(ふみ)を愉しむ

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〔3DCG 宮地徹〕

〔メニュー〕

    1、ソ連の核実験はきれいな核実験??

        「社会主義国の防衛的核」を信じた愚かさ

    2、とりあえず今日を生きる

      とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう」 著者なだいなだ

    3、75歳の現役スイミング講師

    4、放射能の煮こごり 津島祐子著「ヤマネコ・ドーム」を読む

    5、オレはもう充分戦ってきた 島薗進著『日本人の死生観を読む』

    6、8月15日は遠くなり 金石範著 虚夢譚〔きょむたん〕を読む

    7、池澤夏樹著 春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと

    8、ひきつけられる「仏の発見」 五木寛之、梅原猛著 〔狂犬、野良犬対談〕

    9、長編ユーモア小説『兵士シュヴェイクの冒険』 ヤロスラフ・ハシェク著

   10、むずかしいことが やさしく書かれた 井上ひさし著『一週間』のこと

   11、五木寛之著『親鸞』のこと

   12、「快楽」を語る科学者 「苦」を言う僧 茂木健一郎「人は死ぬから生きられる」

   13、知りたかった「真っ赤な真実」−米原万理

   14、津島祐子の作品に囲まれて

   15、斃れてのち元まる…に励まされて 鶴見和子『遺言』

   16、米原万理著『打ちのめされるようなすごい本』

   17、読書の喜びは幼児期が大切

   18、人は死に、宇宙のひとつの粒子に還る

         柳沢桂子『いのちの日記』『生きて死ぬ智慧』、五木寛之『天命』

   19、本田靖春著『我、拗ね者として生涯を閉ず』

   20、池内紀著『自由人は楽しい』

   21、いろは匂えど散りぬるを

         映画『死に花』、養老孟司『死の壁』、玄侑宗久『釈迦に説法』

   22、わたしお買い得よ!  小倉千加子『結婚の条件』

   23、安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しや ほうやれほ

         『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』で著者荻原遼の覚悟を読む

   24、文芸の底辺と頂上を歩いて 清水良典『自分づくりの文章術』(ちくま新書)

   25、フジ子・ヘミング『苦難を乗り越えるのが人生』 養老孟司『人生は崖登り』

   26、テレビアニメで現代を斬る 高橋源一郎『連続テレビ小説ドラえもん』

   27、少しのお金とたくさんのユーモア 松山幸雄『自由と節度』にみるジャーナリスト魂

   28、異端・藤田紘一郎教授 一般向けの本を出したら堕落である

        異端の肖像 「カイチュウ博士」藤田紘一郎さん

   29、クレヨン画の小さな絵本 『世界がもし100人の村だったら』

        HP『100人の村』  google検索『100人の村』関連HP

   30、「エッ、こんなことが?・・・」廃墟から光を求めて ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』

   31、ロシア児童文学誌『イワン』によせて           次の『人生の音色』へ行く

   32、藤田紘一郎教授『イヌからネコから伝染るんです』   幸子のホームページに戻る

   33、『人生後半の愉しみ方』 堀田力+森村誠一

 

       ソ連の核実験はきれいな核実験??

         「社会主義国の防衛的核」を信じた愚かさ

 

 「ソ連の核実験はきれいな核実験」と、ほんとうに信じていた時期があった。いま考えると恥ずかしいようなことを何故信じたか。ひとつには、社会主義こそ正義の味方と信じていたこと。信じていた共産党の中央幹部の「きれいな核」発言だった。

 

 赤紙」という人さらい(毎日新聞)に父を取られ、空襲で逃げ廻りながら一人で苦労しながら子育てした母を見て育った。

 社会人になって読書会や安保研究会で学びながら、社会は資本主義から社会主義に変わり、さらに高度な共産主義社会に発展するのが法則である。

 優れた講師の説得力にも魅せられ信じて疑わなかった。青春時代の希望でもあった。

 

 1、揺れる歴史を振り返って

 

 最近『日本の社会主義』という本が出版された。

 著者は一橋大学名誉教授の加藤哲郎氏。あとがきに「2011年の東日本大震災、福島第一原子力発電所メルトダウンに直面して『日本社会主義の政治的社会的欠落に衝撃を受け、足元から揺さぶられた』」とあった。

 

 私のような一庶民でも分かりやすく、膨大な資料を読み解き書かれたこの本引き込まれた。題名は『日本の社会主義』であるが、核、原子力にかなり重点をおいて書かれた著書と思う。

 

 「社会主義を支持する勢力にとって、1949年のソ連核実験成功は決定的だった」

 「『原子力の平和利用』は広島、長崎の原爆、アメリカの核兵器に反対する議論の合い言葉となった」

 

 労働組合も共産党も社会主義でこそ平和利用ができるとなっていった。ソ連の核実験再開(1961年)から「いかなる核実験にも反対」とする社会党、総評と「社会主義国の防衛的核」を認める共産党が対立し、1965年共産党系原水協と、社会党系原水禁に平和運動が分裂してしまった。

 

 当時共産党の一員として、原水禁運動を分裂させた共産党側の理屈を「真理」と信じ切っていた。

 

 職場の組合が社会党主導だったから、矛盾を感じながら誠実のみが取り柄の自分は、公労協が初めて全国的規模のストライキで政府に抵抗しようとした1964年4・17ストライキの事件もあった。

 

 「このストは組合分裂の謀略だから反対」との共産党の指導で職場の玄関前で「スト反対」のビラまきの先頭に立ち、結局ゼネラル・ストライキは中止になり、社会党系組合幹部の怒りをかった。

 後になって「共産党本部の指導誤り」となり、忠実なピエロは恥をさらした。

 

 2、人類初の残虐な原爆体験国が原発こそとは・・・

 

 一方平和運動、原発の方では、日本は広島、長崎に種類の違う原爆を落とされ、一瞬のうちに20万人もの命を奪われ、放射能汚染に苦しむたくさんの人々をつくった被ばく国なのに、世界で初めての残虐な経験をした国なのに「原子力の平和利用」が加速していった。

 

 「・・・原爆産業という新しい大企業が創設されたとき、原子力はすでに科学者の手を離れ、死の商人たちの手にしっかりと握られていた・・・2011坂田昌一」

 

 「日本における原子力発電の受容は、読売新聞社主の正力松太郎と当時の反吉田内閣の中曽根康弘の役割が重要だった。1954年中曽根内閣が2億3500万円の原子力予算を提案し野党も科学者もマスコミも一斉に反発するが、強行に予算を成立させた」

 

 (1954年3月14日)米国は、ビキニ環礁で水爆実験をした。第五福竜丸の漁夫23名被爆(読売新聞)。9月23日、久保山愛吉死亡。放射能症だったが、米国が否定し、一人200万円の見舞金で手をうった。

 

 そして「1970年代21基、80年代16基、90年代15基、と2000年代5基と、次々に新規原発を作り続け、世界第三位の原発大国となった日本」である。

 その時期、まだ共産党の「核の平和利用」論を正しいと考えていた。

 

 この本が正確に示すように「1986年4月、ソ連における原発事故は世界的衝撃を与えた。放出放射能物質は、イギリス、トルコまで拡散した。この事故はスゥェーデンの研究所で放射性物質が検出されて、世界の知るところとなった」

 

 1日半後、住民避難を決定した時には、すでに広島原爆の400倍の放射性物質が放出されていたという。

 チェルノブイリ事故20周年(2006年)にあたって、ゴルバチョフが「旧ソ連の崩壊の真の原因は、ぺレストロイカではなくチェルノブイリ」と述べた話は印象的である。

 

 「歴史の真理の一面をついている。原子力による自然の征服というレーニン、トロッキー以来の夢は悪夢に代わり、ヨーロッパのほとんどの共産党は共産主義を放棄していった」

 

 東日本大震災からもうすぐ3年が過ぎる。とくに原発事故、放射能の汚染でふるさとへ帰れない、ふるさとを無くした人たちが、仮設住宅で苦しい生活に耐えている。それなのに、原発再稼働だの、インドへの輸出だのという政府の政治感覚が嘆かわしい。

 

 10万年放射能がなくならない、核のごみの捨て場がない。

 歴史から何を学ぶのか。この本はわが恥多い青春時代の流れをまとめて貰ったような、優れた歴史書に思えた。

 

    加藤哲郎 岩波現代全書『日本の社会主義ーー原爆反対・原発推進の論理』

           第七章 平野義太郎と日本共産党の「平和利用論」

             1 講座派の論客から「大アジア主義」を経て日本平和委員会会長に

             2 共産党の六一年綱領と「原子力の平和利用」

             3 原水禁運動を分裂させた共産党の「社会主義の防衛的核」

             4 脱原発運動に反対した共産党の「平和利用」の論理

 

2014・2・1

 

 

 

       とりあえず今日を生きる

  「とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう」 著者なだいなだ

 

 著者は精神科医で作家、気取らない人間味に溢れた文で一気に読んだ。

 

 明るい人間的良さが出ていて面白かったのは、タバコを吸い過ぎる氏に、挑戦してきた患者がいた話である。

 

 「先生、タバコをよく吸っていますね」灰皿では間に合わないので、看護士さんがバケツを持って来るほど吸っていた。それを見て笑った患者さんが「先生がタバコやめるんだったら、わたしも酒やめてもいいよ」のことばに「じゃあ受けてたとう」と答えてしまった。

 

 「そして賭けた。賭けた後、失敗したと思ったが、もう遅い。辛かったですね」。

 結果はその患者が遂に酒を飲んだ。ホッとして翌日タバコを吸ってしまった。若かったその頃から5回喫煙を止め、5回失敗し、50歳でやっと禁煙に成功した話で「習慣から抜け出ることはとても難しい」と書く正直な著者だった。

 

 もうひとつ、いいだももさんについて書いたところがある。三島由紀夫と東大で同級生のいいだもも氏は、法学部を一番で卒業したマルクス主義者だった。

 講演で一緒になり、「記憶力抜群の人と記憶力で勝負しないことにした。こっちはバカでいく」

 

 「マルキシズムは訳すとマルクス中毒、クリスチャニズムはキリスト中毒になります。あるいはマルクス依存、キリスト依存になります」と言った。

 「いいだももさんはバリバリのマルクス主義者、気になったが大笑いしてましたよ」。とあった。

 

 いろいろ交流があった石堂清倫氏の偲ぶ会が東京であった。その場にいいだももさんがいた。私たち夫婦を紹介してくれた加藤哲郎教授といいだももさんに「いいだももさんは女性だと思った」とバカを言ってしまって笑われた。

 そのいいだももさんも、いまは亡き人になってしまった。

 

 著者が、アルコール依存のある患者に向き合って出たことばは率直で道理に合っている。

 

 「お前に酒やめろなんていわない。酒を好きなだけ喰らって早く死になさい。飲んでたら早く死ぬんだから、たくさん飲んで早く死ね!その方が家族のためだ。しかし家では飲むなら無人島に行け。そうでなければ家族が迷惑をするからね」という医者だった。

 

 この会話を切なく読んだ。それは私の現役時代の親しい友人に、夫がアルコール依存で日々苦労している人がいるから。

 食道も胃も取ってしまって無い。死ぬところまで行った。それなのに、まだ命があり死ねない。

 

 隠れて酒を飲み、怒鳴り散らす。かつて熱烈な遠距離恋愛で結ばれた妻、社会的地位も努力して勝ち取った夫、妻を死にたい思いにさせながら、アルコール依存の夫は施設に入り一時よくなった。

 リハビリに通い目下断酒中。よろよろしていても体力がある。死ねないのだ。

 

 食事はさすがに少量、でも食べると暫く苦しむ毎日に、「いつどうなってもおかしくない状況が、ときに耐えられなくなりそう」と言う友。耳を傾けてあげるしかできない自分である。

 

 「どのように老年を生きるか、患者さんといっしょにずっと考えてきた」と言う著者だから「とりあえず今日を生きる」がしっくり来る。

 

 「われわれが考えるのは、人間の問題なんです。戦争のない未来の世界を次の世代渡したい、国なんて滅びようが、なくなろうが問題じゃない」と講演し、

 ネツト上で仮想政党「老人党」を立ち上げたなだいなだ氏〔市民の意見139号〕

 

 「日本では新墓苑が自然破壊の一要因になっている。だから墓は作るな。浅間のふもとに灰を撒いてくれと遺言を書いた」という氏、葬送の自由を考え、「自然に帰る」に納得である。

 

 優れた大先輩がまた一人、83歳で逝ってしまわれた。

 

2013・8・9

 

 

 

       75歳の現役スイミング講師

 

 「アニバーサリー」という著書を新聞紹介で知った。作者は窪 美澄という女性、書評では「主人公は『75歳で現役のマタニティスイミング講師』」とあり、褒めてあった。

 75歳で現役スイミング講師ということばだけで、どんな小説だろうと本屋へ行った。

 

 それは若いつもりの自分がその歳になった驚きもあり、現役時代の友人たちの活躍もある。

 全く同じ75歳で障害のある子の水泳講師を続け、水泳大会の審査員などもこなしているという便りがあった。さらに75歳で商工会議所で働き続けている友や、得意の絵てがみ指導に施設へ通っている友たちがあり関心をもった。

 

 小説は40年近く水泳の指導員をした主人公が、75歳のいまマタニティスイミングで指導する場から始まっていた。

 比較的恵まれた家庭で育った主人公でも、子どもの頃戦争で食べる物がなかったり、疎開体験をしたり、3月10日の東京大空襲を体験しながら敗戦の日を迎える。

 

 コーラス部で音楽に親しみながら、やっと戦争が終わったことを実感するが、結婚して仕事に追われる夫を待つだけの生活に馴染めずにいた。2人の子の親になったがその後の妊娠は流産で苦しんだ。

 

 4人目の子を失い、「子ども2人の親になれなかったが、その2人分生きればいい」という夫のことばで、自分に出来ることを考え続けた。

 妊娠した女性たちに水泳を教えて、健康な子を産ませる仕事に燃え出す。

 

 第二章は、いろいろな考えや性質の妊婦の一人が、正式な夫なしの妊娠だった。

 母親は有名な料理研究家、父親も仕事に追われて留守がち、孤独な一人暮らしのような生活が続く。

 

 カメラマンに興味を持つその女性Mの高校時代、数少ない友人の一人に利用されて実質的な売春を続ける。いいカメラを買うお金がほしいだけでたくさんの男たちと寝る。

 その目をそむけたくなる描写に嫌気がさして、読むのを中断した。

 

 しかし第三章を読み、人生とりわけ女の人生というものを考えさせられた。

 その女性Mは、マタニティスクールに通っていた妊婦の一人だった。新しい命は父親となるべき人もおらず、一人で出産したのは3月20日だった。

 

 東日本大震災が3月11日でその9日後だった。原発事故の放射能が怖かった。

 地震に遭ったMは陣痛に苦しみながら分娩室で願い続けた。

 

 「出てきてはだめだ。この世界は終わり始めているから・・・津波に流された街、田畑、人、瓦礫に埋もれた原発・・・」 でも、女の子が生まれた。

 

 平成24年、震災から1年が過ぎ、生まれた子がよちよち歩く。

 「私たち、1年、なんとか、生き延びたのねぇ」

 75歳の主人公とその友人が、カメラマンの仕事を始めたMに写真を撮って貰う。

 

 昭和20年焼夷弾の降る空の下10歳だった2人、2人が過ごして来た時間を預けられたような気がしたM、そして自分が過ごした時間もいつかこの幼い子に預けるのだろう。

 この子は4月から保育園に通い始めた。

 

 75歳の主人公が夫に言う「もう〔水泳講師〕やめようと思う」。夫は「おまえを必要としている若い母親はたくさんいる。この国に。やめろといわれるまでやれよ。図々しく」。

 

 大きな地震が高い確率でくる。福島原発4号機、燃料プ−ルに入っているたくさんの使用済み燃料棒が地震でむき出しになれば、誰かが言っていたように「大量の放射性物質が放出されて、世界は壊滅する」。

 人々は黙り込んだり、絶望したりしながら毎日を何とかやり過ごしていた。

 

 戦争の悲劇から立ち直ったこの国が震災に遭い、2万人近くの人が死に、住む所を失い、原発事故で放射能を恐れて30万人近い人たちが避難生活をしている日本。

 

 人生の寂しさと小さな喜びをつくりながら、人々は生きる。

 女も働きながらの社会参加を、の願いを感じた貴重な長編小説だった。

 

「アニバーサリー」は、結婚、誕生、○○周年、記念のような意味

 

2013・5・18

 

 

 

       放射能の煮こごり

        津島祐子著「ヤマネコ・ドーム」を読む 群像2013年1月号

 

 3・11東日本大震災から2年ちかい月日が過ぎる。

 本気になって、世界の目線で原発問題と向き合った小説は520枚の長編だった。

 

 主人公ミッチとカズは、3歳のときママに引き取られ養護施設で、双子のように育てられた。アメリカ兵と日本女性の混血児だった。もうひとりの登場人物は、1歳下のヨン子である。

 この施設には、多いときは混血児が15人ほどいたが、成長してアメリカ、フランス、イタリー、スェーデンなど、世界の都市に仕事を求め、住み家を作って日本に住むヨン子たちと交流する。

 

