女がはたらく

 

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       女が働くということは

         子宮がない。子が産めない。女の苦労、少子時代の苦労

 

       女が働くということは

         子宮がない。子が産めない。女の苦労、少子時代の苦労

 

最近、衝撃を受けた新聞記事が忘れられない。(朝日新聞2020年11月23〜25日)

 

それは「子宮のない人が4500人にひとり」と、「がんなどで子宮を失った女性たちもいる」実際の苦しい体験が綴られていた。ロキタンスキー症候群というそうだ。

 

人にはいろいろ障害がある。目で分からない、子宮がない障害でこどもができないと苦しむ人たちがこんなに多いとは…。辛い日々を想う。

 

その人たちは、養子縁組して里親になったり、子宮移植の手術を考えたり、苦闘しながら助産婦になる夢を持ったり、代理出産を考えたり、前向きに生きることを創り出す様が記事から分かった。勿論、夫の理解があってのことであるが…。

 

少子社会になりつつあるこの国、このような苦労があることもひとつの要因である。

 

新聞投書欄に27歳の女性が書いていた。「結婚、出産して辞めそうな人は雇いたくない」面接でそう言われ目を白黒させられたと。

 

そう言えば、自分の体験で苦しかったことを思い出した。長年働き続けて長男は無事生まれた。産後休暇は42日間、出勤は43日目から。戦争のような忙しい日々が始まった。

長女妊娠のときは長男の子育ての苦労あり、保育園通いなど仕事との両立は厳しい日々だった。

 

流産が続き、「このままじゃもう産めない」と病院で習慣性流産の診断書を書いて貰い、休みを取った。それがなかったら、いま子育てしながら、現職で頑張っている長女はいなかった。

 

公務員だからそんなことが出来るのだ。恵まれている。そう言われて当然でもあるが…。そのときも産後休暇は42日、43日目から働いた。

 

或るとき、職場の管理部門係長から大声で言われた。「あんた、休んで子ども産んで!」

 

生きて、真面に子ども産んで、再び職場に戻れた。「なんと言われようと、がまん、がまん」

男ばかりの職場で頑張ったつもりである。

 

衝撃だったあの言葉に耐えて、退職まで頑張れた。あの係長はいまの少子時代をどう思っているのだろうか。

 

今年はコロナ禍で人間世界が大騒動、どう乗り越えて行ったらいいのだろう。世界中が難しい課題に真剣に取り組んでいるが、はやく解決の目途が立って欲しいと願う。

               (2020・12・8)

 

 

 

 

 

 

 〔メニュー2〕2〜17は後

     「我々は死ぬものだ」その悟りが 世の中違って見えてくる?

     午後五時戦争 子を育てながら 働き続けるということ

     毎朝、毎朝3歳児が乗った赤い電車パノラマカー

     友あり 遠方より来たる

     さようなら パノラマカー

     ネンネコオートバイ

     ねんねこ父さん 

     女から男へ         幸子のホームページに戻る

     税金             次の『映画の連想』へ行く

     装い

     電車の中で

     朝食

     予感

     今年腹が立ったこと

     ボーナス査定

     女がはたらく

     ジジババ保育園が一番か

 

 

       「我々は死ぬものだ」その悟りが 世の中違って見えてくる?

 

「人の悪口は言うもんではないよ」これは国民学校二年のとき、祖母が私に言ってくれた言葉である。

 

戦争で子ども3人だけで母親と離れて疎開したとき、慣れない田舎の学校で女の友だちに何か言われたのを愚痴ったらしい。以来人の悪口はいわないし言えない。悪く言えば口下手の人生だったと言えるかも知れない。

 

最近の世の中は児童虐待や引きこもり、気に入らないと人を刺し殺す。そんな事件が多すぎる。人としての道義心はどうなってしまったのだろう。

この辺りはお寺さんを信じる善良な仏教徒が多い地域である。

 

いま、人生の下山道を何とか元気に下りたいと願う82歳になった自分は、人生の終わりも遠くない。そろそろ真剣に考えるべき時が来ている。

 

仏教徒でもないが以前読んだ『心洗われるブッダの言葉』の本にあった、ブッダ(釈迦)の言葉を振り返る。

 

人々は「我々は死ぬものだ」と悟っていない

もし それを悟れば争いは終わる

 

柔らかいみどりの苗が行儀よくびっしり水の張った田に並び始めた。田植えの季節が来た。

名古屋市郊外のこのあたりでもまだ稲田は残っている。なぜかホッとする景色である。

 

先日久しぶりに朝九時台の通勤時間帯の電車に乗った。まだまだ込み合う車内、辛うじて手が届くつり革にぶら下がったまま、最寄駅から目的の名古屋駅まで20分近く揺られた。

気候不安定で少し前までは土砂降りの雨が降った。通勤では当り前のことなのだ。そう言えば現役時代、名古屋駅から官庁街まで友と自転車で走った。その友もいまは亡く寂しい。

 

暑い時期は職場に着くと、折角の化粧が汗で取れてしまっていた。そんな働く日々だった。子どもが小さかった頃は出勤前に保育所へ子を預け、それから職場へ向かった。

自宅から遠い保育園へ子どもを託していた頃は、朝6時55分発の名鉄電車に乗った。赤い電車のパノラマカー、子を一番前の台に座らせて毎朝名古屋までよく通ったと思う。

 

女が働き続けるには、まず子を誰に託すか、保育園は預かってくれるかという大問題があったのだ。自分が現役だった半世紀前も現在も。

 

若い頃は体力もあり音楽会や旅、山歩きなど連れ合いや仲間と好きなことも楽しんだ。何より、理想社会への夢もあり、勉強し行動もした。

1989年東欧革命、ソ連の崩壊など夢や理想は崩れた。世の中に唯一絶対の真理なんてないのだ。

 

一庶民、凡人としてささやかな人生を振り返る。苦労させた子たちが世の中の働き手となり活躍している幸せ。苦しいことも多かったが、苦ばかりではなかった。

それなりに歩いて来た人生。これでおしまいでも悔いなし。

             (2019・6・14)

 

 

       午後五時戦争 子を育てながら 働き続けるということ

 

