自然とともに

〔3DCG 宮地徹〕

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      歩く 自転車で走る それがいい  庶民のつぶやき

 

歩く 自転車で走る それがいい  庶民のつぶやき

 

盛り上がるように自転車が並ぶ。

最寄りの私鉄駅近くの自転車置場 線路に沿って長く続く。

数えると50台 100台、…200台、いや300台近い。

そこを通るとなぜかホットする。

 

現役時代、名古屋駅まで私鉄に乗り、名古屋駅から官庁街へ自転車で走った。時間にして30分くらい。

毎日走った。晴れでも雨でも。二酸化炭素なんて関係なかった。

 

五月は古い植物の葉が、こんなに柔らかい色に生まれ変わるのだ。

いつもの年なら、体中がいい陽気を吸い込んで楽しむ。 

今年は新型コロナが、変異株ウィルスが、感染力の強さに全国的にオタオタだ。

 

世界には素早いワクチン接種で、感染者を減らし普通生活を取り戻している国もある。

見えてくるのは、現状の掴み方の甘さ、この国の政治力のなさを感じる。

 

仕事を無くした、生活出来ない。深刻な現実にあらゆる分野の人たちが苦しんでいる。

飲食業、ホテル旅館や観光業、或いは芸術部門の舞台、映画関係、

バス、鉄道の交通機関さえ大幅な縮小をせざるを得ないそうだ。

 

政治に関わる人たちは、もっと専門家の意見に耳傾け、人の命を守る任務を果たすべきだ。

こんなに庶民が不安になっているのに、オリンピックだって?

人の命を守るのに、いい加減な対応をやめてほしい。

 

例年にない早い梅雨入り宣言。地球温暖化で人類が生き続けられるか?

世界の良心が二酸化炭素削減などに、意識的に取り組み始めている。

 

車、くるまと 便利さに慣れ、一家で二台以上の車持ちも珍しくない。

わが家は車なし。なるべく二本の足で歩く。

買い物が多いときは自転車で走る。

人間社会が地球環境を壊してしまった。若い世代はこの地球で生きていかねばならない。

            2021528

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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        花は散る

一センチほどのさくらの花ビラが舞う。花吹雪 その見事な美しさに感動

         愛らしいアザラシの赤ちゃんが死んでいく。 温暖化の危機刻々

     6月という季節に想う

     散り方いろいろ

     サクラノピンク、菜の花の黄色で埋もれそう

           自然の花見が出来た幸せの日

      、みどりいっぱいの ひとり墓参

          乳がん全摘手術2ヵ月後で少しきつかったが

      、花咲かじいさん 花配りばあさんの想い

      、春が来た来た 春だもの 土筆もづくづく顔出して

      、どうぞ 遠慮なくお持ち帰りください

      、春だ 春だ

      、「また 声かけしてください」

      、青葉の季節         幸子のホームページに戻る

      、異常気象           次の『食べる』へ行く

      、秋の思い

      、

      、地震

      、冬の旅

 

 

 

      花は散る  

一センチほどのさくらの花ビラが舞う。花吹雪 その見事な美しさに感動

さくら名所に選ばれた五条川という田舎の川沿い、延々と続くさくら並木である。

土手は黄色の菜の花が覆い尽くし

高さ10m以上の木に薄いピンクのさくらが頭上を覆う。

満開で賑わうときに夫婦で眺めた。コロナ禍で「出歩くな」との注意ありながら…。

 

明日から雨の予報。ならさくらは全滅だろう。

そう想うと心が落ち着かない。

1人で昼前の買い物の前に自転車で川沿いまで来た。

 

さらに、夕方の散歩で歩いて15分のここまで来た。

風が吹き始めた。アッ花吹雪だ。その見事な美しさ。

誰もいない川沿いの道に散る、散る。1センチほどの可愛い花びらが。

流れる川には 花筏(いかだ)が延々と流れる。

ここを離れられない。

 

少し離れた場所に、かつて兄夫婦が住んでいた。

別の市営住宅には弟もいた。

二人とも旅立ってしまって20年近い。

花は散る。命には終わりがある。

苦しいこと寂しいことが多かっただろう きっと。でも愉しいこともあっただろうな。

 

人はひとりでは生きられない。人の情があればこそ生きて来られた。

親類が空襲で家を焼かれたわが兄妹を、疎開児童を受け入れ無理でも同居を許したり

食べる物なき人に 分け合ってくれた情けあったればこそ生きられた。

 

われもそれを忘れるな。

至らぬ人間のわれ、表現力不足で誤解されたり、理解して頼られることも多かった。

自分なりに、良き人生が歩けたと考えられたら、それで良しとしよう。

 

花は散る。人の命も生きる力があり、死という終わりがある。

美しい花吹雪の下で、あらためてそれを想う。

                (2021・4・7)

 

 

 愛らしいアザラシの赤ちゃんが死んでいく 温暖化の危機刻々と

ここにアザラシの赤ちゃんがいる。10キロほどの白い小さな体に、丸くて真っ黒い目、まるで玩具のようなその初々しく可愛い写真が載っている。その本を眺め続ける。

 

これは写真家 小原 玲氏の『流氷の伝言』(教育出版社)という写真集である。

この写真家は報道カメラマンとして、戦争や飢えなど人間社会の問題を求めて世界じゅうを取材していたと言う。

人間社会の悲しみを見すぎてしまった。だから辛くなってしまい、動物を撮ろうと方針を変えた。いろいろな動物を撮り続けて20年、アザラシの赤ちゃんの魅力に引き込まれてしまったらしい。

 

赤ちゃんは脂肪分の濃いおっぱいを飲んで、1日に2キロほど体重が増えていき10日もたつと30キロと大きくなってしまうそうです。2週間たってお母さんが赤ちゃんのもとを離れる。お父さんは子育てをしません。残された赤ちゃんは1日中氷の上で鳴いている。

 

さて、可愛いアザラシが溶けていく流氷の上での生活が出来なくなり、70万頭のうち

75%が死んだのではと考えられているそうです。(2002年のカナダ)

