食べる

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〔3DCG 宮地徹〕

〔メニュー1〔メニュー2222

      食べよう 生きるために 

 

 食べよう 生きるために

 

近ごろ若い男性が可愛らしい幼い子を、抱いたり連れ歩いたりしている。

イクメンパパなんだろう。微笑ましい。

 

スーパーへ買い物に行くと、男性の買い物客がすごく増えた。

まだ若そうな連れ合いと一緒に買い物をしながら買い物を楽しんでいる人もいるが、ひとり食を探している若い男性も増えた。

 

ときには杖をつきながら、出来上がった食べ物を探している人もよく見かける。

そうなのだ。人は食べねば生きられない。

生きるために食を求めるのだ。

 

家族が死んでひとり暮らしになった友のことばに驚いた。

「面倒くさいと思ったときは、何も食べなかった。そしたら体重が30キロ以下になり、腰痛など体調不良になった。それからはタンパク質をきちんと取っている」

 

少し前まで食事作りと、家事全体は女の仕事だった。

高度成長期に専業主婦ということばが生まれた。男は外で働き、女は家で家事労働する。

 

それが普通だったときもある。最近は変わってきた。

女も一人の人間として社会で働く。勿論男も。そこに理解し合える鍵がある。

 

近所の教員だった人に「どっちかが おりゃーすならいい」と注意された事もある。

長年夫婦で共働きしながら子育てをしたわれは、子どもに何かと我慢させたが、それで良かったと思う。

 

退職して家事専業主婦をやって想うこと。掃除 買い物 洗濯 食事作り…あらゆる雑事がある。専業主婦も大変だ。それも分かった。

 

男性が買い物に出る。老人男性も。イクメンパパが子どもたちの世話をしている現代社会、いいなあと想う。

人間、誤解もあり、理解しあう喜びもある。生きるために 食べるのだ。     2021・11・11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔メニュー2〔メニュー2223

        じゃがいも さえあれば…  すべて フジコ ヘミング動画

        米原真理著『真昼の星空』読み直し

『絶食のすすめ』の一文で 思い出す断食体験

        生きるから 食べる

      3カボチャと戦争

      4けちんぼうじゃない。勿体ない派よ

      5食べることは 生きること

      6食べられない

      7食べる−3題

      8祈ってネ 私が犯罪者にならないことを

           「聖護院大根の塩麹入り ぶり煮」続編

      9聖護院大根の塩麹入りぶり煮

     10いもねえちゃん

     11カレーと加齢

     12焼きチョコケーキ

     13明石のいかなごくぎ煮と北陸の蟹

     14人生、酒ありてこそ

     15収穫の秋

     16食べる−ブイヤベース

     17この一品         幸子のホームページへ戻る

     18飽食            次の『旅、山を歩く』に行く

     19きのこ

     20ランチ

     21夢の島ベネチア

 

 

 

        じゃがいも さえあれば…

 

わが家の食卓、と言っても子どもたちは独立して離れて住んでいるから、年寄り二人の食事である。

現役を引退してから、とくに朝食を大事にしている。長生きしたいからではなく、残り少ない日々を健康で、少しでも人のためになる「生きた」と言える日々にしたいから。

 

玄米、味噌汁、魚と野菜である。とくに野菜は四種類以上をめやすに、生野菜と煮た野菜に、オリーブドレッシングでたっぷり食べている。

こんな訳で1日1食しっかり食べれば、昼、夜は軽くてもよくなる。若い頃のように外食でたっぷり食べることも少なくなった。

 

特に夕食、必ず食べるヨーグルトと野菜、それにタンパク質の豆類、豆腐や肉などと海草類も並ぶ。そしてじゃがいも少々である。

いも無しのときもあり、現役の頃のように、昼間十分に食事する時間がないのではないから、いつの間にか夕食にご飯たっぷりはなくなってしまった。

 

さて、ここで登場するのが、あの有名なピアニストのフジコ・ヘミングである。

「ここ30年 魚、肉なし 病無し」にびっくりした。

 

このピアニストは、貧乏暮らしが長く病院の掃除婦をしたこともあると言う。

画家の父と5歳で別れ、ピアニストの母からの仕送りでドイツに留学した。でも毎月100ドルだけでは、食べる物にも事欠くひもじい生活だった。

 

だからじゃがいもばかり食べていた。画家のゴッホも毎日じゃがいもだった。これは『フジコ・ヘミング 運命の言葉』朝日文庫に載っていた。

転機は訪れた。1999年にNHKで放送された『あるピアニストの軌跡』が担当者も驚くほどの『スゴイ反響』です。との連絡が入ったという。

 

このピアニストが大好きという曲はリストの『ラ・カンパネラ』、自分も好きな曲の一曲。

「音楽は批評家のためにあるのでなく、みんなのためにあるのよ。」

そういうこのピアニストの弾く曲には、こころに響くものがある。

 

若い頃から音楽は好きだった自分が63歳から始めたピアノである。難曲を数多く編曲してくれた元音大教授もいまは亡き人になってしまった。

 

文章の読み書きで疲れた脳がホッとくつろぐ。だからやめられないピアノである。

夕食の一切れのじゃがいもと同様に、ピアノ奏でる喜びももう少し続くだろう。

         2020.7.11

 

 

       米原真理著『真昼の星空』読み直し

『絶食のすすめ』の一文で 思い出す断食体験

 

新しい年の一ヵ月が過ぎた。月日の流れる速さが身に沁みるのは歳のせいだろう。

最近の人は本や新聞を読まない人が多いらしい。スマホやインターネットで何でも簡単に分かってしまう時代だから。

 

わが家の二階廊下にずらり並んだ本棚、以前読んだ本を適当に出して折ったページを読み直す。うんうんと納得しながら目を通す。それらの本の発行された年を見ると10年20年前はざらである。こうして過ぎてきた日々を考えるのも悪くはない。

 

2006年に逝ってしまった若き米原真理。『真昼の星空』が出版されたのは2005年だから、もう10余年経つ。ロシア語通訳として活躍した人らしく、文章がテキパキして視線が明確である。何よりユーモアがあり国際社会や政治の世界に詳しく、読ませる。

 

3人もの人が推薦文を書いている。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し

『打ちのめされるようなすごい本』で1995年〜2006年までの全書評は多面的読書に驚く。

 

『真昼の星空』は気軽な文庫本で手軽に読める。その中に『絶食のすすめ』という一文がある。

 

「アルメニアの鶏卵工場で、ニワトリはおりに入れられたまま、朝から晩までえさをついばみ続ける。1年半もすると老いさらばえ処分される。他の家畜のえさかスープの素にされる。若い博士が200羽を1ヵ月私にお預けください。産卵能力を回復させます。と申し出た。博士は二週間もの間えさをやらなかった。絶食の断行でニワトリたちはどんどん元気になり、つやつやの美しい羽がからだを覆い大きな卵をうむようになった。以後3年間産卵能力は衰えなかったと言う。絶え間なくえさを与え続けられる肉体、消化器官の疲労は、肉体全体の老化を早めた。

情報過多になっているいまの世の中、のべつまくなしに脳にインプットし続ける脳味噌が果たして知的であり得るだろうか?」

 

絶食といえば30歳代の始め、(およそ半世紀前になる) 腎臓が弱ったせいか尿の出が極端に悪くなったので 静岡県の断食道場で断食をした。

当然職場があったが休暇をとって。当時流行した自然食ブームもあり「下手に薬なんか飲むより、断食した方が内臓は良くなる」という意見にも影響を受けた気がする。

 

その道場の医師の診察を受け 1週間水だけの断食をした。それだけで尿の出はよくなった。1週間頭に浮かぶのは食べ物ばかり、人は食を絶たれるといかに食べることばかりが脳を占めるかという実体験だった。

 

いまの世の中はお金さえあればどんな食べ物も手に入る。どの家にも車ありの車社会で。歩かなくても車でどこにでも行く事ができる。わが家のようにノーカーは珍しい。

一方で食べ過ぎ、太り過ぎの病も増えているらしい。電車に乗ればどの人もスマホ、スマホで声もなし。

 

もうすぐバレンタインデー、名古屋駅前のタカシマヤデパートのチョコ売場、歩くことも出来ないほど人、人で溢れかえり「この店の列のおわりはここ」「この店の終わりはここ」と係員が必至で客を整理していた。高級チョコ目指す人人人。この余裕と豊かさ?は…何だろう。

                              2019・2・6

 

 

       生きるから 食べる

 

間もなくお昼12時、その頃スーパーの食べ物売り場を歩く。

 

現役の頃を考えると贅沢この上なし。感謝しながら…さぁ何だったかしら。そうだ、小松菜、並んでいない。ホウレンソウは…あるけれど一束200円、高くて他の物にしようと探す。ブロッコリーも欲しいが値段を見てびっくり、ブロッコリー一個300円に驚いた。

 

年金生活者になり健康のために、ご飯に魚、肉など食べる量は多少減ったが野菜はたっぷり種類多くをこころがける日々。

野菜の高騰はずっと続いている。寒さが急に襲ってきたから野菜が育たないのだろうか?