 ミッチとカズとヨン子は、社会的に幸せとは言えない生活の中でも、親密な人間的感覚で生きてきたが、ミッチは10歳のときストーブの下敷きになって大やけどを負い、足が不自由になった。

 大人になったカズは仕事でシイの木を整える電動のこぎりの重さに体が揺らぎ、地面に真っ逆さまに落ちて死んだ。

 

「日本列島なんかこの世から消えてしまえ、日本は世界でいちばん、いやな国だと今まで呪い続けてきた。カズが死んで10年が過ぎたと、50歳を超えたミッチがつぶやく。ミッチは日本の大震災の津波と原発事故の映像を観て、戦争の爆撃を連想しフランスから日本に帰国した」

 

 戦後70年近い月日が過ぎ、豊かさに慣れた日本で、戦争とは殺し合いで庶民が犠牲になるということを体験した人たちが、どんどん死んでいなくなる。混血孤児たちが幸せとは縁遠い人生を送った現実に目を向け続ける作者に共感する。

 

 小説の中で事件として、ココア色の顔したカズたちが8歳のころ、仲間のミッチやヨン子と遊んでいるとき、オレンジ色のスカートをはいたミキちゃんが、みんなが遊んでいる近くの池で死んだ。そのときター坊がいた。カズやミッチたち混血孤児たちも疑われた。 それ以後オレンジ色の衣服を着けた5人の女性の殺人事件が起きた。

 

 ときが流れて、51歳の男が公園のサクラの木で首をつって死んだ。9歳のころ、当時7歳の少女が池に落ちて死んだ事件が起きた。ひとりの男の子が池に突き落としたかも知れないと、近所で言われ続けた。その子がター坊だった。

 

 息子が自殺したことを知った老いた母が言う。

 「関東大震災が起きても、戦争が起きても、世界はなんとかつづいてきたが、今度こそ世界は終わる。大地震に大津波、そして原子力発電所という装置がつづけて四つも爆発したのだという。そこから、むかし騒がれた放射能が踊りでてきた。日本で作られた放射能が日本をおおう・・・世界がやっと終わる。終わってくれる」

 

 「スウェーデンのストックホルムで暮らし始めた孤児の一人は、チェルノブイリで原子力発電所が大事故を起こしたとき、ソ連の出来事だと決め込んでいた。ところがその原子力発電所から発生した放射能雲がスウェーデンの方に広がっていると次第に騒がれ始めたので、2歳の子を連れてマヨルカ島に移った」

 

 久しぶりに日本に戻ったミッチは言う「日本人は放射能を怖がらないことにしたらしいけど、とんでもない話だ。みんな原子力の大好きな連中に騙されていたのよ。そして、これからもだまそうとしている。アメリカも日本も、そしてこのフランスも同じだ! 逃げてください。本当に」

 

 最後の章は「煮こごり」という表現で見事に〆ている。

 「頻繁に起こりつづける地震でよろめくたび、ミッチは放射能の煮こごりを思いだし、なんと浅はかなと、自分であきれ、ああ人間の五感ではなにも感じられない放射能汚染とは、こうしたグロテスクな世界を生みだすということだったんだと思い知らされた」

 

 日本のいま、放射能の不安に怯え、全国へ散り散りになったままの家族15万人以上、仮説住宅で将来に不安を抱き寒さに震える人々のめどが立たないまま、ときの政府は「原発再稼動」と「経済再生」とばかり赤字国債発行を考え実行している。

 

 ミッチが言う。「戦争に負けた日本を占領していたアメリカ兵が性欲にかられた結果、日本に残していった混血孤児なんだから、おれたちみたいなのは日本にいない方がいいんだろうね」

 

 人間の幸せとは、大金持ちになって大邸宅に住んで、贅沢することではなく、人が殺し合う戦争のない世の中、誰もが人として平等で、健康で働いて、心穏やかに暮らせることではないか。そう思う。

 

 作者は、世界で唯一被爆国の日本が、原初事故の放射能汚染に、解決のメドが立たない混乱状態を世界の視線で書いている。

 大震災後初めて、納得出来る文学作品に合えた思いだ。

2013・2・2

 

 

 

      オレはもう充分戦ってきた

         島薗進著『日本人の死生観を読む』

 

 〔1〕、おれはこの人生を精一杯生きてきた

 

 「日本人の死生観」は、映画「おくりびと」から始まって、最後を高見順の詩で結ぶ、死と生を考える貴重な著書だった。

 

 新鮮に胸を打ったのは高見順の詩

 

    ホームを行く眠そうな青年たちよ

    君らはかつての私だ

        私の青春そのままの若者たちよ

        私の青春がいまホームにあふれているのだ

 

    若い労働者たちよ

    さようなら

        君たちともう二度と会えないだろう

        わたしは病院へガンの手術を受けに行くのだ

               「青春の健在」より

 

 高見順が食道がんで苦しみ、4回の手術の末逝ったのは1965年8月だった。

 私の母も同年同月、食道がんで死んだ。その半年前から「味噌汁をのむと喉にしみる」と言っていたが、親子とも日常の忙しさに追われ、医者に行く暇もなく過ぎていた。我慢の限界になってやっと大病院の診察を受けた。

 

 医者から「検査の結果食道ガンです」と宣告されたがピンと来ず、重大事と感じなかった愚かな付き添いの自分、当時ガンはまだ珍しい病気だった。

 それから本屋に走り、医学書で死病であると知り愕然とした。半世紀近い昔の家族苦悩話である。葬儀の日、聞こえた「仏さまだった」という近所の人の声が、せめてもの救いだった。

 

    おれは今ガンに倒れ無念やる方ない

    しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない

       おれはもう充分戦ってきた

       内部の敵たるおれ自身と戦うとともに

       外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた

 

    だから今おれはもう戦い疲れたというのではない

    おれはこの人生を精一杯生きてきた

       おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

       ・・・・・・・・・・・・・・

 

    一生懸命に生きてきたおれを

    今はそのまま静かに認めてやりたいのだ

       あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ

       「おれの食道に」より

 

 最後の詩「おれの食道に」を読んで、ほんの少しだけホッとした。

 

 志賀直哉「城之崎にて」は、自然界の生き物〔鼠、いもり、蜂たち〕の生死に目を向けており、志賀直哉自身山手線の電車にはねられ重症を負った体験がある。

 

 著者が書くように「身辺の動物の死を描きながら事故にあって死に直面した自分の死生観についてたんたんと語った作品で、死の恐怖を超え死を身近なものとして受容することができたと述べられている」

 

 折口信夫柳田國男の民族信仰の歴史、更に戦争での特攻隊で理不尽に死んでいった人たちに触れて日本人の死生観を深く研究している。

 

 〔2〕、わが夫婦も一生懸命に生きてきた

 

 今いるのは国立病院の脳神経内科外来、待っている患者はおよそ10人、少し背が丸くなった婦人が診察室から出て来た。「脳梗塞かと思ったけど何ともなくてよかった」と付き添う人と言い合っている。

 

 同じく診察を終えて来た他の婦人は、夫に支えられ息子らしい人に手を取って貰いながら、診察室から出て来た。付き添う人の不安な表情が印象に残る。

 

 夫は、2011年夏、熱中症で意識不明になり、救急車で緊急入院した。併発した髄膜炎のずい液の数値から脳腫瘍の疑いで35日間も入院した。三途の川を渡ろうとして、「お前はもう少しこの世で働け」と言われたらしい。高齢者でもまだ肉体回復力があったのだろう。

 

 700もあったずい液中の異常な核細胞が、段々減り1年2カ月間経って何とか核細胞12と減った。でもふつうは5以下だからと、まだ「脳腫瘍の疑陽性」から無罪放免にならない。日常のふつうの生活はできる。が検査が必要でここに来ている。

 

 突然ガン宣告され、闘病の日々になった多くの人たち、高齢になった自分も明日の命はわからない。みんな死は平等に必ず来る。

 

 昨年3月11日、2万人近い肉親を瞬時に奪われた人たちの衝撃はどれほどだろう。助かった人も、あの日から1年半経っても仮設住宅で明日の希望がない生活だ。

 半世紀前は50代60代で逝く人が多かった。いま70代80代まで生きられる。なのに、自殺者は年3万人を超える年が10年も続く日本。

 

 凡人夫婦ながら、理想に燃えた青春時代はそれなりに筋を通し、40年以上も前に共働きをして「女が働くのは貧乏だから」の言葉も聞いた。子どもは共同保育で育ったが夜寝る前の本の読み聞かせ以外、ホッタラカシ保育だった。

 

 ただ人として間違っているときだけは厳しく家族会議をした。その2人の子達も成長してくれ、人の子の親になって働き盛り、世の中の中核世代になった。

 

 若い頃、世の矛盾に気付き、「世のため人のため」という理想を求めた。結果的に人のためではなく、人に迷惑をかけた人生だったかも知れない。

「資本主義の次は必ず社会主義共産主義に進むのが社会発展の法則」と信じた理想、その理想郷は1989年から91年にかけ崩壊し、20年が過ぎた。

 

 神経症にならないのが不思議なほどの仕打ちや貧乏にも耐えた。いろんな人に「お陰」を頂き、若く、愚かしい人生も最終章である。

 

 いい人生というのは、世の中で働くにしろ、文学や音楽の趣味の世界に浸るにしろ、触れ合った人が、何となく「こういう親切を頂いた」「こんないい人だった」「優れた能力で周りを納得させた」と思うような道、自身も納得いく道なのかも知れない。

 

 自分たち夫婦は欠点だらけながら「苦労も多かったけれど歴史の真実、ほんとうのことが体験出来て良かった」と言い合いながら、高見順の詩「オレはもう充分戦ってきた」のことばに励まされる。

 

 著者の言う「死を前にした病苦を抱え、これらの作品を結晶させていく身体的、精神的力はどれほどのものだったろうか。自分自身そのような境遇に見舞われたとき、何ができるか心もとない。だがそうした折に高見順の詩句のいくつかを思い出すことが出来たら一つの支えになるだろう・・・」におおいに共感した。

 

2012年9月11日

 

 

 

       8月15日は遠くなり 金石範著 虚夢譚〔きょむたん〕を読む

 

 近頃韓流ブームで、音楽、映画やドラマ、IT関連など韓国は元気である。とりわけ済州島は人気で日本の観光客が多いと聞く。

 この本のテーマである1945年8月15日といっても生まれていない、ないしは赤子だったという人がほとんどで、戦争を知らない世代が過半数になった日本である。

 

 『虚夢譚』の背景

 

 9歳の子どもでこの日を体験したが、8月15日は日本敗戦の日との自覚はあった。

 正午、疎開先で近所の人たちとラジオを囲んだ。意味は分からなかったが天皇のことばを聞いた長い戦争で国土は焼け尽くされ、8月6日広島に8月9日は長崎に原爆が落とされた。 「ファットマン」と「リトルボーイ」種類の違う原爆で実験された日本で、数十万人が殺された。

 

 一方、侵略された朝鮮の人たちにとっては、8月15日は祖国解放の日である。解放直後から在日朝鮮の人たちは、堰を切ったように民族文化運動を展開した。

 例えば『民主朝鮮』の金達寿〔キムダルス〕のように。しかし、1950年7月GHQと日本政府によって終刊にさせられた。

 

 「虚夢譚」を読んだのは、単純に8月15日に対する関心だけだった。しかし、関連した図書を読んで侵略され、連行された苦しみの在日朝鮮の人たちがそこにあった。

 

 1945年8月15日から2年近く経った1947年3月1日、済州島で島民大会を開催したが、占領軍と警察が発砲して死者が出た。そして翌年48年4月3日島民が武装蜂起

し、島民24万のうち8万人余が殺傷された。これが「四・三事件」である。

 

 口にすることも難しかった「四・三事件」とは、表向きは南での単独選挙阻止であるが北に繋がる社会主義実現の蜂起だった。

 

 更に歴史は深刻で1950年、北から攻め込まれた朝鮮戦争で、38度腺を境に北朝鮮と韓国に引き裂かれて今日に至る。進歩的といわれる人たちは、みな南から攻めたと信じ続けた。それが重大な誤りだったと判明したのは43年も経った1993年だった。

 

 1991年のソ連邦崩壊から2年後、『赤旗』北朝鮮特派員として長年活躍し、その後解任された萩原遼氏の渾身の研究が『朝鮮戦争』として、文芸春秋社から出版された。

 

 氏は1989年に米国へ渡り、国立公文書館にある北朝鮮の文書160万ページを2年半の歳月をかけて通覧し尽した。

 彼は「朝鮮戦争の始まりは北朝鮮・金日成の侵略だった」ことを証明した。個人的にもご縁ある、氏の執念である。

 

 以後、次第に理想郷とは程遠い北からの侵攻と北朝鮮の実態が信じられるようになった。

 一方的、一面的な視点は誤りであることを深く自覚する。

 

 朝鮮は悲劇の国だと思う。

 

■赤い範囲は北朝鮮占領地域 ■青い範囲は韓国(国連軍)占領地域
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                                       済州島↑

 

 『虚夢譚』から

 

 主人公の私は「犬の鑑札」ならぬ「朝鮮人鑑札」と呼ぶ「外国人登録証明書」をいつも携帯している在日朝鮮人である。

 

 「1945年8月15日、19歳の私は大阪から所用で戻った東京で『ついに来るべきものが来たのだ!』と、純粋に生きてきた民族主義者のつもりだった。宮城前広場で行わ

れるという『日本軍人の集団自決』その光景をこの眼で見ておきたい欲求から電車に乗った」

 

「若い女があたふたと乗り込んできた。…若い女は私の真正面の席に座った……」

「電車は悲しみで重たかった」彼女は眼元をハンカチの端でそっと抑えていた。電車が焼け跡の中の乗る人のいない停留所を通過したとき、彼女は巫女のような怨念のこもった顔付になっている顔を上げてきた」

 

 「……朝鮮の街や村や野におどり出たわれわれの同胞は、抱擁し泣きじゃくり、狂喜し、舞い一目散に駆け出しているだろう。そして万歳!を絶叫しているだろう……」途中で車掌に言って 電車から跳び下りた私。

 

 「よたよた去っていく電車を見届けながら、真夏の午後を歩いた。拳で涙を拭った。……正午の放送が蘇ってくる。来るべきものがとうとうやってきたのだ! 新生の時代がついに到来したのだ!」

 

 「1945815日私が電車を跳び降りてからのあの女は嗚咽しつづけていたのだったか、また突然の私の行為にどんな思いをしたのだったか、私は知るよしがない」

 「私の中には二日酔いのように夢の跡が残っていて死に絶えていなかった。……奇妙でいやな夢なのだ。拡大粉飾してでっちあげれば虚夢譚にでもなりそうな夢である」

 

 「電車の中で嗚咽した女性は、不覚にも私が落とした涙を見て私を日本人と勘違いした。でも私の中の民族の怨恨が大きすぎる」

 

『虚夢譚』を読んで、独特の巧い風景描写と「20年も経った8月15日にあの弾力的な明るさはすでに失われていた」が印象に残った。

どんな事柄でも、全く異なる見方があることを忘れてはならないと考えさせられた。

 

 金石範はこの『虚無譚』の前に『鴉の死』で残酷な様子を書き綴った。それは生首を入れた竹かごをかついで徘徊する爺や女囚のエロ行為など、長編『火山島』も、すべてスタートの『鴉の死』に戻るといわれる、作家の信念ととれる。

 

 金石範〔きん せきはん、キム・ソクポム〕略歴

 

1925年 大阪生まれ。両親は済州島出身。戦時中に済州島で暮らし、朝鮮独立をめざす人々と知り合う。

1945年 大阪で終戦を迎え直後ソウルに行くが、46年には日本に戻りその後日本で暮らす。関西大学専門部経済学科、京都大学文学部美学科卒業

1948年 済州島で「済州島四・三事件」という弾圧、虐殺事件が起きる。これが後の作品のモチーフになっていく。

1957年 『文芸首都』に発表したのが『監守朴書房』と『鴉の死』であるが、このときは話題にならなかった。

1967年 『鴉の死』の単行本出版。それを機に関係をもっていた朝鮮総連を離れる。

1969年 『虚夢譚』を『世界』に載せる。

1970年 『万徳幽霊奇譚』で作家としての地位を確立する。

1976年 『火山島』を1981年までの6年間『文学界』に連載する。それが単行本にまとまり、1984年に大仏次郎賞受賞する。

       なお『火山島』は1995年に完結し、第二部も単行本になり、一、二部あわせて1998年に毎日芸術賞を受賞している。

 

      『虚夢譚』は、2002年2月に『戦後短編小説再発見 政治と革命』講談社文芸文庫に再録された。

 

 主な著作

 

      『鴉の死』1967年

      『万徳幽霊奇短譚』1970年

      『ことばの呪縛―「在日朝鮮人文学」と日本語」』1971年

      『夜』1973年

      『火山島』1967年〜1997年

      『なぜ書きつづけてきたか・なぜ沈黙してきたかー済州島四・三事件の記憶

      と文学』2001年共著者・金時鐘

      『国境を越えるもの「在日」の文学と政治』2004年

 

 

 

       池澤夏樹著 春を恨んだりはしない

         震災をめぐって考えたこと 中央公論新社〔2011・9〕

 

 1、患者と一緒に泣く医者

 

 著者は3月11日の大震災以後、何度も東北を訪れている。震災地大船渡で医療活動を継続している知り合いの医者を案じて、4月10日取材ついでに医院を尋ねた。

 

