家族

〔3DCG 宮地徹〕

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じぶん床屋

 

じぶん床屋

 

いまの子どもたちは、床屋に行って頭をさっぱり、きれいに髪を切って貰うんだろうな。

驚いたことに、戦争中のわが連れ合いの4人の男兄弟は、みんな自分の頭を自分でバリカン刈りしたという。

 

校長さんの息子たちでも、いまのように「ラクしてさっぱり」はむりな時代だった。

 

ところが、左半分はとうしても刈れない。だからみん頭の毛半分を残して待つ。

次々と頭の毛半分の子が…どうするの?

 

そこは母親がしっかり受け持ってくれた。全体の坊主頭が

すっきりして、はいおしまい。

 

ところが、ひとりだけ左ききがいて、自分だけで右手で半分刈り、さらに左手で半分さっぱりと刈る。バリカン刈り終了。それがわが連れ合いだった。

 

では女姉妹が4人いるわが家は…。母親がはさみで切ってくれたのだろう。

戦争の時代になり、いまのように何でも物が豊富にある時代では考えられない苦労をした。

 

あの体験がなく、物が豊かに何でもある時代しか知らなければ、人への思いやりとか

我慢ができない人間になっていたのではないか。

 

戦争の8月も半分過ぎた。

戦争のない平和な世の中が続いて欲しい。

 

さて、じぶん床屋であるが、大人社会もゆったり美容院で髪を染め、カットで整えてもらい、すっきりした気分で出てくる人たち。

 

一時期美容院に通った経験もあるわれは、ここ二十年くらい自分床屋である。

自分で髪を好きな形にきり、ときに髪染め(といってもヘヤーマニィキア)の84歳である。

 

さぁ いつまで出来るかな。

             2021・8・19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〔メニュー2〕247

     『兄の終い』の二人分 著者村井理子 (出版CCCメディアハウス)

     墓守り20年の想い 多くなった自然葬と墓の葬式

     輝く初日の出

     駆けて行く1年

     煮干し5匹で「8020」とインプラント治療との不公平?

     誕生日がきた。いい顔になろう

     みどり、みどりの田んぼが輝く。かつての少年と歩いた。

     新しい年 6と12に思う

     10月21日生まれの老人は思う

     ヒロシマで原爆に遭う。しかし、何もしゃべらない母

     誰が戦争に行くの? ペルシャ絨毯に想う

     小出裕章氏の「定年」に思う

     寝たきり老犬 ある犬の一生

     正月におもう

     こころ和む空間

     マタハラを考える つづき

     マタハラを考える

     たまごの小母さん、駅うらへ

     兄と弟

     天空の集い

     わくら合宿

     真夏の花 サルスベリ

     おしまい化粧

     わらぶき屋根に咲く曼殊沙華

     月日が織り込む  映画アバター」オフィシャルサイト

     新しい年、庶民の目線で−年金保険課の窓口にて

     裸足で走る

     花笑み

     親も子も0点答案

     さあ新しい年のスタートだ

     ドキドキ新幹線

     雛がない

     京都コンサートホールで、孫と弾いた

     お兄ちゃんは わるくない

     あに と おとうと

     宝はなぁに

     勇気を出して散骨を決める 講演「葬儀と宗教」添付

     よーいどん

                      幸子のホームページに戻る

     人生のときを生きる義父     次の『こどもたちと』へ行く

     秋の浜辺

     葬式

     ろう梅

     春らんまん

     地味

     めいの壮行会

 

 

 

       『兄の終い』の二人分 著者村井理子 (出版CCCメディアハウス)

 

新聞の読書欄で『兄の終い』発売を知った。

興味を持った一点目評論家若松英輔氏の紹介で「作者はこの作品をエッセイと言っているが、今年手にして読んだ本の中で一番手ごたえのある小説である」という点だった。

 

「兄は確かに優しいところもある人だった。が父が死んだとき、兄はろくに看病もせず親父を死なせたのはあんただ」と徹底的に著者をなじった。その兄が離婚し、こどもと生活していた。

病気で働けなくなり生活保護を受けながら突然死してしまう。遠い東北の警察からの電話が入った。

 

その遺体と、生々しい生活のゴタツク後始末をしなければ…。すると別れた元妻が連絡あったと駆けつけ一緒に行動する。

アパートは失禁、嘔吐、とんでもなく散らかった部屋、現実は厳しく切ない。

 

『あとがき』で著者が書くことばに救われた。

「いまでも兄を許せない気持ちはある。兄は多くの人に辛い思いをさせ突然去って行った。そんな兄の生き方に怒りは感じるものの、この世でたった一人であっても、兄を、その人生を全面的に許し肯定する人がいたのなら、兄の生涯は幸せなものだったと考えていいのではないか。だから、そのたったひとりの誰かに私がなろうと思う。」

 

二点目自分の体験。兄は一緒に山歩きなどして可愛いがってくれた。あるとき家の移転による土地問題で、異見をもって言い争った。逝ってしまってから、およそ20年過ぎた。
兄は子なしで、連れ合いを突然くも膜下出血で失った。切なくそれを想った。

 

家を建て直す計画で節約生活していた。電気、ガス代は千円程度しか使っていなかった。

貯めたお金は、兄の急死で自分たち4人の妹に残された。そのお陰でどれほど助かったか知れない。

頭が良くても口下手で、頑固で不器用だった兄。

 

葬儀の翌日、以前から連れ合いと計画していた標高1984メートルの月山登山をした。

ガスと雨、横殴りの風で吹き飛ばされそうになりながら登った。

「兄の涙雨だ」と言い合った。

 

死後を考える山と言われる月山、頂上に古い小さな神殿があった。雨も止んだのでお祓いを頼んでみた。若い権禰宜(ごんねぎ)さんが、木の板に故人の名前を書き入れ、祝詞と何首かの歌を詠みあげた。静かな2000メートルの大地に響いた。

 

木製の小さな神殿から、柔らかい何かが灰色の空に昇ったのを見た。涙がこぼれた。

「惜しむべく 悲しむべきは世の中の 過ぎてまたこぬ月日なりけり」

                   2020・6・14

 

 

       墓守り20年の想い 多くなった自然葬と墓の葬式

 

名古屋東部に果てしなく墓、墓石が並ぶ地域がある。平和公園として定着しているが、戦後名古屋再建の時期に、幅広い道路の設定と名古屋にある寺の墓をここに集中させる事が決められた。

 

わが家の墓歴史に少し触れたい。その昔1920代初頭に第一世界大戦が終わった。

今は亡き祖父の兄がフィリピン・ミンダナオ付近で台風に巻き込まれた。

 

艦長だった祖父の兄は覚悟を決めなければ、全員の命が消えてしまう。そう考え六昼夜にわたる狂瀾台風と闘った船員全員を午前8時45分に即刻救命行為で救った。

午後1時、艦長は沈没船と自分をマストにくくりつけ、殉難した。

 

これらの行為にたいし、祖父の兄のために海軍の葬儀が執行された。そして建てられた立派な墓碑の両脇に灯篭つきで建設された。Mの墓ではなく、M氏の墓と彫ってある。

この墓の歴史を考えると、安易に墓仕舞いは出来ない。

 

連れ合いの父と同居して5年半、その祖父は89歳で逝くまでタクシーを使って、名古屋市郊外のわが家から平和公園まで行き墓参を行った。連れ合いがいつも付き添って。

 

誰にも死という旅立ちがくる。祖父亡き後も夫婦で春、秋、新年と墓参は続けた。

あれから20年ちかい月日が流れた。

 

葬送の自由の会はそんな頃発足した。死者の骨を粉にして自然界の海や山に散骨する。

丸山真男氏や沢村貞子さんなど有名人が実行され、考えに共鳴して長年会員にもなった。

 

最近は自然葬としての樹木葬や、比較的近くで手軽に納骨と供花してお参りが出来る建物が出来たりして、お墓が多面的になってきた。家族葬、直葬も多くなった。

さらに、家族が遠く離れて生活する人も増えた社会になり、中々墓を守る事が出来ない家族も増えた。

 

墓の葬式(墓仕舞い)も次第に増えつつある。平和公園にも墓石の墓になっている場所がある。

 

先日、東京在住の親族が義兄の13回忌で名古屋の墓参りに集まった。京都からも息子がひとり参加した。

旅立ちもそんなに遠くなくなったわが夫婦が、50代の働き盛りの息子や亡き兄の子たち二人に話した。

 

墓の歴史や維持する費用など。但し遠くからの墓参の苦労から墓仕舞いという考えもあり得ると。

人生100年時代という。が、若い人たちはどんな生活を創り出すのであろうか。

                           2019・7・26

 

 

       輝く初日の出

 

穏やかな海、その向こうに山が静かに座っていた。と、黄金色の光が少し顔を出した。静かに穏やかに…黄金の光が大きくなって行く。大空を次第に赤茶に染めながらどんどん丸く大きな鏡が空を登っていった。

 

1年のスタートだ。思わず手を合わせた。近くにいた土地の人もこうべを垂れて、手をあわせていた。

 

長年、愛知県の都市名古屋に生活していても、この蒲郡の三谷温泉は来たことがなかった。

日頃逢うことも殆どない親子が、大みそかに温泉で逢おう。現役世代真っ最中の忙しい娘や息子が、秋の終わり頃そんな計画を立ててくれた。そうでないと、正月宿の予約は取れないそうだ。

 

孫たちが幼かった頃、両親が働いていて長期の夏休みには「夏合宿」と銘打ってみんな泊りこんだ。自然園へ行ってザリガニを取ったり、大好きな「ラーメン店」で昼食を愉しんだ。

庭で何本かの長いホースで水かけ大会もした。仏壇磨きや掃除の手伝いをさせられた。

何より勉強した。

 

そんな幼かった孫たちが、大学、高校、中学生になり、忙しくて滅多に来てくれなくなった。幸せな全員集合の大みそか、元旦大会である。

海にそって立派なホテルが並び、大みそかに各地から来て泊まった家族は数えきれないほどだ。大きな和室で家族ごとに固まって食事、大みそかも元旦も…。

 

「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声で、餅つき大会もやっている。子どもも順番に杵をもってついた餅、それらを小さく千切って食べさせてくれた。

そんなことが出来ない経済事情の家族は多いだろう。

 

その昔、わが家も政党の専従だった連れ合いが異見をもち「くび宣告」をうけた。退職金もなく風呂敷包みひとつで追い出された。

女ひとりの経済力ではどん底生活で、借金をしては返す生活を2年余りした。

 

何より、「反党分子」として孤立させられた2年間。同じ理想を持つ活動家として職場で働いていた自分も、中央の幹部へ、何回も事情をきちんと調査して欲しいと訴えた。

無視され続けて自ら「あやつり人形」だったことを自覚した。職場の男性技術者に「あんな暗い顔した女は嫌いだ」とさえ言われたときもあった。40年前の苦しみ物語である。

 

20世紀終わりから東欧社会主義国やソ連邦崩壊などがあり、徐々に普通の気分や生活になってきた。だから幸せ正月といおう。

 

さぁ新しい年のスタートだ。政治的には憲法変えるとか、戦争に近づく気配で苦い想いがある。庶民がしっかり考えなければならない時代だろう。

 

勉強のこと、部活動のこと、或いは親たちの職場の悩みは尽きる事なし。人間の世の中だもの。

つまずいたり、転んだりしながら、めげずに歩き続ければ、少しずつ明るい光が差し始める。元旦の初日の出のように。

 

大自然の中の、地球というこの星に生きて死に行く吾ら生物。

今年の目標はみんなで笑顔を忘れない。

                     2018・1・6

 

 

       駆けて行く1年

 

新しい年がきたら平成も終わる。

子ども時代は戦争真っ最中で、父は戦地に行かされ、空襲だ、疎開だ、食べる物がない、そんな日々だった。

 

学校では、「天皇陛下万歳」「お国のために」と言う教育だったので、率直に言って天皇制について疑問や分からない事などもある。

けれど、天皇皇后両陛下がいつも戦争や災害で苦労している人たちと直接会って、励ましの旅を続けられていることは大変でも、とてもいい事だと思う。

 

先日、中日新聞の記事で、「両陛下が2016年11月17日に、『満蒙開拓記念館』を訪れ開拓団の元団員と懇談された」を読んでから、2017年の新年会で「満蒙開拓記念館」を子や孫たちと訪れた記憶を思い返した。

 

離れて暮らしている息子と娘、二人の子どもたちの家族と総勢10人で新年会をした。泊まったのは評判が良かった昼神温泉だった。

翌朝、朝市で農産物などを買って楽しんだ。思いがけないことに、その近くにある「満蒙開拓平和記念館へ行くよ」と、この旅を企画した娘たちに言われた。

 

日頃、戦争体験した人たちが段々いなくなり、最近またまたきな臭い殺し合い戦争を感じさせる世の中の動きを肌で感じていたが、正面切って中々「殺し合いの戦争は無意味」と、子どもたちに話してはいなかったのに、満蒙記念館に行くと言われ、嬉しかった。

 

更に、長野県出身で満蒙開拓青少年義勇団として満州へ行き、年齢が若かったのでシベリアへ行かされなくて帰国した苦難の経験がある友、連れ合いの友人がいたこともあり関心をもった。

 

この記念館は、悲劇の歴史を後世に残そうと、2013年この長野県阿智村に開館した。

「満州へ行ったら、20町歩の田畑が貰えるから大地主になれる」

 

国の方針で全国から開拓団に参加した人数は約27万人、長野県が飛びぬけて多い33000人を送り出した。そのうち約15000人が旧ソ連参戦後、集団自決や収容所内の飢えや疫病、寒さで死亡している。

 

貴重な資料が並んでいた記念館。

開拓団は国に見捨てられた『棄民』だった。両陛下にお越しいただいたことで、これまでの活動が報われ、胸が熱くなった」そう語ったのは案内役の副館長だった。

 

12月8日は先の大戦が勃発した日。日本が米英両国に宣戦布告し、真珠湾攻撃した。それから76年、12月8日が何の日か答えられない人も増えた。戦争で苦労した人たちがどんどん死んでいなくなるから。

 

でも、1日に20万人も殺された原子爆弾を投下された日本、満州で地主になろうと日本を離れさせた満蒙開拓団、戦争末期の1945年8月9日にソ連が参戦し、日本人約60万人が終戦直後にシベリアに送られ強制労働などさせられた。

 

満蒙開拓平和記念館で沢山学んだ。

歴史のありのままを忘れないで、正しく掴める庶民になりたい。

 

                            2017・12・13

 

 

       煮干し5匹で「8020」と

             インプラント治療との不公平?

 

連れ合いは歯が丈夫で、歯みがきも適当でオワリという感じである。

それが珍しく歯茎がブヨブヨすると、近くの歯医者に行った。「ゴミがたまっているから掃除しましょう」と言って始まった治療だったが、膿が出て出血までしたとのこと。

 

2回目の診察日、ゴミ掃除しながら「歯の根が27本あります。立派な『8020』の表彰対象ですよ。市役所へ申請します」と言われた。

数日後、市役所から電話があった。「80歳で根が27本とはスゴイですね。何か注意されていたのですか?」と訊かれた。

 

「こどもの頃は食べる物なく、いつも腹ぺこでした。男4人女1人の兄弟で、誰も食べないから味噌汁に入った煮干しを5匹一人で食べた。」と答えたそうだ。

食欲旺盛な男坊主というところだろう。

 

ワカッタ。5匹の煮干しを一人でムシャムシャ食べ、当時名古屋にもあった小川でドジョウやフナも捕まえた。母親に煮て貰って食べたのだ。

食物がない経験なんてない市役所の若い人でも「煮干し? 分かるワ」と納得したそうだ。

 

一方、わが身はむし歯だらけ姉妹、妹たちも総入れ歯に近いのではないかな。歯で苦労している。丁寧に磨いているのに。

 

15年余り前、インプラントを入れた。診察室に貼ってあったインプラント治療のポスターを見て「インプラントってなんですか?」と訊いたのが始まりだった。その頃まだインプラントは珍しかった。

 

当時は虫歯になると削る。埋める。被せる。そしてダメなら抜く。そうして総入れ歯にする。それが普通だった。インプラントは歯の骨にチタンを埋めて、その上に義歯をはめて噛み易くする。歯は1本でも残すという考えになってきた。

 

過日「奥歯が痛む」と、掛りつけの歯医者に診て貰った。

「重症です」と言いながら被せてある金具を取り、「根っこに膿がたまっているから消毒します」あれから毎週1回ずつ3週間通った。

 

インプラント手術のベテラン院長は40歳位と若い。歯茎の拡大レントゲン写真を見ながら状況説明を20分位してくれた。

「いま治療中の上奥歯は、根っこが腐っているから抜く。上の歯の犬歯は神経が残っているから、抜いてすぐインプラントを埋める。そうすれば、上下左右の咬合バランスが良くなる」と言われた。

 

「エッ80歳ですよ?」と疑問を投げる。

「いまの時代、女の人は90でも97でも生きるんですよ」には参った。

 

同じ80歳のわが同学年夫婦は、片方は「8020」で表彰される。一方は根の腐った奥歯を抜いて、なるべく早い時期にインプラントの追加必要…。世の中、不公平じゃない?

 

歯が強くて食欲旺盛で、一緒に山も歩き旅もした。活動も思い切りやってきた。

3年前連れ合いが熱中症で倒れてから、加齢と共にいろいろな病が見つかった。

 

連れ合いの病は、解離性大動脈瘤・心臓弁膜症・高血圧、、、明日何が起きるか分からない所まできた。

やっぱり人間平等でした。

                     注 「8020」とは80歳で自分の歯が20本以上ある事

            2017・8・11

 

 

       誕生日がきた。いい顔になろう

 

歩きながら近くの個人医院を見る。少し歩くと、広い県道の向こうに総合病院も見える。

「あそこで検査したんだなぁ。夢みたい」

30年以上住民健診も精密検査もしたことない自分が。

 

何でも話し合えた友が、がんで余命3ヵ月宣告を受けた。娘の乳がん手術のショックがあった。精神的に落ち込んだのか、右胸の下の内臓が痛む。変な痛み。

「病院で検査を受けるべきだ」と、連れ合いはいう。熱中症で倒れて奇跡的に立ち直った彼が、倒れてからいろいろな病名を貰い検査や投薬を受けているから。

 

医者嫌いで長年健診を受けていない。「何か症状が出たらそのときはもう覚悟しょう」と言い続けて来た。いよいよそのときか…。

しかし、折角医療の進歩があるのに…と迷いに迷って、近くの個人病院の診察を受けた。

 

「CT検査をしましょう」そして「不明な所があるので、I病院に紹介状を書きますからMRI検査を受けてください」こうして、3日間の検便と合わせて、事はどんどん進んでいった。数日後、I病院の医師から、MRIの画面を見ながら説明があった。

 

「腎臓のここに袋があるが他にない。肝臓、大腸のこれはガン性ではない。まぁ心配ないでしょう」と言って、個人医宛ての書類を渡された。

3日間の検便も済み、総合病院から近くの個人医院の医師に変わり、画像をじっくり見て診察全体の報告を受けた。「…と言うことで、様子を見ましょう」

無罪放免、やった!

 

こうして迎えた10月21日、80歳の誕生日だった。精密健診が受けられた。

人生50年時代に5〜60代で死んでいった親たち。それなのに80歳まで命長らえた事を幸せと感謝しなければ罰が当たる。

 

若かった頃、10月21日は10・21国際反戦デーで統一行動があった。

80歳の10月21日は、鳥取県地域に震度6の大地震で震えた災害列島日本。そして翌日の10月22日に、信頼して付き合えた現役時代の友が逝ってしまった日

 

買い物で歩くと胃腸が活発になる。電車内で本が読める。自他共に認める「出歩き女」になった自分は電車の中や、名古屋の街中で見かける顔がみんな暗い。きついと感じる。

かつての経験が蘇る。連れ合いが、理想だった社会変革の組織に異見を持ち、共産党専従活動家をくびになった。40歳だった。

 

職場活動家として共に歩んできたのに夢破れ、転勤先の職場の男性から「あんな暗い顔した女は嫌いだ」と言われた。貧乏と闘い、必死で2人の子を育てながら仕事と両立させた。

心に安らぎが訪れたのは、東欧革命やソ連邦が崩壊した頃から。

 

あれから20数年がすぎ、当時珍しかったインターネットにホームページを夫婦で開いた。お蔭で有名な学者、文化人の方たちとも交流出来た。

連れ合いが始めた学習塾が軌道に乗り始め、夏や冬の休みになると、山歩きも出来た。

 

北の利尻山から立山、白山、西穂高、南の開聞岳までよく登った。

貧乏な専従活動家を風呂敷包みひとつで追い出されたのに、外国も行けた。義兄がドイツにいたこともあって、スイス、イタリー、ドイツ、フランスなど歩いた。みんな終わった。

 

ピアノが習える、文章仲間がいる幸せ、出会うのは後輩ばかりになった。

80歳まで生きることが出来たのだ。いろんなお蔭さまで。

残り少ない貴重な1日1日を、大事に歩いて行こう。

 

「卒寿?(90歳)の誕生日おめでとう。何がめでたい」佐藤愛子の最近出た本『九十歳。何がめでたい』が20万部も売れているらしい。

志賀直哉は84歳のとき「老いぼれて、気力がなくなって、そればかりでなくアタマがおかしい、へんなんだよ」といって88歳まで生きた。(『あと千回の晩飯』山田風太郎)

 

仏壇の祖父の遺影に毎朝お花を供えながら、「目尻を下げて口角上げて」まさにその通りの顔が、やり手校長そのままのいい顔で羨ましい。…若い時は仲間たち誰でも美しかった。

美人ではなく、いい顔を目指そう。いい顔の年寄で死んでいきたい。

 

                   2016・10・27

 

 

 

       みどり、みどりの田んぼが輝く。かつての少年と歩いた。

 

名古屋鉄道が、名古屋から北へ走る。犬山との真ん中あたりになるこの地域は、東の五条川まで、一面田んぼ続きである。見渡す限りみどり、緑の稲の田んぼ。

五条川のさくらはさくら名所百選に選ばれたが、それは春のこと。

 

子どものころ、兄妹でよくやった「かるたとり」に、「目のために みどり眺めよ遠方の」があった。確かに読書やパソコンで疲れた目には、このみどりを目が喜ぶ。

 

9月半ばともなると、一面のみどりが少し黄緑っぽくなる。よく見ると1メートル以上に背丈が伸びた稲から、ひっそり穂が出て首を垂れ始めていた。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というが、この10月に80歳になる吾は、頭を垂れるほど実っているかと顧みながら、あらためて稲穂を眺め直して歩く。

 

中高生に成長した孫たちは、学業や部活に忙しくとても来られないからと、京都に住む息子が一人だけで来てくれた。

「車の運転ばかりじゃ疲れるでしょう」と昼食後、田舎みちの散歩に連れ出した。

 

名鉄線の西側は住宅がどんどん建ち、田んぼも米作りなどの後継ぎは次第に減り、みどりの田と田の間には背丈ほどの草ぼうぼうの田んぼも増えた。

一方名鉄線の東側は、市街化調整区域でしっかり田んぼの耕作が行き届いている。

 

「京都や大阪の街中ばかりにいると、こんな美しいみどりの田んぼなんて考えられないでしょ?」と言うと「うん、何より匂いがする。草のいい匂い、お母さんには分からないだろう?」。草の匂いなんて感じたこともなかった。

 