 

ブロッコリーを半分食べたとして150円なり、思い切って買おう。そう割り切る。

人参と馬鈴薯は重いから連れ合いがネットで注文してくれる。いろどりも人参があればOKとレジへ。

 

少し腰が曲がった男のお年寄りが、レジ近くに並べてあった食べ物を手にした。串に刺したやき物2本をしっかり確認していた。その男性に、支払いのレジ女性が確か「150円です」と言っていた。

 

平日のス―パーは他にも杖をついたり、少々腰を曲げた格好のお年寄りの男性や女性を何人も見る。1人2人ではない。

人は生きねばならない。食べなければ生きられない。値段が高くても安くても…。若くても我らのように年寄りになっても。

 

このお年寄りの男性は、もしかしたら連れ合いを亡くされたのかも…。一人になると寂しいですね。食べる物も自分で作らないといけないし…。そう心でつぶやく。

もう一人の男性は左足を少し引きずった感じで、杖を片手に買い物。そうですか。急な病との闘い大変でしたね。でも、ここまで自分の足で歩けるようになられて、まずは良かったですね。

 

あら、こちらの女性はこんなに腰が曲がっても、やはり食べ物買いにみえたのですよね。

ひとりでも、二人でも、生きる以上は食べなければならない。ですものね。

 

この地球という星に人として生まれ、生き続けてきた我ら、世界中に飢えた子たちが何万、何十万といる現実もある。

ご縁のあった人もなかった人も、楽しいときを味わった。ときに耐え難い苦難の時期を乗り越え、こうしてまだ命を与えられている吾ら。生きるだから食べる。

 

夕方の散歩、5時近くなると、西の空に陽が沈む。天空は薄い空色、西方の山々を次第に灰色にしながら陽は沈む。薄いピンクが次第に茶色がかった赤色に変わる。

大自然の雄大な美しさに暫し足を止め、見とれる。2017年も終わる。

 

1年前余命3ヵ月宣告で旅立った友、突然死で逝った妹の連れ合い。

旅立ちはこの黄昏のように、穏やかだったのを想い返す。

                         2017・12・23

 

 

       カボチャと戦争

 

長年の仕事を卒業してから、朝ご飯はしっかり戴く。味噌汁に玄米ご飯、何種類かの野菜たっぷりに魚、ひじきの煮つけなど現役時代のあわただしさとはまるで違う。

有難い。贅沢だなぁと感謝しながら。

 

それに比べて夜は比較的簡単メニューにしたおかずで、大豆製品や肉も食べるが原則としてご飯なしである。今夜、それにしても少し物足りないなぁと思って、今年初めて買ったカボチャを薄切りにして焼いた。

少し濃い目の黄色でホカホカ、甘味もあり栗の味もしてその美味しかったこと。

 

カボチャと言えば、子どもの頃戦争が終わっても食糧難で食べる物なく、カボチャだけの昼ごはん、あるいは晩ごはんという日がよくあった。もっとペチャペチャとした感じのカボチャだったように思う。それでも飢えた子どもたちに、何とか食べさせようと母親たちは必死だった。

 

名古屋大空襲で焼け出され、母の在所に逃げ込んだわが一家だったが、中心のあるじである父親は戦地に駆り出されていなかった。母と子5人、あの頃を思えば平和ってなんて素敵だろうと思う。

 

疎開してきた母の田舎でも「空襲警報発令」は毎日だった。

8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下されたとき、大人たちの会話を聞いていると「スゴイ爆弾が投下されたらしい」と、子どもながらにも大変な爆弾投下された事が分かった。

 

疎開当時国民学校2年の8歳だった。あれから72年、よく生きさせて貰ったものだ。

寝る所なし、食べる物なしの疎開親族を親類として世話せずにはいられなかったのだろう。近くの農家の人が「ひとつ食べやぁ」とカボチャを持って来てくれたのも、名古屋の疎開家族を見かねてだったのだろうと思う。

 

あの頃魚と言えば煮干しくらいで、いまは安く手に入るバナナは高級品で、病気のお見舞いのときくらいしかお目にかかれなかった。甘い物なんかゼロ、それでもみんな痩せ細りながら生き抜いて来た。

 

そんな体験があるからこそ、食べたい物は何でも手に入る現在(いま)に感謝感謝である。

 

異常に暑い夏8月が終わろうとしている。今朝、北朝鮮が北海道を通過して太平洋にミサイルを発射させた。

朝からニュースはそればかり。海では30もの漁船がいたという。

 

戦争時代に育った者は、子ども時代はこのように「勝った、勝った」とか「一億一心」とか、国の報道一本を信じさせられた。

親たちは夫や息子を戦地に取られて「お国のために」生きてきた。

 

いま、守り抜かねばならない平和が音を立てて揺らいでいる。

                        2017・8・29

 

 

       けちんぼうじゃない。勿体ない派よ

 

久しぶりに逢った友人と、昼ごはんを共にした。

現役の頃は「たまには贅沢しましょう」とか言って、近くの商店街でうなぎ飯を食べた。時間は昼0時から。1時には席に戻らないといけない。でもそれが男ばかりの職場でいい息抜き、気分転換になったものだ。

 

二人共退職して十年以上の月日が過ぎた。友は生物を育てるのが大好きで、野菜やいろんな花々を育てそれらを知人に送るのを喜びにしていた。

注文の食事が来た。するといきなりバックからビニール袋を取り出し、大き目の茶碗に入った白いご飯をそっくり入れて言った。

 

「朝たっぷりご飯を食べたから、こんなにいっぱい並んだ御馳走、おかずだけにするわ。いつも野菜など育てていると、苦労して育った稲のお米などいい加減に食べ残しなんか出来ないわ」その徹底した態度に、「さすが! 生物育て大好き人間!」と感動した。

 

お金さえ払えば、なんでも食べられる時代、多ければ残せばいいが普通になっている。毎日せっせと種を撒き、水や肥料をやって野菜や花たちを育てて初めて分かる勿体なさ、だろうな。

 

この国で売れ残りや食べ残しの食品ロスは年間632万トンにもなるそうだ。国民一人当たり、毎日お茶碗1杯分のご飯が捨てられているという。(農林水産省2013年)

また豊かにみえる日本で、6人に1人が貧困児童というのがいまや常識であるし、食料自給率は4割で多くを輸入に頼っている。

 

「食べきり運動」というのを10年間やっているのが福井県。知らなかった。レストランでは「ごはんの量は食べられる量に減らすこともできますので、気軽にお申しつけください」と注意がきもあり、大中小三種類の器も用意されているという。

 

10月10日に「全国おいしい食べきり運動ネットワーク協議会」が設立された。中日新聞は10月31日、一面トップ記事で報じていた。

 

さて、友の前向きな姿勢に逢ってから、わたしもいつもビニール袋持参で、多すぎる物は最初に持ち帰ることが出来るようにしている。歳とともに食べる量は減ったしね。

 

さらに、いろんな場で友たちと食事すると、勿体ない派の友の話をする。

ボツボツ、みんな袋持参組になりつつある。

 

                  2016・11・10

 

 

       食べることは 生きること

 

現役の頃は一週間分の食べる物を、日曜日にまとめ買いした。それで子どもたちの弁当も作ったものだ。仕事を卒業してからは贅沢に、昼近い時間に買い物をする。

 

昨日そんな買い物をしたばかりなのに、バターがなかった。そういえばひじきもない。…それにしても、どうしてこんなに買う物が多いのだろう。 野菜果物、魚など万遍なく買ったはずなのに…。考えてみればそれだけ種類の多い、豊かな食生活になっているのだろう。恵まれた平和な世の中が続くから。

 

名古屋市の郊外に位置するこの人口4万都市には、住宅がどんどん建ち並んできた。が、場所によっては市街化調整区域で、田んぼが広がる。春の田植えで緑のジュータンを敷き詰めた安らぎの風景が、秋になって稲穂が重く頭を垂れ、一面茶色というより黄色の広がる田園風景は、見事な美しさで目を愉しませてくれる。

 

散歩で歩く道端にコスモスが咲き、ピンク、赤色、白色と美しく彩っている。黄色に敷きつめたジュータンと華やかなピンクや赤、白の田園風景は自然の見事な創造力である。

自然の美しさを肌で感じながら歩く。平和っていいなぁ。

 

子どもの頃は戦争だった。国民学校3年生、疎開先で終戦を迎えた。

当時、朝は麦いっぱいのごはんにシャビシャビ味噌汁、昼は南瓜だけ。食べる物がない。生きるために、必死で食べる物を探す。

亡き母も農家の人に着る物と交換して、食べる物を求め続けた。

 

あれから70余年の月日が流れたいま、子どもや若い人たちは、食べる物はあって当たり前、寝る所はあって当然と考えても仕方がない。いい時代に育ったから。

でも、豊かなはずの日本で貧困児童6人に1人とは。貧困女子家庭も多い。或いは非正規雇用4割。これでは安心して働けない。これが日本の現実なのだ。

 

長年の共働きで、苦労させた子どもたちも社会人になって働く世代の中核、結婚して家を出て、老夫婦二人だけの食事になった。

久しぶりに南瓜を焼いた。南瓜はほこほこで思わず「美味しい」と言い合った。

 

「子どもの頃の南瓜は、もっとペチャペチャしていたよね」などと言いながら、食卓に並んだその他の惣菜の多さを眺め直した。ゴボウ、人参、レタスや玉ねぎのサラダ。

朝はしっかり夕食控えめだから、魚、納豆やひじき、大根おろしと小魚などが並ぶ。

 

生きるためには、食べなければならない。

食べる物なく、空襲で家を焼かれ、寝る所もないときがあった。

 

戦後の貧しい生活体験者はどんどん死んでいき、僅かになってしまったけれど。

平和が長く続いたからこそ、いまの豊かな生活がある。

 

最近の世の中の動きに、戦争だけは絶対駄目を切に思う。

 

                       2016・10・22

 

 

 

       食べられない

 

コンビニの広い駐車場には大型車がいっぱいになる。よく見るとコンビニで買った弁当を、運転席で食べている。ワンコイン弁当が繁盛らしい。

庶民は贅沢な昼飯とは無縁なのだろう。

スーパーに買い物に行くと、少し腰が曲がった感じの年配者を多く見かける。男性が一人で買い物という人も増えた。若者も年寄りも。生きるためには食べねばならない。

 

現役時代に親しくした友からダンボール箱が届いた。馬鈴薯、玉ネギ、枝豆にピーマン、トマト、南瓜。ときの野菜いっぱいだ。

その友は退職後、元気だった夫がアルコール依存症になった。内緒で禁止されている酒を買いにコンビニへ行ったり、怒鳴ったり、おちおち家で風呂にも入れなかった。

 

更に衝撃が彼女を襲い、真面目な息子が残業続きで精神的病になり自死した。

あれから5年、ひとりで慣れない畑仕事に精を出し、野菜や好きな花を育て収穫物を友人に送るのを喜びとしていた。

 

いつものようにダンボール箱を開けて、入っていた手紙に仰天した。

「最近よく胃が痛くなり食欲が落ち、体重が53kgから44kgに減りました。

 

1週間も何も食べていない。食べたくない。

医者に診て貰い検査の結果『膵臓ガン』の末期(ステージ4a)で、胃にも影響を与えている。余命3ヵ月とのことです。信じて貰えないといけないので、診断書のコピーも同封します」

 

電話すると「写真や手紙など燃やし、衣類など大きな袋7つも捨てた……。

耐えられない空腹感は辛い。痛みが出たら入院し、空きができたら緩和病棟に移る。やっと、そこまで約束してくれた」

 

