こどもたちと

  この子たちのあしたは?

http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/My%20Pictures/eggs.jpg

〔3DCG 宮地徹〕

〔メニュー1〕 〔メニュー2〕217は後

省みて40年の想い 

 

寒波で北国は雪、この地域も突き刺さるような冷たい風の中、朝の出勤時間帯を窓ごしに眺める。肩にかけた黒い鞄も軽々と、テンポよく足を運ぶ若い男性。近くの私鉄駅へ向かう。それを追うような形で、細いパンツスタイルの女性が急ぐ。足運びの速いこと。

反対方向向いて、わが家の隣にある駐車場へ歩く中年男性。車で出勤?増えたらしい。

 

ああだったなあ。毎朝の出勤の大忙しが…。

雨がふっても、雪ふりでも、天気がよければ楽々歩いて最寄りの私鉄駅まで。

 

ただ、産後休暇42日はきつかった。それでも何とか誕生日すぎた子どもと出勤する。

朝、6時55分発の電車に乗りこむ。職場近くにある保育園へこの子を預けてから出勤だった。

 

しかし、夕方5時すぎに保育園にかけつけると「こんなに遅くまで預かる子はいない。」と非難され、つぎの保育園探し。女が働き続けるとはこういうことなのだ。

 

退職後は、連れ合いが40歳から始めた学習塾を応援した。当時定年は55歳だった。定例テストの監督や塾ニュース作りである。

 

この地域は学資が安い公立高校へ進む子が、ハイレベルの高校から大学進学を目指す。それがこの塾の目的でもあった。スタートから50人近い生徒数だった。

 

大忙しの出勤もなく、朝食後はゆったり音楽に浸りながらの新聞タイム。この恵まれ方、感謝しなけりゃ罰が当たる。

 

新聞タイムが終わり、健康のための散歩だ。歩きながら嬉しいことが頭に浮かぶ。

それは『羽ばたこう われら高進塾生』と書かれた寄せ書きである。

 

2000年3月とあるから、もう20年余り過ぎた。その生徒たちのことばである。

 

  何というやさしい中学生たち。学力も伸ばした子たちだった。うれしさが胸いっぱいに広がる

 

●五年間ありがとうございました。文武両道めざしてがんばっていこうと思います。k

●二年間ありがとうございました。高校へ行ってもがんばります。体に気をつけて。i

●わからない問題を親切に解説してくれ、ありがとう。これからも体に気をつけて。n

●精いっぱいインターネットに励んでください。

●英語、数学ときめ細かな指導を3年間ありがとうございました。学問に王道なし、0

●英語教師になる夢を実現させること。楽しい英語授業でした。i

                           2022116

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       返済期限が来た

 

数千億匹のバッタが発生しているアフリカ。1日に3万5千人分の食糧を食べてしまうという。驚いた。

昨年末、季節外れの大雨が襲いバッタが繁殖しやすい環境になったケニア、エチオピア、ソマリアなどである。ソマリア政府は国家非常事態宣言を出している。

 

先日の新聞で『諏訪哲史のスットン経』が目に留まった。

その中で「多量のガスを生みながら、僕らは豊かさを得てきました。未来人の莫大な犠牲を前借りし、その借金を返さず踏み倒し続ける。でもついに返済期限が来たのです」とあった。

 

 

森林火災で数万のコアラが焼け死んだのに、まだ炭素を出し電気で遊び金儲けに勤しみます。現代の大人は地球の敵なのです。」

 

「高校生のグレタさんが言うとおり、温暖化を止めなければ生き物は滅びます。人より海や森や空気か先に死ぬのです。」

 

歩いて買い物をする。近くのスーパーまで15分くらい。ときにはネツト通販、ときには自転車のときもある。スィスィと車が追い抜く。

みんな忙しいから現代的で楽な方法で買い物なのだろう。

 

健康のために歩いて買い物なんて、時代遅れなのだろうか。

歩きながら関西に住む友を想う。現役を引退して娘家族と同居しているが、忙しく現役で働く娘一家の食事を任されているから、結構買い物は多い。しかし歩いて買い物と言う。

近頃、背中にリュックを背負う人が増えたが、彼女も買い物はリュックだそうだ。

 

歩くことはとても健康にいいとよく言われる。

それだけでなく、人口4万余りのこんな田園都市は人の声さえ聞こえない

過疎地?と思えるほど静かである。

 

まだ一部にある土の畑に、いまなら白い小さな水仙が、真ん中にやさしく黄色を抱えて咲きほこっている。夕暮れが近くなると、天上に白い満月が輝き出す。

自然っていいなぁ。人間も自然の一部だもの。

 

このところ東日本大震災など自然災害が続く日本列島。

地球温暖化で、未来の人たちから前借りした豊かさの返済期限がきたのかも知れない。

                              2020・2・18

 

 

 〔メニュー2〕216は後

    1、  返済期限が来た

    2  この子たちのあしたは?

    3「夢のようでしょ?」−われ捨て犬で拾われて

    410年後の教え子たち

    5めがねがオモロイ

    6ある写真展

    7もうひとつの感性

    8ちょっと明るい話

    9最近の世相から その一      幸子のホームページに戻る

   10最近の世相から その二      次の『自然とともに』へ行く

   11人間関係

   12湾岸戦争

   13戦後五十年

   14弥生

   15少年少女

   16つっぱった子たち

 

 

 

 

       この子たちのあしたは?

 

「ピンポーン」と玄関の音、「ハーイ」といって玄関に行く。と「また、黒板使っていいですか」「ああ、いいよ」

何年も前、小学生たちが塾の黒板に、白墨でいっぱい落書きをしに来た。毎日のように…。

 

いつの間にか、子どもたちの声がなくなっていた。が、先日ほんとうに久しぶりに2人の小学生が教室に上がって、黒板にいっぱい落書きして帰った。

と、今日は3人が「いいですか?」と教室に上がってきた。小学5、6年生くらいと思う。

 

連れ合いは「ここで本読んでいるから、勝手に書いていいよ」と言うと、3人は喜んで椅子を並べ変えたり、黒板の前に並んだ8個の机に乗って、勢いよく白墨で絵を描き始めた。

 

小中学生の学習塾を20年余りやっていた連れ合いが、63歳でやめた。自分も公務員を退職してから、テストや塾ニュースの作成で協力した塾だった。

塾をやめてから20年近いときが過ぎた。

 

別棟にある塾舎の教室2つの机や椅子は大部分整理した。が、まだかなりの数が並んだまま。その一角は本棚や机など置いて連れ合いが毎日パソコンや読書などして書斎に使っている。冷暖房設備が古くなり壊れてとりはずしているため、空き室になっている。

 

「先生! そこの所は階段上がるのですか?」「そうだ。ここは歴史で有名神社なんだよ」子どもたちは、こんなやりとりをして、先生役と生徒役を愉しんでいた。

この子たちは「あの教室は黒板にいっぱい書いて遊べるよ」と誰かに聞いたのだろう。

 

「センセイ!」と言ったり、「黒板に思いっきり絵を描いてみたい」のだろう。

学校ではそんなことできないから、自由に伸び伸びと行動したいのだろうと思う。

 