この先五条川沿いに歩いて、川向こうの中学へ毎日通った。勉強や部活に精いっぱいで、「田んぼのみどりが美しいなんて思ったことなかった」そうだ。

あの頃14〜5歳の中学生は、いま50歳か。考えてみれば進学の関係で一緒に暮らしたのは20年足らず、京都生活の方が長くなってしまった。 

 

「ちばてつや賞佳作」受賞から、まんが家志望だった。が、まんがでは家族を養っていけないと、CG関係の会社の責任者になった。青春時代の喜びも苦しみも乗り越え、いま仕事の価格は当初の半額に切り下げられ、人を雇う苦労に気配りしながら、こなしているらしい。もう10余年が過ぎたのか…。

 

むかし、昔のその昔(になった)1945年、国民学校二年で爆撃された名古屋からこの地に疎開して来た。自分たちも、「遠いなぁ 遠いなぁ」と感じながら、田舎道を歩いたものだ。

息子たちとの大きな違いは、戦争ではなく、平和であること。そんな事を思いながら、久しぶりの息子との会話を楽しんだ。

 

あっ! 向こうの道を大きなリュックを背負った中学生が二人歩いてくる。部活帰りだろうな。先輩に厳しい指導されて…。みんな、そうやって我慢して、強くなって行くのよ。

 

                           2016・9・15

 

 

 

       新しい年 6と12に思う

 

新年は4日が月曜日、1年のスタートだ。公務員は民間に比べ年末休みが早いから、長年4日初出勤は当たり前だった

新しい年はどんな年になるのだろう。

 

元旦の朝7時、いつもの朝は台所から離れられないが、お雑煮とおせちがあればいいからと、連れ合いと早朝散歩した。連れ合いは不整脈や高血圧など医者と縁が切れない。毎日30分の散歩と断酒宣告をされ、忠実に守っている。

 

正月だからと、近くの神社で参拝した。

「1635年(寛永年代)に日本武尊を祭神したが、濃尾大震災で神殿拝殿とも倒壊して建てなおした」とあり、歴史ある社であるのを知った。

 

住宅街を抜け田や畑の中を縦横に伸びる道を歩いた。すると、市の放送マイクが静かな朝の空気の中に響き渡った。「初詣では近くの神社でしましょう。国旗を立てましょう」と。

 

え? 国旗? こんな放送初めてだ。戦争中はどの家も国旗を立てた。戦時中は何でも「お国のためだ」を強要された。そして母は、父を「お国のために」戦地に取られた。

…散歩で見た限り、旗を立てている家なんか一軒もなかったが。

 

孫たちで賑わったお正月は昔の事、大学受験、高校受験と勉強にそれぞれ必死の正月だ。

考えてみれば、親と一緒に里帰りしたり、勉強に集中できるのは幸せな子たちである。

 

豊かな国日本で、6人に1人が貧困家庭の児童という現実らしい。

一人親が必至で子育てしながら働いている。家賃、光熱費が必要で食費は削らなければ生活できない。実力があっても高校へは行けないとか、大学進学は諦める子も多いという。

 

敗戦の1945年(昭和20年)、母と一緒に名古屋駅を歩いたが駅前も駅裏も親を亡くした浮浪児がいっぱいだった。戦争で足を失ったりした傷痍軍人もお金や食べ物を求めていた。

あれから70年、豊かになったはずのこの国で、6人に1人が生活苦に喘いでいるなんて

 

もう一つの数字12、最近急増した乳がん患者は12人に1人と知り驚いた。(がん研究振興財団2014年)

 

半世紀も前から夫婦共働きのわが家、下の娘が学校出て社会人になって20年、2人の子を育てながら仕事と両立させて頑張って働き続け、管理職の端くれだ。

年末に乳がん宣告を受け手術をした。12人中の1人になろうとは…。

 

医学の進歩で乳房温存治療ではあるが、胸に10センチほどのメスを入れ、がん細胞を取り除いた。続いて放射線治療、職場に戻ったが時間休を取って病院通いである。

 

それで治療は終わりと思ったが「60代ならいいが、40代では抗がん剤の治療、その後ホルモン療法など3種類の治療が必要」と宣告された。子どもの頃から親の生活のしわ寄せ、働く職場からのストレスが多すぎたのかと、考えてしまう。

 

新しい年がスタートしたが、パリのテロ事件、中東地域の戦争やシリア大量難民、新年早々の北朝鮮核実験問題など、明るいニュースはなく「世界大戦を実感」という研究者もあり、公私とも多難な幕あけである。

 

国が変な方向へ進むなら抵抗を続ける。希望をもって、1%でも人のためになる。そのためHPで自由な発言をし続ける。今年の生きる目標である。

 

                        2016。1。11

 

 

 

       10月21日生まれの老人は思う

 

10月21日はいろいろな日である。

1943年(昭和18年)、人生これからの若い学生7万人を明治神宮外苑競技場に集結させ、「学徒出陣」壮行会が行われた日である。兵力不足のためである。

 

戦後民主化運動が活発になってからは、長年10・21国際反戦デーとして、市民が統一行動する日だった。

エジソンが白熱電球を発明した日でもあるらしい。

 

その日が誕生日の私は青春時代、心地良い10・21を過ごしてきた。

ここ70年間人殺しの戦争がなく、平和が続いたから。

 

子どものころは戦争だった

学校ではいつも「勝った勝った」「一億一心、」「欲しがりません 勝つまでは」と教えられ

女たちは「産めよ 増やせよ」と、5人も6人も産むのがふつうだった。

 

わが母も5人の子の親となり、赤紙一枚で夫を戦争に取られた

文字通り、艱難辛苦の母、妹二人は父親の顔も知らない赤子、幼子だった

 

国民学校2年で縁故疎開か、集団疎開せよと先生にきつく責められ、

上の兄妹3人だけ、親元離れて母の故郷へ疎開した。

 

集団疎開した夫は言う。

「寂しいから、みんな布団に寝ションベンして、先生と疎開先の寺庭に干した」

 

戦争末期に名古屋の家を焼かれた。

住む所なく、食べる物なく、親無き浮浪児も多くなった。

 

やっと戦争が終わったのは、国民学校3年生のとき

2種類の原子爆弾を落とされたこの国は、大量殺人の実験場になった

 

最近「一億総活躍」といって、省や大臣まで作った政府。それって何のこと? 

もしかして、戦争中の「一億一心」と同じなの?

 

人気俳優が結婚して、女性ファンががっかりしたとき

菅官房長官が「福山(雅治)さんも子を産んで」と発言、戦時中の「産めよ増やせよ」と同じ意味?

 

この歳まで長生きさせて貰った10・21老人

戦争反対だけは、言い続けるよ。

 

                   2015・10・29

 

 

 

       ヒロシマで原爆に遭う。しかし、何もしゃべらない母

 

 とむらい

 

年一回、名古屋東別院から「永代供養」のハガキが来る。

高齢者資格十分の私たち姉妹3人は、少しだけはやくあの世へ旅立った兄、姉や弟などをあらためて想う。三人それぞれの連れ合いと、私の長男が京都から、妹の娘夫婦が大阪から参加してくれ、忙しい現役三人と合計九人で先祖へお参りすることが出来た。

 

最近は死者の弔いや、お寺との関係が自由になった。昔、母が死んだときはお寺さんに来て貰い、三回忌、七回忌など重ねた。しかし友人たちの話でも、いまは永代供養が主流なのではないかと思うが、どうなのだろう。

お墓もお参りする人がない無縁墓が増えた。

 

そういう中で、年1回姉妹が逢って近況を交流し、食事し合う場は貴重だと思う。

別院の僧侶10人近い読経で、死者へ手を合わせる。他にも同じような人たち50人ほどと一緒にお参りした。

死者に手を合わせ、いま自分たちの置かれた人生の立ち位置をお互い考え合い、食事の場に行った。孫たちがいてわいわい賑やかだったときもあったが、今回は大人の本音をいう場になった。

 

私の母は広島で原爆に被爆し、私は被爆二世です。母はいま83歳、九州で暮らしています。が、原爆体験は絶対に話しません

新しい参加者である、姪の連れ合いの発言が印象的だった。

 

「何かのとき一度だけ原爆を落とされた8月6日の話を聞いた。女学生だった母たちは、工場で働かされた。母はあの日、体調が悪く家にいて助かったが友たちは全員死にました

誰でも、苦しすぎた体験は人に理解できないと、自分の胸にしまいこむ。

 

命助かり、被爆者が人の子の親になるなら、焼けただれて死んでいった人たちのように、放射能の影響が心配だっただろう。

戦争体験のある私たち姉妹も、敗戦のとき3歳から7、8歳の子どもだった。

 

いまは亡きわが母は、家を焼かれ、連れ合いを戦争に取られて、住む所も食べる所もなくなった。必死に平和を求めて生き抜いてくれた。だから、いまの私たちがある。

「母さんの親たちは見捨てておけないから、あなたたちに乏しい食料や寝る場所を与えてくれたのでしょう」被ばく二世の彼の発言は的を射ていた。

 

 国民の過半数が反対でも、強行採決? それがナチス流ですか?

 

 1年前の7月1日、安倍内閣は集団的自衛権行使を閣議決定した。忘れてはならない日である。その少し前に秘密保護法も作った。わがもの顔でやりたい放題の政府、

殺し合いの戦争が、どんなに残酷で悲惨か、庶民は様々の集会で「やり方が強行過ぎる」「戦争反対」を訴えている。

 

憲法学者の9割が「いまの安全保障法案は憲法違反 (中日新聞) 」と言おうが、「自分は死んでもいいから戦争は駄目」と病気の体を張って訴える瀬戸内寂聴氏のような訴えもある。

でも、国民の意見に耳傾けない。強行採決の構えの安倍内閣

 

「あの新聞はつぶさねば…」報道管制のような発言、まるでヒットラーの人殺し政権と同じ匂いがする。

 

スポーツだ、趣味だと言って楽しめるのは平和だから。

ふつうに、美味しい物が食べられるのは平和が続いたから。

少なくなったわれら戦争体験者は、言い続け、書き続けなければ。それが生きる証だもの。

平和がいい。殺し合いの戦争はいや。

 

                 2015・7・9

 

 

 

       誰が戦争に行くの? ペルシャ絨毯に想う

 

 わが家の廊下に縦1・5メートル 横2メートル近い素敵な絨毯が張ってある。

 ペルシャ絨毯で、大きな白い馬と、その奥にもう一匹黒い馬が活き活きと描かれ、バクダットの盗賊2人が女を連れ去る様子を、巧みな織物にしている。

 

 地面には自然の小川や小さな花々を彩り、中東地域らしい建物や椰子の木に感じられる木々を配し、天空に細い三日月と星たちが輝く自然豊かな絨毯である。

 中東地域は貧しいながら、大自然豊かな生活の中でこんな芸術作品を作り出しているのだと思う。

 

 義兄が仕事でドイツに10年程滞在していた。その間に日本の母親が病気で逝き、父親が独り暮らしをしていた。長年の外国暮らしで親の面倒もみられない。

 弟である私の夫が自宅を建てるのを機会に、父親と同居して欲しいと、日本での転勤族でもある姉弟が寄って相談した。父親は83歳になっていた。

 

 絨毯はそのときの贈り物。ペルシャ(イラク)絨毯はイラク戦争が始まる前に購入したのである。

 そして良心的な大工さんは、新築中の廊下に面倒な仕事に嫌な顔もせず、絨毯用の枠作りを引き受けてくれた。

 

 この壁絨毯を見る度に人の善意とか、人間的やさしさを思う。義父も義兄も鬼籍の人になって久しい。

 最近、とくに政治の世界で暗いニユースが多い中、気分が落ち込み健康に悪いからテレビも観ないという友も何人かいる。

 

 そんな状態のなか、少しだけ救われる気分になるメールが「自衛隊イラク派兵差止訴訟の会」から届いた。

 

 7年前(2008年4月17日)「イラク派兵は違憲」と名古屋高裁の判決が出た。

 『イラク特措法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは 違憲であると確認する

 

 日本の自衛隊がイラクに派遣されたのは2004年1月で、陸自だけでなく、空自、海自も輸送任務に就いた。

 

  1、2007年イラク戦争開始以来、戦闘等によって死亡したイラク人は15万人〜22万人に及ぶ可能性もある(WHO世界保健機関)

  2、自衛隊の空輸状況 週4回前後、物資のほかアメリカ軍を中心とする多国籍軍の兵士を輸送した。2007年8月までに輸送回数352回で、輸送対象のほとんどは人道復興支援のための物資ではなく、多国籍軍兵員だった。

  3、イラク攻撃の大義名分とされたフセイン政権の大量破壊兵器は発見されておらず、国際的にはむしろ破壊兵器は存在しなかったものと理解されている。(判決文から)

 

 原告は市民およそ3000人だった。

 私たちも夫婦で原告になり、毎月のように裁判所へ行った。あの当時はまだ希望があった。画期的判決が出てもう7年も経ったのかと、ときの流れの速さを思った。

 

 メールは「折角勝ち取った成果を、戦争へとひた走る政府と闘う何かができないか?」という主旨だった。

 

 2015年4月18日、夫はやや体調不良なので一人で集会場所に参加した。

 会場は100人近いと思われる人で満員だった。前方に訴訟の中心になった主任弁護士など7人の弁護士たちが並び、率直な意見を述べ合った。

 

 七年前「自衛隊イラク派兵差止訴訟の会」と「自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団」として頑張ったメンバーのこころはやはり「私は強いられたくない 加害者としての立場を」だろう。

 「平和のうちに生存する権利」を言う人たちの、人間としてのやさしさこそ行動の根本にあるのだとあらためて考えた。

 

 2015年5月3日の憲法記念日に横浜で、3万人の人たちが「平和といのちと人権を」集会で意志表示をした。大江健三郎氏や沢地久枝氏など有名人が多数参加した。

 画期的判決を勝ち取ったこの地でも、来たる5月24日に1000人集会をやって、声を出そうと提案された。

 

 子や孫に、悲惨な戦争社会を引き継ぐ訳にはいかない。

 自衛隊員の応募が減っているという。なら誰が戦争に行くの?

 

 戦争体験者は少数派になっている今、伝えなければならない。

 年寄りでも一歩でも歩こう。声を出そうと思う。

 

 「戦争は或る日突然起きるのではないから」

 

                     2015・5・9

 

 

 

       小出裕章氏の「定年」に思う

 

 1、私たち夫婦の定年

 

 「パソコンやるけどケータイ持たない。自転車乗っても車なし」一軒に2台3台も車持つ時代にノーカーなんて……。京都に住む長男が来たとき「頑固者」って言われてしまった。その高齢者が夕方散歩に田舎道を歩く。西の方に連なる鈴鹿山脈、高いのは御在所岳、夕方5時前にのんびり散歩なんて、現役時代には考えられない贅沢な事。

 長寿社会になって65歳定年という企業も多くなったらしいけれど、20余年前定年は55歳だった。

 

 30年以上働き続け定年の数年前に退職した。夫が開いていた学習塾の応援もあって退職を決めた。

 退職を決めたとき、若かった頃からの様々な思いが駆け巡った。いろいろな人と出会い、別れがあった。病気になって人に迷惑をかけたこともあった。

 勿論、若くて楽しく働いた時期ではあった。が、女が結婚して子育てしながら働き続けることは大変だった。

 

 産後休暇42日でふらつきながら出勤したことや、子どもを預かる保育園がなく、母親たちで共同保育所をつくり支え合った。40年も前なら当たり前かも知れないが…。

 半年間の育児休暇はあった。しかし、無給で保険料など支払えない貧乏生活だったから、その休暇制度は利用できなかった。

 振り返れば、公務員だったから働き続ける事が出来たのだ。

 

 退職を申し出たとき、感傷的になり、ついぽろりと涙が出てしまった。

 所長に「自分の至らないところがあるなら改める」とまで言わせてしまい、申し訳なかった。

 

 2、小出裕章氏の定年

 

 テレビなどでよく見た研究者「原発問題」で納得する発言をしていた小出裕章氏(65歳京大原子炉実験所)は今年3月、定年退職された。

 「この40年の歩みは負け続き」だったと振り返る新聞記事(中日新聞2015・3・27)を読み、「原子力ムラ」の権力を想像し胸打たれた。

 

 また「福島原発の現状を事故の収束なんてとんでもない。肝心の現場が見えず、溶け落ちた核燃料などの炉心は、いまだにどこにどのような状態か分からない。人が近づくと即死するほどの放射能があるから。70年前、国民は戦争に協力し、神の国だから負けないと信じ込まされた。原発では推進派が決して事故なんか起きないと言った。国民が推進派にだまされた」とも言う。(毎日新聞2015・3・6)

 

 「定年なんて大したことじゃない。退職後は信州に住む。いままでの資料は基本的に捨てた。私でなければできない仕事があるのなら、半年先という範囲で引き受けよう。その先は生きているかどうか分からないので」という。

 

 「次男は半年の命でこの世を去った。人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬかわからないから、自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」

 

 小出氏は「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。大学のある宮城県で女川原発の建設計画が浮上していた。

 原発はあまりに危険である故に、都会でなく過疎地に押し付ける差別の構図を知り、1970年大学3年に反原発の立場に転じた。

 

 そして京大原子炉実験所に入所したのは74年だった。そこで出会った仲間6人で反原発「熊取六人組」をつくり、四国電力・伊方原発訴訟の証人になったことで脚光を浴びるようになったという。

 

 2011年3月11日、福島第一原発事故が起きた。

 汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば放射能を忘れ、復興を考えるしかない。

 故郷を追われた人たちに国は生活支援を打ち切ろうとしている。

 加害者は誰も責任を取ろうとしない異常事態だ。

 

 氏の地位は助教、実験所で最下位の地位だった。でも

 「個性を重んじる京大の校風があったから、反原発を訴えても最後まで弾圧されることはなかった」と恵まれた立場が心地良かったと言う。

 

 3、定年とは

 

 華やかで体力もあった人生の盛りに、織り成す様々な日々、生きる糧を得るためには苦いことも割り切って乗り越える。それらがひと先ず終わること。それが定年である。

 そこから始まるものもある。やっと出来たゆとりの時間を、文化的趣味で愉しむのもいい。

 

 60歳で仕事を卒業した私たち夫婦は、プロの友人に教わりながら始まったばかりのインターネットに必死でホームページを開いた。今年揃って78歳になった。

 一年一年だよねと言い合っていたが、小出氏のように半年単位で考えるのが正解かも知れない。

 

 老夫婦は庶民の目線で、社会を政治を綴り続ける。これが生きている証。

 定年の幸せとは立派な家屋敷に住むとか、経済的な豊かさなどだろうか?

 

 生きている証とは何か。一人の人間として世の中と向き合い、ささやかでも人さまのお役に立てる。それを旅立つその日まで求め続ける。

 幸せとはそういうことかも知れない。

 

                            2015・4・25

 

 

 

       寝たきり老犬 ある犬の一生

 

 

 

 「その犬何歳ですか?」「その犬相当な年ですね」「よろよろしていますね」

 夕方にこの犬と散歩すると、いつも聞かれる。1人2人ではない。7人8人、いや15人以上の人たちと会話する。

 

 それほどよれよれなのに、それでも散歩して少しでも歩いた方がいい。そう思って朝は夫が、夕方は私が歩く。15年半生きた犬を「人間なら80歳くらいかな」というと、京都から久しぶりにきた長男は「80じゃなくて、100歳だよ」と言う。

 このよろよろ歩きになれている私達夫婦と違って、長男はあまりの衰えにびっくりしていた。「1年前来たときは、桜散る五条川までさっさと歩いたのになぁ」

 

 その日から3日たった。夕方の散歩のとき道の真ん中で立ち止まって動けなくなった。車が来るし、と紐を引っ張ってもダメ。仕方がないので、綱ごと抱き上げて数歩歩いた。

 重いから道に下す。すると何歩か歩いた。そこでまた抱っこして何歩か歩く。そしてまた数歩歩いた。やっと家に辿り着いた。それから3日後だった。朝から何も食べない。食べられない日がきた。

 

 犬は外で飼うものと、15年間家に入れたことはない。うかつだった。夜中に庭の小屋で、今までにない、泣くような、吠えるような声で唸りっぱなしだった。

 少しは離れていても、ご近所に聞こえるだろうな。夜中でも小屋ごと家の中に引っ張りこもうか…。本当にうかつだった。

 

 一晩中眠れなくて、朝5時半いつもの朝のように起き上がろうとすると、クラクラッとめまいがする。無理して起きて夫と犬小屋ごとヨイショと引っ張って、塾の教室だった空き部屋へ入れ、ホッとしてめまいのため30分ほど横になろうと布団に再び入った。

 気がついたら2時間も過ぎていた。

 

 このまま死んでしまうと思った老犬は、ときどき唸る。手の平に水を載せてやると、目をつむったまま口を動かすではないか。それなら牛乳が飲めないかと、手の平の水を牛乳に変えてやる。横になったまま飲んだ!……ときに唸りながら3日が過ぎた。

 

 毎日、この部屋で3〜4時間パソコン操作をしている夫は、老犬のうめき声を聞きながら仕事をしていたら、夕方「気分が悪くなってダメだ。夕飯も風呂も止めて寝る」と言って自分の部屋へ入ってしまった。老犬介護で老夫婦とも体だけでなく、自律神経のどこかが参ってしまったようだ。家族の介護で疲れて精神的に参ってしまう人の状態がやっと実感できた。

 

 京都からの電話で聴いてきたので「もういよいよ食べられなくなった」というと、中学生になった女の子が、「生きているうちに会いたい」と、忙しい長男が車を運転して来てくれた。赤ちゃん用のミルクが飲める小さなスポイトを買ってきてくれた。牛乳をそれでやると横になったまま、手の平でやるより多めに口から呑み込めた。

 

 倒れたままの老犬に、涙を滲ませる孫に言った。「生きているものには、必ず死がくるんだよ」と。孫よりも、自分に言い聞かせていたかも知れない。

 かくして、流動食少量の「寝たきり老犬」の介護が始まった。なんだ、たかが犬ではないかと思われる人も居られよう。でも15年共に暮らしたし、何より、わが老夫婦の明日の姿を見る思いである。

 

 

 

 近頃見かけない雑種の中型犬、この犬には、訳がある。

 小さな公園をふらふら、よろよろ歩いていた。知っている人は誰もいない。腹ペコだ。公園のベンチに腰かけて、長い間笑顔で話し続けている男の人と女の人がいた。

 

 何か食べる物をくれないかと側へ寄って行ったら、女の人が「ワッ!可愛い子犬」といってくれた。しかし、暫くすると「捨て犬かしら…可哀そうだけど、マンションでは犬飼えないから…」と、土の上に置かれた。「バイバイね」と言って立ち去ろうとする。

 

 「マッテ、マッテおとなしくするから」と車の所に戻ろうとするその二人に縋りついた。新婚ほやほやの二人は、「困ったね。どうする?」「どうしよう。二人とも働いて普段は留守だし…。 でもこんな愛らしい子犬珍しいし…。そうだ母の所、犬飼っているけど、二匹飼ってくれないかなぁ」

 

 娘夫婦は頭を低くして、一匹飼っているわが家へもう一匹連れて来たのである。板で新しい小屋を作ってまでして…。

 あれから15年半、1匹は既に死んでいない。おかげで子たちが巣立った家の防犯にとても役に立った。

 

 味噌汁ぶっかけ玄米ごはんに、魚の骨たっぷり。それに魚や肉の残り少々、これがこの犬の食事だった。おやつにはドッグ・フードも与えたが、病気で医者なんて無縁だった。昔の犬たちのように。

 寝たきり老犬よ、ありがとう。

 

 〔三〕

 

 京都の父子が帰った後で、孫が、老犬の顔を活き活きと紙に描いておいたことに気づいた。

 そして塾の黒板に書いてあった孫のことばに、心温まった。

 

   ひこ ひこと過ごした日々

      楽しかった!