 医師が昔から診察している患者を診察しながら、「生きていてよかったな」と老いた患者に言う。すると「だけど、俺より立派な人がたくさん死んだ」と言って泣く。気づいてみると患者と手を取り合って泣いている。医者なのに。

 その医師は「たくさんの人の被災の話を聞いたけれど『なんで俺がこんな目に遭わなければならないのか?』という恨みの言葉にはついに出会わなかった」と言った。

 

 わが夫婦も、4月に例年の山歩きを東北旅行に変更して、実際にこの目で被災地の状況を見たいと計画していた。ところが、仙台空港の便も1日1便で不定期のうえ、鉄道も計画通り回復していないと分かり、止むを得ず延期していた。

 

 この医院の箇所を読んで、情報で流れる被災地の状況だけでは分からない人のつながり、それが心に沁みる。

 3月11日の大震災で大勢の人が悲しみ、死んでいった。いまもそれは継続している。

 

 春には桜も咲いた。著者は、古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を紹介しながら、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」という詩が震災以来ずっと頭の中で響いているという。

 

     またやって来たからといって

     春を恨んだりはしない

       例年のように自分の義務を

       果たしているからといって

     春を責めたりはしない

 

     わかつている わたしがいくら悲しんでも

       そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと

     …………

 

 2、我々は4枚のプレートの境界の真上に住んでいる

 

 太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートと北米プレートが出会ったところに、下から押し上げられたのが、日本という島々である。

 不安定な陸地 火山の噴火、地震とそれに伴う津波が頻繁に発生する。20世紀の100年だけに限っても主な噴火災害75回、主な地震津波災害32回と記録されているる。〔東京大学地震研究所、地震と津波と火山辞典〕

 

 この本には16ページにわたって、東北の写真だけのページがある。

瓦礫だけ写した写真がある。静かな海の写真がある、瓦礫の中を中学生が歩く写真も、それらにあらためてすべてがなくなった喪失感を抱く。

 

 「……この国土は自然の力があまりに強いから、それと対決するのでなく、受け流して再び築くという姿勢を身につけてきた」4枚のプレートの境界の真上にある国土、世界でも珍しい国土をもった国で、人々は諦め、忘れることで生き抜いてきた。

 

 3、「昔、原発というものがあった」

 

 著者は「原子力は人の手に負えないことを、フクシマは最悪の形で証明した。エネルギー源として原子力を使うのを止めなければならない」と明確に記す。

 

 私の子ども時代は戦争だった。原子爆弾で大勢の人が死んだ。世界で初めてこの国で原爆が落とされたことを、忘れない。

 著者が言う「『昔、原発というものがあった』と笑っていえる時代の方へ舵を向けるべきだ」に納得する。

 

 「陽光と風の恵みの範囲で暮らす。何かを我慢している訳ではない。屋根にソーラーパネルを載せた家。そんなに遠くない職場と、すぐ近くの畑野菜、背景に見えてくる風車」。とりわけ次の表現がいい。

 

 「アレグロではなく、モデラート・カンタービレの日々」

 

 「たくさんの人々が、付き添いがないまま死んだ。

 地震と津波はその余裕を与えなかった。彼らが唐突に逝った時、自分たちはその場にいられなかった。悔恨の思いを生き残ったみなが共有している。

 どうしようもない思いを抱いて先に向かって歩いていかなければならない」。

 

 「この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば、生きる姿勢も変わる。大量生産、大量消費、大量廃棄の今のような資本主義と、その根底にある成長神話が変わることを期待している」と、著者はこの本を締めくくる。

 

 この本は、素直な分かり易い文章で難しいことを表現している。多面的に文学者らしく。久しぶりに、しっくりこころに落ちた本に逢えた気がした。

 

2011年11月17日

 

 

 

       ひきつけられる「仏の発見」

          五木寛之、梅原猛著 〔狂犬、野良犬対談〕

 

 はじめに

 

 「学会の」狂犬と「文壇の」野良犬と、ご本人たちが発言されているので、失礼を承知で敢えて使った表現。が、なぜ狂犬や野良犬でなければならないのか、納得した訳ではない。

 

五木寛之が梅原猛との対談を『仏の発見』にまとめた。真実の重み、事実に納得し、ぐいぐい惹かれていった。

エッ? イチロウは仏に近い? 欲望のコントロールを完全に実行している。

 

 「如来」と「菩薩」も、混乱していた。梅原猛は言う。「如来」これは完全に悟りを開いた仏さま。「菩薩」は仏を目指して努力している人間と。

 

 1、「女を出せ」と迫られて

 

梅原猛が五木寛之に問う場面がある。

「ご自分の本当の人生が悲惨過ぎるので、文学の世界に入ったのか」と。

「平壌−ピョンヤンで敗戦になり、日本にひきあげてくる途中本当に地獄を見た。

13歳から14〜5歳がしんどかった」と五木寛之が答える。

 

「ソ連軍が、日本人がたくさん収容されている倉庫などにジープで乗りつけ、自動小銃を構えて『マダム・ダバイ〔女出せ〕』という。毎晩のように。

全員の死活にかかわることですから、幹部がいろいろ相談して、年寄りはダメ、あまり若い女学生はダメ、子どものある人はダメとか事情を考えて、ソ連兵に出す女性を選んでしまうわけです」

 

「本人たちが泣いて嫌がったりするのを、結局みんなで押し出す」そういうことを繰り返して生きてきたものだから、深い罪の意識、負い目がいつも付きまとった。

自分は悪人、許されざる人間であると。

 

戦争とは、何と理不尽な、人として許されない悪であることか。赤紙一枚で戦争に駆り出されたわが父、5人の子どもは幼く、母は平穏な家庭を突如崩壊させられ、耐え難い苦労の日々の果て逝った。

 

 2、自由に立ち向かう

 

それに対して、梅原猛は「生まれて1年3カ月で母が死に、叔父の子として育てられた」と言う。どこかに生い立ちの悲しみが・・・と。

五木寛之は「本の中にずっと流れている、ある種の悲しみが感じられるのはそのせい?」と問い直す。

二人には幼き日の、若き日のこのような体験あればこそ、苦しむ者や、弱き貧しき者たちの心が分かるのだと思う。

 

日本哲学会で東大の教授がニーチェの研究を発表した。梅原猛は立命館大学の助教授で「ニーチェはそうだけれど、あなたはどう考えるんだ」と鋭く質問したら、東大の先生びっくりしてタジタジになった。

猛という名前もあって学会の猛獣、狂犬のように思われた。

 

小林秀雄、丸山真男といえば日本の知性を代表する横綱、「日本の思想」という本で、丸山真男は「日本の思想は蛸壺型」と書いたことに、孤立無援で闘った。 梅原猛は後々まで、いろいろ丸山の弟子たちに意地悪されたという。

 

 私が共感したこと1

親しい友が、「源氏物語」こそ最高の文学と、心底惚れ込んでいる。

梅原猛は、「源氏物語」は貴族社会の人間、とくに女性のかなしみをよく描いている。けれど、庶民の悲しみはまったく書かれていない」と言う。

 

「能は違う。たとえば『善知鳥 ウトウ』という作品は、外ケ浜の猟師は鳥の命をとることしか生きる道がない。しかも差別の民、本当にやりきれない、かなしみを描いている」。

能には、いままで縁がなかったが、映画も含めてそれなりに知る「源氏物語」は、そうかも知れないと思った。貴族社会の人間と庶民の悲しみの目線が違うのだ。

 

 私が共感したこと2

「カチンの森事件」について五木寛之が触れた箇所がある。

 

第二次世界大戦初期に、旧ソ連軍がポーランド人捕虜2万人以上を虐殺した。それから70周年にあたる2010年,ポーランド大統領や政府首脳を乗せた政府専用機が途中で墜落し、全員が亡くなるという事件が起きた。現場はモスクワ西のカチンの森に近い所だった。悲劇がなぜ重なるのだろう。そう思うと、どうしても何かあるんじゃないかと感じてしまう。という五木寛之。

 

ドストエフスキイの「カラマーゾフの兄弟」では、無神論で神を信じなかったイワン中心の物語になっているが、神が存在しないなら罪もない。親を殺してもいい。となって異母弟のスメルジャコフが、イワンの父フョードルを殺す。

 

その後のロシアで本当に起こったことは、神のない世界の、人間の大量殺害だった。イワンの思想はレーニンの思想であり、スターリンの思想であり、それは何百万という人が殺された、20世紀の凄まじい悲劇という。

 

一時期、社会主義こそ理想であり、正義であると信じた青春を送った。三池闘争があり、60年安保闘争があった。

1950年の朝鮮戦争は、南朝鮮と米国が38度戦を越えて北へ侵略した戦争と長年、信じて疑わなかった。

 

1964年にソ連が核実験したとき、日本の原水爆禁止運動が分裂した。政党の一員として、党中央が論じているように「ソ連の核実験はきれいな核実験」などと、およそ考えられない恐るべき「忠実思考」に陥っていた人生。恥多き人生に気付き、「反党分子」になって地獄を味わった。

表現力豊かなあるお方に、「分子はひとり。じゃなくて多数だから分母だ」と言われた。

 

東欧、ソ連邦崩壊で、世の中の真実を知り欣喜雀躍してから、はや20年が過ぎた。

梅原猛、五木寛之、2人の意見は、20世紀というのは、文明の時代というけれど、実は大量殺人の時代だったで一致した。

 

 3、穢れのない世界を

 

2011年6月26日、奥州平泉が世界文化遺産に登録された。

国宝の金色堂で知られる中尊寺と毛越寺〔モウツウジ〕などの、建築物と庭園群。子どもたちが未だ家にいた頃、家族で2度訪れた所。

 

芭蕉は、「夏草や 兵どもの夢の跡」と謳った。

室町、鎌倉時代殺し合った歴史の果てに、穢れのない世界とされる「浄土」を目指したとされる。大震災で破壊した東北の、日本のこころにしたい。

 

「がんを3度も患い、80歳過ぎてよく生きていると思う。五木さんも純文学の作家には、疎まれたほうですよね」。そう発言する梅原猛は「学会の狂犬」。なら、真実追及の研究とは何なの? 

五木寛之が「文壇の野良犬」なら、純文学って何? 庶民が読んで納得できる文章表現ではないの?

 

読み易い対談をまとめた本「仏の発見」だった。

 

2011年9月1日

 

 

 

       長編ユーモア小説『兵士シュヴェイクの冒険』 ヤロスラフ・ハシェク著

 

 はじめに

     戦争を知らない人がほとんどの時代、兵士に縁がなくなった平和な時代が65

     年間続いた。父の出征や、国民学校入学の頃から連日の空襲で逃げ回り、親

     と離れての疎開、食料不足など寂しさと飢えを経験した者は考える。

     現実の情勢から、『兵士シュヴェイク』を考察する意味も、あるかも知れないと。

 

作家野間宏が『真空地帯』を発表したのは1952年、当時のベストセラーになった。

また、映画『真空地帯』は山本薩夫監督で、評判だったが、東宝争議や、占領軍総司令部のレッド・パージで、多くの映画会社で仕事ができなくなった。それでも独立プロを結成して映画作成し、芸術的にも興行的にも成功した。

 

日本の軍隊は上から下への暴力が絶対化され、常に号令で、人間を兵士という戦争遂行の道具にしてしまう。しかしいかに強制されても完全に道具にはなりえない。

 

疑うことを許されない軍隊の狂信的組織は、陸軍刑務所という監獄も武器にした。徹底した日本の軍隊、兵士だったという歴史を踏まえて『兵士シュヴェイク』を読んだ。

 

 特徴1、アルコールと仮病蔓延の軍隊

      時代が第1次世界大戦〔1914年〕や、ロシア革命〔1917年〕当時であることと、地理的に島国日本と違い、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ロシアと隣接した大陸という違いだと思うが、『野火』、『真空地帯』などに描かれた、日本の軍隊物語とは違う実態も感じた。

 

 例えば、こんな場面がある。

軍医は本来病人である兵士を治療するのが仕事である。

しかし仮病人になって、サボタージュしようとする兵士が多く、軍医は肺病患者、リュウマチ患者、チフス、糖尿病など訴える患者に手荒い処置を指示する。

 

何病の差別なく、発汗用アスピリンを服用させる。日に2回胃を洗浄する。石鹸水とグリセリンで浣腸する。冷たい水に浸した敷布に病人を包む。

 

これらの中で、浣腸の段階までくると、死んで軍用墓地に運ばれるか、或いは、もう病気が治ってしまう。軍医は有名な言葉を吐く。

「チェコ人というやつは、仮病人の集団だ」

 

善良な兵士シュヴェイクは、「皇帝陛下のためにからだが八つ裂きになってもご奉公申し上げます。しかし、リュウマチでひざが腫れています」と、リュウマチの苦しさを訴えた。が、軍医は「おまえは仮病人だ!」と断じ、下士官に「この男を投獄するのだ」と命じた。

ただ、乏しい食料を巡ってのせめぎ合いは日本軍と変わらない。

 

 小説第4巻の最後に近い場面。

少尉が士官候補生と階段を登りながら、「各中隊の将校に割り当てられているレバー・ソーセージの分け前を、要求する権利があるかどうか」で言い争っている。

 

シュヴェイクは言う。「軍隊の中心は炊事場といろんな食べ物だよ」。

日本と違うのは、アルコールを飲んでの司令官の乱れ方ではないか?

アルコールで部下の面々も規律なしになるのである。

 

 少尉が意識を失うほど酔いつぶれる場面の会話

「わたしはどこにいるのかね」

「女郎屋にいられるのであります。少尉どの。神のみちはさまざまなのであります」。

忠実な部下のおおいなる皮肉になる。

 

 

 

シュヴェイクが、うっかりロシア兵が水浴びするため脱いだ軍服を着て、ロシア軍が撤退したとき、前線で野戦憲兵隊に捕らえられた。

「お前が何者か、わかる電報が来なかったら、お前は絞首刑になるのだぞ!」

 

「心配をおかけします。少佐どの、ベッドでシラミにたかられた場合、背中に赤みを帯びたやつならオスで、腹のところに赤味を帯びたすじのある、長くて灰色のやつがいたらそいつらは夫婦で、恐ろしく繁殖力があり、兎そこのけなのであります」。こんな発言が白痴扱いの原因なのかも知れない。

 

「戦争中に軍服をなくすことが、何を意味するか知っているのか?この悪党め!」

「申し上げます。少尉どの。兵士は軍服をなくすれば、新しい軍服をもらわなければならないのであります」。

 

主人公のシュヴェイクが、忠実な軍人ながら、その言動から白痴扱いされるが、次々と過去の出来事を述べ続ける状態が多い。白痴どころか、よくぞ、しゃべり続けるその暗記力と思う。日本人はことば少なく誠意の行為で現す。

 

これらはアルコールに強い外国人故、飲んでしゃべる、述べるが普通なのだろう。

そこが、日本の軍隊と大違いの小説になったひとつの要因かも知れないと思った。

軍隊の中ではオーストリア語、チェコ語、ドイツ語、ハンガリー語、ロシア語が入り乱れる。

 

 特徴2、ユーモア溢れる挿絵でシュヴェイク主義を

ヨゼフ・ラダ〔チェコの水彩画家〕の絵入りで、読み易くユーモアを散りばめた小説である。

1〜4分冊で、372枚の絵が随所に描かれた「絵物語」として、長編にしては読みやすかった。

 

ラダの描いた「シュヴェイク」の絵は、540枚にもなるというが、ハシェクの死で未完になった部分を引いても372枚になるらしい。

チェコの画家ラダは、「世界的に有名なユーモア小説『シュヴェイク』が挿絵になるまで、ハシェクは生きていなかった」それが残念といっている。

 

オーストリーの皇帝と政府にとって善良な兵士シュヴェイク。

ところが、そういう兵士であろうとすればするほど、シュヴェイクは彼らに損害を与える。ここに「シュヴェイク主義」の本質がある。

 

どんな体制であろうが、およそ人間社会のあるところでは、抑圧と横暴がまかり通れば無力な民は沈黙。

でなければ知恵〔ユーモア、笑い〕で答えるほかなくなる。

シュヴェイクが立ち上がり、シュヴェイク主義を発揮することは大いにあり得ることだし、必要だと思う。

 

人民が支配するといわれながら、実は一握りの人たちによって逆に人民が支配、抑圧されていた1953年ないし1960年当時のチェコスロヴァキァ、その他の社会主義国もふくめて、歴史とは何なのか。唯一絶対という考えだけは持ちたくないと思う。

 

訳者が記すように、著者ハシェクはユーモア作家というより、体制批判の鋭いハリを身につけた、反戦平和の風刺作家である。そういう面をもっと挿絵にして欲しかったと翻訳者は記す。同感である。

 

 

 