午後五時、 工事関係者向けなのか、音楽が鳴り響く

散歩で田舎道を歩くと土の匂いがする。赤紫のレンゲが一面に咲き誇った田んぼは、いい香りがする。田んぼの花はもう無くなったが、道の端に長さ20メートルくらい白レンゲが這いつくばっている。

 

午後5時、太陽は西に明るく輝いている。こんな時間に散歩できるなんて…。恵まれているなぁ。平和だなぁ。

 

現役時代の午後5時、終業になると事務机の下に鞄など準備しておき、パッと跳び出せる体制にしていた。ベルが鳴ると同時に事務室を跳びだす。一分を切り刻むほどの課員は誰もいない。長男が待つ保育園へ速行だ。

 

半世紀前の話、恵まれた公務員でも産後休暇は42日、翌日の産後43日から出勤せねばならなかった。

 

当時五時過ぎまで子どもを預かってくれる保育園など、どこにもない。しかし、公務員や学校教師、保健婦などみな必死で働き続けた。民家を借りて共同保育をしている人たちの仲間に入れて貰った。維持するために、協力者がいた。保母さんもいた。みんなで物資販売などして助け合った。

 

産まれたての命も一年で何とか順調に育ってくれた。その頃活動家として「世のため 人のため」と信じて、仕事と活動両方していた。

名古屋の職場近くで預かって貰える所を探せと仲間に指摘され、一年で地域の共同保育所を辞め、職場近くの保育園を見つけた。

 

午後五時十五分に職場を飛びだし、五時半ごろ保育所に着く。玄関に長男がひとり、ポツンと待っている。保母さんに「うちの子だけですか?」と訊くと、「そうですよ。こんな遅くては困ります」保育する者としての、何の温かさも感じられないその言葉に血が騒いだ。「職場は5時までが普通じゃないですか?」必死で駆けつけてきたのに…。

 

「こんな保育者では子どもが可哀そうだ」翌日休暇を取って、保育園退園の手続きをした。

この国は女が通常勤務するようには出来ていないのだろう。

 

親や連れ合いが、何かと穴埋め出来ればいい。そんな条件の人など多くない。

やむを得ず、活動家たちで支え合っている無認可の共同保育所へ頼み込んだ。ここは夜間も当番制で子たちを預かり合っていた。

 

親は仕事から直通で活動の場へ行き、子は夜も預けたまま。親は帰宅し翌日は家から出勤する。その代わり、当番の日は夜にも4人も5人もの子に食べさせ、銭湯にも連れていく。当番者は夫婦で必死の保育をし、翌朝保育者に託して出勤する。

 

約1年間、こんな夜間共同保育所でがんばった。あれから半世紀、5回も保育園を変わって子には苦労かけた。我慢強く順調に育ってくれた子は、現役社会の中心だ。

職場はまだまだ仕事? 残業も多かろう。

 

命育ては苦あり、それ以上の喜びありだ。午後5時への想いは深い。

 

                       〔2016・5・22〕

 

 

       毎朝、毎朝3歳児が乗った赤い電車パノラマカー

 

電車がすぐ横を走る。名鉄電車沿いの道を歩きながら、最近出版された「名鉄沿線の不思議と謎」を面白く読み、半世紀も前の懐かしいパノラマカーに想いを寄せる。

 

「首都圏に住む人にとってパノラマカーといえば、1963年(昭和38年)にデビューした小田急電鉄のロマンスカーが頭に浮かぶだろう。運転席が二階にあるパノラマカーは、座席の最前部と最後部が展望室になっており、全面ガラス張りの大きな窓から迫力ある景色が堪能できる。しかし、元祖は小田急ではなく名鉄である。

 

小田急パノラマカーがデビューする2年前の1961年(昭和36年) 赤い車体で『名鉄スカーレット』の通称でデビューを飾っている」

著者は歴史学者の大塚英二氏(出版は実業之日本社)

 

「そうか、日本初のパノラマカーだったのか」想いは深く心を揺さぶる。

 

名古屋から国宝犬山城のある犬山まで走る名鉄犬山線、その中間あたりにある人口4万の街岩倉市には停車駅が3つある。

その中の一つ無人駅から、毎朝6時55分発の赤い電車に乗る母と子。母の働く場所が名古屋なので、職場に近い保育園に預けてから出勤する。

 

子どもの着替え衣類など入れた袋と、母親の鞄を肩から下げて空いた手で幼い子の手をひいての早朝出勤だ。

電車はいつも赤いパノラマカー、先頭車両の一番前の入り口から乗り、さっさと車両の前方にある台の上に「ヨイショ」と子どもを抱き上げて座らせる。

名古屋に着くまでのおよそ30分が、親子の語らいの場だった。

 

ご飯は食べていないので、名古屋駅の次の金山駅にあったおでん屋のおでんを食べさせた。

毎朝、電車の先頭でガラス張りの展望台から、走り去る景色や話を楽しんだ。

 

目の前で繰り広げられる母子の行動は、ずらりと席に腰かけた客たちの関心の的にもなっただろう。「小さいのに言葉がはっきりしていますね」と声かけてくれる人もいた。

父親は政治活動で帰りが夜遅く、或いは泊まり込み会議とかで育児どころではない日々だった。

 

産後休暇42日が過ぎると翌日から出勤だった。1967年(昭和42年) 出産、当時は正規雇用で長時間働く女性は多くなかった。半年間休めないことはなかった。但し無給だった。

共済年金など払うお金がないので休暇はとれなかった。

 

3歳までは同じような働く仲間と無認可の共同保育などで支えあい、保育所にも慣れたのに親の仕事や活動事情で、職場近くの保育園に変わる。子どもが安定した地元の保育園に変われるまで、4回も5回も園を変わって振り回された。今はみんな産後半年間、休めているだろうか。

 

政府は「女も働いて能力を活かす」と言うけれど、厳しい子育てとの両立の現状はどうなのだろう。

戦争中「産めよ、増やせよ」と国策に振り回された親世代を想う。

 

国の都合でなく、女性自らの意志で幸せの歴史を創って欲しいと願う。

 

                   2015・9・16

 

 

       友あり 遠方より来たる

 

近頃は労働力不足で「女が働き易い職場だの」「外国人介護士だの」と言われ出した。先日久しぶりに、現役時代に半年間、寮生活で中堅幹部研修を受けた仲間と会うチャンスがあった。