少し時間が経って、教室を覗くと元気はつらつの子どもたちに、こちらも元気になる。

「黒板に絵を描いたり、先生、生徒ごっこして面白い?」「うん、おもしろーい」

子どもって、体中からエネルギーが満ち溢れて。いいなぁ。

 

自分たちにもこんなときはあった。が、国民学校二年生のとき勉強どころでなくなった。戦争で縁故疎開だ、集団疎開だと、親と離れて暮らしたり、アメリカ軍の空襲を逃げ廻ったりした。親類の人たちのご恩をいっぱい戴いて、命をつないだ。

 

そう言えば、児童文学者吉野源三郎原作『君たちはどう生きるか』のマンガ本が135万部も売れ、ベストセラーになっている。同時発売の本も評判で、各地の中学校や大学で大量に採用されていると新聞に載っていた。

 

『君たちはどう生きるか』の著者は、中1のとき父を亡くした主人公のコペル君に、近くに住む叔父さんがよく話し合い、文章にして教育している。

 

「コペル君、『ありがたいという言葉によく気をつけてみたまえ。この言葉は感謝すべきことばに使われているが、もとの意味はそうあることはむずかしいという意味だ。自分のうけている仕合せが、めったにあることじゃぁないと思えばこそ、われわれは感謝する気持ちになる。そしてありがとうということばの意味になったんだよ』」

 

このような、人として大切なことを、深い所から様々に中学生に教えている。

原作者は1937年にこの本を出版したが、どんどん軍国主義になり平和や自由がなくなっていく時代になっていった。そして1941年、日本はアメリカとの戦争に突入した。

 

いまこの国は当時そっくりになってきている。

国会ではときの政府が、「もり・かけ・スパ」問題をごまかし、審議不十分のまま、憲法改正論議に持って行こうとしている。

 

戦争で焼け野が原になったが戦後70年、自由で平和な世の中を、みんなで創り上げてきた。

戦争で儲かる人たちもいる。が、戦争は人と人の殺し合い、絶対にしてはいけない。

 

この子たちは幸せに生きていける権利がある。

                    2018・2・1

 

 

       「夢のようでしょ?」−われ捨て犬で拾われて

 

 犬の散歩で田んぼ道を歩く。名古屋市郊外のこの地域は広々とした濃尾平野で、天気がいいと、西の方に鈴鹿山脈が連なるのが見える。真っ白い雪を冠った御在所岳が美しく、若い頃毎月のように山歩きした日々が懐かしい。

 

 歩く向きを反対の東に変えると、今度は北東方向に伊吹山の雄姿が見える。土地の人たちは寒い時期に「伊吹おろしが冷たい」と言う。

 道端に咲く白い水仙の花に、もうすぐ春を予感するたのしさ。

 

 突然、左側から自転車に乗った男の子が来た。ぶつかりそうになった。「ごめんネ」と言うと、その子は「かわいい!」と言って走り去った。老犬のことだ。

 公園の傍を通る。すると、みんな寄ってきて「カワイイ」と撫でてくれる。

 

 飼い主は、子どもたちを噛んだりしないように、「ヒコっていう名前よ」と言いながら子どもたちと一緒に撫でてやる。近頃こういう、ふつうの犬は少ない。白と薄い茶色の毛並みで、平凡な犬である。どうして会う子達が可愛いと言ってくれるんだろう?

 前から見ると白い顔の真ん中に真っ黒な鼻、そして黒く穏やかな目をしている。その顔かな?

 

 途中で行き会う犬たちの中には、吼えて来る犬もいる。が、ヒコは知らぬ顔してわが道を歩く。吼えない。

 近頃犬の散歩で会うのは、可愛い小型犬が殆どになった。まるでぬいぐるみのようで、中には寒いからと、着物をまとった犬も増えた。

 

 ヒコは公園に捨てられていた。公園を通った娘夫婦に人懐っこい顔で近寄って来て離れなかった小さな子犬。さっさと帰ろうにも、いかにも愛しげにすりよってきたそうだ。

 

 当時マンション住まいの娘は自分たちでは飼えないからと、わが家へ犬小屋付きで押し付けてきた。というわけで、わが家は飼い犬がいたから2匹飼うことになった。

 散歩も食事も「いつも2匹」が始まった。

 

 本当の親子のように仲良くしていた犬たちだったが5年ほどして、何か悪い物でも食べたのか、大きい犬が急に体調を崩して死んでしまった。

 それからは1匹の大事な番犬生活になり、14歳の老犬になった。

 

 室内でマスコットのように可愛がられる犬が多いらしいが、わが家はいつも外、台風でも雪でも番犬らしく犬小屋で過ごす。

 

 朝は我らと同じ、味噌汁に玄米ご飯、それに魚の骨や肉を少々、だから野菜もよく食べる。散歩は朝が夫、夕方は妻と分担、年1回だけフィラリヤの注射で病院へ行く。「足が丈夫ですね」と先生に言われるが、ノーカーのわが家は小1時間かかる病院まで歩く。

 

 広い庭には毎朝鳥たちが、「ごはんもうすぐだよー」というように、集団で集まる。雀が10羽ほど、それにムクドリのつがいが5組、鳩の夫婦、その群れが木の枝や高い屋根の端に一列に並んで待つ。それから、犬の食器に残ったご飯粒をせっせと拾う。

 

 老犬は食事が済んで満足し、のんびりとそれらの光景を眺め続ける。大きなカラスにだけは吼えて追っ払う。

 「暇だなぁ」と、ゆったりした構えで、暇な幸せ生活が今日も始まるお犬さん。

 「夢のようなときでしょ? いまの幸せは。だって捨てられてたんだものネ」

 

 わが夫婦もいまは夢のような生活よ。

 早朝から出勤して、仕事が終わると夜遅くまで政治活動で走りまわり、あるいは泊り込みの会議の連続だった日々が夢のようだ。

 

 そして、仕事も子育ても活動も終えたいま、自分のことばかりに集中出来るのは、現役の2人の子どもたちが仕事と子育てに頑張ってくれているから。

 夫婦揃って関心のある社会の出来事を文章で表現し、インターネットのHPに載せたり、好きな音楽を奏でる喜びで心安らげる。

 

 東日本大震災から2年、名古屋で100万円するバックが10個売れたとか、100万円のスイス製時計が10本売れたなんて、そういう人たちがいるんだなぁ。羨ましくも何ともないけど・・・。それが経済の発展? アベノミクス?