 

    ひこ いつも見守っていてくれて

       ありがとう!!

 

 夏休み合宿をした数年間は、孫4人が親なしで毎回一週間泊り込んだ。毎日4人が、ひこと走ったね。

 

 寝たきり老犬は、倒れて6日目の朝呼吸が止まった。熱いタオルで固くなり始めた体や、便が出たお尻を拭いてやった。最後は少し苦しんだけれど、安楽死だったと言えるだろう。

 介護で体調不良になった老夫婦も持ち直した。

 

 小鳥の楽園だったわが家、ひこの餌の残りご飯を食べに、まず少し大きめのヒヨドリが4羽来る。「おれたちの朝ごはんだ」と言わんばかりに。少しして、雀が10羽必ず残りを食べに来る。毎朝、毎朝晴れの日も、雨の日も…。犬は監督のように静かに見守る。

 

 たっぷり自然を感じ続けた、楽しい小鳥の楽園も終わった。老犬よ、ありがとう。さようなら。

 

                       2015・2・18

 

 

 

       正月におもう

 

 もうすぐ1月17日、阪神神大震災だった日

 

 月日の流れは速く阪神大震災から20年が過ぎた。過日NHK奈良のカメラマン氏からメールあり、あの震災で娘夫婦をなくした友人について連絡先の問い合わせがあった。

 亡くなった娘が沢山残した童話や絵本を、娘と仲良しだった友人が読み聞かせボランティアをしている。ついては、遺族の話も聞きたいとあった。

 

 たまたま、その友人からの便りが届いていた。

 「昨日、私達が入っている老人ホームに孫が来ました。両親が死んでしまって、2歳のとき私に抱かれたその孫を、私をぶんなぐって取っていった先方の親に育てられた。その孫が22歳で、大学院へ進学し不妊研究するとのこと。その孫が震災で死んだ娘に似ていなくてよかった。夫婦のどちらにも似ていなくてよかった。遺伝子は様々受け継ぐんですね」とあった。

 

 建物が崩れ、一瞬のうちに娘夫婦が死んだ。友人は夫婦で泣きながら「娘が書いた童話はどこだ!!」と瓦礫や泥の中を這いずり廻って、原稿を探した。それを沢山の絵本にした。私達もいろいろな絵本をみんなで買った。親しくなったのはそれ以来である。

 

 優秀な能力も十分活かせないまま、娘を亡くした友は心身を崩され人生最大の不幸だった。

 阪神大震災で死者は6400人を超え、けが人は4万3000人を超えた。あの時赤ちゃんだった子が、大学院で研究者としてスタートする。流れはこのように速く、命は生き続ける。

 

 大雪の凄さを知った元旦 感謝を忘れない

 

 わが家の一年のスタートはテニス合宿にしようと、伊吹山の麓にある奥伊吹の小屋(コテージ)とドームを予約した。食事は大鍋2つ持ち込みで、餅野菜入り鍋料理を長男の嫁と長女が作ってくれた。デザートには緑色のメロンに黄色のパイナップル、その上にいちごを載せ、色鮮やかなケーキのようだった。

 

 家なら正月料理はおせち、でも普段から人参、レンコン、ゴボウの煮つけで、いつもおせち料理のようなものだからこれでいい。正月から料理大奮闘してくれ、感謝である。

 

 長男夫婦と長女夫婦の子たちは、高校生から小学生まで4人、親子で合計8人は、京都と名古屋から久しぶりに寄り合い、高齢者二人の応援をバックにテニス大会をした。

 ほぼ全員部活動はテニス、中には市や府大会に出る張り切り屋もおり、親たちも含めて力強い応酬だった。

 

 子どもの頃、朝起きると一面真っ白の雪景色だった。という事はよくあった。

 暖冬に慣れてそんな景色も遠い昔になっていたが、昨年末から「厳しい寒波」の予報通りになった。朝起きると何と1メートルを超える大雪で身動きが出来なかった。1メートル余りの雪が車を覆い、道を塞ぎ、木々の枝はしなったが、美しく見事な絵に演出していた。

 

 コテージの除雪車が慣れた動きで通れるようにしてくれたが、車の除雪は各々の仕事で大騒動だった。他の地域から来ていた人たちもみんな「生まれて初めての除雪」と大騒ぎしていた。

 雪国の人たちの苦労を少しだけ体験した気分になった。孫たちにもいい経験だった。

 

 三年前、夫が熱中症で倒れて以来、山も旅も縁遠くなりどこにも行っていない。忙しい現役世代の子たちが、家まで車で迎えに来てくれ、雪の奥伊吹まで運んでくれた。

 健康でこんな正月が楽しめて、おかげさまに感謝、感謝の一年のスタートができた。

 

 しめ飾り する気がしない正月

 

 スタートした2015年、いつも手書きの丁寧な年賀状をくれた文章仲間のH氏から来ない。去年も。年齢から言っても何か体調の変化に違いない。「女が働くのは貧乏だからだ」

 若いときから働き続けた自分は、一時大いに抵抗を感じたものだ。大手企業の幹部で音楽通だった。でも一理あるし、いい刺激だった。

 何より誠実そのものの人柄だっただけに、寂しくなる。

 

 「今年もしめ縄飾りしません。暗いこの国の政治です。」という政治学者、慶応大学教授の加藤哲郎氏

 「日本人はもう一度行くところまで行くのか」と書く名大名誉教授の安川寿之輔氏

 

 「『世紀末』ヨーロッパにいまの日本や世界が重なってきましたね」と言う作家、中里喜昭氏、

 「地球が、日本列島が、人間に対して怒っているように思えてなりません」とあった友人などなど、心ある人たちが、これほど憂うる新年はなかった。

 

 年末選挙後益々やりたい放題の政権を監視しなければ、庶民のひとりひとりに重くのしかかっている。そんな新年である

 1200日以上も経済産業省前でテントを張って、原発廃止を訴え続けている人たちがいる。メールで送られてくる「テント日記」より(福島原発事故被災者の詩)

 

草茫々 田畑茫々

      村ひとつ荒れ果てて茫々

       中略

草茫々  わが家茫々

軒先を埋め尽くして茫々…… 

 

 沖縄の人たちは「基地はイヤ」と民主的選挙で勝った。

 それでも、原発再稼働する。沖縄に基地つくる。武器輸出3原則をゆるめる。……戦争が出来る国にではなく、庶民が幸せになる民主主義、政治が欲しい。

 

2015・1・7

 

 

 

       こころ和む空間

 

歩けない

 

3年前熱中症で倒れた夫が、意識不明で緊急入院した。脳髄液内の異常細胞が750倍と異常に増えた状態を国立病院の医師は「ずっと脳腫瘍を疑っていた」と言う。1ヵ月以上入院して様々な検査を受けた夫が奇跡的に回復した。長い昼寝時間は要るがほぼ普通生活が出来るようになった。

 

一方、順調だった私も膝が腫れて歩けなくなった。

若い頃からよく歩いた。山歩きもした。「白山」の下りでこけた痛みかも知れない。車もない時代だったし、歩くと胃腸の調子がよくなるからと30分40分は平気で歩いた。

 

現役時代は二回定期健康診断があった。退職してからは医者嫌いで、地域の健康診断も受けていない。それが整形外科医院を訪れる気になった

 

 「ひざ関節がすり減っています」その医者はレントゲン写真を見ながら言う。

 そして「ひざに溜まった水を抜きます。痛いですよ」と、太い注射針をひざにグサッと刺した。みるみる太い注射器に水がいっぱいになる。針はそのまま、別の注射器の薬を投入する。それから、やっと注射針をひざから抜いてくれた。

 

 週2〜3回の間隔で通い続けた医者通いだった。水抜きは5回で終わった。

 

 ぶらぶら体操

 

そのころ新聞で「ぶらぶら体操でひざ痛治す」という本を見た。夫は早速ネットで取り寄せてくれた。

体重の負担をかけずに腰かけた姿勢で足をぶらぶらさせる。50〜100回を日に2、3回続けている。無理に長い時間歩くとひざが腫れるが、いつの間にかふつうになった。

 

ぶらぶらを始めるとき、椅子では足が床に着いてしまう。どうしようと考えていたら、夫が塾をやっていた教室から、学習用の机をヨイショと運んできた。

離れた塾舎から重い机を持って来られた。持ってきてやろうという気持ちになるまでよくなったことがうれしい。

 

それを食事する部屋の片隅に置いてくれた。その部屋には結婚して出て行った子どもや孫たちの写真が飾ってある。端っこの写真は大阪城、古希の祝いで2組の子ども夫婦4人と孫たち4人が勢ぞろいしている写真だ。そのときは、みんな親の方が背は高かった。

 

 その隣は、4人の孫がそれぞれ長いホース各々4本で「水かけ大会」をしている笑顔の夏合宿の写真、孫だけで泊まった合宿最後の写真、親が迎えに来る日。

 

更に、その右の写真は、親と同じ背になった孫が3人映っている。仕事と活動で、我慢ばかりさせた息子と娘が親になり、共働きで育てた孫たちも高校生、中学生だ。

 

 わが家には幸せ空間がある

 

幸せ空間は、足をふるため腰を下す机を置いた片隅である。そこに腰かけて、その本の付録に付いてきたCDをかけると、リストの「ラ・カンパネラ」やパッヘルベルの「カノン」、モーッアルトの「トルコ行進曲」が足を50回振る間隔で流れるように編曲してある。

 

半ば疑い、半ば信じて始めたぶらぶら体操だった。が、継続することで、やはり腫れや痛みはなくなった。効果があった喜びを感じながら足を振る。

 

さらにリズムに合わせて足をぶらぶらさせながら眺める額のひとつに、京都御所・蛤(はまぐり)御門の絵が、夏休み優秀作品となっている。

もうひとつの額には、住友生命絵画コンクール優秀賞となっている「しまうまや草木と子どもたちが遊んでいる絵」たのしい絵が見下ろしている。孫は絵が得意なのだ。

 

先日も大人たちが話し合っていると、黙ってスケッチしていた。会話が途切れたとき、

「ぢいちゃん、ばぁちゃんのスケッチだよ」と3枚見せてくれた。

 

あまりにリアルで、巧く描かれ老人顔がショックだった。しかし、よく考えると中学1年から見たら、77歳はまさにこんな顔だろうなぁ。

 

朝一回、夜一回と日に二回この幸せ空間で、リストモーッァルトのリズムに浸る。

幸せは当たり前ではないよ。感謝を忘れない、喜びのゆとりを愉しむ。これが、いつかは終わるよと、ささやく幸せ空間である。

 

                   2014・8・31

 

 

 

       マタハラを考える つづき

 

 どう育てる?生きていく力を

 

 50年近くにもなる昔、子を持っても働き続けようとした人たちが、共同で無認可ながら保育所をつくった。力を合わせてそれらの実績を市立の乳児保育や、学齢期までの幼児保育の園に認可させてきた。

 

 とりわけ、42日間の産後休暇明けからでも働き続けたい仲間たちの頑張りがあった。

 市役所との交渉も、何回も何回も重ねた父母の会だった。

 

 長男は母親の帰りが6時過ぎるため(5時まで働くのがふつう)、一人だけぽつんと保育園で待っていた。また、名古屋の職場近くに変わった保育園で「みんな3時半にはお迎えがあるのに」と、先生に皮肉くられたりして5つも保育園を変わった

 

 やっと地元の保育園で6時半過ぎの延長保育が認められ、安定したのは3歳になってからだった。

苦労させて申し訳なかったが、親たちも「集団保育とこころの発達」など、保育研究者たちの本で学びながら話し合い、こども同士の触れ合いをもたせた。

 

家では、寝る前の短い時間でも必ず本を読み聞かせた。親が眠ってしまいそうだったが、絵本をみながら、いい音楽を聴かせる本もあり子どもたちは喜んで聴いた。

 

親子とも厳しい状況もあったが、考えるのは、子どもたちに生きていく力をどうつけるかだったように思う。

我慢づよい、頑張り屋さんに育ってくれたと思うのは親の甘さだけでもないと思う。

 

 「マタハラ」と「介護失職」

 

 義理の姉夫婦は揃って80代、83歳の夫は長年司法界で働いていたが、少し前、昼食に行こうとして転倒し、外傷性くも膜下出血という脳の緊急手術をした。

手当が早かったので順調に回復していた。ところが、またまた転倒して再度脳手術を受け、入院してリハビリ中である。

 

 義姉は以前から足腰を痛めていたので、ヘルパーさんの応援で生活している。

入院や買い物などとても出来ない。そこで次男に「介護休暇」を取って貰った。病は中々全快までいかない。次男は職場を変わったときから契約社員になっていた。介護休暇が切れ、職場はくびになった。

 

 その話を聞いて、「マタハラ」「介護失職」は似ているなと思った。

 人として生まれた初々しい人生のスタートと、人生を歩き終える終演舞台、この2つのポイントこそが、幸せの鍵になる。

 

 「幼い命育ての苦労」「親介護で雇い止めの苦労」だ。

 2005年から介護する人は93日間休める「介護休暇制度」が出来た。賃金の4割が支給されるそうだ。けれど現実は、介護した親の死後働こうにも多くは50歳過ぎで求人は少なく、生きていくことは厳しくなる。

 

 そのような介護失職は1年間で10万人を超えるという。(総務省2013年7月)

毎日新聞「マタハラ」の座談会で、出席者が発言していたように「子育てしながら仕事が続けられる社会の制度」こそ創るべきだと思う。

 

過日、インターネットの「ベビーシッター紹介サイト」を通じて預けられた2歳の男の子が、心肺停止状態で発見された事件が起きた。やむを得ず頼んだのだろうが、この悲劇は人ごとではない。

 

女性が働く事と命育ての両立は、政府が軽く言うほど簡単ではない現実だと思う。

 また、社会的にデイサービスなど、介護しながら何とか働ける職場環境があれば、厳しくても親を安心して介護し、働き続けることが出来る。

 

 消費税増税も、8%がさらに10%になっても、そのお金が「戦争の出来る国」でなく、全額社会保障に使われるのか、庶民は監視しなければならないと思う。

 

 人間も、大自然のほんの一部分

 

 「共働きは貧乏人がするもの」と言った、社会的地位のおありになる方もいた。立派な邸宅に住んだり、お金もちだから、人間幸せとは限らない。

主婦は家庭で家事育児が当たり前、そんな時代は過ぎた。

 

働いて生きるという事は大変なのだ。が、社会と繋がって生きる喜びもある。

女も働く喜びを感じる社会、老後も安心して人生の終わりのときまで愉しめる世の中、庶民が真の幸せを感じて生きる。それがみんなの喜びという世の中がいい。

 

夕方、田舎道を老犬と散歩する。

やっと咲いたさくらが、もう舞い踊りながら散っていく。

 

黄色は菜の花、濃い赤紫はレンゲ草、つくしがゆったり夕日を浴びているあぜ道もある。美しい自然に浸りながら、人間も生まれ、生活し、老いてやがて死ぬ。

この大自然のほんの一部分にすぎないのだ。

 

近頃学校帰りの小中学生が「こんにちは」と挨拶してくれるようになった。「お帰りなさい」と、声が出る。笑顔になる。

やっと辿りついた人生のゆとりの時期、ゆとりの中で文化は生まれるのかな?

 

2014・4・12

 

 

 

       マタハラを考える

 

女にとって、結婚は大きな喜びである。そして、妊娠、出産、続いて子育てと新しい体験をする。

 少し前の毎日新聞で「マスコミ業界 マタハラの実態」が特集ワイドに載り、働き続ける女性の深刻な実態を、7人の女性が座談会形式で発言していた。マタハラとは、「マタニティハラスメント」の略語である。

 

 「7カ月で切迫流産、絶対安静の診断書を見せても上司は無視、妊娠しても終電帰り、夏休みもなしだった。1カ月後流産した。さらに半月後解雇になった。そのときの上司のことばが忘れられない。『妊娠は病気じゃないんだ』(病気なら配慮するよ…か??)

 

 ()流産はつらい

 

 長男の嫁も、長女も共働きである。仕事と子育ての両立に必死だったが、2人とも一児の母のとき2人目で流産の悔しさを体験した。

 

 私は長男を育てながら働いていて流産を繰り返し、2番目の長女出産は長男との間が6年にもなってしまった。

当時転勤になり、職場が管理部門の出世コースの職場だったので、数少ない女性たちは未婚で、仕事一筋という人が多かった。

 

 その職場へ移る前から、2回3回と流産ばかりして苦しんだ。そして、転勤先の職場へ「習慣性流産」の診断書を出して休んだ。「いま産まなければ、もう子は産めない」と非難覚悟で何度も産婦人科の診断書を提出して休んだ。

 

 考えてみれば、長男出産のときは産前休暇ぎりぎりまで働き、無事出産できて産後休暇明けの43日目から働いた。一つだけ忘れられない、つらい思い出がある。

 

 幸せいっぱいで、産後休暇が明け、職場復帰して2週間目、いままで一律だったボーナス支給を、初めて「1%の成績不良者から1%減額し、1%の成績優秀者に上積みする」という差別配分がなされた。

 

 支給日の6月15日、職場は張りつめた氷のように緊張した。受け取った手当を数えて、きっちり1%少ないのに気づいて、血の気が引いた。差別の理由は、産後休暇、それしか考えられない。それなら、産後休暇6週間と決められた労基法や労働協約は何なのか。この差別は、まさに、むき出しの「マタニティハラスメント」ではないか。

 

 ほとんど衝動的に、手当を上司に突き返した。以来、毎朝、思いをガリ版刷りのビラにし、出勤時間ぎりぎりまで、職場の玄関で配った。睡眠不足でフラフラだったが、全国でも同じような抵抗があり、労組も取り上げてくれた。半年後の年末手当から、「査定・撤廃」になった。

 

 2番目の長女のときは、習慣性流産のため休んだまま出産した。産後休暇明けの43日目からは元気に出勤できた。育児休職は、当時、無給だったので、取得しなかった。

 

 これは、公務員だったから出来た。民間ならとてもできなかったと思う。が、あのときの休む決断は間違っていないと、いまでも思う。

 

 当時の上司が何かの折りに、「あんた! 休みっぱなしで子ども産んで!」と、みんなの前で大声を挙げて言ったことが忘れられない。その職場でそれから15年働き、就職してから35年以上も在職したことを考えれば、子を産む期間のロスなぞ短いものだ。

 

あれからおよそ40年、あの時の上司に訊いてみたい。「いまの少子時代をどう思われますか?」と。

 

()女も働いて社会の力に

 

 日本は高齢社会になり少子社会になった。

毎日新聞の特集記事での発言に「安部首相は育児休業を3年取得できる『3年間抱っこし放題』を打ち出しているけど、子育てを知らない無邪気な発想ですよね」というのがあったが、まさにその通り、女が働き続けることは大変なことだ。

 

女も男と同じように学業を積み、働く時代になった。「男が働き、女は家事育児」ではなく、女も働く苦労も喜びも体験し、男も出来る家事育児をしながら人として信頼し合う。イクメンパパや若い人たちはとっくにやっている。

 

共働きはいいことだと思う。ただ一つ無事子を産む事は、当たり前のようで実は大変なのだ。一児に恵まれもう一人となると、子育てしながら働くしわ寄せが、もろに女の負担になる。

 

妊娠女性の41%が流産経験をし、不育症(流産死産を繰り返す)8万人と報告された。この調査は35歳〜79歳の一般女性503人の回答で、2007年2月から1年間のデータ (厚生労働省研究班の調査)

 

 (3)、記事の中で

 

 「働くママが増えた分、育休中や時短社員の仕事の分担が負担になっており、職場のサポ−トが得にくくなっている」とあった。

 

 そして、「やり甲斐のある部署を担当させて貰って、数カ月で妊娠した。折角抜擢されたのに、何を考えているんだと言われた」の発言があった。

 

 「実家の親を呼びつけたり、週5日もベビーシッターを頼んだりしなくても、自分で子育てしながら、仕事が続けられる姿を若い世代に見せたい」

 

 こういう発言があったように、女が子をもっても働く、本当のあるべき姿をこそ社会がつくるべきだと思う。

 

 668万人、これは働きたいが子育てで働けない人の数です。

 「マタハラ」の世界をなくせるか? なくさなければ、男女平等職場を産み出すことは出来ない。

 

2014・4・3

 

 

 

       たまごの小母さん、駅うらへ

 

 さくら名所百選に選ばれて

 

名鉄電車に岩倉という駅がある。岐阜との県堺にある犬山城、その犬山市と名古屋市の中間の位置に岩倉市がある。最近さくら名所百選に選ばれ、少しは知られ始めた人口4万の市で、名古屋から電車で15分ほどの距離である。

 

先日、郷土史研究会が「岩倉と名鉄電車」と題する公開講演会を開いた。地域の集まりに殆ど出たことはなかったので広い会場が満員で、150人ほどの人たちが熱心にメモしている姿に驚いた。

 

鉄道マニアでもないのにその会に出たのは、岩倉から出ていた小牧線に関心があったから。

大正元年に犬山線が開通し、岩倉と犬山が通じたが当時は名古屋から岩倉まではおよそ50分かかったそうである。

 

講師は鉄道史学会会員で、話は分かり易かった。41頁にもなる資料は明治の終わりから大正にかけて作られた駅と、1頁に二枚ずつ電車の写真が大きく載り、貴重な資料だった。

その中に、どこまでも田や畑が広々と続く田園風景に2輌連結の小牧線の電車もあった。

 

資料によると小牧線は昭和18年(1943年)に単線で開通した。駅4つで終点の小牧だった。いまはバスに変わってしまったが、電車は短い距離をゆったり安定して走っていた。

 

 名古屋で空襲を逃げ廻り、家も焼かれてしまったので母の故郷岩倉へ一家で逃げてきた。長かった太平洋戦争が終わったが、母と5人の兄妹が住む所もなく母の故郷へなだれ込むしかなかった。父は「赤紙という人さらい」(毎日新聞)に紙切れ一枚で戦地へ行かされ、出征から5年経っていたが、昭和20年8月15日の敗戦になっても未だ復員してこなかった。

 

 たまごのおばさん

 

母は或るとき思いついたように、近所の人に分けて貰ったサツマイモを蒸して名古屋の駅裏に運んだ。名鉄名古屋駅から歩いて、当時の国鉄名古屋駅構内を通り駅裏に辿り着く。

 

周りには戦争で家族を失った浮浪児がいっぱい溢れていた。駅うらと言っていた名古屋駅西には、戦闘帽をかむった片足の人が立って「お金か食べ物を恵んで」と叫んでいた。

少し離れた所には、片手を白い布で肩からつった人が、お金を入れる小さい箱を前にしてハモニカを吹いていた。母は「あの人たちは戦争でけがした傷痍軍人だよ」と教えてくれた。

 

人々が折り重なるような雑踏が続いた。そこをくぐり抜け、少し空いていた道端に場所が取れた。その道端にサツマイモを入れたお櫃を置き、ふたの上にサツマイモを並べた。

すると次々と人が寄って来てアッと言う間に売り切れてしまった。値段はいくらだったか全然知らない。とにかく人々はみんな飢えていた。

 

