戦争と平和

〔3DCG 宮地徹〕
〔メニュー〕
2、「ファットマン」と「リトルボーイ」−死者21.4万人、負傷者87.5万人
戦争を知らない子どもたちと
4、赤い貝殻
5、名古屋が燃えてる 名古屋大空襲写真2枚
6、「傍論、脇の論」ですか? 「そんなのかんけえねえ」ですか?歴史的、画期的判決
8、戦争はイヤ 「自衛隊イラク派遣で加害者になりたくない」控訴審傍聴して
9、はじめての嘘
10、「『やったぁ また一人殺せた』って ちゃんと思うてくれとる?」
映画「夕凪の街 桜の国」の柔らかなタッチ
11、これが戦争だ
13、ながら見 テレビ評
14、女教師2人の写真から
15、高圧鉄柱の下にて 〔資料〕義姉からの手紙、義兄からのメール
16、『無言館』の涼風 2005年6月17日『朝日・声欄』掲載
19、「異国の丘」が心に強く響く Google検索『異国の丘』
20、後方支援
21、一寸先
22、イチョウの木
23、平和への思い 『幸子のホームページ』に戻る
25、秋深くして
26、八月十五日
27、こだわり
29、宿命 その1
30、宿命 その2
「毎年8月15日が来る度に戦死した父と、そのため苦労した母が思い出されてなりません」旧友からの暑中見舞ハガキを読んで驚いた。
そうか、若い頃からの友なのに知らなかったなぁ。自分を含め、私たちの世代はみんな何らの戦争被害者なのだ。
66回にもなった8月15日の敗戦記念日、戦争をまるで知らない人が大部分の時代になったと言われる。特に今年は、3月11日の東日本大震災をあの戦争に重ねる人は多い。酷暑の今年である。
戦争は、さまざまな悲劇が付随して起きる。
その1 少女のまん丸な目ん玉
「忘れえぬ顔A」版画家、彫刻家の浜田知明の写真が載った新聞記事。ドキッとした絵の写真。有名なムンクの「叫び」?と思った。両方の眼と口が大きく開いて、いまにも飛び出しそうな少女。
「場所は中国山西省、戦友と段々畑を上がった先に家があり、若い娘と母親が窓からこちらをのぞいていた。戦友が『殺そう』と言い出した。止めたが戦友は銃を置いて家の中に入った。暫くして、服を整えながらニヤッと笑って戻ってきた。その表情で、家の中で起こったことを悟った。仲間を殺したくなった」。
「男が家を出た後、娘は窓からこちらをじっと見つめていた。『とにかく命だけは助かった』という、何とも言えない表情でした。その後自身『命だけは助かった』体験をし、自分が戦場で感じたことを残したいと思うようになった」。
そして昨年、神奈川美術館の個展で発表した。
紙面は「戦場ではさまざまな悲劇が付随して起きることを忘れてはいけない」と結ばれていた。
その2 進駐軍がコワイ
満開の桜が咲く頃、青山墓地近くで弟と首飾りを作ろうとしていた14歳の少女、「弟と首飾り作りに熱中し、散ってくる花びらに糸を通しては箱に入れていた。突然、背後から弟がものすごい声で泣き叫んだ。アメリカ兵はたしか9人いた。怖かった。それからのことは、空白なんです」。
少女とは作家、評論家として活躍している吉武輝子氏〔1931年生まれ〕、以前新聞のコラムでこのレイプ事件を読んだことがある。当時青山墓地では、米兵による婦女暴行事件がひんぱんに起こっていた。一人歩きしないようにという回覧板も廻っていたが、まだ子供である自分には関係ないと思っていたという。
「出血をみた母は、初潮と思い込みなけなしの小豆で赤飯を炊いてくれた。その日から私は家でも学校でも孤独だった。進駐軍の兵士を見かけただけで恐怖に身がすくみ、夜はなかなか寝付けなかった」。
二度自殺を図った。二度目のときは昏睡状態で、救急車で病院に運ばれた。そのとき、やってきた初老の巡査が、目を覚ました吉武氏に言った。「何があったか知らないけれど、人間というのは何があっても、そこからどう生きるかで価値が決まるんじゃないかな」。たんたんと話すおまわりさんのことばが心に沁みたと言う。
こんな私事を世間に公にした勇気を思った。〔梯久美子著『昭和20年夏 女たちの戦争』〕それは、その後の生きた道に自信があったから出来たのだろう。
吉武氏は5歳ほど年長であるが、「終戦の前の年、下校途中艦載機が急降下してきた。乗っているアメリカ兵の顔がはっきり見えた。笑っていた」との体験は、そっくり国民学校2年の私も体験した。疎開先の小川で、祖母と洗濯していたとき、ホント顔まで見えた。恐怖でぶるぶる震えながら、祖母と桑畑に逃げた。やりたい放題の本土爆撃だった。
女として庶民として、切なく重い事実である。
平穏なふつうの生活を、突如奪われる戦争、結果的に数百万人の人の命を奪う戦争は、様々に悲劇が付随して起きる。
その3 あの戦争は何だったのか
戦争が終わりに近くなった頃、寺院の金や手すり、門扉など鉄や銅不足で供出が強制され、母はわが家の仏具まで供出していた。「一億玉砕」とか「贅沢は敵」「欲しがりません、勝つまでは」と教えこまれた子供時代、本土空襲がひんぱんになれば「疎開せよ」「縁故がなければ、集団疎開せよ」だった。
72000人以上が死んだ悲劇の「インパール作戦」を始め、「ミッドウェー」「ガダルカナル」など、よく聞く戦争悲劇であるがここでは触れない。保坂正康著『あの戦争は何だったのか』が、全体的に書かれている。〔2005年初版、2009年30刷〕
その中で、以下の文だけを参考までに載せた。
日本は8月15日に敗戦した。としているが、世界的には9月2日となっている。それは戦勝国9カ国と日本が「降伏文書」に調印した日だから。悲惨だったのは、満州には女性や子供を含む民間人が数多くいた。彼ら彼女らは、ソ連兵による容赦のない略奪、蹂躙に晒された
何より8月9日にソ連が満州国に侵攻して来た。兵士に銃器さえゆきわたっていない関東軍に対し、戦車5000輌、飛行機5000機、火砲24000門、兵員174万という圧倒的なものだった。
そして「シベリヤ抑留」が行われた。
60万人から一説には100万人もの日本兵が、スターリンがアメリカのトルーマンとのやりとりで「北海道が欲しい。ダメなら領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と、極寒の地で強制労働につかせた。その日は1945年8月23日。
犠牲になった人たちの中で、死んだ人は6万人以上、一説には10万人ともいう
1945年8月15日を疎開先で迎えた。国民学校3年生だった。
恐るべき「理想の社会主義国」の仕打ち、われわれ庶民にとって戦争とは何なのか。
広島にはリトルボーイ、長崎にはファットマンと、種類の違う原爆を〔実験しながら〕落とした米国。それぞれ14万人もそれ以上も一瞬に殺された日本である。何十万人も殺されて敗戦を決めた日本。
それが今年の3月11日の原発事故以来、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」になった。
2011年8月23日
「ファットマン」と「リトルボーイ」−死者21.4万人、負傷者87.5万人
戦争を知らない子どもたちと
1、疎開はいや
今年は65回目の終戦記念日、新聞の読者欄に載った記事が目に留まった。
その人は9歳で、校長先生から「君たちも戦士である」と言われ、幼くて意味が分からないまま三重県に疎開した。
今年、当時の新聞を調べたら「獣米と殺の部署につけ」という見出しの記事が見つかった。
「疎開するのにまだ迷っている者がいるがそれは許されぬ。
子どもたちは、五つめの部署につけ。一億は老若男女、軍籍に入って戦線につくか、食料増産に当たるか、国土防衛に就くか4つの部署に就くことが要請されている。
少国民は疎開という5つ目の部署に就かねばならない」
それを読んで、同じ頃「いますぐ疎開せよ」と、強引に言われた7歳の自分の体験が甦った。
「友達と別れるのが寂しい」と言ったことが担任に伝わり、女のクラス担任に、男のような口調で「母親はバカだ」と、みんなの前で罵倒された。
65年の歴史が過ぎて、ときの軍国主義が不幸の源で誤っていたのであり、当時の子どもも母も普通の感覚で、バカではなかったのだ。このような唯一絶対、一面的考えこそ恐ろしいことを、その後の人生のいろいろで学んだ。
2、「ファットマン」と「リトルボーイ」
夫婦でやっていた学習塾で、毎年、6年生の社会科「戦争と新しい日本」では、多面的に戦争の話をした。平和が当たり前の子どもたちに、理解できるかな? と思いながら。
空襲で名古屋の家が焼け、親と離れて疎開し寂しかったこと。食べ物はかぼちゃだけだったこと。そして沖縄の悲惨な戦いと広島、長崎への原爆投下の地獄を話す。
丸木位里、俊子夫妻の描いた「ピカドン」の絵を見せながら。
「ファットマン」と「リトルボーイ」何度も出るこの言葉を、みんな覚えてしまう。
広島はウラン弾でファットマン、長崎はプルトニュウム弾でリトルボーイ、米国は種類の違う原爆で人体実験がしたかったのだ。
瞬時に広島で約14万人も、長崎で約7.4万人も殺した。負傷者は、広島80万人、長崎7.5万人だった。原爆症に苦しみながら、50年経っても毎年、毎年、5000人もの人たちが死んでいく。
米国の歴史教育では、「原爆のおかげで戦争が終わった」と教えられ、そう考える人が多いとか。米国生まれの写真家は「広島の原爆はウランで、長崎はプルトニュウムと核物質の違いまで教えられるが、きのこ雲の下にいたはずの人間には何も触れない」と証言している。
栗原貞子の「生ましめんかな」の朗読が進むと静かな教室はぐっと緊張する。
「原子爆弾の負傷者たちは ろうそく1本ない暗い地下室を うずめていっぱいだった・・・」「・・・『私が産婆です。私が生ませましょう』と言ったのは さっきまでうめいていた重傷者だ かくてくらがりの地獄の底で 新しい生命は生まれた かくてあかつきを待たず産婆は 血まみれのまま死んだ 生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも」
写真集「トランクの中の日本」は、米国の従軍カメラマンだったジョー・オダネル氏が1945年9月左世保に近い海岸に上陸し、広島、長崎など記録写真を撮り歩いた。
あまりにも痛ましい状況にたじろいで、ネガをトランクに仕舞い込んだまま、半世紀も過ぎたものだった。
その中で、10歳くらいのはだしの少年が、背中に死んだ2歳くらいの弟を背負って、焼き場に現れた写真をみんなに見せる。直立不動の姿勢で死んだ弟を見送ったはだしの少年。それは切なかった。
日本がアジア諸国や、中国などに行って、たくさん人を殺した加害者でもあることは、必ず話した。学習塾のささやかな積み重ねだった。
生徒は大部分が中学生の塾だったので、生徒や親の感想文をニユースにして、「国語と社会の勉強だ」と、朗読し合った。
●日本軍がアジアの人々をまるで人間でないかのように、毒などの人体実験した行為が許せない。
●6歳と3歳の弟がいるが、「トランクの中の日本」で見た「死んだ弟を焼いてください」はショックで私にはできない。
●戦争ということばには死、赤紙、爆撃など恐ろしい意味がたくさん含まれていて恐ろしい。私の祖父も戦争へ行きました。
●学校で「はだしのゲン」のビデオを見て、胸が痛くなりました。もう戦争なんかしなくて、自分の命も人の命も大切に出来る人になりたい。
●両親は被爆者です、看護婦だった母は原爆が落とされてすぐ、苦しむ人の世話に走り回ったそうで、川の中で「水をくれ」と叫ぶ様は、ずっと忘れることがなかったといいます。
●従軍慰安婦や南京大虐殺は、例え過去の人々の行為だったとしても、日本の社会が生み出したその事実を正しく知って、受け止めねばならない義務があると思います。
感想文は率直で、勉強だけではなく、人として大事なことが学べたというのが多かった。
3、元兵士の方から直接学ぶ
ときには、不戦兵士の会から講師に来てもらい、直接学んだ。
それは敗戦50周年の頃だから、もう15年も経ってしまった。
鳥山博志さん、死のラブアン島から500人中、生き残った8人の中の一人である。
来て貰ったとき81歳だった。「お元気そうですね」と言うと「死んだ戦友たちのためにも、悲惨な戦争体験を話して歩くため、からだを大事にしています」と言われた。
小学校教師だった鳥山さんに赤紙が来たのは昭和19年6月だった。翌20年3月旧ボルネオのラブアン島へ上陸した。ある時、色黒の6、7歳くらいの男の子が、裸足で鳥山さんの方へ歩いてきた。白い歯を見せてにこにこしていた。そのとき、大声で「鳥山!」と副官に呼ばれ、低い声で「子どもを刺せ!」と言われた。
戸惑っていると、隣にいた伍長がものも言わず鳥山さんの銃をひったくり、逃げる子どもを兵器室の横へ連れ込み殺してしまった。やり切れない気持だった。
その後、敵の攻撃で腰に重症を負いオーストラリア軍の捕虜になったが、あと2ヶ月で敗戦だった時期、捕虜になった8人だけが生き残り、何のための戦死だったかと思う鳥山さん。
花房達夫さん、72歳にもお話して頂けた。大学3年のとき「兵隊検査」を受け、学徒出陣された。当時多数が「特攻隊」で死んでいく時代だったので「生き残ったのは偶然に過ぎない」と言われた。
少年の頃から軍国主義教育で、「天皇は神様」と教えられ「教育勅語」が学校教育や国民生活の大事な柱だった。少年たちの夢は偉い軍人になることしかなかったとも言われた。
青春時代が戦争でいつ死ぬか分からない不安と虚しさでいっぱいとは、何と不幸な時代だったかと思わずにいられない。
花房さんは、1944年に乙種幹部候補生に採用されたのですが、最初の頃「下士官の試験を受けよ」と言われ、拒否するとスリッパで殴られ、涙を出すとまた殴るという具合で、軍国主義の非人間性をいやというほど感じたと言われた。
4、戦争がいつ終わったか
いままで戦争が終わった日は、昭和20年8月15日と、単純に考えてきた。
が、昭和20年8月15日としているのは日本だけで、アジア地域で、満州、樺太、千島でソ連軍と戦闘が続いていた。
8月15日が過ぎて、1週間後の8月23日から日本兵60万人が抑留され、6万人が死亡したシベリヤ抑留が始まった。戦争は終わってはいなかったのだ。
中国では日本軍が正式に降伏したのは9月9日、植民地だった台湾を中国が取り戻したのは10月25日で、朝鮮半島では、8月15日に米国とソ連によって南北に分断され民族の悲劇が始まった。
米国、ロシアでは終戦を9月2日としていると知った。
終戦50年記念として、地元の岩倉市が出版した「平和への誓い」という本を、改めて読み直してみた。
多くの戦争体験者の中に、高校生になった塾生2人の、立派な作文が載っていた。学校代表として、広島、長崎にも行ったらしい。
「日本は唯一原爆を落とされた被害国である。だが、加害国でもあるのだ。無差別殺戮行為、南京大虐殺、私はこのことを覚えておきたい」
もう一人も「私は、この先一生原爆ドームや、残された数々の遺品という証人たちの姿や、いまでも後遺症に苦しんでいる人々がいること、そして朝鮮人強制労働や従軍慰安婦など、絶対に忘れるものかと思った」とあった。
他の作文に少ない、「日本は加害者でもある」の視線もしっかり掴んでいる文章に、安堵した。
戦後65年の夏は酷暑が続く。65年間戦争がない幸せな国だった。
戦争体験者は次々死んでいく。
若い世代よ。事実をしっかり見つめて、幸せのために生きようね。
その田んぼ一面、レンゲの花が盛り上がる。小さなレンゲの花びらが、力を合わせて一つの家を作るように固まる。
軸の土台は緑色、でもそれを覆い隠すような勢いで盛り上がっている。一軒一軒の小さな家々が、おしゃれに紅い紫と白で装っている。
青空に映える、やさしい白と紅紫の混じった色こそ魔法のジュータンである。あっちに1枚こっちに2枚と魔法のジュータンのように、レンゲ畑が美しく広がる。
レンゲ草は、田んぼの肥やしになるとか。いいな、やっぱり自然の流れは。
敷き詰められた魔法のジュータンに、みんなで寝転がった。「わぁ、いい気持ち、こっちへおいでよ」「わっ ほんとだ、みんなで首飾り作ろうよ・・・」。
レンゲの花を茎から取って何本も何本も束ねた首飾り、細く束ねて手首に巻く子もいた。
レンケ畑の淵に、真っ白なふわふわの列があった。黄色だったタンポポが役目を終え、真っ白い小さな綿毛の手毬になったのだ。みんな見事なまん丸、1つ、2つ、3つと数える。10、11、12・・・。およそ20個か。指でソッと毛に触れるとハラハラと散る。
無音の世界だ。散ったあの白い羽が、来年また黄色いタンポポになって甦るのだろうか・・・。
白い綿毛の片隅に、寄り添うように固まって立っている花たちがあった。外側に花弁が3枚、その中に小さ目の花弁が3枚、濃い紫色した昔ながらのあやめである。
派手で華やかさがあるジャーマンアイリスのような美しさと違って、しっとりした京人形のような趣で輝くようだ。
立ち止まって、暫く眺めると白いふわふわした綿毛の背が急に伸び始めた。アッ、疎開したときの、国民学校の先生だ。姿があるのか、幻なのか、綿毛のようにふわふわだ。
いつものように微笑んでいる。
戦争末期、アメリカのB29爆撃機の攻撃で毎晩のように空襲警報発令だった。学校からの「縁故疎開でも、集団疎開でもいい、とにかく疎開せよ」という性急な疎開指示で、取り敢えず子ども3人だけで親類に疎開してきた。
私は2年生、運動靴ではなく、わら草履での登校に驚き、1匹も捕れないいなご取りに降参しながら、寂しさからか学校で気分を悪くし吐いた。
やさしい先生はあり合わせの服に着替えさせてくれ、洗濯して夕方自宅まで届けてくれたっけ。いっとき、親と離れた寂しさを忘れた。
先生は、「お米は88回手間をかけないと、お米にならないのよ。みんな弁当のご飯はひと口百回噛んで食べなさい」いつもそう言った。
私は言われた通り、律儀にひと口百回噛んだ。そして「顎が発達している」といわれる大人になった。
ふわふわと白い綿毛を着て、天使のように現れた先生は? と探したけれど、どうしても見つからなかった。
豪華な薄い紅紫のレンゲの花が、魔法のジュータンのように豪華に輝いていた。
8月半ばの海辺、強い日差しが照りつけるが、それでも涼しい風に救われる。
今日は8月15日、敗戦記念日だ。
「ばあちゃん、海に入らないの?」
「うん、お化粧がとれると面倒だからね」
「お化粧なんかぬらなくてもいいじゃん。会社へ行かないんだから・・・」
口達者な六歳の孫。
「この貝殻はね、遠い海から流れ着いたんだよ。パパが、向こうの海の、先っぽの方で拾ってくれたの」。
2年の女の子はうれしそう。先っぽって、波よけの突堤のことかな?