 

 生きることは働くこと

 

 その中の一人はついこの間まで現役で働いた。学園を卒業した翌年、父親がガンで死亡したので退職して弟と家業を継ぎ19年働いた。が、弟の結婚で家業は任せた。

 

民間企業を転々としながら仕事一筋に「会計事務所」や「浅沼組」「自民党県連」や「ソニー倉庫」…凝り性なのか持てる頭をすべて働くことに集中したことが分かった。

 

商工会議所では26年間働いたという。中小零細企業の人たちを相手に親身になって、その「お客さん」たちの税金問題などの相談相手になり続け、「先生」と慕われたようだ。

 

彼女は結婚していない。

 

もう一人の友は、学園時代に「毎週ラブレターが来る」で有名だった。当時よく踊ったフォークダンスで、その姿は万人が認めた優雅な美しさがあった。

卒園後すぐ結婚して3人の子の母になり、みんな幸せそのものと思っていた。

 

甘くないのが人生。夫の浮気に腹を立て、離婚して3人の子を一人で育てた。33歳で借金して小さな食堂を作り、富士山が美しい土地から、兵庫県へ移り住んだ。

 

近くの工場には食堂があり、昼飯の客は殆どなかった。その中に、入れたてのコーヒーの美味しさに魅かれてひとり、またひとりと常連が出来始めた。

食事も身近な家庭料理風のおかずで、固定客が増えて行ったという。以来40年間働き続けた。現在料理の腕には絶妙な味がある。

 

 ときには眉間にしわもよる

 

自分の体験で、夫が政治活動に異見をもち専従をくびになったのは40歳だった。退職金もなく放り出され経済的貧困と思想的孤独でどん底だったとき、ひとりの技術職の男性に「あんな暗い顔の女は嫌いだ」と言われた。

 

それを言ったら、「私も眉間にしわがよっている」と言われた。と料理人は言う。

40年も昔になったどん底体験よネ。お互いに、まだ若くて体力があったから乗り越えて来られたと思わない?

 

愛知の友が言う。

「疲れて帰ってから、一日中のオシメを手洗いした毎日だったわ。お姑さんはいたけど…」

 

 77会?

 

6時間もしゃべり続けた。「ところで、貴女いくつ?」「77」「貴女はいくつになった?」「私も明日が誕生日で77歳」「私も77よ

朝早く、高山から尼埼から駆け付けた友たち、一人以外はみんな77歳とは…。

 

若く元気はつらつだった「美女」たちが、この年まで命長らえて、この先「生老病死」の苦は来るだろう。けれど、いまが一番いいときかも知れない。

いいときが1日でも長く続きますように。

 

みんなが言った共通したことば。「子育てはホッタラカシ、でも子たちは親を見て育っていく」

保育士になった子、公務員になって頑張っている子もいる。パイロット指導に、グラフィックデザイナーに、前向いて生きている。

 

先日、静岡で障害のある子に水泳指導を続けている友人のはがきにもあった。「福山雅治のライブを愉しんで来ました。楽しいことが続きますように

自分もまだ続けているピアノ、プロのように巧くなくても、いつも使う脳の全く別の所が安らぐ、音楽の不思議である。

 

高山の友は、「空気のような人」と言われ、実直な人柄で信頼が厚い。

「組合の執行委員だったから、幹部としての移動も、職場移動もなく、退職まで働いた。そんなの名古屋のMさんと2人だけよ」

 

高山で趣味を楽しみ、ときに指導者として活躍中の彼女、「あかね」など自然の草や木の実を赤っぽい色に、深いブルーに輝かせて「一人一品ずつ取って」と促す。

 

パッと輝く花束のように色彩豊かに広げられたみごとな草木染めのマフラー、ストールたちだった。

 

 「わぁージャンケンだ」「本音会じゃなくて…77会よね」

半世紀も前から、40年も50年も働き続けた女たちがここにいる

 

                  2014・6・14

 

 

 

       さようなら パノラマカー

 

 名古屋鉄道自慢のパノラマカーは、独特の歌うようなミユージツクホーンを響かせ、愉しく赤い車体で走る。特に先頭は前面、左右ともガラスで車外が見渡せる、乗客にとっては特等列車である。


 1961年から走り続けたその7000系電車が、今年限りで引退するという。

 女性の47%が仕事をもって働く時代になったが、あの頃、女性が働き続けるのは珍しく、妻を「家内」という男性が多い時代だった。

 

 42日間の産後休暇が切れ、ゼロ歳の長男を、地域の人たちが協力して作った、共同保育所に預けて職場に復帰した。

 保育料のほかに、物資販売や定期の廃品回収で保母さんの給料、保育所 の維持費を作った。

 

 学校の教師、看護士、それに自分たちのような公務員などが必死で子育てしながら、職業生活を続けた。

 そんな中で、子ども同士や親たちの信頼関係も育ち、みんな生活は厳しかったが、命を育てる喜び、明るい希望もあった。

 

 1年が過ぎ、長男が1歳の誕生日を迎える頃、夫は連日の泊り込みや、深夜までの活動、私も仕事と子育てそれに活動とを、どうしたらやり遂げることが可能か手探りした結果、名古屋の職場近くの保育園に預けて、職場に通うことになった。


 毎朝の出勤は、6時50分発の電車で、いつもパノラマカーだった。
 「ヨイショ」とばかりに、長男を電車の一番前にある、広めの台に座らせ、それから自分の鞄と保育園用の衣類などを入れた袋を脇に置く。

 

 「ほーら 電車がきたよ」「ワァー デンシャダ」

 「もうすぐトンネルで真っ暗になるよ」「マックラー」

 親子でこんな会話を交わすときが、くつろぎのときだった。 

 

 この車輌の前の方は、毎朝同じような顔ぶれになる。「ことばのはっきりしたお子さんですね」。ときに、そんな声をかけて下さる方もあったりして、疲れも吹っ飛んだ。

 

 来月のダイヤ改正ですべての車輌が完全に引退するため、11月のはじめ、三河地域で回送のパノラマカーが客を乗せて走った。そのニュースに、800人もの鉄道ファンが、カメラを持って押しかけたとあったが、報道写真に写っていたのは、全員男性だった。

 

 半世紀も前になる、懐かしく、ときに苦しく、しかし 明るい希望も持てた働く女も、声を大にして叫ぶ。

 

 さようなら パノラマカー!  さようなら わが懐かしき日々!

