大震災
〔3DCG 宮地徹〕
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昼のニュースが「熊本でまた地震です、震度は4」と伝えていた。
あの熊本大地震から2週間、人々が壊れた自宅や避難所で耐えている。精神的にも肉体的にも限界だろう…と思う。
そんな状態の人たちに余震が1000回以上という。住んでいた家も無残に崩壊し、安眠も出来ない避難所で揺れ動く大地、震度3だ震度4だなんて…。これからどうしたらいいのか…。やり切れない、死にたくなるだろうな。新聞、テレビなど観ながら思う。
この島国が、活発な地震活動期に入ったのかと、素人が案じる九州の地震である。
この地方でも、いつ何が起きるか分からない。
避難している人たちは「何が一番欲しいですか?」の問いに「水」と言う。
そして「食べる物、安心して寝る場所」と答える。
人間という生物は、水があれば二週間は生きられる。と言うのは、若い頃内臓全体を活発化させるという「断食治療」が流行り、体験したから。長い人は水だけの3週間という人もいた。
そうなのだ。水、飲む水だけでなく、うがい、手洗いにも不可欠な水なのだ。それから食べる物。そして安心して眠れる場所。一刻も早く避難した人たちにと願うばかりである。
9歳のとき、連日の空襲で名古屋の家を追われ、郊外の祖母の家に疎開した。そして大地震にあった。「竹藪に逃げろ!」の声に近くの竹藪に走り、竹につかまりながら揺れのおさまるのを待った。怖かった。
戦時中は報道や記録が控えられ、詳しいことは何も知らされなかった。後の調査でその地震は1945年の「三河大地震 M6・8」だったらしい。
(死者2300人以上、家屋全半壊25000以上 インターネツト記載)
手持ち時間が少なくなった老人は、やっぱり語り継がねばと思う。
地震の体験も、殺し合いの戦争体験もなく豊かに物があって当然の若い人たちに。
戦争が終わっても、寝る所なく、食べる物なく、何とかカボチャだけとかさつまいもだけの食事にあり付けた。
「がま蛙が絶滅しそう」というテレビを観て、同じ年齢の連れ合いの話を思い出した。
名古屋にまだあった用水などで、がま蛙を捕まえ、足を裂いたり、ヘビやドジョウ、フナを捕らえて、焼いておやつにして食べた。そこまで飢えていた私たちだった。
震災で二週間、お風呂も入っていない。食べ物も不足がちの人たちに、温かな政治が届きますように。
2016・4・29
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3、「熱くてよ、苦しくてよ、ほれこそマスクなんかつけておれなかった」
3・11原発震災 この悲劇
被災地は何も変わっていない
7、悲しみ山ほどの1年が過ぎて 2011年
(東日本大震災)
1、「東北も風吹くよ」 2、ピアノコンクール「上手な子が多いんだナ」
10、地震だ、津波だ、戦争だ! 激震から1週間 2011・3・17
11、「原発」報道 素人でも分かるように・・・・ 2011・4・17
12、「パン一個で我慢する」 2011・5・1
13、「やめてよ! 天皇家ならいいけれど・・・」 東北の旅延期事情 2011・5・28
(阪神淡路大震災)
14、青い記憶の丘−阪神大震災から12年 幸子のホームページに戻る
15、震災の『形見』の童話 次の『女がはたらく』へ行く
東日本大震災が起き、何万という人が肉親を亡くし、家を失った。原発事故の放射能を恐れて、故郷を離れた何十万人という人たちが故郷を失い、苦難と闘っている。
道代は、疎開や仮設暮らしが続いている人たちの苦悩はどれほどだろうといつも思う。
ふつうの生活が、ふつうでなくなったのだもの。
1、イナゴとり
道代が国民学校へ上がる頃から、近くにあった映画館前の空き地でよく遊んだ。相手はとてもまりつきが巧いさっちゃんだった。さっちゃんはよく分からないけれど、体が腰のあたりからねじれていて何か障害があった。それなのに明るく、動きも速かったさっちゃんと遊んでいると楽しかったので、すぐ夕ご飯の時間になってしまった。
名古屋城が近かったので日曜日はいつも兄妹で名古屋城へ遊びに行った。道代の子どもの頃は、賑やかで明るい街中のいい時代だった。
戦争が激しくなり担任の先生に「疎開しなさい」と何度も言われて、みんなぼつぼつ疎開し始めた。父は戦争へ行っていない。母はいろいろ大変だったが母の故郷へ兄姉と道代の子ども3人だけで疎開させた。妹2人はまだ5歳と3歳だから母と名古屋に残った。
道代が疎開したのは国民学校2年になった夏の頃だった。
疎開した地域では、朝学校行くときから様子が違っていた。履物は運動靴からわら草履に変わった。みんな忙しい農家なのに、家の人に手作りして貰ったわら草履を履いていた。学校の授業も2時間目が終わると「イナゴとり」という授業があった。
全校生徒が校庭に並んで、先生の指示した田んぼへ行く。
布袋の入り口に竹の筒をつけた袋を持って、黄色くなり始めた稲田のあぜ道でいなごを探した。細いあぜ道になれない道代は、いなごには全然出合えなかった。それどころか、少し経って相変わらずうろうろしていたら、とうとうやってしまった。
誰かがした便をぐしゃっと踏みつけたのだ。「イヤダ、臭い」とわら草履を草に何度もこすりつけて何とか元の草履になった。やがてイナゴとり終了の合図があり、校庭へ戻った。
みんなはつらつと先生に袋ごとイナゴを渡していた。なかには袋がばんばんになるほどイナゴが一杯の子もいて、先生に褒められていた。道代はそれをしょんぼり眺めていた。「やーい、1匹も取れない ソカイっ子、うんこ踏んだソカイッ子」と元気な男の子に言われ、道代はとてもいや思いをした。
2、ふるさとなんて
家から学校までは子どもの足で歩いておよそ30分位かかった。当時としては珍しい4メートル幅くらいの道を歩く。勿論舗装してない土の道である。
15分くらい歩くと隣の村になる。そこを通り過ぎ、さらに次の村まで15分以上歩く。やっと学校に着く。
登校は姉たちも一緒だったが帰りはばらばらで、同じ学年の女の子は2人だけだった。どうしたわけかその子は声を出さない子だった。
道代はその子がしゃべったところをみたことがない。土地持ちの家の子でちえちゃんと言った。帰りはいつもちえちゃんと2人だから、ことばはなく黙って歩いた。
不思議な子だった。というのは5年生になると、祭りの日に地域の神社で「うらやすの舞」という舞を笛に合わせて踊らねばならない。幅3間長さ4間くらいの拝殿で舞った。
地元の人の指導で踊るのはちえちゃんと2人だけだった。ちえちゃんはちゃんと踊れた。だから余計に日頃言葉が出ないのはなぜなんだろうと不思議だった。
道代は社会人になってから自分の口下手に気付いた。
ちえちゃんと歩いた2年間、黙ってしゃべらなかったからかな、なんて自分の弱点を棚に上げて勝手に考えたりしたこともあった。
5年生になる頃には、もう組の違うちえちゃんと一緒に帰ることもなくなった。あるとき、学校で先生に用事を頼まれ、少しだけ遅くなった。誰も通らない4メートル幅の土の道を、ランドセルを背負って一人で歩いた。