旅行ツアーで、あの国この国と世界を見て歩き、最近まで月に10本近く映画を観ていた行動派の貴女。

あの元気者の彼女が?…3ヵ月の命?…信じられない。…流石にその夜は眠れなかった。

自分の母が56歳で死んだ。その少し前、母には衝撃的な出来ごとが起きて体調を崩した。食道ガンになった。本屋で調べてその頃は、ガン=死を知った。

 

その友にとって花や野菜を育てるのは気分を穏やかにし幸せと思っていた。が、ガンはやはりストレスが原因なのだ。素人ながらそう考えるしかない。

「生きて来た道に恥ずかしいことも多かったが、精いっぱい生きたと、堂々と終わりを迎えたい。本当に、いっぱい、いっぱいありがとう」遺書のような手紙に心で泣いた。

 

この歳までいろんな人たちと出逢い、別れてきた。

半世紀も前から何十年も働き続け、仕事、子育てに立ち向かう仲間だった。連れ合いが政治組織と異見をもち、思想的、経済的にどん底だったとき、耳傾けてくれた数少ない友だった。

 

「こちらこそ、ありがとう、ありがとう」

人生こうして別れがくる。間もなく、人生のおしまいが我にも。

2016・7・18

 

 

 

       食べる−3題

 

 二つぶのぶどう

 

夫とは政治活動の中で知り合い、26歳同士で結婚した。あれから半世紀が過ぎた。結婚する前に、下宿生活で家を出ていた夫と実家へ挨拶に行った。

前もって連絡してあったが、会ってくれたのは夫の母親と弟だけだった。そのとき出されたのが、小皿に載ったぶどう二つぶだった。

 

既に夫は共産党の専従活動家だった。22歳で大学を卒業して、3年間勤めた職場をあっさり辞めていた。

三池炭鉱事故があり、社会党総評が中心になって三池闘争を闘った。ときの自民党政府と、日米安保条約に反対する勢力との戦いが活溌になり、何より国会で強引に採決した政府への抗議で、私は国会を取り巻いたデモにも参加した。

 

その頃は共産党も地域で署名活動など地道に活動した。世は政治の時代だった。

当時の自民党岸首相は国会周辺のデモや、国中で繰り広げられた安保反対運動を無視して、強引に条約を通した。安倍首相の祖父である。

 

先に結論ありきで、庶民が様々な疑問や意見を言っても、秘密保護法だろうと、集団自衛権行使だろうと、何でも閣議決定で決めてしまう安倍首相と同じである。

 

名古屋出身の共産党国会議員・加藤進氏も一緒に訪問してくれたが、父親は出て来ようともしなかった。父親の言い分は「折角いい大学を出たのに、共産党の専従になって職場を辞めるなんて、許せない」だった。

 

多忙な国会議員同伴でも逢おうとしない頑固な父親が、障子の向こうでやりとりを聞いているだろうなと頭の中で想像しながら、3人は大きな種ありぶどうを味わった。

こういう接待もありなのかと、若さ真っ盛りの自分は考えた。いまは亡き加藤進議員は穏やかな性格で、不本意な訪問結果を笑顔で包みながら実家を後にした。

 

数日後、加藤議員ご夫妻が仲人になってくれ、広い会場に100人以上の活動家や友人が集まり、インスタントのジュースで乾杯したあと、舞台で合唱や劇を演じて祝ってくれた。

私の家族は全員参加だったが、夫の家族はゼロという結婚の集いだった。

 

       後日談 夫の親夫婦は孫(長男)誕生でコロットと変わり、よく逢うようになった。

             義母の死で独り暮らしの義父と、旅立ちまでの5年半同居した。本来おおらかな性格の元校長先生だった。

 

 おでん

 

長男が生まれ、産後休暇42日が過ぎた。当時働き続けるために、妹の居住地近くの無認可の共同保育所で支え合った。それしか、働き続ける道はなかった。

公務員だったので育児休職制度はあった。が、その間無給では専従活動家の遅配続きの家庭が、育児休職が取れるはずはなかった。

 

女が働き続けるとは、なんと厳しかったことかと思う。

休みの日は、廃品回収や物資販売などで保母さんの給料を確保したりした。

 

1歳の誕生日が過ぎたころ、活動の関係で居住地に近い保育所ではなく、職場や活動の場がある名古屋の保育所に変われと、所属する党組織から指示された。

 

毎朝、6時50分の電車に乗って、比較的職場に近い保育園に変わった。朝ごはんを食べさせる暇もなく、下車した大きな駅の並びにある古くからのおでん屋でおでんを食べさせた。卵やこんにゃくなど、よく食べてくれた。

 

6時50分の名鉄パノラマカーに乗ると、一番前の席に母子が座る。

 「アッ貨物だ」とか「トンネルだ」とか言えるようになった子に、「ことばがはっきりしてますね」とほめてくれる人もあって、命育ての喜びを実感した。

 

しかし、5時まで働いて保育園に駆けつけると、長男一人だけポツンと待っていた。何日か経って保母さんから「みんな3時にはお迎えが来ます。困ります」との苦情に驚いた。

女も普通に働こうとすれば、5時過ぎのお迎えは当たり前なのに…。怒ってその保育園を辞めた。

 

必死で別の保育園を捜したが、やはり「お帰りは3時ごろに」が普通らしく見つからず、これではとても働けない、夫は泊まり込み会議や帰れても深夜で、保育園の送り迎えなど期待できないし…と途方にくれた。

 

その頃になると、活動家も子持ちが増えてきた。仕方なく職場に近い所で、仲間たちが民家を借りて開いていた共同保育所へ変わった。

夜は親たちが交代で泊まり込み、当番の親が5〜6人の子を銭湯へ連れていき、夜ごはんを食べさせ、遊ばせ、本など読み聞かせて寝させる。

 

翌朝、朝ごはんを食べさせてから出勤した。1年半近く続けた夜間の共同保育は、活動のために子どもをあちこち連れ歩かなくてもいい。そんな発想だったが、夜、子どもと会えないのは寂しいと、辞める活動家も出始めた。

 

「指導部だから勝手は許されない」と無理を重ねたわが家もやっと解放された。

 

3歳になって、何とか居住地の市立保育園に入った。5回保育園を変わった長男は我慢づよい子になった。親の都合でよく我慢してくれたと思う。

 

常任活動家の帰りは夜遅く、休みなく、給料安く、連れ合いも必死の活動生活で、しわよせが行ったのは子どもだった。

夫婦とも世の中の革新を願い、現実の矛盾と社会主義に夢と希望を求めた故の苦労、若さもあり耐えられた。

 

        後日談 夫は組織に異見をもち、21日間監禁査問され、風呂敷包みひとつでくびになった。40歳だった。2年間組織相手に裁判で闘った。

             妻の働きと借金で食いつないだ。「反党分子生活」の虚しさと並みでない苦悩の日々も、学習塾の成功と社会主義崩壊で霧散した。

 

 

 切り干し大根

 

2年前、犬の散歩の途中で現役時代に時々会い、顔だけは知っている男性と言葉を交わした。笑顔が素敵な男性だった。退職後本格的に農業に取り組んでいるらしい。

畑には細かく刻んだ白い大根が、斜めに広げた竹製の敷物に干してあった。「切干しは、何日間くらい干すのですか?」と尋ねると意外な答えが返ってきた。

 

「盗られてしまうで、見張っている時しか干せんのだわ。ほらここのところが無いだろう?この前も全体の半分くらい盗まれちゃって、ホント頭にきた」

あの時はショックで「切り干し大根も干せないの?」と題して、新聞に投書してしまった。掲載された記事を見せたことを思い出した。

 

先日犬と田舎道を歩いていると、笑顔で挨拶してくれる人がいた。彼だった。「あっ お久しぶりですね。お元気ですか?」と挨拶した。

「畑仕事でやり過ぎると腰が痛くてね」「お互いいい歳ですものね」「かつての同僚たちが、次々逝ってしまうことが一番こたえる」にハッとした。

 

「やっぱり、早朝、深夜と仕事に合わせて体を使う仕事だったから…」

私鉄の職員だった男性のことばはずしりと響いた。

 

帽子を冠り列車の発着に合わせて手を上げたりする動作や姿は、恰好良くて、子どもたちも憧れる。

時間を厳守し間違いは一切許されない仕事。列車の正確な発着がすべて、命に係わる仕事だから。

 

長年、看護士を務め終えた友は言う。「ミスは誰でもする。けれど、決してミスってはいけない仕事がある。わが身を振り返っても、人命に係わる…皆命がけで仕事をし、生きている

 

           食べることは生きること。生きることは働くこと。

 

田舎道を歩くと、田植えが済んだ緑の稲がいつの間にか1メートル以上の育ち、実をつけた穂が膨らんで、中には首を垂れ始めた稲もある。やがて一面黄金色に輝くだろう。

 

実るほど 頭を垂れる 稲穂かな   

 

                              2014・9・14

 

 

 

       祈ってネ 私が犯罪者にならないことを

            「聖護院大根の塩麹入り ぶり煮」続編

 

 「私が犯人にならないことを祈ってネ」と言うとも子と、手を取り合って別れた。

 

 とも子の連れ合い勇が7年前、がんの手術で食道と胃を取ってしまってから、何とか食卓について一緒に食べることは食べる。が、その後ハァハアと喘ぐ。苦しくて暫く休まないとおられない。

 やさしかった息子が逝ってしまったとき、2人で泣いた。そして勇が言った言葉「ゴメンな、俺がやらないかん農業を全部やらせて、ゴメンな」酒が入っていないときの言葉は、本心だと思う。

 

 朝8時、友子は「畑行ってくるよ」と、一人ことばにしながら、出かける準備をする。

 勇はとてもその時間には起きられない。だから朝食は抜き、11時過ぎに畑から帰ると昼食の準備にかかる。「ごはんだよ」昼は何とか起きてくる勇だった。

 

 1日13種類の野菜を食べるのが普通になっているのが、案外健康の元かも知れないと、とも子は思う。大根と人参を細かく刻んだサラダに、青くゆでたブロッコリーと菜花、自分で作った大豆をひじきと煮る。それに背の青い魚の鯖の味噌煮、これだけあれば十分だと食卓を眺める。

 

 病院から「酒飲んでるなら治療は出来ない」と宣告された勇が近頃、とも子が畑に行っているとき内緒に飲み出したらしい。車にはもう乗れないから、歩いて近くのコンビニで買っている。

 動かないから足が弱り、よろよろしながらコンビニまで歩く。1・5合入りの酒を左右のポケツトに入れる。その前にコンビニで1合の酒を飲み、さらに下に来ている服のポケットにも2本入れて帰る。

 

 その日は昼ご飯が終わり、一息ついて騒動が始まった。とも子がいないとき飲んだ酒で、以前のように大暴れの気配がした。怒鳴り散らす。おれが飲むのがなんで悪い!