 

 世の中は「月90時間の残業、ノルマに追われてうつに」

 「原発の除染で手抜き」仕事が多すぎて、枝や葉を川に流す、下請けの下請け業者たちの苦しみ。など庶民の苦労は解決もしていないのに・・・。

 沖縄だって、いつの間にかオスプレイが校庭の上を飛ぶなんて、許せないよ。

 

 或いは、不安定な有期雇用は1410万人で、4人に1人というニュースに心痛める。

 みんなが幸せに生きる喜びがもてる、それこそ、いまの自分が忘れてはならない事。

 

 静岡の友から便りが届いた。

 「75歳になりました。障害の子に水泳指導しています。5月にシンクロ日本選手権、8月に全国中学水泳大会、どちらも競技役員で張り切っています」

 

 手持ち時間が少なくなった人生の卒業生のわれも負けないで、「むりしない、らくしない」でしっかり生きよう。

 

2013・3・3

 

 

 

       10年後の教え子たち

 

 教え子たちは いま

 

名古屋駅に近い中央郵便局をよく利用する。現金の郵便振込みをしたり、簡単なハガキの便りは、局内に沢山並ぶ机で書き、すぐ後ろで投函できる。

流行のメール派ではない手紙派には都合がいい場所である。

 

 いつものように、支払い窓口に立った。若い男性が支払い済みの領収書を手渡しながら「あのー 塾の先生ですよね。お世話になった者です。姉も通いました」。

突然のことで驚いて、「そうですか。塾へ来て下さった方ですか。頑張りやさんの多い塾でしたから、あなたもそうでしょう」というと、両隣りの窓口の人たちが、にっこり笑ってくれた。

 

「お名前は?・・・Sさんですね、塾長に伝えます。ありがとう。また来ますね」というと、再び両隣にも、うれしい笑顔が並んだ。

突然、うれしいことに合うって、あるんだなあ。

こちらも自然と笑顔になった。民営化で大変でも、大学を出て一応安定した職場に配属されたのだろう。

 

家の近くにある消防本部、そこにも教え子がいた。

「机に向かう仕事より、性に合う」と、活き活き赤い消防自動車に乗り、白い救急車で走る教え子だった。

 

消防本部の傍を通ると、4階の建物に引っ掛けた綱を、下から駆け上るトレーニングや、真夏の暑さでも本部の周りを何周も汗流して走りこんでいる消防士たちを見る。火事現場への突入や、救急隊員としての過酷な仕事は夜、昼の別なしだろう。

 

この街は人口4万の小さな街、その駅前の一等地にイタリアレストランが出来た。

昼のランチタイムに入ったら、かつての塾生が、イタリーで修行してシェフになり、同学年の同じく塾生が店の客の責任者だった。愛想よく丁寧に応対してくれ、「あの、僕 塾でお世話になったMです」と挨拶してくれた。

 

最初に出た幅30センチほどの白い大皿、真ん中の窪みにねっとりスープが少量、モダンだ。

カウンターの上部の黒板に、その日の夜のメニューがいつも書いてある。

 

「ポルチーニ茸とモッツァレラチーズ」とか「ハマチのカルパッチョ」或いは「三重県産真鯛のグリル」などなど、食欲をそそりそうなメニューが記されて、たまには、夜来たくなる雰囲気だ。

 

もう一軒、ゆったりとする田園風景もあるこの地に、モダンなカフェが誕生した。一度コーヒーでも飲んで一息つこうと、夫婦で入った。若い美人店員が3人いた。

 

応対してくれた1人が「先生、お久しぶりです。お世話になったSです」。「えっ? あ、Sさん、美しくなってしまって、見違えた。ここの開店のときから?」 「いえ、まだここにきて半年です」と言う。

 

食後に頼んだ紅茶、円柱が2つ重なった感じの小さい時計つきで、「この砂時計の砂が、下に落ちてしまったら、お飲みごろです」。名古屋の有名店で、こんな物が出されたな。

ついケーキも注文してしまったが、一番人気のチーズケーキが、舌の上でとろけるなんとも言えない旨味に満足できた。

 

にわかに馴染みが増え、ときには外食して教え子たちを励まさないと・・・。とか何とか言って、楽しんでいる老夫婦であった。

 

先日最寄りの駅で、仲良く歩く若い男女に会った。すると、女性が笑顔で挨拶してくれた。

「私、Tです。結婚しました。仕事は公務員試験に合格して、三重県の津まで通っています」。優等生だったあの子だと分かるまで、少し時間が要った。

 

「Tさん? 結婚?おめでとう。そして公務員試験合格おめでとう」。勉強が出来て、いじめではなく、少しいじわるされた事もあったが、可愛らしい笑顔を絶やさない子だった。

自分が結婚し、合格したような、うれしい気分だ。

 

現役時代の仲間が、塾が発行した「学力づくり人づくり」の本を読んでくれ、遠い名古屋から姪を通わせてくれた。管理栄養士に合格して頑張る話は、胸躍るうれしいニユース、つい先月知ったばかりだ。

 

夏に近くの公園で、毎年盆おどりで賑わう。子ども会と地域の親睦会が協力して、寄付を集め、設備を整えて、小学5、6年生がやぐらの上で太鼓を叩く。みんなで賑やかに踊るのである。

 

暑かった今年の夏、近くの公園で今年も盆おどりがあるというので、太鼓につられて公園を覗いてみた。

ゆかた姿で踊る人や、素人なりに、屋台でだんごや串焼きを焼いて売っていた。

 

そこで会ったのが小さい子連れの女性2人で、「あっ 塾長、ご無沙汰しています。そうです。私の子達です」。二人のママさん、明るくしてくれた挨拶が、何よりの贈り物、ありがとう、ありがとう。

 

そうなのだ。中学生だった彼ら彼女らが、いま世の中の中心、世間を支えているのだ。

 

 「若いうちの苦労は買ってでもせよ」というが・・・

 

夫が専従をくびになったときは40歳だった。妻の給料だけでは、子ども2人の一家4人を養うことは出来ず、借金を重ねた。安定した公務員だったので、ボーナスも安定して出たのは恵まれていた方だろう。

 

しかし、夫の給料はいつも遅配続きだったので、ボ−ナスが出て一旦貯金した翌日には、郵便局へ走って引き出していた。

折角就職した職場を捨てて、専従活動家になったのに、くびになり、何もしなければ生涯の悔いになると、夫は独学で法律を勉強して、政党相手に2年間裁判闘争をした。

 

「共産党員が党中央を訴えたのは、国際共産主義運動史上で初めて」と、有名な共産党弁護士が法廷で語気を強め、組織挙げての反党分子攻撃を浴び続けた地獄の日々だった。

 

借金も限界の額になり、食べるために、裁判を打ち切って始めた学習塾だった。

 

当時は、まだ日本の景気もよく、高度成長期で親たちは少し無理しても、より勉強の出来る子にしたいと、学習塾へ通わせてくれた時代だった。

 

塾は「ハイレベルの公立高校に進学する」が目的だった。

愛知県には、私立のいい学校もあるが、授業料が安い公立高校に伝統あるハイレベル校が多く、勉学中心の塾で真剣に勉強した。英語、数学が中心で、理科はバイト先生3人を雇った。

 

確認テストは80点以上でないと不合格で再テスト、東大へ進んだ子も1回再テストで悔し涙を滲ませていた。負けず嫌いの女の子も泣いた思い出も懐かしい。

 

妻も退職して合流した塾で、出版した「学力づくり人づくり」の本は好評だった。

定例テストや月1回の塾ニユースなど多面的に家庭とも連絡し合った。

 