もうすぐ家だなと思って歩いていたら、近くの田んぼで刈り取った稲束を整理してたおじさんがいた。2メートル位の高さに稲わらを積んだ影においでと手招きされた。
道代は何だろうと、あぜ道に下りて行った。おじさんは道代の両肩を抱いて、いつまでも笑っていた。何かわからないけど、道代は「イヤッ」と言ってそのまま道路に戻った。
そして走るように急いで家へ帰った。
そんなこともあって社会人となった道代は、楽しい思い出いっぱいの街の家は空襲で焼けてしまったし、「私には故郷なんてないんだ」と思うようになった。
3、ぜーんぜん気にせんでいいよ
道代は30数年働いて退職した。その間一緒になろうという人ともめぐり合った。
数年前、若い人たちと打ち解けた場でどうしていまの人と結婚したかを言い合ったとき、「職場が同じで」「部活動の中で知り合った」とか「あんたが可愛いって言われたんでしょ」と言い合う人たち、そんな中で道代が「趣味の一致、思想の一致」と言ったら「えっ 思想の一致って?」と驚いた面々、時代が変わったんだ。
粗末な下駄ばきで「折角いい大学出て、いい仕事に就けたのに。職場辞めて共産党の専従?」怒った両親に「いますぐここを出ていけ」と追い出された。そんな話を訊いて心が動いた道代は、幼いときから障害らしい変わったところがある人に関心をもった。少し変わり者だったかも知れない。
理想社会を夢に結婚した2人、子育てしながら働くことの喜びも苦労も味わった。安定した公務員だったから出来たと道代は考えている。口下手で、人間関係が上手とは言えない。よく誤解もされるが、リーダーにもされた。
社会変革の理想にも裏切られた。専従をくびになって、ひとりで裁判闘争もした連れ合いとの人生は、骨身に沁みるいろいろな経験が積めた。
道代は仕事を卒業して、やっと趣味も楽しめる時期になったと喜んだ。住む所も名古屋の安アパートからスタートし、夫が20年間やった学習塾が盛況だったお蔭で、何とか疎開した地方に家を建てた。夫にとって「出ていけ」と、勘当された義父が老いてひとり暮らしになり、引き取って5年半同居出来たことは心休まる事ではないかと思う。
先日、「たまねぎ要らん?」と言って顔見知りの村の人が、畑から採れ立ての野菜をくれた。「こんなにいいんですか?」と言ったら「ぜーんぜん気にせんでいいよ」。
その自然なやさしい口調に、道代は胸打たれた。
人はひとりでは生きられない。みんなのお蔭なのだ。道代は人さまにこんなやさしいことばをかけたことがあるか?ことばでしか人との関係はつくれない。
暑い陽ざしの中、ランドセルを背負った小学生が学校から帰る。「こんにちは」と言ってくれる。「お帰りなさい」いいなぁ、若い命は。
季節はやっと秋、風が微妙に知らせてくれる。青かった田の稲も、頭を下げて黄色く変わり始めた。そうなんだ。ここはふるさとなのだ。
すっくと背伸びしたケヤキ並木の美しい名古屋の繁華街、栄、高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅前、ゆったりした名古屋城周辺の官庁街など、現役の頃から歩き慣れた庭のようなもの、それも幸せ。
「日本中が私のふるさと」にしなければ。
道代は、祖母や母がいつも言っていた「お蔭さまで」がやっと分かったように思えた。
2012・9・29
「熱くてよ、苦しくてよ、ほれこそマスクなんかつけておれなかった」
3・11原発震災 この悲劇
見出しのことばは、原発内部で働き29歳の若さで慢性骨髄性白血病で死んだSさんのことばである。
「1日に1500人以上の人海戦術が行われている原発内部、被曝者が日常的に生み出されている。・・・・・・原発→元請け〔東芝、三菱重工、日立など〕→下請け〔ここから未組織労働者〕→孫請け→ひ孫請け→親方〔人出し業、暴力団ふくむ〕→日雇い労働者〔農漁民、被差別部落民、ホームレス等〕この多重構造が複雑に絡み合い、賃金のピンハネなど二重の差別構造を形成している」
これは40年近く、被曝労働者を追い続ける報道写真家H氏が『市民の意見』誌に載せた特別寄稿文である。これだけでもドキッとする現実である。さらに具体的な事実の数々に国策としての原発の、隠された差別悲劇に戦慄を覚えた。
「被差別部落のMさんは、毛髪は抜け、歯もポロポロと欠け、働くことも出来なくなっていた。敦賀原発と下請け会社は、大阪の『岩佐訴訟』のように訴えられてはと、生活苦にあえいでいた奥さんを抱きこみ、600万円で裁判をさせなかった。
また、中部電力浜岡原発の下請け会社で働いていたSさんは、やはり放射線の病気で死んだが、放射線管理手帳の被曝線量が12箇所も改ざんされていた。その手帳が両親の手に渡ったのは1年後だった。弁護士たちが取り戻さなければ会社は握りつぶす所であった。
『原発内労働者は、まあ、奴隷のようなものだ。福島原発の格納容器内は35度、熱くて苦しかった』と言って、年間70ミリシーベルトという、途方もない被曝で『多発性骨髄腫』の病名で労災認定を勝ち取った人もいる」
筆者は書く。「40年間も社会の表面に出ることもなく、苦渋の思いで来ただけに、下請け労働者の放射線被曝に3・11東日本大震災がやっと火をつけたという気持ちが湧き上がって来た」と。
内外マスメディアからの取材申し出が殺到し、世界50数社にのぼったという。日本人の私たちは、まずこの現状を知らねばならないと思った。
大震災の被災地は、戦後の廃墟と混乱と全く同じ光景で、1年経っても変わらないと言われる。原発放射能被害はさらに深刻なのに、原発再稼動を前提としたとしか思えない政府の態度と方針である。
例えば、福島原発の処理出来ない汚染水が、1号機で14400トン・2号機で22500トン・3号機で24000トン・4号機で18700トン〔中日新聞2012・4・8〕で、解決のめどは何もない。
フィンランドでは地下500メートルにオンカロ〔放射性廃棄物が隠された場所〕を作りはじめる。百年間埋設処分に利用される予定で、ドキュメンタリー映画『十万年後の安全』は議論を重ねていた。安全なレベルまで放射能が下がるには10万年かかるとか。
日本はどうか。「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」と世界から注目されながら、ヨルダン、ベトナムへの原発輸出で利益を得ようとしている。
研究者たちが言うように「自然エネルギーの買い取りや、発送電の分離などの改革をして太陽光、風力、地熱など発電技術を進めるべき」である。
疑問をもつ人は多くても、国民の意志として反映できなければ日本沈没である。
2012・4・10
被災地は何も変わっていない
「1ヶ月被災地で働いて、率直な感想は?」「実際に現地へ行ってみないと深刻さがわからない。現地は殆ど何も変わっていない。そのことかな」
これは、名古屋市の職員として1ヶ月間陸前高田市へ行った娘婿の報告会を兼ねた誕生会での会話である。本当は2月に娘の誕生日、3月に娘の婿と私の連れ合いも誕生日だったが、東北行きもあり忙しくて集まれなかった。