 母は、姉に頼んで妹たちと留守番をさせ、私を連れて名古屋へ行き次の日もその次の日も、サツマイモを売った。

そんな或る日、売れたお金と空の風呂敷包みを少しその場に置いた瞬間、サッと後ろから伸びた手に引っさらわれてしまった。見ていた私は「アッ」としか声が出なかった。

 

母は気付いて「まってー」と叫んだけれど、後の祭りだった。しょぼくれた母と私は、ポケットに入れた帰りの電車賃だけ確認し、名鉄電車に乗って帰った。

「人の風呂敷包みを勝手に持って行っちゃって…」と子どもながらに割り切れなさを口にする。無言の母親。

日頃から「人の悪口は云うものでない」と言っていた母の頭の中は「今日は子どもたちに何を食べさせようか」だけだったのではないか。

 

それ以後、サツマイモを売るのを止めた。

 

母は、名古屋でサラリーマンの妻として毎日平穏に暮らしていた。針仕事が得意で子どもたちの着る着物は全部縫い、ご近所の人の着物も頼まれれば縫っていた。平和な家庭が父の出征で一瞬のうちに壊れ、生きるために何とか現金収入を得たかったのだろう。

 

小学校3年の私をお伴にして、岩倉駅から小牧線に乗り、3つ目の小針駅で降り見渡す限り田んぼが広がる田舎道を歩いた。かなりの距離を歩きやっと辿り付いた農家を一軒一軒訪ね歩いた。そして「卵売ってくれませんか」「卵ありませんか?」を繰り返した。

 

毎日のように顔を見る母子を哀れに思ったのか、最初の頃は誰も相手にしてくれなかったが、「ちょこっとならあるよ」と分けてくれるようになった。もう一軒、もう一軒と粘り強く歩き廻わり、一定の量になると岩倉駅に戻り名古屋駅裏の闇市に運んだ。

 

回数を重ねるうち土地の人たちは「たまごの小母さん」と呼んで親しんでくれた。

闇市、みんなそう呼んでいた名古屋駅の駅うらは熱気があふれていた。売っているのはみんな食べる物、おでん屋があった。雑炊のような物や、だんごの入った汁物や、何かを焼いて売る店もあった。人と人が食べる物を求めて、歩き廻っていた。

 

 駅うらは、ほったて小屋のような食べ物を売る店がずらり並んでいた。一角にあったおでん屋にやっと買えた卵を渡し、母はいくらかのお金を貰って「さ、かえろ」と私に言った。

 

 そのうち「『小針米』は美味しいよ」と教えてくれる人がいて、少しずつ買って駅うらのおでん屋へ運ぶようになった。

 お米は重かったが評判がよく、とても喜ばれた。

 

 間もなく終わるNHK朝の連続ドラマ「ごちそうさん」は視聴率が高いらしい。まさに戦後の混乱した食料不足や、戦死した子への悲しみなど生々しく演出している。人は食べなければ生きられない。ドラマ通りの人間世界だった。

 

 おかげさまの68年

 

 「たまごの小母さん」と、何度も何度も一緒に歩いた小牧線の田んぼ道。

 ときには、ひと休みと小川に足を突っ込んで泳ぐめだかに安らいだ。

 

 見渡す限りの田園風景、空は優しい白雲をまとい

 ささやくように柔らかな風が、貧しい母子を包んでくれた。

 

 あれから68年が過ぎた。

 10万人が死んだ3月10日の東京大空襲も、名古屋大空襲も、10万人も20万人も殺された悪夢のような広島、長崎への原爆投下もあった。

 

 あのひもじさ、苦しさを体験したからこそ、いまの豊かな平和の有難さが分かる。

 

 駅うらも闇市もたまごの小母さんも、とっくにこの世からいなくなったけれど、この歳まで生き長らえたのは、命育てに必死の母、その親族たちの無私の支援あったればこそ。

 

 「カボチャ食べやぁす?」「イモ食べやー」など食べる物なき疎開者への、ご近所の人たちのやさしさあってこそ。

 

 祖母や母がよく言っていた「おかげさまで」を忘れない。

 「戦争は殺しあい」を忘れない。

 

2014・3・14

 

 

 

 

       兄と弟

 

 〔1〕

 今日弟が、服を取られたと言って泣いて帰ってきた。6時半に行くそろばんじゅくの帰りに、公園でかくれんぼしてとられたそうだ。月謝100円持って行って、今日は出す日ではなかったので持って帰る途中で服を脱いで遊んでいたら取られたそうな。

 

 ぼんくらな弟である。弟はいつもぼんやりしていて、よく忘れ物したり物を落したり、こわしたり不器用である。そして何事もなが続きせず途中でやめてしまう。

 お金の足りないのを無理に行かせて、取られる。母も悲観していた。

 

 腹が立つ。母を心配させ、怒らせ悲しませる。ぼんくらな弟よ。えーい腹が立つ。くそ!

 

 〔2〕

 昨日から食料が不足なので、ハラペコである。

 気の毒なのは父である。子どもと同じ量で、始終外出しているから。

 

 朝、握りこぶし大のメリケン粉のだんご1個半とみそ汁一杯である。

 父などはこの頃げっそりやせてしまった。

 

 僕は大きくなって、父母に楽をさせよう。働こう!!

 

 〔3〕

 明日は遠足、3年は長良川へ。僕は行かない。今 家はお金がないので行かれない。弟は行くけど。少しでも家が助かるから行かない。

 

 明日は誕生日である。遠足に行かないから、1人で自分を祝っていよう。

 僕を今日まで育ててくれた父母に心から感謝しよう。

 

 これは、東京の義姉が「仲良しだった弟に読んでもらいたい」と送ってくれた、古い日記のある日の記録である。

 けたけた笑いながら夫婦で読んだ。

 

 1950年とあり、義兄が中学だから60年余昔の記録である。

 歳がくっついていて、仲良しだった兄弟はよく喧嘩したという。

 

 兄は大手自動車の責任者として世界を飛び廻り、最後はドイツで10年頑張って帰国した。

 

 不器用な弟も知能指数は兄に劣らずだったらしい。体ごと政治にのめり込み、異見をもって首になり独りで裁判で闘った。頭を使い子どもと向き合うことが性に合っていて、20余年間1日も休まず学習塾を続けた。

 

 恵まれた中学校長の息子でさえ、遠足に行かなかったり、食べる物がなく飢えていたことが読み取れる。普通の家庭の子は推して知るべしだろう。

 

 豊かに何でもありが当り前のいま、戦争なんかで殺し合っていたら、世の中そうではないのよ。

 

 家の門の脇に時計がある。直系50センチ位の時計は、背の高い柱にしっかりしがみついており、道行く人たちは大抵その時計を見上げていく。

 塾をやっていた頃からずっとだから、ほぼ30年。若かったあの頃から、ときは流れ続ける。通る子や人たちはみんな変わった。

 

 生まれたての柔らかい緑の木の葉の清々しさ、みんな希望もって生きたいね。

 72歳で義兄が旅立って、6年になる。

2013・4・20

 

 

 

       天空の集い

 

 〔1〕、粉末ジュースで「かんぱーい」だったね

 

 ここは地上18階の和風料理店、天空の日本家屋だ。

 子と孫たち8人が金婚の食事会を設けてくれた。

 「ひとことずつ近況を」という司会の長男、すると、最初に夫が発言した。

 

 「結婚式は会費300円、粉末ジュースで乾杯した。100人を超える参加者だったよ。そこで質問、50年間夫婦喧嘩はしたか、しなかったか?」

 即座に「喧嘩したに決まっとる」そう言ったのは、孫の小学6年になった女の子だった。

 

 「喧嘩は1度もしてないよ、議論はしたけどネ」と言った。

 

 この孫が4歳のとき「京都の子も今度1年生になる」と言ったら「私は大人になる」と言った。感受性豊かなんだ。「テニスに週6回も送り迎えして貰っているので、頑張ります」と小学5年の女の孫が言うと、その兄が「受験で大変だけど、頑張ります」と続く。10人全員がひとことずつ言い合った。

 

 その昔、人生50年と言った時代に金婚式〔結婚50年〕は珍しかったのではないか?

 現在はどうなのだろう。長寿社会だけれど、案外どちらか一人になってという人も多いのではないか。

 

 京都の長男夫婦は、毎日帰りが10時過ぎる夫と、それを支え、受験生の食事、小学生のテニスの送り迎えに走り回る妻とで、必死で楽しみながらがんばっている。

 

 娘夫婦は名古屋市役所勤務である。婿は環境局で朝早く出勤する。娘は残業で帰りがよく遅くなるとか。「夕飯は大体僕が作って子ども2人を食べさせる。レシピも増えたよ」という言葉を聞いて思った。女も仕事を持つ人が多くなり、男が変わったなと。

 

 現役世代の厳しさでは、以前のように5時になったら帰る、とはいかないだろうな。

 そう考えるとこの50年、時代が変わって世の中進歩したと言えるのか分からなくなる。

 

 〔2〕、希望があった時代の、しあわせスタート

 

 家賃3000円の安アパート、共同便所に共同炊事場でスタートした。仕事と活動で帰りは2人とも夜12時ごろで、近くにあった銭湯へ閉まるぎりぎりにかけつける毎日だった。そんな生活でも、自由で平等の世の中にするという希望があり、心は明るかった。

 

 「そういう時代に生きたかった」と言ったのは東京の甥っこで、コンビニ関連の会社経営幹部で夫婦とも大事なポストで活躍しているが、子は産まない主義だ。

 父親だった義兄は10年間ドイツトヨタの責任者として働いたが「子ども産まないのは間違ってるぞ」といつも言っていた。その人も逝ってしまった。

 

 わが夫婦は長男長女に恵まれたときから、喜びと共に育児戦争が始まった。

 無認可共同保育所で1年、大変ながら安定していたのに、活動のため名古屋の保育園に変わる事になってしまった。夜は親たちが当番で夫婦が保育所に泊まる。何人もの子に食べさせ、銭湯に連れて行き、当番でない親は活動に集中する。そんな無茶な厳しい生活を1年続けた。子どもと会えなくて寂しいと言って、何人もがやめた。

 

 しかし私はその職場支部の責任者だったから、辞められなかった。

 遂に病気になってそれを辞め、名古屋の職場近くの普通の保育園を探した。

 

 当時紙おしめなどなく、布製のおしめで手洗いだった。現役時代の友たちも「おしめ干すと、次々凍っていったよね」と言っていた。

 当時でも保育園の帰りはみんな3時半ごろで、どんなに急いでも5時半にしか迎えに行けない。するとわが子だけがひとりで園の外で待たされる。そんな保育園には預かれないと、怒って辞め、別の園を探す。

 

 長男は5回も保育園を変わり、親として申し訳ない思いでいっぱいだった。辛い思いをしただけ我慢強い子に育った。

 

 〔3〕、50年、お蔭さまで

 

 もう1点、大きな転換期のことを記さねばならない。

 誠心誠意活動したつもりなのに、結婚して14年の頃、夫は所属する共産党組織に異見を抱いた。意見が合わなくて家に帰れない監禁査問を21日間受けた。

 

 妻は活動のための泊まり込みとばかり思って子を抱えながら洗濯物を届け、それから活動の場へ急ぐ、愚かな真面目党員だった。

 

 組織というのは、異見をもったら最後ひどい目にあうのは当たり前で、その共産党専従の多くが自律神経失調症になった。夫は頭脳がいいが、人格としてやや抜けた所があったから神経症にならなかったのではないかと、同年齢の友達夫婦である連れあいは思うのである。

 

 夫の専従解任で、退職金も何もなく風呂敷包みひとつで追い出され、裁判で組織と闘った。「反党分子」として組織的攻撃を受け、精神的地獄と貧乏地獄と戦った。

 

 東欧・ソ連邦崩壊に欣喜した。学習塾を21年やり、近くの家から、遠くの町から大勢の子どもたちが真剣に学びにきてくれた。ほんとにお蔭さまで。

 なんとか経済的に立ち直り、子達もしっかり成長してくれた。いつの間にか50年だ。

 

 ノーベル賞受賞した山中氏の「20年間苦しかった」との発言に共感し、ホっとする。

 古代インドの思想で、人生を20年毎に区切り、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」と考えると政治学者に教わったが、わが夫婦も人生の「遊行期」に辿りついた。

 

 社会主義の理論を、絶対的真理と信じた愚かで真面目なあやつり人形だったと思う。夫の専従解任問題について、中央の訴願委員会へ5回も6回も質問を出したが、何の答えもなかったことで身に沁みた。

 人間の世の中、どんな事にも、絶対というのは有り得ないと思う。

 

 先日、友人宅を訪れた。残業続きで真面目な息子がうつ病になり、自死してしまった。共に泣き合った夫も、現役時代の活躍が嘘のように、がんで胃腸を切り取ったアルコール依存症患者になっていた。

 

 2人で、畑の花を見た。薄い花弁8枚のコスモス、ビンクと白の薄い花弁、そのやさしさに濃い赤紫が引き立つ。友は子を亡くし、夫の介護に明け暮れの日々、夕日をバックに輝くこの花に思わず頭を垂れるという。

 お互い、「終わりの始まり」である。

 

 お陰さまでこの年まで生きられた、この幸せを喜ぶ。昨年夏、熱中症による高次脳機能障害で意識を失い、35日間入院した夫、あのまま逝ってしまったら、天空の集いはなかった。

 子や孫たちへ順送りの世の中。感激、感謝の金婚の集いだった。さぁ、笑顔で「遊行期」をいこう。

 

2012・11・4

 

 

 

       いわくら合宿

 

 ノーベル賞の医学生理学賞を京都大学の山中教授が受賞した。久しぶりに明るいニュースだ。山中教授は「苦しい20年だった」と何度も言い、「みんなに感謝したい」を繰返した。

 わが家も40代になって数年間は、精神的にも経済的にも地獄を味わった。その体験があればこそ、いまの幸せがよく分かり感謝の気持ちが沸く。

 

 〔1〕、ことばが育つ、人が育つ

 

 1歳7ヶ月で「ウヌーのおまわりさん」「ゴンゴ三兄弟」と歌い、4歳になると京都から電話で「セブン」「ウルトラマン」など6曲も7曲も声をからして歌ってくれた。その男の孫が、「ばあちゃんはパパのおかあさんやろ、パパに注意しないの?」と言った。時々くれた手紙の最後に「長生きして下さい」とのやさしいことばがうれしい。いまは高校受験で、必死に勉強している。

 

 その妹は小学4年生になった。昨年夏、じいちゃんが熱中症で入院したとき、ばあちゃんが年寄りピアノを続けるか否か迷っていた。そのとき、京都から手紙で励ましてくれた。その文をピアノの先生に話したら「感動した」と言われた。

 

 「私はピアノ続けるばあちゃんがいいです。またばあちゃんの家で、みんなでピアノ会をしたいです」

 「じいちゃんが退院して、ばあちゃんがピアノ続けると聞いて、いい結論だと思いました」。やっぱり感動した。励まされた。

 最近、作文コンクールで全国約7000人中、2位に表彰されたとか。

 

 名古屋の女の孫は言う。「保育園の帰り暗くなったね、おじさんがでんき消しちゃったのかな?」2歳のときだ。

 

 4歳のとき「京都の子ももうすぐ1年生になるもんね」と言うと、「わたしはおとなになる」と言い、庭の土堀りしながら「ダンゴむしさんも、ミミズもお正月だから出てこんかもね」などと言った。この子はもう小学6年で、生徒会や勉強で活躍中である。

 

 その弟は、海水浴に行ったとき「ばあちゃん海に入らないの? 会社いかないんだから、おけしょうなんかぬらないんだから・・・入ろうよ」と言ったね。

 

 保育園の運動会で待っていたとき、私が土で作った建物をうっかり壊してしまった。すると「ばあちゃん、ゴメンネって言わなくていいよ」。4歳だった。やさしいのだ。きっと。

 

 〔2〕、「多分、また来るので・・・」

 

 いわくら合宿とは、共働きで忙しい息子と娘の子どもたち4人が、長い夏休みに、じいじばあばのいる愛知県岩倉市へ子どもたちだけで泊まりに来ることだ。期間はおよそ1週間。

 

 4年前、名古屋駅の新幹線上りホームに立って列車が着くのを待った。来た来た。最後尾の一つ前の車輌から降りてきた京都の孫たち、小学校5年の男の子とその友達慎太郎君、それに1年生の女の子だ。

 

 「よく来たね、疲れた?」と訊くと、女の孫は「疲れないけど、早く着かないかとばっかり思っていた」と子どもだけで少し不安だったようだ。慎太郎君は「こんにちは」としっかり挨拶してくれた。

 

 泊まった日の翌朝から始まるスケジュール、8時半から1時間は大人の新聞タイム、子どもは宿題をする。終わった宿題は夫婦で手分けして点検する。

 

 それからが本番で、ノーカーのわが家はタクシーを呼んでトンボ池へ行く。てんでに釣竿とバケツを持って自然生態園へ。都会育ちの子たちにとって自然と遊ぶチャンスだ。自然に草の生えた池の周りを走り廻る、ザリガニ取りが何といっても一番面白そうだ。目つき顔つきが活き活きしてくる。

 

 トンボ池にはカエル、オタマジャクシ、メダカ、ザリガニなどいっぱいだ。1匹だけカブト虫が採れたが、クワガタやカブト虫は早朝でないと採れない。

 楽しく池の周りの草むらを動き廻っていると、すぐ昼になってしまう。

 

 何とか気分を切り替えて、昼飯を終える。午後は図書館へ行って読みたい本を探して借りてくる。家に帰ってからマンガ本も含めて読書タイム。

 

 夜になると名古屋の娘の子たちも合流する。小学校2年の女の孫と、保育園児の男の孫が一緒に泊まる夏休みは大賑わいだ。

 何と言っても一番人気は、夜のでんぐりかえり大会。2つの部屋を通して布団をずらっと敷き並べ、1人2人3人、小さい子から順番にでんぐり返りをする豪快さ。

 

 考えてみれば、30年以上も昔、息子や娘がいとこたちとこれをやって大はしゃぎした。みんな元気が何より大人への応援歌だ。

 翌日は水族館、その次の日は掃除の手伝い、ガラス拭きなどしてお駄賃を貯金箱へ入れる。1人1個ずつある貯金箱はばあちゃん銀行と言う。

 

 それから映画館へ行ったり、年によって海水浴のときもある。

 楽しいスケジュールがいっぱいの夏休みが続く。

 

 アッと言う間に過ぎる1週間の最後は、京都から名古屋から両親が合流して、バーベキュー大会、その直前に庭の4本の水道ホースで水かけ大会で大はしゃぎ・・・。

 

 慎太郎君のお父さんは亡くなっていない。寂しいだろうによくがんばって、自然ないい子に育っている。看護士の母親が前向きに頑張っている姿が想像できる。

 

 「よく手伝ってくれてありがとう、貯金箱持って帰って」と言うと「来年も来るかも知れないから・・・多分来るので置いておきます」なんて、うれしいこと言ってくれた。

 かくて、この年のいわくら合宿無事終わった。

 

 〔3〕、終わりの始まり

 

 何年も続いた夏のいわくら合宿は、中止になってすでに4年、終わりの始まりを思う。

 

 犬の散歩で歩く田んぼ道は黄色く実った稲が美しい。

 人生の卒業生を自覚する老夫婦は、思想的にも人間的にもそれまでとは異なる人生「二度生まれ」に鋭意奮闘中というところ。

 「実るほど頭を垂れる稲穂」になりたしと思いながら、背筋伸ばして日々歩いている。

 

2012・10・12

 

 

 

真夏の花 サルスベリ 百日紅

 

1、熱中症 突然の激しい頭痛、脳炎

 

35度越す真夏の暑さになり、大きくなった庭の百日紅の木が、ピンク色の蕾を膨らませ始めた。獣医院で予約していた犬のフィラリアの注射に歩いて行った。

 

20分くらい歩いたころ、軽く頭痛がし始め、更に10分歩いた所にあった川沿いのベンチに座りこんだ。

夫は自転車だったので、もう少し先の医院まで行くと言って別れた。そして、帰宅した午後2人ともダウン。以来頭痛とだるさとの闘いがおよそ10日続いた。

 

何とか良くなったが、夫は頭痛がとれないと近くの医院で検査を受けた。

その翌日のこと。朝、二階で化粧中に1階からドドーンという音がした。何だろうとは思ったが、出かける用もありそのまま化粧を継続した。すると、また先程と同じような音がした。流石に変だと1階へ階段をかけ下りる。

 

すると、夫が横になって倒れていた。

八畳の和室と廊下の間の障子が2本横に倒れ、障子が破れて、桟もこわれていた。でも表情はいつもの穏やかな顔だった。

「なに? どうかしたの?」「寝ていたら何ともないが、起きようとすると立てなくてダダーと倒れるんだ。障子にぶつかって、2本とも壊した・・・」

 

「さっき、やっと居間へ行って、椅子に座っていれば何ともないのが、椅子から立ち上がったら倒れ、その机の角で頬を打った。立つと倒れるんだ」

 

近くの医院の紹介状で、市民総合病院へタクシーで走った。そのときも、出かける準備を何もしない夫に「タクシーが来たよ」と言って、シャツとズボンを並べたが、穿けない。仕方なく穿かせて肩に手をかけさせて、タクシーに乗り込んだ。

 

病院についても歩けないので車椅子に乗せ、2階から3階、あるいは1階と検査に次ぐ検査で血液、心電図、レントゲン、MRI・・・と朝10時予約で夕方5時ごろまで続いた。

心臓内科→内科→脳神経内科で、次つぎ医師が「変だ」「おかしい」「こんなゆっくりしかしゃべれない人ですか?」と、真面目に対処してくれた。

 

朝食以来何も食べていないので、夕方5時過ぎると体力的にかなり限界だった。

「お腹ぺこぺこで、お茶が飲みたい」と言ったら、暫くして看護師の女性が「お昼の残りですが」と、大きなクッキーを一つくれた。有難かった。やさしさが身に沁みた。

 

「ご馳走さま。本当に美味しかった」と、心からお礼を言った。そして、内科の先生付き添いで、名古屋医療センターへ救急車で運ばれた。

 

夜8時過ぎの救急外来、119番マークの若者4人が病人を運んで来る。

警察官2人つき、刺青の若者が来る。ぐったりした子どもが、心配顔の母親つきで運び込まれる。

 

3人、4人、5人・・・。命がけの現場の大変さを目の当たりにする。そんな救急診療処置室の中で、パソコンに映る脳の映像と真剣に向き合う医師を見ながら、ベッドに寝かせられている夫と、入院指示を待った。

 

更に、検査を重ね、何とか神経内科に入院できたのは夜9時近く。疲れ果てた付き添い老人は、歩く気力もなく、ひとまず、名古屋市郊外の自宅までタクシーで帰った。

 

2、救急車で運ばれた? 知らない

 

寝たきり、24時間の点滴、医師の問いかけ「100−7は?」も、うろ覚え、要するにまともにことばはしゃべれない。でも表情はいつもの穏やかな顔だった。

 

入院3日目になって、やっとことばが戻った夫に、ほんの少し明かりを見出した。

連絡すれば「見舞いに」となるので、誰とも連絡しないつもりだったが、「2人の子どもと東京の姉には伝えて欲しい」というので、夜帰宅後電話した。

 

心配して駆けつけてくれた東京の姉夫婦、京都の息子。名古屋の娘、それに私の2人の妹が夫婦で駆けつけてくれて、「普通にしゃべっているんじゃないの?」と、何かが分からないという感じだった。

入院から2日間は、脳があの世へ行っていた。

ことばがもたもたと、異常にのろくて、まともではなかった。

 