 ヤロスラフ・ハシェク〔1883年〜1919年〕の経歴

 1883年4月30日 チェコ〔当時はボヘミア〕のプラハに生まれる。

      父ヨゼフは、ボヘミア出身で中学校の数学、物理の教師だった。

      頭がよかったハシェクは、小学校の成績抜群だったので、両親は中学と高校

      を一つにした八年制の学校に入れた。

      始めのころは成績もよかったが、父が1895年ブラハに流行ったインフルエ

      ンザで寝込んだら、成績はがた落ちした。その後96年に父は死んだ。一家

      の貧困状態のなかでハシェクは学校をやめてしまった。

      プラハで印刷工になろうとしたり、薬やの見習い店員になったりしたが、実社

      会のきびしさがわかり、1899年に3年制の商業高校に入り優秀な成績で卒

      業した。

 1902年から銀行員になった。翌年には学友で文学仲間と詩集を出したりした。

      放浪癖があったハシェクは、銀行に無断でスロヴァキアへの旅に出てしま

      い、その年に2度目の無断欠勤してクビになった。

      短期間、犬のセールスマンとして働いた。これが、小説の主人公シユヴェイク

      に引き継がれ、その口を借りてありそうにない逸話が語られたとも言われる。

 1907年プラハで出ていたアナキズム新聞の編集者になり、ボヘミアの炭鉱労働者

      や、モラヴィア地方の繊維労働者のところへ、講演に出かけたりした。アナキ

      ストのデモに参加したりしたが、ハシェクは警官に暴行したと逮捕された。裁

      判の結果1ヶ月の刑で投獄された。

 1910年27歳で結婚した。相手は獄中から恋愛関係にあった若いヤルミラという女

      性だったが、当初、父親は反対だった。理由はアナキズム運動、経済的に安

      定していないなどだった。

      ハシェクはルンペン生活を清算して、飛躍的に執筆作品を増やした。『法の

      枠内における平均的進歩の党』という長編など、この時期の創作力は凄まじ

      かった。

      奇妙な名の党は、アナキスト的仲間たちと創ったサロン的な政治グループだ

      が、酒場とレストランを兼ねたかなり広い場所で、集会なども開いた。

      第一次世界大戦が終わった頃から、長編『シユヴェイク』と共に『法の枠内・・・・』の

      作品は傑作として、高く評価されていると、『シュヴエイク』の翻訳者の来栖継

      氏は記している。

 1915年ロシア軍相手に苦戦していたオーストリーの軍隊に徴兵された。そこでの体

      験を『シュヴェイク』に巧く取り込んでいる。

      「ぼくの知り合いのだれそれさんが、どこそこでね・・・」というマクラをおいて話

      をするシュヴェイクの特徴は、実名で小説に出てくるルカーシ大尉とその従

      卒との、軍隊体験が『シュヴェイク』にうまく取り入れられ、魅力にもなってい

      る。

 1917年11月にロシア革命が勃発すると、ハシェクは共鳴して翌18年にロシア共産

      党に入党した。赤軍はコルチャック軍と戦いつつ、東へ東へと移動し、つい

      にシベリヤの都市イルクーツクに本拠を置くことになり、ハシェクは国際部長

      などの要職にもついている。

      訳者はあとがきで書いている。「そのままロシアにとどまっていたら、この状態

      がいつまで続いたか疑問である」。ロシア革命の矛盾がこういう言葉を書か

      せたと思う。

      プラハ時代あきらかにアル中で、禁断状態になると何も出来ず、酒がなくて

      は生きていけなかった彼は、別人のように変わっていた。それはロシア革命

      という大きな炎に包まれて、理想に燃えたこと。それに酒のことを考える暇が

      なかったというのが本当の所らしい。ハシェクには、多分にシュヴェイク的なと

      ころがあったと考えられる。

 1920年プラハに姿を現した。政治情勢は厳しく、身の危険も感じられたのでボヘミ

      アに帰って、長編小説『シュヴェイク』に取り掛かった。その頃から、酒を飲み

      出したという。長らく酒を絶った体に、急に沢山飲んだり、不摂生と過労で病

      気になった。

      画家に画料も払えなかった小説『シュヴェイク』は、次第に読者を獲得し、続

      きが待たれるようになった。出版を引き受ける書店も出てきて、友人の勧めで

      小さな田舎町に越したハシェクは、小説の完成目指して青年に口述筆記ま

      でさせたが、未完に終わった。1923年1月3日死去。

 

 その他 井上ひさし著『一週間』と通じ合うもの

   井上ひさしは、生前心がけていたことがあった。文を書くのに「むずかしいことを

   やさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、おもしろく、おもしろいこと

   をまじめに」だった。

   最後に書き残した『一週間』から、さらに深く「兵士」が読み取れたように思う。

 

 大江健三郎 の書評より

「『一週間』の主人公小松修吉は、まず兵士シュヴェイクをスマートにしたような、屈託のない様子で現れます。

シベリヤの苛酷な風土、市街の景観、日本語を高度に習得した赤軍将校たちの自己表現。ていねいに、しかし何気なく示されるそれらのいちいちが、じつにふんだんに集積された情報を、注意深く整理したものであることを感じとる読者は多いでしょう。

 

ロシア文化を多面的に体得していられる井上ひさし夫人、その姉の米原万理さんのお2人に徹底的に学ばれたはず。

小松は共産党の地下運動に加わって働き、スパイ問題で党組織壊滅の後、入獄、転向する。新天地満州に渡る。守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリヤで収容所生活をしている。

 

捕虜たちの生活の極度の悲惨が、ハーグ陸戦法規の俘虜条項に、赤軍も日本軍も無知であったことに因るのであり、収容所でもそのまま踏襲されている旧軍幹部の秩序がそれを拡大されていると気づきます。

 

修吉がさらに酷寒の北シベリヤで暮らすことになるのであれ、折りにふれかれが健康な壮年男女の、懸命なからみあいを思い出す時があれば、そこにはある微笑が浮かびうるのではないか?私はそれを準備する仕掛けだったかと、思いあたります」。

 

 その他の書評

「小松ら、名もなき兵士たちはシベリヤに置き去りにされ、多くは死に追いやられた。一方、関東軍高級軍人たちは、ぬくぬくと過ごし、生き残った。しかし、真実は依然、歴史の闇に隠されたままだ。・・・江上剛

 

「将校は兵卒の食糧の上前をはね、労働を押し付け、背く者を虐殺する事実、しかし井上らしく笑いを忘れない・・・松山巌

 

「シベリヤ抑留をこれほど喜劇的に描いた作品があっただろうか。もちろんこれは著者の趣向であって軽妙な語り口から引き出される史実はずっしりと重い。・・・井上最後の長編は、彼の小説の見事な達成点である。知る、考える、伝えることに生涯をかけた著者だ。・・・永井愛」

 

 

 

       むずかしいことが やさしく書かれた

        井上ひさし著『一週間』のこと

 

井上ひさしが死んだとき、生前、心がけていたということばが新聞で紹介され、全文を知りたいという希望が多数寄せられたという。

それは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、おもしろく、おもしろいことをまじめに・・・」と言うような言葉であった。

 

いい心がけだなあと感心して、ピアノレッスンや、文章講座の後などに話したら「井上ひさし大好き。演劇でのユーモアや、どんでんがえしの面白さなど、もう終わりと思ったら寂しい」など、何人かに言われて、わが身の勉強不足を悟った。そして、『組曲虐殺』と

『一週間』を読んだ。

 

『一週間』は、全体として難しいテーマを読み易い文章で書き、実によく研究してあると思った。何より「理想主義」「地上の楽園」「平等社会」と、かつて自分も、活動家として日常的に使ったことばの果敢なさを感じさせた。

 

主人公の小松は、それを信じて日本での命ぎりぎりをかけた非合法活動の体験者である。

レーニンの手紙を中心に、ドラマをみるように話を展開し、レーニン自ら少数民族出身であることを手紙で明らかにしながら、社会主義こそ理想社会だからとその後の情勢の中で、少数民族を犠牲にしていく。社会に染込んだ、凄まじいまでの「革命元祖レーニン教」。

 

シベリヤへ60万人抑留し、シベリヤ収容所各所で死者6万人という惨劇を、捕虜になっても、日本の旧軍隊制度で部下の食料、衣料、寝具など上官命令で取り上げ殺している実態は知らなかった。シベリヤ抑留の残酷さは、かなり知られるようになったが・・・。

 

先の大戦でドイツ、イタリアなどの捕虜死亡は4%なのに、日本による捕虜は27%が死亡しており、シベリヤ抑留者は、ひと冬だけでなんと8%が死んでいる実態。

 

1917年の革命後も、地上の楽園、平等主義どころか、高級軍人やその家族らの特典パスの状態などなど綿密な調査、研究なしではとても書けない、長編である。

 

いまは亡き米原万理が、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』や『オリガ・モリソヴナの反語法』の小説を著し、大好きだった。その米原真理が、井上ひさしの再婚相手の姉だと知り、リアルな出来事の描写に納得できた。

 

ただ一つだけ、引っかかり、分からないこと。それは離婚した先妻への家庭内暴力のこと。いい文が書け、研究する力があれば暴力は許されるのか??

 

 『一週間』について、大江健三郎は次のように絶賛している。

 「『一週間』の500ページにわたるゲラ刷りを文字通り、寝食忘れて読んだ。・・・井上ひさしは、昭和、平成に屹立する劇作家、小説家、人間であったという感情。こういう人と親しく、同時代を生きることが出来たという感慨が、彼の死による崩壊感を償ってくれるようですらあった」。

 

 

 

       五木寛之著『親鸞』のこと

 

 文章が読み易く、背景に、女にもてる親鸞や、人のいい悪人などを配して、大事なことを悟らせる。クリスチャンでも、仏教徒でもない自分が一気に読んだ。

 

 ショパン生誕200年の今年、「200年も経って、まだ人々の心に沁みる音楽、クラシック音楽ってスゴイ」と思う。

 が、親鸞は800年もの昔、歴史上の人物なのに、現代に生きるわれらに通じるものがあるからか、この本が60万部以上も売れているという。

 

 親鸞の時代、世は末法と言った。

 末法の世とは、まともに生きていては暮らせない世の中ということ。正直者は損をし、弱い者は踏みにじられ、裏切りと恐怖が支配する時代である。

 行き倒れや、病で死んだ者たちが道端に打ち捨てられている光景が珍しくなかったとか。

 

 平氏の全盛期を経て、源平の争い、そして春、夏のひでり、秋の大風、洪水と続く大飢饉で、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐひ、数も知らず〔方丈記〕

 

 京の仁和寺、隆暁法印は、死者の額に阿の字を書いて縁を結ばせた。その数42000余りになったという その後、京は、直下型の大地震に襲われた。〔ごみ・ふみひこ放送大学教授〕

 

 豊かで便利になったはずの日本、貧困率は14.9%と高く〔2000年OECD統計〕、世界で4位とか。深刻な不況で職場を、住む場所を奪われた沢山の人たち。自殺者は毎年3万人を超える。

 

 就職も高校卒で半数近くが決まらず、大学卒でも一部除いて厳しい。このような現実を前に、親鸞の目線は、世間の大多数の貧しき者、弱き者たちに向けられ続け、それが何より私を引き付ける。

 

 小学2年のとき戦争が激しくなり、名古屋市郊外にある母の故郷へ疎開した。そのとき周りは殆ど「親鸞さま」を信奉する浄土真宗の、善良な仏教徒だったことも影響しているかも知れない。

 

 そんな子ども時代の状況の中で、父を戦地に取られ、家を焼かれた5人の子と母を、哀れと思った〔だろう〕近所の農家の人が、かぼちゃを持って来てくれた。

 

 別の年寄りが瓜を乳母車に入れて、「みんなで食べやぁ」とくれた。その人たちの施しは食べる物が何もない疎開者への、慈悲のこころだったのだと思える。

 

 疎開して来た慣れない田舎の学校で、いやなことがあると祖母に話す。すると祖母は「人の悪口はいうもんじゃないよ。なまんだぶ、なまんだぶ〔南無阿弥陀仏〕」と私を諭した。

 

 農業で食べるのに精一杯の叔母一家が、焼け出され一家を引き受けること自体、信心がなければ出来ない事だったろうと、いまにして思う。

 

 叔母は大きな声で「ご大儀さまです」「おしまいやす」と、丁寧な挨拶ことばだったのは、なぜだろう?

 そんな疑問は解けない。みな故人になってしまった。

 

 「この世は苦の娑婆、なまんだぶ なまんだぶ」という言葉も、子どもが覚えてしまうほどよく聞いた。

 

 自分の周りを考えてみても、働きすぎて子どもが鬱〔うつ〕になった人。震災で娘と逆縁になってしまった人、夫と離婚して一人で働きながら苦労して子育てした友、或いは、待望の子や孫が、障害をもって生まれたという何人もの友人たち。

 みんな前向きに頑張って生きてはいる。が、これらを苦の娑婆というのだろう。

 

 「善人なおもって往生す、いわんや悪人をや」この言葉は、「悪をするほど助かるのだと叫んで悪を行う」悪人製造の教えと非難され、誤解されたこともあったようだ。

 私も有名なこの言葉の、理解は不十分のままだった。

 

 この著書の中では、親鸞が「人にもまして煩悩ふかきわたくしです。妻をめとり、肉も魚も食らい、念仏もうしております」と、師法然に言っている。

 

 人は体の具合が悪かったり、自分は死ぬのではないかと心配したりするのは、煩悩のせいであると。人は、この世の縁がつきはて、やがて死んでいくときがくる。

 

 つまり自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な善人さえ往生できるのだから、

 ほかに頼るものがなく、ただひとすじに念仏で他力に身をまかせようという悪人、

 他力の光に心から帰依する人々こそ、わが身の悪を自覚し嘆き、極楽往生できるのだ。という理解である。

 

 親鸞が末世の貧困の世に修行しつつ、仏教とは、仏とは、と求めたもの。それは仏陀の初心に帰らねばならないだった。

 「人はみな平等である。身分や職業の高下などない。この世に生きることは苦しい。心と体が痛む者を助けなければならぬ。よりよく生きる道を探そう。そして喜びをもって生きよう」。

 

 しかしと考えた。若い人には分からないかも知れない。

 かつて「平等な社会主義社会は理想郷」を信じた。みんなのための理想と思った組織の中で、唯一絶対の真理、一面的思考その矛盾に戸惑い、心身ともに苦しんだ。

 

 世のため、人のためが、逆に人々に迷惑をかけた事態も多かったと思える。

 それら社会主義国が崩壊したいま、やっと苦しんだ体験があって良かったと思えるようになった。

 

 宗教を信心する、しないに関係なくこの著書が素直に読めたのは、多分、人生が終章に入ったからだろう。

 

 

 

       「快楽」を語る科学者 「苦」を言う僧

         茂木健一郎著「人は死ぬから生きられる」

 

 「人は死ぬから 生きられる」題名を見て怖そうな本だなと思った。

 

 脳学者茂木健一郎と、禅宗の僧侶南直弥が、東北の恐山で対談した。それをまとめたのであるが、それはケータイも車も、インターネットも関係ない、真剣な哲学問答だった。

 

 死者に会えるという恐山、恐山は死者の好意が宿る場所、人の思いが形になる場所だという。そこで著者は、未来を言い当てられてしまった気分という。「行雲流水」。きっと、それ以外の生き方はないだろうと。

 

 少し前なら「古来稀なり」と言われた歳まで生きた自分の、心深くに入り込んだ一冊になった。

 7年前、兄が急死した直後に、計画どおり東北に旅し、月山に登った。猛烈な吹き降りで、文字通り死者の涙雨だと、共に登った夫と言い合った。

 

 「月山」で芥川賞を受賞した森敦は「庄内平野の北限にある月山は、死者の行くあの世の山」と書いている。

 頂上では雨が止んだ。素朴な神社で祈祷して貰ったが、その最中に天に魂が昇った感じがした。

 

 「惜しむべく 悲しむべきは世の中の 過ぎて又来ぬ月日なりけり」。

 禰宜さんは、こう詠い、書いてくれた。素朴な態度に、死者の旅立ちを思い、はじめて涙がこぼれた。

 恐山であれ月山であれ、死者を考える点で同じだと思った。

 

 若い脳学者は脳関係の著書を多く出している。同時に今年、真冬のドイツを旅し、現実を確かめた。若い日の音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハが、オルガン奏者だった教会に女性を入れて歌わせた、これは当時禁止されていた。

 

 町はずれのバッハ一族の墓での話、人はいつかは死なねばならない。どんな偉人でも与えられている時間と空間は同じである。旅の間何度も脳裏をよぎった考えという。それらを「音楽の捧げもの ルターからバッハへ」にまとめた。

 

 1年前には「すべては音楽から生まれる 脳とシューベルト」を著している。その中で

「音楽は目に見えない。触れることも抱きしめることもできない。・・・ただ私たちに出来ることは、耳を傾けること。全身で音楽を感じようとすること。抱きしめるのではない。耳をすます私たちを、音楽が抱きしめてくれるのだ」と書く。

 

 「シューベルトは自然体、25歳のときの散文を引用し、『愛をうたうと悲しみになり、悲しみをうたうと愛になる』

音楽と文章、双方の通低音は、自分の生き方そのものだったのではないか」と、「冬の旅」や「魔王」を評価している。

そして、いつも限りある命を頭においている。

 

 NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」キャスターにもなっている。多面的活動を揶揄〔やゆ〕する声も無くはないが、この対談で私は誠実さを感じた。

 

 対談の中で僧は言う。

「人生は苦である。快も不快も全部ひっくるめて『苦』とブッダはいう。最後の土壇場になすべきことをなし終えたと思えるかどうかだ。断言できたらこの世における解脱である」。