その10年前の1992年の流氷の写真には、点々とアザラシが写っている。

 

氷河が溶ける「気候変動は地球存亡の脅威だ」と新大統領の米国がパリ協定に復帰した。

地球温暖化で、日本にも大きな台風が洪水を起こして人間がすみかを追われている。

「ゲリラ豪雨」(2008年)などの集中豪雨に襲われるこの国です。

 

アザラシの赤ちゃんが被害に遭うということは、地球温暖化で人間にも被害が出ていると考える。この写真家も言う。

 

二酸化炭素(CO)排出量は毎年1・4%ずつ増え、今世紀中に世界の平均気温が産業革命前より3、2度も上がるという。人間が住む地球が温暖化で生活出来なくなりつつある。

 

私たちはどうすればいいのか。命残り少なくなった高齢者「終わった人」たちはいい。

しかし、若い人たちがこれから生き続けられるか?

 

太陽のまわりを廻る星の中で、さまざまな動物や植物が生きているのはこの星 地球だけです。(オホーツク流氷科学センター長 青田昌秋)

みんなで考え合いたい。

                202129

 

 

        6月という季節に想う

 

雨がよく降るはずのこの季節、梅雨入り宣言があってもあまり雨は降らない。

気温30度を超す日がよくあり、一気に夏の陽気で真夏の暑さが思いやられる。

 

ここ人口4万の田園都市にはまだ残る田んぼがある。列を乱さず行儀よく植えられた10センチくらいの稲、その柔らかな緑にこころ安らぐ時期である。

 

以前のようにうるさいほど鳴く蛙の声は、ほとんど聞こえない。農薬農業のせいなのか…そんな事を考えながら、自然を楽しみながら散歩する。

 

75年前の6月23日、地獄の地上戦が行われ沖縄で、旧日本軍が組織的戦闘を終えた日とされている。およそ20万人の命が失われた

その日の新聞に、家族10人を失った83歳の女性の話が載った。

 

83歳といえば自分と同じ歳である。1945年6月当時8歳だったこの女の子ははぐれた祖母を捜し泣き叫びながら、逃げ回ったという。

そうだ、自分も子ども時代は戦争だった。

その女性は「神様 神様助けて」と心の中で叫び続けた。

 

逃げるなかで、艦砲弾がヒューヒュー飛び爆弾が近くに落ちた。母、弟二人祖父、祖母たちを次々失った。

戦争は人の心を鬼にする。そう振り返り、初めて証言したとあった。

沖縄の公園内の石碑には総数24万1593人の氏名が刻まれている。敵味方区別なく。

日頃沖縄なんて縁遠い地域、そんな感じ方の人が多いのではないか。

沖縄に住んでいてもこの地で繰り広げられた血だらけの残酷な殺し合いをあまりよく知らないという人が過半数という。

 

平和の詩……『あなたがあの時』より抜粋… 高良朱香音さん(首里高3年)

……あなたがまだ一人で歩けなかったあの時

あなたの兄は人を殺すことを習った

 

あなたが声を上げて泣かなかったあの時

あなたの母はあなたを殺さずに済んだ

あなたは生き延びた

 

真っ暗闇のあの中で

あなたが見つめた希望の光

私は消さない 消させない

私は平和な世界を創造する

……沖縄の高校生の詩、感動的な『平和の詩』だなぁ。 沖縄慰霊の日を忘れない。

5:54

沖縄全戦没者追悼
式で「平和の詩」を
朗読する首里高校3
年・高良 ...

 

朝日新聞社

YouTube - 3 日前

 

平和の詩「あなたがあの時」全文 沖縄 慰霊の日 | NHKニュース

www3.nhk.or.jp › NHKニューストップ社会ニュース一覧

www3.nhk.or.jp › NHKニューストップ社会ニュース一覧

3 日前 - NHK】沖縄戦から75年。最後の激戦地となった沖縄県糸満市で開かれた戦没者追悼式では、高校生が「平和の詩」を朗読しました。その全

 

             2020・6・26

 

 

       散り方いろいろ

 

人間と新型コロナウィルスとの闘い、世界中が戦争である。

 どんなルートで感染したか、よく分からないケースも多いという。

始まりは世界一の患者と死者を出したのは中国だった。続いてヨーロッパ、中でもイタリアは北部を中心に死者は4825人となり中国を抜いて世界一多くなってしまった。(中日新聞3月23日) 2日後、死者6000人超えた。(朝日新聞3月25日)

 

さらに、フランスの患者発生数と死者の数は凄かった。アメリカが患者多発で、死者4000人を超えた。患者が急増する世界の状態を「オーバーシュート」と言うそうだ。  

日本に住む我らも、人との交流の場を減らし、手洗い、うがいなど注意していても、不安でいっぱいである。

 

こんな人間世界の中で、違う角度の大問題もある。

東アフリカを中心にバッタの大発生で約2千万人が食料危機だという。中東からパキスタンからインドに拡大しているそうだ。(朝日新聞3月21日)

 

思い返せば戦争だったこどもの頃の事。名古屋の街中から疎開させられた田舎で、授業としていなご取りがあった。吾は慣れない二年生の女の子、いつもビリで何も取れず、畑にある便を踏んでモタモタしていた。当時はイナゴ、バッタが畑にいっぱい跳んでいた。

 

そのバッタが、大量に増えて人間の食糧まで奪ってしまうとは…。

研究者は地球温暖化と関係ありとし、アラビア半島に2つのサイクロンが発生し、バッタは9カ月で8千倍に増えたらしい。

 

夕方5時ごろの散歩でいつも想う。贅沢だなぁと。現役時代は、仕事と子育て、それに政治活動と必死の日々だった。5時なんて仕事中、仮に6時に仕事が終わっても、それから満員電車に揺られて自宅につくには…残業の日などは9時過ぎる。

いまの現役世代の、二人のわが子たちもそうであろう。

 

さくら名所に選ばれた五条川沿いに向かう。新しい住宅が増えた。

少し離れた両側に市営住宅と借家も並ぶ。

 