 断酒会を紹介されても行く気はない。医師からは飲むのなら、薬も治療も何にもならないと、拒否されたままだ。

 

 午後3時ごろから騒ぎが始まり、夕食の時間になっても9時すぎても暴れ、怒鳴るが続いた。始めの頃は思わず勇の背中を手で叩いていた。

 近くに住む長男にも連絡し何とか押さえようとしたが、いつもと違って夜10時過ぎた。とも子は手元にあった大きな財布で思いきり叩いた。すると、中味が散らばったので、転がっていたビンで叩き始めた。

 

 勇の体は思うようには動かないが、声だけは大声でわめく、怒鳴る。とも子は、とうとう勇に体当たりして両手を首に近づけた。

 1回2回3回、4回と、首に手をかけた。そして5回目に本気で力を入れて首を締め始めた。が、ハッとして勇から離れた。

 

 もしも自分が勇を殺したら、残された子は殺人犯の子という運命になる・・・。私はどうしたらいいのだ。わが家は救急車か警察しか頼れない運命になってしまった。

 

 いつまでも寒さが続く今年の冬だった。

 とも子は少しだけ陽が温かそうな日は、小型車に乗って6〜7分の畑まで走って花作り、野菜作りに精を出す。

 

 寒さで野菜の値が高く、ブロッコリーは1個300円、大根でも1本250円とか聞くが、取りたての野菜は近くに住む長男一家と、何人かの人たちに順番に送ることにしているとも子に野菜の値段はあまり関係ない。送って喜ばれるそれがとも子の喜びだった。

 

 里芋はとても美味しいと評判で、頼まれて作っているほどだ。海抜ゼロメートルのこの地域の土が合っているとか。大根、人参、小松菜、菜花、ねぎ、ほうれん草などなど種を蒔けば、野菜も花も育つ、不思議な自然の力だと友子はいつも励まされている。

 ただ聖護院大根だけは、去年のように大きく育たなかった。

 

 とりわけ花大好き人間で、草が生えて何も育っていない空き地を、勝手に花いっぱいの見事な広場にしてしまう。いまの時期は黄色い菜の花が、幅40センチほどで10メートルも広い帯のように続く。とも子は誰も来ないこの畠で、独り蒼い空を仰ぎながら、自死してしまった息子と一緒に耕した頃を懐かしむ。

 

 聞こえるのは鳥の鳴き声だけ、薄い青色の空と黄色い菜の花の絨毯に囲まれて、大自然に生かされている自分を感じ「おーい」と声を出してみると、少しだけ元気になる。

 

 30年前、私たちが子育てしながら現役で働き続けた頃、とも子とよく話し合った。

 私の夫が失職し裁判で不当を訴えた。一家4人を1人の給料で支えた2年間だったが、借金出来る友人も限界で、裁判を取り下げて学習塾を開くことになった。

 

 そのとき、借金で建てた塾舎の保障人を頼んだ。出来れば避けたかっただろうに、危険を承知で、保証人になってくれたのが妹と、この友だった。

 一生感謝を忘れてはならない恩人である。

 

 とも子と会えたのは1年ぶり、思いっきりしゃべり、別れの時間が来てしまった。

 話を聞く相手になってあげるだけ、心底同情してあげるだけで、何もして上げられない自分。

 

 救いはとも子が健康であること、人付き合いもいいことである。

 お互い若さがあった頃、世の中への関心もあり、子育て、仕事など希望をもって語り合った。

 

 人生って、どうして一度に不幸がドサッと覆いかぶさるのだろう。勇も、とも子も前向きに、懸命に働いたのに。

 「人生酒ありてこそ」と、楽しく管理職を乗り切ったのに。第2の職場で、上司のパワハラを受けた「うさのはけ所」になった酒を想う。

 

2013・3・31

 

 

 

       聖護院大根の塩麹入りぶり煮

 

 聖護院〔しょうごいん〕大根は大きなかぶらのような形をしている。京都聖護院地方の特産で、普通の大根よりきめが細かく、煮物に最適といわれる。友が丹精込めて愛知で育ててくれたこの大根はとりわけでっかい。

 取りあえず半分に切りそれをさらに4つに切り分けて、買ってきたぶりかまと煮た。

 

 それだけで十分に美味しいだろうと思えるのに、いま流行りの米麹〔こうじ〕から作りおいた「塩麹」を試しに混ぜてみた。「ゼイタク!」カゲの声が聞こえて来そう。

説明: 説明: 説明: 説明: http://www2u.biglobe.ne.jp/~kanou/shougoiudaikon.JPG

京都の伝統野菜

 

 麹は味噌醤油や、酒、味醂など「発酵食品」に麹を使うことで発酵がスムースに進むそうで、その鍵は麹菌〔カビ〕の仲間が握っている。カビというとふつう食べ物の腐敗、病気の原因になると悪いことばかりのイメージだ。しかし、麹菌〔カビ〕はふっくらと蒸された米の中で菌糸をのばして繁殖を続け、「酵素」という物質を作る。この酵素が食材の細胞に入り込み、細かく分解することによって発酵が促進されるそうである。

 

 初めて聖護院大根を頂いて、初めて塩麹を使って煮たこの「聖護院大根の塩麹入りぶり煮」。こくが違う。とりわけでっかい聖護院大根にはわけがある。

 聖護院大根ぶり煮の逸品をゆっくり味わいながら、しみじみ人の一生を噛みしめた。

 

 現役時代の友人とも子は、退職して大好きな野菜つくりに励んだ。研修時代に知り合った勇と、横浜、愛知の遠距離恋愛で結ばれた。

 貧しい干拓農民の息子である勇は、大学に進学できず公務員になった。2年ほど働いて技術系の幹部養成のための試験に合格して、他県にある寄宿舎つきの研修施設で1年間学んだ。

 

 研修が終わって、再び現場に戻り働き始めたが、同時に夜の大学へも通い始めた。そして、その真面目な勤務態度が認められ、およそ15年ほどしてその局の局長になった。

 高度成長期の日本でどんどん学卒者が職員になった。職場は活気が溢れ競争も激しくなった中で、勇は何より部下と心をひとつにして働いた。酒に強かったのも力になった。

 

 やがて定年が近くなり、定年2年前に退職して、下請け企業に働くことになった。そこに悲劇の素があった。いままで勇の下で働いた大学出のエリート部下が、下請け企業になったのを期に、いろいろ難くせをつけ始めた。いままでそつなくトップの席をこなしたことへのヤッカミもあった。

 

 勇は下請けの職場でも誠実そのもので働いたが、酒を呑んで憂さを晴らした。その職場を3年で辞めたが、アルコール依存症になった。

 

 退職後は趣味の写真や、地域の役をこなして一見平穏な暮らしだったが、少し気に入らないことがあると、妻に当たり散らした。アルコール依存症のころ食道がんが見つかり、25センチの食道を全部摘出した。胃を引張り上げて胃管を作り、胃も腸も取ってしまった。同じような手術を受けた人はみな死んでしまったが、勇は生き延び既に7年の月日が過ぎた。

 

 食後はいつも暫く横にならないと、苦しくなって我慢できない。フーフー言いながらも、何とか日々が過ぎたのは元来強い体だったのだろう。

 そんな頃特別やさしかった三男が自死した。原因は長年真面目に働いたが、月100時間、あるいは150時間を超える残業続きで、うつ病になった。休んで療養したが、病院の医師の指示で飲んだ薬で躁病になってわめき散らす。次はうつになって沈み込む。その繰り返しで、精神科に入院したりもした。しかし遂に悲劇の日が来てしまった。

 

 勇のアル中症状はその日から急激に悪化した。妻のとも子は言う。「朝から夜まで怒鳴ってばかり、言い争ってばかりいた夫と、手を取り合って涙を流した」と。童顔のとも子は誰ともしゃべり易いタイプでもの言いははっきりしていた。そのときばかりは2人の華やかで明るかった青春に戻った。

 

 暫くまともになった夫は瞬く間に狂人に戻る。怒鳴る。「酒もってこい」と叫ぶ。拒むと「おれを何だと思っている」と、殴りかからんばかりになる。

 恐ろしくて、近寄れない。お風呂も怖くて入れない。いつでも逃げ出せる準備をしておいて、食事を作る。いまではまるで、食べることはできず酒を呑む。いつも床の中だ。

 

 寒風吹く2月、とも子はさすがに心身とも疲れ果て死ぬことを考えた。死んでこんな生活終わりにしたいと思った。力を振り絞って以前夫が罹っていた病院へ電話した。医師に「そんな状態では何もできない。間もなく死が来る」と断言された。そして「断酒会」を紹介されたのでひとりで見学に行った。

 

 そこで目にしたのは、若い30代40代のアルコール中毒患者とその家族たちの壮絶なやりとりだった。「下着が汚物で汚れても、部屋が汚れて臭くても片付けない」「患者のことを親類や姉妹に相談してはいけない」「若ければ経済は無茶苦茶で子どもが怯えている」等々、とも子はアル中患者の悲惨さに頭を殴られた気分で帰った。

 

 帰宅して、怒鳴られながら、とも子はつい言ってしまった。「病院は断られたよ!酒でそんな状態じゃ間もなく死がくるって」。 怒鳴り、わめくばかりの勇がそれから変わった。ほんのいっとき、少しだけ正気になる勇。いうことばは90%が感謝になった。

 

 「あんたには迷惑かけたな。ごめんな。胃腸とって7年も生きたから、おれもう死んでもいいんだ」。

 「15歳で酒勧められ『親父が酒強いから飲めるだろ?』『酒呑めなきゃ、仕事できない、出世も出来ない』いろいろ言われた」。

 

 とも子の話を聞いて、思わず私たち2組の夫婦で行った楽しかった思い出を口にした。

 「4人で行った『なばなの里』咲き乱れた花たちが幻想的に美しかったね。素朴な店が立ち並ぶ『おちょぼ稲荷』安くてとっても親しめる店ばかりで懐かしい!」「ほら、私の夫が『アスパラの苗を買って植えたいけど・・・』と言ったら『アスパラは苗より種の方が安いし育つよ。オクラの種は気温が26度にならないと育たないよ』と、彼は親切で的確な野菜作りの指導もしてくれたわネ」