 

 2人が対談して一致したのは「苦しいことは楽しいこと。楽しいことは苦しいこと」

「人生のどこかで、苦しいこと自体が一番楽しいことなのだとわかるのは、人生の何よりの宝である」ということだと理解した。

さらに「安心立命ではない。苦しくったって何とかなるんじゃないかとしか言えない。

 

 底知れぬ暗闇、つまり絶望を知っている人じゃないと、希望の光は見えない」。

 自らの絶望体験と、そこから立ち上がった体験を想い、また、戦後の貧しい時代、よく停電した。真っ暗な闇の生活の後、パッと電灯がつくときの感じを思い出す。

 

 「生きているから絶望できるのであって、絶望の底で何かひらめく。これが希望と呼べるのではないか」。

 

 長年永平寺で、あるいは恐山で修行を積んでいる僧侶は「人間は皆死ななければならないけれど、必ずしも、みんな生きていなければいけないわけではない」と言い切る。

 

 釈迦の言葉を引いて「生きていて嬉しくて楽しくて結構なことより、辛くて悲しくて切ないことの方が多い。毎日が楽しい人はそれで結構。だけど仏教は辛くて寂しくて苦しいことの方が多いという前提で話を始めるんだ」という。そんな気もする。

 

 子どもの頃、熱心な仏教徒の祖母がいつも、念仏を唱えながら仕事をしていた。そして折りにふれ呟いていたのがこの言葉だった。「この世は苦の娑婆じゃ。なむあみだぶつ南無阿弥陀仏」。無宗教の自分であるが、それを懐かしく思い出した。

 

 毎年ゴールデンウイークに開かれる音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」のアンバサダーもつとめる多彩さ、これらの感性をもつ科学者だからこそ、修行を積んだ僧侶との実のある対談も可能だったと思った。

 

 その僧に「まったく自分を衒わない、自己顕示欲らしきものがない知的誠実さとなって研究や議論に表れる」と言わせた。

茂木健一郎という人間の持つ、相手からアイデアや考え方を引き出す、圧倒的吸引力、パワーに驚いたという僧、南直哉だった。

 

 一方の脳科学者は、南直哉を「この人は中学生で『諸行無常』という言葉に出会ったとき、助かったと思ったという。この人は尋常ではない。対談中、ひょっとしたら天から使わされた怪物と向き合っているのではないかと、思う瞬間が何度もあった」と言う。

 

 二人の感性の豊かさ鋭さに驚き、共鳴した。

 深い哲学的、人生対談だった。

 

 

 

       知りたかった「真っ赤な真実」

 

 2006年5月、56歳で米原万理は逝った。

 

 米原万理が卵巣癌の手術をして2年半、リンパ節へ転移した。

 凄まじい嘔吐に苦しんだ抗がん剤治療、あの苦痛と恐怖だけは避けたいと、さまざまな代替治療に挑戦した。癌が消滅する前に、私が消滅しそうな抗がん剤治療はいやと、本を読みまくり、インターネットで探しまくった。藁をもつかむ思いで道理のありそうな医師へ積極的にアタックした。

 

 サブリメントや高額な健康食品を売りつけるのが目的にみえる本が多い。その中で、自身の免疫力を高める療法を主張する医師の診療を受ける。治療を受けて暫くすると、どの医師も再度の手術を勧める。治療費を返すからもう来るなとまで言われた医者もある。

 

 結局、癌治療は、手術、放射線、抗がん剤にとって代わる道理ある何か、という段階にいたっていない。医師が明言するそのことばに、現代医療の限界を感じた筆者だった。それが米原万理の「打ちのめされるようなすごい本」に載っている。

 

 つい最近、親しい友人ががんを患い、苦悩の末、がんの三大療法である手術、放射線、抗がん剤の治療から、玄米自然食、代替療法に切り替えて体調がよくなった体験を聞いた。

 

 それを、民間の放送局の幹部に話して、報道を要請した。しかし、良心的なその人も、さすがに現状では考え方は沢山あると、報道を断られた。

 同席していた私も、同感だったが、代替療法の優れた点や、三大治療の限界もわかった。

 

 「打ちのめされるようなすごい本」は、火を噴くような情熱的読書、47編の読書日記であり、 文学、音楽、歴史、政治の、幅広く多面的、膨大な読書からの140冊の書評、その数の多さに驚く。

 

 これらは、1959年から5年間プラハ・ソビエト学校に学び、ロシア語通訳第一人者として活躍した筆者の能力に加え、実践体験が生みだした独特の感性とみた。

 

 「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞、「オリガ・モリソヴィナの反語法」でドゥ・マゴ賞、「不実な美女か貞淑な醜女か」で読売文学賞、「魔女の一ダース」で講談社エッセイ賞を受賞。数々の受賞がそれを証明している。

 

 私は、生前の米原万理のことばにハッとした。

 共産党員だった彼女は、ある時共産党中央から査問された。その査問のやり方から、共産党に殺されるかと思ったと、友人の外務省佐藤優氏に電話で話した。

 

 そして、佐藤優氏にその査問実態を話したいと、都合を打診した。しかし、約束の日はたまたま佐藤氏はある事件で逮捕される日だった。残念ながら二人は会えなかった。

 佐藤氏はその経過を、インターネットで書いた。 

 

 それまで私は、米原万理が共産党員だったとは知らなかった。考えてみれば亡き父は中央の大幹部だったから当たり前か。

 米原万理は、電話で党中央から査問されたことを話すと、「外務省も危ないから辞めなさいよ」と彼に言った。

 

 何を問題にされ査問されたか、故人となったいま、知ることもできない。

 佐藤氏としゃべりたかったホントのこととは、何だったのだろう。

 

 独断で考える。

 癌はストレスが大きな要因、私たちが知らないところで殺されると思ったほど何かを理不尽に追求され、それが決定的なストレス→癌となったのではないか?

 

 若かった自分の遠く辛い思い出、56歳の母親を強烈なストレスの結果、食道癌で失った記憶と重なった。

 更に、21日間監禁され、査問された夫、自宅に帰ってからも顔色優れず、明け方に必ず呻き声をあげた夫が、無言で表した恐怖体験と。

 

 (文芸春秋社、2006年)

 

 

 

       津島祐子の作品に囲まれて

 

 1、「黙市〔だんまりいち〕」の父親観

 

 「森の茂みから、仔猫がこちらをにらみ据え、身構えている。森といっても、古い日本庭園で・・・」

 この短編は、こんな描写で始まるが、父親とか家族についてのさめた見方が印象的だった。

 

 「母同様に、自分の子どもたちに男親というものを、味わわせてやれない母親、それだけはイヤだと思い続けた者になっていた自分」。

 

 そして、「その男にこだわって2人も子どもを産んで」「子どもにとっての父親は、写真だけのしゃべらず、動かない人間の影にすぎない」。

 「男は子どもたちの父親には違いないが、その子たちを見守り続ける父親ではなく、自分の子とは妻の産んだ2人の子なのだ」。

 

 都心にある森に捨てられ、うごめく亀、猫、犬たちは、かつてペットとして人間に飼われ、捨てられた生き物たちだ。

 

 一方、建ち並んだマンションに住む子どもたちが、ベランダにすきな食べ物を置くと、オス猫がきてメス猫を孕ませ何度も父親になる。

 

 「人間の場合は、生まれた子を自分のものと認めて、はじめて父親になるが、必要な時に、子どもがオスのなかから父親を選ぶということで充分ではないか」。

 

 ここまで書き切る強さ、黙ったままの人間の男と、ベランダにくるオス猫との強烈な対比が、作者のこころなのか。


 森の中に捨てられた生き物たちは、森の中から人間世界を見つめ続けている。

 

〔川端康成賞受賞作品〕

 

 どこまでも「あの事件」が

 

 津島祐子の父は太宰治、39歳の誕生日に愛人と玉川上水で入水自殺しているが、人間の内面を晒す、強い作品は現在も人気があり、読み継がれている。

 

 有名なこの事件を、この「黙市」だけでなく、いろいろな著作で書いている。というより、書かずに居られなかったと思う。

 その父の事件にからむ表現がある何冊かに、触れておきたい。

 

 2、「アニ中上健次の夢」

 

 ドイツで彼と言い争った。私たちのほかにも編集者が2人同席しホテルのバーで飲んでいた。

 

 ・・彼が急に私に向かって、それにしてもなぜ、あんな死に方をしたんだろうね、と言った。あんな死に方、とは女との心中事件ともいわれる私の父親の死に方を指している。

 

 さあ、わからないと答えると、そんな大事なことも自分で考えようとしないのか、まわりの解釈にただ甘んじているのかと、私を叱りつけた。

 この一方的な決め付けに私の癇癪がいっぺんに弾けて、彼にどなり返した。

 

 ・・・・・・いつだって考え、考え続けている。当たり前ではないか。

 だいたい、本当に心中ときめつけていいのか、事故だったかもしれないし、あんな死に方などと、気楽に言ってほしくない。

 

 自分のお兄さんに死なれている〔自死〕あなたが、よくそんなことが言えるものだ、それは死者への冒涜ではないか・・・・

 

〔初出 新潮 90年9月号〕

 

 3、「母の場所」

 

 弟が12歳で死んだあと、母に口もきかない日々を送る高校生だった。母は40冊か50冊もあった日記帳を捨てたが、4冊だけは残された。・・・

 

 一番古い1冊は、私の父が死んだ年の日記だと、それだけはすぐ気がついた。

 敗戦後間もない頃、肺病で兵隊にならずにすんだ会社員の父は、祖父と妻子の住む自分の家を出て、一緒 に住み始めた若い女と薬を飲んで死んだ。

 

 母にとってこれ以上最悪の出来事はなかっただろうと、幼いころから了解していた・・・・父の死んだ日から〔日記は〕空白、3ヵ月目になって記録が開始される。・・・それぞれの日記帳の白いページに、母の感情が生きたまま埋められている。

 

 どうして死んでまで、私にいやがらせを言おうとするんですか。ええ、あなたもお分かりのとおり、私は今、どこかほっとしている。

 とにかくあなたなりに解決をつけてくれたんですから、3人の子どもを残して。互いに満足し合っていた夫と死に別れた妻のように悲しめったって、むりです。

 

 よりによってこんな人騒がせな解決法をとらなくったって・・・そう思うと腹も立ちます。3人も子どもがいるんですからね。・・・


 あなたと結婚したから、喜んで母親になり空襲があったって、食料がなくなったって、あなたの両親のそばで一所懸命子どもたちを育ててきたのに・・・子どもたちは、あなたのお父さんでなく、あなたを求めていた、当たり前すぎることじゃないですか・・・あなたは私の子どもたちの父親だというのに。

 

〔初出 新潮 97年10月号〕

 

 4、「火の山 山猿記」

 

 噴火する火の山、富士を眺め、八ヶ岳、赤岳など南アルプスなどの雄大な山々を望む甲府盆地、そこに育った者をときに山猿とも言い、物語を展開させる。

 〔噴火する山の研究者、石原初太郎の娘が津島祐子の母〕

 

 この物語は、満州国を作り、犬養首相がファシストの将校に暗殺された日本の時代背景、そこからの家族の歴史を語りたい。と、戦後米国に渡った有森勇太郎の手記を土台にしている。時代に逆らえない家族像が歴史と共に語られる。

 

 41年12月8日の米英との大東亜戦争勃発、悲惨なインパール作戦〔日本軍の死の行進〕や、ノルマンディ上陸作戦などと共に、北海道洞爺湖噴火や、浅間山爆発などの描写もあり、総合的、歴史的な読物になっている。

 

 その中で、画家と結婚した娘がある日、新聞一面に衝撃的な写真入の記事を発見する。


 池袋に近い雑司ケ谷の都営墓地、冬吾〔画家〕は、妊娠した女とシベリア帰りのその夫の若い夫婦と、血だまりの中で発見される。 冬吾と男は胸と首を切られて絶命、女は病院で手当てを受け質問に答えていたが、昨夕死亡した。

 

 冬吾には、この他にも第一の女と第二の女がいた。

 題名から想像していた内容とは違い、壮大なドキュメンタリー、歴史小説ともとれる小説で、上下2冊、各500ページ近い大作だった。

 

 最後に人間の死についての、次のような記述が印象的に残った。

 

 死ぬときに、ああ私にはもっと別の人生があったはずなのにと、自分の生涯を後悔しなければならない程不幸な事があるだろうかと思い続け、死も怖れ続けた。でも、それは傲慢かもしれない。

 

 死ぬ時はそんな傲慢さも消え失せている筈、そんな気がしてきた。

 自分はこれだけの時間を生き、そしてそれを終えた。始まりがあれば終わりがある。単純な終わり、後悔も満足もない。ただそれだけ。死とはそういうものだ。

 

〔初出 群像 96年8月号から97年8月号まで連載〕

 

 太宰治の死から60年、来年は生誕100年60回目の桜桃忌が終わった。

 

 津島祐子−略歴と受賞作

 

    1947年東京生まれ。

    白百合女子大英文科卒。太宰治の次女。2児を抱えて離婚。

 

 主な受賞作

   「葎〔むぐら〕の母」   田村俊子賞

   「草の臥所」       泉鏡花賞

   「寵児」          女流文学賞

   「光の領分」       野間文芸新人賞

   「黙市」          川端康成賞

   「夜の光に追われて」 読売文学賞

   「真昼へ」        平林たい子賞

   「火の山 山猿記」   谷崎潤一郎賞 野間文芸賞

(2008年7月)

 

 

 

       斃れてのち元まる・・・に励まされて

鶴見和子著『遺言』

 

 『葬送の自由の会』会報で『姉は、南方熊楠の研究をしていたので、自身の死の作法として、熊楠ゆかりの神島近くの海に散骨を望んでいた』。そういう弟鶴見俊輔氏の文を読んだのは最近で、社会学者鶴見和子氏を身近に感じた。

 

   斃れてのち元〔はじ〕まる宇宙輝いて そこに浮遊する塵泥〔ちりひじ〕我は

 

 これは、1995年に脳卒中で倒れたときのうたで、倒れてから若いとき学んだ短歌が、次々ほとばしり出るようになったという。

 

 倒れたときの医者は「運動神経が毀れた。これは治りません」と宣告した。そして「認識能力と言語能力は完全に残った。だから車いすで読んだり書いたり、仕事しなさい」。

 

 「仕事しなさい」のことばは大きな励ましだったという。

 77歳で倒れた人に「仕事しなさい」という人はいない。病人の方も「わたくしは左片麻痺で重度身体障害者です」などと挨拶して、講演など出来ない。それどころか、精神的に悲観し、落ち込むのがふつうだと思う。

 

 ある講演で「倒れて2年目が、わたしにとっての回生元年になりました」。生きる意欲の素晴らしさに圧倒されたのが、この本に魅せられた第1の理由である。

 

 和子氏は1918年生まれで、倒れたとき77歳、それからおよそ10年、驚異的生活を創り出し、2006年死去した。

 『遺言』を読んで2番目に圧倒されたのは、体は動けないのに、その視野の広さである。

 

 社会学者だから当然と言えば、そうでもある。しかし、例えば「現在、アメリカ大統領のイラク戦争の論理は、味方でないものはすべて敵であり、排除すべきなりという二者択一の考えである。

 

 これに対して異なるものは異なるまま、互いに助け合って共に生きる道を探求すべきである」。

 この文章を読むと、これが倒れて歩くことも出来ない、日常生活の不便とたたかっている人とはとても思えない。

 

 「80歳以上でリハビリをやっても回復の見込みがないから無駄、月2回のリハビリを月1回にし、その後は自主リハビリとする」。

 小泉内閣の政策変更で、自身ベッドから楽に起き上がって車椅子に移動できたのに、背中が痛くて起き上がれなくなった。

 

 つまり、リハビリテーションで、老人の機能を維持し自立の生活するのが大切で、そうでなければ寝たきりになってしまう。そういう、孤独な老人生活を身近な問題で訴えつつ、考えていることは壮大である。

 

 「すべての生物の命を奪うのが戦争である。憲法改正の国会の動きは、9条を捨てて自滅への道へ進むたくらみではないか。左半身麻痺の体で時々刻々生かされていることに感謝しつつ、切実に憂い、自滅の道を歩まないことを切実に祈る」。

 

 日本女性に、こんな勇気と、優れた能力のある先輩がいたことが、大きな励ましである。

 

   いのち細く ほそくなりゆく境涯に いよよ燃え立つ炎ひとすじ

 

(2007年5月25日)

 

 

 

       米原万理著『打ちのめされるようなすごい本』

 

 この本の何に打ちのめされ、何がすごいのかって?