4日経って、忙しい弁護人の予定をやりくりして「もう逢えなくなるかも知れない」と、夫婦で東京から駆けつけてくれた。

「国選弁護人は、何が何でも無実を主張するのですか?」その質問に、驚いた。

エッ? 昨日まで。うろうろ言語だったのに・・・、何 このまともな質問は・・・。

 

あわただしく東京に帰らねばならない国選弁護人、誰にともなくつぶやいた。「オレだったら命がなかった」。

 

この病院の神経内科の先生たちに、「まだ病名はつけられません」と言われていた病名もついた。「ウィルス性脳炎」。

寝たきりで、24時間点滴、それでも「回復が速いので足が弱らないよう、リハビリの先生に連絡とります」と、親切に患者の立場で対処してくれた。

 

午後、早速来てくれたリハビリ科の先生が「座れますか? そう、じゃ立って」と言った。立ち上がっても、ダダーと倒れなかった。

「かなりひどい患者さんと聞いていたのに・・・」と、明日から始めましようと言って、出て行かれた。

 

直接的には、犬の注射の日から急に真夏になり、熱中症になった。しかし、毎日4〜5時間パソコンに向かい、しかもその教室は、学習塾をやめたとき1階も2階も冷房設備を撤去してしまった。

パソコンが発する熱は相当熱いとは。知らなかった。その毎日の積み重ねが、この脳炎発病の土台にあったのだろう。

 

脳と脊髄の「ずい液」検査で、普通の人は細胞が5つくらい混じっているそうだ。夫は700個だった。それが、290個に減り今回の検査では129個になったと、医師はグラフで示しながら驚いていた。

 

「だから初めから脳腫瘍の疑い」で対処してきた。と初めて「脳腫瘍」ということばを使った説明だった。「でも、疑いです」。そして、「薬を飲みながらもう1度ずい液の検査をしましょう」と言ってくれた。

 

翌日、検査結果と医師の話を聞いた。

「6度目の検査は、ずい液の中の細胞が305に増えています。これで退院許可は出せません」。

やれやれ、129まで減ったから、次は2桁台で退院かなと考えたのは甘すぎた。世の中、そんなに甘くはないのだ。

 

いつまでも若いつもりでも、体力は確実に落ちている。昨年末、姉が逝ったとき「2人ともあと2年、姉の歳まではがんぱろう」と言い合ったのに。

 

3、3日に一回流したふろの湯・・・あの頃も

 

3日入ると流す風呂水。一人しか入らないのでさらさらで、勿体無いくらいだ。

思い返せば新婚時代、毎日毎日泊り込みの会議で帰らない夫だった。政党の専従活動家はそれが普通と割り切って結婚した。自分も仕事が終わると活動に飛び回る日々職場の仲間に「一人しか入らない風呂のお湯を毎日さらさらと流すの」と話した。

驚いた先輩は「風呂水は毎日流さなくてもいいのよ」と、注意してくれた。それからは、2〜3日に1回しか落とさなくなった。

 

世の中の革新を願い、信じた若い夫婦は泊り込みの会議が続こうが、子育ての保育園通いが負担だろうが、若さで乗り切ってきた。20代、30代、40代とよく踏ん張ってきたなぁ。

その組織への異見、くび、抵抗の裁判闘争・・・。

 

生活のため裁判を辞めて始めた学習塾は、21年間1日も休まなかった。2人の子どもも、自覚して親に協力した。

夫婦でインターネットにHPを開いたのは60歳から。その中でまとめた「シベリヤ抑留」や『大須事件』の出版、そういうささやかな事が、天から「お前はもう少し生きてがんばれ」と指示されたのかも知れない。

 

「共働き? それは貧乏だからする」信頼していた先輩エリート社員のことばにショックを受けながら、そういう軽蔑の眼があることをその頃初めて知った。

いまでこそ、女も働くが当たり前になったが、40年前に、朝7時前に子連れで出勤なんて、周りに誰もいなかった。保育園の仲間は、公務員か先生、或いは看護師さんだった。安定した公務員だったから出来たに過ぎない。

 

でも、貧乏だから共働きで、自分の力で働いて食べることの大変さと、素晴らしさを体験できた人生でよかったと思う。

夫と二人で「見るべきものは見たね」と言い合いながら、「唯一絶対なんてあり得ない」を確信し、いまがあまりにも恵まれ過ぎと、日頃言い合っていた。

 

朝から夕方までの検査で、心臓内科・内科の医師、更に脳神経科の医師も加わって、「おかしい」「何か変だ」と考えに考えてくれた。医師の一人は救急車に同乗までして、この病院に来てくれた。「何か変だ」がなかったら、命はなかった。3人は命の恩人だ。

 

退院して一週間が過ぎた。投薬の紹介状を持って近くの医院へ行くと、経過を聞いた医師に「運がよかったですね」とひと言われた。そのことばが重く響いた。

 

三途の川を渡り始めた脳、寝たきりで続く点滴、点滴、点滴・・・。1ヶ月経った。

検査に次ぐ検査、突然の「熱中症・ずい膜炎・脳腫瘍の疑い」騒ぎは、旅立ちの予行演習だったかも。

「歳だよ。無理は禁物を自覚せよ」と。

 

入院35日で、帰宅して眺めた百日紅が、いつもの年よりやや弱々しい。それでも、30度を超す暑さの中で、細かな葉の先っぽで、ピンクの花びらを震わせて踊っていた。

 

 

 

       おしまい化粧

 

姉の急逝

 

2歳年上の姉が死んだ。連絡があったのは、師走に入って6日が過ぎ、比較的暖かな日だった。夜中12時過ぎていた。

同居中の一人娘は、友人と二人パリ旅行中だった。

パリから何度家に電話をしても出ないからと、友人の母に家を見に行って貰ったら、訪れた住宅には鍵がかかっており、変だと警察に通報した。

 

警察官がパリの娘に連絡をとり、鍵の在り場所を聞いて中に入ったら、独り死んでいたと大騒ぎになった。

市内に住む妹が知らせを受けて車で駆けつけ、郊外に住む私が、妹と2人で夜中にタクシーをとばした。

玄関の扉は開け放たれ、警察官67人が事件性ありかなしか捜査中だった。

外で待たされたが、更に、医者が駆けつけ衣類を取り去り、検身した。

 

30分ほどして部屋に入るのを許されて、警察関係者から事件性はないと判断したとの報告を受けた。

そして4万円と領収書の入った財布を渡された。そのほかに通帳が1冊、妹が受け取り警官の指示で、夜中の銀行で記帳してくるよう言われた。早速出かけたが、夜中なので記帳が出来なかったと警察官に報告していた。

 

2人と共に、今度は医者から説明を受けた。

そして、「検身の結果、虚血性心疾患で、死亡は短時間」との書類を示された。

夜中の2時過ぎに、医者と警察関係者が帰った。

 

8年前夫を亡くした姉、喪主になる娘が急ぎパリから帰国したのは、12月も8日になっていた。

4姉妹の長女だった姉は、最近やや弱っていたが、長年病気知らずで社交的、しっかり者でどこでもリーダーだった。

3人の妹は、考えてもいなかった突然死に驚き、死体をどう扱ったらいいのか、いろいろ相談した。

 

その結果「近親者だけの家族葬」しかないと、葬儀社に連絡した。

夜中にも関わらず、駆けつけてくれた葬儀社の係員は、「当面死体を保管して喪主の帰りを待つ」と、遺体を布で被い棺に入れて運び出してくれた。

 

塾の教え子が湯かん

 

葬儀社の一室で、遺体を傍に、妹と姪と3人で待った。

若い男性と女性が、自然な表情で部屋に入って来た。白シャツにジーンズといういでたちだ。

 

畳一畳ほどの入れ物に、てきぱきと慣れた動作でホースでお湯を入れる。

汚れたお湯を流すためらしい数本のホースも、部屋の外に引っ張る。お湯を張った入れ物の上に、薄い台のような物を張り

「ご遺体の移動を一緒にお願いします」と言われ、3人は動かすのを手伝った。湯かんの始まりだなと思った。

 

再び男女2人だけの動作になった。

男性は頭の毛をお湯で流した後、しっかりシャンプーをつけて泡立てる。「あっ あんなに耳の傍までこすったら、耳に水が・・・」と思ったが、それは生きていての話。驚くほどしっかりと髪の毛を洗い、シャンプーの白い泡を流し始めた。

それから顔全体を洗った。二度ほどシャンプーを付けてから、洗い流した。

 

足元の方で女性が足を丹念に洗い、傷でもあったのか絆創膏でひとさし指を被い、その上に細めの包帯を巻いた。

男性が布で私たち3人の目が届かないようにし、女性が体全体にお湯をつけながら、丁寧に、全身をなぞるように洗い始めた。

 

暫くして男性の「お顔をもう一度拭いてあげて」の言葉に、私たちは一人ずつ順番に、洗ったばかりのきれいな顔を拭いた。

拭きながら、「よく頑張ったネ」と言うと、流石に涙が滲んだ。妹も同じことを言いながら丁寧に拭いた。

40歳の姪は、ポロポロ出た涙を拭いていた。

 

「どうぞ お口に水をあげてください」少しずつ口と、体にお水をかけた。

暫くして女性が、「お口の処置が少しきつくなりますので」と、布を張った向こう側で死体に向き合っていた。

15分か20分経っただろうか、「お化粧が済みました。こんな髪形でよいでしょうか?」と声がかかった。

 

おしろいと口紅を塗った顔は生きたまま眠っているようだった。「これでいいです」と言うと、女性は安心した表情になった。

映画「おくりびと」の世界だな。

 大きな入れ物からホースで汚れたお湯を流し、男性と女性力を合わせて手際よく片付けると、「失礼します」と帰ろうとした。

 

「とてもテキパキとやって頂いて・・・この仕事長くしておられます?」と思わず聞いた。

若々しく、笑顔が自然で悲しい心が慰められた。

「いえ、2、3年です」すると、駆けつけていた夫が「学習塾に通っていました?」と聞いた。

「はい、高進塾という塾でした・・・」。

 

「やっぱり、生徒さんだ。何歳になった?」「あのときの、塾の先生・・・40歳になりました」。

 真面目で優秀な生徒が多かった塾、遠くから通ってくれたたくさんの生徒たち。なんというめぐり合せ・・・・。

 

 政党の専従をくびになり、40歳で独り裁判に訴えて闘った。

42歳から20余年間、必死で取り組んだ学習塾。あのときの優等生が、毎日、死体と向き合う仕事に真剣に取り組んでいる。

葬儀社の人の話では、最近「湯かん」の仕事は希望者殺到とか。

結婚はしていると言う40歳のかつての教え子、それまでに、きっといろんな試練があったのだろう。

 

他力にて生かされる

 

通夜、葬儀には、忙しい現役世代なのに名古屋、京都や東京から、子や甥、姪が駆けつけてくれた。みんな30代から40代。

現役世代の中心になったなぁと、感慨深く眺める。

全部で10人が涙で別れた。耐えている悲しさに、次第に寂しさが覆いかぶさる。

 

「人のためには労を厭わず、老人会や地域の役員をこなした母でした。車で走り廻り『ブーブ、ブーブ』と言って甥や姪にも慕われていました・・・」ひとり残された娘は、喪主として、落ち着いて挨拶してくれ、それだけはホッとした。

 

この10年間に兄と弟が逝き、行動を共にすることが多かった4姉妹、いまでは珍しくもない共働きを40年前から共同保育で支えて、仕事と子育てを両立させた。4姉妹全員元気な70代だった。

少し前には考えられない長寿社会である。

とくに歳が近い自分は、明日の自分の姿だと、身が引き締まる。

 

真宗の僧侶の読経が始まる。

蓮如聖人が門徒に書いた手紙と言われる「お文」を一緒に読んでほしいと、冊子を渡された。妹は小声で読んでいた。

 

無宗教の者でも心に沁みる言葉を、読めない者は、読経を静かに聴く。

・・・他力にて生かされている。

・・・おおよそ、はかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり

・・・朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり

 

混沌とする現代社会で苦しみも多い。この世に生を受けた意味、

そうなのだ、「やるだけやったね」と言える喜びの生にしなければと、胸の奥で繰り返した。

 

 

 

       わらぶき屋根に咲く曼殊沙華

 

ばあちゃんは、まだひらすみ〔昼休み〕中、とうさんかあさんは、ひらすみがすんで、畑へ行った。

 

ニャコはまた障子登りしてるよ。高い所へ登るのが好きみたい。障子が破れるって、かあさんに叱られるのに・・・。家は入り口も障子、縁側の戸も障子だけど、大雨のときだけ、玄関の木の戸と、雨戸を閉めるよ。

 

屋根は藁ぶきで涼しい。藁が古くなるとみんなで助け合って取り替えるんだって。

今年はあんな高い屋根にも真っ赤な彼岸花が咲いた。

ばあちゃんは「天上に咲く花」とも言うよといったけど、やっぱり変だな。

 

 

ほら、庭のあちこちにいっぱい咲いてるでしょ。お彼岸になると必ず、忘れずに咲くマンジュシャゲだよ。土の中へそろそろ彼岸だよって誰かが知らせるのかな?

 

突然、「コッコッコー」と、鶏たちの大きな声がした。びっくりして裸足で庭へ飛び出したの。雄鶏が長くて太目のみみずか何か、好きな餌を見つけて口に入れるところだった。

 

雌鶏と仲良く庭を自由に歩き廻って、細かい餌ばかり探しているのに、大きな獲物に大喜びの声だったのね。鶏たちは元気に、よく庭で遊ぶけど小屋へ行くときは、大抵卵産んでる。

 産みたての卵は朝ご飯のとき、あったかご飯にかけて、卵ご飯にして食べるよ。大好き。

 

縁側はお客さんが来ると座ってしゃべる所。おてんとうさまに、豆など干すときもあるよ。庭にむしろを敷いて干すのは、大根切干しや蒸したさつまいも。腐らないし、おいしいおやつよ。

「あっ トンボだ」。そろそろ夏も終わるのかな。

 

いつもは大好きなばあちゃんと、近くの小川へよく行く。変電所から少し温かくて、とってもきれいな水が流れてくるの。朝は洗濯物を洗うけど、野菜洗ってる人もいるよ。野菜洗いは水がきれいな上の方、洗濯の人は下の方で洗うと決めてあるみたい。

 

ばあちゃんは、道で会う人には大きな声で「ごたいぎさまです」と、挨拶する。

夕方は「オシマイヤス」。よく聞こえる声で、挨拶しているよ。

 

私が一年生になって、学校へ行くようになったとき、横着な男の子が机の傍で悪さしたの。勉強の邪魔する子がいるって、家でばあちゃんに話したら、ばあちゃんに「人の悪口は言ってはいかん」ときつく言われちゃった。でも、ばあちゃん大好き。

 

あっ、とうさんたちが帰ってきた。リヤカーにいっぱい里芋と大根とねぎが積んである。夜になるとねぎの余分な所を取って、白い軸を揃えたり、里芋を大きい親と可愛い子どもに分けて揃えたりしてる。よなべって言うんだそうだ。

 

でも今夜はちょっと違うの。ばあちゃんが、ひらすみから起きて来ないの。夕方とうちゃんがお医者さん呼びに行ったりしてたけど、ばあちゃんひらすみのまんま、眠り続けてた。ちよっと心配だったけど、眠くなって寝てしまったの。

 

とうさんも、かあさんも寝ないでばあちゃんの側に付ききりだったそうだ。夜中にほんの少し目を開けたみたい。

そのとき、「オシマイヤス」って、丁寧にご挨拶したそうだ。

 

 ばあちゃん死んじゃったの

 

 

 

       月日が織り込む

 

 〔一〕、世の中 大変らしい

 

オレ、生まれて間もない頃、近くの駐車場に捨てられていたんだ。

それをみてご主人様の娘さんが、あんまり可愛いから抱いてやったら、絶対離れなくなった。

 

自分たちは結婚したばかりでマンション暮らしだから飼えない。そういってこの家に連れてきてくれたんだ。犬小屋も買ってね。もう一匹先輩がいるのに、二匹親子にして飼ってくれたんだ。先輩が死ぬまでは散歩は二匹一緒だった。あの頃が懐かしいよ。

 

冷たい雪混じりの雨が降る。

「ひまだなぁ、たいくつだなぁ」

郵便配達の人があっちの家こちらのマンションと、ポストに郵便物を素手で入れている。手袋はめては出来ない仕事だ。

 

 大事な手書きの手紙は減り、広告のような印刷物ばかり増えたそうだ。 今頃ポストへの郵便や新聞なんて流行らない?

 メール一発で、瞬時に相手に届く。ケータイで小説でも、ニユースでも読めてしまうから。時代は変わったらしい。

 

 でも、思わぬ人から手書きの手紙が届いたときの、胸が躍る喜びは例えようがないと言われる。

新聞もそう。配達の人は朝の暗いうちから、一軒一軒ポストに新聞を入れて、バイクで走る。

オレもまだ目覚めていないくらいの早い朝だ。

朝、顔を洗って一番に手にとる新聞から少しインクの匂いがするような紙面、トップ記事や、様々な形の文章は得がたいそうだ。

 

 先日も奥様が何かの集いで遅くなり、夜九時頃の電車に乗ったら、勤め帰りの若い人たち、数えたら十人が腰かけて八人がケータイに必死、二人が本を読んでいた。異常な光景だったという奥様、話を聞くご主人さまも驚いていたよ。

 

この頃は、車が二台も三台も玄関の前に並ぶ家もそんなに珍しくなくなった。車もケータイも持たないって、時代遅れも甚だしいって? いるんだよね。そういう人。

 

 うちのご主人様たち、車ない。ケータイない。急ぐときはタクシー呼べばいいと言っておられる。買い物は歩きか自転車がエコだし、体にもいいとか。まとめ買いで宅配便も届くし。

お陰で、朝はご主人様が、夕方は奥様が一緒に散歩を楽しんでくれるから有難いよ。

 

ここの家は朝五時半起きで、ご主人様は体操、奥さんは台所でご飯を炊き、味噌汁や何やら常備菜をいっぱい作ってから、テレビ体操、腹筋だ。現役時代から三十年以上続けておられる習慣らしい。

三十年前なんて、オレ未だ影も形もなかったよね。腕立て伏せは、ピアノ弾く腕の力が弱いからだそうだ。

 

朝のご主人さまは、体操が済むとやっと散歩に連れて行ってくれる。待ちに待った朝の散歩だ。三十分くらいして帰ると、暫く庭を歩き廻らせてくれ、それからスキンシップで体中を撫でてくれる。一番うれしい。

 

朝ごはんは八時半には終わる。一時間で二紙読む新聞タイムみたいだ。お二人がお好きなクラシック音楽のCDかけてゆったりタイムだな。オレも暫く寝るとするか。

 

九時半になると「じゃあね」と立ち上がり、ご主人様は以前やっていた学習塾の建物二階へ。インターネットに開いたHPの政治論文などに取り組む。午前二時間半、午後二時間が日課。

 

奥様はこのまま、こちらの建物の居間でピアノレッスン三十分。また同じあの曲だ。

奥様は「『パッフェルベルのカノン』は好きな曲だけど、連弾で相手と合わせるのが難しい」とか言いながら、熱心に弾かれるなぁ。あのメロディーが聞こえると、オレまで体を振って歩いてしまう。

 

特別上手とも思わないが、「三カ月に一回発表会があるから熱心に練習できるのよ」なんて、お友達に話していた。そうかもね。ずっと続けておられるのは、まあ、音楽が好きなんだな。

  

ピアノの音が止んだ。居間を覗くと、パソコンに向かって何やら打ち始めておられる。年寄りなのに、二台のバソコンがフル稼働、やり過ぎだめですよ。いつかのように、目が廻ってしまうからね。

ご主人様夫婦にとって、十年前から始めたインターネットでの幅広い交流や、文章の更新は勝手に創った仕事、ボランティアとも思うらしい。

 

奥様は夕方の散歩、いつも一緒に歩くと何か小声で歌いながらなので、自然と足が軽くなる。いまは「朝の挨拶」、イギリスのエルガーという人が作った有名な曲とかで、とても温かい幸せ気分になるんだ。

晴れた西の空に陽が沈むと、朱色かかったオレンジが目を見張らせる。遠くに雪を戴いた御在所岳が見える。連なる鈴鹿の山々も。

 

ぐるりと廻って東に向かう。空を見上げて歩くと、まんまるの月がそっと包むように見守っていてくれてびっくりさ。田舎道はいいな。

日暮れる頃、散歩から帰る。家に着くと、「ヒコちゃん、ヒコちゃんありがとね」と言って、首の辺りを撫でてくれる。ヒコはオレの名前だ。オレを拾ってくれた恩人が、ドラきち。ドラゴンズに、彦野という優秀な選手がいたらしい。

 

はじめの頃は、何に「ありがとうね」だろうと思ったが、散歩に付き合ってくれてありがとうということらしい。

それから座ってオレの手を取り、「お手、お代わり、お手、お代わり、握手。今晩は冷えるからよろしくね」。毎日握手して、オレが目をじっと奥様の目に合わせると、おやつを少しだけくれるんだ。

 

でも、家には入れてもらえない。昔から犬は外の犬小屋で寝るものだそうだ。風が強い冬の夜なんか、やっぱり寒いけどね。近頃オレのような雑種はあまりいないそうだ。そうそう雨降りに、服着せて貰って散歩する仲間もいるけど、毛皮着てるのに変だって。

 

朝、食事をくれるのはご主人さまだけど、ドツグフードは駄目。味噌汁に玄米ご飯。肉や魚はほんの少し、その代わり残りの魚の骨などたっぷりくれる。たまにはドッグフードも欲しいけれど、そんな食事はご主人様たちが旅行のときだけだ。

毎日、残さず食べきるからオレは骨太らしい。年一回の狂犬病予防注射で病院へ行くと、医者に「足が発達してますね」と言われる。

 

 〔二〕、絆って

 

先日、夫婦で映画「アバター」を観に行った。朝九時前には家を出たが、映画館は満員で、明日もその翌日も席が売り切れとか。何日も満席で席が取れないとなると、余計観たくなる。3Dの、飛び出してくる立体画像が迫力満点と評判の映画だ。夕方四時過ぎの時間だけ空席ありとかで、午後また出かけた。

 

満員の映画館の最前列、慣れるまでは見上げるような姿勢で窮屈だった。おまけに全員が3D用の眼鏡をかけねばならない。画面は確かに立体感溢れて、人や鳥などが飛び出してくるような錯覚を覚えるほどだった。

 

いまから150年後、地球からおよそ5光年の距離にある、惑星の「パンドラ」へ地球から鉱物資源を堀りに、近代兵器で攻めに行く話。

その星に住む原住民は、「空に浮かぶ山」や「魂の木」を大事にして暮らしている。恐らく以前歩いた屋久島の、縄文杉のような木なのだろう。大自然は生きものだ。

 

3Dの立体画像は、その大自然に荒々しく殴りこむ状況が迫力もって迫って来る。空飛ぶ大型恐竜や、歩く恐竜と近代兵器との凄まじい戦いは、何かを暗示していた。地球人が惑星の原住民の娘に訊くところは印象的だった。

 

「どうしてあの空飛ぶ恐竜を味方にするのか」と訊く地球人の男に、原住民の娘は「闘って、絆を結ぶ。そして味方にする」。

そういう会話をする二人は、やがて心を通わせ始める。

 

「SFって興味なかったけど、出かけ直しまでして観る価値はあったわね」というと、「そうだなぁ。SFは元々好きだし、一度は観たいと思っていた映画だったから新鮮だった」と答が来た。

 

絆と言えば、すぐ近くに三本足の犬がいた。近くを走る私鉄に轢かれて倒れていた犬を近くの人が見つけ、その犬を車に乗せて動物病院へ走ってくれた。

命は助かったが、足を一本切断した。三本足の不自由な犬を親身になって育てられ、散歩でよく会った。

 

「よく助けてやりましたね。やさしい心がなければ出来ないこと」と言うと、「必死でしたから・・・」と、ビッコひきながら歩く犬に視線をあてられた。

散歩もゆっくりしかできない。そんな行動が自分にできるだろうかと考えると、あらためてその人に尊敬の気持ちが沸いた。

絆ってこういうことかな?