市営住宅は古く、築50年を超え、入居資格は低所得者である。およそ50世帯が住んでいる。借家は10軒くらいあり平屋建て。そこに5年前、金婚記念で市から表彰されたとき、挨拶し合ったご夫婦の住まいがある。

あぁ借家住まいで結婚50年を祝われたのだ」と感動した。いい家に住んでいるから偉いのではない。

 

今年のさくらまつりはコロナウィルス問題で中止になった。

山茶花は、花びらがバラバラになって散る。椿は花ごと地面に落ちる。それなりに美しい。

さぁ残り少ない命、どう散るか…。     (2020・3・25)

 

 

        サクラノピンク、菜の花の黄色で埋もれそう

           自然の花見が出来た幸せの日

 

 健康のために歩く毎日の散歩。今年は特につくしがずくずく伸びて春を感じた。

その数100本、いやそれ以上かもしれない。けれど、背は高いつくしがどれもこれも頭の部分が枯れていて、積んでも食べられない感じだった。そう言えば赤紫色のれんげ草も殆ど見なくなった。地球温暖化のせいかもしれないと、素人なりに考えた。

 

名古屋市郊外のこの地域に、五条川という川が流れている。その両側がびっしり桜並木である。その数2000本とも3000本とも言われ、名所100選のひとつになっている。

さくら大好きの日本人、この時期、日本中のさくらの木が咲き揃い、どこも「花見、花見」と賑わう。

 

遠くからこの地のさくらを楽しみに来る観光客も多く賑わう。今年は市街地からはずれた川の方でさくらを見たいと、老夫婦は自転車を走らせた。

土手近くに自転車を置き、若々しい美しさに引き込まれた。

めったにない土の道を歩いた。木の根や草が元気に道を力づけている感じの田舎道だ。

 

いつも、町の中心市街地に近い川沿いは人人人で賑わう。が、このはずれの方は自然が支配する。

木の太さは若い木だけにやや細い。が、頭上で花開いている数やピンクの色合いは清々しい美しさだ。下からは背丈2メートル近い菜の花が、ピンクに負けじと太い茎から鮮やかな黄色を、どこまでも彩り続ける賑やかさ。地面を見れば同じ黄色のタンポポが「ワタシもワタシも」とばかり草の茂った緑色の中で温かく黄色を光らせる。

 

適当に土手の草の上にビニールを敷いて腰を下ろす。静かな川の流れにほんの少し花びらが乗る。でも「花いかだ」とまではいかない。

「あぁ、いいなぁ」やさしいピンクの花々の屋根、見物する人たちを守るように黄色の菜の花をさわさわと体中で飾りながら、しっくり春の陽気に馴染ませてくれている。

 

有名な桜名所でしっかり整備されたさくらの木、大木にやさしいピンクの輝きと、賑わいも捨て難いが、今年の花見で味わった素朴な自然のピンク、周りをひとまわり明るく輝かす菜の花の黄色と茎のみどり…。

さらに1センチ位の花弁が散る草道と、川面を静かに流れる花いかだは心和ませる。

 

陽は明るくても、度々寒波が戻る今年の春は、さくらがいつまでも散らないで、美しさを味あわせてくれる。

災害で何度も苦しめられた日本列島、ときにはこんなに楽しませてくれるのも自然だ。

 

素朴な日本の自然風景が大好き。こんなときが持てるのも、子ども時代のように戦争でないからだなぁ。戦争体験者は切実にそう思う。

                           2019・4・14

 

       みどりいっぱいの ひとり墓参

          乳がん全摘手術2ヵ月後で少しきつかったが

 

異常な猛暑が続いた今年、災害続きが酷過ぎると思ったのに、何と北海道に震度7という未曽有の大地震が発生。この島国はまさに災害列島だ。

 

それでも真っ赤な彼岸花が庭の片隅に咲いていた。そうか、もう彼岸なのだ。土日と三連休、「山だ」「旅だ」と連休を待っていた頃とは違い、連休もオワッタ人には関係ない。

秋分の日も気温30度以上という予報だったが、墓参りの予定を立てた。

 

3年前重度の熱中症で意識不明、5週間入院して何とか元気を取り戻した連れ合いは「大事をとって墓参りはやめる」と言う。それならとひとり墓参となった。

 

名古屋市東部にお墓の大集団がある。いろいろなお寺が管理する墓を一か所に集めた平和公園である。戦後このようにお墓を一か所に集めようと、名古屋市が決めたらしい。

道路沿いの右も左も墓、墓、墓。あちらの小高い坂の上も墓、こちらの小高い土地もぎっしり見事に墓が並ぶ平和公園だ。

 

場所によっては、戦時中軍人として闘い倒れた人たちの墓が立ち並ぶ。と思うと、墓守りが亡くなったのか、墓の墓なる一角もある。

 

名古屋市郊外の自宅から墓地までは遠い。私鉄と市営地下鉄を乗り継いで40分以上、更に市バスに10分ほど乗る。タクシーを探してもいないので市バスに乗る。市バスは超満員、殆どが墓参りの感じで落ち着いた表情の老人たち。

 

医者から「重い物は持つな。無理な姿勢はだめ」と言われていても、荷物とカバンを持ち、つり革もないほどのバスはとてもきつかった。

 

この地区の素晴らしさは、歩道の両側に溢れるような緑が迎えてくれる。

並木も何重にも覆い被さるように緑したたる並木道である。

 

露天の花屋で買ったりんどうと、自宅から持参したリコリスローゼルを供え、荷物を持ちながら桶に水を入れて運び、墓石にかける。術後間もない身にはややきつかったが、線香炊いてから、今日だけ滞在しているというお寺さんに短く経を唱えて貰った。これでひとり墓参は全て出来た。

 

しかし、「無理するな」と警告が来た。夜中に手術をした方の胸がぐっと張り軽く痛む。反対側の背中が痛み、何度も目が覚める。術後間もない体に無理は禁物。超満員の秋分の日の墓参を、今後は控えようと思った。