 

 

        ネンネコオートバイ

 子育てのころ、朝7時に出勤する私よりおよそ1時間ほど遅い出勤の夫が、オートバイで子どもを保育園まで送ってくれた。

 空気が凍てつく冬の間、風邪をひかせるよりましと、子どもをおぶって送るようになった。ネンネコとオートバイ、ユーモラスなその組み合わせは町でも評判だった。途中の八百屋のご主人が「以前は男の子だったが、今度は女の子らしい」などと、客と大声で話しているのが聞こえたと夫がいう。毎朝興味津々で見られていたのだろう。

 同じ保育園の零歳児S君のパパも「Mさんがやってるなら」とやっとS君をオンブする勇気が出たと、後で新聞社に働く奥さんから聞いた。これは下の子が零歳のときだから、もう20年余りも昔の話になった。

 働く母親にとって、保育園への送迎の片方を協力して貰うだけでも大きな力になった。 それよりさらに6年前、長男誕生の頃は保育園もなく、同じような共働きの人達と共同 保育所をつくって支え合った。毎月の物資販売や廃品回収、保育当番などは、いつも父母両方参加だった。男と女が必要に迫られての共同行動だったが、『苦あれば楽あり』いまではいい思い出である。

 そんな頃、夫の両親を訪ねた。当時、紙おしめなどなかったから、おしめの洗濯はかなりの負担だった。話の中で「夫も洗濯をする」と言ったら明治生まれの義母は「Kちゃんがおしめの洗濯するのー?」と仰天した。

 洗濯物がしわしわでも、文句は禁物、台所の後片付けが不十分でも、無視して耐える。それくらいおおらかでないと、男は育たないのである。私の残業の時、子ども達とよく作った唐揚げからゴミ出しまで、いまでは夫は家事のベテラン、責任ある仕事をしながらよくぞと、私の永年勤続最大の功労者に脱帽する。

 この秋長男が、来春長女が人生の戦友を見つけ、はやりの『地味婚』で自立する。「母 達のように共働きで生きたい」と言い残して。

       1997年3月  埼玉県上尾市公募「男女同権万華鏡」入選

 

        ねんねこ父さん

 

毎朝、家の前の道路を掃いていると、若いお父さんが2歳くらいの男の子を抱いて通る。親のもとへ預けに行くらしいが、このところの冷え込みで、ベビーカーが抱っこ、そしてねんねこのおんぶに変わった。

「ああ、私たちもやりましたよ」。と心の中でつぶやき、急に挨拶にも親しみがこもってきた。

25年以上前、共働きで朝7時ごろ出勤する私の、1時間後に出る夫が毎朝オートバイで、娘を保育園に送ってくれた。冬はよく風邪をひかせた。そこでおんぶして走る決心をした。当時、「ねんねこオートバイ」のユーモラスな姿は街で評判になった。その娘も1児の母。

 

この話をインターネットのホームページに載せたら、それを読んだ40代の男性からメールが届いた。

「おやじがバイクで飛ばしたあの頃、ねんねこの中には私が入っていた。ほっぺが風きって冷たかったぁ。おやじの広い背中からの体温で、じんわり温まるころ『おい寝てたのか、もう着いたぞ』。折角温めた手が、父の頬に触れたときの冷たさと、ひげのざらざらが懐かしい。その父はもういない」。

 

雪国東北地方からのメールだった。私たちの先輩がいたことに驚いた。ねんねこ父さん、頑張れ!

 

中日新聞「くらしの作文」欄 掲載

 

 

        女から男へ

 

 第一に「上にペコペコ、下に横柄」の態度はおやめなさい。30余年、企業で働いていた私はまだまだこういう輩(やから)がいるのが分かります。そういう者に限って、仕事よりも要領だけを考える。企業はそれでも出世出来るという不思議な所でもあります。

 第二に女は男より劣るという考えを無くしなさい。女が部下として、男のいい分を素直に聞いている間はいいけれど、男は往々女が力を発揮し出すと皮肉な言葉を浴びせる前時代的感覚を持っています。女の上司を嫌がる気持は自信のない男ほど顕著です。忘れられないのは、従来男の仕事とされてきた資格試験に必死で挑戦して合格したとき、「落ちれば良かったのに」と口走った同僚男性の一言でした。

 第三に女は男の「所有物」的発想を改めなさい。近頃「セクハラ」などといわれていますが、男ばかりの職場に転勤になった私は、ある夜職場の夕食会終了後、当時の上司に物陰で頬やあごをなでられました。別の上司は私を食事に誘い、暗いタクシーの中で私の手を握りました。部下に女性が来ると自分の所有物と錯覚するのでしょうか。

 更に別の上司に忘年旅行中、宴会後の洗面所で、本当にいきなり後から抱きすくめられ、思わず悲鳴をあげてしまった程です。当時30代で2人の子持ちだった私でさえこうですから、若い女性ならどうなっていたでしよう・・・・・・。

 けれども、世の中に男と女がいて、血が騷ぎ、胸が躍るのも事実です。私は男性が嫌いではありません。仕事で耐える事を知った謙虚さがあるからです。また男のもつ夢とロマンもです。男には、つまらない事でも子供のように面白がってする遊び心があります。海が好きで船乗りに憧れたり、500本も映画を観まくる情熱があります。

 とかく人の陰口を喜び、実力以上に見せようと見栄を張る傾向のある女と違って、男は極めておおらかで、正々堂々としています。これからは、男女どちらも犠牲にならない自立が必要な時代だと思います。

 そういう点で、女は男と人間同士としての握手がしたいのです。

 

        税金

 企業勤めをやめて5年になる。一生で1度だけお金持ち気分が味わえた千万円単位の退職金は、一家4人でヨーロッパを回り、あとはそっくり家のローン完済に使い、かえってさっぱりした。

 退職金のうち200万円余は5年間支払い延期だったが、税金だけは全部退職時に払わされた。不合理な話だが、およそサラリーマンの税金ほどガラスばりで誤魔化しのないものはない。改めて現役のころの給与明細書を眺めてみた。