 

近くで買い物もするが、動かないと胃腸の働きが悪い。電車賃を使って「名古屋は庭みたいなもの」と言いながら、よく歩く。買い物と運動と読書、コーヒー一杯分で一石三鳥にも四鳥にもなるというのが理屈である。

 

高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅前では、アフリカ、ヨーロッパとトヨタ車を広め、十年間ドイツの責任者を果たした義兄が、思いもしなかった病で逝ってしまったときは、まさにトヨタ全盛期だったなぁと、義兄を思う。

 

伏見のノツポビルを見上げると、職場の責任者として、技術者としてしっかり働いた一級建築士の男性、彼が設計した当時の活気が思い出される。その人も六十を待たずに急ぎあの世へ走り去った。

 

栄地域は職場があり、青春の思い出の場所でもある。久屋大通り公園の大きく伸び伸びと背を伸ばしたケヤキ並木に、青春を共に楽しんだ友人たちや、恋を語りあった懐かしい夕暮れどきを想う。

 

名古屋城近くの官庁街、三の丸地域も十五年間生活した場だった。友人と仲良く名古屋駅から自転車通勤した。

親しく語り合い、励まし合ったもう一人の友は、愛児二人を残して逝った。仕事と子育て、それに絵を描く力があったことが、体力的に無理だったのだろうか?

 

あのときの辛さが、整然とした並木道のおおらかさと共に胸に甦る。

鬼籍の人となった友人たちが懐かしいのは、歳のせいかも知れない。

 

先日も混み合う地下鉄の優先席の前に立った。すると若い子連れの母親が席を譲って くれた。有難くて、でも少々複雑な気分になった。

「貴女が若くないことは顔見れば分かりますよ」。ありがとう。ありがとう。

歳月は駆け足で走り去る。

 

あの阪神大震災だって今年で十五年が過ぎた。他人からみればもう十五年経った。だけれど、震災で肉親を失った友人にとっては、一日だって忘れることがない日々だったろう。

当時の友は未だ若かった。娘夫婦を亡くして自身もストレスで病気になり、それでも必死でがんと闘い、徹底した玄米生食で立ち直った。

招かれて自宅を訪れたとき、亡き娘の筆になる芸術的な書が掲げてあった。

 

土偶        西条八十

あまりこの娘を悪く言わないでくれ

この子は土偶なんだ

あの記憶の丘にうまれていたのだ

・・・・・・・・・

頭が悪いといって、不行儀だからといって

あまりこの娘を責めないでくれ

 

崩れた家屋の下から掘り出し、修正したものだというが、一緒に出てきた童話も優れた作品で評判になった。せめて本にと、当時出版された。゛

 

その友から、久しぶりに電話がかかった。

雑談の後で、「以前、『ピアノ演奏会では暗譜しなければならない』って聞いてから考えたの。

私も台所仕事にかなり時間がかかるから、壁に『源氏物語』の古語を書いて覚えることにしたの」と言った。驚いて聞き直したほどだ。

 

高校で源氏物語を教えてから、こだわり続けた源氏物語だった。

「震災で娘を亡くして、娘と一緒に読み合った『源氏物語』は、二度と読まないと思ったけど、古語が暗記できたら暗誦出来る。貴女の暗譜という言葉を聞いて、もう一度暗誦する気持ちになった」と言う。流石だと思った。

 

この友も老人資格を取り、老後の不安を話題にしてもおかしくないのに。いよいよとなるまで最善をということなのだろうな。この人らしいと思った。

 

自分も見習って続けよう。下手なピアノも、文章表現も。井上ひさしが目指したという「難しいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに」庶民の目線を忘れずに。

長年続けているインターネットのHPも・・・。らくしないむりしないで歩こう。

 

ピアノレッスンの後で遅い昼食を友たちと取る。その他、気心知り合った友たちと外食の機会も多い。夫婦での外食も週一回はする。

普段は朝晩の食事は妻、昼食は夫の当番と決めている。

「こんにゃくの煮もの、ハタハタ、それに漬物、酒の肴にぴったりだなって、藤沢周平の小説によく出てくるけど、ほんとだ」と、さらりと褒める。

 

夫の友人が退職後料理教室へ通い出し、料理の腕を上げていると言って、友人の刺激でやる気はあるようだ。

洗ってある野菜とか、水に戻してある椎茸とかを使って、要領がいいが・・・。

「揚げ物、上手になったね」と褒めると、「おれ、結構実験精神旺盛なんだ」と気をよくした答えが返ってくる。

同学年の友達夫婦は気が楽でいい。

 

ノーベル平和賞を貰ったケニアの女性マータイさんは、「『もったいない』は環境問題を考える上で、重要な概念だ」と、世界に紹介していたが、外食で、食べきれないほどのときは、捨てるのはもったいない。

 

友人がいつもビニール袋が鞄に入れてあるのに学んで、食事の残りを愛犬に持って帰るようになった。ほんと、コンビニや食堂の捨てる食事は、相当な量だそうだ。もったいないよね。

 

戦争で田舎へ疎開して、飢えていた子ども時代の経験が「もったいない」になるんだろうな。近頃は食事の残り専用の、入れ物も売れているようだけれど・・・。

 

わが家の犬はよく上を向く。上を向く犬って珍しいのではと思う。高い二階の屋根の樋にずらり並んで、食事を待つ30羽ほどの雀がいるからだろうか。

天気の日は空も明るく、気分も明るくなるから、つい上を見上げてしまうのだろうか?

 

散歩のとき、途中で会う犬によく吼えられるけど、全然何ともない顔して無視して歩く。

「犬は飼い主に似るっていうけれど、この犬私たちに似て性格的に、抜けたところがあるんじゃない?」夫と笑いながら言い合う。

救急車のサイレンの音だって大抵の犬は変な声出して嫌うのに、ヒコは平気だ。

 

ただ、一度だけ家出したことがある。庭で子どもたちが花火大会やっていたとき、きれいな花火はいいけれど、突然凄い音が出る花火があった。鎖を外されて庭をフラフラ歩いていたヒコは、びっくり仰天して家を跳び出したんだ。

 

二日後にふらりと帰った。思わず「ヒコが帰ってきたよ!」と二階へ叫んだ。それからおやつを沢山やった。暫くしてから、ヒコの手をとって握手しながら言った。

 

「苦しいときは逃げたら駄目。誰にでも苦しいときはあるの。私たちにも試練の日々はあったけれど、踏みとどまった。耐えた後にほんの少しずつ明るい光が見えてきて、いまの自由と安らぎが勝ち取れたのよ」。

最後の方は、ほとんど独り言みたいにつぶやいていた。

 

あの事件以後、ヒコはこの家にしっかり落ち着いた感じだ。

近頃は田んぼも冬枯れで、餌がないのかムク鳥のような、やや大きな鳥も五羽六羽と並んで待つようになった。雀は大体30羽、鳩は2羽が常連だ。それに水もヒコの残りがあるし。

 

食事が始まると、一斉に庭に飛び降りてくる。誰かが「おーい、ヒコランチだぞー」と叫ぶんだろうか?

庭のネコヤナギの低木や、高いキンモクセイの木がざわついたと思うと、そこにもいる。ヒコの残りをみんなで、1時間も2時間もかけてつついている。

 

雀たちはみんな太目だ。

テレビで観た雪の北海道でアカゲラが、雪景色の中で、尻尾を赤い色で美しく飾りながら、太い木の幹をつついて、なかの貴重な虫を食べていた。雀たちのように、楽をして餌が食べられないから、メタボにはならないよね。

でも、ここ50年間で雀が十分の一に減ったそうだ。木の家が減ったり、田んぼの落ちモミがなくなったりが原因だそうだけど・・・。

 

〔三〕、生き物は元気、でも おしまいがある

 

少し前、すぐ近くの家の色黒の仲間が、よろよろと歩いていたけど、もう死んでしまったそうだ。その家の人は「犬も人間も同じ」と奥様と立ち話してみえたけど、角の家の白い大型犬も死んだし、道路の向こうの茶色い仲間も死んだ。

 

オレの親みたいだったこの家の先輩犬も、ある日突然、真っ赤な血を吐いて死んだ。

ご主人様は「毒になる何かを食べたのかも知れない。休日で病院は休みだったから翌朝連れて行こうと思って様子を見ていた」。あのとき、そう言われていた。

 

命は、みんな終わるんだな

近頃若いパパがよく子どもを遊んでやっている。「イクメンパパ」つていうそうだけど、ご主人様の話では、この家は40年前から、共働きのイクメンパパだそうだ。

 

親が仕事と無理な活動で、子どもたちに我慢や苦労ばかりさせたから、大人になったいまは、何でも頼まれたら、「はいはい」と最優先で都合しているって。

親子の絆ってとこかな?

 

イクメンパパが土曜日曜に公園で、子どもと大声で笑い遊んでいると安心だ。

この頃は厳しい話題が多いし、遅くまで働く現役世代だからなぁ。

でも、いまは厳しく暗くても、先に光を感じられる世の中になって欲しい。ご主人様たちがいろいろ言われるから、オレもそう思う。

 

正月元旦、珍しく雪が降った。小屋の周りに10センチほど積もった。

あっ、来た! ご主人様の家に、京都から、名古屋から10人全員集合だ。

 

命の恩人もいる。忘れるはずないよ。匂いで分かるよ。オレを拾ってくれてから、生まれたという女の子は10歳になったそうだ。

4人の子達は大はしゃぎ、家にも入らずいきなり「雪合戦だ!」「かまくら作ろう!」暫くすると、大人も子ども入り乱れて、雪合戦だ!

オレも嬉しくて、楽しくて、大声で「雪がっせんだ!」と吼え続けた。

 

 

 

       新しい年、庶民の目線で−年金保険課の窓口にて

 

 近頃珍しく、一面銀世界の正月だった。孫たちは大喜びで、雪合戦や「かまくら」で遊んだ。

 

 娘が食事の時、昨年末仕事納めの日に、区役所から2人表彰されたと言って、みんなに賞状を見せた。

 

 賞状には「親身な応対は職場内外で定評があり・・・」とあり、本人も親も嬉しい。しかし現場は大変で、以前から「職場の話題はいや」と疲れた表情だった。

 そのことと、表彰とが結びつかなかった。職場とは年金保険課である。

 

 窓口では保険料が払えない人との対応も多い。

 保険料が払えなければ、資格証明書になって医療費は10割負担になる。

 

 無職か非正規雇用の人が多い。4年間に健康保険証のない41人死亡という実態もある。

 

 問題は、いい家もあり、高級車があるのに保険料を払わないケース等、実際に区内の集金に歩く婦人たちから聞く。

 

 本当の困窮者なら払えない。話の中身で神経を使いながら真の現状を掴む。

 暴力団がらみで怒鳴られたり、苦労しながら話し合いで保険料を払って貰う。

 

 娘はずるい人には、直接「差し押さえしますよ」と毅然とした電話をすることもあるという。

 その対応で「大助かり」と、集金の婦人たちは喜んでいるとか。

 

 年収200万円以下の貧困層が1000万人以上、

 貧困率14、9%は世界4位、格差が広がる日本、

 

 市役所の窓口現場は、いろいろな難問が増え、残業や休日出勤などもあり、苦労も多いと思う。

 でも2人の子が小学生になり、夫と協力して頑張ると信頼はしている。

 

 新しい年が始まった。

 庶民の目線で人が信じ合える年にしたいと願う。

2010年1月

 

 

 

       裸足で走る

 

 11月らしく空気がひんやりした朝、孫の運動会に行った。先生も子どもも裸足で、冷たそうな運動場を歩いていたのには驚いた。

 若い父親の数が多かったことも、自分の子育ての時代との違いだった。


 乳児組も、3、4歳児組も、それぞれにいい競技や遊戯を見せてくれたが、

 圧巻は来年小学生になる年長組の徒競走だった。

 

 はじめ、2つのクラスが4組に分かれてリレーで競った後、最後にクラス対抗で2人ずつが、

 アンカーまで必死にバトンを渡して走り切った。

 

 スタートで、男の保育士が合図のピストルを撃つが、意気合わずやり直し、

 2度目もチグハグのまま走ってしまい、スタートから仕切り直した。

 

 フライング続きをそのままにしないで、真剣にやり直させた先生の「来年からは小学生だよ!」「しっかりルールを守れ!」の心が伝わった、

 真摯な態度だった。


 両親が働いて、幼い頃から保育園で集団生活をする。わが家の二人の子たちもそうだった。

 一人で生きていく力をどうつけるか。これこそ、集団保育が目指すことだと思う。

 

 40年前、いまほど正規に働く母親が多くなかった時代、親と保母さんが保育内容について、働く時間と保育時間の差、保育の中身で何度も話し合いを重ねた。

 長時間保育を。どろんこ遊びを。本の読み聞かせをと。

 

 比較的恵まれた公務員でも、産後休暇は42日、産後43日目からの出勤だった。
 父母の会役員として、何度も市役所と交渉した。当時の必死の記憶が甦った。

 

 10日ほど前、インフルエンザで、園から休園決定を受けたとき親たちは「困った、4日も休めない」と仲間で相談し合った。親たちはパニックで、わが家にも「4日間頼めないか」と娘から電話があった。

 

 親10数人の訴えに応え、園は特別保育をしてくれた。トイレ以外一歩も外に出ない約束で。

 

 さあ運動会最後の徒競走だ。まだ幼ない顔を引き締め、裸足で必死に走る子どもたち。

 感動して涙ぐんでいた親や祖父、祖母が何人もいた。

 

 特別保育の日に、部屋に閉じこもってみんなで作った大きな鰐が、運動場に横たわっていた。

 

 

 

       花笑み

 

わが家に、毎日花は欠かせない。仏壇が二つあるから。

1階の仏壇は夫の両親や、最近旅立った義兄の写真が飾ってある。2階の仏壇には私の親族の写真が、毎朝の挨拶を待っている。ご飯を供え、季節の花を飾る。

 

手を合わせながら、故人と話をする。苦労の人生でしたね。とか、お二人ともいい人生でよかったですね。とか、ありがとうございます。もう少し頑張ります。などと、毎朝の儀式は、自分の心の整理でもある。

 

一度はお花の生け方を習った人が多い。それがマナーのようなものだった。

関心がなかった自分は、一度もお茶、お花に縁なしだった。それが、いまこんな状態になるとは・・・。だから人生は面白い。

仏壇に供えた後は、床の間、玄関、居間に、大小10近い花瓶で生けまくる。トロンと間の抜けた犬の顔、そんな花瓶もある。

 

先日も、開き過ぎたバラたちの顔を見ながら、盛りはすぎたが捨てるには惜しい。10個ほど茎から切り離し、ガラスの鉢に水を入れて浮かべてみた。色とりどりの花たちの美しかったこと。花が歳とっても、まだ輝ける方法はあった。

 

夫は、難しい政治問題ばかり研究しているが、若いときからの花好きである。花咲おじさんが夢中になって、60株ほどのバラが咲き競った頃があった。20年も経つと病気や虫にやられる。失敗も多い。この春、消毒を怠けたらさび病にかかり、真紅は勿論、うす紫や濃いピンク、鮮やかな黄色のバラたちが、20株ほど枯れてしまい散々の大失敗だった。

 

ご近所に貰って頂く余裕なし。

でしょう? 怠けてはだめなの。私切る人、貴方咲かせる人だからね。

 

春先に咲く、水仙や濃いオレンジ色のニッコウキスゲは春が来た喜びを感じさせる。こうべをたれて、ひっそりと咲くクリスマスローズは、結構好きな人が多い。

 

スカシユリやリコリス〔彼岸花〕も色が豊富になった。夏が近く気温が高くなると黄、白、紅色のグラジオラスや、大きな葉に囲まれて赤と黄色のカンナが堂々と咲く

花火が夜空に輝くようなアガパンサスも力強くなり、季節の移ろいを感じさせてくれる。

 

夏はこれからなのに、紫と白のキキョウが元気に咲く。そんな中で、ぼんぼんダリアはとても小さい花だが、幾重にも重なるひだ、繊細な芸術的折り紙のような花弁だ。それを眺めて、感動に似た気持ちになる。

 

蕾がほころび初めるのを「花笑み」と言うそうだ。

花切りおばさんは、そんな花を大胆に切ってくる。アガパンサスだけは、太い茎に3センチ位の可愛い花を30個ほど咲かせるのに、蕾で切ったのはまるで花が開かなかった。失敗だった。

 

わが家は、毎日花が要る。だから花咲おじさんが必要なの。そしてユニークに花を飾りまくる小母さんがいないと、折角咲かせても困るでしょ? 私切る人、貴方咲かせる人ね。

 

花は開き切った花より、何といっても「花笑み」、人の美しさも同じ。

歳を取り、持ち時間が少なくなったいま、せめて、見た目や外観だけでないものを求め続けたい。

 

 

 

       親も子も0点答案

 

 10年ひと昔というが、その言い方なら50年前は5つ昔になる。

 

 三重県鈴鹿に、広大な敷地の技術研修施設があった。当時の電気通信省が急速な技術発展のための幹部養成で、全国から選抜した人を研修した。

 

 人数はおよそ千人、その中に女子が数十人選ばれて、半年から1年間寮生活をした。

 1959年といえば60年安保の前の年で、当時、極端な合理化に反対する運動など、現在では考えられないほど労働組合運動も活発だった。

 

 入園式のその日、目立つ少数の女子の中でマークされ、思いもしなかった組合婦人部に指名されてしまった。そこに起きたのが津電報局の3人の首切りだった。真面目な活動家らしい。

 

 その日は、教室でのテスト日だった。組合から、津へ応援の動員に婦人部も行ってくれという指令、みんな真面目に勉強して将来の幹部になる人たちばかりだから、それにテストもさぼってなんて、誰も考えもしなかった。

 

 しらけた雰囲気に、依頼する者が段々惨めになってきた。任された責任者として、時間は迫るし、焦った。

 結果、「じゃ、私が行きます。白紙答案出して」と、教官の立場も考えずさっさと退室した。

 

 若さいっぱいの頃の、苦い思い出のひとつである。

 そんな親があり、そして子がある。

 

 長男が高校生だった当時、愛知県では公立高校が実力派高校だった。

 有数の進学校で自由な校風を楽しんでいた長男は、英語の指導の仕方にクラスのみんなが不満を言い合っていたという。

 

 先生の授業を改めて貰うために、みんなで「英語のテストは、白紙で出そう」と話し合っていた。

 

 テスト当日、ぶつぶつ言っていた人も、有名大学進学を考えている生徒ばかりで、流石に白紙答案を出す勇気はなかった。

 そんな中、わが長男だけは考えた。

 

 全問正解の答案を、一問ずつ、ずらして答を書き込めば、零点になる。理解はしているんだぞ。先生の教え方にみんな不満だ、そんなアッピールにもなる。馬鹿正直に実行したそうだ。

 

 それから30年近く経ち、進んだ大学も卒業できた。高校も大学も自由な校風で有名だ。

 それだけに、責任もあるという貴重な体験が出来た。


 人の子の親にもなった。親の生活の、苦労のしわ寄せだけでなく、自身が人並みに生きていく楽しみも、苦労も味わった。

 息子のこんな体験を知ったのは、ごく最近のことだ。

 

 この親にして、この子ありか。

 

 さて、50年前の白紙答案当時の仲間は? まだ貧しかった日本で、真っ盛りの青春を謳歌した若き女性たち。

 

 先日、その友の一人ががんの疑いで7時間半の大手術をした。それをこのHPに載せ、コピーをみんなに送ったら、次々と電話がかかり、便りが届いた。

 

 「いまが、ほんとに幸せ、毎日感謝しているのよ」。このことば、連れ合いを亡くしたのに。もう一人は離婚して苦労したのに・・・。ウンウンと共感し合った。

 

 独身でキャリアウーマンを通した人も、結婚して孫との生活を楽しんでいる人も、

 連れ合いがガン闘病中の人も、或いは、死別や離婚で独り暮らす人も、みんな前向きに生きていた。

 

 老人施設や障害者ボランティアに燃える人、書や絵などの芸術への挑戦でハイレベルの賞獲得者などなど、

 中には「体調のいいときに近くの草とりをするの」という善意派まで、こんな友たちがいる喜び。

 

 「自分たちの時代はもう終わった」と自覚しながら、なお、「陰で世の中の土台を支えねば」と、若々しく全国に生きている。

 これこそ心の宝、心の支えだと明るい気持ちになってきた。 09年3月25日

 

 

 

       さあ新しい年のスタートだ

 

 大晦日の夜、伊勢志摩半島で、冷たく澄んだ夜空を仰いだ。

 三日月は細く光り、星々は宝石のような光を放って輝いていた。

 あっちにひとつ、こちらにふたつ、都心では考えられない冴え冴えとした美しい星空だった。

 

 京都に住む長男一家4人、愛知県に住む長女一家4人、それに私たち夫婦、全員集合した。

 おせちの心配も、寝具の準備も要らないから、どこかで宿を取って新年を迎えようと、子どもたちが早くから計画した。

 

 ホテルは、元「簡保の宿」で、温泉もあり中々充実した設備である。驚いたのは私たちのような家族で満員だったこと。

 夕食はバイキング、自由に好きな食べ物を席に運んだ。伊勢の海特産の魚の刺身や、ステーキと野菜、果物や飲み物、和風洋風何でもありで、ついお皿に取りすぎてしまう。


 目の前で食欲旺盛な男の子、10歳が食べる。それを眺めながら、ゆったり食事をする。頭の中は、30年前の光景に入れ替わっていた。

 

 その子の親である長男は、いま40歳を少し過ぎた。当時5年生の長男の面接に行った。

 担任の先生は「グラフ見てください。忘れ物ナンバーワンです。今学期成績は下がりますよ」。なるほど、ダントツに高い棒だった。

 

 母親の私は、それでもあまりショックに感じなかったのは何故だろう。仕事と活動で大忙しだったから?