 

現在は家族葬で質素にしたり、自然葬で海山に散骨したりと、弔い方も自由になってきている。長年葬送の自由の会に入って居た者として弔い方は質素と自由はいい。

明日どうなるか分からない命。墓がある人もない人も死という旅立ちは同じである。いつも夫婦二人でしている墓参、今日はひとりで明日の自分を想った。

 

夕方、日課の散歩に歩く。この地域にどんどん住宅が建ち並ぶ。が、まだ田園地帯も残されている。少し前、稲の苗が植えられ緑の絨毯を敷き詰めたような美しさだった。

いまはもう稲穂が頭をさげている。色も黄緑かがってきれいだ。

 

見上げれば薄い青色の雲を挟んで東に満月近い白い月、西空は柔らかく赤い夕焼け。「この素晴らしさ」と、思わずつぶやく。

 

途中で保育園児たちの散歩に出会った。乳母車に乗った乳児たち、まさに輝く太陽のような顔々、笑顔の顔たちが8つ並び、つい笑顔になってしまう。

と、保母さん二人が笑って頭を下げてくれた。笑顔はいいなぁ。

 

みどりいっぱい、自然いっぱいはいいなぁ。

                       2018・9・25

 

 

       花咲かじいさん 花配りばあさんの想い

 

寒かったこの冬が終わり、にわかに26度、29度と真夏のような気温にびっくりした。

アッという間に咲き、散っていったさくら花。この異常気象は地球温暖化のせいなのだろうか?

 

生まれたての柔らかいみどりに包まれた木々たちに目が和む。

異変?は庭の花たちにも表れて、元気はつらつの花が次々咲きだした。

 

ジャーマンアイリスの白がつぼみを膨らませ、大きな花弁が開き始める。5年前咲いた濃い紫色のジャーマンアイリスは、ここ4年ほど咲かなかった。それがずくずく伸びた茎に濃い紫色の花が咲き始め、薄い蒼色の花は白との見事な花模様を創り出す。思わず見惚れる。

 

背の低い花たちも負けずに、ガーベラが赤やピンク色で次々咲かせる。それだけではない。昨年まで小さい花だったシャクヤクが、濃いピンク色、薄いピンク色と白色が次々蕾を膨らませ、何重かの花弁で、大きな花をずっしり咲かせる。

 

バラも、我も我もと競って蕾を大きくし、「もう切りどきですよ」と訴える。春一番咲きとは言え、こんなにバラが咲くとは…。驚くのは花の大きさ、開くと10センチはある大輪のバラたちである。

 

3年前熱中症で意識不明になった連れ合いは、大病院で脳腫瘍を疑われ検査、検査の入院だった。幸い脳だけは正常の値になったが、心臓弁膜症、大動脈瘤、高血圧など、様々な病を見つけて貰い、何種類もの薬を飲み不安を抱えながら、何とか普通生活をしている81歳である。

 

医師の指示で、朝30分の散歩だけは確実に実行しつつ、パソコン、読書それに大好きな庭仕事「花づくり」を愉しんでいる。

一方、同学年の吾はご先祖さまの仏壇に毎朝手を合わせ、活きた花を供える。そして庶民の目線でホームページに拙文を載せる。気分転換になるピアノは、自分流で愉しんでいる。

 

花咲か爺さんの咲かせた花を、花配りばあさんがご先祖さまだけでなく、知人友人にお配りする。

 

過日持参した中学時代の先生は91歳で花大好き人間。買い物に行けないからヘルパーさんに「花を買って来て」と頼んだら「生活必需品でないからダメ」と断られた。

「お気の毒」と、白いジャーマンアイリスを持参した。

 

花配りばあさんのひとつの基準。それは連れ合いの失業でどん底生活から始めた学習塾に、勉強に励んでくれた子たちの親さんへの感謝である。1人2人3人4人…おひとりおひとりの都合に合わせて、花を持参し、喜んで戴く幸せばあさんをやっている。

 

夫婦とも仕事を卒業しておよそ20年が過ぎた。こんな平和な幸せがあと何回続けられるか。そう言えば今日5月3日は憲法記念日

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」憲法25条

 

子どもの頃は戦争だった。国民学校2年で、親と離され疎開させられた。連れ合いも吾も。子どもたちは寂しさでよく寝小便をした。先生は濡れた布団干しに追われ、食べる物は乏しく、いつもハラペコで飢えていた。戦争とはそういうものだ。

 

平和憲法9条で、平和な生活が続けられた。それを変えようとする政治。庶民は又戦争にかり出される。いまの若い人たちが…。

安倍首相は戦争体験もなく口先だけ活発にしゃべりまくる。「改憲だ、9条改憲だ」と。

 

国会議員が議会で質問したら、国会前で自衛隊幹部に20分もの間、「国賊だ」と罵倒された。このニュースは戦争中と同じ、もうここまできているのだと不安になる。

嘘で誤魔化す 文書改ざん セクハラ…。

 

残り少なくなった日々に想う。

戦争は絶対ダメ、みんなが健康で平和に暮らせる世の中にするのが政治ではないのか。と。

 

                 2018・5・3

 

 

       春が来た来た 春だもの 土筆もづくづく顔出して

 

畑の土の道路側に何か伸び出していた。「土筆だ!」思わず声を出しそうだった。

寒かったこの冬、今日は急に陽射しが暖かになったようだ。その日の夕方の散歩で見つけたつくしだった。

 

現役時代の友たち、高山や札幌の友たちは、冷たい雪国に暮らしているから今年の寒さはさぞ大変だったろうと思う。比較的暖かなこの地域でも寒い冬だったもの、見つけた土筆をこころから慈しんだ。

 

名古屋市郊外のこの人口四万都市、まだまだ土の畑や田んぼが広がっている。しかし、最近は農業だけでは生活できないとか、後継ぐ人がないとかで、住宅建築で土地を売る人も増えている。