塾ニュースは100号を超え、みんな楽しみにしてくれていた。「国語、社会の勉強」と一人ずつ音読し合い、ときには「不戦兵士の会」から来てもらって「学徒出陣」や戦争体験を具体的に話してもらったこともあったなぁ。

 

東京や京都の有名大学に進学した秀才たちも何人もいる。が、この地で働く彼らも、真面目に勉強した努力家が多い。

塾の評判は良かった。だが、反省する点も当然あった。

 

その一つに、努力しても確認テストで80点以上の点が取れない子がいた。ときが経って「学習障害」という一種の病気という理解がされるようになったが、当時はその様な理解はなくて親が悩み、塾を辞めさせられるのではと、深刻だった。


 さらに授業に集中せず、合格ラインの80点は取るが、人の邪魔をしたり、いじめる生徒がいた。両親は学校の教員だった。「規定通り親に来てもらうが、両親2人とも来て貰おう」となり、呼びつけて懇談した。

 

人間、少し巧く事が進み出すと、ごう慢になる。見本のようなわが夫婦であった。

 

教員のプライドがある。それを傷つけられたご夫婦の気持ちを考えるようになったのは数年経ってから。その子も国立大学合格を誇らしげに報告してくれた。

塾を辞めてから毎年、庭に花咲爺さんが咲かせるバラを持参して、心で謝っている。

 

地元で会った彼ら、彼女らが名古屋市郊外のこの地で、しっかり職業生活を営んでいる様子に、ホッとする。

 

60歳になってやりたいこと、それは、東欧革命とソ連邦崩壊という歴史的事件を体験したことで、青春の情熱を傾けた政治活動とは何だったのか。

世の中の矛盾を解決する理想とは? 

 

インターネツトのはしりの頃だった。生き返ったわが夫婦が書きたい心が動く。

21年間続けた塾を辞めた。

塾をやめて10年、アッと言う間だった。

 

卒業生の中にはすぐ父親を亡くし、酒屋の後を継ぐ生徒がいた。

同じくパン菓子類や、調味料などの販売していた店の子が、小売業不振で廃業寸前になっていた。

 

長年クリーニング業で活躍した家の、3人の姉弟とも真面目で生徒会の役員などして張り切って通ってくれたが、近頃のクリーニング業界異変で、廃業目前になり親たちは苦労している。

 

何より、塾生の親が認知症になったという不幸に苦闘している卒業生が2人もいる。

 

いまなら、殆ど車で送り迎えかも知れないが、当時はみんな10分、20分以上も自転車を走らせて来てくれた。遠くから、近くから・・・。

ずらりと自転車が並ぶ庭、遠くから週3回通ってくれた生徒たち、みな堅実に公立高校の目標を立て成果を上げた生徒たちである。

その子たちが、親の生活変化で苦労している。

 

職業まで投げ打って政治活動に必死になり、意見の違いから風呂敷包みひとつで追い出された夫。尾行、張り込み、反党分子攻撃・・・一面的思考で恥多き人生を送った夫婦。

 

でも、東欧革命、ソ連邦崩壊で生き返った。体で体験したから、自由の有難さが身に沁みる。あれから20年が流れた。

 

現在は安定した生活を送っている夫婦も人生終章、おわりまで何が起きるか分からない。それが人生。

 

頑張った教え子たち、苦闘した親を支えて頑張ってくれたわが子たち、塾生の親たちに感謝のひとこと それしかない。

 

 

 

       めがねがオモロイ

 

 出歩き女は、買い物を済ませ、昼近い空いた電車に腰を下ろす。

 めがねをかけて、さあ帰りの読書だ。座席に腰を下ろしながら、運動、買い物、読書と一石三鳥狙いの出歩き女は、反対側の座席に、若い夫婦と女の子が並んで腰掛けるのを目にした。

 

 電車が動き出して暫くすると、子どもは足、腰をずらし椅子から電車の床にずり落ちる。若いパパさんは、エイヤッとばかり、その子を椅子に座らせる。少し経つと、同じように腰をずらし始め、床へストン。また床にストン、嫌がる子をヨイショは続く。そのうち、泣くような、わめくような声を出して、パパを困らせる。

 ママは日頃世話をやき続けているのだろう。そ知らぬふりして、何か読んでいる。

 

 何となく、読んでいる本に集中できない。こちら側の座席には、もう1人の女性がいるだけ。中年のその女性もにこにこして見ている。その子は靴下のまま、その女性の傍に近づき、次にこちらに向かって擦り寄ってきた。

 

 めがねを外して「いくつ? 2つかな、それとも3つ?」その子は知らぬ顔、すると向かい側のママが「2つでしょ」と言った。「そう、おりこうさんね」というと、ニコッとして私の顔を下から覗き込む。

 

 2歳の長男と、毎朝6時50分発の名鉄電車パノラマカーに乗った。先頭車両の最前部にある、広い空間にカバンを置き、長男を座らせた。名古屋の職場近くの保育園にその子を預けるため、出勤時間が早い。アッ、デンシャ、あっちからキシャもきた! そうだねー、ほらほら速いよ。ことばがはっきりしたお子さんですね。ありがとうございます。

 

 仕事と子育て、さらに活動と必死のあの頃、もう40年近い月日が過ぎた。名鉄電車の名物パノラマカーも廃止が決まり、これが歴史というものかと一瞬感傷的になる。

 

 さあ読書、読書と、老眼鏡をかけ、読みかけのページに目を移す。と、2歳のその子は珍しそうに私をじっと眺める。仕方がないので「めがねがオカシイの?」と言うと、にっこり笑って、益々擦り寄ってくる。その愛らしい笑顔に降参した。

 座席の上に立ち上がり、つり革を指差して触らせよという表情になった。「これにぶら下がると転んで危ないからダメね」親たちは、ニコニコし始め、2人の会話を眺める態だ。

 

 下りる駅が近づいた。「もうすぐ下りるよ」という親の声を聞きながら、「小母ちゃんと一緒に下りる?」とわざと聞いてやった。「うん」。これには参った。「一緒に下りるとお家に帰れなくなっちゃうからダメね。握手でバイバイしよう」。その子は臆せず、握手してくれた。つきたてのお餅のような白い手で。親子は次の駅までらしい。下りるとき、若いハパとママに頭を下げた。2人共、うれしそうな笑顔で頭を下げてくれた。

 

 夜、相棒に言った「可愛い孫としばし遊んだ感じ、楽しかったよ」。話ながら思いついた。

 そうだ。電車を下りるとき「愛らしいいいお子さんですね」とひとこと言えばよかった。

 そうしたら、あの夫婦はもっともっと溢れる喜びで、自信もって子育て出来たのに…。

 

 

       ある写真展

 

 「白士会」秋の展覧会へ行った。絵の先生が近くに住んでおられ、よく展覧会に招待される。

 愛知県芸術文化センターは、平日だったが入場者は多かった。

 この会は、斬新な画風のベテランが多いことが素人でも分かり、なかなか楽しめる。

 中国やスペイン、イタリーなどの旅で絵筆を握った力作も多く、描く人たちの生活や文化的ゆとりを感じさせる絵画展だった。

 