波も比較的穏やかだ。大きなパラソルの下で貴重品の番

をしたが、大好きな夕暮れの海。
デカくてまん丸の太陽は、オレンジと黄色が混じった強烈な光を放つ。
薄い雲が周りを包み、やがてきれいな夕焼け雲に変わるだろう。
さあ、砂浜を歩こう。みんなで波打ち際を歩いた。
お盆でも休みが取れない息子夫婦、6年の男の子と2年
の女の子、子どもだけで新幹線に乗り京都から来た。
ホームで迎えた。
去年は5年生、男の友達と3人で来た。「2人だけでも平気
だったよ」と言いながら、携帯で母親に「着いた」と電話していた。
名古屋の娘夫婦もやはり共働きで休めない。3年の女の子と6歳の男の子。
名鉄の駅ホームで受け取る。前の日来た京都組と合流した。
初日は市民プール、じいちゃんも水泳指導しながら泳いだ。
2日目は6人で映画「ボルト」を観た。3日目は超満員の、犬山モンキーセンターでプールやジェットコースターを楽しみ、次の日は図書館で本選びと買い物だった。
朝、大人の新聞タイムは1時間、その間子どもたちは宿題時間、答えが正しいかどうかだけ点検する。
夕方から庭で、4本のホースで水かけ大会。暑いので、歓声が飛び交う大喜び大会だ。
風呂は入りなさいというだけ。子ども4人だけで体も頭も洗う。
これは水泳を習いにいった成果である。
着替えたら、花火大会、シャボン玉飛ばし、夕食後はピアノ演奏会。ばあちゃんも入れて4人のそれは20分で終了、子どもは暗譜に強い。6歳も小さな手で弾いた。
布団を敷いたら、寝るまでデングリ返し大会、側転争いなどなど、夏合宿は近頃聞こえなくなった子どもたちの歓声、大声の飛び交う賑やかさが、疲れを吹っ飛ばしてくれる。
孫4人と老夫婦の夏休みも5日目、京都から迎えにきたパパと合計7人で、この知多半島の内海へ来たのだ。
海で娘夫婦とも合流する。
1カ月間、忙しくて休み無しで働いた京都のパパは、気分転換とばかり、子たちと一緒にパパザウルスやっている。
30年前このパパが子どもで、じいちゃんがそのパパで、やっぱり必死で貝を探した。
あの時も、いくつか赤い貝殻を見つけたなぁ。その子どもがパパになり、
ここが30年前の海辺のような錯覚を覚える。
海水浴に出かける8月15日の朝、電車の時間までに少し間があった。
「今日は何の日か知ってる人」わざと聞いた。
小2の女の子も、小3の女の子も「知らなーい」。
さすが6年の男の子は「戦争に負けた日」と、正解だった。修学旅行は広島だったと言う。
2年、3年の女の子とは、こんな小さかったのか・・・。
忘れられてもいい。言っておこう。もう誰も戦争の怖さなんて話せないんだから・・・。
「小学2年で毎晩、空襲が激しくなったの。仕方がないから、ばあちゃんの、そのまたばあちゃんの家がある田舎に、名古屋から逃げてきたの。疎開したんだよ」
「家はあったの?」
「3年生になって戦争が終わったけど、家は空襲で焼けてしまったからない。食べる物は毎日かぼちゃばっかり、それがあなたたちと同じ歳の2年生、3年生だったよ」。
「フーン、いまは家もあるね。食べる物もあるね」。
自分を安心させるように言う2年の女の子。
イラクで,戦災孤児を助ける活動をしているNPOの女性が、新聞に載っていた。
「平和がふつう ではないんです」。
孫が忘れていった、大切な赤い貝殻が机の上にあった。
1、踊るチエちゃん
いなごとり
田植えが近い。耕された田は水を待つばかり。毎年こうして水を張った田に、稲の苗が植えられ、減反政策で減ったとはいえ、農家はお米を作る。
ゆきえは、そんな田舎道を犬と散歩する。毎日その辺りに来ると、けたたましく鳴き声を上げながら茶色の鳥が2羽、寄ってくる。
その鳥は羽を拡げると、背の辺りが茶色、その隣が白色、羽の端っこが黒い。何という鳥か知らないが、足は木の小枝のように細い。
犬に話しかけるように近寄っては羽ばたき、また近寄ってくるのは確かだ。どちらかと言えば、のんびりした犬と、積極的にアタックして、恋のモーションをかける鳥という構図である。
鳥と犬の対話なんて面白いと、ゆきえは、歩きながら自然に微笑んでいた。自然とか、田舎道とかの良さとはこんな事かも知れない。
向こうから、小学生の女の子が2人学校から帰ってきた。まだ幼くて、可愛い顔をみると、ゆきえは「あんな頃、名古屋の空襲を逃げ回り、田舎に疎開してきたのだなあ」と、感慨深かった。
と、少し離れた太い道を横切る年寄りが目に付いた。スーパーで買い物でもしたような、レジ袋を下げた年寄りがよたよた歩く。ハッとして思わず立ち止まった。
髪は真っ白、少し腰が曲がっていたが、横顔はチエちゃんだ。いや、こんな所にチエちゃんがいるはずはない。でも、昔の面影がある。年寄りのチエちゃんに、ほんの少し静かな笑みがあった。
その年の秋、全校が校庭に集合した。
「全員でいなご取りをしまぁーす」。校長先生の合図で、学年ごとにいなごを取りに、狭い田のあぜ道に散った。
名古屋の学校のときは運動靴だったが、疎開したこの学校では、わらで編んだ草履で学校へ通った。
布袋の先に竹で入り口を作り、みんなせっせと捕ったいなごを放り込んだ。
ところが、慣れないゆきえは、実った米で重く頭を垂れた稲の間を跳ぶ、3〜4センチのいなごが中々捕れない。そのうち、草履を履いた足が柔らかい何かを踏んだ。大人か誰かがしたうんこだった。もういなご取りどころではなかった。
疎開しての一番目の思い出は、こんなドジの思い出であった。
校庭にみんなが集まり始め、捕ってきたいなごを先生が大きな南京袋に入れる。小山のようになった袋の山は、ゆきえにとっては驚きだった。
神さまの声
「田舎に親戚がある人はすぐ疎開せよ」 そういう国の方針で、急に田舎に疎開してきたゆきえだった。
1944年4月に、縁故疎開を申し出たのは、名古屋市全体で、およそ600人という少なさだった。
母親が学校へ呼ばれたとき、2年生なりに友達と別れる寂しさを母親に言った。
母親は正直に受け持ちの女教師に子どもの気持を伝えた。
すると、「この非常時に何を言ってるか! あの母親は! ばかもの!」と、みんなの前で言われ、ゆきえは学校からしょげて帰った。
戦時中は、女の先生でも、怒鳴ったり、びんたは普通だった。
こうして、みんな、無理やり田舎へ疎開させられて来た。
名古屋の家に残る母と離れて、兄と姉と3人だけの縁故疎開で、ゆきえは寂しい日々だった。その地域から通う同級生は、チエちゃん一人だけだ。
チエちゃんは、しゃべらない子だった。土地持ちの子らしく、色白で、目が大きく、顔立ちが整っていた。が、しゃべったところを見たことはなかった。
朝、学校へ行くときは、上の学年の姉たちも一緒だったが、帰りは同級のチエちゃんと2人、学校から30分位黙って歩いて帰る毎日だった。
ゆきえは、ある日学校からの帰りに、チエちゃんに「あした、お弁当だよね」と話しかけた。
「・・・・・・」チエちゃんは何も答えなかった。
別の日にも、ゆきえは「途中の神社でひと休みしない?」と話しかけたが、チエちゃんからはことばがなかった。
でも黙って一緒に休んでくれた。
チエちゃんは、ひとこともしゃべらなかったけれど、いじわるな子のスカートめくりも、麦ご飯と梅干だけの弁当も、みんな知っていた。
先生に「大切なごはんは、ひと口百回噛んで食べなさい」といわれ、本当に、弁当をひと口百回噛んで食べたのは、ゆきえとチエちゃんだけだった。
その頃には、疎開した田舎でも、朝学校へ行くと、暫くして空襲警報のサイレンがなり、綿入りの防空頭巾をすっぽり被って、みんなで二列になって帰宅する。
それが毎日のようになった。
夜になると、毎晩、名古屋の街がB29の空爆で、燃えるのがよく見えた。
南東の方角が、大きな電気で照らしたように、浮き上がって見える。
「名古屋が、名古屋がもえてるよ! 家は大丈夫だろうか。お母さんは・・・」と、姉妹で心配し合った。
1945年は正月3日から、矢継ぎ早に爆弾、焼夷弾が落とされた。
4、8、9日から14日、15日、16日、18日、さらに、20、23、24、25日と焼き尽くされた。
その恐怖は、13日に起きた三河大地震とも重なり、ゆきえたちは、竹やぶでふるえていたときもあった。
母たちも疎開してきたのは、空襲がどんどん激しくなり、名古屋城と共に家が焼けてしまったからだった。
そして、長い夏休みになった。
その日は、真夏の太陽がじりじり照り、蝉が喧しいほど鳴いていた。
疎開先の庭に近所の人5、6人が集まってきた。
無理やりの疎開で、祖母の家の離れを占領したが、そんなゆきえの家に、ラジオがまだない家の人たちが聴きにきたのである。
近所の人たちと、天皇の声を聞いた。学校で「天皇は神様」と教えられていた。
神様の声は、ぼそぼそとした声で、ゆきえには、何を言っているのか全然わからなかった。
大人たちは「広島と長崎にすごい爆弾が落とされ、大勢の人が死んだ。日本は戦争に負けた」と言った。
裏のおばさんは、おじさんが戦死していたので「戦争に負けた? そんなら家の人は犬死にだがね」と言った。
そしたら近所で物識りと言われ、障害者の弟と暮らしているおじさんが言った。
「いつか、こうなると思ってた。こんな戦争なんか終わって良かった」。
着る物も、食べる物も乏しく、子どもも大人もみんなひもじかった。が、戦争はやっと終わり、ゆきえたちにもふつうの生活が戻った。
浦安の舞
戦争が終わって2年が経った頃、ゆきえは、秋祭りに神社で巫女になって「浦安の舞」を踊ることになった。
「『浦安の舞』っていうのはね、この前の戦争が始まったころ、皇紀2600年祝典の際に作られたものだよ。女の子4人で舞うんだ。上代の手振りを偲ぶ荘重典雅な舞で、扇と鈴の舞があるんだそうだ」。
ゆきえが、神社で巫女になって踊ると聞いて、物識りおじさんが教えてくれた。
この辺りは熱心な仏教信者が多く、祖母たちは何かあると、いつも「なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏」と呟いていた。大人たちは、仏様、とりわけ浄土真宗を信仰していた。しかし、部落ごとにある神社の氏神様は、大切な神様だった。
全然しゃべらないチエちゃんも、夜、青年団の人が笛を吹いてくれる、お寺でのけいこには休まず来た。何しろ神社から指定された学年は5年生だけだから、2人しかいない。ゆきえも毎晩熱心に教えてくれるお兄さんたちに習った。
三センチほどの鈴が、十個くらい固めてある鈴の塊を右手で鳴らし、左手で大きな扇を揺らしながら、踊るのである。
ゆきえには、笛と太鼓の音色がしっとりして、心地よく感じられた。
「浦安の舞」はすぐ覚えてしまったので、十人近く並んだ青年団のお兄さんたちの前で踊るのが楽しかった。
ふと、隣のチエちゃんを見ると、上手に踊っていた。でも、チエちゃんは、決して笑わなかった。
遠くの神社で踊る当日は、学校を休んで、婦人会のおばさん達に連れて行って貰った。おばさんたちに、生まれて初めて口紅までつけて貰って。
おばさんたちは「神様の子になるんだから、あんたたちはきっと幸せになるよ」などと、励ましてくれた。
ゆきえも、ほんとに幸せになると思った。
こうして、チエちゃんと2人で舞った。大きな鈴がいくつもついた、鈴のかたまりを右手で振りながら。
しゃべらずのチエちゃんが踊った。
おばさん達には、上手に踊れたと褒められた。が、ゆきえが不思議な気持ちだったのは、チエちゃんはしゃべれないけれど、踊れるんだなぁということだった。
大人になってから、ゆきえは自分が口下手だということが分かった。 姉は社交家でいつも友達の中でリーダーだったし、妹は村の人が「会うと、いつもニコッとしてくれる愛嬌者ですね」と言ったりするから、もしかしたら、チエちゃんと2人だけの通学時に、あまりしゃべらなかったことも関係あるのかなと、考えたこともあった。
でも、しゃべらないチエちゃんはやさしかったし、いつも2人で歩いた田舎道はとても美しかった。
田植えが済んで、稲がどんどん大きくなり、目が覚めるような緑の田んぼがどこまでも続いたし、秋になって稲が頭を下げるようになる頃は、一面黄金色に輝く。
ゆきえは、二人はしゃべらないけれど、何かしらないが心愉しい気持ちで田舎道を歩いた。
誰かが、2人を見守ってくれていたような気がしていた。
ゆきえは、田舎道を犬と歩きながら、ドジで、愛想なしでも、結構、学校生活は楽しかったし、現役時代もそれなりに過ぎたなぁと、回想しながら歩く。
先日、地域で春のお祭りがあった。神社で5年生くらいの女の子が、白い衣を着て、懐かしい「浦安の舞」を踊っていた。
たまたま、通りかかった村の神社の行事、その懐かしい笛の音色に、思わず引き込まれて見てしまった。
すると、前で踊っていた子がチエちゃんだった。可愛い顔のその子は、鈴を鳴らし、右を向き、くるりと後向きになり、再び前むきになると、伸び上がるような姿勢で、そのまま神社のクスの大木に吸い込まれてしまったのだ。
ゆきえは、目を疑った。枝の1本1本が大木で、大空を泳ぐようなクスの木を仰ぎながら、不思議な気分で神社を離れた。
あれは、絶対にチエちゃんだ。
しゃべったことのないチエちゃんは、本当にしゃべれなかったのか、しゃべらなかっただけなのか・・・。
しゃべれない犬に、何度も何回も近づいてきてけたたましく鳴くあの鳥のように、ゆきえはもっと、もっとしゃべりかけたらチエちゃんはしゃべっただろうか?