夕方の散歩でのんびり景色を愉しみながら、西の方に連なる鈴鹿連峰の山並みを見て若い頃よく登ったなぁと懐かしむ。雪で白い御在所を眺めながら、広い濃尾平野を感じる。

 

農家の人が土を耕し、種を撒いて育てている長ねぎや大根、白菜や人参がひとうねずつ並んでいる様子に心和ませている。これくらいの農作業風景がいいなぁ。

子どもの頃、食べる物が乏しく、農家の人がカボチャとかサツマ芋など「食べやーす?」と言って持って来てくれた事もあった。戦後の疎開生活で味わった人としての温かさがこの土の香りの中で思い出される。

 

空襲で家を焼かれ、名古屋からこの地に疎開した子どもが、81歳で残りの人生を愉しんでいる。長年働いたから許されるかなと想いながら…。

職場も名古屋、住むのも名古屋だった。が母の死後再びこの疎開した所へ住居をつくり、すでに30年が過ぎた。

 

過日、中学時代お世話になった花好きの先生に、庭のろう梅の黄色が美しいので持って行った。先生は92歳、子なしで同居の母や夫も亡くなりひとり暮らしをされている。

 

要介護で介護度2度と訊く。部屋の中でも杖なしで歩けない。前回お邪魔したときに訊いたはなし。お風呂は入れない。花好きでヘルパーさんに花を買ってきてと頼んだら「生活に最低必要な物ではないからダメ」と断られた。風呂なし、花なしなんて、なんてお気の毒な。心からそう思い先輩の生活に、明日のわが身を考える。

 

先生の得意なものは俳句、いまは通信教育で愉しんでいるとか。

  最近作  「何もせず 生きることの疲れや 春を待つ(何もできない)

更に   「80歳の教え子 ろう梅を 持参せり」

 

この句を俳句の先生が「子弟の愛、人生を深く味わう」と高く評価され、あまりの評価に嬉しくなり、電話を下さった。

こうして寒かった冬も終わろうとしている。

                 2018・3・9

 

 

       どうぞ 遠慮なくお持ち帰りください

 

いつも夕方の散歩に歩く田舎道、田植えが済んで2ヵ月ほどになる。背丈50センチほどに育った稲がみどりの世界を創り出している。その敷き詰められた一面のみどりの美しさに、日暮れ近くてもまだ汗ばむ暑さを癒されて歩く。

 

田舎道の良さは、畑の片隅に笑顔を並べて迎えてくれるひまわりたちがいること。むかし懐かしいカヤツリ草、或いは細い茎の先についた、ふさふさ顔のネコジャラシたちに会えること。農家の人からみれば、うるさい雑草だろうなぁ。

 

近頃農業だけではやっていけない。だから専業農家は少なく、外で働いて兼業で農業するか、退職後農業専門で働くかであるらしい。

どんな職業でも苦労ありで、現役世代はそれを乗り切って頑張っている。

 

先日、久しぶりにほんわかといい気分になった。

 

畑の片隅に置かれたダンボール箱、その中に大きなきゅうりが数本と、曲がったきゅうりが3本ほど、それに細い大根が入っていた。そして「どうぞ遠慮なく持って行ってください」とやや大きな字で書いてあった。

 

歩くのをやめて、周りを見回したが誰もいない。「いいのかな」と少し迷いながら、たまたま大きな封筒を手にしていたので、きゅうり2本と小さい茄子を封筒に入れて頂くことにした。

 

野菜はスーパーで買う消費者であるが、生産者にしてみると形が不揃いや曲がった野菜は売れないし、捨てるのは勿体ない。との思いつきなのだろうと考えた。帰宅後連れ合いに話すと翌々日、朝の散歩で「小さい大根が入っていたから持って来た」という。散歩する人たちの中ではちょっとした評判になっているのかも知れない。

 

どんな野菜にしろ、二回も戴いた者はお礼のメモくらい書きたい。そう思って早速簡単な手紙を書いた。風に飛ばないようにクリップで止めて、散歩道にある畑の箱へ入れようと思った。

しかし、その日は箱がなかった。その翌日も。強い通り雨が降ったせいかも。

 

昨日の散歩で畑近くを通ったら、前より少し大きなダンボール箱に、やはり書いてあった。

「どうぞ遠慮なくお持ち帰りください」箱は空っぽだった。散歩の人が持ち帰ったのかも知れない。折角書いた手紙は持っていなかった。

 

「きゅうり2本と大根頂きました。久しぶりに気持ちがほんわかと和みました。いま野菜は高いです。世界には食べる物がなくて、飢えに苦しんでいる人たちが何万といます。かつての日本もそうでした。形が悪くても苦労して育てられた野菜を、捨てるのは勿体ないですよネ。やさしいお心、ありがとうございました」

 

先日書いたあの手紙を、この箱に入れに来よう。

                     2017・8・3

 

       春だ 春だ

 

春が近づくと「スミレ、タンポポ、レンゲ草」のことばを、子供の頃からよく聞いた。道の片隅に雑草と一緒に咲いているこれらの草花、でも最近レンゲ草をまるで見かけなくなった。もう一つ、土筆が急に伸び始める。

 

近ごろ、土筆とりする人は殆どいない。夕方の散歩に出かけると、つい土筆が目についてしまう。沢山取るとはかまとりが大変だから、10本かせいぜい20本手持ちの袋に入れて帰る。夕食のすまし汁などに入れて春の香りを楽しんでいる。

ただ頭の部分が新鮮なみどり色の土筆が少なくなり、枯れているのが多い。温暖化と関係あり?  と思ったりする。

 

昨日の夕方の散歩で、めずらしく土筆とりの人を見かけたので思わず「つくし取りですか?