 鑑賞し終わって、ロビーに出る。すると同じフロアに「『視点』 公募展」とあり、視点?視点って何だろうと、興味が沸いた。ついでだからと、入場料300円を払って、その公募展を観た。

 驚いた。いま観た絵画と、視点がまるで違うのだ。

 

 背丈が異常に低い子たちが撮ってある。眼の位置が全くずれてしまっている子どもが写されている。日本の子と思ったが、それはベトナムの子どもだった。ベトナム戦争で、アメリカは大量の「かれ葉剤」を使った。

 この子たちは、その後生まれた障害のある子たちだろう。

 

 カンボジアで路上生活する貧しい子たちが撮ってある。ハンセン病の人たちが写されている。これも日本でなく、台湾の不幸な人々だった。

 

 蒼く澄んだ沖縄の海、その美しさに先ほどの貧しく、厳しい障害のある人たちの衝撃的な気持ちが救われる思いがした。しかし、その沖縄の海は「辺野古基地」だった。写真はこの美しい海を基地にするなの、反対行動の旗が撮ってあった。

 

 心から微笑んだ写真もあった。僻地の廃校になったような学校の前の子ども。私たちの子どもの頃、毎日やった馬とびに興ずる、明るい表情の子どもたち、いたいた、あんな、あばれん坊が。私たち女の子も馬とびやったもの。子どもたち勢ぞろいでこちら向いて笑っている写真を観て、思わず笑ってしまった。

 

 「写真もあなたの言葉です」と書かれた解説に、「視点」は1600点応募で、163点入賞とあり、この公募展も31回を重ねていることが分かり、久しぶりに納得したときがもてた。

 

 そして想った。「人間や世の中への、この視点があれば、日本はまだ大丈夫だ」。

 こんな「視点」があったことが、発見であり、盛況の「白士会」展に比べ、この写真展を観る人は、私たちの他に2組だけだったのが残念だった。

〔2006・9〕

 

 

 

       もうひとつの感性

 

 身近に、障害者をもつ友人が2人いる。そのうちの一人が、やっと生まれた孫がダウン症だった。その子が最近、白血病で移植手術をした。

 手術は成功し、退院したのでと、ささやかなお見舞いにたいして、祖母と母に連れられて、お礼に自宅に来てくれた。口にだけ、白い小さなマスクをして・・・。

 

 「こんにちは!」考えられないほど元気な声で、挨拶してくれた。お見舞いの絵本の『もこもこ、にょきにょき・・・』の話もしてくれる5歳は、天使のような笑顔だった。

 

 先日の新聞で、障害のある子と向き合っている医師が、温かい文章を書いていた。「いくらかの割合で障害者が生まれている。私の代わりに苦労していてくれる。こういう見方がいま、必要ではないか?」というものだった。

 

 確かに、いまは障害もなく生きていても、老いれば障害のある体で不自由する確率は高い。若くても、障害もなく生きられるのはたまたまかも知れない。

 

 最近、NPOで、障害者に水泳の指導をしている友人から便りが届いた。

 「私にもいろいろなことがありまして、エネルギーに溢れているときは『生きてるよー』となり、そうでないときは『私の人生不幸せ』となるのです。

 

 障害者やそのお母さんへの指導は、なかなか素晴らしいもので、彼女たちの明るさ、健気さに励まされます。若い頃は楽しいことがいっぱいありましたが、年齢を重ねても、やはり、楽しいことがいっぱいあります」。

 若い頃から大柄で、スポーツが得意だった。特技を活かしていい老後を創り出している、感性の豊かさに感心した。

 

 少し前、ピアニスト フジコ・ヘミングの生演奏を聴いて、人気が衰えない理由が分かったような気がした。

 

 1995年、母親の死をきっかけに何十年ぶりに日本に帰ったフジ子・ヘミングは、波瀾の人生がNHKのドキュメンタリー番組に取り上げられた。

 番組の中で流れるピアノ演奏に「こんな素晴らしいクラシックは初めて聴いた。どこへ行けばCDが買えるか」と問い合わせが殺到したという。

 

 フジ子・ヘミングは、スウェーデン人の画家を父に、日本人のピアニストを母に、ベルリンで生まれた。5歳のとき、一家は日本に帰国したが、日本が戦争への道を一直線に進み始めた時期、父は職を得ることもなく辛い思いを1年ほどして、ひとりスウェーデンに戻ってしまう。

 

 母はピアノを教えながら、苦労して2人の子ども、フジ子と弟とを育てた。

 フジ子・ヘミングは、ピアノの才能を生かしたいと留学したが、お金もなく孤独で、バーンスタインに才能を認められながら、暖房のきかない寒い部屋で練習して風邪をひいた。

 折角表現の場が実現したのに、風邪でピアニストにとっては致命的な聴力を失った。

 

 フジ子・ヘミングが経験した挫折と苦悩の日々が、もしなかったら、いまのように人を魅了する、感性溢れる演奏はできただろうか。

 

 「今、世界中の子どもたちの80%が飢えていると聞いただけで、ぞっとしちゃう。物乞いしている子どもたちのことを考えると・・・」これは、最近出版された本で読んだ、ある対談での、フジ子・ヘミングのことばである。

 こころに沁みる豊かなピアノの音色は、もうひとつの感性が創り出す。

 

     ちよっと明るい話

 3匹の犬がくれた「贈り物」の話です。

 近所の若いお母さんが、ゆっくり犬を散歩させていた。ふと見ると犬は前足が1本だった。思わず「けがですか」と聞いた。「知らない犬がすぐそこの名鉄電車にはねられたんです。病院へ連れて行き、手術してなんとか歩けるようになりました」。化粧気のない横顔が、急にやさしさ溢れる女神に見えた。

 「大変でしたね。子どもにはいい教育でしたよ」とほめた。

 夕方犬の散歩で、久しぶりに同世代のTさんに会った。Tさんの犬は白と黒のぶちで、つややかな毛並みをしていた。「いい犬ね」というと 「いま、児童虐待って問題でしょ、この犬は他所の家で、ご飯も散歩もなしで、虐待されてたのを見かねてもらい受けたの」といった。そういえば2人が話す間、目にやや落ち着きがなく、跳びかかられそうな気配もあった。童顔のTさんの、愛情に満ちた顔が、また女神に見えてきた。

 数日後の早朝、結婚して家を出た娘から電話があった。「公園に子犬が捨てられてる。夕べ冷えたし、孤独な目でしっぽ振るの。マンション住まいで私は飼えないし、かわいそうでこのまま放っておけない。人なつっこい犬だから、家で2匹飼えない?」。電話で2匹の散歩や犬の年間費用など話し、あとは娘の判断に任せた。すると、1時間後にもう車で、ぬいぐるみのような子犬を連れてきた。

 小学生たちが、子犬を見にくる。別の子達が抱きにくる。「ヒコとコローとぉ、チャコとローリーとぉ…」界隈の犬の名を、歌うように唱えるあどけない笑顔、通る人がみな、子犬を見て笑顔になる。