 夜寝るときの、本の読み聞かせだけは、何があっても続けたが・・・。忘れ物したら自分が困る。そうしたら、自分で忘れ物しないようになっていくだろう。大雑把な親だった。息子を信じていたといえば言える。

 

 そうしてがたがた下がった5年の成績表。

 6年生になって、親が学習塾を始めたら、俄然、勉強に集中し始め、当然忘れ物もなくなった。

 

 ところが、京都の10歳の孫が、またまた忘れ物が極端に多く、先生からの注意は頻繁で、母親は自分が働いているからかと、悩み叱り続け、それでも直らないのであきれ果て、先生に謝り続けたという。

 

 その孫が何を思ったのか、5、6年で構成する生徒会の本部役員に立候補して、当選した。

 あれほど悩んだ忘れ物問題も解決し、ときに算数の難問に正解する。と、先生が驚いていたとか。

 

 そうなのよ。親がヤキモキ、イライラしても本人の自覚しかないんです。

 

 30年前は珍しかった夫婦共働きのわが家は、近所でもホッタラカシで有名だった。近くに住む現職教師が「夫婦のどっちかが、おりゃーしゃええ」と、あまりのほったらかしに、気を揉ませたほどだ。

 

 お蔭様で、希望した、授業料が安い国立大学に進学できました。 

 

 大晦日の夜の食卓は、かつてのように「年越しそば」だけではなくなってきている。みんな賑やかに、家族の会話を弾ませながら、愉しく食していた。


 長女は、名古屋市の区役所、国民健康保険課の窓口で、日々いろんな市民と接している。

 

 保険料が払えない人が窓口に来る。本当に払えない人は何とかしないといけない。

 が、10人ほどいる集金に廻る嘱託小母さんの話では、結構高級車に乗っていて、保険料滞納の人もいるとか。

 

 帰ってから子どもの前でブツブツ言う。すると2年生の女の子が「お母さん、好きで公務員になったんでないの?」ぽつりと言う。

 みんなが笑顔になる。

 

 その2年生が言う。「今日元旦に帰ると、お正月は2日3日だけになってしまう」。

 すると、親が「帰っても、まだ2日も3日も正月だよ。前向きに考えなきゃ・・・」。

 

 明けて元旦も風冷たく、晴れ。鳥羽水族館へ寄り、やや規模は小さいながら、充実した海の生き物たちと出会い、楽しんだ。

 

 歩きながら、長男が「昔、元旦は、おせち料理食べて、かるた取りやトランプで遊び、みんな家から出なかったのにナ。こんなに出歩く人ばかりだと、働く人が大変だなと思ってしまう」と言う。

 やさしくなったなぁ。そう思いながら頷く。

 

 仕事と子育ての両立に必死の長女は前向きだ。

 あなたたち、現役世代は厳しい世の中だよね。

 

 でも、いいことは、たっぷり時間があるということ。

 私たち親のときまでに30年間あるよ。命育てを愉しみなさい。

 

 まだまだひと山も、ふた山も、苦労があると思うよ。

 あとから考えると、苦労は若いうちほどするといい。

 

 無駄にはならないよ。苦労が活きるよ。

 人は信頼できる。

 

 老人は、残り時間が少ない。だから貴重な時間なのよ。

 

 さあ、新しい年のスタートだよ。

(2009年元旦)

 

 

 

       ドキドキ新幹線

 

京都の孫が10歳と6歳になった。二人だけで名古屋に来るという。

春休みで混雑する新幹線ホームまで夫婦で迎えに行った。何事もなく、無事に着きますように。祈るような気持ちだった。

 

近頃「誰でもいいから殺したかった」という不穏な事件が多発しており、冒険だった。でも、以前なら10歳になれば、これ位の体験はさせたように思う。

京都駅で送り出した母親が、そのままホームで携帯電話の「着いた」を待つ。

 

こだま到着、次々乗客が降りる。「あっ、いた!」。

背丈が大人の半分くらいの子どもが二人、大きなリュックを背負ってゆっくり降りて来た。ヤレヤレ。無事でよかった。

「よく来たね。どんな気持ち?

「早く名古屋に着かないかなぁと思い続けた」と言う兄。妹は「ちょっと寂しかった」と言った。

 

約束通り、兄がホームから携帯で母親に「いま着いた」と報告した。

母親はおよそ1時間、ドキドキしながら待ったという。無事に着いて、親は本当に安堵しただろう。

 

10年前、同じこのホームに、長男が初孫を見せようと、生後数カ月の子を抱いて降りた光景が浮かんだ。その赤子が、こうして子どもだけで新幹線で名古屋に来た。10,年という歳月、命の成長に、心の中でひとり感動していた。

 

それにしても、この10年、世の中がなんと不穏になったこと。子どもだけの新幹線なんて、親の顔が見たいという人がいても不思議でない。

しかし、ある統計を読んで意外だった。

 

警察庁の犯罪統計では、昨年の殺人認知件数は1199件、これまでの最低記録だった1991年の1215件を下回って、戦後最低記録を更新したという。〔中日新聞〕

ピーク時である1954年のほぼ3分の1である。

 

でも、メディアはそれを報じないから、みんな凶悪事件は増えている。

そう思っているのではないか? 少なくとも、自分はそうだった。

 

不安や恐怖で「空気に抗わないようにしよう」。

日教組の大会にホテルが会場提供を断り、映画「靖国」の上映中止騒ぎなどなど、そして、子どもに必要な社会体験も出来ないでは何かおかしい。

リスク過敏症で、あとになって、あのときが大きな曲がり角だったでは、もう遅い。

 

いつも2人で静かな夕食なのに、2人の孫で賑やかになり、みんなでヘタ取りした「つくしの卵とじ」が大人気、大人の分まで食べられてしまった。

                               〔08・4〕

 

 

 

       雛がない

 

 義母から、保険が満期になったから、何か要るものはないかの問いかけがあった。つましい教員年金生活の義父母が、毎月わずかながら夫名義の保険をかけていてくれたのだ。

 

 子どもたち全員が奨学金を受け、苦労して大学を卒業した。兄弟たちがましな企業に就職したなかで、唯一、政党の専従活動家の道を選択したのは、三男坊のわが夫だった。
 親は「折角いい大学を出て好いところに就職したのに…。職場を辞めるなんて許せない。勘当だ! 」といいながら、病気になるほど心配し続けた。

 そして、保険までかけてくれていた。親は有難いものである。

 

 即座に「雛人形が欲しい」と答えた。いまから30年前の話である。

 「ひな?  もっと他にないの?

 

 働きながら、流産の体験もしながら、やっと生まれた女の子だった。

 6年前長男誕生のときは、日本全体が貧乏な時代だったが、それから次第に高度成長期になりつつあった。でも政党の専従活動家は、雛人形なんて考えも及ばない生活だった。

 

 「ビアノも欲しいけど…。雛人形かピアノかで迷っている」と言った。

 「ピアノならいいよ」。と言う義母のことばにほっとした。

 

 保険の満期金は15万円だった。それを頭金にして、50 万円のピアノを買う。月々3500円ほどのローンが始まった。

 あの義母の申し出がなければ、我が家のピアノは存在しなった。


 こんな古い話を持ち出したのは、戦後短編小説再発見、「漂流する家族」のなかに、幸田文著「ひな」を見つけ、興味深く読んだから。そこには次のような情景が書かれていた。

 

 「無理して雛人形を買い、親たちを招いて披露した。別の日に父から呼ばれ、質問や意見をされる。

 『人形を買うのも一存でやったのか』『ええ』『主人は何ともいわなかったか』予算は大超過で、返事はできない。

 

 『子どものためというが、あれだけ尽くして子どもの何になったのか。親がああ無考えに、遮に無な使い果たし方をして、子どものさきゆきに怖れというものを感じないでいられるのか』

 

 『あれは子どもに分不相応で、私から見ればおまえが子どもの福分をうすくしたようにさえ考えられる。』

 浪費といいたいところを、福を使い果たすと言う父のことばは無遠慮にずかずかと痛いところを踏んで来るような圧力があった。

 

 中略

 その後78年して離婚した。父の家に帰ったら離婚した夫から、中味のがらんどうになった箪笥と一緒に雛道具一式が送り返された。その後、空襲で東京はごった返し、雛を飾る世ではなかった。

 …下町は焼けた爛れた焼野に変貌した。地方へ疎開することになり、置いておいた雛人形は、それきりなくなってしまった。

 

 

 離婚はともかく、焼け出され、疎開した戦争の辛酸、子ども時代の体験をこの文章に重ねて回想し、力まない筆で振り返らせ、考えさせる幸田文の力を流石と読んだ。

 

 成人した私の娘はよく言った。「誰々ちゃんが3月になると、おひなさまを飾って貰える。いつも羨ましかった」と。

 

 娘が生まれて78年後、専従活動と縁が切れ、学習塾で経済的に立ち直り始めた。だから、子どもたちも大学まで卒業できた。

 でも、あの当時は、連れ合いが政党をくびになり、貧乏のどん底で、雛なしでも仕方なかったし、それでよかったと思う。

 

 いま、玄関には友人がくれた藍染の雛の力作が、額に入れて飾ってある。

 

 ふつうなら買えないピアノがあって。小さな頃からピアノに親しめたし、音楽を楽しみながら、やろうと思えば、ばあちゃん、母、子そして、従妹たちと、ささやかな「ピアノ弾く会」だって開けるではないか。

 

 何より、我慢することが日常で、その分、喜びも大きいことを覚え…。

 

 親として至らなかったとも思うが、女も連れ合い共々、働くことを当然と考えて子を持っても働き続ける。

 そんな意欲のある人間に育ったんだから。

 

                      〔20083

 

 

 

       京都コンサートホールで、孫と弾いた

 

 何回京都に来ても、方角や道順が飲み込めない。

 そんな私でも、比叡山が近く、その山に向かって走るのは北区であることはわかる。

 そこに京都コンサートホールがある。

 

 このコンサートホールは、モダンな造りで、階段室が広いスロープになつており、その壁面にこのホールで演奏した音楽家の写真が、ズラリと貼ってあった。

 外国の著名な演奏家の数々、日本人では指揮者の故岩城宏行や外山雄三、少し前聴いたばかりのピアニスト仲道郁代などが目に入った。

 

 分不相応にも、そこでピアノ演奏をした。

 孫との連弾、孫は6歳でピアノを習い始めて間がなかったので、一人では負担が重いのではと心配が発端だったようだ。

 近ごろ、ピアノが弾ける人が多くなったので、母親との連弾は珍しくないとか。

 おばあちゃんとの連弾はどうでしょう。先生や長男夫婦の味な計らいでもあったような気がする。

 

 それは珍しいとおだてられ、乗ってしまった。そこが、気のいいでしゃばりなところ「なにも、名古屋からむりして出なくても・・・」と、半ば反省した。

 息子のやさしいことば、「お母さんは、こういうことを楽しむためにピアノやってるんでしょ?」

 「うんうん、そうです。そうだった」。

 

 孫が開会の挨拶、「ようこそおいでくださいました。一生懸命演奏しますから・・・」と、暗記したことばを舞台の上でも落ち着いて言えた。

 

 ソロ演奏のトップは5歳の女の子、「ミッキーマウスマーチ」小さな指が鍵盤に届かないほど。

 

 次は私たちの出番だった。

 暗譜という手もあったが、連弾は二人の曲が合うことが必須なので、楽譜を見て弾くことになった。

 名古屋と京都と離れていて、一緒に弾けたのは先生のお宅へ行ったときと、当日早朝に長男宅へ寄ったときだけで、やや不安はあった。

 

 過日、著名なピアニスト館野泉の演奏会に行ったとき、彼は少し足を引きずりながらピアノの前まで行った。

 病気で左手しか動かなくなったこのピアニストは、ショックから立ち直り、左手だけの演奏で人をひき付けている。

 椅子に座ると、ポケットから老眼鏡を出してかける。その光景を見て、私もそうしようと決めた。

 

 ピアノの椅子にかけたら、手に持った老眼鏡をかけよう。おばあちゃんらしくしなくっちゃ。

 そして、落ち着いて楽譜を開き、孫の「1、2の3」のことばを合図に弾き始める。間違いなく2人のピアノが合い、無事弾き終えたら、孫の頭をなぜてやろう。

 

 大舞台で上がってしまったらそれは出来ないだろう。椅子にかけてから、館野泉のように老眼鏡をかける。見事に二人のピアノが合ったら、心をこめて孫の頭をなぜてやる。自分の頭の中でシナリオを描いて大舞台に上がった。

 

 演奏は無事終了した。孫の頭もなぜることができ、場内から小さな笑い声が流れた。

 

 出演者はおよそ50人、男子高校生がシユーベルトの「ピアノソナタ16番」を弾いた。その演奏は、中高年ピアノ教室での音大名誉教授の弾く音に似ている。響きが違う。

 

 この子はプロの道を目指すのだろうか? それとも、趣味で楽しんで弾き続けるのだろうか?

 シヨパンの「夜想曲嬰ハ単調」や「華麗なる大円舞曲」を弾く女子中学生などなど、素晴らしい演奏が続いた。

 

 母子の連弾も4組ほどあり、酷暑真っ盛りの8月、京都コンサートホールでの大演奏会は終わった。

 

 企画された先生方、年寄りを出してやろうと、親思いの息子夫婦、初めてのピアノ演奏に落ち着いて弾いた孫、

 みんな、みんな、ありがとう!

 

 さて、わが孫との連弾、曲目は・・・「チューリップ」と、ボヘミア民謡「ブンブンブン」でした。

 

                       〔07・8・12〕

 

 

 

       お兄ちゃんは わるくない

 

 駅などで楽しそうな親子連れに会うと、ああ夏休みだなと何となくホッとする。

 しかし、現実は楽しいばかりではない。京都の長男の子が1年生になった夏休み、共働きで長い休みをどうしようは深刻な問題だ。下の子は保育園だから、上の子を取り敢えず2週間預かった。2年生も3年生の夏も。

 そうして今年の夏休み、4年生になった子が1週間わが家で暮らした。

 

 夫婦の朝の新聞タイムは、約1時間である。音楽を聴きながら、同じテーブルで4年生も宿題、自由研究の時間になる。好きな物語の本なら1冊読んでしまう。

 宿題の工作の材料を買いに出る日、恐竜展に行く日、映画に出かける日、プールの日など計画でいっぱいになる。

 

 今日はトンボ池でザリガニを獲る日である。

 赤茶色の皮をしたえびに、大きな鋏をつけたようなザリガニ、そのザリガニ釣りが、このトンボ池〔生態園〕の一番人気である。ほんの少し、するめを釣り糸の先につけて池に垂れる。「ザリガニが釣れた!」家族連れの歓声が響く。

 

 十家族ほどが、蓮の池や、小さな橋を渡った奥の、葦が生い茂った池でザリガニ釣りを楽しむ。木も草もぐんと伸びる夏だ。とりわけ暑いこの夏は、クマゼミがシャァシャァと喧しく鳴く。蝉も面白いほど獲れる。どの家族連れも、パパとじいちやんが必死で、表情は子どもに返ったようで天真爛漫だった。

 そろそろ昼ご飯で帰ろうかと言う頃、4年生が木に止まったくクワガタを捕らえた。大収穫に、笑顔が爆発しそうだった。

 

 明日は可愛い妹を連れて、パパが迎えに来てくれる。みんなでプールへ行こう。夜は野球大会をやろう。

 と言っても投球マシンでピンポン玉のような玉をバットで打つのだ。パパが4年生のとき、夢中になったやつ。これが中々思うように打てなくて、大人でも空振りが多い。ヒットが多い人には賞品を出そう。4年生は楽しいプランをいろいろ考えた。

 自分の小遣いで鉛筆、ケシゴムなど買い整えて、工夫して打順、点数表など図にしていた。

 

 本番になった夜、6歳の妹は打率が少し低い。お兄ちゃんに負けたくなくて「1番にならなかったら、変な賞品だ」とぐずる。

 「だから、残念賞も用意したよ」と兄はいろいろ言っても聞かず、久しぶりに会ったのに、いつものようにケンカになった。

 「あーぁ、楽しみに準備したのに、あんなこと言わはる」と、兄は落ち込む。パパは「わがままはいかん」と妹の頬をピシヤッとやった。それでも泣き続ける。2人ともやさしい子なのに、なんでこうなるの?

 

 そのときだった。「兄ちゃんは悪くない!」じいちゃんが大声で怒鳴った。2度も3度も。

 

 昼間、プールで4年生は25メートルを20往復もできた。パパも泳いだ。じいちゃんはずっと6歳の子を指導した。その大好きなじいちゃんが怒鳴ったので、さすがの6歳も泣き止んだ。

 

 野球大会は中止になった。夜9時過ぎ、やっと静かになった隣の部屋で、布団に転がった子たちの声が聞えてきた。

 「にいちゃん、ごめんナ」。

 

 

 

       あに と おとうと

 

 集合場所は、東京の火葬場だった。黒い喪服の何人かが、ロビーで待っていた。

 間もなく、担当者の指示で棺に横たわった義兄と会った。夫と2歳違いの兄弟は、眼鏡をとった顔が、死んだおじいちゃんそっくりだった。われらいつの間にか、おじいちゃんと同じ老人だ。

 

 義兄の連れ合いが泣きながら、「お花を入れてやってください」と言い、最初に白い菊の花を顔の近くに置いた。つい先日、見舞ったばかりなのにと涙がこぼれそうだったが、白い菊を顔の傍に置いた。義兄は「死んだら、息子たちと自分の姉弟だけ寄ってくれればいい」と遺言していた。

 

 息子2人と、その連れ合い、そしてその両親など、参加者およそ15人になった。それぞれの思いを胸に、手に手にユリや菊を持って棺を埋めた。義兄の著書『全力疾走』を息子のひとりがそっと棺に入れた。

 

 義兄は、10カ月前スーパーで買い物し、重い荷物を持とうとして倒れた。

 救急車で病院に運ばれ、検査の結果「血を造る工場が壊れた」と宣告された。「骨髄異形成症候群」と診断された病気は、治療法のない難病だった。骨髄が白血球、赤血球、血小板をバランスよく製造できなくなる病気で、発生は10万人に1人という血液の癌である。

 

 以来、息が苦しくなると携帯用酸素ボンベの助けを受けていたが、食欲もあり、車の運転もしていた。

 夫婦で介護施設つきの老人ホームに入って1カ月も経っていなかった。ホーム入居は、引越しで体調を崩した連れ合いが、一人になっても安心して暮らせるようにとの義兄の配慮だった。体調が悪くなってからの引越しは難業で、最後は忙しい現役の息子たちが応援した。

 老人ホームから救急車で緊急入院したとの報を受けたのは、死の2週間前だった。

 

 控え室で待つこと約1時間、再び参加者は火葬の台の周りに寄った。

 義兄の体は跡形もなく消え、引き出された台の上には焼いた骨だけが残っていた。

 

 「ふつうはこの入れ物に半分くらいの骨なのに、いっぱいの骨、丈夫だったんですね。これが耳、これが喉仏、と言っても前の方ではなく首筋の後の骨です。ほら、仏が座った姿のようでしょ」。火葬場の係員が慣れた口調で話す。

 

 私たち夫婦は、近親者だけのお別れ、何年も前からそういう旅立ちを決めていた。親鸞は「散灰を鴨川に」と言ったそうであるが、私たちも分骨して山や海の自然に散灰したいと考えていた。

 

 世界を飛び回った元気者の義兄が、その手本を示すように、お寺関係なく、通夜なし、葬儀なし、香典お断りで、近親者だけの葬儀をするとは考えもしなかった。やり通すには、諸々の問題ありで、勇気が要ったと思う。

 

 まだ退院するつもりのベッドに横たわって、「愛用の高級車を、インターネットのオークションで売った。入院直前までその愛車の説明をした」と話をしてくれた。

 「義兄さん、やり過ぎです」。思わず言ってしまった。あれがことばを交わした最後で、次第にしゃべれなくなった。

 

 可笑しなことに、私たち夫婦はノーカー、義兄夫婦は世界の車産業の先進を歩いた。

 

 社会人になった義兄が、アフリカ現地の人の「サファリ・ラリーで勝たない限り車は売れない」という言葉に、会社を動かしサファリ・ラリーの調査団を企画した。

 

 東アフリカのジャングルやウガンダの大草原地帯、ケニヤの高地を10日近くかけて、実際に走った体験で「トヨタの車はラリーの過酷な条件に耐えられるレベルにない」。そういう結論を出された。50年前の、物づくり日本物語である。

 それから約20年後の1984年、サファリ・ラリーでトヨタが初参加、初優勝した。義兄は「いつも20年先を考える」と言った。

 

 弟も負けず劣らず、折角得た職場を投げ捨て、理想社会の実現を夢みて共産党の専従活動家になり、親を怒らせ勘当される。挙句、意見の違いでくびになり、その主義の非人道的な事実に直面し、いまも目を向け続ける。

 

 一方は社会的地位、経済力を得、もう一方は地位も名誉もないが、それぞれ全力疾走した、まことに似たもの兄弟だと思える。違うと言えば弟が、能力は同じでも、人としてぬけたところありで、ふつうはそれをお人よしというのかも知れない。インターネットにホームページを開いて10年、そこでの研究・交流が生き甲斐の夫に、先日「宮地さんのHP内容・データは知的財産」というメールが届いた。ホメすぎでも大いに励ましになったと思う。

 

 子どもの頃、取っ組み合いの喧嘩をしたり、貧しかった日本で、プールもなく、近くの庄内川へ飛び込んで暑さをしのいだ兄と弟。

 仲が良かった兄弟は、受験勉強は狭い部屋で机を並べてした。夜12時過ぎると必ず居眠りする弟、兄は始めの頃は起こしていたが、毎夜のことで諦めたという。ひと眠りしてからしか弟は勉強が出来なかった。そんな話をした頃が懐かしい。2人とも映画や音楽が大好き人間だった。

 

 「大根おろしだけはやってくれるの」と、義兄の連れ合いが言った。兄、弟とも、人としてのやさしさがある。

 

 ポルトガルにアフリカに、ヨーロッパ全体の責任、そして、ドイツトヨタの責任者として10年、世界を駆け回った元気者の義兄が、全力疾走で逝ってしまった。

 私たちがドイツに招かれたのは、80歳過ぎてひとり暮らしが長かったおじいちゃんと、同居してくれたお礼と、心くばりも忘れなかった。

 

 オランダのアムステルダムに向かう車の中で、大好きな曲「マイウェイ」を聴かせてくれた。しみじみとしたその旋律に、義兄の深い悩みも聴いたように思った。

 その旅に、当時大学生と高校生だった長男と長女が同行した。義兄の死を知った長男は、電話で言った。「いま、『マイウェイ』を聴いたよ。涙がこぼれた」。

 

 「名古屋が元気」と言われる。名古屋駅周辺には、かつての豊田、毎日ビルが超高層ビルに生まれ変わって、トヨタ本社も越して来た。「ハウルの動く城」のような、らせん状のビルの完成も近く、活気がある。

 

 通行人には外国人や男性サラリーマンの姿が多くなったような気もする。メンズ向けの店がかなり増えた。格差社会は大きな問題である。が、車世界のトップクラスにのし上がったトヨタ。

 名古屋駅前に降り立つと、やさしい笑顔で、義兄のささやく声が聞こえるような気がする。「すべてやり尽くしたよ」と。

(2007年7月20日)

 

 

 

       宝はなぁに

 

 京都に住む息子夫婦が共働きのため、学校が休みの小学1年の孫を1週間預かった。休みが終わり、京都へ送って行った日、二条城の前に観光バスが何台も停まっていた。するとタクシーの運転手が「この城は京都の宝、ぼくの宝はなに?」と訊いた。孫はとっさに「ぼくの宝は妹」と答えた。

 

 7歳の子のことばにハッとした。日頃、よく兄妹けんかすると聞いていたのに、1週間離れてみて、ことのほか妹が愛しかったのだろう。いまは亡き私の母はよく「子は宝」と言っていた。戦争で苦労しても、貧しくても、子は宝と温かく育てられた記憶が胸を熱くする。

 

 近頃、地球規模の天災が続き、将来への不安が広がっている。ぶつかっても挨拶もしない若者たち、孤独を癒すのか夜の通勤電車の中は、黙々とケータイに指を走らせる人ばかり。まるで異国の車内のようだ。ニュースは毎日のように、親殺し、子の虐待を伝え、人の世が可笑しくなってしまった。