 それは体当たりの、火を噴くような情熱的読書、47編の読書日記であり、

 

 文学、音楽、歴史、政治それに犬猫学、ダニのような生物、さらに自身を蝕む癌治療の実践的検証も含む、幅広く多面的、膨大な読書からの140冊の書評、その数の多さである。

 それぞれに説得力があって、ぜひ読んでみたいと思える面白さ満載である。

 

 これらは、1959年から5年間プラハ・ソビエト学校に学び、ロシア語通訳第一人者として活躍した筆者の能力に加え、実践体験が生みだした独特の感性とみた。

 

 「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅荘一ノンフィクション賞、「オリガ・モリソヴィナの反語法」でドゥ・マゴ賞、「不実な美女か貞淑な醜女か」で読売文学賞、「魔女の一ダース」で講談社エッセイ賞を受賞。数々の受賞がそれを証明している。

 

 例えば斉藤美奈子の「モダンガール論」で進歩派の女たち市川房江、奥むめお、羽仁もと子、平塚らいちょうらが、戦争が始まるや「戦争は変化を求めていた人々の気持ちをパッと明るくした。昔風でなく活発で近代的センスをもった女性ほど、戦争にハマリやすい」と解説し、「戦後は婦人解放、平和運動のリーダーに復帰した変わり身の早さ」について「だからいったでしょ『進歩的』な女の人は、いつも『新体制』の前ではりきっちゃうんだって」と重いことを軽々と言ってのける。えっ、それホント?と思うような文だ。

 

 もうひとつ、「コーカサスの金色の雲」。第二次大戦末期、モスクワからコーカサスへ移住させられる孤児院の少年の話で、少ない孤児院への食料割り当てをくすねる院長のもとで、四六時中腹を空かしている子どもたち。授業で「戦争と平和」の一節を朗読する教師は、ロシア軍総司令官がヒナ鳥を食べるところ、手羽肉を嫌々ながら噛み砕いている。

 ひもじさに耐える子どもたちなら、肉をかじりとった後の骨のためだって、どこへでもとんでいく。

 

 ロシア19世紀は空前の文学黄金時代となり、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフなど、世界文学史上燦然と輝く巨匠たちを生み出した。その巨匠たちの圧倒的多数は貴族出身者で、食いぶちのことなど生まれてこのかた心配したことがない。文化はゆとりの中から生まれるとはいうが、描かれる生活や美意識は、やはり富裕な階級のものだという、目線の低さがいい。

 

 さらに、死者2000万人を超えた独ソ戦の間も、学校教育で扱う文学の九割は前世紀ロシアの作品だったと、批判的な見方をするあたりにも共感を覚えた。

 

 睡眠時間3時間で平気なソ連水爆の父アンドレイ・サハロフが、大江健三郎と対談したとき、通訳したのは1989年10月、日本から帰国して1カ月後急逝した。印象深かったのは、福岡から広島まで新幹線で移動したとき、広島が近づくほどにサハロフは黙り込んでしまった話。

 

 あるいは、丸谷才一の「輝く日の宮」について、10代半ばに読んだきり読み返す気にもならない「源氏物語」は、色好みともののあわれで、自分の体質ではない。そう思っていたというところは私も同感、それが心地よいリズムに乗って笑い転げ、源氏を舞台裏から小説と評論を何十冊も読破した気分になった。

 

 さらに、斉藤美奈子を再登場させ、「読者は踊る」の253冊の書評を読み、笑い転げながら、辛らつな指摘に唸ってしまうが、読後の清涼感はどこから来るのだろうと書く。

 

 「唱いたい〔小説を書きたい〕人がすごく増えた→彼らが大挙カラオケボックス〔新人文学賞〕に押しかけている→しかし所詮はカラオケ・・・」と、純文学のカラオケ化と表現している。「一発当てるにはマンガ家かミュージシャンが効率がよい。そっちの能力がなく、文章が選らばれる。エンタテイメントは技と知識の蓄積がいる。ノンフィクションは取材が不可欠、シナリオも多少の勉強が要る。手間暇かけず、日本語が書けるだけでイケそうな分野って、身辺雑記的なエッセイか純文学くらいなんだよね」。

 

 とにかく読んで! 読みなさい! 読むんだ! オドロイタが、とにかく読みたい!

 

 痛ましかったのは、卵巣癌の手術をして2年半、リンパ節へ転移したときの記述。

 凄まじい嘔吐に苦しんだ抗がん剤治療、あの苦痛と恐怖だけは避けたいと、さまざまな代替治療に挑戦した。癌が消滅する前に、私が消滅しそうな抗がん剤治療はいやと、本を読みまくり、インターネットで探しまくった。藁をもつかむ思いで道理のありそうな医師へ積極的にアタックした筆者の苦闘を綴る。

 

 サブリメントや高額な健康食品を売りつけるのが目的にみえる本が多い。その中で、自身の免疫力を高める療法を主張する医師の診療を受ける。治療を受けて暫くすると、どの医師も再度の手術を勧める。

 

 結局、癌治療は、手術、放射線、抗がん剤にとって代わる道理ある何か、という段階にいたっていない。医師が明言するそのことばに、現代医療の限界を感じた筆者だった。

 2006年5月、56歳で逝った米原万理、その早すぎる死が口惜しい。

 

 生前の米原万理のことば「殺されるかと思った」にハッとした。

 最近、インターネットで見たが、それは外務省の佐藤優氏へ会いたいと都合を打診したとき、たまたま佐藤氏はある事件で逮捕される日だった。残念ながら会えなかった。

 

そのとき、米原万理が共産党員で〔党員とは知らなかった。考えてみれば亡き父は中央の大幹部だったから当たり前か〕党中央から査問されたこと、「外務省も危ないから辞めなさいよ」と相手に言った。

 

 何を問題にされたか、故人となったいま、知ることもできないが、佐藤氏としゃべりたかったホントのこととは、何だったのだろう。

 

 独断で考える。癌はストレスが大きな要因、私たちが知らないところで殺されると思ったほど何かを理不尽に追求され、それが決定的なストレス→癌となったのではないか?

 若かった自分の遠く、辛い思い出、50代の母親を強烈なストレスの結果、食道癌で失った記憶が甦った。

 

(文芸春秋社、2006年)

 

 

 

       読書の喜びは幼児期が大切

 

 夏休みに、長男の小学3年になる子を2週間預かった。

 

 京都から来た翌日に、本屋と図書館へ行って、休み中に読む本を選んだ。自分で読む本と、寝る前に私たちが読んでやる本が決まった。

 

 「アラジンと魔法のランプ」は、面白くて孫は夢中で聞く。毎晩、約束した2章ずつを読んだが、読み聞かせながら寝てしまった昔の私のことを思い出した。

 

 お盆で長女の子も合流し、孫4人が勢ぞろいした時、ある光景に出会った。

 

 後で京都から親と一緒にきた妹に、先に来ていた兄が本を読んでやっていた。

 

    この子は名古屋の3歳のいとこにも読んでやっていた。

 

  見ていると、今度はこの妹の方が、3歳のいとこに、新幹線や電車の本を大声で読んでやっていた。

 

 幼児2人の生き生きした表情が新鮮だった。

 

 共働きで忙しい親が、子どもが寝る前に、本を読んでやっている。その読み聞かせをまねているようでうれしくなった。

 

 海月ルイの「近ごろは大学で読み聞かせをしている」のコラムを読み、読書の喜びは、小さい頃からの読み聞かせが鍵なのではと、考えさせられた。

 

朝日新聞 声欄掲載〔2006.8.31〕

 

 

 

       は死に、宇宙のひとつの粒子に還る

        売れている3冊の本、しみじみ共感して読んだ。

 

 1、柳沢桂子著『いのちの日記』 (小学館、2005年10月)

 

 子宮を取り、卵巣を取ったら病気は治りますか?

 

 『いのちの日記』で切なかったのは、将来を期待された科学者柳沢桂子が、原因不明の病で苦しむ記録の中で、子宮を取り、卵巣を摘出し、胆嚢まで摘出してしまったことである。

 

 現代医学の最前線であろう医者たちの判断に悪意があるとは思えない。しかし、めまいや頭痛、腹痛に吐き気で苦闘し続ける著者が、「手術すればよくなるのでしょうか?」との悲痛な叫びへの答えが、このような処置で正しかったのか。素人の私は、おおいに疑問がある。

 

 現在も周期的に襲う難病の苦痛と闘って、著書にされた筆者は立派だと思う。同時に、難病に対処できない現在の医学の、犠牲のような気がするというのは言い過ぎだろうか?

 

 力を発揮できないまま、苦しみの病に

 

 生後2ヵ月の子を育てながら、子どもを近所の奥さんに頼んで大学の助手として働き始めた話は身に沁みる。同世代の私たちは、産後休暇は42日が普通で出勤した。睡眠不足でふらつくような体で、休みがもう1週間あったらどんなに楽だろうと思った。そんな時代の厳しさである。

 

 「母ちゃんというのはね、家でまんま炊いているのが一番幸せ」

三菱化成に就職しようと面接したとき、社長に言われた。

 著者は7年間子育て、専業主婦をした後、そのことで迷っていたのに「母親が働く姿を子に見せるのは悪いことですか?」と口に出てしまったという。

 

 社長をうつむかせてしまった自分は、その分、へこたれてはいられなかった。そう記す著者は、生命科学の研究で貴重な成果を発表しており、さすがと感服する。

 しかし、1969年から病気との苦しい闘いが始まる。訴えた筆者に「これは心身症」と診断した医者もいた。なぜなら「症状が多彩で、医学的にありえないから」と、夫を通じて伝えた。

 

 病名も分からないまま、あちこちの大病院にかかり、それぞれの理屈で子宮、卵巣、を取られ胆嚢までも切除されてしまう。症状はよくならないまま寝たきりの生活を送った筆者が哀れである。

 

 栄養補給の点滴をやめようと決意した。それは死を意味する。「十分がんばった」という夫。家族のなかで反対、賛成と意見が分かれ、さらに別の医学的見解をもつ医者に診断を仰ぐ。

 

 大病院を止め、開業医の精神科にかかる。医師は「慢性疼痛、脳の代謝異常」と診断する。打ってもらった抗うつ剤で、やっと激しい腹痛がなくなり、起き上がれるまでになったとの記述が切ない。

 

 宇宙のなかのひとつぶの粒子

 

 お聞きなさい

 あなたも宇宙のなかで粒子でできています

 宇宙のなかのほかの粒子とひとつづきです

 あなたという実体はないのです

 あなたと宇宙は一つです

                    〔般若信経の心訳〕

 

 宇宙はクォークという粒子でできており、原子→分子→物質となる。

人間は、その大宇宙の中の粒子という考えに、筆者はやっと安らぎを覚える。それは筆者だけではない。

 

 2、柳沢桂子著『生きて死ぬ智慧』 (小学館、2004年10月)

 

 『生きて死ぬ智慧』はNHKで放送されたこともあり、2004年10月発行以来、9刷を重ねている。この本全体を飾る絵が、神秘的で凄い迫力がある。

 日本画家の堀文子は2000年82歳で5千メートルの高地ヒマラヤを踏破しているとか。並みではない意欲と迫力が生んだ素晴らしい絵が、著者が心でよんだ般若心経に説得力をもたせている。

 

      始末するもののみ多き老いた身に

              紅葉の一葉静かに落ちる  桂子

 

 3、五木寛之著『天命』 (東京書籍、2005年9月)

 

 『天命』で知った驚くべき事実

 

 五木寛之は、朝鮮からの引き揚げ者で、若い頃散々苦労した。とりわけ著書『天命』に記されている事実は、初めて知る私には驚きだった。

 命がけで引き揚げる人たち、その中の女性が多くの割合で、妊娠させられていたとの記述である。勿論、暴力で。なかには数10%もの高い率の地域もあるとか。

 

 福岡に着き、その事実を知った医師たちが、このままにしておけないと、ボランティアで堕胎手術を行なった。その胎児たちは、桜の木の下に埋められたという。それは、舞鶴でも、博多や長崎でも同じ事態だった。人間の哀しい性が私には悲しい。

 

 親鸞は生きることが地獄と考え『地獄は一定』と言った。死は「還る」。分子のひとつとして生まれた人間が、出発点に戻ると考える。ここで、科学者柳沢桂子の心訳する『般若信経』の「宇宙の一粒子」という考えと、文学者五木寛之の考えが一致する。

 

 さらに、著者五木寛之はブッダについて次ぎのように書いている。

 

 ブッダが死ぬとき、「遺骨の供養〔葬儀〕はおこなってはならない。分骨も禁止」した。死を自覚したときのブッダは、世界が輝いて見えた。と次のように紹介している。

 

 光に満ち、苦しさも憎しみももちろんない。

 美しく、仏教の無常の概念を超えた

 「永遠」に光り輝く世界

 

 『天命』が出版され、売れ続けているのは、不安の多い現代に生きる私たちが求めているものがこの著書にあるからだと思った。

 あとがきに「いかに悔いの多い人生でも、落ち着いて安らかに死を迎えることができる人こそ、人の真の成功者といえる」とある。

 

 死は新しい旅のはじまり

 

 「幸せな生き方を求めるならば、どうしても幸せな死に方を探さなければならない。そのために日常、つねに死のことを考え死のイメージに慣れ親しんでいる必要がある。死をいやなもの、おそろしいものとして拒否するのでなく、誕生と同じように、ひとつの新しい旅のはじまりと想像することが望ましい」

 

 著者は、奈良をスタートに東北から九州まで百の寺を回り歩いた。途中で、不可能、無理と思えてきたときもあったというが、なぜか、他力のような力に助けられて、歩き終えたそうである。

 

 『天命』は、いわば体験記であるという著者は、「今日一日をありがとうございます」「今日一日をありがとうございました」と、毎日声に出すという。

 私の友人もそうしている。宗教心の薄い私も、声にこそ出さないが、全く同じ心境であることに気づいた。

 

 

 

       本田靖春著『我、拗ね者として生涯を閉ず』

 

 このようなノンフィクションライターはもう現れないだろう。

 そう書いて『我、拗ね者として生涯を閉ず』の著者本田靖春を紹介していたのは中日新聞夕刊、「大波小波」というコラムだった。2004年12月4日死去。2005年2月に緊急出版され、1カ月で4刷を重ねていた。

 そのユニークな題名にもひかれて、読んだ。600ページ近い大部の書でオモシロイ。読ませる。

 

 由緒正しい貧乏人

 

 先祖代々、ずっと貧乏だったことをちょっと強調しただけというが、由緒正しいのユニークな使い方で読者を安心させ、ひき付ける。

 モノを欲しがらない氏は、「生活の基本は住まいである。通勤に便利な場所に、質のいい公共住宅が手ごろな家賃で提供される。政治にそれを要求すればいい」。いまにして甘かったと思うが、そう楽観的に考えた。

 

 世間はマイホーム熱で、自分の小さな幸せを求めて走り出した。国民の9割が中流と言われ出し、政治を変えようという意識は働かなくなった。

 父親は朝鮮総督府の役人になったが、その後発足した従業員7000人規模の、大会社幹部になった。植民地支配者の子としての恵まれた生活から、引揚者として帰国し、貧しい再出発をする体験からの由緒正しいのユニークな使い方が生まれた。

 

 全国一の読者数をもつという読売新聞、なかでも社会部が社会部であった時期は短かった。著者は1960年の安保闘争の頃を懐かしむ。

 安保改定阻止国民会議による統一行動は、5月に自民党が安保特別委員会の審議を打ち切り、強行採決をしたことで火がつき17万人のデモ隊が国会に押しかけた。

 

 その17万人分の1人だった私は、全国で繰り広げられる600万人近い参加者の統一行動を思い返しながら、これを読んだ。

 

 「安保」といえば「三池」と、1278人首切りに反対して闘う人々、弱いものが統一して闘った時代。ある席でその闘いの話をしたら、ぼくたちにとってそれは「関が原のたたかいと一緒」と言われたことを思い出した。

 

 著者が言うように「その光景を想像してもらいたい。いや、いまの日本の姿からあの場面を想像せよというのは無理である。わが国はすっかり変わってしまった」。

 「記者にしては文が巧いね」と言われてムカッとした光景が書かれているが、いろいろなエピソードを綴って、面白く読ませるのはさすが記者である。

 

 黄色い血、ドヤ街に住み込んで

 

 いまでは考えられないが、売血の常習者があふれていた時代があった。

 1962年ごろ、年間輸血需要量は60万リットルで、その10年前のおよそ360倍だという。外科の技術が飛躍的に進歩したことは喜ばしいが、血清肝炎という新しい病気が肝炎ウィルスの蔓延で大流行した。

 

 供血者から採血したものを21日間冷蔵庫で保管し、それから出荷されるようになっていた。C型肝炎として確定されているが進行すると、肝硬変から肝がんになる。

 大流行は売血業者が、日雇い労働者など低所得者層を狙って売血に奔走したことにある。東京では山谷、大阪なら釜ガ崎に採血所を設けて売血に狂奔した。

 

 常習売血者の群れ、が出来、肝炎ウィルスによる血液の汚染が始まり、血清肝炎が大流行し始めた。

 著者の偉いところは、実際にドヤに住み込んで、そこでの生活を体験したところである。黄色い血とは、頻回採血によって骨髄における造血作用が追い付かず、鮮血ではない薄汚れた黄色になってしまうことだった。

 

 専門的なことはとも角、献血で立ち上がろうと「黄色い血」キャンペーンを張り、1985年には860万人が献血するまでになった。日本の献血水準は世界最高になった。

 現在、かつて何かの手術で輸血をした結果、C型肝炎で苦しむ人は結構多い。その原因に当時、体を張って闘った人がいたのだ。

 

 さらに、この黄色い血問題は、かの悪名高い旧731部隊との関連が分かる。731部隊の残党が、ミドリ十字と改め、売血に依存しているアメリカの製薬会社から血漿の輸入を始めた。これが、血友病患者のエイズ感染問題を起こす。

 