 所得税約2万5千円、市町村民税約3万円で税率は14%にもなる。さらに雇用保険や共済組合費などで約7万円をひいた残りが月額の手取りである。

 大企業のボーナスや年金などの安定感にひかれて30年も辞めなかったが、責任ある仕事がしたければ仕事の中断は許されず、育児休職も取らなかった。早朝から家を出て男性と一緒に残業も休日出勤もした。それでも満足して働ける職場があって幸せだったと思う。

 しかし給料日、扶養家族のいない独身者と既婚女性は重税感が強かった。「配偶者控除は女性の自立をはばむ税制度」という指摘は図星だと思う。「税金で世の中に奉仕しています」と同僚によく言った。

 ああそれなのに、今度脱税で起訴された政治屋は、隠し資産だけで50億円近いというではないか。税金で公共事業を行いながら工事発注の度に「饅頭1つ」は100万円、「1本」は1億円とリベートを献上させて私腹を肥やす。わずかな給料から容赦なく税金をとりたてられた身には、限りない腹立たしさだ。しかしそういう低レベルの政治家を選んだのは自分たちが低レベルだという証拠でもある。怒りはやがて深い悲しみに変わる。

 ときを同じくして海の向こうのイタリアでも、汚職で9人の閣僚とローマ、ミラノ、ナポリ市長が辞め自殺者7人、と新聞報道で知った。

 両国の長期政権腐敗のドロ沼を冷静に眺めると、税金の取り方には様々不公平、不正があるが、一方税金の使い方にもワイロによって不公平不正が起きている現実がまざまざと見えてきた。

 

        装い

 装いは、自分らしさの自己表現であると思う。その意味で最近のパンツルックの流行に、意を強くする。手元にある「イタリーファッションカタログ」を眺めると、モデル72人中、スカートは僅か7人で、実に9割がパンツである。また、名古屋の高級ブティック店長も「8割がパンツです」と最近の傾向を話してくれた。『元祖パンツルック』を自認する私には「艱難辛苦」の物語がある。

 20代半ばのころ、バーグマンに憧れて、ベレー帽にコートドレスがお気に入りの定番だった。あの日、1月の凍てついた空気が、針でも刺すように感じられた。夜の会合の帰りに冷えて膀胱炎になってしまった。トイレに行っても行っても尿が出きらず、そのうち血尿が出て排尿が苦痛になり、翌朝とうとう病院へ行った。

 薬を飲んでやっとよくなったその年の夏、今度は冷房のきくオフィスで下半身が冷え、 またも膀胱炎で医者通いをした。オフィスの、男性の背広服にあわせた冷房が、少数派の女性のスカートには、冷え過ぎだったのである。 病院では同じ様な女性患者も結構来ていた。そのとき、私は断固としてパンツルックに切り換える決意をしたのである。以来30年、1度も病気の再発はなく、自由で機能的なパンツルックで通した。

 19世紀のヨーロッパでは、コルセットで息もできないほど腰をしめつけられた女性達が、ズボンの着用を要求した歴史がある。

 「女のズボンは社会悪」とまでいわれ、要求実現に100年近い歳月が要ったという。

 近頃若い人たちが、ジーンズにチャップリンのどたばた靴のようなのを履いたり、ロングスカートに登山靴を履いたり、或いはミニスカートだったり、様々なファションを楽しんでいるのを見ると、「自由に自己主張しているな」と楽しくなる。

 パンツの流行大歓迎、装いは女の自己主張、ヨーロッパの諺「ズボンをもつものは自由をもつ」はまさに私の実感である。

 〔註〕

 現在スカート派……あるきっかけで、退職後スカート派になりました。

 きっかけは、友人が開いている、アジアの途上国の服を売る店で、タイシルクのロングのワンピースを見つけたことです。そのエキゾチックさが素敵で、値段はブラウス一枚分と驚く安さです。

 このホームページの、大石芳野さんのコーナーで、写真『カンボジャ』で、はだしでシルクを織る女性があります。ポルポトの迫害から解放され、生きる道を探す途上国の人々への応援歌。彼女たちの心を着て、毎日日本の街を歩いています。

 

        電車の中で

 名鉄電車の赤いパノラマカーには夢がある。最前部は前面が2枚の大ガラス、両側にやや狭い平行四辺形と台形、合計6枚のガラスで車両に膨らみを作っている。1番前の席に座ると、広いガラスの部屋が2本のレールを伝って突っ走るようで、おとぎ列車に乗ったように楽しい。

 N駅で幼い子連れの母親が乗って来た。子どもは、座席に陣取ると「デンシャ、スゴーイ」と澄んだ音色の片言で叫んだ。 私はその声を耳にして、25年も前にタイムスリップしてしまった。

 その頃、毎日2歳の長男と名古屋へ通勤し、保育園へ寄った。6時50分発の電車はいつもパノラマカー、最前部の膨らみの部分に長男を座らせ、おしめ入りバッグとキャリアバッグを置いた。角度の違うガラスから、出たばかりの朝日がきらきら輝く。そこは夢のガラス箱、ガラスの保育室だった。

 「シンカンセン、イッチャッタ」「そう行っちゃったネー」そこはかけがえのない、親子のくつろぎの場でもあった。本もよく読んだ。

 帰り、遅い時間でも満員電車、長男は大人のお尻とお尻の間で赤い顔して必死で耐えたときもあった。

 子供が丈夫だったから、夫の協力があったから働けた。いろんな人に助けられた。生き方は多様であっていい。私は女も自立、男も自立してはじめて人間同士のいい関係が 出来ると信じた。何十年も前、雑誌記者として働き続けた羽仁もと子などに感動し、働き続けたいと願った日々だった。

 先日のドイツ総選挙で女性議員は26%になったとの事。日本は3%、北欧では  40%台と桁外れに多い。その事と福祉の充実とは無関係ではなさそうだ。ドイツの緑の党や、イタリアの左翼民主党などは、指導部の4割を女性でというクオーター制をとっている。日本もやがて・・・・電車の中で楽しく夢見た。

 「アッ、アカシンゴウ」幼い声にフッと現実に引き戻された。電車の中はほぼ満席、ほとんどが男性で静かに読書するか、目をつむっていた。電車はパノラマカー独特の警笛を鳴らして、トンネルへ入っていった。