と声をかけた。「この頃土筆とりする人は見かけませんね」と。

 

するとその女性は初対面なのに一気に話された。

「土筆とりの人、ほんとにいなくなったわね。よく施設へ行くけれど、そこで知り合った人の先生が、もう歳で動けない。その方が『土筆食べたい』と言われたので、こんなに袋いっぱい土筆をつんだ。家族より、そこの人たちにお世話になっている。だから少しでもお役に立ちたいと思って…」

 

それを聞いて思わず言った。「少しでも人様のお役に立つ、ほんとにそう。それが生きる一番大事なことですものね」

そうだ、このところ忙しくて出かけていないけれど、90歳でひとりくらしの先生に、やはり庭の水仙や花桃をもっていこう。

 

公園の側を通ると、20人くらいの子どもが、わぁわぁ大声を出して暴れている。なぜあんなに動き廻れるのだろう。不思議に思えるほどじっとしていない。からだの中からエネルギーが溢れだすのだろう。子どもたちの目まぐるしいほどの動力を、何とか普通に歩くことが出来る80歳は楽しく、少々不思議なほどの気持ちで眺める。

 

寒かった冬が過ぎ、春だもの、草木も人間もにわかに元気づくのだ。

わが家の庭の片隅に、ドクダミ草やニラがずくずく葉を出し始めた。もう一方の庭の隅にも水仙、シャクヤク、花菖蒲の茎や葉がどんどん伸び始めた。

 

「さぁ ! おれたちの出番だ!と、賑やかに声出しながら。去年、花を切ったままの土の中から…。

春らしく活き活きしてくる道端の草花を観ながら、健康のために歩く。

 

名古屋の郊外には、まだまだ土の香りがする田や畑が残っている。散歩すると、どうしても親しかった現役時代の友が浮かんでくる。

40年近く親しくした友は5カ月前、「余命3ヵ月宣告」され、膵臓がんで逝ってしまった。

 

肉親を亡くす寂しさとは違う、寂しさに襲われる。

その友は退職後、畑に花々を植え続け、野菜を作っては仲良しに送っていた。

 

花大好き人間で、例えばコスモスなら種まきを二週間くらいずつずらして撒く。すると、いつも満開のコスモスが楽しめるという。元気に世界を旅し、月10本も映画を観る元気者だった。

 

退職後の10年間は、仕事で重要ポストの地位を得ながら、アルコール依存症になった夫と、息子が残業続きの過労で、うつになり自死した。幸せを全て無くした彼女だった。

不幸とは、こういう形で突然襲いかかってくるのだろう。

 

春だ春だと言いながら、どうしても、心の奥がしんみりしてしまう今年の春である。

 

                201746

 

 

       「また 声かけしてください」

 

 名古屋近郊のこのあたりも、ボツボツ田植えが済んで、水を張った田にまだ背丈の低い稲が行儀よく、みずみずしく輝き始めた。買い物の帰りに歩いていたら、一人の男性があぜ道の草取りをしていた。「ヤレヤレ」と言った感じで背伸びされて、目が合った。中学生の3年間わが塾へ通ってくれたKの父親だった。

 

 「こんにちは」と頭を下げて訊いた。「それは花ショウブですか?」

 田の隅にきれいな青色と、濃い紫色のつぼみをつけた茎がしっかり生えていた。

 

 実は私の頭の中で、どれが「ジャーマンアイリス」でどれが「スカシユリ」なのか、「花菖蒲」なのか混乱していた。だから教えて貰おうと思い切って尋ねた。

 

 男性は「花ショウブです。切りましょうか?」と言って、濃い紫色の開きかけの花を2本切ってくれた。白っぽいのがあると引き立つからと、ピンクの花ショウブまで切って、大輪の花を3本も戴いてしまった。

 

 「わぁ きれい。ありがとうございました。悪かったですね」と言うと、その男性に「また声かけしてください」と言われた。

 太い茎の先についた大きな紫色と白いつぼみを、何度も眺めながら心弾ませて家に着いた。

 

 暫く水あげしなくてはと、花を水につけて一息ついた。美しい花を頂いたうれしさで気分良好だったことは間違いなしである。

 でも、それだけではない心地良さは何なのだろうと考えた。

 

 生きるという事は辛いことも多い。近ごろ暗いニュースばかり目立つ世の中になった。人を殺したとか、地震だ、災害だ、とりわけ政治の世界ではどんどん戦争が出来る国に変わりつつあり、心ある人たちが、「国民がざわざわと動き、関心を持ち続けないと…」と発言している。

 

 そうだ! 花菖蒲をくれた彼のことば「また声かけしてください」だ!

 黙々と草取りして、自然に出たあのことばに私は感動したのだと気付いた。何というやさしさだろう。

 

 友たちのように、クリスチャンでもなく、仏教徒でもない、無宗教の自分であるが、義父たちが眠るお墓のある名古屋のお寺から、たまたま昨日「寺だより」が送られて来た。

 そこにあった「今月の仏教語」として『無財の七施 むざいのしちせ』とあった。

 

 いつでも誰でも実践できる布施の方法

 

    やさしいまなざしを人に送る眼施(がんせ)

 

    にこにこと笑顔で人に接する和顔施(わがんせ)

 

    やさしい言葉を人にかける言辞施(ごんじせ) ……

 

    財なくても、布施は出来る。

 

 なるほど…K君のお父さんが「ごんじせ」くれたのかも知れない。…ありがとう。

 

                                         2015・6・10

 

 

           青葉の季節

 家を新築したとき「家の質を多少落としても、木を植えたい」と大工さんに頼んだ。 8年後の現在、木々は大きく成長した。

 敷地の周りを取り巻く山茶花は、浅緑の細かい葉を波打たせている。ツゲや椿、泰山木の葉は肉厚で、11枚が向きを変え、明るい初夏の陽を楽しんでいる。

 それに比べ、梅、桜、花水木あるいは楠やコブシなどは薄く頼りなげな葉であるが、思いっきりたくさんつけて、青葉の季節を演出する。まだ緑色が淡い若葉は日の光を透かして、大気までグリーンっぽく見える。