 旧陸軍の731部隊については、このHPの 森村誠一著『老いのエチュード』のこと でも触れたが、森村氏は家族まで目に見えない相手から、理不尽な迫害を受けた事実をその文章に書いている。

 偶然だったが、森村誠一と本田靖春、2人の正義派の体を張った歴史的闘いが、このHPで出会ったことに喜びを感じた。

 

 肝がんは記念メダル

 

 本田靖春氏は、病気の巣だった。

 肝がんは、自らドヤ街に住み込み、取材で何度も血を売って、渾身の黄色い血キャンペーンを張った。その「記念メダル」という。

 98年に肝がん、その頃大腸に2ヵ所のがん発見、そして、糖尿病で右目失明、透析しなければもたない体だった。

 99年には左目も失明寸前までいき、足も壊疽で切断している。

 

 闘病記など面白くないからと、簡単に、淡々と重病の実態を記す著者だった。

 中高年にもなれば悪いところの1つや2つあって当然とばかり、あるがままを受け入れる。悲観的にならない態度は見事というほかなく、意気軒昂なその心意気を、悲観的になり勝ちな私はおおいに見習うべし。

 

 人間の幸せとはなにか? 人はどう生きて、どう死ぬのか、考えさせる著書である。 根底には、貧しき庶民への温かい想いがあり、何より人として失ってはならない、社会性と正義感が溢れていた。

 

 最後に

 

 高度成長時代が始まって、貧しくてもやさしかった人心が、自分さえよければに変わってしまった寂しさを綴った「病床で飽食日本を斬る」は興味深い。

 また、「百人斬り」の虚妄について、の項で、1971年の朝日新聞に連載された本田勝一氏の「百人斬り競争」の話について、次のような文が印象的だった。

 

 「読売在社中、奈良県の柳生の里に、柳生道場の師範を取材で訪ねたことがある。

 『剣豪荒木又衛門の16人斬りとか、10人斬りの話は実際にあったか』と訊くと、即座に『史実では2人か4人ということになっています。人間を斬るのは容易じゃない。刃こぼれはするだろうし、だいいち斬る本人の神経が保たない。10数人を斬り殺すなんて、とても考えられません』」。師範はこう答えた。

 

 このように記しながらも、「本田勝一氏の記事を批判して『南京大虐殺のまぼろし』の筆者鈴木明氏は、中国侵略という歴史的事実には1行も触れず、作為的に部分拡大をしたといわざるを得ない」と、真実を求めるもの書きらしい筆を振るっている。

 

 首相の靖国神社参拝問題など日中関係が微妙な現在であるが、歴史の真実は一面的な情報では把握できないと、あらためて感じたが、すでに亡き筆者が求め続けたそれを、直接著書を手にとって欲しい。

 

 絶筆「拗ね者の誇り」から

 

 「私は気の弱い人間である。自分に課した禁止事項は『欲をもつな』、その欲とは金銭欲、次に出世欲で、これらを持つとき人間はおかしくなる」。

 

本田靖春著『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社、2005年2月、2500円)

 

 

 

       池内紀著『自由人は楽しい』

おもしろくて、楽しい本でした。

 

 本を読んで、久しぶりにこころ楽しんだ。

 誰でも知っている有名な人たちの、自由人としての生き方が、語り口調で綴られているからアッという間に読める。それもそのはず、NHKラジオの放送されたメモ原稿を、編集者が読むための本にしたものである。

 

 「取り上げた人たちに共通するものがあるとするなら、たえず自由を求めたことだろう」そこから、大胆な発想が生まれ、生涯の仕事が実りをみせた。

著者あとがきより

 

 モーツァルトは時代を真剣に考え、人生は楽しむものとした。

 

 モーツァルトの時代、旅に次ぐ旅の生活で、手紙好きのモーツァルトはたくさん手紙を書いたが、必ず「手紙は着きましたか?」という確認から始まったとある。

 

 当時、手紙が着くか着かないか、かなり不確かだったと知り、面白かった。それというのも、過日、友人にメールを打った。が、そのメールは届いていなかった。送信済みアイテムに出れば、届いていないなんて考えもしない。大事なメールなら「メール届きましたか?」と確認した方がいいと思えてきた。

 

 18世紀半ば、平均寿命は35歳くらいで、モーツァルトが35歳で亡くなったのは珍しいことでもないそうだ。

 モーツァルトは、25歳のとき大司教とけんか別れのようなかたちで定職を捨てているが、25歳からの10年間が最も充実したときで、有名なオペラや交響曲を立て続けに作っている。理想的な条件を整えたから傑作が出来るのではなく、むしろ貧しい切羽つまったなかでこそ、みごとな作品がうまれてくるようだ。

 

 モーツァルトは、音楽の世界だけでなく、社会や自分が生きている時代というものを真剣に考えていたという。

 日常生活は心配したり、悲しんだり怒ったりするものであっても、やはり人生は楽しく生きるためにある。

 モーツァルトはそう考える人だったとあるのは、とてもうれしい。

 

 「ヘンデルとグレーテル」の知恵くらべ、「白雪姫」にみる少女の空想

 

 飢饉で親子4人は食べていかれない。親が子捨てをしようとする「ヘンデルとグレーテル」。

 森に連れていかれるヘンデルは、行く道々に小石を落として家に帰る道の目印にする。貧しさがあり、貧しい家庭があり、そしてそのなかで生き延びようとする知恵くらべがある。

 

 有名なグリム兄弟の童話について、このように書く。

 魔女についても、共同体からはじき出された人を魔女〔1人淋しく住んでいる少数派のおばあちゃん〕として差別し、葬り去る話は社会的にも政治の世界にもあり、現在もある。

 

 子どもや孫に読み聞かす物語の構造を、このようにとらえて読み直すと、とても新鮮である。

 

 近頃幼い子どもたちの間で人気が高い「白雪姫」についても著者は書く。

 ディズニーの白雪姫は、胸が豊かな美しい女性に描かれているが、白雪姫は7歳の少女の話だったと原話にある。

 

 子どもが、自分は母の子ではなく義理の母の子なのではないかとか、家庭のなかで自分だけが迫害されているのではといった、誰にでもこの頃ある空想話である。

 作者グリムの本では、「7つになったときに・・・」ときっちり書かれている。

 

 物語の終わりに「きさきに罰として、真っ赤に焼いた鉄の靴を履かせられる。靴が熱いのでピョンピョン跳ね続け、息が絶えてドタリと倒れた」で終わっているのも、7歳の子の空想らしいとあった。

 

 「腰の上の心臓」を書いたケストナー

 

 2つの世界大戦を経験した、おはなしおじさんケストナーは1933年に、ベルリンで焚書事件に遭っている。執筆を禁じられても工夫しながら、書き続けた。

 歴史を正確に伝えるという立場を守って。

 

 ケストナーは家庭が貧しく、すぐ大学に行けるコースに進学出来ず、いろいろ資格を取ってやっとライプツィヒ大学に入った。封筒書き、町でプラカードを持って立つ仕事など、いろいろ経験したが、生活者としてそれらを楽しんだようだと著者は書いている。

 

 腰の上の心臓

 

 いずれ人間というのは頭をなくして顔だけになってしまうだろう。

 その顔に番号がつけられるだろう。番号でしか人間を数えなくなるだろう。

 そして頭をなくして顔だけの、つまり考えることをやめて黙って従っている

 だけの人間がよしとされるだろう。

 そういう人間を組織して監視する人間たちが出てくるだろう。

 そのなかで羊のように従うのがいちばん利口な生き方だとされるだろう。

 

 著者 池内紀は、おはなしおじさんから、愛すべき物語作家、そして詩人のケストナーの作品で何が好きと問われれば「詩集」と答えると書いている。

 

 「人生処方詩集」と翻訳されている詩集を、ドイツ人は「家庭用薬局」「わが家の薬屋」と呼んでいるとか。

 孤独に耐えられないとき、貧乏がたまらなくなったとき、恋愛がうまくいかないとき、あるいは人生が嫌になったとき・・・などに読む詩といった具合で、処方箋のついた詩集など、世界に2つとないでしょう。そう筆者は書く。

 

 

 あまりにも有名なゲーテ

 

 82歳まで生きた彼は「ファウスト」を20代で書き始め、80代で完結させている。

 有名だから、わかった気持ちになっているが、どういう時代にどのように生きたか、なんとなくイメージを描いてしまっているのではないか。

 

 1929年にノーベル賞に輝いたトーマス・マン、あるいはヘルマン・ヘッセの物語。

 さらに、時代を読む先見性をもったロートシルトや古代トロヤの遺跡で有名になったシュリーマンの夢見る少年の始まりなどは、ドイツ文学者らしい視点と分析があり楽しい。ぜひ直接読んで欲しい。

 

 ゲーテの詩            〔生前未発表〕

気力をなくすると一切を失う

それなら生まれてこぬがいい

 

         〔病床につく10日前 絶筆〕

           戸口を掃除しよう

           すると町はきれいだ

           宿題をちゃんとしよう

           するとすべて安心だ

 

 今年は、アゥシュヴィッツ強制収容所が解放されて60年。ドイツのシュレーダー首相は、1月25日、記念演説をした。

 「かつて国家権力によって、自由と正義と人間の尊厳が踏みにじられたことを忘れるならば、自由も正義も人間の尊厳もあり得ない」と。

 

 日本の首相たちの無責任な行動との違いを感じる演説は、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」と言った有名なワイツゼッカーの演説とともに心に響く。

 戦争責任をしっかり教育するドイツに比べ、いつか来た道にひた走る日本は対照的である。

 2つの世界大戦を経験し、苦労しながらも自由な生き方、人生の楽しみ方を求めたドイツの人たちを知る、心温まる一冊だった。

 

(日本放送出版協会、2005・1・15)

 

 

 

       いろは匂えど散りぬるを

 

 ここ数年で、自死をふくめて5人の肉親を失った。年令は17、52、65、66、71歳だった。どの死も、思い返せば、それぞれ涙が溢れ出る。

 人間の死について、考えなければならない年になったのだろう。

 

 〔1〕、映画『死に花』

 

 5月末、新聞評がよかった映画『死に花』を観た。平日の朝9時過ぎなのに、チケット売り場は長蛇の列だった

 「『死に花』2枚」そういうのが場違いで、恥ずかしいような若々しい雰囲気に戸惑った。その日が女性優待の日とは知らなかった。2つ並んだ映画館の一方は、女性に大人気の『世界の中心で愛を叫ぶ』を上映中だったとか。

 

 『死に花』の方も、小さな館内は満員だった。映画は有料老人ホームでの元気な老人たちを描いていた。ある老人が、ひとまわり大きなヒノキの棺を用意して、満足気に仲間へ「生前葬」を披露するところから始まる。

 その元気な老人が突然死してしまう。焼かれた死体の骨の隣に、もう1つ頭の骨があるのを、ホームの職員が発見して驚天する。これは、死んだ老人の恋人が、睡眠薬を飲んで、密かに棺にもぐりこみ、一緒に死んだという究極の愛情表現、行動だった。

 

 もうひとつのテーマは、懸命に働いてリストラされた元銀行員の老人が、銀行への地下道を掘り、ホームの仲間と銀行強盗を実行する話で、死んだ老人が綿密に計画を立て「死に花」として書き残したものを、実行に移す物語。

 いずれも発想がユニークで、老人パワーをユーモア溢れるタッチで描いており、あり得ない話と思いながら、力強い現実味を感じさせる映画である。

監督犬童一心、主演藤岡琢也73歳、宇津井健72歳、青島幸男71歳

谷啓71歳、長門勇71歳、山崎努67歳、松原智恵子、森繁久彌91歳

 

 〔2〕、養老孟司『死の壁』

 

 『死の壁』は、解剖学者、養老孟司氏が「多くの人が死を考えたくないと思っているようだが、たまにそういうことを考えておくと、安心して生きられるかもしれません」。そうあとがきに書いている。

 4歳のとき父の死に会い、それが解剖学を専攻した理由のひとつという学者の話は、とても具体的で説得力がある。死は確率100%だから、死にたいなどと甘えずに、いろいろやって生きてから死ねと、自殺を否定する。

 

 著者は、死という抽象的で曖昧な概念でなく、死体という具体的なもので考えたいという。だから、アカの他人が1人亡くなった〔3人称の死〕のと、悲しみなどの感情を伴って見つめる死〔2人称の死〕との違いを述べる。死にたいという人には、それが周囲にどれだけおおきな影響を与えるのかということだけは考えてと忠告する。

 

 「生き甲斐とは何か」という問いなどは、暇の産物と切り捨てる。「喰うに困っているときや、何かに本気で集中しているときは、生き甲斐とはと考える余裕はない」。確かに。

 

 面白かったのは、解剖は杉田玄白が、江戸時代に最初にやったことになっているが、実際は当時の被差別民で、その経緯は『腑分けのことは、えたの虎松といえるものに・・・』と『蘭学事始』のくだりを紹介している。

 

 東北地方の「間引き」に、屏風を逆さにして「生かしたいか、間引きしたいか」のサインに使ったという深沢七郎の小説も興味深い。こけしは「子消し」からきたという説もあるとか。

 そして「老醜をさらしたくない」「ボケてまで長生きしたくない」という巷によくある意見に「現在の自分を固定して変わらないと、頭から思い込んでいる」「じゃあ、あんたは今はボケてないのかね」には参った。年々、固有名詞がパッと出なくなったと自覚している私だから。

養老孟司『死の壁』、新潮新書、2004年、680円

 

 〔3〕、玄侑宗久『釈迦に説法』

 

 自殺者が年間3万人を超えるようになったのは平成10年であり、一向に減らない。「思い切って自殺者も戦争での殺人者も天国には入れないといってしまったらどうだろう。仏教は、地獄を想定していたのに、今や誰もがいずれ成仏するのだと安請け合いしているかに見える」。そういう言い方で自殺を否定しているのは、『釈迦に説法』の著者玄侑宗久氏である。

 

 日本は「八百万の神々」に守られているお国柄であり、キリスト教徒でも仏教徒でもない私にとって、この著書での最大の収穫は「いろは歌」についての記述である。

 

 色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 

 幼い頃から馴染んだ いろはにほへと ちりぬるをわか の47文字を漢字まじりに直したものは、以前、何かで読んだ気もする。

 これはお経の文句の翻訳だとのこと。著者が言うように、ん以外の47文字を2度は使わず、こうして完結させたこの歌の内容の深さが凄い。そう書く筆者に私も同感である。

 

 僧侶らしい解説によると、テーマは死である。

 前半は「諸行は無常なり。あらゆるものは常無く変化しつづけるが、これが生滅を繰り返すこの世界の法則である」と「こちらから見た死」である。

 

 後半からは「向こう側から見た死」が語られる。「死」が「有為の奥山」を越えることだと表現される。それを今日越えてと死の瞬間の通過を意味している。

 これまで必死に登ってきた人生行路が、今や「浅き夢」だったと思え、酔っていたようなものだ。

 

 死を詠んだものと考えたくなければ、人生の再出発の歌と詠むことも可能だと言う。だから、これからは「浅い夢も見ず、酔いもせず、光を見つめて進もう」そんな決意も読み取れる歌である。

 

 人生が長くなって、2つの人生観があってもいいと著者は言う。

 社会主義ユートピアの、「浅き夢」を見続けた頃のわが人生を思った。それなりの試練を受けて、「絶対に正しいことなど無いんだよ」〔其れ正無し・・老子〕ということに気づいた私たち夫婦である。

 

 「有為の奥山今日越えて」「浅き夢見じ酔いもせず」という視野から見れば、少々のからだの不調や、老いへの不安など、どうでもよくなる。

 人生というステージをやがて降りるときが来る。共に演じてくれた子や、親兄弟、友人たちに感謝の気持ちが沸く。そのときが来るまで、そのときどきを大事にしよう。

玄侑宗久『釈迦に説法』、新潮新書、2004年、680円

 

 それが、映画を観、書を読んで考えた目下のところの結論である。

 

 

 

       わたし、お買い得よ!