 

        朝食

 長年の共働きで、朝はいつも戦争だった。子供が小さい頃、朝食を食べさせると私はひと口ふた口食べただけで、必死に7時前の電車に乗った。

 6歳違いの長男長女で延べ12年の保育所通いは、子ぼんのうの夫の協力でなんとか切り抜けた。それが終わったとき、自分1人の身支度で出かける事は何と楽な事かを実感した。しかし、親も子も朝はいつもあわただしく、朝食はみそ汁ご飯だったりパン食だったりしたが、母としてはもう1品作れたらと思う事が多かった。

 自慢出来ることではないが、私は自他共に許す「大ざっぱママ」である。卵の殻入り卵焼きや、お弁当に入れる厚さ1センチの人参は「ダイナミック人参」と高校生の娘のクラスでも評判だったそうである。

 よくしたもので親がいたらない分、補完作用が働いて、子供の自立心が育っていく。 子供達が大きくなり受験期になったとき、記憶に残る大失敗をした。

 その日は長男の大学入試模試だった。頭をはっきりさせて試験に臨んで欲しいと、パンとヨーグルトに飛びきり濃い紅茶を入れた。日頃の努力を実らせて「世の秀才共と競って来い」と送り出した。

 模試から帰った息子に「どうだった?」と聞くと「あんまり紅茶が濃くて頭がくらくらした。お陰で午前中の科目は全然駄目だった」 という返事に唖然とした。力み過ぎた自分は心底申し訳ない事をしたと思った。 長男は6年前から京都で下宿し、ゆとりある朝食とは無縁のまま、わが家を離れた。

 「くらくら紅茶事件」の頃が、一緒に食事できた最後の年だったんだと思うと、さすがの大ざつぱママも、すこしだけ感傷的になるのである。

 

         予感

 新しい年は『女の時代』が加速する。そんな予感がする。独身を通して仕事をやり通すのも立派であるが、子育てしながら一人前に生きた女性にこそ真の価値があるように思う。

 『夫婦で分担』というA新聞のシリーズが、3日間、アダム・スミスの 国際的研究者水田洋教授と、女性開放論の草分けで、自身も大学教授の水田珠枝夫妻を取り上げていた。

 妻「あの人はお客さんがくると、自分が家事参加していることを見せつけたいんですよ」「(私が夕食をつくるのは) あの人は料理が下手だから。自分で作った方がおいしいし、早い。理由はそれだけ」。

 その個所を読んで私たち夫婦は大笑いした。実は夫は水田教授のゼミの教え子である。どんな論文も決して褒めない厳しい半面、返事はきちんとくる誠実な先生だという。文章を書けば論旨明快で鋭く、自宅に送られてくる雑誌を私も読んでいるが、表現が巧く的確だからつい読みたくなる。あの大先生に、あれだけ率直に批判めいた意見が言える事が痛快だった。

 そして私は女の直観で、その表現の仕方の中に何かを感じた。それは、子育てしながらの研究生活の想像以上の大変さである。水田夫人が出産当時の半年間、イギリスで夫は研究生活、「家事育児は女性の役目という、性別役割分担が差別を生む」が持論の女性にとって、大変な試練だっただろうと思う。

 共働きのわが家も長男出産の時、夫は選挙活動で事務所に連日泊り込みだった。その経験から、女史の心に意識しない不信の存在を感じた。「『あの人は・・』というクールな言葉、少し気になるけど、先生達本当に愛し合ってる?」という私の言葉に「学会でもオシドリ夫婦で通っているし、仲がいいよ」という夫の返事だった。

 1月も終わるころ、国立大学で初の女性学長誕生というニュースが小さく出ていた。同じ新聞のコラムに「マガジンハウス女性社長」の紹介があり、さらに「百貨店店長に38歳の女性」という記事を見つけた。

 『泉井商会』『関西国際空港』『オレンジ共済』腐敗汚職まみれの世の中で、地位やお金に無頓着な女たちが世直しをやり遂げる予感は、案外当たるかも知れない。

 

         今年腹が立ったこと

 犯罪的な血税の乱費に怒り心頭に発する。 「特養ホーム建設ちょろまかしブローカー」。  人道的であるべき特養ホーム建設で、真面目な社会福祉法人なら1カ所を造るのにも大 変なエネルギーが要るというのに、埼玉県では2年間に6施設も『彩福祉グループ』に認可した。この異常さ。福祉法人とは名ばかりの税金ドロボーである。

 『丸投げ』をやったこのグループは補助金90億円以上を得て、8つのホームのうち7つを関連会社「JWM」に発注し、実際は丸ごと他に請け負わせる。その巨額の差益の一部を、官僚への資金提供や賄賂にあてていた。

 贈られた方は「自分にはこれ位の供与があって当然」と思い、哀れにも一生を棒に振った。 現金、住居の修理代、その他で1億円。「清貧」はいまや夢物語、私利私欲の高級官僚と無力な政治で、日本はどうなるのだろう。

 しかし、私にも官僚体質がなかったわけではない。現役時代、毎年度末に9億円の契約仕事があった。ある年、業者から自宅へ高級新茶が贈られてきた。送り返すのも変だしと、そのままにしてしまった。また、名古屋市内数10カ所の事業所へ出張すると、いつも喫茶店でお茶を御馳走になった。仕事が長びけば料理店や寿司屋で食事を共にした。 事業所の経費で落とす、内部の官官接待である。業者と一緒のときは勿論業者持ち、女でも一人前扱いされる事には「快感」があった。

 さらにカラ出張、総務担当が勝手に何カ所かの出張先をでっち上げ、旅費と手当てを貰った。これもベテランだけ。公然たる秘密で断る勇気はなかった。すでに15年昔のカラ出張は、検査院の指摘で廃止されたが、管理部門は似たりよったりではないか? 構造的汚職体質は根が深い。大昔から権力のあるところ賄賂あり、科学技術の進歩に比べ人間社会は全然進歩していない。あいまいだった自身にも腹を立て、恥じらう。

 水木楊の小説『拒税同盟』の中で、「税は年貢ではないから納めるものではなく支払うものだ。われわれは政府の奴隷ではなく、主だ」と書いていたが、納税者の気持ちはまさにそれである。

 

         ボーナス査定

 6月のボーナス時期になると、思い出す辛い事件がある。 その年の4月、無事長男を出産し幸せいっぱいの私は、短い42日間の産後休暇を終え、「さあこれから」と職場復帰して2週間目だった。一律平等だったボーナスが、この年初めて「職場の1%の成績不良者から1%減額し、1%の成績優秀者へ上積みする」という差別配分が実施された。

 誰がその対象者か? 職場に渦巻く不安は6月15日の当日には頂点に達して、張りつめた氷のような緊張に包まれた。

 受け取った手当を数えて、きっちり1%少ないのに気づいて血の気がひいた。逆に向き合いの机では、みんなの緊張がみるみる溶けていくのが分かった。

 いままでの仕事から考えて、差別された理由は「産後休暇」それしか考えられなかった。としたら産後休暇6週間と決められた労基法や労働協約は何なのか?