 

 子育てひとつ考えても、それは手間暇がかかり、忍耐の要る仕事である。代わりに、命の愛しさを味わう。人の命は宝物、縁ある人を宝といとおしむ気があれば、世の中も多少温かくなるのではないか。孫の一言で自戒もこめて考えた新春である。

 

(朝日新聞『声』欄、2005年2月24日掲載)

 

 

 

        勇気を出して散骨を決める

 10年前、義父の葬儀は業者の言う葬儀代200万円を、義兄の会社の体面で300万円にした。院号が別に100万円。お別れに来て下さった人たちにも負担をかけた。無宗教の私たち夫婦は、死んでからもお金で人格に差をつけられたようで、もやもやが残った。今も法事のたびに、お布施と車代が必要になる。

 過日、葬送の自由をすすめる学習会に参加した。そこで、葬送は法的に二つのことが守られていれば自由であると分かった。一つは、死亡届は7日以内に出すこと、もう一つは死亡診断書を行政に出して火葬許可証をもらうことである。

 大規模な墓地開発は自然を破壊する。少子時代で、墓を守りお参りする人がいない悩みもある。墓参の折に、無縁墓石がごろごろ転がっている現場を見て、心穏やかではなくなった。

 幸せは、財や墓を残すことではなく、精いっぱい生きたと言えることだろう。少しの勇気で、人生の幕を自由な納得できるやり方で下ろせる。私は通夜や告別式は行わず、遺骨は山に散骨する旨のお別れ文を書いた。これを、事前に準備しておく名簿の人たちへ出してもらうつもりだ。

〔朝日新聞『声』欄掲載 2001年7月13日〕

 ()、『私の葬儀はこうして欲しい』と題した学習会は、3人の体験者や弁護士の報告があり、席がないほど満員の盛況でした。なお、これは、「葬送の自由をすすめる会」の東海交流会として名古屋で行われました。

以下は、その会の機関紙『再生第42号』に掲載されたものです。

        記念講演「葬儀と宗教」   ひろ さちや

 『お葬式をどうするか』という著書のある仏教哲学者のひろさんは、講演の冒頭「私自身は浄土宗の信者だが、私の葬式は好きなようにやれと子供たちに言ってある。私は死んだ瞬間にお浄土に行っているから、葬式をやろうがやるまいが関係ない」と言い切りました。もし、葬式を出すのが面倒なら、“骨箱を」Rの網棚に忘れてきなさい。ただし、(身元が分からないように)埋葬許可証だけは抜いておくことと、ユーモアたっぷりに話が続きます。ひろさんに言わせると、日本人は遺骨に特別の執着を持っているそうで、西洋人や中国人などは全く違うと実例をいくつも挙げました。聞く者にとって眼からウロコが落ちるような内容にあふれていて、1時間半が瞬く間に過ぎた達意の講演でした。

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 葬儀は仏教の専門と思われているが、仏教とは全く無関係だ。葬儀は習俗、社会的な習慣であって、宗教のない国でも葬儀はやる。葬儀は別に宗教の専売特許ではない。宗教の役目は生きている人の心の救済であり、残された人間が死者への感情を整理するために宗教が関係してくる。それなら葬儀は誰がやるかといえば、もともとは家族や一族郎党が営むものだった。釈迦は弟子に「自分の葬儀は在家の人がしてくれるだろう。出家はわずらわされてはいけない」と言われた。出家した者は葬儀に携わってはいけない、坊さんは葬式にタッチしてはいけないというのが釈迦の教えである。

 室町時代の末から戦国時代にかけて坊さんが葬儀をやった形跡はある。しかし、これは時宗(じしゅう)の坊さんが従軍僧として戦死者の葬式をやった特殊な例であって、基本的に坊さんは一般の人間の葬儀に、スポンサーとして敬意を払って参列はすることはあっても、葬儀そのものをとり行うことはなかった。今でも華厳宗や法相宗など奈良仏教は葬式は一切やらない。

 それなら仏教の他の宗派で在家の葬式をいつから始めるようになったかというと、徳川幕府が切支丹の弾圧を始めた江戸時代からだ。寺に檀家制度を設け、一般の人々を檀那寺に属させて宗門人別帳をつくった。そして、寺に所属する檀家の葬儀を仏教式でやるよう義務づけたためだ。ところが、坊さんにしたら、今までやったことのない在家の葬式をやれと急に言われても、どうすればいいか分からない。そこで、自分たちの葬式のやり方を在家に応用することを考えついた。

 坊さん、つまり出家はいわばホームレスだ。出家が死んだら、家族がいないから仲間の坊さんが家族の代わりになって、死んだ出家の葬式をする。これと同じ考え方でいくと、在家の死者をとむらうには、死者をとり急ぎ出家させなくてはならない。そのために与えるのが戒名だ。さらに死者を相手に勤行して、もう一段上の道号や院号を授けるシステムを考え出した。いわば、死者を“特訓”するようなものだ。これが仏教が在家の葬儀をするようになった起源だった。

 こうして江戸時代に寺が在家の葬儀を扱うようになると、坊さんはだんだん“甘い汁”が吸いたくなる。1回だけの葬儀では金もうけにならない。収入源を確保するために始めたのが追善供養などの法事だった。こうして百力日、一周忌、三回忌、七回忌が始まり、どんどん続いて三十三回忌、さらにもっと百回忌まで続くようになった。

 本当の仏教の考え方は「即得往生」だ。死んだ瞬間にお浄土に行く。坊さんにお経をあげてもらって行くわけではないし、坊ざんにもそんな力はない。坊さんがパスポートをくれるわけではない。葬式はやってもいいし、やらなくてもいい。遺族がやりたいようにやればいい。仏教徒ならお浄土に行く、クリスチャンなら天国に行く。ただそれを信じていればよいということだ。

 

        よーいどん

近くに開業した子ども病院の玄関に、立派な門松が飾られた。

太い青竹をバッサリと斜めに切った切り口は鮮やかで、勢いがある。それに尖った太い針のような葉の松、対照的に赤い実の南天が可愛らしく、ここだけは正月がきたようだ。しかし、このあたりの住宅地で以前見られた門松は、すっかり姿を消した。

わが家の三本梅の木のうち、紅梅は太いごつごつした木の幹から、か細い小さな枝を出しているが、春を届けてくれるには間がある。それに比べて年の瀬のロウ梅は魅力的だ。五年ほど前、庭にロウ梅の若木を植えた。それが大きく成長し、屋根に近い高さになった。その冬樹が、晴れた蒼空に枝を太く伸ばし、黄色いつぶつぶの蕾をびっしりとつけた。そして、小さな蝋のように透き通った花が開いて、心地よい香りを辺りに漂わせている。

『梅活けて君待つ庵(いお)の大三十日』という子規の句があるらしいが、迎春準備といっても気が乗らない理由があった。暑さがことのほか厳しかったこの夏、五十二歳の弟が急逝した。

日頃、夫婦や姉妹、友人たちと「先に逝くが勝ち」とか「長患いせずコロッと逝くのが幸せ」とか言い合い、「ヨーイドンだよ」などと笑い合っていたのに、突然の衝撃に平常心を失いそうになった。

人は確実に死ぬ。弟は、ロシアの若手ピアニストブーニンそっくりの容貌だった。それなりの能力も、芸術的センスも活かせぬまま、戦争がらみで、裏通りばかり歩いた人生に、私たち姉妹は涙を流した。サッと人生の幕引きをした人が、幸せだったと思えるようになるには、ときが要る。

「正月は梅だけにしよう」。そう決めて、玄関や床の間、廊下に居間など、ロウ梅を活けまくった。家中に柔らかな香りが満ち溢れて、少し心が安らいだ。

やや念入りに掃除を済ませてから、夫婦で暮れの買い物で賑わうデパートに出かけた。「やっぱり新しい年に希望がもちたい」。そう考え直し、松の枝と、葉の部分が比較的大きい竹を買った。松竹梅の梅はロウ梅とは違うだろうが、それでもいい。

何とか松竹梅を揃え、新世紀への願いを込めた。

 

        

 「桜が見たい」という義父の言葉で、ウィークデーの一日、私達夫婦と3人は駅から5分の岩倉五条川のほとりに立った。

 樹齢50年という大木が、幅20メートルほどの川の両側から桜のトンネルをつくっていた。満開の桜は、ピンクの淡い雲が空一面に広がったように見えた。

 この桜並木は犬山市、江南市を通ってこの岩倉市まで連なっており、その距離は27キロメートルにも及ぶと聞く。有名な東京の新宿御苑は、多種類の桜1500本といわれているが、ここの桜は1600本、ほとんどがソメイヨシノという。御苑の優雅さに比べ、土の香りがする桜並木である。

 義父は「名古屋の山崎川より凄い、宣伝が足りないねー」と言い、とても満足気だった。同居して5年余り、「君達夫婦の愛情に包まれて幸せ」が口癖だったが、本当にその言葉通りだった だろうか?

 私たちが家を新築したのを機に、子ども達が相談して80過ぎのひとり暮らしをやめてもらった。米寿の祝いをした後、1日40本も吸っていたのに、タバコを持つ手の感覚が鈍り、着物はタバコの火で穴だらけ、ある日遂に座布団が燃えた。

 豪放闊達、かつてはやり手校長と言われた義父も、年には勝てず、禁煙を迫る義兄に従った。そして半年後、桜が散るようにあっけなく他界した。

 あれから3度桜が咲いた。今年もこの桜並木に立つと、満開の桜は背をしゃんと伸ばした和服姿の義父を、私の脳裏によみがえらせる。

 そのとき、静かな川面にひとひら桜が舞った。それを目で追いながら、この桜が植えられた50年前を思った。戦争で国土も人心も荒れ果てた昭和20年、質素な服装のやせた人達が、この土手に1本1本桜を植える姿をそこに見た。ちちははの世代の大きな心を思い、胸が熱くなった。

 『さまざまの事思い出す桜かな』芭蕉

 

        人生の時を生き直す父

 義父の名は宮地薫、生まれは明治34年5月14日である。黄金週間に誕生会をした。

 入院中の義父はタクシーで家に着いたが、車椅子に座るのがやっとの状態だった。入院当初は 「花一杯の家へ帰りたい」と言って私達を困らせた義父は、「お帰りなさい、あれがハナミズキよ」と言っても無表情で、虚ろな目だった。私は目頭が熱くなった。

 昨年、米寿の祝いをしたときは元気だった。背筋をピンと伸ばし、1日1回は喫茶店でコーヒーを飲むのを楽しみにしていたが、風邪をこじらせて肺炎になり1月半ばに入院した。

 入院と共に脳も足も急速に衰えた。うなぎ丼が大好物でペロッと平らげていたが、いつの間にか、口の中の物が思うように飲み下せなくなっていた。

 校長を退いて20年、現役時代の英語の授業や、転校挨拶に強烈な印象をうけて、それを社訓にしているという社長や元校長など、50年前の教え子から突然お便りを頂いたり、英語を教えてもらったお礼が言いたいと自宅へ訪ねて下さった方などもあり、情熱と誠意あふれた現役時代が想像出来た。

 しかし、少し前から「いまから桜山中学へ行く」とか「今池へ行くからおごってあげる」とか、人生の最盛期の地名が出るようになった。

 食事も終わりのころ「静かな料亭だね」と言われた。驚いたが相づちをうつと「この料亭はサービスはないかね」とテザートを要求された。

 「帰ろう」という義父を夫と義兄が送っていったが、車の中で「いい旅館だったね」と満足気だったとのこと。

 89年立派に生き、いままた人生の最盛期を楽しく生き直されていると思うと、私の心はやっと平穏を取り戻した。

〔1990年5月22日、朝日新聞『ひととき』欄掲載〕   〔1990.7.31義父死去〕

 

        秋の浜辺

 鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬

 この芭蕉の句碑などもあるせいか、ここ伊良湖岬は昔から人々のあこがれを集めて、多くの文人が訪れたという。私たち夫婦も、広々とした秋の海が見たくてこの岬に来た。

 太平洋の黒潮が寄せては返す。浜辺は薄茶色、群青色の地平線が、浜に近づくにつれ緑に変わり、白い波が小さなしわをつくる。子ども達がその波と追いかけっこしている。

 10月の明るい太陽の下で、子どもの姿が影絵のように浮き上がる。浜辺に子どもはよく似合う。

 砂浜の奥に自生のハマユウを見つけ、それを枕に浜で昼寝としゃれる。耳に入ってくるのは、遠くの子どもの声と潮騒だけ。のどかな自然に浸ると生き返る思いだ。

 20分ほどまどろんでから、灯台のある岬の突端へ向かう。細長く太平洋にせりだした岬の先、独特の形は人骨を連想させる。私たちは砂をきしませて砂浜を歩いた。

 突端の巨岩のすき間に、電柱ほどの大きさの木が突き刺さっている。そのおびただしい数の流木は、先日の台風の爪あとであろう。その凄まじさを見ているうちに、遠く70年前、種子島付近の台風で遭難、6昼夜怒濤と闘って逝ったM氏を思った。

 駆逐艦艦長だったM氏は、沈没し始めた船から乗組員全員をボートで逃がし、自分は最後にマストに身を縛り船と運命を共にした。30歳だった。

 浜に辿りつけた艦員と、海に沈んだ艦長。当時の新聞は美談として大きく取り上げた。いまそれを語る人はない。

 M氏は義父の兄である。「青海院孤舟勲光居士」の戒名が胸を打つ。私などとても真似出来ない土壇場での人間の行動、毎朝義父とM氏の位牌に花を供える私との、不思議な縁である。

秋の浜辺は自然の温かさ、恐ろしさを、そして人間のすばらしさをあらためて教えてくれた。

 

         葬式

 「『どっちが先に逝っても、葬式一切、しないことにしようね』70歳になったとき、夫が言いだした。お骨をきれいな壺に入れて居間に飾り、私も骨になったら海へ流してもらうのよ』」。沢村貞子著『老いの道連れ』の一節である。

 「どっちが先に逝っても・・・」の会話は、そっくりわが家の会話でもあった。「身内だけでそっと弔い、数日後に来てくださる方だけでお別れ会をする。BGMはベートーヴェンのピアノソナタ『月光』、それにシューベルトの『冬の旅』がいい」。

 それでも私の中に漠然とした不安があった。それをこの夏3人の有名人がぬぐい去ってくれた。

 1996年8月7日、大好きな映画『寅さん』の渥美清、15日に政治学者丸山真男、そして16日には女優の沢村貞子の死去である。3人とも死の2、3日後に知らされ、正式な葬儀はなかった。

 7年前の盛夏、5年半同居した義父が89歳で逝った。「予算は250万円でいいですね」と葬儀社の人が言う。「会社の人達が来てくれるから、350万円で・・・」と喪主になった義兄。「戒名はどうします? 院、居士なら100万円ですが・・」。

 義父の友人はほとんど亡くなり、名古屋、東京、ドイツに住む子供たちが、社会的地位相応の儀式をどんどん整えていった。

 死者と心からの別れをする余裕も、看病疲れを癒す間もなく、親類知人、町内会への連絡、通夜と進んだ。葬儀は名古屋の寺だった。遠方から来ていただくのも申し訳ない上に、炎天下小さなテント2つでは、ほとんどの人が立ちっぱなしだった。

 「毎日毎日死者ばかり見ていると、死者の顔が美しく見え、恐る恐る覗く生者たちが醜くさえ見える」。生と死の根源を見つめた『納棺夫日記』の著者青木新門はいう。そして「この仕事で驚いたのは、一見深い意味を持つように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信俗信が殆どの支離滅裂なものであった」と。

 今夏逝った3人の有名人は「しっかり生きて、ひっそり逝く」立派な手本を示してくれた。

 ()『納棺夫日記』の著者青木新門さんは、HPShinmonの窓』を開いています。

 

        ろう梅

 冬の花「ろう梅」は華やかではないが、渋く落ちついた黄色で、ろうのように透き通った花である。その香が天下一品で、体の隅々までしみわたる。

 その日、枝ぶりのいいのを3本切り、床の間に生けた。芳しい香が、廊下まで漂う。何度も深呼吸して、京都からの客を待った。

 18歳で京都へ進学し、下宿生活10年の長男が、初めて恋人を連れて帰るという。普通のサラリーマンではなく、夢を描いて芸術の道を選んだ。しかし実力の世界は厳しく、修行に次ぐ修行である。応募しても応募しても認められない冬の時代を送っている。

昨年夏帰省したとき、雑談で恋人の話題になった。目下恋愛真っ最中の長女は敏感だった。「美人? ふつう?」「職業は?」 「派手? 地味?」など次々問い質していた。 親たる私も負けじとばかり「何にひかれたの?」 と突っ込む。長男は、女2人の追及にたじたじの体だった。

 聞けば既に先方の家に招待されて、向こうの父親と「男と男の戦い」をし、気に入られた由、それならと今日は私の家への招待となったのである。

 部屋いっぱいにろう梅の香を詰めて待つ。約束の時間まで1時間、あれこれ想像する。本好き、デイサービスで障害者やぼけ老人相手に働く看護婦。それだけで心のやさしい、京都弁の女性が思い浮かぶ。

 右手にペン、左手にオシメの共働きで、手作りの服ひとつ作ってやらなかった長男が、心の優しさを第一の基準にした。母としてそれがうれしい。だが彼にはまだまだ冬の時代が続く。

 庭のろう梅が、葉のない枝に丸い黄色の蕾をびっしりつけている。雪晴れの明るい陽に透けて光って見える。長男が、老人介護にいそしむ人の中に、ふと見つけた冬の花。控えめで、床しい香が人を励ますろう梅が、まだ見ぬ女性に重なった。

午後3時、客はまだ来ない。

 

        春らんまん

 1月の寒風の中で、水仙が香り高く咲いていた。外出の準備をしている私に娘が「ついでに願書出してきて」と頼んだ。国公立大学のセンター試験が済み、2次試験願書受付の日だった。

 気安く引き受けた私は、願書の茶封筒を持って電車に乗った。15分の乗車時間中、あれこれ考えごとをしていて、着いたとたんすぐ下車した。電車が去ったあとで、私はうかつにも願書を車内に忘れてきた事に気づいた。

 あわてた私は忘れ物窓口へ走った。窓口の駅員は青ざめた私の様子から緊急だと察してくれて、てきぱきと各駅に連絡してくれた。

 その間約1時間、焦燥のかたまりになっていた私に駅員は「だめですね。現金とか封筒は多分出ませんよ」と宣告した。

 私は観念して自宅へ電話した。夫が出て待っていたように「たった今、Mさんという人から『電車内で願書を拾った』という電話があった」と言った。

 私は安堵感で身体中から力が抜け、そのままへたりこんでしまった。しかもその人は締め切りを心配して願書を郵送して下さるという。親切が身にしみた。ただその大学1校受験に絞っていた娘が、私の失敗に対して「不吉な予感」とつぶやいたと聞き、敏感な受験生心理を思うとすまない気持ちでいっぱいだった。

 2月下旬、18歳人口のピークで47万人が挑んだという大学2次試験も終わるころは、陽もぐっと明るくなった。枯れた芝生の間からたくさんのクロッカスが、春をうかがうようにいっせいに顔を出した。クロッカスは春を呼ぶ花だ。しかし自分のエラーが原因でもしもと思うと、重苦しい気分で娘の合格発表の日を待った。

 門の脇の2本の桜が、その薄いピンクの花弁を精一杯にひろげた頃、「新聞紙上にてお名前拝見しました。おめでとう」心温まるMさんの祝電を受け取った。桜の木の根本近くで高さ2メートルほどのカラスモクレンが、濃い赤紫の花をいっせいに咲かせている。

春のシンフォニーの艶やかさに私は思う存分酔った。4月、春らんまんである。

 

         地味婚

 儲かることなら葬儀も結婚も、何でも商売にしてしまう時代。もともと結婚式を派手にする土地柄ゆえ、ここ名古屋のあちこちに、立派な結婚式場が沢山できた。ショーウインドーに飾られた数々の結婚衣装は絢爛豪華、映画女優か、おとぎの国の女王様のたぐいだ。

 一方、東京方面から『地味婚』という言葉と共に、若者たちの合理的結婚式も増えてきているようだが、式の豪華さの度合いは、やはり親の希望で高まると聞く。

 わが娘は、名古屋の小さなフランス料理店で結婚式を上げた。仲人なし、結納なしで、相手は同じ大学のテニス部員。会費は1万円、ウェディングドレスは新郎の妹の、引き出物の陶器とクッキーは新郎のお父さんと下の妹の、すべて手作りとなった。

 「いろんな人と話したいから立食パーティーにした」というが、私たち夫婦はノータッチ、 娘たちの事後報告で、当日を迎えた。

 その料理店の3階にある小さな教会の、バージンロードに、純白の帽子とドレスの娘が現れた。目を潤ませた夫と腕を組んで。その姿が、乳児の頃からの共働きで、保育園に娘を送る夫とだぶって、涙が出そうになった。

 真先に口を切ったのは意外にも花嫁だった。次いで花婿が、お互いに相手を紹介した。地位も名 誉も関係ない、本人主体がさわやかだった。

 友人達が、次々歌を歌い、挨拶に立った。「引っ越しの手伝いは小さな車で10回も往復させられて・・」などと裏話が披露されていたとき、 突然、強い地震で会場が上下に揺れ、シャンデリアが左右に揺れて落ちそうになった。「エー地震です」。司会役のひょうきんなそのひとことで、会場の緊張が柔らかく溶けた。

 再び和やかな立食パーティーに戻った。と、そこへ突然N大学のテニス部員30人ほどが、トレーナー姿でなだれ込み、円陣を組み、エールを送った。その輪の真ん中で、新郎新婦が目を真っ赤にして感激していた。予定外の力強いエールに会場全体が盛り上がり、結婚式は終わった。

 今どきの若者結構やるじゃん、そう思った。

 

         めいの壮行会

 高校の教壇に立って3年になるめいが、青年海外協力隊員としてアフリカのガーナの子どもたちを教えることになり、私たち姉妹4家族は、ホテルで会費制のささやかな壮行会を開いた。

 共働き家庭の長女だっためいは「子どものころ寂しくて『こちらを向いて』と、母親に心で訴えたこともあったけど、親も活き活き働いて私たちを育ててくれた。いまはそれでよかったと思う。武器を持たず、汗を流しに行ってきます」と挨拶した。

 私たち姉妹はそれを聞いて目頭が熱くなった。25年ほど前、私たちは共同保育所へ子どもを預け、物品販売や廃品回収をして支え合った。今日集まった7人のおいやめいは、産後43日目からの保育所育ちである。ここまで頑張れたのは子どもたちが丈夫だったことと、父親の協力があったからだろう。

 京都から駆けつけた私の長男は「若いうちにやりたいことに打ち込んで欲しい」と芸術の道を選んだ自分に言い聞かせるように発言、同じ京都で就職が内定したおいも、「4年間補欠のサッカーで、最後にレギュラーになれ、全国制覇できた。 姉は苦労承知で海外に行くと決めたこと、がんばれ!」と励ました。

 「研修で姉が3ヵ月東京に行ったとき、初めて離れて暮らして家族が一段と仲良くなり、家族っていいなと思った」と言ったのは、社会人2年目のめいだった。

 かつて、うるさいほどへばりついてきた子たちが、それぞれの人生を歩く。厳しく楽しかった子育ては終了した。「安心して世代交代ができるな」と温かい思いで散会した。

〔1992年9月22日、中日新聞『くらしの作文』欄に掲載〕

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