神か仏か分からないけれど、もしかしたらチエちゃんは、天の使いだったかも知れない。
あれは、やっぱりチエちゃんだ。
2、ねしょうべん物語
「しまった。またやっちゃった」
健は朝、布団の中で、濡れた下着と布団の気持悪さで目が覚めた。
どうしようか考えた。ねしょうべんは上手に誤魔化せないこともなかった。少し気色が悪いが、先生の目がこないうちに布団を折りたたんでしまうのだ。
昨日もそれをやった。何しろ60人くらいが並んで布団を敷くのだ。先生は5人、1人1人に中々目が届かない。
1944年、戦争が始まって3年が経ち、次第に空襲が激しくなってきた。生徒数が多い名古屋の国民学校では、早く生徒を安全な場所に疎開させるよう、地方に知り合いがあり、縁故で疎開が出来そうな子は、少々無理でも強引に疎開を指示した。
子どもたちは、次々地方へ疎開して行った。
縁故で疎開できない生徒たちをどうするか、学校は国の方針に従って地方と連絡をとり、集団で寺などに疎開させた。
岐阜県のこの寺には、2、3年生約60人が疎開してきた。境内に大きなイチョウの木がある寺だった。
国民学校の2年や3年では、まだまだ親と離れればさびしい。健には3年生に年子の兄がいて、一緒に疎開していたが、それでも、大空に伸びたその木を見上げては、寂しさを紛らわした。
家にいた頃は考えられないほどみんなよくねしょんべんをした。不思議なことに、さびしいとねしょんべんをしてしまうのである。
毎朝の先生の大事な仕事のひとつに、ねしょんべん布団を干す仕事が増えた。生徒にとっては恥ずかしいが、丸く地図を書いたようなねしょんべん布団を、本堂の回りの太い手すりに、ずらりと並べて干すのである。
健は、初めてその寺に泊まった翌朝、およそ20人が、みんなの前で濡れた布団を干した。恥ずかしかった。そして、またまた今朝の失敗である。健はどうしてねしょんべんをしてしまうのか、分からなかった。
大勢の朝ごはんは、近所の人たちが交代で作ってくれた。その人たちは、ご飯の弁当を持ってきており、朝も味噌汁とご飯を食べていたが、健たち疎開児童の食事にご飯はなかった。
大鍋を水と芋でいっぱいにして、お米はほんの少しだけだった。人参のような野菜が入った薄い味のお汁、底の方にほんの少しお米があったり、小麦粉のおだんごが入っていた。
お腹がふくれなくても、おじやの朝ごはんにみんな我慢しているのが分かり、大人たちは、可哀そうに思った。昼と夜はいつもかぼちゃだけか、さつまいもだけだった。他人の芋や南瓜が大きく見えても、みんながまんした。
朝、少しだけ勉強すると、交替で食べられる草を探しに行った。
中には、川まで足を伸ばしてドジョウやザリガニを探しに行った子もいた。
親が面会に来てくれるのは、2ヵ月に1回くらいで、お土産は蒸した芋だったが、みんな大喜びでぱくぱく食べた。ときに氷砂糖があった。そのときは、みんなはじけるばかりの笑顔になった。甘い物なんてまるでない時代だった。
お風呂は交替で、1週間に1回入れたが、水道もなく井戸の水を沸かすお湯は少なかった。普段は汚れた体を水で拭くだけ、のみがいるのは当たり前で、女の子の頭の毛に虱がいるようになった。
かゆいかゆいと言い合ったが、健たちにとって、何よりの重大関心事は、食べ物のことばかりだった。
そんな頃、健はある事件を起こした。
当時、みんなが履くのは下駄が普通だった。たまに鼻緒が切れないように予備の鼻緒が配られた。みんなあの柄がいい、この模様がいいと選んだが、健がいいと言った鼻緒は他の子が取ってしまった。
健はあの鼻緒がいいと言い張った。が、認められず、イヤだイヤだと駄々をこねた。それでも自分の言い分が通らないので、考えてその場に倒れてやった。どうしたどうしたと先生を始め、みんなが驚き、大騒ぎになった。
いかにも参ったように、健は倒れた。わざと、うわごとのように「鼻緒が・・・」と呟いた。2年生なりの知能犯ぶりで、健の好きな鼻緒は手に入った。
1945年に入るや、段々と空襲が激しくなり、夜になると名古屋の方角が赤々と燃え上がっていた。みんなで「名古屋が燃えている!」
「火が赤いよ!家は大丈夫かなぁ」と外に出ては心配した。

名古屋大空襲―名古屋港 名古屋大空襲―広小路通り
そんな生活が5ヵ月ほど続いた頃、弱い子の中には病気になる子が出始めた。 先生は、親に連絡して名古屋の家へ帰らせた。健は自分も帰りたいと思った。
それが、本当になってしまった。
ある日、下の歯茎が痛み出し我慢ならなくなってしまったのだ。先生が家に連絡を取り、父親が来て、名古屋の大病院に連れて行った。
父親を戦争にとられて、母だけという家も多かったので、父が学校に勤めていた健は、運がいい方だった。
病院では、栄養失調からの歯茎の骨髄炎という診断で、膿んだ骨まで削り取る大手術をした。
健が疎開先の寺に戻ったのは、手術が済んで1ヵ月余り後のことになった。
長かった戦争が終わり、人々が荒廃からやっと立ち直り出した。
日本の高度成長期だった。ふた組の夫婦が、岐阜の大きな寺を尋ねた。
健とその兄は、長年の外国暮らしをふくめ、社会生活での任務を終え退職したばかりだった。
兄弟は、それぞれの連れ合いと4人で、人生の整理がしたいとこの寺を訪れた。
「国民学校2、3年生のころ、このお寺に集団疎開したのですよ。その節はお世話になりました」。
「そうでしたか。大変な時代で、大勢の児童がこの寺に寝泊りしましたなぁ。そのときの小さな男の子がねー。サ、どうぞ、どうぞ座布団を」と、年取ったお寺の住職に、座布団をすすめられた。
そのとき、健はまさか、あの寝小便した布団の綿じゃないだろうね。と、例によって妙な考えが浮かんで困った。
「大きくなりましたね。イチョウの木が。食べ物がなかったあの頃、みんな夢中でギンナンを拾い、食べようと、皮をむいたりして、みんなかぶれてしまいましてね、大騒動でした」。
「そんなこともありましたなあ」。
その寺のすぐ近くに、もうひとつ寺があり、寺の人たちに何かと世話になったので、4人はそこへも足を運んだ。
当時女学生だったという寺の女の人は「手伝いにきた私はご飯の弁当、食べたい盛りの子どもたちは、お米はほんの少しで、水と芋で鍋いっぱいにしたおじやでした。近所の人と可哀想にと、いつも話していました」。
「いまは、何でも食べたいものがあって当たり前になりました。あの当時はひもじくて、食べたいのを我慢し続けた私たちは、十分食べられるいまの有難さがよくわかります。それがわかるので、幸せだと思います」。
もう一度、疎開先の寺に戻り、住職にお礼の挨拶をして寺を辞した。
風から秋が始まっていた。大木になったイチョウの木から、黄色の葉が一枚舞い降りた。
帰りの車の中で、健が「出された座布団、僕たちが寝小便した布団で作ったんじゃないよね」と言ったので、4人で大笑いした。
「大丈夫、絶対寝小便の所は捨てて、打ち直してあるよ」。そう言ったのは健の兄だった。
その兄は、翌年、血液がんであっけなくあの世へ旅立った。
「傍論、脇の論」ですか? 「そんなのかんけえねえ」ですか?
歴史的、画期的判決が出てから
2008年4月17日は記念すべき日。
航空自衛隊のイラクでの活動を、憲法違反と認めた名古屋高裁での判決が出た日だから。全国の司法は、この問題の違憲有無判断を避け続けた。
原告の一人として、違憲判決をした裁判長の勇気を、画期的なものだと、心から喜んだ。
反面、直後の「傍論、脇の論ですね」という首相の反応には驚いた。
「そんなのかんけえねえ」と、タレントの口ぶりを真似た防衛関係者の言葉に、呆れ、この国の恐ろしさを感じたのは、私だけではないと思う。
下級審の判断だから、無視ですか?
自民党の幹事長など歴任して引退した幹部、野中広務氏は「陸上自衛隊はサマワから引き上げたのに、航空自衛隊は米国の物資を運ぶために残すということになったときおかしいと思った」と新聞紙上で語っている。
引退したとは言え、長年、政府幹部だった人の発言は重い。
とりわけ、発言の中で印象に残るのは「サマワに行った陸上自衛隊は、形の上では事故なく帰ってきているが、何人も自殺し、または原隊復帰できないノイローゼのような状態があり、陸自の自殺は多い。ものすごく過酷な任務をしているから・・・」の言葉は、現実をよく観ている。
「こうなったら自衛隊志願者が少なくなる。すると結果として、日本は徴兵制度へと移行していく」とまで言い切る。
弁護士の毛利正道氏は、裁判中の意見陳述で「イラクから帰還した自衛官のうち、7人が自殺した」と、防衛省が公表した資料に触れている。
野中氏は1925年生まれで、陸軍の幹部候補生だった。
毛利氏は、1945年生まれ、父親が軍曹として、中国で多くの人の命を奪って帰国し、その後結婚して生まれた長男が自分だと陳述している。
だから、あのときが日本の曲がり角だったという日本にしたくない、そういう、強い気持ちを感ずる。
戦争体験者
はどんどん死んでいき、体験しない若い人たちは、日々仕事に追われ、余裕がない。娘夫婦も共働きで頑張っているが、「徴兵制なんて日本にはあり得ない・・・」と言ったときがあった。平和が続いて、戦争や徴兵制もぴんとこない世代だ。
専守防衛の自衛隊を戦乱の地イラクへ派遣し、米軍への協力を続ける日本。
大量破壊兵器はなかった。それなのに、侵略した米国と一体になって、いいなりになって、陸自が撤退しても、
航空自衛隊約3000人はそのまま。
クウェートからイラクへ、約700回、600トンもの空輸活動をしている。
自衛隊イラク派兵は憲法違反(2008年4月17日名古屋高裁)
現在イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、(中略)
武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、
かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいることが認められる。
「加害者としての立場を強いられたくない」という願い、
「違憲のイラク派遣で、死の危険と隣り合わせの自衛官とその家族を救いたい」との訴えが認められた。
たくさんの市民運動家、多くの弁護士、みんなの様々な、粘り強い努力が結実した判決を、現実に活かさなければならないと思う。
原告席の片隅にて
2008年4月17日、名古屋高裁で歴史的判決文を聞いた。
「戦闘地域への自衛隊派遣は違憲」である。
正面に並ぶ3人の裁判官、起立、の掛け声で立ち、礼をする。
名古屋高等裁判所の傍聴席に着く。満員で入場できない人たちが、雨の降る歩道で待つ。
起立したまま、満員の場内は咳ひとつしない。りんと張った空気。
緊張感で息苦しくなるほどだった。この裁判の原告になってから、何度も傍聴したが、起立、礼の後で、立ったままこんなに長い間沈黙の時間が続いたことはなかった。
後から自分流に考えると、あれは、裁判長の重大な決意を意図した沈黙だったのではないか。この判決を最後に退官した青山邦夫裁判長の代わりに、高田健一裁判長が代読した。
一審に続いて「控訴は棄却」だったが、その後、判りやすい言葉で判決文が読まれた。
「イラクの首都バクダットは現在泥沼化した戦争状態が続いており、イラク特措法にいう戦闘地域にあたる。多国籍軍の武装兵員を戦闘地域に輸送する行為は憲法に違反する」。特別なことではなく、常識的な考えだと思った。
勝訴した国は上告できないから、この画期的な高裁判決は確定する。
暫くして、裁判所の外から歓声が聞こえてきた。
誰かが、この判決文を持って、外で待つ人たちに知らせに走ったのだろう。
2004年2月に第1次提訴で原告になってからだけでも、もう4年が過ぎた。裁判って本当に長い時間がかかる。
いろいろな戦争体験者が数々の貴重な意見陳述をした。学者が述べた。外務省で依頼免職された天木氏が、或いはジャーナリストが、切々と訴えた。
名古屋の原告約3000人は、控訴審で1122人だったが、法廷で実際のイラクの現状をDVDで放映もさせてくれた。
若い弁護士たちの苦労は大変だったろう。若い人たちの姿もかなり増えたが、市民運動に参加している感じの人たちは、張り切ってみえるが、若い人は少なく、みな中高年だ。
以前「おれ、80代の後半、最長老だぜ」という元気なじいさんの声も聞いた。
何も手伝いは出来なかったが、最低、裁判所に傍聴に来る。これも行動だと足を運んだ。現役時代の友人は「裁判所には来られないけど、ニュースを読んで会費だけは払っている」と言っていた。
老いも若きも、意欲を失わず「後期高齢者、姨捨て日本」を許さない。
戦争体験者がどんどん死んでいくなかで、あの悲惨な日々をくり返してはならないと、歯はボロボロ、目は白内障予防の目薬求めて目医者、それでもわが連れ合い共々、インターネットのホームページに、庶民の目で見た世の中、国の政治のあり方を考え、綴るが生き甲斐の日々に、ほんの少し明かりが・・・という感じである。
昨年、この世を去った小田実は著書「中流の復興」の中で書いている。
「『却下』」を原告小田実ほか1048名に裁判官が言い渡した所要時間はおよそ3分、言い渡しが済むと3人の裁判官は、判決文を読み上げることもせず、そのまま背後の扉のむこうに姿を消した。
裁判所は何のために、誰のためにあるのか。 2006・10」
彼は、今回の判決文を、あの世でどう読んだろうか。
(注)、全国で10あまりの地域で「自衛隊のイラク派遣は憲法違反」と提訴した。
全国的に相次ぐ敗訴、棄却が続いた。どの裁判も違憲かどうかの判断を避けた。
〔08・4・17〕
「自衛隊イラク派遣で加害者になりたくない」控訴審傍聴して
1月末の寒風が吹く日、原告の1人として裁判を傍聴した。「自衛隊イラク派遣差し止め」訴訟の控訴審である。
2003年3月に米国がイラクに攻撃を開始してから既に5年、真っ先にそれを支持した日本政府が、陸上自衛隊と航空自衛隊を派遣した。それは憲法に違反していると、裁判が始まってからもう3年半が過ぎた。
札幌で1人が勇気をもって提訴し、全国で5600人の原告、弁護士団800人の訴訟になった。が、門前払いの判決が続き、ここ名古屋地裁の控訴審では、原告およそ3000人である。
近く判決が出るというが、札幌には陸上自衛隊の拠点があり、名古屋は、小牧に航空自衛隊の拠点基地がある。