東日本大震災から1年、早朝からどのテレビ局も特別番組を続ける。浜辺で死んだ人に花を供える人、行方不明のままの肉親に海辺で黙祷する人々が映る。
瓦礫の山のままの町、仮設住宅の人たちを、あるいは立ち直ろうとする人たちの映像を見ながら何度も涙が滲む。友人もそう言っていた。病後なのに天皇がはっきりした口調で挨拶をされた。国中が、この悲しみの日をあらためて考えた1日だった。
恒例の誕生祝いが、やっと出来た。みんなでこうして集まれること、寝る所があり、職業があり、食べることができる。これは幸せで、当たり前ではないのだ。
「氷点下で雪が舞う被災地陸前高田では、名古屋市からの長期派遣職員たち数十人が、毎日民宿の宿から出勤した。1時間かかる」「寒いのに小さなお風呂へ順番に入る。脱衣から出るまで20分厳守という制約で」「でも風呂に入れるだけでも恵まれているからね」と言い合う。
被災地の人たちは大勢の肉親を瞬時に亡くし、めどが立たない暮らしなのに、ありがとうの心で接してくれ、とても親切だったと言う。
娘婿の職場は環境局で、陸前高田市の生活ゴミ収集業務を担当した。「ゴミ収集の会社と車は高台にあったので無事だった。生活ゴミの収集はOKだったが、瓦礫は国の責任分野で、震災当時のまま殆ど処分出来ていない」という。名古屋に戻ったら、本来の仕事が溜まっていて忙しさに負われているとも言った。
名古屋市が遠い町のまるごと支援を決めたのは、5000人以上が犠牲になった伊勢湾台風のとき全国から助けられた。その恩返しだが、既に半世紀もの月日が過ぎた。名古屋市は、この1年間で延べ144人を派遣し、今も23人が復興の手助けをしている。
出発前に「放射能あるの?」と心配して訊いたのは小学5年の孫だった。毎日母の帰りが勤務により遅いので、洗濯物を取り入れて家族別にたたんだり、食事の後片付けも積極的にやってくれた。
弟の小学2年生はごみ出しとお風呂掃除、それをお父さんが帰ってからも続けている。「プラスチックのごみも、ぺたぺたにくっつくごみも一緒にごみ箱に捨てていたのに、自分でごみ出しするようになってから、区別してるよ」。えらいなー。
被災地へ行った本人は大変だった。けれど、忙しい共働きの妻のがんばりがなかったら、この応援もできなかった。被災地支援は行く本人だけでなく、一家揃っての体制が必要である。
1年前「現地を見ないと」と、東北行きを計画した私たち夫婦に「やめてよ、ボランティァならいい、天皇家ならいいよ」と娘に反対された。夏に夫が熱中症で倒れ、旅は延期になった。
「同じ名古屋市の職員として、彼が行かなかったら私が行こうと思っていた」娘のそのひとことに救われた。「被災地支援は子どもたちにとって、とてもいい体験だった」とも言った。
3・11大震災1周年の日はマスコミも取り上げたが、震災にあった人たちのことが忘れ去られ、風化しつつあると言われていた。瓦礫さえ撤去がなかなか難しい。世界的不況の中で、庶民は生きるに必死の世の中。放射能汚染で農業も魚業も成り立たず、子どもたちは沢山遠い地に疎開している。まるで全国へ「そかいせよ」「疎開せよ」と強制された戦争中の私の子ども時代と同じだ。なのに、脱原発という主張さえ通らない。
福島は世界で、原爆の「ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ」と言われる。
「身の丈にあう幸せを」と題して津島祐子は「戦前からの権力者たちは戦争責任をあいまいにしたまま、技術立国だの経済成長だのと叫び、原発を作り続けた。子どもたちの未来をいけにえにして、都市の電力供給のために地方が放射能のリスクを負うという形を変えた植民地主義だ」とはっきり言う。
さらに、福島県に住んで住職を務める作家玄侑宗久氏は、どんどん風化が始まっていると思い切った発言をしている。
「この国の報道では、無数の遺体を遠景としても映さなかった。泣き顔も全く映していない。せめて資料としては、ありのままの現実を撮っておくべきではなかったか」
「真冬の仮設住宅での暮らしを想像していただくにも基礎データが足りない。無数の遺体の遠景と、泣き顔のアップが必要なのだ」。
2012年3月15日
宮地幸子コメント
阪神淡路大震災から17年の月日が過ぎ去った。
あの直下型地震で瞬時に娘夫婦を亡くした友。近くのマンションに住んでいる知人が、ガレキの中からの泣き声を聞いたと救助を頼んだ。救い出された孫、その生々しい記録を綴った作品である。
昨年の震災に心動かされ、年末発行のある同人誌に発表した文である。
その友が阪神淡路大震災を思い返して綴る、その苦しかったであろう作業を思いながら、このホームページに載せる許しを得たものである。
若山朝子 孫娘の救出
その時、娘夫婦と二歳一か月になった孫娘のYは、神戸市東灘区に住んでいた。地震が起きたのは、まだ娘婿が出勤する前だ。婿が二人を屋外へ脱出させてくれたに違いない。そういう望みはあった。婿はエリートコースを歩んだが、そのような経歴の人には珍しく、スポーツで鍛え上げていたからだ。
しかし、望みはむなしく、娘夫婦は死んだ。桜の無垢材で出来た書机の下にいた孫だけが助かった。二歳の孫は何も分からずただ泣いていた。神戸の地震は直下型であったので、家の下敷きになって絶命するまでに二分もかからなかったといわれている。婿は孫をその机の下に運び込んだ後に力尽きたのだろう。
孫を倒壊した家屋の中から六時間後に救い出してもらえたのは、次のようないきさつがあった。
まだYの誕生前だったが、私が泊りがけで神戸へ行った日に、娘と近くのお店へ買い物に出かけた。その折に淡いブルーの妊婦服を着た方に出会った。娘とはほぼ同じ位の年齢に思われた。「感じのよさそうな人だねえ」と言ったら、すぐ近くのマンションに住んでいる人だと言う。内気な娘は自分からは話しかけられなかったのだ。それから何か月もたった或る日、娘から電話があり、この前に店で出会った人(Sさん)も女児Kちゃんを出産し、子供を公園に連れて行ったときに友達になったと、嬉しそうに話した。その後お互いの家を訪ねあって、二人の子供も公園ばかりではなく家の中でも遊ぶようになったそうだ。孫もKちゃんと遊ぶのが好きだったから、Kちゃんとの交流は楽しかったのだと思われる。
娘は結婚五ケ月後に応募した童話『源吉じいさんとキッネ』で読売新聞社賞をいただいた。それに自信を得た娘は、亡くなるまでの三年三か月の問に、中編、長編も含めて四十数編の童話を書き残した。本人が地震の前年の十一月に応募していた『ミドリの森のビビとベソ』は、震災後に毎日新人賞を受賞していることが分かった。これはプロ入りの登竜門と言われる賞であるが、審査員の誰もがこの童話の作者が震災で亡くなっているという事実を知らなかった。
育児と童話を書くということとが重なり、さぞや多忙であったろうと思われるのに、布おむつを使い、離乳食もインスタント製品ではなく自分で作って食べさせていた。看護士さんをしておられたSさんの影響もあったのではなかろうか。