 低木のキャラボクが深い緑の線香花火なら、槇は柔らかな緑の電気花火である。

 先日、評判の「モネ展」へ行った。最も人気があるのは『睡蓮の池と日本の橋』とのこと。そこにモネは青葉の季節を、光と陰のコントラストで絶妙に描き上げていた。

 ブルーに近い深い緑、黄色っぽい緑から華やかな明るい緑と、同じ緑でもその数の多さに驚いた。モネは光と色にこだわって、同じ構図で何10枚と描き続けた。人気が高いのは、人々がこの緑に引きつけられ、心のやすらぎを求めているのではと思った。

 庭に立つと、出来たての酸素が細胞の隅々まできれいにしてくれそうで、思わず深呼吸してしまう。だが青葉の季節はまた虫や野鳥の季節でもある。

 うるさいほど鳥がさえずり、蝶が何匹も舞う。昨日も1枚の桜の葉の裏に、生まれたばかりの毛虫がおよそ30匹もついていた。毛虫にはゾッとするし、消毒したり、また真っ黒なふんを毎朝掃除させられるなと、ぐっと 現実的になる。可憐に舞い続ける何組かの蝶も、もとは「いも虫」だ。

 青葉の季節に虫が育ち、その虫を野鳥が食べ、虫や鳥のふんが再び樹木を育てる。「食 物連鎖」は自然界の見事なハーモニーである。

 自然界の一生物に過ぎない人間も、いい環境を壊さず、自然と仲良く生きたいと思う。




           異常気象

 12月の庭に早春の花、水仙が1輪また1輪と咲き始めた。花が出番を間違えるほど暖かく、陽気がおかしい。

 今年は11月終わりころから、ぼつぼつ「 喪中につき年始の挨拶を遠慮します」という葉書が届き始め、12月になるとそれが何枚も重なって届いた。

 暑い7月に89歳の義父を亡くした我が家も、12月に入ると「喪中につき欠礼」の葉書を投函した。

 50日も続いたという今年の猛暑が、抵抗力の弱い病人や年寄にはこたえたのではないだろうか。近年、暑さ寒さが極端になったと思う。

 宇宙飛行した人達は、神の存在を信ずるようになるというが、もしも自然を破壊する傲慢な人間の行為が、神の怒りに触れたなら、じりじりと焼け焦がさないで、一瞬の大爆発で全てを消滅してほしい。

 異常気象の原因が例えばチリ沖の海水温度が上がる「エルニーニョ現象」のようなものと、CO2 や森林伐採などの人為的なものの両面からいろいろ考えられているようであるが、いずれにしても、地球人として物事を考えるときがきたかも知れない。

 「地球を守ろう、自然にやさしく」とリサイクル運動に取り組んでいる人々もいるが、 さしずめノーカーのわが家はCO2 減少に多少は貢献しているのかなと思う。

 若い頃は免許をとるお金も暇もなく、車には縁がなかった。

 4050代になって、多少のゆとりができたが、今度は健康のために極力2本の足を使おうと歩き出したら、10分や20分の距離はなんともなくなった。たまの急ぎのときはタクシーもあるから、公共交通機関や自転車で不便を感じない。

 先日、日本人で初の宇宙飛行をした人が「やっぱり地球は青かった」と伝えているテレビを見たが、青いままの地球を次の世代へ引き継ぎたいものである。


        秋の思い

 庭の200本のサルビアが、澄んだ秋の中で濃い朱の炎になって燃え上がりそうだ。

 暑い夏の盛りに密植したこの花は、夏中目を楽しませてくれたが、夏の終わりに剪定したらまた鮮やかに甦った。2度目の方が深く輝くような朱色だ。

 私は若いころ、このような情熱的な赤や朱色が好きで、そういう色の服も結構着たが、このごろは肌の色がくすんで、この色は浮いてしまうようになった。

 子どものころは、木の葉が散る秋に段々重ね着して、寒さを感じながら見た赤い夕焼けがもの悲しく、秋は好きではなかった。

 いま、秋の庭で「アオキ」はドングリのような緑の実をつけ「ツゲ」は黒い実を、「クロガネモチ」も「花水木」もそれぞれいじらしく実をつけている。

 秋を、暑く活動的な夏と、重く長い冬の「あわい(境界)」ということばで見直してみると、短い秋が急にいとおしくなった。

 すでに若くはなく、さりとて老いというには抵抗がある年になった私は、若さと老いの「あわい」を気持ちのうえで行ったり来たりしている。

 5012つ過ぎたころ、駆け足ばかりだった日々にふと立ち止まり、人生の終わりから逆算してその短さに驚いた。十分刺激的で恵まれた職場を、「いまが退けどき」と退職の意志をかためた。

 晩秋の枯れた色の木々に囲まれた名古屋城を、北東に見る10階の喫茶室で、私は所長にその意志を伝えた。8カ月後の「組織改革」で頭がいっぱいの所長は困惑し、「私の至らぬところがあったら改める」とまで言って必死に慰留された。その言葉に、人生の春も夏も抱えこんだ30年の万感が胸に迫った。

 あれから3回目の秋が来た。自らの意志だったのにしばらくの間は、自分が世の中の何処にも不用な人間になったようで、ひどく寂しかった。先輩達もこんな思いに耐えたのだろうかとしきりに思った。

 それが、退職時の計画通り、夫と共に塾の教室に出て、大勢の子ども達の弾けそうな声や動きに触れ、他家の子を褒めたり叱ったり、自分の子のような気分で「2度目の子育て」をしだすと、老いのあわいを越えて若さに戻ってしまった。子ども好きの夫ともども「50にして天命を知る」ということなのか?