従って、大量破壊兵器があると断定して始まったイラク戦争で、大量破壊兵器は見つからず、ベトナム戦争のように、戦争が泥沼化した現状では、日本の私たちも加害者になるという認識は正しいと思う。
世界保健機構の最近の発表では、イラク戦争でのイラク人死者は、開戦からの3年間だけで約15万人にのぼるといわれている。〔朝日〕
また、昨年の米陸軍の自殺者は109人で、三分の一がイラクとアフガンへの派遣経験者だといわれる。〔時事〕
さらに、200万人が海外に非難していると伝えられている。
年々激増し続けるこの悲劇的状況と、訴えられた国を司法がどう裁くか、庶民の目で、しっかり見守りたい。
楽観できないが、戦争の理不尽を体験した人がどんどん死んでいく現状の中、満員の法廷でみた市民運動家や、大勢の若い弁護士が、情熱をもって審理に参加する姿には、大いに励まされる裁判傍聴だった。
家は名古屋城のすぐ傍だった。
日曜日は、兄姉でよくお城で遊んだ。深いお堀が城の廻りを囲んで、いつもかなりの数の鹿が、青々した草を食んで遊んでいた。
そんな、のんびりした風景や、ぶらんこや滑り台があって、遊び場所だった名古屋城、ときには親も一緒だった。正月には晴れ着を着て記念写真を撮ったりした。
うれしかったのは、母が正月の着物を縫ってくれたとき、姉の着物は幾分赤っぽい花柄だった。私の着物の柄は、少しだけ青味がかった色合いで気に入っていた。その着物を着て、写真を撮って貰った。
兄妹仲良く遊んだ楽しい場所のすぐ傍に、広い練兵場があった。そこで思いっきり走り回り、かけっこや鬼ごっこで遊んだ。
5歳の子どもでも忘れられない、いい思い出がいっぱいある。
父は町内会長をしていた。地域の役員の人たちと、子どもたちを夏は海水浴に連れていった。キャンプ゚までは出来なかったが、ハイキングなどにもよく出かけた行動派だった。
私も幼いながら、兄姉と一緒に連れて行ってもらい、船に乗った写真や、ハイキングのときの記念写真など残っていた。
サラリーマンの妻として、5人の子の母は人に嘘をつかない正直な人と言われ、忙しく、それなりに充実した生活を送っていた。
その母に、転機が訪れた。
1941年、父に来た1通の赤紙、徴兵令状が来た。
1歳と3歳の妹たちは、父の顔さえ覚えていないほど幼い。真ん中の私は5歳で、姉7歳兄9歳だった。
突然大黒柱がいなくなる気持ちはどんなだったか、考えれば考えるほど母が哀れである。
生まれたばかりの乳児から9歳まで5人の子を1人で育てるのか。
水道もなかった当時、洗濯ひとつとってみても、洗濯板で石鹸つけてごしごし洗う。そして、たらいで濯ぐために、ポンプで井戸水を何度もくみ上げる。
考えただけで家事、育児の負担は目眩しそうになる。
その年、12月8日、日本はハワイ真珠湾を攻撃した。第2次世界大戦が始まったのだ。
日本はすでに中国と戦争を続けており、満州国を作っていた。そのうえ、国力が圧倒的に強く、どう考えても勝てるはずがないアメリカやイギリスと戦うというのであった。
当時、米国のリットン調査団が満州を視察し「日本は中国から撤退すべきだ」と勧告した。それに従わない日本に、米国は石油輸出禁止措置を決めた。
そんな当時の歴史を振り返ると、庶民は生きていくのに必死で、政治は一部軍部のごり押しに任せるしかない様子が浮かぶ。
作家伊藤桂一は、真珠湾攻撃を知ったときの思いを、近刊「若き世代に語る日中戦争」で書いている。
「一体誰が前線で戦うのか、と言えば、結局僕らではないか。あなたたちも、僕らと同様に最後まで責任を取ってくれるのですか、と軍上層部に問いかけたかった」と。
一家の大黒柱を盗られることになった母は、町内の大勢の人々に言った。「お国のために役立てることは喜びです」。
嘘だ。そんなの絶対に嘘、お国が進もうとする大間違いの道に、庶民はそう言うしかないのだ。
口下手で、人の悪口が言えない母が初めてつく嘘だったろう。
万歳、万歳の声に送られて、父は戦地へ向かい、6年間軍隊生活だった。
母は、その後の空襲の恐怖、名古屋城と一緒に自宅が燃えてしまった恐ろしさ。寝るところさえない悲劇と格闘した母は、56歳食道がんで逝った。
がんの原因はストレスといわれる。
葬儀の日、近所の人たちが「仏様のような人だった」と口々に言った。
肉親をお国のためにと送り出して、多くの肉親を失った石井百代がうたった有名なうた
「徴兵は命かけても阻むべし 母、祖母、おみな牢に満つるとも」 をあらためて噛みしめる。
今日はあの年から、66回目の12月8日。1941年12月8日は忘れられない運命の日。
5歳の子も人の母になり、祖母になった。
戦争を喜ぶのは誰?
軍需産業で儲かる死の商人?
戦争にいい戦争なんてありえない。
子や、孫たちにそんな世の中を残してはならない。
〔2007.12〕
「『やったぁ また一人殺せた』って ちゃんと思うてくれとる?」
映画「夕凪の街 桜の国」の柔らかなタッチ
「なぁ、うれしい? 13年も経ったけど原爆を落とした人は私を見て『やったぁ また一人殺せた』ってちゃんと思うてくれとる?」
広島原爆投下で父、と背中に背負って逃げた妹を亡くした主人公が、被爆者として13年生きたが、原爆症で死ぬ。その臨終のときのことばである。
背中で死んだ妹のことを思うと「幸せになったらいけんような気がする」し、「お前の住む世界はそっちじゃない」という声がいつもして、「あつい、あつい」と焼け焦げた、黒い丸太のようになって死んでいった人たちの情景が、折々に甦る。
映画「夕凪の街 桜の国」広島の原爆被爆者が主人公のこの映画は、マンガが原作で既に25万部も売れているそうである。
8月に観たテレビドラマ「はだしのゲン」も、以前好評でクラシックブームを起こした「のだめカンタービレ」も原作はマンガだ。マンガ家の感性の鋭さ、優秀さに驚く。
若い人たちが「原爆や戦争の話なんて」と言いそうな時代に、若いマンガ世代のこんな流れは嬉しい。
広島では、一発の原爆で14万人もの人が瞬時に、焼け焦げた丸太のようになって死んだ事実、60年経っても毎年、被爆者が死ぬ。今年で20万人の人が原爆症でなくなった。
8月6日に広島に投下した原爆はリトルボーイといわれ、濃縮ウラン型でTNT火薬換算1.5万トンであった。
3日後の9日には長崎に原爆が落とされた。プルトニュウム型でTNT火薬換算2.2万トンという大型で、ファットマンと呼ばれている。平地の広島と違い、地形〔谷間〕の関係もあって犠牲者は7万人だった。
その後60年間、原爆症で人が死んでいく。白血病、がんなど毎年数千人ずつ死んでいく。
なぜ、人類史上かつてない、想像を超える殺人核兵器の原爆を2度も落としたのか。しかも種類を変え、場所を変えて投下された。これは、どの型の原爆なら、瞬時に人間がどれだけ殺せるかの実験ではないか。そういう見解があるのも当然と思った。
米国のドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」〔スティーブン・オカザキ監督〕では、原爆投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの搭乗員や、原爆製造に加担した科学者らの証言があり、「原爆投下は戦争を終わらせるための使命」とか「原爆投下したあと、悪夢なんか見たこともない」と証言している。
米国では、この無残な核爆弾の被爆状況をあまり知らされず、戦争終結にはやむを得なかったという意見が多いのが現実のようである。勿論、真剣に核爆弾の非人間性を反省している人たちもいると思うが・・・。
それは日本が、過去の戦争で他国の人々に与えた苦悩、それを深く考えない人たちも多いことを思うと、分かるような気がする。
日本の大臣までも、アメリカと似た見解を述べ、被爆者だけでなく、国民の猛反対で辞任したことはまだ記憶に新しい。
それらの人たちがこの映画を観たら、どう考えるだろうか。
戦争が終わって13年たったのに、映画の広島では、トタン屋根のバラック住まいがあった。狭い部屋の中で、雨の漏る室内でお皿など受け皿を移動させながら、布団に横になるシーンも。
貧しかったかつての日本は、そんなことは普通だった。食べるものは、南瓜かさつま芋、そしてすいとんしかなかった。しかし、それがむしろ懐かしかった。それはなぜだろう。
近頃、物は豊かになった。しかし、これが人間のすること?と、思わずテレビから眼をそらすような事件、事故の報道ばかりが気になる世の中だからかも知れない。
「夕凪の街 桜の国」を観て、久しぶりに涙が滲んだ。声高に、悲惨過ぎる戦争体験を語るのではなく、広島弁で真実の声をささやく。
「自分は生きていていいのか」「自分なんか生きている意味がない」。残念ながら、自殺者3万人を超すこの国で、親しい人たちからさえ聞くこのことばは、この映画で果敢なげに、ささやくように聴いたことばと、どう違うのか?
友人の子は、150時間も時間外労働をし、うつ状態になり自殺を図った。
未遂に終わったものの、何年経っても働けない友人の子、やさしいその子は「ぼくなんか生きていてもしょうがない」と言った。年老いてくると、不安や心配ごとが多くなる。しかし、若い青春時代だって、悩みはある。
映画「夕凪の街 桜の国」で、被爆した主人公がプロポーズされたとき、被爆した当時の死体だらけの状態が頭に浮かんでたじろぐ。やさしい彼に率直にその苦しみを話す。すると彼は「生きとってくれて ありがとうな」と言って抱きしめてくれた。
そうなのだ。お互い「生きとってくれてありがとうな」と言えたら、どんなにすばらしいだろう。
人生に苦労は多い。でも、小さな喜びも大きな楽しみも創り出せる。それは、あざなえる縄のごとしである。
不安だらけの世の中で、みんなが「生まれてきてよかった」「自分は生きていて良いのだ」そう思えるときが、来なければいけない。命には限りがあるもの。
(07・9・11)
疎開せよ
「トヨ子の親はバカだ」。クラス全員の前で言ったのは国民学校2年の担任だった。戦時中、学校の先生は威張っていた。特にトヨ子の担任は女なのに、男のような言葉使いをしてよく怒り、みんな怖がっていた。
「この非常時に、友達と別れるのは寂しいから疎開はイヤだって? それを学校へ言ってくる親はバカだ」。
前日、クラス全員に担任が言った。「3年生以下は縁故疎開、4年以上は縁故疎開か、田舎に親類がなかったら集団疎開しなさい」。その日、トヨ子は家へ帰ると早速母親にその話をした。「友達と別れる疎開なんて、サビシイからイヤだな」。
トヨ子の母親は、「そうだね、出来たら疎開なんてしたくないね」と、素直な自分の性格の通り、子どもの気持をよく分かってくれて、早速学校へ足を運んで担任に言ったようだ。
トヨ子の家は、名古屋城のすぐ近くにあり、学校は、生徒数が千を超えるマンモス校だった。戦争は段々身近になりつつあった。国の方針として学童疎開を提唱したが、まだ思い通りに進まなかった時期で、学校にも焦りがあった。昭和19年春、敗戦まで1年という年だった。
トヨ子の父は、トヨ子が5歳のとき赤紙が来て出征し、もう5年戦地だった。
毎夜の激しい空襲から逃れて、子ども3人だけ先ず、母の故郷の田舎に逃げた。
疎開先では「アッ 名古屋が燃えてる!!」と叫びながら、毎晩毎晩、祖母たちと東の畑に出て、名古屋が燃える夜の光景を息呑んで眺めた。
機銃掃射
そんな或る日、トヨ子は疎開先で恐怖の機銃掃射を受けた。
昼すぎ、サイレンが鳴って警戒警報が出ていたが、トヨ子は祖母について洗濯に出た。歩いて数分の所にきれいな水が流れ出ている小川があった。中部電力変電所からの水で、当時はどの家にも水道は無く、井戸水をつるべで汲み上げていた。普段、村人たちはそこで野菜を洗い、洗濯をする貴重な場所だった。
と、突然上空から、耳をつんざくような轟音と共に、グラマン戦闘機が機銃掃射してきた。トヨ子と祖母の他に人影はなく、敵は戸外で動いた私と祖母を狙ったのだ。
必死で四つん這いのような格好で桑畑に隠れた。震えで歯がガチガチ鳴った。敵機が去り、家に帰っても部屋の中を逃げ廻ったり、まだ震える膝を抱いて座り込んだりした。
こんな田舎まで1機か2機で、ゆうゆうと戦闘機が飛来し、庶民を狙うほど日本は壊滅状態だった。少しでも動くものがあると、機銃掃射してきた敵は面白がっていたのではないか。もはやずたずたの、戦争に疲れ果てた庶民だった。
大きくなってから、恐怖のあの日を振り返るとき、そう思えてならなかった。
5月14日の大空襲で名古屋城が焼け、自宅に掘った防空壕にも焼夷弾が落ちた。自宅はお城と一緒に全焼した。母はその数日前に、疎開先の子どもたちと合流していた。
空襲で逃げ回る親類の者を、見捨てずに迎え入れてくれる身寄りがなかったら、命はなかった。
トヨ子たちは、祖母一家が蚕を飼っていた8畳間へ雪崩れ込んだ。
6年前、平穏だった一家が突然、赤紙という暴風に襲われ、大黒柱の父を戦争に取られた。命からがら逃げてきた母の苦労を思うと、トヨ子は胸がいっぱいになった。
昭和20年3月から6月にかけて、沖縄では上陸してきた米軍との死闘が繰り広げられた。大人たちは「沖縄へ上陸されたら、もう日本は駄目だ」と話し合っていた。
昭和20年8月6日に広島へ、続いて9日に長崎へ原爆投下された。
テレビがなく、ラジオだけで知った情報を、大人たちは「スゴイ新型爆弾が広島に落とされたそうだ。恐ろしいことが起きた」。などと、不安な気持を確かめ合っていたのを聞きながら、トヨ子も不安になっていった。
父帰る
日本の敗戦で、焼けただれた土地と、食べる物もない飢えた国に、戦地から続々引き揚げ者が帰ってきた。
トヨ子の父も引き揚げてきた。暫く疎開先の狭い部屋で寝起きしたが、商売で九州へ行くと言っては1週間くらい経つと帰ってくる。暫くして、また商売の用事と言って出かけ10日くらいで帰って来る。商売の残りだと、ときには食べ物や衣類を母に渡していた。
そのうち、出かけたまま帰らなくなった。母は、祖母や叔母たちと「女がいるのではないか」とボソボソ話していた。
6年間と長かった戦地でも、軍曹か兵長か知らないが偉い兵隊たちは、現地で知り合った女性と生活を楽しむゆとりがあったのだろうか。
ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や 「骨のうたう」 竹内浩三
何百万人が死んだ戦地は、飢え死にの兵も多いと聞く。そんな兵隊ばかりではなかったのか?