 自由に、人間らしく働ける職場を願った私は、幸せの絶頂から地獄に突き落とされた気がして、ほとんど衝動的に手当を突っ返した。私の勢いに当時の上司は顔がこわばり、青ざめてなす術もなく私の手当を受け取った。

 帰路保育所に寄り、身体中で喜ぶ子を抱いて、バンバンに張った乳房から溢れる乳をわが子に飲ませながら、こらえにこらえた涙が流れた。

 同僚で詩を書くK男が「そこまでやるなら」とプロ級のガリ版技術で、私の胸の中を書いた原稿をビラにしてくれた。私は上着までお乳が滲みてくる大きな胸にタオルを巻いて、玄関でそれを配った。 屈辱感と睡眠不足でフラフラだったが 「頑張ってネ」「えらいね」という声に支えられた。

 夜中の、4時間毎の授乳が要る零歳児、おしめの洗濯などで極端な睡眠不足の日々だった。保育所通いの間隙をぬってのビラ書き、毎朝のビラ配りは1週間続いた。

 「もうやめたい、もう逃げ出したい」そんな弱い気持もあった私に、無茶とも言える頑張りが出来たのは、いま思えば差別への屈辱感と、強烈な怒り、それに多数の心ある友人の無言の支援だったように思う。

 手当の査定は全国の職場で大混乱し、労働組合も強力に取り上げる事態になった。そして、半年後の年末手当からは「査定撤廃」が決まったので、納得して、返上した手当を受け取った。

 かつての職場は、いま育児休職あり、産後休暇は8週間と恵まれ、国も育児休職を考え出した。

 私の20余年前の苦しい経験が、単なる歴史のひとこまに過ぎなくなったなら、喜ばしい事である。

 

         女がはたらく

 〔一〕豊かな日本で
 豊かさとは何かと考えると、浮かんで来る光景がある。

 小学3年生で敗戦、父は6年前に出征したまま帰らず、空襲で家を焼かれて母の故郷へ疎開した。物置小屋の一間で母と5人の子供が、家なく食べ物もなく寄り添って生きていた。豊かさの対極にある、50年前のどん底の光景である。

 親戚中で、赤紙が来たのはわが家だけ、哀れに思った祖母一家が引き取ってくれた。血のつながりがあっても、誰もが出来る事ではない。村人の中に「気の毒に」と、かぼちゃを届けてくれた人がいた。みな故人になったが、一生忘れられない人たちだ。

 当時の豊かさとは、人並みに眠れる家と食べる物があることだった。平和な家庭生活を、戦争で突如奪われた母は、生涯そのために体を張って生き、56歳で食道がんで死んだ。

 50年間戦争のない時代が続いた。それは庶民にとってはこの上ない幸せなこと。これが豊かな日本の源だと、当然の事を確認する。

 日本の豊かさは、とくにプロスポーツ全盛に顕著に現れている。1つの球場だけで、数万の観衆が一球一打に沸くプロ野球、多い日には全国で26万人が球場まで出かける。テレビ観戦は少なくみてもその数十倍、その他にサッカー、ゴルフあり、相撲ありでその数の多さに驚く。

 また海外旅行に出かける人が増え、年間1千万人という数は経済的余裕なしにはあり得ない。デパートや専門店に並ぶファッションは次々流行を作りだしている。デパートの地下食品売り場は、さながらグルメの館、日本中、ときには世界のあらゆる食品が溢れんばかりに並んでいる。飢餓世代の私は、「こんなに豊かでいいのかな」といつも感慨深く眺めている。

 どの美術館も食堂も満員で、その大部分が女性であることが多い。いまや女の時代の感がある。しかし、表面的な華やかさだけではなく、ほんとうの意味で女性が豊かに、地に足をつけて生きているのだろうか。

 〔二〕女が変われば
 女性が社会進出して、経済的自立をする事、これは男女が対等な人間同士として信頼し合う、真の豊かさの基本だと思う。

 私は1989年、30年余り働いた大企業を、定年まで7年残して退いた。在職した企業は民営化して2年目、競争力をつけるため職場の集中、合併を繰り返した。

 週1日だけは、組合との協定でノー残業デー。その他の日に、午後5時に職場を離れる者はなかった。みんな管理部門の誇りをもってよく働いた。受験期の子どもがいる主婦であっても、女だからなおのこと一刻も早く、自らの計画に従って業務をやり遂げ、戦力としての責任を果たさねばならなかった。そういう場があるという事は、喜びでもあった。

 仕事は夫、家事は妻で分業、そう言えば格好いいが、台所の片隅で涙を流した多くの女たち、それはいざとなったら「一体誰に食べさせて貰っているのだ」という言葉も出かねない男と女の関係ではなかったか。

 『家庭生活をいくら懸命にやっても、女には人間的品位や、生きることの意味があたえられぬ』、ボーボワールは『第二の性』のなかでそう言い切っている。

 最近「専業主婦の労働を年間賃金に換算すると270万円になる」としてマスコミで報道された。確かに、家庭内の雑用は多い。しかし、5人、6人と子どもがあり、洗濯機も掃除機もなく、水道さえなかった時代とは家事の中身が違ってきている。少ない子どもは父親も関わって育てた方が自然であるし、うまくいく面が多い。