一月十七日の地震の直後、SさんはKちゃんを抱いて、娘一家の住む現場に来られた。生存者を探していた自警団が娘夫婦の家の前を通り過ぎようとしたので、Sさんは、「ご主人の車があります。ご主人はこの中におられます。奥さんもお子さんもおられます」 と、必死に訴えてくださった。しかし、自警団の人は、中から声がし、生存が確認できなければ救助作業はできないと言って、その場を通り過ぎていかれた。緊急時なのでまず生存者の救出が優先したのであった。
しかし、Sさんはその場を去りがたく、そのままそこに残っておられた。その時、中から孫の泣く声がした。生きていたのだ。Sさんのお蔭で孫はその日の正午頃に助け出された。後から聞いたのだが、「左手の小指が少し腫れているのみで、全身を調べてみましたが、どこにも異常はありませんでした」 とおっしゃる元看護士さんの言葉は心強かった。Sさんは、婿の弟さんに、避難先の実家の住所と電話番号のメモを渡し、孫とお子さんのKちゃんを連れて、立ち去られたとのことであった。
一方、十七日の朝、息子は横浜にいた。私どもとの打ち合わせで、息子は財布だけを持って横浜を出発した。私どもは救出して連れ帰るための毛布、衣類、食糧、医薬品を車に積み込んで、名古屋から出発した。息子は新横浜から新幹線に乗車して新大阪で下車した後、阪急電車しか動いていなかったので、とりあえずそれに乗り、西宮まで来て、一歩も休まず姉夫婦の家に向けて走りに走った。現場に着いた時には、姉夫婦の遺体を掘り出すところであった。
一方、急場の品物を車に積んだ私どもは名阪国道を経由して大阪市内に入ったが、もうそのあたりから渋滞が始まっていた。その夜は運転を交替しながら仮眠をとりながら走った。大阪市内を抜けるあたりから渋滞がいっそう激しくなり、尼崎あたりでは歩いた方が早いような状況であったので、痺れを切らし甲子園口のガソリンスタンドに車を置かせてもらい、ショッピング・カートに入るだけのものを詰め込んで歩き出した。
そのころの情報では、娘夫婦は亡くなったが、不確かながら、孫は生きているらしいことを知った。孫は生きている。どんなにか心細いことだろう。早く会いたい。会って抱きしめてやりたい。荷物をいっぱい入れたカートを引っ張りながら小走りに歩いた。ところが、夫が「しんどい、休みたい、お腹がすいた」などと言い出した。この期に及んで足を止めようとするのが、私には理解できなかった。
あの時に夫が休んでくれなかったら、私は心臓発作を起こして息絶えていただろう。私は二十八歳のとき、甲状腺機能亢進症と診断されたが、この病気の特徴である眼球の腫れが見られず、診断が遅れているうちに重症化した。当時、一歳一か月違いの年子を抱えており、息子は生まれて間がなかった。手術は体の負担が大きく、術後すぐの育児は不可能という理由で、アイソトープ治療が行われた。放射能の影響をできるだけ減らすために、少な目のアイソトープが授与された。したがって、その後も症状は残っていて、常時心臓に負担がかかり、不整脈、心肥大の症状を抱えていた。
にもかかわらず、どこまでもどこまでも早足で歩き続けたかった。休みたがる夫が傍にいたお蔭であのとき死ななかったのだと思う。娘夫婦の倒壊した家に着いたのは、名古屋を出発して二十一時間後のことであった。
あくる日の十九日、孫を迎えに息子と車で、六甲山の麓にある住宅地住吉台に着いたのは夕暮れだった。崩れた道路に阻まれ、何度も迂回したりもしたが、時にはかなりの揺れながらも突破して前進した。Sさんのお実家に着き、玄関のドアを開けて「ごめん下さい」と言うと、孫が出てきて「おばあちゃん」と走り寄ってきた。
地震の三日前に、私は神戸の娘夫婦の家に一泊した。私が本を読めるのは、乗り物の待ち時間や車内だったので、いつもだったら本を読んでいて車窓から外に目をやることはない。しかし娘の家から帰る時、運命に突き動かされるように、動き出した阪神電車内から外を見つめた。窓から見えたのは娘が孫を膝にのせ、ふたりでリズムを取りながら、テレビの子ども番組を見ているらしい姿が映った。それが私の見た娘の最後の姿だった。
あの時、母の膝の上で楽しげな孫と、Sさんのお実家の玄関に立つ孫には、何の変わりもなかった。Kちゃんと遊びに夢中だったところへ私の声がしたので、走り寄ってきたのだ。そんな感じだったので、私は心底から安堵し、SさんやSさんのお実家の方々に感謝の念でいっぱいだった。
私が神戸に泊まったあの時、娘は孫に厚着させて寝かせつけていた。文句言いたげな私に「布団からはみ出してもいいようにたくさん着せて寝かせるの。そうでもしないと布団をはねのけてどこへでも転がって眠るので、布団を掛けたり、寝床へ戻そうとしたら、こちらが寝不足になる」と娘は言った。
そんな偶然から、孫は救出されるまでの六時間を寒さで震えはしなかったろう。だが、呼べども父と母の返事はなく、空腹だったろうし、真っ暗でもあった。そんな中で救出され、Sさんのお実家で過ごさせて貰えた二日間は、六時間の恐怖が生涯トラウマにならずにすんだのではないかと思う。
生前娘は「Yはねえ、お母さんと、この人は身内だと分かるらしいよ」と言っていた。この人というのは息子のことである。車を運転している息子に人見知りはしないものの興味があるらしく、しっかり両腕で前のシートにつかまって座席の下に立ち、何かと息子に話し掛けていた。そのうちに黙り込み「おかあしゃんは」と言った。私は孫を抱きしめ、頑をなでて「おばあちゃんはねえ、Yちゃんがだいすきよ」と頬ずりをした。孫は重ねて「おかあしゃんは」とは言わず、私の膝の上で眠った。
3・11大災害からはやくも1年が過ぎようとしている。
仕事が無い、家が無い。瓦礫の処理は5%程度しか進まずとか。とりわけ、原発関連の放射能不安は、人体へ及ぼす影響、海、山、土地への汚染等々、廃虚となったチェルノブイリが頭をよぎる。
地殻変動で、首都圏の直下型地震はM7がいつ起きてもおかしくないとの情報。
或いは20年以上前から起きると言われ続けた東海地震、それに東南海、南海と3連動地震の起きる確立が高い。などなど、地震国日本に起き得る災害への不安いっぱいである。
でも、不安ばかりでは生きられない。
日本は変わらねばならないと言われる。
豊かさ便利さに慣れ、電力が要るなら原発でもと、50を超える原子力発電所に国も地方も寄りかかって来た。この大災害で長年考えもしなかった捨て場のない放射能のゴミ、その恐ろしさを知った日本である。
東日本の震災被災地300日間の苦闘を『再び、立ち上がる!』で綴り続けた河北新報社。その東日本大震災の記録が、2011年度新聞協会賞と59回菊池寛賞をダブル受賞した。
「太平洋沿岸から街が消えた。この世の地獄としかいいようがないむごたらしい光景に言葉を失う」「3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。津波でずぶぬれになった人、建物の屋上で救助を待つ人……。暖が取れない状況の下で、冷たい雪は多くの人の目に『非情の雪』と映った。……皆、寒さでガタガタと震えていた。唇は紫色で顔面は蒼白。外は雪。低体温症の症状だった」
河北新報社『再び、立ち上がる!』より
私たちは何をすればいいか?何ができるか?