 交通事故に遭い、虐待され、捨てられた犬たちから温かい贈り物を貰い、久し振りに心の奥が潤った。

 深い秋の夕暮れどき、真っ赤な西の空に向かって3本足の犬が歩く。私も愛犬と駆け出した。


         最近の世相から  その一

 五千人を越える死者を出した、あの阪神大震災の惨状さえ、遠くへやってしまうほど、 オウム真理教の報道でもちきりである。

 サティアンとかハルマゲドンとか繰り返される聞き慣れない外国語、あるいは教祖が歌う稚拙な音楽に辟易しながら、やはりテレビを見る。ナチスドイツでさえ使わなかったサリンを、農薬の名でも聞く感覚になった。

 自動小銃とか、細菌兵器とかレーザー兵器など、まさにSF、劇画の世界である。宗教の殻をかぶった殺人集団、一宗教団体が何故ここまで出来るのかと不気味である。しかし時代の産物であることは間違いない。

 日頃、学習塾で子供たちと接していて、気になる事が2つある。1つは嘘が平気でつける事。

 テストでカンニングをする子が2年に1人くらいいる。証拠の紙まで出ると親に来て貰って、話し合うのである。大抵はカンニングを認めるが、家に帰ると母親から「本当はやっていないと言うのですが」と電話がかかるのである。子供たちの『道義』や『社会性』はどうなってしまったのかと、心が暗くなる。外人との記者会見で、オウム幹部の発言に、「嘘つき」と言って退席した記者に溜飲を下げた。政治家や、社会のトップの人達も平気でたくさん嘘をついた。日本中に嘘が蔓延している。

 もう1つは、人間的幼児性である。6年前、娘の高校の入学式で校長も「年々生徒の幼稚化が進んでいる」と挨拶されたが同感である。オウム幹部の舌を巻く知識とはアンバランスな驚くべき人間性の幼稚さである。

 「空中浮揚」や「地震兵器」を信ずる彼らはエリート揃い、私たち大人は笑えるだろうか?  私たちは生活者としての人間育てをしてきたか?  幼児からの早教育、勉強さえしていればいい子で、お手伝いもさせない親達。遊びの中で覚える人との交流や思いやり、それがない。爛熟した夢のもてない世の中とはいえ、あたら頭脳が人間性をなくし、毒ガスを作り、兵器を作る。

 テレビの、雪を頂いた富士があんなに美しいのに、緑の季節なのに、心は曇天である。


       最近の世相から  その二

 現代は入社後数年で転職が普通で、入社式の日から来ない人さえ毎年何人かはいるという。

 妹の2番目の子はS大英文科を出てY証券に入社した。「バブル崩壊で大変でしょ」というと「全然、少し働いたら転職する」と言っているそうだ。

 身内を褒めるのは少し抵抗があるが、その2番目の子は、はた目にも美人である。そのせいか「3高の玉の輿にのる」のが夢という。妹は共働きしながら3人の子を大学に入れた頑張り屋である。

 先日その妹が1番目の子をつれ「相談がある」と来宅した。それは、めいが「青年海外協力隊」に合格して、アフリカ、ガーナの子たちを教えることになった件だった。

 姪は高校の教壇に立って3年であるが、「現在の高校へ強引に引っ張ってよくしてくれた校長から、黙って『青年海外協力隊』に応募した事で叱責され落ち込んでしまった」というのである。「校長との事は一時的で、仕事の代わりはあるものよ」と自分の体験をふまえて話した。

 「2年間、日本とは全く違う環境の子どもたちと生活することは苦労も多いけど、いま求められている 『地球人』的視野で物事を見られるし、人間的成長は凄いと思うよ」。率直な意見交換は朝から昼過ぎまで続き、すっきりしたといって親子は帰った。

 「3高」だの「仕事ぎらい」だのが今の若者の典型のようにいわれるが、一方で「青年海外協力隊」は10倍の難関だったそうで、その事は多くの若者が生き甲斐を求めている証拠だと思う。

 総理府の調査でも「国や社会にもっと目を向けるべきだ」という社会志向が51%で昨年より10%アップしたとの事である。

 数日後、A新聞の特派員メモという小さなコラムに私は引きつけられた。「夜も更けたアフリカ、マリの首都で見たのは、幹線道路の照明で必死に勉強する学生達だった。貧しいマリでは電気は一部の人の贅沢品、就学率は3割、字が読めない人が8割という」。

私は姪の1件とこの記事で久し振りに何かほっとする思いがあった。


       人間関係

 人の世は、どこでもいざこざがつきものらしい。近くの会社のパートさん仲間にも、エリート職場にも、文壇や政党や宗教団体にも、必ずといっていいほどもめごとがある。

 明治時代、30代の夏目漱石が「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」と『草枕』の冒頭で書いているが、このことばは30年の勤め暮らしの中で、また保育園やPTA、子ども会の役員などやって、身にしみて感じ続けた。

 いま考えると職場の中の人間関係は競争もあったが、「我が社意識」や「同じ釜のめしを食う」者同士の連帯感もあって、人間関係を良い面に保ちやすかったように思う。その思い出が退職後もときとして心を温める。けれどもそれは特殊な人間関係だろうから、退職後はいい思い出だけを胸に、2 、3の親友以外だれとも会わないようにしている。

 ある年の「子ども会」で役員をやっていた時、男子のソフトボールが優勝まであと一歩で、みんな団結して盛り上がっていたとき「男子ばかりに力を入れる」「連絡が遅い」と親から文句が出た。

 子ども約80人中、上級生が男はソフトボール、女はバレーボールをやり、大会にむけて4カ月間役員と親が交替で、体育館やグラウンドに引率するのである。当時の5、6年生は男子2に対して女子1の人数で、どうしても男子に力が入った。

 弱ければ批判続出だし、強ければ強いで文句が出る。いろんな人と懇意になり、大勢の子どもと楽しく過ごせたのに「役は金輪際いやだ」と思った。

 何年もたってから「あのときは良かった」「みんなあなたに一目おいていた」などと聞くと、結局は、人の噂や言葉に振り回されず、信ずるように行動すればいいのだと思わされる。人生何がいいのかその時点では分からないのだ。すべて「棺を蓋いて事定まる」である。

 近頃老人ホームでもいじめがあり、元管理職や元校長は嫌われると新聞が報じていた。 「克己復礼」とは、我執を捨て、同じように悩み喜ぶ人間同士という立場でいい人間関係をつくる意味という。この言葉は私も好きで理想ではあるが、現実には1人の人間としてなかなか裸になれない人が多いのだろう。

 人間関係の上手な人は「聞き上手」という。人生の最終盤を心安らかに過ごすために、私もせめて「聞くことを早く、話すことを遅く」を心がけたいと思う。


       湾岸戦争

 「ひこうきが私の学校の上をとんで行った。よく見たらそれは戦争にいくひこうきだった。私はそれを見たしゅんかん、からだがふるえた。なぜかしらないけれど、ふるえた」。

 これは小牧基地に近い春日井市味美小学校の生徒の作文である。私はとても切実感があると思って読んだ。

 東欧諸国の民主化、ドイツの統一など、米ソの冷戦終決ムードに、なんとなく地球から戦争が永久になくなったように錯覚していた私は、湾岸戦争が本当に起こって、人間は結局戦争なしで生きられない生物なのかと、虚しい思いで胸が騷いだ。軍事施設に限っていたはずの空爆が、いつの間にか庶民の住宅爆撃となり、傷だらけの死者や負傷者がテレビ画面にも写し出されるようになった。いつも犠牲は庶民だ。