 

 とも子は、勇が寝たまま起きて来ない日の朝、畑仕事どころではない日々が続いた。しかし「畑が荒れてしまう」と言ったとき勇が「おれがやるべき農業、やったことがないお前にやらせてごめんな」と言った。そのことばで久しぶりに畑に出る気になった。そして大きくなり過ぎた聖護院大根を収穫した。勇は数日間酒を飲まなかったので、病院の医師は「不眠」と「痛み止め」の薬を処方してくれた。そして1週間が過ぎた。

 

 とも子は心底思う。「この先は分からない。でも、また今日1日は飲まなかった」と。

 大きな聖護院大根は、貴重な贈り物だった。

 

2012年3月15日

 

 

 

       いもねえちゃん

 

 馬鈴薯、さつま芋、里芋、どんな芋でも好きなのは、歯が悪くなったせいもある。文字通りの「いもねえちゃん」いえ、「いもおばさん」を自認する。

 

 最近、ふるさと便というので「なると金時」というさつま芋が届いた。赤紫色した芋を洗いそのままレンジで5分、高価な焼き芋ができ上がる。

 ナイフで切ってみると、文字通り黄金色とやや白っぽい色が混じったケーキがお皿に輝いている感じである。ナイフで切りながら甘過ぎず、こくのある深い芋の味、その絶妙なさつまいもを食す。

 スーパーで時々いもを買うことがあるが、この芋とは何か違う。

 

 いもおばさんの影響で、連れ合いもその味に魅せられわが家の昼は、このところまるごと焼いた?さつま芋を半分ずつと、あと少しの麺類とか、近頃品質がよくなった冷凍食品のドリアやピラフを半人前ずつ、それにたっぷりの野菜などで満足である。

 

 ところが、1週間でその輝くようなさつま芋がなくなってしまった。やむを得ず追加注文をして、毎日をやめて1日おきにした。産地から届くパンフには広々したさつま芋畑の写真と共に、「この『なると金時』は適度な潮の塩分が加わった砂地に、海のミネラルをたっぷり含んだ環境で育てられているのが味の秘密です」と記されていた。

 

 たまたま、テレビの料理番組が目に入った。それによると、さつまいもの栄養はビタミンがニンジンの2倍、カルシュウムもほうれん草の2〜3倍と報じていた。

 本当?疑いたくなるほどの数字なのに、単純に信じて「それなら、当分わが家はこれで行こう」となった。

 ニンジン、ほうれん草なんて、いままでの常識では栄養の宝庫である。それを覆すような数値を確かめもせず、まい進するのもわが家流かなと心の中で思ったり…。

 

 戦後の飢えの時代は、このさつま芋だけだったことを思い出す。お腹が減ってどんな物でも口に入れたかったあの子ども時代、さつま芋があったから生きることが出来た。

 農家の人たちも、馬鈴薯はあまり生産しなかったが、さつま芋と南瓜はよく作っていたように思う。

 

 当時のさつま芋はこんなホクホクではなかった。品種改良もされただろうけれど、しっとり湿った芋には、お百姓さんの汗があったのだろう。

 そして、里芋と小麦粉のだんごが少しだけ入っただけのシャビシャビ「すいとん」には、4人も5人もいる子どもたちに満足に食べさせられない、親の涙があったのかも知れない。

 

 戦争がない時代が66年続いた。ケーキより上等にも思える、美味しいさつま芋が味わえる幸せな時代に、感謝ぜずにいられない。

 

2011年11月30日

 

 

 

       カレーと加齢

 

東京の義兄の話。裁判官の友人が体調を崩し医師に罹った。

医師に「加齢系です」と言われたその友人は言い返した。「カレー系?私はカレー党ではありません」と。

「カレー」は発音すると下の音が上がり、「加齢」は下の音のアクセントが上がる。

「箸」と「橋」とか、「医師」と「石」のように下の音のアクセントが下がるのと、上がるので意味が違うように、だから日本語のアクセントは外人には難しいらしい。

 

〔1〕、カレーばなし

 

カレーが人気だ。特に若い人たちに。キャンプへ行けば焼肉バーベキューかカレー、南極越冬隊にも人気だそうだ。

 

子供が小さかった頃の失敗ばなし。残業で帰りが遅い私に代わり、夕食にカレーを作る夫。人参、玉ねぎ、馬齢薯と野菜を煮込み出来上がりに入れたカレールーの量が分からない。

多分これだけだと、ひと箱全部で混ぜあわせた。小さい子達に食べられるはずはなく、「カライ」「辛い」と、大騒動の夕食になったとか。

 

昔は、カレー料理と言えば、馬鈴薯、人参、玉ねぎそれらの野菜を肉と一緒に煮込み、カレールーで混ぜて出来上がりだった。

いまでも、スーパーなどにいろんなメーカーのカレーの素が並んでいる。同時にレトルトカレーで、調理済みのカレーが袋に入り、温めるだけの簡単カレーが目を惹いた。

 

世の中忙しくなり、白いご飯に料理済みの具を添えるだけ、その手軽さが人気なのかとも思ったが、そうでもなさそうである。

デパート売り場はどうなのか?と、少しだけ食品売り場を歩いた。

 

見つけた、見つけた。それは「よこすか海軍カレー」と「神戸三国志迦哩」だった。箱に記されていたのは「明治期、イギリス海軍の『軍隊食』であったカレーを日本も『軍隊食』に」と、「『よこすか海軍カレー』が日本のカレーの誕生である」とあった。

 

「神戸三国志伽哩」は「中華風カレーの歴史は三国志とともに始まる」とあり、非常食にもなるしと、思わず2つとも買ってしまった。

気分転換を兼ねて、東急ハンズへも出かけた。あるある全国各地の自慢カレーがずらり。

 

値段も一番高そうなカレーは、何と言ってもビーフカレーのようだ。

「黒カレー」なんてのは、いかにも煮込んだ時間が長そうに黒々として、入った箱の写真から伺える。しかも肉の産地が飛騨牛、松阪牛、佐賀の牛といろいろだった。

 

「京やさいカレー」「えだ豆カレー」「水なすカレー」「大根カレー」「らっきょカレー」に「北海道豆カレー」と続く。野菜が売り物のカレーのようだ。

「手羽元カレー」に「ひまわりビーフカレー」それに「こんにゃくカレー」まである。

 

新潟産の「米粉カレー」は牛肉、マンゴ、パイン入りでおいしそうだったし、金沢の「烏骨鶏カレー」がいけそうだったので、買って帰り早速味わった。こくがあり満足した。

その数20を超えそうだった。

 メモしないと覚え切れない。店の人に怪しまれないよう、籠に4個ほど入れて買えば文句は言われないだろうと、ノートに鉛筆で走り書きする。

金沢の「烏骨鶏カレー」も珍しいが「肉味噌カレー」は名古屋発らしい。

 

〔2〕、加齢ばなし

 

世の中地震、津波震災や、台風の大雨や土砂崩れで、3・11以後みんな必死である。復興も思うように進まないのに、何だオマエは閑そうに。と怒られそうである。

ただ、この夏の猛暑で、夫が脳炎で倒れ1ヶ月以上の入院で、この介護老人もよれよれになった。だから、やっと何かをしようと意欲が沸いてきたばかりである。

 

気温35度の中、1ヶ月通い続けた病院で「加齢による」という言葉を、何回も耳にした。

大手の病院で、心臓内科、内科、脳神経内科と3人の医師が、朝から午後4時過ぎまでかかった血液検査や、CT、MRIで撮った脳の写真を見ながら、「おかしい、何かが変だ」と、何度もことばが出ない本人に語りかけてくれた。

 

脳炎で2〜3日あの世をさ迷った夫、ずい液の検査で「異常に高い数値の細胞の数、なぜか解らない。心臓の不整脈も加齢のこともあるし・・・」。

考えに考えて救急車で国立病院の脳神経内科へ搬送してくれた。生きて退院できたのは、その医師たちのお蔭である。

 

退院して1ヶ月過ぎ、冷静に考えればこの真夏の大騒動は、大失敗の典型である。1年前の夏にも似た症状があった。学習塾を辞めてから冷房装置を撤去した教室の、しかも暑い2階の教室で、暑い暑いと言いながら熱を発するパソコンに向かい続けた夫。何が何でも止めよと言わなかった妻。

 

午前2時間、午後2時間以上の時間を文章を考え、パソコン操作に夢中になった。そして今年の猛暑にやられた。命がかかった失敗談である。最初に罹った医者が経過を聞いて、ひとこと「運が良かったですね」と言った。

 

「加齢」とは「いままで出来たことが出来ない」「いままで出来たことをすると、やり過ぎでダウンする」こと。その境界を自分で掴むしかない。

 

真夏の大失敗で「加齢」と闘っている人がいかに多いかが分かった。加齢系の私の友人たちである。

まだ現役で頑張る友がいる。また、老人施設で長年、絵手紙の指導をしている友もいる。2人とも70歳過ぎている。一人はメニエル氏病でよくめまいがするが、暫く横になると楽になるので、薬を飲みながら指導を続けている。いずれもひとり暮らしである。

 

 高校教師OBの友は、糖尿病で目が片方見えなくなった。薬のせいもあり、低血圧、低血糖で午前中はよく横になる。それでも書くこと、話すことが巧く、仲間が大勢いる。

 別の友人は、退職後は老人施設で暮らし、最近酷い腰痛で寝たきりだった。胃腸も弱ってきていた。近頃何とか起きて食事だけは出来るようになった。「ここまでこれて有難い」と言う。独身で働き続けたが、子や孫のある人に「遺伝子が残せて良かったね」と嫌味なく言える人柄だ。

 

更にがんになり、徹底した「玄米自然食」で病を克服した友がいる。

人に迷惑をかけたくないとの想いで、早朝1時間の散歩を欠かさない友、毎日の体操や腹筋で鍛える努力をする人、障害のある子達に水泳指導しながら、自分も鍛えている友人がいる。

 

 加齢系は、若い世代のように、ぴちぴちとした美しい顔や体とは言えない。が、年輪の刻まれた表情にホッとさせるものを感じた。

 忙しくて出来なかった趣味に喜びを見出している友だちがいる。

それは、楽器を奏でることであり、絵画や書道や、文章表現である。現役世代の厳しい状況では難しくその余裕がない。

 