悲しみ山ほどの1年が過ぎて 2011年
3月11日の災害は、瞬時に多くの命を奪い、人々の日常から家も仕事も奪った。
子どもの頃、戦争で家を焼かれ食べる物も住む所もなくなった。あの焼け野が原と同じ光景に胸つかれる思いだった。
震災後9ヶ月経ったが死者は15000人を超え、行方不明者3500余人、仕事を失って失業雇用保険給付者は6万6000人を超える。
不安が山ほどある。赤ちゃんのミルクにセシュウム検出、子どもが外遊びが出来ない地域がある。お米に、山々の木に、海に放射能汚染の不安が。原発事故で放射能処理のめどさえ立たないこの国は、大きく変わらねばならないのではないか。
世界で唯一の被爆国でありながら原子力発電に頼り過ぎた国、原爆を投下した米国は、胸撫で下ろしてみていたという。
今年、親しい友が2人の肉親を失った。仙台の地震と仕事の過労で春に娘婿を亡くした。さらに息子が長期間の残業続きでうつ病になり、秋に自死した。泣き叫んだと云う友。
その友は「電話したのは貴女が初めて」と言った。受話器を持つ手がふるえ、声が出なかった。「それでも生きねばならない」と友は言う。
わが家も夫が、夏、冷房なしの部屋で、長時間パソコンのHPづくり作業をし、熱中症になり意識を失った。1カ月余りの入院で幸いにも持ち直した。
1年を振り返って思う。人の幸せって何だろう。喜びも悲しみも命あってのこと。悲観だけに陥らず、小さな喜びを見つけ創り出し、人と支え合うことなのだろうなと。
2011年12月16日 毎日新聞2011年12月31日掲載
1、「東北も風吹くよ」
名古屋市の職員として、娘婿が岩手県陸前高田市へ応援に行っている。
出発は1月4日だったので、京都の息子一家4人も来て短時間の壮行会をやった。
「1月の東北は寒いから、風邪ひかないようにね」と、みんなが心配していた。すると、小学2年生の孫がパッと言った。「東北も風吹くよ」。オシャマのひと言に、一同大笑いした。
夫がいなくなって10日が過ぎた娘に電話した。共働きなので、毎日が戦争だろうと気になっていた。「何とかやってる?」
「あのネ、子どもたちがよく手伝ってくれるのよ。弟はごみ出しとお風呂掃除をしてくれるし、5年生の姉ちゃんは洗濯物の取り入れや、台所仕事、後片づけとかね。じゃ、あなたは何するのって友だちに言われてしまった」。それを聞いて胸なで下ろした。
「お父さんが、大変な東北の人たちの応援に行っている」と、子どもたち頑張っているらしい。
「いままでのように残業出来ないでしょ、だから早朝残業で、朝6時半ころ出勤するときもあるの。『ちゃんと起きて、味噌汁とご飯食べて、遅刻しないように学校行くのよ』と言いおいて出勤するの。帰るとやってある」と娘は言う。
東北の夫とは電話連絡し合うが、先日も「壊れた屋上に立つと、沢山の命もろとも津波にひっさらわれた町が、あらためて胸にぐっとくる」と電話くれたとか。
67年前、名古屋の街で空襲に逃げ廻った国民学校2年生の私、「疎開は友だちと離れ離れになるから寂しい」と母に言った。「この非常時に何を言っているか!」と、女教師にみんなの前で叱られた。そして、子ども3人だけ田舎へ疎開した。
遠い昔ばなしだったはずなのに、いまも東北の子達は全国へ疎開で散った。放射能が心配で。
5年の姉ちゃんと小2の弟、貴重な体験になるよ。
子は育つ。子よ育て。
2、ピアノコンクール「上手な子が多いんだナ」
年末に小学生のピアノコンクールがあった。
コンクール参加に選ばれるのは、個人でピアノの先生について習っている所の巧い子だろう。多分。それだけに舞台に立ってするお辞儀から違う。
おなかあたりに手をあてて、深く頭を下げる。
椅子の高さを調整しないと、ピアノに手が届かない小さな子が何人も弾く。両腕をしならせ、高く上げて曲の雰囲気を出そうとする子もいる。姿勢正しく、腰かけて堂々と難曲を弾く男の子もいる。
ショパンの「ワルツ ホ短調 遺作」だの、カバレフスキー「やさしい変奏曲」だの、ベートーヴェン、モーツァルトの有名な曲がプログラムに並んでいる。 プログラムには112人の名があり、男の子が約1割と見た。
朝から始まったコンクールも4部に別れて夜8時30分ごろ終わる。さらに中部大会、中部本選大会と続く。審査員3人はピアニストや音楽教室の代表で入賞者が選ばれる。
5年生の孫はブルグミュラーの「タランテラ」を弾いたが、出演しての感想は「5年生でも、上手な子が多いんだな」で、いい体験だったようだ。
さて、50歳からのピアノ教室。高齢者の発表会は年4回、年末だけは広いホールでの演奏だ。
80代の人が、堂々と弾かれるシューヴェルトの「アヴェ・マリア」やモーツァルトの「春へのあこがれ」を聴き、或いは連弾のチャイコフスキー「ロシア舞曲トレパック」に、ああいいなあ、音楽の不思議、人間の不思議を思う。
「努力できるのが能力だ」というダライ・ラマのことばに励まされて、「スペインの歌」、暗譜で間違いなく弾けた。
今回、出演したのは32人と少なかったが、小学生たちとの差は実に60年余である。
子は育つ、子よ育て。そして、高齢者たちも、ゆとりを大事に楽しもう。
92歳、行動派に乾杯!
2012年が動き始めた。1月4日朝、娘婿が1ヶ月間陸前高田市へ応援に行くスタートの日で、名古屋は気温1度と冬らしい寒さである。
東北地方は雪が舞う。室内温度はマイナス4度とか。仮設の人たちのことを思うと身がひきしまる。
1月4日には、夫の師からも便りが届いた。「震災後、実際に東北を歩かなければ解らないと考える」92歳の水田洋氏である。
実際の現地を見なければとの思いは、私たち夫婦と全く同じだった。
仙台空港から、鉄道、バスでと考えた交通手段も同じ、驚いたのは「熱中症」でダウンしたのも同じだと分かったこと。
手紙には「ベッドから転げ落ちて車椅子になり、10日間入院生活した。そのうえ6月30日突然、足腰が立たなくなり、ろれつが廻らなくなって倒れてしまった。熱中症だった。6月の忙しさとは・・・学士院例会、同窓会、18世紀学会の研究報告、学士院授与式、いいだもも追悼会・・・」とあり、歳なのにやり過ぎがはっきり見えた。
そして「9月3日は92歳になる。盛岡に3泊して、宮古→釜石→気仙沼→盛岡、そんなコースで3・11以後の現場を見たいと、東北行きを実現させた」とあった。
その文面の中で「バスで1時間、津波が一掃した仙台平野は半年経っても『山川草木うたた荒涼』、『死んだ街』と言って大臣を辞めさせられた人がいるが実際、街が死んだとしか言いようがない」が印象的だった。
夫は何とかふつう生活に回復したと言っても、熱中症から「高次脳機能障害」髄膜炎となり、どこにも出かけられない。わが夫婦より、20年近い人生の大先輩の行動力、体力に脱帽した。
そして、「いいだももの追悼会」の文字に、石堂清倫氏の追悼会に参加したとき、加藤哲郎氏からいいだももさんに紹介された。
そのとき、「いいだももさんて、女の方とばかり思っていました」と、無知をさらけ出して握手したが「みんなにそう言われますよ」と、立派な方なのに穏やかに流してくださった。
遠い、懐かしい記憶が蘇る。
そうだ、毎朝の体操や散歩で体力を取り戻し、延期した被災地を訪れる目標をもとう。
何度も被災地へ行ったり、「春を恨んだりしない」を一冊にまとめた池澤夏樹のことばを、しみじみ味わった。
「耳に聞こえるのは穏やかな海の波音や鳥のなき声、目に見えるのは人のいないがれき風景」 耳に聞こえることと、目に見えることとは違う。
2012・1・6