あの赤紙さえ来なかったら、突然、平和な家庭を毀す徴兵令さえ来なかったら・・・。
トヨ子の父も、出征して2〜3年は毎日のように、トヨ子たちに絵葉書をくれた。
戦後、帰国して暫く家にいたときは、名宝会館で公演中の、宝塚草笛光子を観に子ども3人を連れて行ってくれたこともあった。
しかし、家に帰らなくなり、疎開先へ生活費も送って来なくなった。
トヨ子たちは再び祖母一家に拠りかかった。食べる物がなく、さつま芋だけの夕食で、大きい、小さいとよくケンカした。歳の離れた弟が生まれたころ、ある晩子どもたちの顔が見たいと、1度だけ父が帰った。
「駒雄さ、どの面下げて帰って来たんだ!」大声で怒鳴ったのは、叔母だった。気丈な叔母は夫と、祖母と子ども2人を農業で育てながら、戦争にほんろうされ続けている妹一家を見捨てられなかった。親鸞を信じる熱心な仏教徒の、ほとけ心で、祖母、叔父叔母たちは、トヨ子たちに手をさし延ばし続けてくれたのだろう。
トヨ子の姉は鏡台に向かって、髪を梳いたまま父を振り向かなかった。トヨ子は姉や、大人たちのやりとりを黙って見ていた。
数年後、たまたまラジオ放送で菊池寛の「父帰る」というドラマを聴いたとき、「あっ!我が家と一緒だ!」と、思わず叫んだ。
名古屋が燃える−悲しみの涙が戦争資料館に
ワッ! B29の編隊だ! ドキッとした。
最近、名古屋に戦争資料館が出来た。畳2〜3枚もありそうな大きな爆撃機の写真、日本の上空を、3機の編隊で飛んでいる。写真なのに、物凄い轟音が耳をつんざきそうだ。
隣の写真は、名古屋城が燃えていた。毎週のように遊びに出かけた名古屋城が、名古屋城が燃えているのを、こんなに目の前で見たのは初めてだ!
名古屋一番の賑やかな広小路通りが、焼け野が原になっている。
大きな写真の迫力に、押しつぶされそうである。
東山動物園で、虎やキリンたちを何人もが銃を向けて、撃ち殺しそうとしている。でも象は助けられた。「象と人間とどっちが大事か! 非国民め!」
それでも、象を守った園長たち、戦争が終わって、象を知らない子たちが、東京から続々やってきた。「象列車がやって来た!」
中日新聞提供というそれらの写真だけでも、トヨ子を60年前の、あの戦争のときに強引に引っ張って行く。
60余年の月日が経った。
まだ50代になったばかりのトヨ子の弟が急死して7年になる。
母は、夫を戦争で取られ散々苦労したが、その母同様、歳の離れた弟の生涯も決して幸せと言えない人生だった。
トヨ子の弟は苦学し、高校時代から世の中の改革運動に共鳴して、難解な英語の原文で勉強していた。「戦争記念館」を作る運動は何時ごろからだったか知らないが、弟は、女性弁護士が中心になって取り組んでいることに共鳴して、死亡保険金の一部を女性弁護士の受け取りに指定し、かなりの額のカンパをした。
経済的理由で難航し、立ち消えそうになった戦争記念館が、年老いた女性の多額のカンパで急に話が進み始めた。
そして、2007年5月、名古屋に「ピース 愛知」と名付けて、真っ白な3階建てのやさしい感じのビルが完成した。
15年戦争で1000万人が、赤紙で戦地へ連れて行かれたという。記念館の戦争資料は体系的で、貴重な写真は生々しく当時を甦(よみがえ)させる。叫ぶように書かれていた文字「これが、戦争だ!」は、戦争を体験した人たちが次々いなくなる現在、大切な歴史的証拠。まさに「これが、戦争だ!」
平凡な庶民の、悲しみの涙がたまりたまって、この「ピース愛知」が出来た。トヨ子にはそう思えてきた。 (2007年6月)
(注)、「ピース 愛知」は、地下鉄「一社」下車、北へ徒歩13分
従軍慰安婦−文学者の目、庶民の目
「セミの追憶」という古山高麗雄の小説に次のような記述がある。
この小説は、川端康成文学賞を受賞しており、戦後短編小説再発見3 講談社文芸文庫編におさめられている。
昭和19年2月、マライのクアラルンプールから、ビルマのネーパン村に移動した。・・・ネーパン村に来てどれくらいたったころだったろうか、従軍慰安婦たちが来た。彼女たちが着く前に、司令部の兵士たちが、竹とニッパ椰子の葉で、たちまち慰安所を作った。・・・・兵士は3人揃って出て行き、3人揃って帰営しなければならない。外出といっても、ネーパン村では、慰安所のほかに行くところはなかった。〔P.244〕
おびただしい慰安婦たちが戦地に送られて死に、あるいは過酷な目に遭わされたことは確かだ。ネーパンの慰安婦たちも、かなりの客をこなさなければならなかっただろう。〔P.266〕
戦地の慰安所と慰安婦について古山高麗雄は、このように淡々と書いている。
最近、米下院で首相の公式謝罪などを求める決議を採択する動きが加速し、自民党から反発も出ている。
1991年、戦争中日本軍に強制的に従軍慰安婦にさせられたと、韓国の女性が日本政府に謝罪を要求した。しかし、従軍慰安婦はいなかったとする意見もあり、韓国人の提訴した謝罪と賠償要求は、時効などで全て敗訴している。
新聞報道で「部隊に設置指示、募集含め統制、監督」と報道され、当時の宮沢首相が訪韓して、何回も謝罪した。
さらに翌93年8月、河野官房長官が「甘言、弾圧による等本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、強制的な状況の下での痛ましいもので、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」と発表した。
これを契機に中学、高校のほとんどの歴史教科書に「従軍慰安婦」が記述されることになっていった。
最近の米国の議論の中で、次のような発言は真実味を感じた。
「慰安婦が強制されたかどうかは関係ない。日本以外では、誰もその点に関心はない。問題は慰安婦たちが悲惨な目にあったということであり、永田町の政治家たちは、この基本的事実を忘れている」。
これは朝日新聞が「歴史、戦争、見識を問おう」という記事の中で紹介した知日派マイケル・グリーン氏の発言である。
慰安婦問題では意見がいろいろ噴出し、例えば、小林よしのりは「従軍慰安婦はなかった。商行為があっただけ」との見解である。
一方「よみがえる部落史」の上村聰は「脱ゴーマニズム宣言」の小林の漫画を丹念に検討、痛快に批判している〔米原万理著『打ちのめされるようなすごい本』〕。
マンガのカットを引用したのは著作権の侵害と、小林側の告訴で裁判になっているが、文部科学省は、数年前「従軍慰安婦」という言葉を教科書から削除した。これが日本の現状である。
朝鮮から連行されて慰安婦にされた人、日本から行った客商売の人、或いは現地で連行された人、食べられないので自ら慰安婦になった人など、多面的に考えるのが妥当かも知れない。
しかし、「慰安婦にお金は払っていたはず」と言った知り合いの軍隊体験者には失望した。軍票という紙切れを、払っていたらいいのかと、私は根本的な疑問をもつ。
「セミの追憶」のなかで、「死は怖いが、死んでもいい」と、半世紀前、戦争に駆り出された青年たちの切ない心を書いた作家古山高麗雄、「小さな人生のリアリティ」に思いをはせ、「天皇の軍隊」の性の道具だった女たちを、書かずにいられなかった筆者も逝ってしまった。
この小説は、戦争の歴史、人間の根源的な問題を素直に考えさせた。(2007年3月29日)
〔註〕古山高麗雄氏は 2001年81歳で死去
テレビは映画のとき以外、居間で座って見ない。台所に小型テレビを置いて、料理しながら、あるいは、アイロンかけしながらというように、いつも何かしながらの「ながら見」だから、ときには大事な事が抜けているかも知れない。
NHKはさすが優れたものが多い。例えば、朝の連続テレビドラマには、贅沢に俳優を使っている。全世帯からの受信料は相当な額になるはずだから、予算があるからだろうと思う。職員の不祥事もあったが、戦時中の例を出すまでもなく、公正な報道こそ、自由な社会発展の力になると思う。
世界の優れた名曲を短く、幅広く紹介する「名曲アルバム」に安らぎを覚え、難しいニュースを分かりやすく解説して伝える「週間こどもニユース」は、よくこんな難解なことをと、感心することも多い。
ただ、伝えるニュースが、何度も全く同じ繰り返しが多い。その点、民放の方は工夫があり、もう一つの眼も伝える。
沖縄知事選挙の報道で、NHKは「基地より経済が勝利」と繰り返していた。同じ時、民放は「当選した仲井氏へ投票した人の50%以上が基地反対」と報道していた。報道が一面的だと庶民の考えも片寄ってしまう。もう一つの視点も大事だと思う。
先日、途中からだったが、何気なく観た「NHKスペシャル」は身に沁みる映像だった。
60年前、第2次世界大戦でのこと、敗戦間近い日本軍が、硫黄島で全滅する激戦を映像はリアルに写していた。
思わず料理の手を止めて見入った。
硫黄島の日本軍は約29OOO、米軍は10万〜15万。死者は日本軍が28000、米軍は29000という激戦だった。小さな、陥落は5日間とも思われた島で、日本軍は洞窟に隠れた徹底抗戦だったと伝える。米軍が投降を呼びかける。水も食料もない洞窟から、わずかに飛び出す兵を日本軍が討つ。死ぬ覚悟の36日間の抵抗だった。
画面が変わり、現在の島で生き残った米軍関係者が語る。「戦争は勝つも負けるもない」。身が引き締まる、印象的な場面である。
戦争を知らない人が過半数になり、戦争に現実味が持てない。気がついたら、いつの間にかこうなっていた。人生の先輩たちがそう言っている。
戦争の無意味さがよく伝わった。そうだ評判の映画を観よう。そう思わせる凄さだった。
アメリカ人の監督が、アメリカ側からの視点で描いた「父親たちの星条旗」と、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」。
力作らしく、前評判も上々だから忙しい師走であるが、これだけは映画館へ観に出かけようと思う。
〔06・12・1〕
表情が若々しい。毛染めしない黒い髪に白髪が混ざった女性。50代の2人の大きな顔写真は、何事だろうと思わせる。
9月20日の中日新聞夕刊は、「学校もの言えぬ場に」の見出しで、日の丸・君が代を強いる東京都の通達で、いろいろ困難に直面している2人の女性を登場させていた。
1人は、21日に判決が出る「予防訴訟」〔日の丸・君が代問題で処分しないことを求めた〕の原告、もう1人は君が代問題で8回も懲戒処分を受けている中学教師だった。
一緒に夕刊を読んだ夫は「女は強いなぁ。強制に反対していたのに、みんな起立してしまう中で・・・」と言う。「下々は律儀なのよ。一度話し合って決めたら、困難があってもやり遂げる。ホラ、共産党だってそうだったでしょ?」これが私の返事だった。
何回も処分を受け、差別されてもくじけないでその中学教師は「いろいろな意見があっていい。なぜ、議論があることを生徒に知らせないんだ」と発言していた。
女教師たちの苦悩は、9月21日に出た東京地裁判決でひとまず薄らいだ。
裁判で訴えた約400人の教師たちに「日本の日の丸・君が代は第二次大戦終了まで、皇国、軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあり、国旗・国家に反対することも、思想・良心の自由を定めた憲法上、保護されるべき」との判決が出された。
「国旗への起立、国歌斉唱、ピアノ伴奏の義務はない」という画期的な判決で、あの白髪交じりの教師たちの喜びはどれほどかと思う。
かつて、世の中革新の夢を描いて夢中になった共産党は、「いろいろな意見」があってはいけなかった。
思想と良心の自由を求めたはずだったのに。とりわけ、専従活動家は。
その禁を破って専従解雇になり、2年間ひとりで裁判した夫。尾行、張り込みは日常茶飯の苦痛の日々は、1989年の東欧革命と1991年のソ連邦崩壊で走り去った。
私は、1967年、長男出産で42日間の産後休暇が明け、復職した当時を思い返す。
復職早々、夏のボーナス時期。公務員は過去、すべて平等だった。そのボーナスを、10%の成績不良者から10%を減額し、10%の成績優秀者へ増額するという、初の試みが実施された。
当然のように産休明けの私のボーナスは10%少なかった。
職場の暗い沈黙、断絶と、初めての差別への緊張した雰囲気。産後休暇が明け、喜びの出勤をした私は、頂点から奈落の底へ突き落とされた。そして課長にボーナスを突き返した。
帰りに寄った保育園で、喜ぶ幼い命を抱き、バンバンに張ったお乳を飲ませながら、初めて涙がこぼれた。
それから始まった、睡眠不足と闘いながらの毎夜のビラ書き。印刷してくれる友から受け取り、毎朝、局の玄関で配った。上着まで濡れるほど張る乳、それをタオルで巻いて防ぎながら玄関に立った。
それは、産休ぎりぎりまで働き、42日間だけの産後休暇、それでも働き続けたいという、希望に満ちた一人の母親として、また真面目に働いた一人の労働者として、許せない差別への怒りだった。
あの孤独、あの苦しい涙から救ってくれたのは、子どもという新しい命であり、無言で支援のまなざしをくれた、普通の職員だった。
全国的な反対運動で労組も無視できなくなり、半年後、年末ボーナスから差別は撤廃された。
今回の「日の丸・君が代裁判」で、まだこの国の良心を信じてもいい。そう考えて嬉しかった。
同時に、孤独でも、涙が出ても、がんばらなければならないときが、誰にでもあるのだなあと、しみじみ思った。
〔2006・9〕
巨大な鉄塔が濃尾平野を走る。高圧電線の鉄塔は、将棋の「角」を大きく背伸びさせたようにふんばって、高圧の電気を送り続ける。
名古屋市郊外の変電所近くには、10数本の鉄塔が立ち並ぶ。1本の鉄塔の足元には10メートル四方ほどの土地がある。そこは畑で、やえはその場所が醸し出す雰囲気を懐かしんで、よく行く。
あれは日本の敗戦も近い昭和20年のこと、やえの叔母は、いつも日本手ぬぐいを被り、人との挨拶は大きな声で丁寧にした。おしまいやす、ごたいぎさまと言う声が蘇る。当時、ごたんばた〔五反畑〕といった鉄柱の建つこの畑に立つと、叔父叔母を始め、みんなで掘り起こしたさつまいもの、ふかした匂いが漂ってくるように感じる。
やえの父が出征し、母子5人は名古屋の街で、毎晩のように空襲に怯えながら逃げ廻った。その年は1月3日、B29の爆撃で70人の死者が出た。
空襲は1月4日、8日、9日、14日、15日,16日,…と12日間続き、3月からは一段と激しくなった。B29の編隊北上中とラジオ放送。空襲警報のサイレンが鳴る。照明弾が落とされて昼間のような明るさの中を大勢の人が逃げる。2歳4歳の妹を乳母車に乗せ、毛布を被せて母とやえたちは逃げ惑う。米兵の顔が見えるほど低位置での機銃掃射、機関銃が唸る。
焼夷弾が落ちて家が燃え、人が焼かれる。強烈な視覚と聴覚の記憶に比べて、匂いの記憶はまるでない。体中を恐怖が覆いつくすと、嗅覚は麻痺するのだろうか。
3月10日に東京大空襲で10万人が死んだ。次の日は名古屋、3日ほど後が大阪そして神戸と、4つの都市が次ぎ次ぎ大規模な爆撃を受けた。
名古屋の近郊にいた祖母と叔母一家が、早く疎開して来いと、大八車で家財を運んでくれた。それから間もなくの5月14日、名古屋城と一緒にやえの家は焼けた。
米軍は、サイパン、テニアンに集積していた焼痍弾を、残酷な無差別爆撃で使い果したという。千数百メートル余りの低空から、大量の焼痍弾をばら撒き、竹と紙で出来ている日本家屋を焼き尽くす作戦は、欧州戦線から転任してきた米国将軍カーチス・ルメイの発案という。