 人生の終わりは確実に近寄っているのだろうが、束の間の秋、冬とのあわいに庭のサルビアのように甦りたい。


        

 秋の陽が沈んだばかりの西の空に、刀のように細く鋭い月を見たのはつい先日だったのに、今日はもう満月である。

 中空に浮かぶ月は、でこぼこのある鏡のように光っている。夜10時、夜長の秋の月は見飽きない。じっと見ていると、あんな所へ行って帰って来るほど人類の知恵は発達したのかと、あらためて科学の進歩に驚く。

 『月に出来るか製粉工場』という新聞記事によると、月の砂にはヘリウム3という元素が大量に含まれていて、原子力の次のエネルギー源として期待されているとのこと。低コストで21世紀の期待の星という。採掘したヘリウム3の砂を粉砕して加熱、出てきたヘリウム3のガスをボンベに詰めて地球に運ぶ。その開発計画に日米ロ仏英が、すで動き出しているとのことである。とどまるところを知らない科学技術である。

 テレビがなかった子どものころ、親は中秋の名月にススキと芋を煮て供え、私たちは月を見ながら楽しく語り合った。自分の子育ての時期も、どんなに忙しくても子どもとススキを取ってきて、いつの間にか同じようにしていた。

 昔から人々はいつも、月を仰いでものを思い、大自然への畏敬の念を失わなかった。豊かではないが、その方が夢があって良かったような気がする。ふと蕪村の『月天心、貧しき町を通りけり』という句を思った。

 それは、飽きるほど聞かされる汚職のニュースに、辟易しているせいでもある。仙台市長が「(業者指名で)私の思うよう にならないものはひとつもなかった」と言っているのを聞いて『この世をば わが世とぞ思う もち月の 欠けたることも なしと思えば』と歌った、藤原道長と全く同じだと思った。

 科学技術の進歩に比べ、千年たっても人間の性は何も進歩していない。むしろ悪くなっている気さえする。大宇宙の前に、露のようにはかない束の間の人の命なのに、なんと寂しいことか。

11時、天心の月は静かに輝いていた。



         地震

 子どものころは、よく地震があった。特に戦争末期、疎開先での不安な日々に、かなりひどい地震に襲われた記憶がある。いま考えると、あれは死者1500人を出した東南海地震や、死者2千人の三河湾地震だった。

 明治以来死者100人を越す地震は、19回もあり、6年半に1回の地震国日本である。地震になると、教えられたとおり竹藪へ走った。竹は根が深いので、しがみついていればまだ安心感があった。どんどん近代化した現在は、竹藪どころか空き地さえ思うようにないから、オロオロするばかりである。

 117日の朝は、そろそろ起きようかとうとうとしているところへグラッと来た。2階で寝ていたのでかなりの横揺れであった。

 7時のテレビニュースから、被害が刻々と報道されはじめ身が引き締まった。「『ドーン』という音と共に、強烈な上下動、続いて横揺れ、あの20秒で『ふつうの幸せな生活』がすべて吹っ飛んだ」と被災地の人々は言う。

 5千人を越える死者の過半数が、60歳以上のお年寄りという。廃墟と化した街の多くは、貧しい人たちが住む住宅密集地だった。

 幼いころ、B29の攻撃の炎から、家族と乳母車で逃げまわった恐怖、あの焼け跡に茫然と立ちつくした思いが重なる。50年間、平和と繁栄をむさぼり続けた日本が、激震に眠りを覚まされた。

 公園にテントを張って、氷点下の寒気と闘う人々がいる。避難所の人々も「暖房のない、水のない生活」が長引くにつれて、体力の限界が近づきつつあり、希望を失い始めている。

 「報道されているように、『一応落ち着いてきた』と見えるのは、諦めと不安が被災者を支配していることの裏返しであり、棄民である」 。現地の市民グループ代表が新聞に載せた手紙である。

 今日も、77歳の被災者のお年寄りが自殺した。避難所のお年寄り24人もが、病死したと新聞で読んだ。旅路の果てのこの悲劇に心揺さぶられる。

けれど、私は入浴し温かい布団で眠っている。私たちが戦災にあったときと同じで、被災地域の、被災者だけが苦しんで、体力の限界と闘っている。「棄民」という言葉を新聞で読んでから、送った衣類とお金は、罪滅ぼしでしかないような気がし始めた。




            冬の旅

 シューベルトの歌曲集『冬の旅』は好きな曲の1つである。何度聴いても心にしみる。

 この曲が出来た1820年代のヨーロッパは、数百年続いた貴族階級の支配が、力をつけてきた市民階級に脅かされ始めた頃で、王侯貴族たちが政治集会の禁止や、出版物の検閲などをした暗い時代だった。

 これはオウム事件や、大災害、汚職と、何となく不安で希望がもてない現在にも似ている。

 当時、シューベルトはミュラーの詩を読んで、それを自分のものと感じたという。シューベルトは孤独な人生を31歳で、ミュラーは33歳で閉じた。人間の孤独な苦しみが深まる一方の時代だったからこそ、この曲が人々に慰めを与え、共感を感じさせたのだろう。

 『冬の旅』の第一曲の歩行のリズムが、全曲を通じて形を変えて現れる。暗く重い曲の中で『菩提樹』や『雪どけの水流』がいい。『春の夢』や『郵便馬車』の美しい旋律が、暗い冬に春を待つ季節にぴったりで好きだ。

 そんな気持ちでこの曲を聞きながら、昨年末、底冷えのする冬の京都を歩いたときに訪れた古刹で、あまりにも暗く不運な運命の女性たちの寂しい生涯を知り、切なかったあの気持ちを思い出した。

 訪れたのは嵯峨野の祇王寺、平家全盛の頃、平清盛に寵愛を受けた祇王という女性が、仏御前に乗り換えられ、館を去ってから妹と母と3人で髪を剃って仏門に入った。祇王31歳、妹19歳、母45歳であった。

 さらに仏御前も無常を感じて17歳で尼になり、祇王たち3人と共に往生の本懐を遂げたという歴史である。寺には4人の木像が安置されていたが、 歴史に翻弄された女性たちの運命に心打たれた。

 冬の旅の最後に、嵐山に向かって桂川沿いを歩いたが、風が刺すようで頬が痛かった。 静かな史跡を巡り、混沌とした時代を嘆いてばかりもいられまいと思った。

 厳しい寒さの中、春の芽吹きを探しながら歩くことを季語で「探梅」というそうだ。

 暗く切ない『冬の旅』を聴きながら庭を眺 めると、毎年真先に春を呼ぶ紅梅が小さな蕾 をふくらませていた。