地震だ、津波だ、戦争だ! 激震から1週間
「今日はカップラーメンだけにしようとなってネ」「わが家は少々我慢して、昨夜は暖房を切ったわ」。
友人との会話でこんなことばを交わした。
日本中が、世界の目がテレビ報道に釘づけになった。
その日から、テレビ報道は連続して災害のニュースばかりが続く。
大きい家も小さい家も流された。お金持ちも、貧乏人も波にさらわれて死体になった。
家族が、家が流された。水がない。食べ物がない。まだ寒い夜なのに毛布がない。トイレが・・・・・。
何万という人たちが生死の間をさ迷い、50万人以上が被災者となって避難している。助かろうと思った避難所で、死者が数10
人とは痛まし過ぎる。
2011年3月11日、東日本大震災、考えられない大惨事が日本を襲った。
専門家によるとその規模は、日本の観測史上初のマグニチュード9.0、研究者は1000年に1度の大地震だったと言う。
直後、猛烈な大津波に押し流されて廃虚となった街や村、死者も行方不明者を加えると、1万7000人以上(一部報道は2万5000人以上)という規模になった。
深刻なのは、福島にある原子力発電所の状態で「地震と津波で建物や設備が損壊、放射能汚染が拡がる恐れ大」という。
「日本沈没」気分になる。スポーツ大会は中止が続々決まる。
歌謡大会のような催しも止め、自動車産業も休業せざるを得ない状態である。
廃虚となった広大な地域、肉親を亡くした、行方不明だという人のことばにため息が出る。何度も涙ぐむ。
テレビを観ながら「ああ、敗戦直後のあの時と一緒だなぁ」と思う。
焼け野原、寝る家がない。食べる物がない。9歳だった私は、兄姉と3人が親と離れ、親類の疎開先で命をつないだ。
水道などなく、風呂は貰い風呂、便所は汲み取り式の「ポットン便所」だった。
当時の親たちは、どんな気持ちで・・・考えると切ない。大勢の子どもたちの成長だけが心の支えだったのではないか。
当時、近くのお百性さんが大きなかぼちゃを2つ持って来てくれた。
別のお百性さんは瓜をくれた。
今度の災害は、不安と悲しみばかり大きいが、ただひとつだけ、ほんの少し安らぐ。
それは「何かお役に立つことができないか」と、ほとんどの人が考えている。
自分たちが安閑としていていいのかと。
それは、65年前の人としてのやさしさ、そのまま。
世界中が「略奪も暴力もなく、冷静な日本人」と、驚き、尊敬し、手を差し伸べてくれている。
1945年8月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士が見出した民衆の姿を、10年前「敗北を抱きしめて」に書き、それを感動的に読んだ。著者ジョン・ダワーは、歴史学者として栄えあるピュリッツァー賞を受賞した。その彼が今日の新聞に書いていた。
「津波の恐るべき破壊の映像を見ると、わたしは空襲で破壊され尽くされた、1945年の日本の市や町に思いを致します。広島、長崎への原爆投下の前に60を超える都市が廃墟となり、子どもも含め何10万もの人が命を失いました。
日本がどれだけ破壊し尽くされたか、今では覚えている人も少ないでしょう。
復興など想像もできないほどでした。しかし、やり遂げたのです」と。
長引くであろう今後の復興を、みんな同じ人間だと自覚し合う。
いまは救援物資は送れないから、ささやかなカンパ位しか出来ない。
でも、唯一の救いは「無縁社会」と嘆きながら、自殺者3万人ものこの国で、
他人のことを真剣に考える人がほとんどであること。
それだけは、救いであり、心の支えだ。
2011・3・17
「原発」報道 素人でも分かるように・・・・
3・11大災害から、1カ月が過ぎた。
福島原発事故の深刻度は、国際評価尺度でレベル7になった。深刻だったチェルノブイリ原発事故と同じレベルである。
原発事故は、何をやっても次々問題が起きて、被害は深刻になるばかりである。それが世界中の注目を浴び、フランスの大統領さえ飛んでくる事故、いまだ沈静化に至らない。
われわれ原子力に素人の庶民は、数字で「何千倍」とか「デシベル」など言われ、「日常の生活では支障はありません」と言われても、理解出来ない日々の報道である。
特に「海水から基準値の3000倍の放射性ヨウ素検出」というニュースに、原子力保安院の解説では「健康に被害はない」と言う。納得できない人が多いのは当たり前だと思う。
週刊誌を手に取って、水中特撮という海底写真に目を見張る。
海草などにからんでひっくり返った洗濯機がある。ピアノやアナログテレビが写してある。さらに逆さまになったソファなど、テレビでは見られない凄さを初めて見た。
死者、行方不明者が3万人近くで、そのほかに分からなくなった人も死者とすれば恐ろしい数になる。14万人以上が不自由な避難生活に耐えているのが現状だ。
その週刊誌は、インターネットで信頼できる情報とされるサイトと同様、世界の目が見る日本原発事故と、その対応を批判する特集だった。
テレビ報道だけでなく、インターネット、複数の新聞紙での特集、週刊誌など読んで納得したこと。
その1、初動ミスこそ解決できない根本原因
地震と津波で破壊された福島原発の事故直後、米国が重水による冷却、封じ込めの協力を申し入れたが、日本政府と東京電力は断った。
つまり、格納容器の弁を開けて「ベント」〔圧力を下げる〕に踏み切れなかった東電本社の根本的誤りが、解決を遅らせた根本原因である。
「原子炉が津波につかって水浸しになった時点で、廃炉覚悟で原子炉を冷やしておけば、ここまで混乱しなかった〔中日新聞〕」
「英語報道では原子炉事故の人類史的深刻さに気づかず、運転再開の経済利害を優先しているのではないかと辛辣だ。
現在も続く日本政府と日本企業、日本の科学技術、マスコミの信頼は地に落ちた。それが、被災者への救援が進まない、遅い原因だ。政府が日本一の政治資金供給源として支え、手なづけてきた電力会社だから」。〔社会政治学者のHP、東北出身〕
その2、原発は会社が儲かる。差別される研究者と、されない研究者たち
「原子力村」と、原発に反対して「迫害され続けた研究者たち」がいる。
豊かな生活に慣れ、電力をどうするか。原発はエコの切り札ともてはやされ、日本に54もの原発があるとは、考えもしなかった。
原子力は研究のための学者集団が出来る。「原発村」は200人から300人規模で、顔なじみになり、原発批判の意見は言いにくい雰囲気だという。
原発は造れば造るほど、電力会社は儲かる装置である。経費を電気料金に上乗せでき、市場はほぼ独占状態だったから。
そして、学者研究者たちは、ポストが欲しい。研究資金が欲しい。それが満たされる。何しろ原発推進は国の方針だから・・・。
しかし、真面目に研究して原発推進から、原発に疑問を持ち始め、原発反対になった研究者たちは、何年経っても準教授にさえなれない。それどころか、監視され尾行迫害もされたという。
週刊誌も、新聞も実名入りでその研究者たちの考えを大きく載せている〔週刊現代、毎日新聞、中日新聞など〕
その中の一人、京大助教の小出裕章氏は、推進派から、反対派に立場を変えて40年間危険性を訴え続けた一人である。そして「水蒸気爆発が一番怖い」と言う。
「福島では原子炉が壊れずに、メルトダウンが進む可能性がある。そうなると高温の溶融物と下部の水が反応すれば水蒸気爆発が起き、桁違いの放射性物質が飛び出す。これが一番怖い」と。
その3、他・・・日本に地震を起こす研究が・・・
「地震 雷 火事 親父」と昔から言われてきた日本人の恐れる災害についての記述。