 それはそのまま家を焼かれ、アメリカの重爆撃機B29に怯えて逃げまわった幼いころの記憶に重なる。

 おまけに、原油の大量流出で地球環境破壊戦争に発展しはじめた。油の海に死んで行く鳥たちの姿は明日の自分達の姿だと思った。

 開戦と同時にアメリカへの「断固たる支持」を表明した日本政府は、40億ドルに次いで90億ドルを軍事費として出すという。みんな日本人が「過労死」までして働いたお金でである。1円たりとも戦争に使って欲しくない。石油利権や宗教問題など複雑な要因の多いこの戦争のどちらにも加担すべきではないと思う。中東に対して中立を保って来た日本こそ、戦争終結努力への発言をして欲しい。

 イギリスの週刊誌は、米ミッドウェー艦隊や米海兵隊のハリアー戦闘機が、日本の基地から無通告で湾岸にむけて出撃していると報じている。これを読んで私はギクリとした。

 わずか40年前、何百万という人々の死と犠牲を払って、平和が来たのではなかったのか? 割り切れない思いを抱いて、仕事である塾の教室に出た。

 塾の子供たちが『ガラスのうさぎ』という、戦争で苦労する子供の話を基に、学芸会で劇をやるという。「『この地球上から戦争がなくなるまで』と言って戦争孤児役の私が倒れるんだよ。そんなことあり得ないよネ」という。それを聞いて、この子達に、かつての自分がなめた苦しい戦争体験をさせてはならない、と心から思った。


       戦後五十年

 夫婦でやっている学習塾で、社会科「戦争」 の単元に力が入る。

小学6年の社会科教科書は、10ページにわたって戦争に関する記述が続く。

1931年の満州事変から15年間、戦争に明け暮れた日本である。20枚近い写真。焼けただれた原爆ドームや、東南アジアの都市を占領する日本軍の写真がある。学徒出陣の写真もある。

 戦後50年が近づいた3年前、空襲、疎開、飢餓時代を語れる最後の世代として、社会科特別授業で体験を話した。原爆投下の地獄の底で、新しい命が生まれた詩「うましめんかな」を朗読し、731部隊の話をした。

 豊かな時代に育った12歳の6年生に、50年も前の話がわかるか半信半疑で。そして、丸木位里夫妻の「ピカドン」の絵を見せた。

 その時、子どもたちの目に涙を見た。子どもたちは作文に「戦争で死んだみなさんにいまの幸せをあげたい」「日本は被害者でもあり、加害者でもあると先生は言いました。中国や朝鮮の人にしたことが、原爆になってかえってきたのだと思います」と書いた。あのとき、話すべきだと心が決まった。

 一昨年と昨年、夫の友人の名古屋大学Y教授に頼み、「不戦兵士の会」から学徒出陣の体験者をと、死の島「ラブアン」から奇跡の生還をした元兵士に来てもらった。そして私と共に2日間、社会科特別授業をした。

 72歳の元学徒兵は「大学1年のとき戦争が始まり、多数が特攻隊として死んでいった。生き残っているのは偶然に過ぎない」と話し、80過ぎの元兵士は「500名中、生き残ったのは8名。自分の命も、人の命も大切にする人になって欲しい」と諭すように話された。3、40代の親からは「戦争を知らない私たち親も勉強したかった」といった意見が多数届いた。

 戦後50年、豊かになった日本で戦争を知らない世代が過半数になった。悲惨でおろかな戦争の語りべとして、次世代に伝えることが、私たちの「戦争責任」と思い、今年もささやかな努力を積もうと思う。


       弥生

  弥生3月は光の春、明るい光のシャワーで大地が甦る。が、刺す風の冷たさはまだ冬だ。

「じゃ行ってきます」。長女は翌日の入社式を前に東京へ旅立った。朝7時「この家にはもう戻らないだろうな」。僅かの寂しさと、深い喜びを味わいながら送り出した。親のそんな心のざわめきは、この希望に溢れている22歳の子にわかるはずがない。自分がそうだった。

 共働き家庭で育ったせいか、女も長期展望を持って働くがいい。自分でそう決めた。子どもと暮らす「とき」の、なんと短いこと。すでに、大学進学のときこの家を出た長男同様、純粋培養でないわが家の子供たちは、なんとか生き抜いていくだろう。

 しかし、保育園以来の長女の友人は、教員試験に落ち、浪人中だ。親同士が仲良しなので「3月に祝賀会を」という約束をしたが果たせず、22年間の友人関係も、これで終わる予感がする。

 弥生3月はまたほろ苦い。沈丁花の香りとは逆に、この季節は門出と別れの季節でもある。わが学習塾も、たくさんの15歳を送り出した。

 戦後50年の昨年夏、生徒会役員として広島へ行ったTは、密かに医学の道を志す。その目標があってか、ぐんぐん実力を伸ばした。みんな威張らなくて、仲良しだった。 卒業祝いは、気遣い上手なKやSが盛り上げ、歌声が夜空に響いた。

 卒業式の翌日、A子が手紙をくれた。「当初は学校以外の所でまで、何故勉強するのと思ったが、学校で教えて貰えないいろんな事を教わった。社会へ出てもきっと役立つと思う」。Tと広島へも行ったAは、卒業式で答辞を読んだ。

 みんな希望に満ちて進学した。あの子たちにとって、塾での3年か4年間は、ほんの通過点に過ぎないだろう。

 弥生の春は希望の春でもある。

「いまの若者は」いつの時代も大人は言うが、彼らは、次代をリードして十分生きていくと思う。散歩に出ると、ハクモクレンの何百という花が、天然のシャンデリアのように輝いていた。まるで若者たちの未来を象徴するかのように。


       少年少女

 塾をしているわが家は町の勉強屋、少年少女の社交場でもある。学校と違って「評価」がない分、子どもたちは生き生きしている。

 「カレー母ちゃん、カレーのうでまえは全国でもトップをあらそう母ちゃん32歳」テスト用紙裏の似顔絵つきの落書きに、思わずにやりとした。昔の少年らしさを感ずるKの2年前の落書きに、ほのぼのとした気分を味わったものである。

 15年前、この塾を卒業して希望の高校へ進学したM夫は、大きなリュックを背負って東京神田の古本屋巡りをした。仲良しのSは鉄道が好きで、高校合格記念に1人旅をした。

 それらに、希望と不安に満ちた、清々しい少年らしさを感じた。そんな少年が多かった。

 10年ほど前、長女が高校入学の日、自由な校風のその学校長が「年々幼稚化が進んで・・」と言われたが、実感する。

 今年高校生になったT男たち4人の野球部員が、石投げ競争をして近所の家の高価な ガラスを割ったのは、中2のときだった。このころになると男子の背丈が急に伸び、大人びてくる。