加齢系は、生きるためにがんばっている。

合言葉は「えらくなったら横になろう」。

 

チエロの巨匠 バブロ・カザルス96歳のときのことば 〔「鳥の歌」J・Lウェッバー編〕に心安らぐ。

 「私が90歳だったころよりは若くない」

 「しかし、歳というものは相対的なもので」

 「ある種のことは若いころよりも強烈にかんじる」

 

2011年9月14日

 

 

 

       焼きチョコケーキ

 

 駅前の一等地にイタリア料理店が出来た。店の責任者は、何でも本場で2年間、イタリア料理を学んだとか。評判の店だ。

 比較的広い店内は、中央の大きなテーブルの周りに、客席が5つ6つある。

 

 カウンター席で客を接待したり、客席に注文の料理を運んでいるのは若い女性店員一人と、おれだ。黒のズボンに黒の前掛けしていると、たまに「イケメン」だねと声かけてくれる客もある。

 

 ある日、年配夫婦の客が入ってきたとき、ドキッとした。中学生のころ、1年間通った学習塾の先生だったから。おれは、当時荒れていた学校で先生たちを困らせたつっぱりグループの一人だった。1学年上と1学年下にも仲間がいた。

 中心メンバーの一人が、その塾がいいと通い出したので、おれも通ったのだ。

 

 仲間たちは結構頭がよくて、テストがよくできていると、塾長に褒められていた。でも学校ではとことん抵抗して、授業妨害したり、目で合図し合って教室から出て行くなんて毎日だったから、どんなにテストの成績が良くても、通知表は2か3で、よく出来る評価の、4とか5には絶対ならなかった。

 

 おれは、塾長が15年も昔になったことだし、まるでおれに気づいていないようだったので、そ知らぬふりで、最初にスープとサラダを運び、次に自家製のパンを運ぶのだ。

 スープは大きな底が深い皿の、底の方に量はほんの少し、クリーム色と黄色の中間色で、コーンとバターとヨーグルトの混じったトロツとした、自慢の一品だ。

 

 暫く間をおいて、生野菜サラダを一皿出す。

 客が、ゆっくりつまんでいると、手作りの焼き立てパンを2切れと、もう1本、鉛筆のようなパンを出す。長さは鉛筆2本分くらい。

個性がこの店の売りだ。

 

 ランチタイムの割安で、帆立貝がいくつも入った、凝ったスパケッティを並べた。

 塾長夫妻は「この色合いのままの、絶妙な味わいね。量も少なくて私たちには丁度いい」。と言いながら、スプーンを置いた。

 「以前イタリーを旅したとき、昼食に入った料理店で、とても食べきれない大盛りスパゲッティに驚いたね」とも言っていた。

 

 そして「こんなに帆立貝が入っている。野菜の色とのコンビネーションが、余計スパケッティ全体の味を引き立てているわね」。

 店全体に気を配りながら、おれは夫婦の会話にうれしく耳傾けた。

 土曜日だし、時間帯が昼どきでもあり、店内は満席だった。小1時間も過ぎて、客席に空席が出来始めた頃、塾長夫婦はカウンターへ支払いに来た。

 

 「あの、セットに付いているので、まだコーヒーが出ますが…」。

 おれのことばに塾長は「あっ そうか。まだ出るんだ」。

 すると女の先生が「そうなの? いっぱい出るのね。それならメニューにあった、焼きチョコケーキ200円追加して…どんなのか食べたいわ」と言ってくれた。

 

 「はい、焼きチヨコケーキ追加ですね」おれは、追加の注文に気をよくした。

 塾長たちは、また席に戻り、ゆったりした表情で焼きチヨコケーキを待っていた。

 長い陶器のお皿に3センチ角の深い茶色のケーキが4つ、その隣に赤いいちごが半分に切って並んでいる。

 

 焼きチョコケーキはこの店の自慢の創作品、チョコがたっぷり混じった固めのケーキ地で、甘過ぎず,柔らか過ぎず舌の感覚は絶妙のはずだ。

 

 満足気にコーヒーと一緒に味わった二人は、再びカウンターへ支払いに来た。

 おれは「ありがとうございました」と頭を下げた。と、塾長夫妻は「とっても美味しかった。満足した」と言ってくれた。

 おれは思わず笑顔になって言ってしまった。「あの、美味しいって言えば、塾でいつも休憩に出して貰ったお菓子、とっても楽しみだった。僕、先生の塾で勉強したんです」。

 

 「えっ? あのときの毎日のおやつ、美味しかった? わぁーい。ありがとう。ありがとう。よく勉強しに来てくれたわね」。先生二人はうれしそうに応えてくれた。

 

 「勉強が出来る子がくる塾だったけど…勉強が出来る子なんて、全体の1割か2割でしょ。大部分は普通の子だから…。でも努力は続けなければ」。

 おれはよく先生に言われたことばを思い出した。

 驚いた表情の塾長夫婦に、追い討ちをかけるように「シェフは、彼です」。

 

 声を聞いて奥の調理室から現れたのは、おれと同じ学年の塾生だった。創作料理の腕はこの店の自慢、その中心だ。

 おれは言ってしまった。「やっと見つけた仕事の場だけど、おふくろが店に行きたいと言っても、仕事がやりにくいから、まだ駄目だと言ってあるんです」。

 

 塾長夫婦はおれのこと「イケメンね」と言ってくれた。「美味しいし、安い」か。うれしいな。

 つっぱり仲間は高校へも行かず、建築土建関係の現場で働いているのが多かった。おれはこの料理店を、「質がいい、安い」を目標にがんばるぞ!

 

 なんだか向こうの方に、ほんの少しだけ明るい光が見えたように思えてきた。

 

 

 

         明石のいかなごくぎ煮と北陸の蟹

 

 関西では、春の風物詩として、いかなご漁があると初めて知った。

 

 いつもの年は、明石沖のいかなごが、小さいまま大阪まで流されてくるのが、今年は暖冬の影響で゛それがなく、不漁でいかなごは高値だったとか。それが、朝日新聞のトップ記事になった。そう伝えてくれた関西の友人Aさんの言葉に、大阪地方では、いかなごのくぎ煮はそんなに注目されるのかと驚いた。

 

 「急に寒さが戻り一時漁獲はあったが、魚が大きくなり過ぎた。でもカルシュウムはいっぱいです」。そんなことばと共に苦心していかなごを仕入れ、長い時間じっくり煮た逸品を送ってくれた。

 3cmほどのいかなごが、つややかな褐色で泳ぐように横たわり、その甘み辛味のほどよい調和で、つい食べ過ぎてしまう絶品である。

 

 長年食堂をやって子どもを育て上げただけあって、これこそプロの味だと思った。

 

 大阪地方では、この季節になるとあちこちから、いかなごのくぎ煮を炊く匂いがしてくるとかで、Aさんの娘が「お母さんもやっと静岡県人から、大阪人になったね」と言ったとか。「この歳になって、元気でこんなことができることは幸せ」との言葉に、グルメブームのこの頃、個人の家庭料理の食堂では、苦労が想像できるだけに、こころが有難かった。

 

 翌日、今度は夫あてに別の電話があった。「仕事で金沢に来ているから、北陸のズワイ蟹とえびを送る」という思いがけない声は、ネット上の知り合いKさんからだった。

 

 その少し前、ホームページに載せた私の拙文「春先の『前借りで願います』」を読んで頂いたようで、「身につまされます」というメールが届いていた。

 

 お蔭で、昨日は野菜いっぱいのズワイ蟹の鍋で、蟹肉の甘さと共に、たっぷりの蟹味噌に舌つづみをうち、今日の昼食はえびの天ぷらと、新鮮な海の幸を思う存分味わう喜びを満喫できた。

 

 忙しく全国を廻る仕事で、よくこんな気遣いが出来ると感心しながら、それにしても、今回はなぜ送って頂いたのだろう、と夫婦で考え合った。

 

 結論は「工事業者が、工事の材料費もなく『前借りでお願いします』とやらざるを得ない現実が、身につまされる。そういう苦しい体験があるからではないか」ということになった。

 

 1年前、図書券など6万円のカンパを頂き、感激しながら研修仲間たちにホームページの文と、北海道から取り寄せた「馬鈴薯甘納豆」を数十人に贈った。

 

 寒さでヘロヘロになっていたという友、体調不良で沈み勝ちだったという友、或いは障害者のボランティアで頑張っている友たちが、励まされた、元気が出てきたと、ほぼ全員返事をくれたっけ。

 

 生きる喜びとは、こういうことなんだ。人との心の交流こそ、何ものにも代えられない宝なのだ。

 いかなごのAさん、蟹、えびのKさん、ほんとうにありがとう。

 

 

         人生、酒ありてこそ

 

 初詣は、京都北野天満宮だった。学問の神様でも有名で、参拝客がごったがえしていた。

 元旦の夜は、京都に所帯を持つ長男宅へ、名古屋から私たち夫婦2人と娘1家4人が合流し、京都嵐山から長男の連れ合いの両親、合計12人の賑やかな新年会だった。

 

 その夜のお酒の銘柄は「月山」。月山といえば3年前東北で登った山、兄が急逝し、山頂の月山神社で宮司が「惜しむべく、悲しむべきは世の中の過ぎて又来ぬ月日なりけり」と歌ってくれた思い出の月山だ。

 

 娘の連れ合いは、日頃は車の運転で、わが家へ来ても1杯のビールも飲めない。

 今夜はいいだろう、若いから飲め飲めと、テンポ早く飲み続けた。子どもたち4人は勝手に遊んだが、酒飲み組は、段々声が大きくなり、話すことばも繰り返しが多くなった。

 

 知多半島の日間賀島でワタリカニ鍋、ぜひ来てくださいよ。行くよ、行くよ。おい、かあさん6月だよ。うん、わかった。わかった。どうせ明日になればケロッと忘れているわ。奥さんは日頃、酒に強い旦那との、付き合い、あしらい方を心得ている。

 

 子どもたちが床に入る頃、娘の連れ合いは気分が悪くなり、廊下で吐き、階段で吐いて汚し、寝るどころではなくなった。

 

 息子も、娘も共働きで、いつも協力し合っている友達夫婦だ。仕事や子育て戦争に仲よく奮闘している。ところが、今夜の娘は人が変わったように連れ合いに怒り、文句を言いながら、廊下や階段を掃除している。

 