もともとドイツのヒットラー政権壊滅のために作られた原爆をドイツが降参したので、日本で人口地震を起こすために使おうとした作戦計画書が作成された。〔米国国立公文書館所蔵〕
1945年当時、米国は日本が一番恐れているのは地震だということを熟知していた。
〔政治学者一橋大学名誉教授加藤哲郎氏の研究HP〕
世界中が温かい支援をくれている。が、日本にいる外国人が次々日本を出国しているのも現実である。
そんななかで地震当日在日していた指揮者が、帰国後再び日本を訪れ、ベートーヴェンの第九を演奏して励ましてくれた。
指揮者の名前はズービン・メータ氏、4月17日、その放送をNHKで聴いた。氏は1936年生まれ、ズービン・メータ氏の迫力に圧倒され、胸揺さぶられる感動的演奏だった。
4月10日、東京文化会館でのチャリティコンサートは、5分間の黙とうで始まった。「死者を悼み、自らをかえりみました」とTVの字幕に出た。
◎組曲第3番からアリア(バッハ)
◎交響曲第9番・合唱つき(ベートーヴェン)
練習は2日間だけだった。N響も合唱団もひきしまった演奏で、司会者も「こんなすばらしい第九は初めて」と言っていた。
社会発展のために必要な電力、その中で原子力発電必要とする意見と、核の危険性故、反対の意見もあり、人類の今後を世界的な観点から考える必要がありそうだ。
日本は、世界で初めて原爆を投下された国、広島、長崎で違う種類の原爆を投下され、何十万人も殺された国であることを忘れてはならないと思う。
「2011年3月11日は、世界史的に意味のある日本沈没の日であり、再生の出発点にならなければならない転換点です」〔加藤哲郎氏HPより〕
2011・4・17
「パン一個で我慢する」
「そんなパン1個じゃ、1日もたないでしょ。もっと、このパンや牛乳も買ったら・・・」
「ばぁちゃん、避難所じゃみんな我慢してるよ。お父さんも死んじゃったし、これから貧乏に耐えて生きなきゃならないんだから・・・僕はこれでいい」。
ばぁちゃんは、目が潤んでしまった。
ばぁちゃんは、仲良しの友人のひとり。仙台で地震に遭った16歳の男の孫と、名古屋から駆けつけたばぁちゃんの対話である。
その友人の娘一家は仙台に住んでいた。転勤族で、娘の夫は大阪勤務だった。
子どもの高校進学の関係で、仙台から千葉県に引越す計画だった。仙台と千葉を行き来していたが、千葉のマンションで仙台から送った荷物を待っていた時期に、3・11の大地震に遭った。
その日、身動き出来ずに、勤務地の大阪から帰っていた父も一緒に、一家で車の中で余震に耐えていた。
大阪の職場では、50歳になるとリストラの対象になり、厳しい空気が漂っていた。実績重視の第一線の現場では想像以上にストレスに晒される日々だった。
最近、体調に異変を感じていた。我慢の限界を超える頭痛と軽いめまいを、薬で何とか誤魔化して働いていた。
大地震で何もかも混乱している中、見つけた病院に入院したが、十分の検査や治療が受けられないまま、4日後死亡した。
リストラの精神への脅威と、それに転居、東日本大震災で、精神的苦痛が死の引き金になった。人災と天災、複合型災害死と言えるのではないかと思った。
葬儀社の建物に親族全員泊まりこみ、葬儀らしくない葬儀を済ませた。
用意された棺桶に遺体をおさめ、遺体に背広を着せ、ネクタイをしめた。
働いていた当時のままの姿にと、脇にカバンを入れて、靴まで履かせた。
会社関係者立会いで、最後の最後まで仕事人間だった、故人らしいお棺だったと、その友人は話してくれた。
新学期スタートはやや遅れたが、高校生になった孫は、クラスのメンバーに紹介されてから、すぐ担任に言ったそうだ。「バイトしますから、許可下さい」と。
転居先のマンシヨンに、仙台から送った荷物は、1カ月経ってもまだ届かない。友人は「マンシヨンの一室で、毛布2枚を敷いて寝たが、とても寒くて眠るどころか、風邪をひくのではないかと心配で、一晩中まんじりともしなかった」と言う。
3・11以後の日本、その苦難のスタートを垣間見た気がする。
いまの時代は、夜9時ごろに2回目のラッシユアワー、帰りが遅いは常識、現役世代は苦しかろう。
ただ、若いだけに体力はあるはずだ。それだけは救いだが・・・。
豊かな時代の子どもらは、食べ物も、その他すべての物が豊かで当たり前で育って来た。これから乏しさも体験せざるを得なくなる、そんな時代になるかも知れない。
戦後の焼け野が原を知る、年寄り世代。人生の卒業生も、カンパ以外に何か出来ることがあるだろうか・・・。
カンパと言えば、友人が「夫が100万円カンパした」と言った。みんなで「スゴイ!」と褒めあった。ある企業の社長さんの人間的やさしさだ。
わが年金生活者は、直後に新聞社を通じて、夫婦で2万円カンパするので精一杯だった。それでも、ほんの少しホッとした。
額の多い少ないではなく、苦しんでいる被災者のことを考える。そのことが大事だと思うのだ。
そうだ、年1回の旅、今年は東北にしよう。
夫婦で震災の有様を直接、この眼で確認しよう。
テレビで観るだけではわからない、何かが掴めるかも知れない。
青春時代に遭った伊勢湾台風、そのとき陸前高田市が、親身になって支援してくれた。だから、壊滅的被害を受けた陸前高田市の職員の4分の1が死亡したとして、名古屋市が職員を派遣したり、車を贈ったりしている。
市長も彼の地を訪れている。
どこも考えられない深刻な被災地だ。釜石でも、女川でもいい。
激減している観光客になって、ほんの気持ちだけカンパをして、
何より実際に、この眼でがれきの街を見て来よう。
2011・5・1
「やめてよ! 天皇家ならいいけれど・・・」 東北の旅延期事情
午後2時間ほど土砂降りの雨だった。
その雨も止んだ夕方、東から南西の広い空に薄い藍色が輝き、そこに少し濃い黒が混ざったような藍色の雲が、海のような光景を作り出していた。
ふと思った。まるであのとき押し寄せた、巨大津波のようだと。
大自然の中で生き続ける人間、自然の一部に過ぎない人間世界が3・11で激動した。
親しくしている友人の息子が、大学教授になれた。仕事が同じ系統の東北大学の先輩が、震災で死んでしまった。
それから、仕事は大忙し、夜は眠れないと言っていた。
学問の世界にも、苦難が押し寄せている。
被災地の惨状は、テレビや新聞報道だけでは判らない部分があるかも知れない。
「被災者の目」で見たい、直接見て考えたいと東北行きを計画した。
交通費も高いし、何泊もできないからと、夫はネットや取り寄せた雑誌で考えた。
早朝6時ごろ家を出て、中部空港から仙台空港へ飛ぶ。着いたら宿まで何とか辿り着く。あとは少しでも災害の現場に近付きたい。全て、JRのローカル列車で移動する。
海岸に近く損傷激しかった仙台空港も、やっと回復したらしいし、何とかなるだろう。
1週間ほどかけて、大体の行動計画が出来たので夫婦で旅行会社の窓口へ行った。
しかし世の中そんなに甘くはなかった。
応対に出た係員は「仙台空港の便は1日1便で、何時になるか分かりません。東北地域のJR各線も、まだまだ部分回復で、代行バスで補ったり、運休のまま未回復もありこの計画表の通り契約できません」と、丁寧に断られた。
一般的に、「旅館など閑古鳥が鳴いているから東北地方へ来て欲しい」と言われている。でも、交通機関の回復は未だ未だで、ボランティアや災害関係の交通で回復した道路も混雑させてはならない。そりゃ、そうでしょう。