ドイツ、ドレスデンの爆撃、日本への原爆投下の発案で有名な人物である。
自分の家族が生きるに必死の時代に、叔母たちはよく受け入れてくれた。そのこころを想うと、物が有り余るほど豊かで、便利な世の中になったが、みんな自分の生活に精一杯の、最近の世相を思い、やえは考えてしまう。
戦後60年が過ぎ、やえの祖母、叔母夫婦、父母たちはみんな逝った。60年間、平和だったこと。戦争で死者を出さず、殺さずに来た。これこそが大事なことではないか。
高圧鉄塔の下の畑は電気の匂いがする。草や土の匂いがする。そして、ふかしたさつま芋の匂いが漂う。それは慈愛に満ちた、情が沁み込む場所である。
〔資料1〕 義姉からの手紙
逃げた、逃げた、必死で逃げたあの頃
まだ幼かった弟たちへ、忘れられない話を2つ書いておきます。
その1 機銃掃射
名古屋市の中村区に引っ越したころから、空襲は激しさを増した。
空襲警報が発令されると、B29の編隊が押し寄せる。なかでも怖かったのは、低空を飛んできて機関銃でばりばりやる機銃掃射、うそでなく、本当にアメリカ兵の顔まで見えたのですよ。大変な恐怖でした。
みんなも知っている豊臣秀吉が祭ってある中村公園の大鳥居ね、あの参道入り口付近に爆弾が落とされた。
直径10メートルほどの穴があいたのよ。恐ろしかった。
その2 焼夷弾の炸裂
空襲警報が発令されて、みんな逃げるのだけれど、アメリカ側は照明弾というのを落とすの。すると、夜なのに、あたりは昼間同然の明るさになり大勢の人々が逃げ惑うのが、手にとるように分かるの。
わたしは、親とも離れ離れになってしまったので、とっさに一番下の弟をおんぶして逃げたわ。
当時2〜3歳だったわね。どっちへ逃げたら安全か分からないまま、あちこち逃げたわ。
気がつくと、いまいた所に焼夷弾が落ち、炸裂したのよ。無我夢中で走ったからよかった。
危ないところで命拾いしました。
国民学校6年だった私は、貴方たちより4〜5歳上だったので、恐怖の空襲体験の記憶も鮮明で、その後で貴方たちと同じように、岐阜県へ集団疎開したのです。
首相が靖国参拝とかいって近隣諸国が反発しているけど、戦争なんて絶対いや。みんな、戦争の恐ろしさを忘れてはいけないと思うわ。
〔資料2〕 義兄からのメール
「高圧鉄柱の下にて」の戦時中の苦労話は身につまされる思いです。
実体験には迫力がありますね。
私の戦争の匂いの記憶は、焼夷弾の緑色の油のしみこんだ布の、鼻にツーンとする匂いです。
また、匂いガラスといっていた飛行機の風防の、破片の匂いです。こすると甘い匂いがしたものです。
念のためグーグルで検索したら、焼夷弾についていたのは、ここに書かれてある細長い麻布でした。また、匂いガラスは、やはり零戦やアメリカの戦闘機の風防だったようで、私の記憶も間違っていないようです。集束焼夷弾とはどんな物か知らない人もおられると思いますので説明します。
グーグル検索の文
小さな焼夷弾がカプセルに沢山入っていて、投下されると数秒後にカプセルが開き、小さな焼夷弾が蜘蛛の子のように散りぢりに飛び出すのです。飛び出した焼夷弾には爆発用の信管があり、中にはナパームというゼリー状の油が入っています。また、空中で互いにぶつかり合って爆発しないようにバランスをとる細長い麻布が付いていたそうです。ちょうど凧の足のようなものです。
日東樹脂工業はアクリルメーカーである。戦後間もなくの1947年創業。当初は原料が手に入らず、零戦の風防ガラスの再生なども手掛けたという。戦争を経験している人なら知っている、あの悲しくも懐かしい「匂いガラス」である。
終戦時、私は赤ん坊だったが、幼少期を函館で育ったため、撃墜された戦闘機のものと思われる匂いガラスを拾って、宝物のように隠し持っていた記憶がある。あれはてっきりガラスだと思って約半世紀を過ごしてきたが、今回、日東樹脂工業の樋口榮三郎社長の口から「アクリルです。有機ガラスともいいます。当時は不純物が混じっていたため、擦り合せるとあんな匂いがしたんですよ」と教えられた。――といっても樋口社長は戦争など知らぬ世代。父である創業社長から聞いたのだろう。
「匂いガラス」とは戦闘機の風防ガラスで、フレキシブルガラス又は有機ガラスと言いました。今で言うアクリルです。布で擦ると甘い匂いがするそうです。創作ではなく実際に存在する物です(参照:昭和懐画3本立様。
他に松本零士の『戦場まんがシリーズ(ザ・コクピット)』に「アクリルの棺」というのがあります)。
戦闘機は軽量化技術の進んでいたアメリカの戦闘機のようです。戦闘で墜落し、破片となったものを子供達が拾って「ニオイガラス」と呼び、宝物にしていたそうです。ドラマの中でか、後で他の何かで聞いたかわからないのですが、「パイナップルの匂い」と言っていたのを覚えています。以上
戦争の悲惨さ、空しさ
資料の姉の話も本人でなければ書けない苦労話で、私達が語り部となって話し継がねばならない戦争の悲惨さ、空しさであるとつくづく感じます。
5月の涼風が流れる信州、その小高い丘の上に無言館が建っていた。
それはコンクリートの打ちっぱなし、上から見ると十字の形になっていると聞いた。派手さはないがしっかりとした造りで、ヨーロッパの教会を思わせる風情だった。
戦没画学生慰霊美術館『無言館』、完成は1997年というから、この美術館が開館して8年が過ぎた。
静かなたたずまいだったが、入り口を入ると、都会の美術館のように客が多かった。ふと、この人たちはどこでこの信州奥地の『無言館』を知ったのかなと思った。
何年か前、立花隆がNHKテレビでこの美術館を紹介していた。画面から透明な空気が吹き出るように感ずる解説だったことを思い出す。
ときに涙で声を詰まらせながら静かに、情熱的に語る氏のことばに、ぜひ訪れたいと思ったものだ。
『無言館』に行くと言ったら、長男がへぇーという顔で「戦争体験がある者とそうでない者との違いだな」と言った。
今年は、第2次世界大戦が終わって60年、戦争の苦しさと理不尽を語る人は死んでいき、或いは歳を取り、少数になった。
展示されていた絵は、活き活きと人物が迫ってくる傑作が多かった。東京美大を首席で卒業した人を始め、どの絵にもこれから花開く可能性が感じられ、誰もがすぐれた才能を示していた。平和の世ならば・・・と思ったのは私だけではないはずである。
無言館の出口に何冊かの本が並べられていた。その中の一冊『無言館』によれば、この美術館が出来るまでには、戦争体験のある野見山暁冶画伯と、長野県上田市に住む窪島誠一郎氏の、戦没画学生の遺族を尋ねる旅があった。
そして、無言館に絵が掲示された彼らのうち30人を調べたら、ほぼ全員が昭和10年前後に、現在の東京芸術大学へ入学していた。
戦死はルソン島、ニューギニア、ビルマ、マレー半島、中国などであるが、年齢は20代が3分の2で、残りが30代である。その若さが衝撃である。
遺骨ひとつ帰らず、最後の地も不確かな死が哀れである。死亡年月日が敗戦間近かの昭和20年、7月や8月という者も何人かあり余計に切なかった。
彼らの分身とも言える絵が、50年間社会から置き去りにされ、忘れさられようとしていた。
窪島氏は「多くの遺作と接するうち、戦火の記憶がよみがえった。50年もの間、ずっと社会から置き忘れられていたことへの悲しみが胸をひたした」と記す。
野見山氏は「20歳になったら徴兵検査をうけねばならない。召集され北へ向かって汽車は走り続けた。もし、生きて帰れたら絵が描きたいと願った。還ってこなかった友人たちは、どんな思いで辺境の地で息を引き取ったか」と。
美術館を出て、ベンチに腰を下ろした。「もう3回も4回も来ています」土地の人がそう言った。新緑をなでるように吹く信州の風、失いたくない平和とは、こういうものかもしれない。
父を戦争に取られたのは、運が悪かったからなのか?……。
母は5人の子とともに空襲を逃げまわった。子ども3人だけで田舎へ疎開した幼い日。
家を焼かれ、食べる物なく、戦後の辛酸をなめた母。逝ってからすでに40年の月日が流れた。
『無言館』は、こころの奥の寂寥感を呼び覚ました。
(2005年6月17日『朝日・声欄』掲載)
宮地幸子
米軍の空爆や爆発に逃げ惑うイラクの子ども、それをテレビで観ながら「あれはわたしたちだ」と思った。
昭和19年夏、国民学校2年生の私は、連日のように激しくなる米軍空襲のため、兄、姉と私の3人だけ、ひとまず名古屋から母の故郷へ疎開した。
父を戦争に取られ、母と離れて、とるものもとりあえず疎開先へ着いた夕方、西の山々に引きずり込まれるように夕日が沈んだ。あの言いようのない寂しさが私の原点にはある。
その田舎で忘れられない恐怖体験をした。
あの日、昼近く、疎開先の近くにある変電所から流れる小川へ祖母と洗濯に出た。と、いきなり上空から耳をつんざくような轟音と共に、低空飛行してきた米軍機グラマンが、機銃掃射してきた。
私たちの他に人影はなく、恐ろしい機銃掃射は明らかに戸外で動いた私と祖母を狙ったものだった。祖母は恐怖によろめく私の手をとって、近くの桑畑に転がるようにして逃げ隠れた。暫くして敵機が去り、家に帰っても8畳の部屋で、ぐるぐる逃げ廻ったり、まだガクガクするひざを抱いて座り込んだりした。
戦う力もなく、敗色濃厚な日本の上空へ侵入し、飢えと闘って辛うじて生きていた無辜〔むこ〕の民衆を、機銃掃射で驚かし殺すのは、逃げ惑うオモチャの人形を追いかけるように、さぞ面白いゲームだっただろう。
父に赤紙が来たのは、昭和16年、私が5歳のときだった。母と子ども5人が残された。
わが家は名古屋城に近かったので、日曜日の度にお城へ遊びに行った。和服を仕立てるのが得意の母が、お正月用に縫ってくれた着物を着て姉妹で撮った写真、お城の鹿と一緒に写した写真など、みどりいっぱいの名古屋城内での休日、穏やかだった庶民生活は父の出征で一変した。
名古屋を連日襲う米軍B29の空襲だったが、昭和20年1月は3日から、毎日のように爆撃され続けた。月に12日もの爆撃は3月も続いた。
3月10日の東京大空襲で10万人も殺された上に、6月には凄惨な沖縄戦、8月6日と9日の広島、長崎への原爆投下は、世界で初めて人類が体験したもので、30万人が焼け焦げて死ぬ地獄絵の日本だった。
名古屋の私たちは、空襲の度に、乳母車に乗せた妹に毛布を被せて逃げ廻ったが、名古屋城が焼け落ちた日、わが家にも防空壕に焼夷弾が落ち、すべてが焼けて無くなってしまった。
住む家も食べる物もない私たち一家は、母と幼い妹2人も疎開先に逃げ込んだ。母と子ども5人の家族を受け入れてくれた親類がなかつたら、生き続けることはできなかっただろうと思う。
毎日毎日、カボチャかサツマ芋だけの食事、私たちはひもじさから、ちょっとした芋の大小でけんかし、母を困らせた。
あれから半世紀以上が過ぎ、父、母も、疎開先で助けてくれた親類や祖母も、すべて鬼籍の人になった。戦争は憎んでも、憎みきれない。
近頃、あんな酷い戦争を知らない人たちが過半数になり、平気でいつか来た道へ向かわせようとしているとひしひし感じる。
憲法で「紛争の解決として武力を用いない」という条項があってさえ、「人道支援」の名でごまかし、重装備でイラクへ自衛隊を派兵してしまった政府に、恐怖を抱く。
戦争体験者として、また、赤紙1枚で夫を戦争に取られ、苦労の連続のまま死んだ母をみて育った者として、武力や戦争では何も解決しないことを、しっかり確認し直したい。ドイツのワイツゼッガーが言ったように「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる」。
米英両国が、国連を無視して戦争をしかけた「イラクに大量の破壊兵器あり」が、いい加減の情報だったこと。また「ファルージャ虐待」が世界中の非難を浴びる中、専守防衛だった日本の自衛隊が、イラク国民を救うより、米国追従を続ける現状は許せない。
かわいい子や孫を戦争にやるような世の中に絶対にしてはならない。これが「自衛隊イラク派兵は違憲」としての裁判の原告になった者の決意である。
第2回口頭弁論〔2004年9月3日〕に提出
原告団HP『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』9月3日第2回口頭弁論、第3次原告募集中
さいばん傍聴記「自衛隊のイラク派兵差し止め訴訟」
「自衛隊は、多国籍軍にも参加する」
首相が憲法や国会、国民を無視して、孤立するアメリカに口約束して、サミットから帰国した。
折りも折り、6月18日、市民団体が「自衛隊のイラク派兵は憲法違反」と訴えた裁判の第1回口頭弁論が開かれたので、傍聴のため、初めてレンガづくりの裁判所建物に入った。
現役のころも、市役所から名城付近の官庁街を歩くと、大空を覆うケヤキなど、大木の並木道が続き心和ませてくれたが、10年近く経って木々は更に太く高く成長しており、みどりが滴り落ちる感じだった。
戦争はイヤだそう思う人はたくさんいる。でも、何をしたらいいのかわからないまま、日本の政府は多くの反対を押し切って、自衛隊をイラクへ派兵してしまった。
その日、傍聴希望者が250人を超えたので、法廷に入りきれず、傍聴は前半組と後半組に別れた。平日だったせいか、傍聴者の大半は私と同じような現役引退組と見た。私は原告のひとりとして、2363人の原告を代表する4人が、どんな表現で訴えるか興味があった。
いよいよ入廷、弁護人の顔が見える最前列の、右側の席に着いた。
1番バッターは、訴えを起こした中心メンバーの人、30年前、YWCA難民救済事業活動に参加してきた体験を基に、泥沼化したベトナム戦争が終結するときの歴史的瞬間を語り、「戦地であるイラクへ武装した自衛隊を派兵することは、非暴力で平和を作り出そうとしてきた私の人生を否定すること。一人の人間も殺したくない、加担者になりたくない。これは私の権利だ」と述べた。
続いて、80代の女性が語り出した。
「青春時代は戦争だった。看護婦として働いたが、国家総動員法が施行されると、歌謡曲までが軍国調になった。昭和16年に結婚したものの長女を出産した翌年、赤紙1枚で夫は召集され庶民生活は根本から覆された。派兵をやめてとお願いしているのではない、武器をもって平和をいうのでなく、自分の大切だと思うものがあるように相手にも大切なものがあると想像する力をもちたい」と陳述した。年齢を感じさせないしっかりした口調だった。
大学生の女性は「去年2月から、イラク攻撃が始まる直前に写した、笑ったイラクの子どもの写真を、電車に乗るときも学校へ行くときも掲げています」と話し始めた。
「自分と同じように笑う人たちの上に爆弾が落ちるのがいやで、なぜこんなことが行われるのか、攻撃を止めさせたい」そういう思いで掲げていると言う。
「日本でもイラクでも、どうしていきたいか、生活を選んだり創ったりできる権利がそこに住む人にあります。この裁判を見つめ続けたい」。ときには涙声にも聞こえる真剣な10代の陳述だった。
最後に席に立ったのは、アメリカの銀行で働いた経験がある、4人の子どもの母親だった。
「この58年間、戦死者を一人も出さず、他国の人を武力で殺していない平和憲法をもつ日本の一員であることに誇りをもってきた。去年3月にアメリカが始めたイラク戦争で、既に1万人以上の民間人が犠牲になっている。4万人という説もあるが、イラク人の死者は正確にわからない。アメリカの死者は数えられ、追悼されるのに。そんな戦争を日本が支持しているのがくやしくてならない。私を強制的に加害者にしないで欲しい」。