 気分が悪いから怒っても仕方ないでしょ。と言うと、大学の同じ体育系部活時代も、こういうことが2回もあった。いかにも呆れたという態度だ。

 気分が悪くて横になれない連れ合いは、再び外の空気を吸いに行った。孫たちが布団の中で、心配そうに見ていた。酒豪3人で、高級日本酒を2升も飲み干したつけだ。

 

 私の連れ合いは以前、アルコール度の高いウィスキーを飲みすぎ、歩けないほど酔った。そんな体験が10回以上あり、そのときは何をしゃべったか全て忘れたと言った。

 

 亡き義父は戦後、学校設備やプールを作って貰うために、PTAの役員に飲め飲めと付き合わされた酒豪の中学校長だ。名古屋市南東の昭和区桜山から、北西の中村区中村公園の自宅まで大声で歌いながら歩いて帰った。

 季節によってはそれが毎日続き、その回数で酔って歌う名物校長になった。家に着くと土足のまま布団に直行した。それを本人は何も覚えがないと言い続けた。

 

 娘の連れ合いも、あれほど知多へ、日間賀島へとしゃべり続けたのに、翌日は全く知らないと言う。飲めない者にとっては、理解できない酒飲みのご都合主義ともとれる。

 

 人生酒ありてこそとは、心地よく相手としゃべり、楽しく酒を酌み交わすこと。

 飲めなくても1口飲んで語り合う。話した事も記憶に残る、そういう酒である。

 

 悪酔い酒は脳の記憶装置・海馬がアルコールで前日の記憶を消し流してしまうらしい。

 元旦の大騒動であった。

 

 2日朝、京都駅に近い宿の5階のカーテンを開けたら、京都タワーが目の前だった。

 3歳の孫が言った。アッ、キリンさんが見てるよ!

 

 新しい年が動きだす。

 

 

 

         収穫の秋

 

 やさしく、ソッと頬をなでられた。それは、体中に秋を沁み込ませる風だった。

 西の方角に太陽が沈む。ほんの少し前、みどり一面の田が目を愉しませてくれたのに、もうみどりは黄金色になり、収穫の秋だ。

 初秋の風を受けて、稲も心地よさそうに揺れる。道端のピンク色はコスモスだ。

 薄い空色の上空に、刷毛でなぞったような雲、やはりピンクだった。

 

 歩いているうちに、西の空は赤っぽいオレンジ色に変わった。そして、辺りがうす暗くなった。つるべ落としの、秋の日が暮れる。

 

 映画「出口のない海」を観た。人間魚雷と言われる海の特攻隊「回天」の物語は、時代が間違った方へ進んだとき、若い命が潜水艇とともに弾丸となって死なねばならない。切ない戦争の悲劇だった。

 

 一緒に観た夫と帰りに、デパートの地下の魚屋へ寄った。夫は魚屋を見るのが好きで、その日も安いし、新鮮だと喜々として品定めをしている。さんま、鯵、いか、それにお値打ち価格の鯛を買うという。この自主性は、私が育てた。家事完璧主義でない、間に合わない主婦。毎日の食材はまとめ買いすると、2人家族でも中々多い。今日は持ち手がいるから余分に買おう。

 

 「鯵ははらわたを出して。さんまは2つに切って」自分で魚屋に交渉していた。てきぱきと調理していた魚屋が「さんまは2つに切ると脂が出てしまうから、切らない」と断られた。魚屋の根性を感じた。

 

 翌日、大きなさんまをまるごと焼いた。焼けるにつれて、ジワッと脂が滲み出し、早く食べたくなった。私は大根おろし、夫はまだ小さい庭のゆずをかけて食べた。

 いまは北海道のさんまが脂がのって一番美味しく、脂ののったさんまは、段々日本列島を南に下って来るそうだ。これぞ旬の味、幸せな朝食だ。現役の頃はあわただしい朝食でこんなゆとりはなかった。

 

 いろんな苦労もあったが、いつも「いまが一番」と生きてきた。人生の秋は、自立心旺盛に育った子どもたちも巣立ち、インターネットのホームページだ、ピアノだと、夫婦はお金にならない仕事に毎日忙しい。音楽や文章で、何をどう表現するか、探求は続く。でも、人生の真冬はすぐ近くだろう。

 

 仲良しのひとりOが息子のうつ病の再発で悩んでいると聞いた。ときには、何もかも忘れて、劇場でゆったり映画でも観て気分転換しないと、彼女までおかしくなる。

映画「そうかもしれない」が好評なので、先日映画を観たばかりなのに、映画好きの彼女を誘ってみた。

 

 案の定、先ごろOも精神科を受診したとか。もともとしっかり者のOは「こんな日々の繰り返しでは自分がだめになる」と喜んで、打ち合わせた映画館へ来た。

 

 映画は仲のいい老夫婦が、女性が認知症になり、介護していた男性も舌がんになり、やがて死ぬ。夫の入院している病院へ、養護施設から車いすで付き添われて見舞いにきた妻に、介護者が「ご主人ですよ」と言うと、妻は「そうかもしれない」と明るく言う。

 

 映画館を出て、一緒に食事しながら話し合った。

 「やっと、よくなって働き出した息子が、やっぱり再発して、目つきまでおかしかった。もともと、月100時間を超える残業で、体調を崩したのに、いま現場は厳しいから・・・。でもね、先日業者に頼んで稲刈りして貰ったの。わらの後始末を私がするのね。そしたら、あの無気力の瞳が輝いて、ぼく、わらの処理手伝おうかなって言ったのよ」。

 

 日頃、医者から自分のやる気を一番大事にといわれているとか。

 別れ際、Oは「とてもいい映画と話し合いで、貴重な気分転換だった」と言った。うれしそうに話してくれたOの一家も、収穫の秋になりそうだ。

(2006年10月)

 

 

 

         食べる-ブイヤベース

 

 夫は、花が大好きの花咲爺さん、政治、文学から映画、音楽、マンガまで関心が幅広い。とりわけ食べることへの関心が高く、悪く言えば食いしん坊である。

 

 例えば、以前行った北海道旅行の話になる。「ススキノで初めて食べたイカソーメンと、ルイベ。あの美味しさは忘れられない」。

 私の退職記念旅行のイタリー、「ベネチアのゴンドラも良かったけど、サンマルコ広場に近いレストランでイカ墨食べたね。覚えたてのイタリー語で注文すると、女店長が『日本人は、どの店より真っ黒な当店のイカ墨スパゲッティーが大好きよ』なんて言ってさ」という具合に、食べ物と結びついた記憶になる。

 

 同じ歳で、波長が合う友達夫婦であるが、私は、ベネチアの折れ曲がった狭い小路で、ただひたすら民族楽器を奏でていた若者、そのエキゾチックな音色に、日本と時の流れが違うのが印象深かった。

 

 近頃は外食産業が大盛況で、街にはお金さえ出せば美味しい物が溢れている。

大きくて、真っ赤ないちごが載った茶色のケーキ、あるいは、豪華なランチは、和洋だけでなく、インド、中国、世界中の料理が食べられる。

 

 若い人たちには、これが当たり前の光景だが、私たち飢餓体験者は、おやつどころか、さつま芋だけの夕食や、不味い短麺が少しだけ入った、しゃびしゃびスープで飢えを我慢した。

 その反動なのか、夫の友人たちも、どこのそば打ちに行って食べたとか、あそこの海鮮料理は抜群だとか、グルメ派が多い。

 夫は、料理教室へ通っている友人に誘われるが、電脳政治研究者には、その暇はない。

 

 食べる基本は、自宅での家庭料理である。

 外食ばかりではお金もかかるし、栄養バランスにも欠ける。ほうれん草のおしたしとか、豆腐や、わかめの入った味噌汁など、日本の伝統料理がいまの長寿社会を作った。ただ、買い物、野菜を洗うなど仕事が増える。

 

 女も働くようになり、子育てもあり、夫婦の上手な協力、分担が必要である。私が現役のころ、残業で帰りが遅くなると、学業期の二人の子どもと義父のために夫が夕食をよく作った。

 

 退職してから、出歩き女は、昼食に間に合わない時間になる。すると、有り合わせの野菜や魚や肉をケチャップや赤ワインで煮て「ブイヤベース」だとか、揚げ物の衣に、マヨネーズを少し入れるとフカッと出来ると言って、フライも天ぷらも平気で作る。

 

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 初めのころは、味もいまいちで文句も言ったが、少しずつ上達し、近頃審査員は合格点をつける。褒めると、何回もブイヤベースが続くこともある。昼食はほぼ夫の役目になった。男性も、後片付けだけではつまらないだろう。

 

 昨年末、私の友人の連れ合いが、食道がんの手術で九死に一生を得た。が、暫く食べることはできなかった。生きる限り食べることが、どれほどの大きな喜びであるかが分かる。

 

 夫の師は、有名なアダム・スミスの研究者であるが、86歳のいまでも、研究者の連れ合いと家事分担し、風呂掃除や、食事つくりもされる。見事である。

 

 面白かったのは、新婚のころ、味つけを忘れて奥さんがまずいと文句を言ったら「文句があるなら自分で作れ!」と一喝された話。

 男も女も「文句があるなら、自分で作れ!