有名人ならいざ知らず、一庶民がこの目で現地を見て考え、被災者目線で書いてHPで伝えたい、そんな考えを持ったところで大したことはないのだ。実現もなかなか容易ではない。
交通機関の復旧状況だけでも、流される情報で考えることと、現地の実態はかけ離れていた。
まだ避難所で不便な生活を余儀なくしている人たちは、10万人以上で、全国各地へ出た人たちも家なく、職なく、生活のメドが立たない不安な日々を送っている。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」と言われるほど有名になってしまった原子力発電事故、世界の目が注目しても、解決のメドは立たずに2カ月半が過ぎた。
5月22日にはこの所少し遠のいていた余震だ。震度4、或いは震度3が広い範囲で起きた。更に、25日朝には震度5以上の余震で、現地の人たちはどれほど不安だろうと思う。過日、当地でおきた震度3に震えたのに・・・。
かくて、老夫婦が実行しようとした計画は、新規練り直しとなり計画は延期した。
今回の計画について、参考までに子どもたちの意見を聞いた。
京都に住む長男夫婦は、東北の観光地が客に来て欲しいという。だからその面はいい。
しかし、被災地の道路がボランティア活動の人たちで混雑したりするのではないか。と?マークだった。
ただし、それでも生の現地の声を自分のネットで伝えたい、書きたいという使命感があるのなら許されるのではないかとも言ってくれた。
娘夫婦は名古屋市役所勤務。名古屋が力を入れている陸前高田市へ応援に行く人を募集した。
娘の連れ合いは公徳心から手を上げた。手を上げたのは1人だけだった。
子どもがいて夫婦共参加という訳にはいかない。普段、娘が残業のときは、連れ合いが2人の小学生に食事を作り、イクメンパパの仕事をこなす。
そのパパが、長期間留守になると帰りが早くないだけに大変だ。どう体制をとるかと、夫婦で話し合っているところだった。
「ボランティアでもないのに、老夫婦が行って、大変な状況の現地の人たちはどう思うか考えて。天皇家ならいいよ。行くべきではない、やめてよ」。
遠慮のない母子の電話対話である。これも一理ある。
「どうしても行くというなら、宿に泊まり、土産を山ほど買ってきたら・・・」と追加された。
かくして、多くの悲しみ体験とたたかっている被災地の人たち同様、新規やり直しとなった次第である。
しばらく延期しよう。現地の復興は短期に出来るものではないし・・・。
妻と息子を震災で亡くした男性が、書き残さねばと記した記事を読んだ。
「穴の上に板2枚を載せて便した。50年前に戻ってしまった」
「この顔が、明るいニユースの顔ですか?」
こんな意味のメモを読み、3・11以後日本は変わった。
現状の深刻さ、人が生きることの切実さを思った。
人が苦労しながら真剣に生きる姿は美しい。今回の被災した人たちのように・・・。
2011・5・28
(阪神淡路大震災シリーズ1)
青い記憶の丘−阪神大震災から12年
阪神大震災でおよそ6000人が亡くなった。ますみも、夫とともに天空へ駆けて逝った。幼い娘を残して。
ますみの母親は、岐阜県の養老で、自然農の自給自足を実践している。わたしは気の合った友と2人で、2年ぶりに彼女を訪ね、3人は打ち解けて話し合った。
ますみの母は、持病を克服するため、農薬を使わない自然農を徹底し、快復しつつあると言う。
一緒に行った友人は、俳句仲間との吟行での、四国の話を生き生きと語った。「俳句は季語があって、またなかなか難しいね」と言うと、「全国的に有名な先生が一緒だったけど、この旅で百句はつくれと言われてしまった」と、驚いた顔で言った。
落ち着いた10畳ほどの和室、襖の横に真新しい掛け軸が下がっていた。
あまりこの娘を悪く言わないでくれ、この娘は土偶なんだ。
あの記憶の丘にうまれていたのだ。土に青い草が生えていた。
それを月夜に俺がほりだしてきたのだ。頭が悪いといって不行儀だからといって、
あまりこの娘を責めないでくれ
「この字、品があってすごく巧いね。書いたの誰?」
「これはますみの字、あのときますみと一緒に、地面に埋もれてしまったのを、必死で掘り起こし、字も読めないくらいに汚れた掛け軸を5年かかって磨いてもらったのよ」。
部屋の一角が大きな書棚になっており、ますみの自画像が飾られていた。それは、まるで、そこにますみがいるようだった。「あれから、もう11年?」思わずつぶやいた。
ハッとするような西条八十の詩を書いた掛け軸と、等身大の絵に囲まれていると、話は自然に、あの震災の衝撃的な話題になったが、子を亡くした母に言う言葉は多くなかった。
「『ミドリの森のビビとベソ』は、どろぼうの話なのに、ビビもベソもやさしかったわね。童話の新人賞になって、祝賀会は盛大だった」。
「絵でも書でも、才能のある人は、はやく逝ってしまうのかしら」。友が言った。
そのとき、部屋の空気が少し揺れたように感じた。いつの間にかますみが、話の輪に入っていた。穏やかだが、不思議なムードが漂い始めた。
「ますみちゃんはいっぱい童話を書いたけど『さびしばけ』も、さびしい子だけの友だちになるおばけで、さびしい子のお友だちよね」。
ますみは黙って頷いた。モダンなセーターにスカートが若々しい。
「童話書いて、書もやって凄いね」「ほんと、その感性にも、やさしさが満ちていて…」
ますみの母親が「遠くから来て頂いて…、遅くなるから、そろそろお茶にして、帰り道に続きを話しましょ…」と立ち上がった。
そのとき、また空気がほんの少し動いた。
晩秋の、夕ぐれにまだ間がある時刻、ゆったりお手製の小豆茶を味わっているときには、いつの間にかますみの姿はなく、3つの茶飲み茶碗の前の3人だけになっていた。
(阪神淡路大震災シリーズ2)
震災の「形見」の童話
友人のT子さんは、阪神大震災で、娘夫婦を亡くした。
『震災から一年』というニュースが増え、T子さんには辛い季節になっている。 2歳になる孫だけは、机の隙間で奇蹟的に助かった。
悲劇を知って、お悔やみの電話をかけたが、励ますつもりが、意とするところが通じないばかりか、相手を傷つけたのではと悩み、ことばの虚しさを味わった。
せめての償いのような気持で命日に白い花束を送った。6月になってやっと便りが届いた。 「白い花がふたりの写真の周りを美しく飾りました。あの花が悲しみのどん底のとき、どれほど慰めてくれたことか」とあった。
震災直後、T子さんの夫はリュックを背負って、毎日神戸へ通われたとか。崩れる建物はとても危険なのに、「娘が書いた童話の原稿が」と何かにつかれたように探した。「世の中には、不条理な事がいっぱいなのに、今までそれと直面せずにきたのが、
一度に押し寄せてきました」 とT子さん。
娘さんが亡くなる少し前ある童話の新人賞に応募し、優秀賞に輝いた通知が2月に届いた。その童話が本になるという。それを聞いて「次の塾の読書会はその本にしよう。お菓子を食べながら、子ども達といっぱい話そう」と思った。
11月Tさんの義父が他界した。娘夫婦の死と孫の養育問題、義父の介護と試練が続き、1年に2度の葬儀を終えた。T子さんはいま義母の介護をしている。
「秋の気配はいうにいえぬ淋しさを誘うものだと始めて知りました」と便りをくれたT子さんは、電話で「童話が推薦図書になった」と明るい声で言った。
亡き子が童話になってよみがえる。T子さんがんばれ! そして、「がんばろう!神戸」
〔1996、1、9、朝日新聞『ひととき』欄掲載〕
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