劣化ウランによる子どもの健康被害を伝えるワシントンポストやニューヨークタイムズへ意見広告を載せた経験を踏まえ、イラク戦争に触れた意見陳述としては、最も説得力があった。
全体として、率直な感じは、直接イラク戦争に切り込む意見が足りないとの感想を持った。それは恐らく、前半部分の弁護団陳述を聞いていないせいだろうと思う。
陳述は終わった。
「次回は9月3日」と裁判長。被告である国の代理人として、右側に陣取る若い男女4人に訊いた。
「事実認否書面はいつできますか?」
「事実関係の認否は留保します。9月3日の1週間前に文書で回答します」
すると、弁護人席から厳しい意見が飛び出した。
「次回の口頭弁論まで放っておいて、文書でなんて木で鼻をくくったような態度はおやめなさい」。
国の代理人がタジタジとなる場面もあり、裁判長の采配で事実認否の書面を8月10日までに早めて提出することになった。
入れ替えるほどの満員の傍聴者は、いい加減な態度は取らせないぞとばかり見守り、聞き入った。裁判というものは、訴えた原告の熱意や行動の量に左右されると聞いたことがあるが、そうかも知れないと思った。
評判の近著『昭和史』の著者半藤一利氏は「いまの日本は満州事件のときとそっくり、底流で唸りを上げ激動をつづけているのに、だれもさしたる関心をはらわない」と新聞に寄稿している。
私が5歳のとき、大戦勃発と同時に赤紙1枚で徴兵された父、空襲を逃げ惑い、家を焼かれ、疎開した先で恐怖の米軍機銃掃射を受けた子ども時代だった。
苦労つづきで死んだ母の人生をあらためて思う。
「可愛い息子や孫たちを戦争にやるわけにはいかない。年はとっても、出来ることはあるね。きっと」。
夫や友人と話した、そのひとつがこの訴訟の原告になることであった。
2004年6月24日
原告団HP『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』6月18日第1回口頭弁論、第3次原告募集中
「異国の丘」が心に強く響く
小学6年の時、学芸会で当時大流行した「異国の丘」を踊った。1945年(昭和20年)の敗戦から3年が過ぎていたが、戦後の民主主義教育に熱心な担任の先生の企画だった。子供ながらに旋律や歌詞から、シベリヤに抑留された人々の苦労が分かったような気がしたものだ。
あれから半世紀以上たった今年、思いがけず劇団四季の名古屋公演、ミュージカル「異国の丘」を見る機会があった。会場は平日というのに超満員で、過半数が若い人だった。
悲恋と、シベリヤ抑留という歴史的事件を軸に、人間愛を演じて見応えがあった。ダンスと歌唱はよく訓練され、とくに低音の男性合唱に涙がにじんだ。
それは、抑留経験者である吉田正氏(故人、作曲家)が、絶望と隣り合わせの日々に口ずさんだという曲の良さと、企画、台本の浅利慶太氏の「1銭5厘の赤紙で使い捨てられた兵士たちの視点で、歴史的事件を語り継ぎたい」という意欲が心に強く響いたのだと思う。
このミュージカルは、当たり前に思っている自由とか民主主義が、どんなに貴重なものであるかを私に語りかけているかのように思えた。
(朝日新聞 2002年4月11日 『声』欄掲載)
付記 その1
シベリヤ抑留者60万人、死者6万人というのがいままで一般的になっている人数である。ソ連邦崩壊後、公文書館の機密資料に基づいた歴史研究で、その数字に対し、死者9万2千人という収容所別の詳細な調査結果が出版された。
その本は、ウクライナ軍中央博物館長 ヴィクトル・カルポフ著 長勢了冶訳『スターリンの捕虜たち』北海道新聞社 2001年3月刊
付記 その2
シベリヤ抑留者105万人 死者40万人という衝撃的数字で「シベリヤ抑留史は大きく書き換えられねばならないでしょう」とミュージカル『異国の丘』のパンフレットに、石井秀夫氏(産経新聞)が紹介している。
その本は『プリンス近衛殺人事件』新潮社 2001年末刊である。
著者は、ウズべキスタン国会議員、タシケント市長などを歴任した V・A・アルハンゲリスキー 滝沢一郎訳
以上
息子と娘が親になった。私たち夫婦のように、共働きで保育園通いしながら子育てをしている。夫婦協力し合ってがんばっているが、ときには、風邪だとか、研修で帰りが遅くなるという電話が入ると、応援に出かける。第一線を退いたいま、文字通り「後方支援」だ。
米国のテロ事件と、アフガニスタン空爆。多くの難民と、難民にもなれないで空爆におののく貧しい人々。子どものころ、父が出征し、母子6人はB29爆撃機の空襲を逃げ廻り、家を焼かれ、食べる物がない飢餓の体験をした。私には、戦争の恐怖がよくわかり、心が痛む。
知り合いの政治学者K氏は、インターネットのホームページで、アメリカ大統領への請願署名『報復より正義を』が、シカゴ大学を中心にされているのを紹介していた。報復ムードいっぱいの米国では、勇気が要る行動だと思った。
画面の枠に住所、氏名、メールアドレスを打ち込み、メッセージ欄に自分の思いを打つと、瞬時に署名数が積算され、インターネットの力を実感した。
友人に話したら、「息子が米国へ出張予定」と、とても心配していたので、すぐ自宅のパソコンで署名してくれた。また、最近の世相を精神科の医療現場で見聞きして、「人間の本質は愚かなだけか」と嘆く友人は、忙しいので、私がメールアドレスなどと、彼女の言葉「戦争はイヤ!」を、日本語で打ち込んだ。
この話を小母さん10人ほどが寄った場でしたら、全員が空爆に心を痛めていて、「みんなができることをすればいいんだ」ということになった。
署名の目標は百万人とあったが、もう70万人分を20カ国語に訳して、世界の指導者に送ったと画面に出た。最前線には立てないが、私たちでもできることがある。これも後方支援っていうのかな?
政治学者のホームページには、イマジンの『貪欲も飢餓もなく、人間はみな兄弟・・・』の歌詞と共に、「行動する」という欄に、募金活動や「暴力はもうごめんだ」という署名、ぺシャワール会の活動など、50あまりの行動が一覧表になっていて、精力的な活動がなされていることに、とても励まされた。
あのテロ事件から丁度2カ月の今日、またニューヨークで旅客機墜落事故が起き、260人以上の死者が出たという情報に、米国の人たちの不安な心が思われた。今回はテロではなく事故らしいが、何の関係もない人たちの命を突然奪うテロは、絶対許せない。
同時に、世界最強の軍事力で空爆を続ける人たちは、軍事行動で、テロをなくすことができると本当に考えているのだろうか?
ベトナム戦争のときも、湾岸戦争のときも、米国が戦争をしたのは、国の外ばかり、もしかすると、戦争兵器の実験がしたいのではないかと思ってしまうほどだ。
それというのも、先ごろ『デージー カッター』という新兵器を使うというニュースを新聞で読んだから・・・。日本語にすると『ひな菊刈り機』というが、可憐なひな菊とは似ても似つかぬ残虐兵器で、直径500メートルの範囲を高熱で焼き尽くす。さらに広範囲を衝撃波で破壊し尽くすとか。人間は、どこまで残酷になれるのだろう。
日本は、後方支援とか言いつつ、アメリカの顔色ばかり気にして感情的、短絡的に軍事力行使につながることばかり考えているように思えてならない。医療とか、難民支援とか、外交努力とかいろいろできるのに・・・。
正義の戦争なんかない。そして、犠牲者はいつも普通の庶民だ。
空爆は今日も続いている。
春の薩摩半島を歩いた。知覧は第二次大戦末期の特攻隊基地だったが、イヌマキの街路樹が町中に植えられ、イチョウの新緑がしたたるこの町に、当時の面影はなかった。
『すしを食べた。あと数時間の命、人生20年に悔いはない』『この世にあるもあと数日、なんだか嘘のようだ。死なんてことは一向にピンとこない』『あんまり緑が美しい。真っ青な空、ぽかんと浮かぶ白い雲、今日これから死に行くことすら忘れてしまいそうだ』等々、記念館に掲示されていた遺書を切なく読んだ。「一寸先は死」という時代が哀れである。
昭和20年4月から5月にかけて、片道燃料の飛行機に爆弾をつけ、敵に体当たりしたのは、17歳から22歳の少年兵と学徒兵だった。知覧から飛び立つオンボロ飛行機には、方向指示機などの計器がなかった。
開聞岳は、薩摩半島の最南端に位置し、三方を海にせり出した形のいい円錐形をしている。この山を左に見て、2時間飛べば18万の米軍が占領する沖縄だった。
目印の開聞岳に手を振って、若者たちは死地に散った。知覧の記念館の周りには、死者の数、1035の石灯篭が並んでいた。
翌日は雨も上がったので、予定通り開聞岳に登った。6合目あたりから眼下に大隈半島が広がり、海に突き出た山を楽しんだが、大陸からの黄砂で視界はぼんやりしていた。
「人生20年」と死んでいった若者たち、当時9歳だった私も、彼らの3倍もの命を生き長らえ老年期を迎えた。
すでに耐用年数がきている体は、ある日突然、病に倒れるかもしれない。阪神大震災のような天災に遭って、思いもかけず愛しい肉親を失うかもしれない。
責任から開放され、充実した束の間の自由なひとときは、「一寸先は闇」にもなる。とりあえず、闇の中に光を見つける訓練が必要な気がする。孤独を楽しむ力をつけて、人生最後のステージを前向きに演出したい。
岩ばかりの狭い頂上で、冷たい風に震えながら握り飯を頬張っていたら、小学生4人が、息をはずませて登ってきた。溌剌とした彼らは、一寸先どころか、千尺先も光り輝く時期だろう。この子らには、生きる喜びを味わってほしい。
知覧を歩き、穏やかに聳える開聞岳に登って、私にはたしかな声が聞えた気がした。『命が慈しまれる時代に生きたかった』という。
寺を探した。昭和19年、国民学校3年だった義兄と、1学年下の夫が集団疎開した2つの寺を。
それぞれの連れ合いも参加した寺探しの日、岐阜県海津郡に着き、土地の人に聞いたが、よく分からず、ある寺の静かな境内に入った。人影はなく、立派なイチョウの木と、大きな本堂があった。「門の脇のイチョウの木と、広い本堂の寺、ここだ!」2人の兄弟は、映像のように当時の寺が浮かんだという。
義兄が「この木のぎんなんを食べようとして、みんなかぶれたことがあった」と言った。
さい銭箱の前で4人が手を合わせていたら、本堂の中から声がした。土地の人で、輪番で寺の番をしているという。「名古屋の子が疎開してきたことありましたなあ」のひとことを聞いて夫が言った。「ここにズラッと布団を敷いて寝たんだ。みんな寂しくて、よくねしょんべんをした。先生に見つかると、恥ずかしい思いをして布団を干した」。
近くのもうひとつの寺では、寺の人が「手伝いにきた私はご飯の弁当、子たちは大鍋を水と芋でいっぱいにして、お米は少し。『可哀想に』と、いつも話していました」と言われ、飢えの記憶がよみがえった。
昭和20年1月、兄弟はこの寺で、夜空を赤々と焦がす名古屋大空襲を見た。疎開児童たちの家も、学校もすべて焼けてしまった。
境内に降りると、樹齢百年近い大木に成長したイチョウが、真っ青な冬空に伸びていた。黄色の葉が舞うように散った。
長い間多くの子を見てきて、いまも戦争で苦しむ子たちが世界中にいるのを嘆く、イチョウの涙だったかもしれない。
(2000年1月7日 朝日新聞『ひととき』欄掲載)
秋の陽はつるべ落とし。つるんと陽が沈んだばかりの空が茜色に染まる。頭を垂れ出した稲穂がほんの少し黄金色めいて、微かな風に揺れている。
歩きながら見る風景の、何と美しく穏やかなこと。暮色が深くなる帰り道、ひとつふたつと灯がともりはじめる。どの家もガレージに自家用車が光っている。いまでは車2台並ぶ家も珍しくない。そして夕餉の匂いがする。煮物の匂い、揚げ物らしい香り、庶民が平和に、普通の生活が出来る喜びを感じる。ほんの50年前はそうではなかった。
疎開先の一間で、母子6人が夕餉の時間だった。父は出征中で居ず、その夜もさつま芋だけで、飢えた私たちはほんの少しの芋の大小で言い争った。暗いローソクの灯の食卓だった。暫くして、暗がりの中で母が「幸ちゃんどこ?」と私の手に自分の芋を握らせてくれた。母の切なさが胸にしみる思い出である。1945年1月3日からB29の空襲が始まり、以後矢継ぎ早に爆弾、焼夷弾が落とされ名古屋の街は燃え続けた。国民学校2年生のとき、母の故郷の岩倉に疎開した。
広島、長崎の原爆投下で、30万人の犠牲者を出し戦争は終わった。すでに3月10日の東京大空襲で10万人もの死者が出ており、各都市の空襲で、日本は瀕死状態だったという。死んだのは、みな非戦闘員だったことを考えると、戦争を止めなかった日本の指導者の責任と共に、ためらうことなく原爆投下したアメリカの指導者たちの、人間的モラルや責任は問われないのかと思う。
『その年10月、東京では焼け跡の耐乏生活で、1千万人が生死の境をさまよった』という記録もある〔講談社「昭和2万日の全記録」〕。平和は、このような歴史抜きでは語れない。日本と同じ敗戦国となったドイツでは、歴史教育が徹底しているという。アウシュビッツ強制収容所はなかったと言おうものなら、教師はすぐくびになる。ある州では、10年生は少なくとも強制収容所一カ所を見学しなければならない。
日本では被害者意識はあっても、アジアの人達に犯した残虐行為への加害者責任を深刻に反省しない。だから政府の高官が繰り返す発言に、アジア諸国が警戒するのだと思う。先日、政界から引退したある政治家は、自民党でありながら『満州事変以降の日本の大陸進出は、どんなに言い繕っても侵略である。朝鮮半島の植民地統治の事実も、否定しようがない』とA新聞で述べていた。このように事実をありのまま見る勇気が必要ではないか。ワイツゼッカーは言う。『過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる』と。テレビが、アジアの目覚ましい経済発展を伝えている。まるで日本人と同じ顔、顔、顔。みんな地球人、仲良く暮らしたいと願う。
〔1996年11月 岩倉市制25周年記念公募「それぞれの平和」作文コンクール入賞〕
やけ跡、ヤミ市
敗戦後間もなくのころ、母と闇市に行った。小学校3年だった。家は名古屋城と一緒に焼け、疎開先の間借り暮らしだった。
名古屋駅の前には、薄汚れた身なりの子ども達が、あちこちにかたまっていた。その間を縫うようにして、駅の裏へ急いだ。
舗装されていない道路は、時々砂ぼこりが舞い上がった。義足の傷痍軍人が箱を持って立っていた。道の両側にバラックの店が立ち並び、店ごとに人だかりがしていた。みそ汁を丼で売る店やおでん屋があった。中には、箱を置いて蒸した芋を売る人もいた。人々の身なりは粗末で軍服姿もあった。贅沢な物は何もなかったが、長い戦争がやっと終わり、子ども心にも、人々が生き生きしているように感じた。その時、母が持った風呂敷包みが、ひったくられた。「あっ」と言って母は追いかけたが、犯人は砂ぼこりの雑踏に消えた。
あれから半世紀、現在(いま)豊かになった日本で、亡き母と闇市の砂ぼこりを思う。 戦争を知らない子たちに、戦争や原爆のむごさを、そして加害者としての日本を話せる、 恐らく最後の世代、毎年社会科『戦争』の単元になると心が熱くなり、話さずにいられない私である。
〔1994年8月28日・朝日新聞『声』欄、戦後50年特集掲載〕
2階の廊下にもとどかなかった陽が、いつの間にか廊下を突き抜け、8畳の座敷まで深く差し込むようになった。