 長女によれば、国立大学を卒業した友人たちにも、専業主婦願望は依然根強いという。 50年前、ボーボワールが『第二の性』で書き続けた真意は、現在どこまで浸透しているだろうか。

 『家庭生活における個人の尊厳、両性の平等』 をうたう憲法24条は豊かさの土台である。一方が他方に仕え、寄り掛かって生きる道か、共に働き、人として連体して生きる道かの選択が必要なときである。しかし、障害は多い。

 〔三〕厚い壁
 某大企業の管理職OBと話す機会があった。「企業は男あっての社会」という信念のようなものを、ことばの端々に感じた。「女なんて」「女のくせに」という差別意識が男にはある。いや正確には、かつてはあった。

 昨年大学を卒業した長女に、就職案内は来なかった。企業は男子学生にだけダンボール箱一杯の案内書を送り続ける。娘はボーイフレンドのそれを、奪うようにして資料請求を出し続けた。

 女の経済的自立は、スタートから差別にまみれた氷河期だった。半年間、東から西へと企業説明会に駆け回った。ある説明会での事「説明の前に言っておきますが、毎年育児休職はとれますかという質問がよく出ます。しかし、考えてください。高給を出して大卒を雇うのですよ。簡単に休まれて、代わりが見つかりますか? 常識外です」。社長自らの高圧的な挨拶だった。

 結果的に見れば、子育てしながら働き続けるという希望が叶いそうなのは、一部大手企業と公務員だけだった。

 出産、育児はかつては家のため、家族の老後のためにあった。年金などの社会保障に頼る現在の老齢化社会では、女性の仕事と母性の両立を社会的に保証するシステムがあってこそ、豊かな社会といえるだろう。

 そのためには、女性自身の相当な努力も必要である。

 

 〔四〕真の豊かさへ
 長男誕生は30年前、長女は23年前、 産後休暇明けの43日目から働いた。現在のように週休2日ではなく、土曜日も出勤しながら働き続けられたのは、やはり若さだったと思う。

 長男のときは保育所がなく、同じような働く母親たちと共同保育所で育て合った。物資販売、廃品回収は父母共同参加だった。

 長女のときは、辛うじて定員6人の市立保育園の乳児保育に入園出来た。そのときは赤飯を炊いてお祝いしたものである。

 首がすわらない間はだっこバンドで保育園通い、子育てのプロの保母さんにいろいろ教えてもらった。私の出勤より1時間ほど遅く家を出る夫が、保育園送りをしてくれるだけで、ぐっと楽になる。真冬にはオートバイで切る風が強く、風邪をひかせるよりはと、夫は大胆にネンネコでおんぶして通った。町でも評判だった「ネンネコオートバイ」の思い出も、20数年前の昔話になった。

 子育て期は戦争のような日々であるが、同じ働く母親や保母さんたちと、いつも確認し合ったのは「子育ての中身は時間の長さではなく質である」ということだった。

 いま産後休暇は2カ月近く、育児休職も堂々ととれるのは、やはり時代の進歩だろう。 充実感はあったが、精神的にゆとりを失いかけていた日々に、もう少し別の働き方を創 りたいと思うようになった。

 思い切って退職し、夫が10年前から自宅で開いていた学習塾に合流した。52歳、残りの人生を考えると、もっと本も読みたいし、政治や文学にも関心があり、自己表現の欲求もあった。体力がある方ではないので、定年まで働いて、ばててしまいたくない。そう思った。

 退職して一番嬉しかったのは、教室の窓から燃えるような夕陽の素晴しさを見たときだった。夜遅く帰宅する日々で、自然の美しさを感ずる心のゆとりをなくしていた。

 定年まで働いて退職した人と、生涯の年金は月5万円の差があるが、なにものにも換え難い「私の時間」これこそ財産である事に気がついた。

 あれから、すでに10年近い日々が流れ、夫婦揃って今年60歳、いま暫く次代を担う子どもたちとの楽しい生活が続きそうである。

 朝6時半、いつも家の前を出勤する若い女性が通る。美人か否かに関係なく、働く人はきりっとして美しいと思う。

 朝食の後、BGMの音楽を聴きながら1時間の新聞タイム。午後の仕事の準備や読書、 散歩など、かつては考えられなかったゆとりの時間が過ぎていく。夫は庭中、花だらけにして愉しむ。月に1度は夫婦で映画を観て感動し、あるいはペンを持つ。人生の秋はまた、収穫の秋でもある。

 女がはたらくのは、第一に女の経済的な自立であり、第二に生き甲斐づくりである。豊かな人生にするための時間を必死につくることで、納得して生きたといえる道が創り出せると信じている。

 

         ジジババ保育園が一番か

 京都に住む長男夫婦に子どもが生まれ、私たち夫婦と娘夫婦揃って京都でお宮参りをした。久しぶりに3夫婦全員集合で話が弾んだ。

 半年間育児で休業の予定である長男の嫁が、「男の子は男が産み、女の子は女が産めるといいなって、友だちが言っていたわ」と話し、「それ、妙案」と笑い合った。でも、働きながら子育てする時、女性に負担がかかる現実を考えると笑えない冗談だった。

 私たち夫婦は、2人の子を産休明けから保育所へ預け、共働きをした。先日発表された国民生活白書は働く女性をテーマに、育児と仕事の両立への支援の必要性を指摘していた。30年前に比べて少しはよくなったのかと、感慨深く白書を読んだ。

 しかし、東京の2人の甥は2夫婦とも「子を産まない」宣言をした。子育てよりやりたい事がいっぱい、自分の人生の充実にかけたいという。
 新婚半年の長女夫婦も、やがてその問題にぶつかる。「職場の先輩に聞いたらジジババ保育園が一番」と言ったという。でも私たち夫婦は安請け合いはしない。若い2人が協力し合ってこそ、子は育つ。その上でSOSの時は、ジジババ応援団がおっとり刀で駆けつけよう。

 フランスでは子を産む理由として「楽しいから」という答えが返ってくるそうだ。亡き母は「子どもが可愛くて、それで苦労も乗り越えられる」と言っていた。子育てしながら働くのは苦労が多く、喜びはさらに大きいよ。先輩として、私はそのことを心から伝えたい。

(1997・11・28 朝日新聞「ひととき」欄、見出し「苦労に勝る両立」で掲載)

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