 

             この一品

 「ぶりカマと大根の煮付け」これこそわが家自慢の一品である。この料理を知ってかれこれ10年になる。

 職場で一緒だった静岡出身のM君がある食事の席で、「名古屋はぶりカマやアラを売ってないが、本当の通はあれが一番美味だって事を知ってるよ」と言った。

 わが家はどちらかというと魚料理が多い。背の青い魚にはドコサヘキサエン酸(DHA)が豊富で、血がきれいになると言われてからはなおの事である。それまでぶりは切り身と決まっていたが、M君の話を聞いて以来魚屋へ行くと、ぶりカマを探すようになった。

 カマはえらの下の、胸びれがついている部分のことであるが、そこの骨や皮の中に身がたくさん隠れている。カマはいつもあるとは限らない。だから、たまたま見つけると夢中で買ってしまう。

 調理法は、塩焼きもなかなかいい。しかし、ぶりカマと昆布、大根の炊き合わせが最高だ。

 脂ののったぶりと、昆布の上品なだしが大根の繊維のひとつひとつにしっとりとなじみ始める。ゆっくり炊き合わせるのである。大根のほろ苦さが、ぶりと昆布のだしでまろやかに舌の上でとろける。この何ともいえない微妙な味こそ、熟年の味である。

 この一品の素晴らしさは、第一に酒のさかなにぴったりで、左党は大喜びである。毎日体重計に乗って「増えた、減った」と体重管理に必死の夫など、「今日は計量中止だ」と目を細めて即断だ。第二に切り身2切れ分の値段で、たっぷり3倍の量がある経済性。第三に肉の脂とは違い、ぶりのそれは嘘のようにさらっとして、血液浄化できる健康食である。肉好きの娘も、これで栄養バランスをとり、箸運びも順調だ。

脂ののったぶりカマの味が、昆布と共に大根にひたひたしみ込み、うまさをいっそうひきたてる。それが人生の晩年を迎えた、仲のいい老夫婦の味のように思え、私たちもかく味わいのある人間同士になりたいと願ってしまう。


            飽食

 子どもの頃食糧難を体験した、私のような飢餓世代は、いまの飽食日本に不安を抱く。いつでも好きな物が食べられる、新鮮な食品が供給されて当然という日々に。

 女性週刊誌に「いかにやせるか」というテーマが載らないときはない。答えは簡単明瞭、食べなければいいのにといつも思う。

 昨日の午後、食事の後片付けをしながら 何気なく見たテレビで『パラサイトダイエット』という方法を取り上げていた。サナダ虫の幼虫を腹に飼ってやせるのだという。何でも歌手のマリア・カラスがこの方法で15キロ減量したというが、飽食もここに極まれりである。

 サナダ虫はその昔、学校などで寄生虫駆除をした時に知ったが、扁平で長いのなら数メートルになるのもあるという寄生虫である。

 アメリカのアラン・ダーニングの著書『どれだけ消費すれば満足なのか』によれば、世界でもっとも貧しいアフリカや、南アジアの11億人は、その日の食事もろくに取れていない。飲み水は人間や動物の排泄物で汚染され、飢えで死ななければ水で死ぬ人々であるという。

 中間層は、中南米、中国、東アジアや旧ソ連などの33億人で、肉や乳製品を十分に買う余裕のない階層の人々で、穀物や野菜中心に食している。

 一方、年中好きな食べ物が食べられ、十分過ぎる栄養を摂取しているのが、残りの11億人で、日本や北アメリカ、西ヨー ロッパ、オーストラリアの人々とある。さて、朝を重点にしたわが家の今朝の食卓であるが、豆腐のみそ汁とご飯、納豆にひじきの煮つけ、ゴボウサラダにたらの粕漬けの焼き物、それに人参の蜂蜜煮。小松菜のおひたしと、彩り美しく並んだ品々はやはり飽食かなと更めて見直した。

夜の量は半減して体重管理し、食べ物は絶対捨てない。これが私に出来る地球人としての、食への最低のマナーと心得ている。


             きのこ

 テレビで松茸料理をやっていた。傘の開いていない上等な松茸に、高級なお酒をふりかけ、大きな和紙で包んで炭の遠火で焼く。和紙が焦げてきたら出来上がりである。贅沢なその焼き方を見ているうちに、画面から芳香が漂ってきそうで、思わずつばを飲んだ。

 今年は夏の長雨で、きのこが豊作らしい。なかでも松茸が安いと評判である。テレビ報道によると、韓国、中国を始めカナダ、アメリカ、アフリカやイタリアなど、世界中から日本へ松茸が押し寄せてきているとのことだ。

 外国では、松茸は香りが強く、歯ざわりがゴムのようだと敬遠されているという。日本では逆に、その香りと歯ざわりが何ともいえないというのだから、文化の違いは恐ろしい。そして世界中の松茸の90パーセントを日本人が食べているとの報道には驚いた。

 それは、グルメ大国日本の海老好きと、それを目当てに発展途上国などが次々海老を養殖して、日本へ輸出している現状と同じであり、何か割り切れない思いがする。

 また、しいたけ、しめじ、えのきだけなどは、枯れ木に菌を培養して作ることが出来るが、松茸は生きた赤松の根元にしか育たないというから、日本人の松茸好きも案外その希少価値を求めているに過ぎないのではないか?

 あるいは、『日本の秋の味』を象徴するというムードに乗せられているためかも知れない。私自身もそうしたムードに流されてデパートの売り場に並んだ。21500円というのもあるが、香りのいい国産物は、8千円もする。

 松茸を買うつもりでここに来ながら、買うか買わぬか、土壇場で迷った。そのとき、ふと『世界中の松茸が日本に・・』という朝のテレビが頭に浮かんだ。

「そうだ、しめじ、しいたけ、えのきだけに、新鮮なほたて貝でサラダを作ろう」「高級な原酒を1本つけて、焼けば油がしたたるぴかぴかの秋刀魚、日本の秋の味はこれだ」とやっと心が決まった。


               ランチ

 30年余りサラリーマンをしたが、昼食は千人規模の社員食堂で地味な定食だったり、外食も気のきいた店は満員で列をなし、時間ぎりぎりに職場に戻ったりで、とても豊かとは言えなかった。

 退職後、月に12回夫婦で映画などに行ったりすると、夫は「たまには」と、座ってビールの1本も飲める所で昼食をしたがる。先日も映画の後、グルメの館へ入った。時間が午後1時を過ぎていたこともあって、そこには男の姿はほとんど無く、あちらを見ても、こちらを見てもまさに「女がぞろぞろ」という感じだった。みんな賑やかにしゃべりながら、ランチを楽しんでいた。

 注文したのは天麩羅のセット、刺し身は舌の上でとろけるようなまぐろとホタテ貝だった。煮物が逸品で、しいたけと高野豆腐、彩りのいいさやえんどう。それに里芋とだし巻きが添えてあり、値段の割りに値打ちである。量は少なくバランスがいい。それらを舌と目で愉しんでいると、料理長が揚げたての天麩羅を、気のきいた籠に入れて持ってきた。

 「かき揚げにオクラ、それと白身の魚にタケノコです」。言いながら皿に盛ってくれた。あつあつの揚げたてを、天つゆにつけながら、ジュッと音が出そうなのを頬張った。

 昼食をゆったり食べ「食文化」という言葉を思い出しながら、幸せ気分で席を立った。「女、女ばっかりだなあ、男はみんな働いているんだぞ!」と男性が大声を張り上げたのは、4階からのエスカレーターだった。まわりの雰囲気には不似合いな言葉だったが、「うーん、その通りだ」と妙に納得してしまった。現在デパートも美術館も、このグルメ館も、どこへ行っても女性で溢れている。

 仕事人間の多い男性より、文化度は女が上。そんな気がする。でも女が台所の片隅でひっそり涙を流しているのがいい時代だったか?  女も働き、幸せを男と共有する。『女性革命の時代』と言った研究者がいたが私も賛成だ。

 午後の仕事のため、帰りの駅のホームで電車を待っていたら、「立ち食いそば」のコーナーから、男性サラリーマン45人が、口を拭いながら出てきて、私たちの後に並んだ。


               夢の島ベネチア

 夫婦で旅をした。車やバイクは1台もない。すべて静かな舟の、風流な世界だった。

 年月を耐え抜いた、頑丈そうなビルとビルの間を縫うように走る運河。太鼓形の小さな橋が、およそ400といわれる水の都ベネチアで、ゴンドラに乗った。

 黄や朱色の華やかな色の座席に座ると、まるで中世の王子王女になった気分だった。

 ゴンドラを漕ぐのは、端正な顔つきの若者で、彼が4階のビルを指さして「モーツアルト」と言った。あれが案内書にあった、モーツアルトが住んだという建物なのだろう。

 突然若者が、夕闇迫る静かな空気を打ち破るように、口笛を吹いた。運河が丁字路にかかると口笛を吹くのであった。信号代わりに歌うような口笛とは、何と優雅な世界だろう。私の耳には、快いカンツォーネに聞こえた。

 小1時間も過ぎたころ、若者は空を指さし、「レイン、レイン」と身振りもまじえて言った。夏空に、真っ黒な夕立雲が迫ってきていた。仕方なく予定を変更してホテルに戻った。しかし、夕立は来なかった。

 喉が乾いたので、ホテルの部屋の冷蔵庫からピンク色のジュースを取り出し、一気に飲んだ。口あたりが良くて満足したが、程なくくらっときた。アルコール入りのジュースだったのだ。

 後で分かったのは、ヘミングウェイも好んだというこのジュースは、白ワインと桃のジュースの食前酒で、彼が常連だったというこの近くのバーの、お薦めの一品だそうである。アルコールだめ人間が一気飲みしたので、とうとうダウンしてしまい、やむなくベッドで小休止となった。

 およそ1時間眠って、気分よく目覚めた。ときすでに夜8時過ぎだった。 私たちは有名なサンマルコ広場に立った。そして暮色の中に、突如光り輝くアラブの王宮が、おとぎ話の世界のように現れた。文字通り夢から覚めたばかりで、これは幻か、現(うつつ)なのかと、酔ったようにその豪華絢爛たるサンマルコ寺院を仰いだ。地球上には、こんな別世界があったのだ。

 やっと空腹に気づき、日本人がよく行くという『ノエミ』というレストランに入った。メニューを見ると、スパゲッティが30種類、ワインがおよそ50種類もあるではないか。 夫は日本で覚えておいたイタリア語の「いかすみスパゲッティ」を注文した。女主人は「日本人はどこの店より真っ黒な、当店のいかすみが大好きよ」と愛想よく言った。

 ワインはハウスワイン(自家製)を注文し、「この店のお薦めは?」と英語で聞く夫に、店長は魚のマリネを薦めた。

 この国で満足したのは、日本人の舌にも合う魚料理、黒々としたスパゲッティも含めて大満足。しかし聞きしにまさる量の多さで、注文はいつも1人分を2人で食べた。それでも十分過ぎる量だった。

 ベネチアを発つ日、肩が触れ合いそうに狭い、折れ曲がった小路を歩き小さな広場に出た。そこに民族楽器を弾く若者が居た。ポプラの大木の根元に腰を下ろし、人が来ようが、来まいが、ただひたすら自分の思いを楽器で奏でるその素朴なメロディが、なぜか切なく私の胸をうった。日本とは時の流れが違う国、もしかするとこういうのを風流というのではないか、と思った。

 何10年と働いて、それとは対極にある生活だった。ゆとりのないところに風流は生まれない。生きる充実感と両方求めるのは欲張りなのだろうか?そんな事を考える旅だった。

         
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