 塾長である夫は「投げた者は名乗り出よ」とその行為の愚かさを諭し、彼らをぶん殴った。そして弁償代金を持って4人を連れて謝りに行った。

 今年の春、隣の工場の軽トラックの幌に、ナイフで小さい傷をいっぱいつけたという苦情が来たので、菓子折りを持って謝りに行った。いつも休憩に、塾生の中3がそこで話し合いをしていたので、幌が傷つけられたという苦情に謝罪した事、隣人が仕事上大変迷惑をしている事を話し「やった者は申し出よ」と言ったが、誰も申し出る者はいなかった。

 先日、大人向けのいかがわしい情報で、3分300円もするダイヤルQの請求がNTTから来た。使った覚えがないので、その請求書を示して全クラスに聞いたが「え?何の事?」という感じで、表情は微動もしなかった。深い所で何かが変わりつつあると思った。

 夏休み、真夏の太陽がうんざりするほど照りつける午後3時、蝉のけたたましい協奏曲のなか、中3の男女が自転車で続々到着する。

 10年くらい前まであった学校の補修授業は一切ない。夕方まで塾で、高校入試目指して必死に勉強する。部活も管内大会終了と共にすべて終わるから、自宅で勉強一筋の日々になる。

 授業が終わっても帰らず、名残惜しそうにあちこちで車座になってしゃべりまくる。楽しそうなその様子を見て町の勉強屋は思った。

大人たちの世の中が、清く美しいどころか、物欲と黒い闇に満ちている以上、少年少女たちも清濁混合の世の中で様々な体験をし、善悪を見分けながら逞しく生きていくだろうと。但し、条件が要る。その都度、大人が的確な指摘をするという条件が。


       つっぱった子どもたち

  〔一〕シナモンケーキ

 10年前になる。保育園で子どもがお世話になったTさん親子が来訪された。

 Tさんの長男は当時中学2年だった。小学校までは優等生だったが、中学へ行ってからツッパリグループに入り、成績ががた落ちになったので相談にみえたのである。何も言わないのに小学校6年の通知表を出された。

 総合評価はどの科目も、ABC三段階評価のオールAで、「特に絵画、書道が抜群であり、中学進学後が楽しみです」と記されていた。

 夫は大勢の塾生の授業が終わると、T夫を残し、11で指導した。英語、数学の基礎が抜けてしまっているT夫に10時、11時まで、ときには夜中の12時過ぎまで教え、話し合った。

 「派手なアロハを着ない。宿題をやって来る。ずる休みをしない。」この3つの約束を守らせ、やっとT夫の成績が上向いて来た頃は、3年生の夏だった。

 夏休みになると、塾が始まる夕方7時頃から終了の9時頃まで、ツッパリグループの仲間が塾の周りをウロウロし始め、秋にはT夫のずる休みが始まった。

 下の子どもが零歳保育で、看護婦でもあるTさんのようなベテラン保育者に随分助けられた。同じ共働きのTさんが、子どものことでどれほど悩んでおられたか、それを思うと私たちも真剣勝負だった。自分たちが倒れてはいけないと、この頃からアルバイトの大学生を雇い始めた。

 Tさんは保育園の仕事の合間をみては、何回か手作りのシナモンケーキを持って来て下さった。ある時少し乱れた髪をおさえながら「お父さんは仕事を家へ持ってきてまできちんとする。子どもがうそを言ったりすると、本当にカミソリで子どもの頭を丸坊主にするんですよ」。あのやさしそうな笑顔の人が、怒ると子どもにとっては、とことんこわい存在になる事を知った。

 秋も深まり夜風が身にしむ頃「ずる休みをしない」という約束を3回破られ、私たちはとうとう、T夫に退塾勧告をした。

 「T夫はツッパリグループのボス」そんな噂を聞くようになった。

  落ち葉の季節になると、T夫を立ち直らせることが出来なかったホロ苦さと、シナモンケーキの味が甦るのである。

  〔二〕「塾で勉強してるー」

 「H夫が塾では勉強してるー」中2のS子は驚きのあまり、家へ帰ると早速両親に話したそうである。

 S子の両親と私たち夫婦は、子どもの保育園時代からの友人で、母親は教師である。

 中1で入ったH夫も中2になっていた。そのH夫がツッパリグループのボスだというのだ。

 当時学校は荒れ放題で、授業のエスケープ、喫煙は序の口で、何人もの生徒が先生へ暴力をふるった。「英語の女の先生が殴られて、顔がポンポンだった」とか「ベテランのA先生も殴られた」とかは日常茶飯事だったと聞く。そのため、学校の授業は成り立たず、心ある父母たちは「このままでは学力低下で高校受験も難しい」と悩み、相談しあっていた。

 教師の子S子はそんな頃塾へ入った。他の学校の優等生たちもおり、「やっと勉強らしい勉強が出来るようになった」と家族に話していた。学校であんなに暴れるH夫が、塾では勉強している、それが理解できなかったらしい。

 H夫は体格もよく頭もよかった。ときには、休憩時間でも、必死で勉強していた。

H夫の学校と塾での態度の違いは何なのだろう。夫婦でいろいろ話し合った。学校では、 何かに反抗して「勉強なんて」という態度を貫いているが、実は勉強は出来ると見て欲しかったのだろうという事になった。

 そのうちH夫のグループのKやOが入って来た。学校では、水と油のような関係の優等生とツッパリグループが一時期、共に勉強した。個別に話す機会があると夫は「中々いい」とか「よくやった」とか褒めた。

 しかし、辛うじて保った平穏な教室の空気が、遂に破れるときが来た。

 理科のテストで頑張ったH夫は、優等生のS子たちより点数が良かった。ところが学校の通知表ではS子たちは、5段階評価の5になり、点数が上のH夫は3だった。夫は「学校での態度を真面目にしないといかんよ」と諭した。H夫は「ハイ」と素直に返事したが、心の中はどうだったのだろう・・・。

 そして中2の夏休みが終わる頃、ずる休みが始まった。1回2回と続くようになった。 「この塾では、無断欠席は許されないよ」と、何回も注意したが、H夫の無断欠席は続いた。

 ある日「これ以上欠席が続くなら、家に連絡する」と言った。途端H夫の顔色が変わった。「それなら、やめます」と、遂に教室を出た。

 続いてグループの一人が、「オレもやめる」と肩をそびやかして、教室を出て行った。 その時、グループのOが授業のレジメを手でぐしゃぐしゃに丸めて「やめてやる」と出ようとした。夫が怒鳴った「なんだ!その態度 は!きちんともとの形にして返せ!」 その迫力に押されて、Oはレジュメを手でのばし、教室から逃げるように出て行った。

 こうして、いつの間にかわが塾に揃ったツッパリグループの、大ボス小ボスなど、4人が退塾した。

 つっぱる子たちと縁が切れて5年が過ぎた。校長が変わり、必死の地域懇談会が全地域でもたれた。荒れに荒れた中学校も卒業の合唱コンクールでは、ツッパリも含めて、全員で盛り上げ、感動的に終了したとのこと。彼らは卒業していった。

 間もなく、彼らが出てから3回目の卒業式がやって来る。

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