 国中が未だ貧しかった1950年代、疎開先の田舎の中学に、20代の教師4人が赴任された。全員都会的で若々しく、個性的だった。その中の1人松下先生のことを校長は、「東京のいい学校を出られているから、この学校では勿体ないくらいだ」と言われたのが印象に残っている。

 受持ちは「美術」。親友のSは父が病気という家庭環境から、年より精神的に早熟で、学年一の文学少女だった。Sの暗い色彩の抽象画のような絵は、従来の先生は誰も評価しなかった。しかし松下先生は「これは面白い」と高い評価をされたので、「初めて絵を認められてうれしい」とSは喜んでいた。

 名古屋の美術展へは、よく連れて行ってもらった。学校の帰りに、同時に赴任されたI先生たちと名古屋に直行して会場に行き、ときには松下先生のお宅で、ご主人やお母さんと一緒に、食事をご馳走になったりした。毎日がまだ芋や代用食だった時代の、田舎の中学生にとって、それらは最高の精神的贅沢であり、文化への憧れと関心を強めた。

 先生との交流が途絶えかけた頃、東京でNHKへ転職されたようである。ある年の年賀状で「主人も母も亡くし」とあったことから、Sとよく先生宅を訪れるようになった。

 名古屋に帰られ、朝日新聞で働かれたが「旅と美術館巡りで、お金を使ってしまって65歳の年金が出るまでどうしようかしら」と言われたのは退職された年だった。

 新聞紙上で、ときどき先生の俳句が入選していたので「本を出版されたら」と言ったことがある。先生は「宇宙の泡のような人生だもの、そのお金でもっと旅をしたり、いい絵を見て歩いた方がいい」と言われ、名誉とか社会的地位に無関心な先生の哲学に触れた思いがした。そして「聞き上手」にはなかなかなれないが、自分のパンは自分で稼ぎ、恋をし、心の自由人として生きてこられた先生と、よく似た道を歩いて来た自分に気づいた。

 子育ては終わったが、夫婦で楽しみながらやっている学習塾の子どもたちに、中学時代に松下先生から受けた刺激と幸せを与えてやりたいと思う。

       松下敞子先生の句 五首

   春の雪静かに唄う反戦歌   〔俳句朝日秀逸〕

   雪吊りを解かれし幹に触れてみる

   地獄絵図華やぐときのありにけり  〔中日俳壇掲載〕

   眼の奥に落花しきりの薄暮あり   〔現代俳句協会入選〕

   秋声や弥勒菩薩をふり返る

    

       冬景色

 青い空に、雪道をソリが駆け抜けた後のような雲が浮かぶ。昨夜の雪も日なたはすっかり溶け、家の陰になる部分だけ、砂糖菓子のように、雪が白く残っている。

 私はこの引き締まるような冬が好きだ。思わず深呼吸をする。『今日降りし雪に競いてわが屋前(やど)の冬木の梅は花咲きにけり』家持

 わが家の庭にも蝋梅がある。黄色い蝋のような花弁を、半透明に光らせて上品に咲く。その芳しい香を嗅ぐと身も心も和む。

 天気がいいので、近くの五条川まで散歩する。樹齢50年という太い桜の木が、川沿いに延々と続く。すべての葉を落としつくした裸木の、幾何学模様がシンプルで、心にしみる美しさだった。

 先日、旅行仲間のS子が「Y夫が五条川を必死で歩いているよ」と教えてくれた。中学の同級生Y夫は一昨年、足を失ったのだ。昔父親が町長だったY夫はひょうきん者だった。どこかの役所の管理職になった彼が、休日に耕運機を操作中、誤って足を巻き込まれた。救急車で入院したが、足を切断しなければ命が危ないということで、片足を失ったのである。

 順調だった人生の突然の暗転に、女性5人で見舞ったとき、私たちは何を言うべきかと悩んだ。だがY夫は「定年後夫婦で旅ができなくなった」「ひざ下切断ならまだよかったけど」と言い、見舞った私たちに明るく振る舞った。しかし私はY夫の言葉の陰に、人生の冬景色に急転した苦悩を嗅ぎ取った。

 あれから1年余り、退院しリハビリを兼ねて、Y夫はこの五条川を歩くのだろう。苦しいひざ上からの義足に自分を合わせて、必死で歩く練習をするY夫の姿を思い浮かべた。

 芽吹きの季節を待って、冬の時代をじっと耐える木々、その冬景色がY夫に重なる。人は誰もが人生の冬景色に急転する可能性を持ちながら、しかし、希望をつくって生き続けるのだ。

 空気は、突き刺さるような冷たさだった。

 

       一期一会

 やわらかな若い緑が春を彩り始めるころ、Oと知り合った。2人とも産後休暇明けで、共同保育所に子どもを預けて働いていた。眠ってばかりいたお互いの長男が、生後2カ月余りたったある日、隣り合ったベット越しに「バー」と挨拶を交わした。ゼロ歳の子供同士の出会いが2人の友情の始まりであった。

 以来、官庁街の職場が近かったので、昼休みに落ち合って食事したり、地域で廃品回収を共にした。友情は10年余り続き、2人共2番目の女の子にも恵まれていた。

 Oは童顔で、笑うと眼がなくなってしまうような可愛らしい若い母親だった。仕事や職場の事、子どもの話、趣味の話題と尽きなかった。夢いっぱいの充実した友人関係だった。

 そのころわが家は、夫の失業で人生の谷間に突き落とされていたが、Oの励ましで精神的にどれほど救われたか知れない。

 そんなOが胃の不調を訴えて入院した。病名は胃潰瘍と聞かされた。 Oは、仕事も子育ても几帳面だった。おまけに絵がうまく、職場の展覧会にもよく入選していたから、かなりハードな生活だったと思う。それなのに、季節の変わり目になるとセンスのいい女児服をきちんと洗濯し、アイロンまでかけて私にくれたから、長女の服をほとんど買わなくて済んだ。

 Oの病気を気遣いつつ、半年が過ぎた。暑い日照りが続くある日、再入院と聞いて昼休み病院に駆けつけると、Oが洗面所で吐いていた。思わず背中をさすったが、そこに黒い血液状の物を見て、息をのんだ。

 Oの葬儀の連絡を受けたのは、それから間もなくだった。葬儀の当日、酷暑の中で参加者は延々と列を作り、40歳で現役の、早過ぎる死を悼んだ。いつもにこにこみんな友達、みんな大好きの彼女は、あまりに善人過ぎた。そして几帳面過ぎたと思う。葬儀の日、小学校2年になった下の女の子が、母親似の丸顔で、にこにこ笑っているのを見た途端、涙が吹き出た。

 私はOより20年近くも長生きした。Oを思うとぼんやり生きては申し訳ないという思いがこみ上げる。

 人生の夏、お互いに仕事と子育てという同じ土俵で励まし合い、支えあった10年間は、 過ぎてみればたった一時の、まさに一期一会であった。

 いやOだけでなく、人と人との付き合いはみな一期一会である。そう思うわりには、付き合い上手といえないわが身を、省みる日々である。

 

〔1996、1、9、朝日新聞『ひととき』欄掲載〕

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