にわかに風がたち、黄色く色づいた桜の葉が、1枚また1枚と散り、秋の深まりを思う。落ち葉が舞うこの季節、私の心の中にも何かが空しく舞っている。「沖縄でみんなと同じ年の女の子が、米兵3人に暴行されたニュース知ってる?」学習塾の6年生、社会科の授業で思わず口走ってしまった。手を上げたのは僅かに2人、しかし『暴行』をどう説明したらいいのか。「ガムテープを目や口に貼られて、大人3人にいたずらされた・・・」この愚かで残酷な悲劇を、話すことばが見つからない。
南の島沖縄にも秋が深まり、きつい日差しがやわらかくなっただろうか。紺碧の海に、巨大な朱の塊がストンと落ちる雄大な夕日、あの素晴らしい自然の島に、米軍基地の75%がひしめいている。
こんなひどいことをされても、犯人を逮捕できない日本。いまから百年も昔の1886年、イギリスの商船ノルマントン号が沈没したとき、イギリス人船員はみなボートで逃れて助かり、日本人は全員おぼれ死んだ事件は、船長が軽い罰を受けただけ。イギリス人を日本の法律で裁けない『治外法権』故だった。日米地位協定という『治外法権』、いままでに米軍による「婦女暴行」が5千件に上るという。深い秋はまた実りの秋でもある。この南の小さな島で8万5千人が怒りのこぶしを振り上げた。
「学校と基地の境がフェンスで、毎日轟音と共に飛び立つジェット機、身の不安を感じ続ける私達、もう我慢はいや、戦争はいやです」。女子高校生の訴えは、凛として感動的だった。
土地強制使用の署名を拒否した知事の、あの穏やかな顔。彼の勇気と覚悟に圧倒される。戦後50年の秋深くして、南の島が泣いている。
今朝、今年初の山茶花が1輪咲いた。
私たち夫婦でやっている学習塾では、毎年小学6年の社会「日本の敗戦」の単元になると、ささやかな自分の戦争体験を話す。そしてやや太めで、幸せいっぱいの12歳の塾生たちに、丸木夫妻の「ピカドン」の10枚の絵を見せる。「こわれたビルディングの地下室の夜だった」で始まる栗原貞子の『生ましめんかな』の詩を読む。
子供たちは緊張して、ときには涙ぐみながら真剣に話を聞いてくれる。
「50年前は原爆で地獄だった事がうそのようです」「戦争で死んだみなさんにいまの幸せをあげたい」「15年戦争で、日本は被害者であり加害者でもあった、戦争は絶対いやです」 −こうした子供達の感想文を読みながら、どんよりと暗い冷夏の、8月15日を迎える。
48年前のその日は、太陽がじりじり照りつけていて、静寂そのもので、物音ひとつしなかった。背の高い樫の木に、蝉の声すら聞こえなかった。
私は9歳だった。空襲で家を焼かれ、疎開先の庭で天皇の放送を聞いた。近所にはわが家のラジオしか無かったから、その人達と一緒に聞いた。みんな貧しい生活に疲れ無口だった。
「戦争が終わった」と大人達はつぶやいた。あれが戦争最後の日だったのだ。わが家は「名誉ある」出征軍人の留守家族、恐ろしい空襲を逃げ廻り焼け出された。戦災家族を見捨てなかった親類、戦争で辛酸をなめた母など、あの日いた人達はみな逝き「敗戦の日はるかなり」である。
しかし、半世紀も過ぎた今年「中国人強制連行」の資料が明るみに出て、この日があらためて胸に刻み直された。
4万人を強制的に中国から連行して働かせ、7千人を死亡させた詳細な記録30冊の中、1冊を焼却しなかった人がいたためである。当時の管理日誌に「食物を与えるのでなく、えさをやると考えよ」「風呂などは問題外」と記された箇所は、中国人を家畜扱いした当時の為政者を、映像で生々しく伝えた。
15年戦争の日本の死者は約300万人、近隣諸国のそれは約2千万人という。原爆投下で悲惨な被害を受けた日本は、一方で、近隣諸国へ残酷な被害を与えた加害責任をあいまいにしてきた。そこが同じ敗戦国で、戦争の加害責任を徹底的に反省し、子供たちにも教育するドイツと大きな違いになっている。
無意味で、悲惨な戦争を2度と起こさないために、正確な歴史の事実を次の世代に伝えなければと、切なく思う8月15日である。
何度見ても身が引き締まる写真がある。それは小雨降る明治神宮外苑の「出陣学徒壮行会」の写真である。
1943年10月21日、徴兵を拒否すれば非国民で投獄の時代、制服制帽に銃をかついだその爽やかな顔が哀しい。約13万人が戦場に赴いたという。『自由人で死んでいきたい』『こんな戦争だれが始めた』と死の意味を探した若者達を、映画「きけわだつみの声」は映し出している。
12万人が死んだ沖縄決戦があり、2度も原爆を投下されて、30万人が命を奪われた。
父が「1銭5厘の兵隊」で出征した時、私は5歳、下の妹は1歳だった。 復員までの6年間、母子で空襲を逃げ回り、疎開先で飢餓の日々を送った。だから私は戦争にこだわる。大岡昇平の『野火』の衝撃的な一節「『かわいたボール紙の味しか残っていない。それが肉であったのを知っている』・・・中略、私の質問に対して『猿の肉さ』『猿?』『こないだあっちの森で射た奴を干しといたんだ』」。アジアで略奪や強姦や人肉食いをした日本は、731部隊で捕虜を死の実験材料にした。異常な事実を知れば知るほど衝撃を受ける。
近隣諸国と仲良くしたいと願うが、「足を踏んだ方は忘れても、踏まれた方は忘れない」という現実を無視することは出来ない。私は後日、「死亡診断書偽造」で徴兵逃れした作家山田多嘉市がおり、精神病を装って召集解除を勝ち取った小田切秀雄がいる事を知り、感動した。第二次大戦中、英国で約6万人、米国では約1万5千人が良心的兵役拒否をしたという。これらは人間に対する深い畏敬の念をもたせてくれる。
人間性を根本から奪う戦争はいやだ。そうならない為には何が必要なのだろう? 未来への戦争責任とは? 1人1人が人権感覚をもち、ふつうに暮らせる世の中がいい。そのために過去の歴史を見つめる。
戦争で辛い思いをした者は、そのことにこだわり続ける。
昨秋、突然の子宮出血に驚きガンセンターと近づきになった。検査、精密検査を重ね精神的不安にさいなまれたが、年末なんとか無罪放免になって、がんの恐怖という姿で現れた老いに直面した。
そんな頃、森村誠一の『老いのエチュード』の紹介をある週刊誌で読み、早速本屋に行ったが見つからなかった。店員に聞いたが探し出せない。そこで責任者らしいベテランも加わり3人で徹底的に探してくれたが、結局見つからないので、取り寄せを頼んだ。名古屋の大手書店でのことである。
森村誠一という名の売れた著者だから、店員は簡単に見つかる本と思ったらしいが、その本はすでに店頭には影もない地味な本らしかった。
取り寄せを頼んでから2ヵ月以上過ぎて、やっと手に取ることが出来た。それが予想以上に筋の通った素晴らしいなかみで、おおいに力が沸いて来たのである。
人は誰でも老い、その先に死が待っているのであるが、いつか分からないからずっと生き続けるような錯覚をもつ。
多くの人は、名もなく、地位もなく、お金にもあまり縁がないまま、働き続けて人生の幕を引く。「自分の人生は何だったのか」と考える間もなく。
しかし、65歳以上が21世紀の始めに20%を超えることが確実な高齢社会で、長い人生をどう生きたらいいのか、多くの人が迷い、老後に言い知れぬ不安を抱いている。
著者は『加齢に伴って子どもの巣立ち、退職、配偶者との死別などにあい、孤立し無気力になりやすい。積極的に生きるか、生きる屍になって無気力に生存するか、どちらかである』と宣言する。
さらに『主治医から人間の節目は10年単位と聞いたが、その節目を上手に乗り越えるのが長生きのこつである』と書く。
『骨になるまでの飛翔や冬かもめ−−春樹』
『そんな人生には、老後や余生の入り込む余地はない。ある日気がついたら死んでいた。生の延長線上に死があったという生き方こそ、望むところである』と著者はいう。
命の長い短いではなく、積極的な生き方の延長線上に死がある生き方こそ目標、という結論に、私は意を強くした。
『老いのエチチュード』という本に出会って、私は思わぬ発見をし、収穫を得た。
その第一は、ベストセラーになった『悪魔の飽食』は、ドイツのアウシュビッツの虐殺に比肩されるほど残酷な、日本陸軍731部隊の細菌戦を克明に追求した作品であるが、そのために、絶版の憂き目にあったり、家族までが目に見えぬ相手から理不尽な迫害を受けたりした事実を知ったことである。
夫婦でやっている学習塾で、毎年社会科「戦争」の単元で子どもたちに知らせ、語り続けてきた。加害者としての日本と、被害者としての沖縄や広島、長崎の原爆の話をした。
実際に戦争に参加した兵士や、学徒兵として参戦させられた人に来て貰っての話など、多くの子どもたちが真剣に考え、学んでいる。
授業後の作文には、例外なく戦争への認識や嫌悪を綴る子どもたちであるが、戦争の20世紀も終わろうとする現在、言論や表現の自由に対する、理不尽な迫害という形の戦争が続いていることを思い知らされた。この事を、子どもたちにも語らなければと思った。
20年前、この民主国で夫が某政党から張り込み尾行され、家族全員が精神的圧迫で苦しんだ体験があるから、人ごとに思えない。
森村氏は『私の人生をかけて、自由と民主主義を守り続けることは、私の生きる証しです』という。こんな作家が健在だったことを発見して、限りない勇気を与えられた。
さらに、もう一つの発見とは、森村氏が『悪魔の飽食』の共同作業者という下里正樹氏が、小説『京子浪淘』を出版された事と、京子とは石川啄木の遺児の名である事を初めて知ったこと、それがある政治組織のために、受難の作品になった詳しい経過が分かった事である。
下里氏が『弘前民主文学』に連載していたこの小説の「市川聴取書」のくだりが問題になり、赤旗記者をくびになったことは雑誌などで知っていた。しかし、共産党3・15弾圧事件と石川京子の関係の資料を詳しく調べ、忙しい記者生活の合間に執念で書いた小説に、突然掲載中止と規律違反の嫌疑がかけられ、長期の査問を受けた怒りはどれ程だっただろうと、息苦しくなるほどである。それは、わが家の20年前の苦い体験と重なる。
森村氏の『受難をはね返して立ち上がったこの作品が20世紀終末期から21世紀に向けての架け橋となるであろう』ということばは、どんなに組織が個人を抹殺しようと、真実ならば、必ず不死鳥のように甦るという確信をもったものである。
この本のあとがきで、著者はエッセイについて次のように書いている。
『私はエッセイを読むのも書くのも好きである。エッセイの身上は素材だけであり、うまいものはうまい、不味いものは不味いと、受け取り手に味がはっきり分かる』と。そして『体制(政府)がどんなによい政治を行っていても、言論に携わる者は常に体制を監視する側に回っていて、丁度よいのである』という真摯な生き方が、私の心へ響いて来た。
『老いのエチュード』との出会いは、私の深い喜びである。
『老いのエチュード』 角川春樹事務所 1995年発行
『京子浪淘』 五月書房 1995年発行
戦争末期の昭和19年、国民学校2年生の春だった。担任から空襲が激しくなったから疎開するように指示があった。当時父は出征中だったので、母と話し合ったが友達と別れるのは寂しいからという結論になり、その旨担任に言った。
数日後、担任は「Yの母親はばかだ。友達と別れるのは寂しいから疎開しないといっている」と、学級全体の前で発言した。相当ショックだったが、当時縁故疎開の申し出は名古屋市全体で600人で、集団疎開が急務だったと、後年『愛知の教育史』で知った。
軍国主義教育華やかだったころの女教師は、名前は呼び捨てで、忘れ物や掃除など落ち度があると、スリッパでビンタだったから、これくらいは当然だったかも知れない。
結果的には、兄妹3人だけ田舎へ縁故疎開したが、最近『名古屋市爆撃の効果』という資料を読むと、名古屋の国民学校130校中、70校が空襲で全焼し、私が通ったT校も疎開後程なく全焼していたから、あの時期に名古屋に心を残しながらも、むりむり縁故疎開をしていたから、いま命があるのかも知れない。
空襲の凄まじさは『戦時下の愛知の記録』によると次のようである。昭和20年1月の3、4、8、9、14、15、16、18、20、23、24、25と1月だけで12日間もの間、猛烈なB29の来襲を受けたという。それを読んで慄然とした。
激しくなる一方の空襲で、母と妹たち全員が田舎に逃げて来て間もなく、自宅の防空壕に焼夷弾が落ちて全焼したから、私たち一家は、ひとつ間違えば全滅だった。
さらに田舎へ疎開してから、敗戦間近の昭和20年7月、空襲警報が出ていたが、歩いて数分の小川へ祖母と洗濯に出て、近くの変電所を狙っていたらしいグラマン戦闘機に、機銃掃射を浴びた。祖母と桑畑に隠れて辛うじて助かったが、震えで歯がガチガチ鳴った。
こんな田舎までたった1機か2機で、ゆうゆうと戦闘機が飛んでくるほど、日本は壊滅状態だった。
自分の幼い日を振り返って考えてみると、学校が燃えたときと、自宅の防空壕に焼夷弾が落ちたとき、危うく命を落とすところだった。さらに、疎開先の田舎で1度命を狙われながら髪一重で助かったから、3回も命拾いをしたことになる。これは「間一髪で命を助けてやったから、世のため人のために働け」との、天の意思だったかも知れないと近頃しきりに思うようになった。
8月15日は敗戦記念日であるが、わが家にはもう1つの8月15日がある。
1918年(大正7年)夫の父の兄は、駆逐艦長として、アメリカ領ミンダナオ島から佐世保に帰港中台風に逢い、6昼夜怒濤の中で闘ったが、天候恢復せず、乗務員全員を救命ボートで救った後、マストに身を縛りつけ、種子島沖で艦船と共に殉難した。わずか30歳だった。
その日が奇しくも8月15日なのである。
彼は、日本が日清、日露戦争に勝って軍国路線をひた走る時代、1907年(明治40年)に海軍兵学校を卒業した。前記の殉難当時は新聞は美談として大きく報道し、その勇気を讃えた。
彼には乳児の愛娘S子がいた。若い母が人生をやり直すためという風習で、婚家から実家に帰り、祖父母が引き取った。当時まだ独身だった義父も一緒に、愛情こめて育てた。
女学生に成長したS子は、太平洋戦争で庶民の生活が厳しくなった頃、多感な思春期を迎えたが、父も母もない境遇のせいかぐれ始め、警察から何回も呼び出されるようになった。そして戦争末期のどさくさの時期についに家出した。
1945年8月15日の敗戦から数日後、金融ブローカーをして金持ちになったS子が、「父の命日のお参りをさせて」と位牌のある義父の家を訪れた。誠実な伴侶を見つけ、共に働いたという。以後食料難時代に、いとこになる夫たち兄弟によくしてくれ、慕われた。
1989年、私たち夫婦と同居して5年余りの義父が他界した。一周忌に来たS子に、「お義父さんを良くしてくれてありがとう」とお礼を言われた。長身の美女で、江戸っ子風に気っぷがよく、幅のある人間性に憧れに似たものを感じた。そのS子も1995年8月15日に寂しく逞しい76年の幕を閉じた。
戦争の20世紀、第二次大戦の敗戦8月15日を挟んで、76年の歳月が流れた父娘の命日が、共に8月15日だったことに、人知を超えた宿命を感じるのである。
20世紀も終わりに近いいま、半世紀もの間日本に戦争がない時代が続いた幸せに、心から感謝しつつ、私は毎朝義父とその兄の「青海院孤舟勲光居士」の位牌に花を供え、手を合わせる。
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