 

 評判の『結婚の条件』を読んで、いくつかのエピソードを思い出した。

 10年前、「わたしお買い得よ!」見合い相手にそういって結婚した女性は、いま、医者の奥様として充実した専業主婦の道を歩いている。また、「上司にいいお歳暮を早く持っていかなきゃ」と夫を急かせ、夫と共に会社に赴いて、大企業での夫の出世の後押しをした専業主婦が居た。

 さらに、「教授に心づけを忘れるな」と息子を指導した主婦専業の母は、いま、有名国立大学の助教授の母として、優雅な生活をしている。これらは、私の身近で起きた実話である。

 

  結婚は「クリスマス・ケーキ」から「晦日そば」へ

 

 この本の強みは、大学教官だったときの、多数の女子大生の実態が基盤になっている点である。その上で次のような記述が大きなポイントだと読んだ。

 「今後、生涯未婚者が増加の一途を辿るのは不可避であり、日本は晩婚化国あるいは少子高齢国というより、将来は非婚国に移行していく」

 その根拠として

 「現在日本の20代後半は、54%が未婚である。それが東京では65%〔1970年は18%だった〕。そして、30代前半でも未婚は27%、4人に1人が独身である。25歳で売れ残りと言われたのが、30歳、31歳での結婚も遅いと言われなくなった」

 

 女性は「クリスマス・ケーキ」から「晦日そば」に変わったと言われる所以である。

 「男性も同様の傾向で、30代前半の未婚率は43%、後半でも26%が未婚である」として、「少子化とは、結婚の条件の問題であり、政府も少しはごだわらなければ」と指摘する。

 

  結婚とは「カネ」と「カオ」の交換

 

 著者は、「結婚は完全なビジネス」と断定する。

そして、現代の女性たちの結婚をコース別に3つに分類している。

 1、両立〔仕事と子育て〕コース。2、一時依存〔子育て期離職〕コース。3、依存〔専業主婦〕コースである。さらに上級の専業女性たちは、専業主婦とキャリア志向のいいとこ取りをしているという。

 結婚の条件は、学歴別に高卒、短大卒、四大卒で生存、依存、保存と変化し、それぞれコース別にパターン化されているとする。

 

 「女性は自分の『カオ』を棚に上げて『カネ』を求め、男性は自分の『カネ』を棚に上げて『カオ』を求めている」

 娘に苦労させたくないという親が、「中流家庭の娘たちをお嬢さまとして育ててしまった」からであると、少子化を生み出している結婚からの逃避を指摘する。

 読み終わって、こころが寒くなった。

 

 この本は、大卒女子については説得力がある。

 同時に、親の生き方と子の関係については、やや疑問に思う所がある。

 

 著者自身、高卒の女性はインタビューに応じてくれること自体が難しかったというが、女子の過半数を占める高卒者はどんな実態なのだろう。学歴による経済格差は拡がっていると思うが、従来どおり「結婚は完全就職」として、多くが親の意向を取り入れた結婚をしているのだろうか。そんな疑問が残った。

 

 政治の季節の特殊な条件だったが、友人5、6人の顔が浮かんだ。

 1960年代に、給料の遅配や欠配続きの、貧しい共産党専従活動家を選んで結婚した彼女たち。私もその一人だったが、女性に経済力があったとはいえ、苦労もさまざまだろう。

 時代の変化で、彼女たちとの縁は切れたが、当時を清々しく思い出させたのはなぜだろう。豊かさとは何だろう。女が、男が、生きるとはどういうことだろう。

 

 最近の週刊誌で、著者と「負け犬」論争をした酒井順子との対談記事に

 「どうして自分の生活のほとんどを人に頼れるんだろう。そのことに怖さも疑いもないなんて、同じ女として生きてきた道筋が違うのかな。私は臆病だからできない」こんな潔い人もいるが、とあった。

 

 本書は、斬新な表現で現代の『結婚の条件』を分析している。何より、自ら独身で、大学教授という経済特区を辞し、浮世の波に身をさらしながら「退職は離婚と同じ」と、感慨を述べていたのを、面白く読んだ。

 

小倉千加子『結婚の条件』(2003年、1200円、朝日新聞社)

 

 

 

       安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しや ほうやれほ

       『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』で著者荻原遼の覚悟を読む

 

 拉致家族バラバラのまま、新年を迎えた

 

 老いた盲目の母が、人さらいにさらわれた安寿と厨子王を思って歌う。

 「安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ」

 森鴎外の『山椒太夫』の舞台は佐渡である。

 

 1978年8月、同じ佐渡から拉致された曽我ひとみさん親子を始め、5人の拉致被害者が切望した家族の帰国問題は、著しい進展もなく1年以上の歳月が流れた。20数年間も拉致されただけでも酷すぎるのに、と心が痛む。

 

 昨年12月1日の朝、突然、萩原氏から夫に「所用で愛知にきているが会えないか」と電話があった。朝鮮問題に真剣に取り組む萩原氏の著作を、私たち夫婦は何冊も読んでいる。また、彼は私たちのホームページを読んでいるとのこと。

 初めて会った2人は、朝鮮問題と共産党問題で話題が弾んだ。

 

 約束の時間がきたとき、萩原氏は、夫と近くの本屋に行き、1冊の本を買ってくれた。そして中表紙に、謹呈と私たち夫婦の名を書き、「連帯をこめて 萩原遼」とサインして夫に渡された。私の名前を書かれたのは、ホームページ『政治の季節・復活』で、氏を紹介した文があったからと思う。その本が『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』だった。

 

 始めて世論が外交を動かした

 

 萩原遼は、この本で「5人の北朝鮮送還に反対し、家族全員の帰国を求める」との決定を、「歴史的瞬間」と感動をあらわにして記している。

 

 著者は昨年10月ごろ、一時帰国として5人をまた北朝鮮にもどす可能性もあつた日本外交について、「何十年ぶりかで再会した厨子王を盲目の老母が恐ろしい山椒大夫に送り返すというのか」と、拉致は極悪犯罪だから、その解決は現状回復しかないと主張し続けた。

 萩原遼は、一部マスコミもふくめて「5人はいったん北に帰って家族の意向を確かめたほうがいいのでは」という主張を断固拒否した。10月30日発表された家族会、救う会など3団体が「拉致しておいて、その被害者を戻さないから日本は約束を破ったというのは言語道断、即時に返さないこと自体が許されざる人権侵害である」と声明を出したことを、「日本の世論が初めて外交を動かした歴史的瞬間」と高く評価している。

 

 朝鮮戦争は北から侵攻

 

 私にとって、著者萩原遼が印象深かったのは、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争が、北からの侵攻で始まったのか、南から攻めたのか、歴史の真実を探しに米国に渡り、議会図書館や公文書館で160万ページにもなる資料を調べ上げたという事実による。

 その成果を1993年『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』にまとめ、2000年に『朝鮮と私 旅のノート』として出版した。

 

 落穂ひろいのような、小さな断片的資料をつなぎ、膨大な資料に取り組んだ結果「1950年6月23日までに人民軍全7個師団のうち5つの師団が38度線の500メートルから数キロのところまで進出し、進攻命令を待っていた」事実を確認した。

 この極秘文書での確認は、世界ではじめてであるという。

 

 かつて、社会主義の正義を信じていた者にとっては、歴史の事実の逆転が強烈だった。

 また、1972年の冬、赤旗の記者として平壌に1年間常駐したときの恐ろしい体験を記す。北に帰国した在日の友人の消息を調べたことにより、監視対象者になった。つきまとう監視の目だけでなく、寝室が荒らされ、赤旗記者として共産党に報告する秘密文書まで読まれ発狂寸前の心境だったことが記されている。

 

 私たち夫婦も、尾行され、張り込みされ続けた体験があるから恐怖感がわかる。国家権力をもった国でのそれは、死の覚悟が要るだろう。

 

 戦争と貧乏で苦労した子どものころ

 

 第1章で、貧しかったこども時代を書いているが、著者は戦争で高知に逃げた疎開児童だった。私も同じ年頃、1945年5月に、約500機の米軍B29の爆撃で、名古屋城と共に家を焼かれ、空襲を逃げ回った。いまのアフガンやイラクの子どもたちと全く同じである。これらの体験が、著者に親近感をもたせる。

 

 著者は、定時制高校で知り合った韓国から密航してきた友人、さらに、共産党員の先生との出会いが人生の転機になったと記している。

 日本全体が貧しかった時代とは言え、著者は住み込みで働いて夜学ぶ苦学生だった。苦労人である。卒業後に大阪文学学校に入り、中野重治の詩や野間宏の作品に親しんだ。

 大阪外大に8年おくれで入り、朝鮮語科に学ぶなど、朝鮮へのこだわりが読み取れる。

 

 命は惜しくない

 

 著者はまえがきで「60歳半ばまで十分に生きた。命は惜しくない。金正日に日々殺されている北朝鮮民衆を救援する中で、稀代のファシスト金正日一派のテロは覚悟のうえである」と書いて、この著書を読む人々に決意を示す。

 仮説としながらながら第3章で、「金正日による350万人餓死殺人」について、根拠を具体的に調べて記述しているが、餓死者の数や地域性、あるいは「成分」という身分制度を読むと、その説得力ある仮説に、寒々としたものを覚えるのである。

 

『拉致と核と餓死の国 北朝鮮』(文春新書、2003年、680円)

 

 

 

       文芸の底辺と頂上を歩いて

          清水良典『自分づくりの文章術』(ちくま新書)

 

 本を読まない人が増えたと言われて久しい。しかし、メールやケータイで世は文章まみれである。書き出しはそう始まっている。

 

 『自分づくりの文章術』は、大学で教えつつ、現役の評論家でもある著者が、3年前から提唱している「純文章」とはそういうものかと、納得させる著書である。

 著者自身が書いているように、文芸の底辺〔高校や文章講座の講師〕と頂上〔文芸評論家の仕事〕を同時に渡り歩いた人だから書けた、貴重な一冊である。

 

     

                   『文章工房』創刊号表紙

 

 1「純文章」は、「純文学」に象徴される一種の特権意識の縄ばりと差別を、徹底的に平らに見直す文章観である

 

 著者はその根拠を事実で示す。

  夏目漱石は、道徳的で古風な美文調の小説ばかりの時代に、写生文、ウィット、珍案奇案の文章実験として「わが輩は猫である」を書いた。

  林芙美子は、自分の周囲の現実に、バクレツダンのように投げつげずにいられなくて書いた。「放浪記」は野生の文である。

  幸田文も、井伏鱒二もそれぞれ「崩れ」と「鯉」を随筆として発表したが、小説として雑誌に出、傑作短編として評価されている。

 

 「大衆小説や時代小説のように、大衆に媚びた読み物ではないんだ」というように、文学〔小説〕から〔文〕を見下ろすのではなく、「文」が母体となって「文学」を産み出している現実をみるべきではないか。

 と提唱している。

 

 2、断章について触れているのが面白い

 

 「最も困難な芸術は自由に人生を送ることである。尤も自由にという意味は必ずしも厚顔にという意味ではない」

という芥川龍之介の例や、「沖仲仕の哲学者」と言われたエリック・ホッファーの断片を文章表現として取り上げている。

 

 ただし、「日本人に人気の、あいだみつを のようなソフトな人生訓的な言葉が街じゅうに垂れ流され、トイレの壁に飾られるミニ色紙になったりしているのは、現状肯定、予定調和、保守的人生観で完結している」と否定する。

 

 一方で、生前ほとんど無名の文学青年だったカフカが40歳で世を去る直前、膨大な未定稿やノートを親友に託して、焼却してくれと遺言を残した。

 『城』や『審判』などの代表作が、その断片や書きかけの原稿から生まれたと、詳しく紹介している。

 

 この著書全体に貫かれている「純文章」への確信は、次の言葉にも読み取れる。

 凡庸な小説の文章よりも、名づけられない断片的な文章でも、きらりと個性が光っている方が、文章として優れていると考えられないだろうか。

 質量の規模やジャンルに囚われずに「文章」という共通項で対等に評価することを、「純文章」と呼んできた。

 

 3、書くことで自分をつくる

 

 どんな人間でも一人として他人と同じではない。自分だけの心を持ち、経験を持っている。それを表現しようとする文章は、「自分固有の表現」「自分らしい表現」を目指している。と、ステレオタイプ〔紋切り型〕を戒め、自分らしい表現をもとめている。

 

 結論として

 

 文学的名文を書こうとしない。

 自分にしか書けないことを書く。

 誰にもわかるように書く。

 と、訴える。

 それは書くことを楽しむ自由、書くことによって自分を創る。

 それが著者の言いたかったことであった。

 

 読み終わって、「底辺」に定着し、未だ楽しく文章を書くという境地に到達しない私は、辿り着いたこのわかり易い結論に安堵した。

 

 「純文章」の趣旨に賛同した者たちが、『文章工房』創刊号(2003年11月)を出しました。

 

 

 

       フジ子・へミング『苦難を乗り越えるのが人生』

       養老孟司『人生は崖登り』

 

 表題のことばは、最近出た著書『フジ子・へミング運命の力』にあった。

 どん底生活だったが、じゃがいもさえ食べていれば病気知らずだったと言う。

 その本には、世界的な音楽家カラヤンや、バーンスタイン、クレイダーマンとの触れ合いが、写真入りで興味深く書かれている。

 

 中でも、「リストやブラームスの『ハンガリー狂詩曲』は、家のないような貧しい人たちの音楽を書いた曲で、ドイツにいるときからよく弾いた。そしたら、ある教授がそんな曲を弾くな!と怒った。じゃ、なんでそんな変な曲を、リストは作曲したのかと怒ってやった」。

 

 『音楽は批評家のためにあるのではない』と題したこの章では、もうひとつのエピソードを紹介している。

 「ドイツで私の弾くピアノを聴きながら仕事をしていた大工さんが、玄関に出たとき、ミュージック、ミュージックと言ってにこにこして喜んでいてうれしかった。たぶん何の曲を弾いていたのかさえもわからないのに、私のピアノを楽しんで聴いてくれた。音楽はみんなのためにあるのよ」。

 ここにフジ子・ヘミングの真骨頂があると、おおいに共感した。

 

 「ピアノは音のひとつひとつに色をつけるように弾く。機械のように器用に正確に弾く完全なのは嫌い」とはっきり記す。「小さなミスを問題にするより、どういう音で私らしく弾くか」が大事なことというあたり、レベルはまるで違うが、歳をとってからピアノを楽しむ私には励みのことばである。

 

 もうひとつの表題『人生は崖のぼり』は、最近評判の 養老孟司著『バカの壁』の最後の章にあった。

 「人生は、家康がいう重荷を負うて遠き道を行くどころか、人生は崖登りだ」

 社会的地位も経済的安定もある大学の教授にして? と驚いた。

 

 「崖登りは苦しいけれど、一歩上がれば視界がそれだけ開ける。しかし、一歩上がるのは大変です。手を離したら千仞の谷底にまっ逆さまです。人生はそういうものだと思う。だから、誰だって楽をしたい。知的労働は重荷を負うこと」

 

 私は数年前、登山した三重県の大杉谷を思った。

 濃く、限りなく澄んだ藍色の水の美しさは日本一、しかし、重い大きなザックを背に、岩に打ち付けられた太い鎖を、両手で必死に掴みながら「ここ転落事故現場」の看板を見る。深山幽谷の世界はカメラを向ける余裕もなく、瞬時の油断で底深い谷に吸い込まれそうだった。

 

 ここに、『バカの壁』と『フジ子・へミング運命の力』の共通点をみた。

 

 『バカの壁』の養老孟司は「話せばわかる、あるいは絶対の真実」はうそという。一元主義でなく二元主義を主張している。この点は、キリストこそ絶対の神と信ずる一神教のフジ子・へミングと違う点である。

 ひとつの神のみを信ずる、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教信者が、世界人口の3分の2という。日本は自然宗教の世界、八百万(やおよろず)の神の世界だから、絶対的真実は存在していないと。

 

 私は長年、社会主義は人類の理想と、誤った「絶対的真実」的な発想をしてきた。それが、数々の殺人をふくむ非人間的な誤りを繰り返し、秘密にし続けた権力で、70年余りで崩壊してしまった。だから、絶対的な真実など信じない。

 それなりの苦労も体験して、物事は一部、疑って考える部分をもつべきだと思うようになった。

 

 だから、養老氏の「最後は、人間であればこうだろう、そういう道しか残っていないのでは?」に共感するのである。

 養老氏は、冒頭でNHKを批判してお前は神様かとまで言っている。

 「公平、客観、中立の報道がモットー」なんてあり得ないと。

 イラク戦争当時の報道だけでなく、全戸から受信料を取って、贅沢な多くの番組編成をしているNHKに日頃から疑問と、ある怖さを感じているのは、私だけではないことがわかって痛快である。

 

 2冊とも、さっと読めて、味があります。

 『フジ子・ヘミング運命の力』(TBSブリタニカ、2001年)。『バカの壁』(新潮社、2003年)

 

 

 

      テレビアニメで現代を斬る

       高橋源一郎『連続テレビ小説ドラえもん』

 

 

 5歳の孫が、赤い鼻に青い大きな丸い顔のドラえもんを描く

 70年代は『仮面ライダー』、80年代『ドラえもん』が大流行、そしていま、1歳の孫でも曲らない舌で「アンパンマン」という。子どもが読むマンガ本でなく、大人も一緒に観る連続テレビ(アニメ)小説を徹底的に風刺した、高橋源一郎の『連続テレビ小説ドラえもん』(戦後短編小説再発見10・表現の冒険、講談社)は、誇張と抽象化、逆説で現代を皮肉っています。読み進むうちに心の奥底からそくそくと恐ろしさが伝わって来る物語です。

 因みに、インターネットの『ドラえもん』ホームページのアクセスは92万人でした。

 

 以下、各章のポイントを簡単に紹介します。

 

  『毛むくじゃらなお友だちの巻』

 物語のスタート、テレビに立ち向かうドラえもんです。

 絵本など見ずに、全てのテレビ番組が終了して砂嵐がふいても、まだテレビにかじりつく静香ちゃんに、毛むくじゃらなテレビ怪物が「おいでよ、おいでよ、楽しいテレビランドへ・・・」とやさしく誘います。ドラえもんはテレビの中に乗りこんで、なにもかもぶち壊してしまいます。

 そういえばいまテレビは、24時間休みなしで、砂嵐の終了画面はありませんでした。

 

  『ハッピーバースディのび太のパパの巻』

 のび太、のび太のママ、それにドラえもん3人の誕生祝いの日、それは真っ赤な嘘です。友達を呼んで、派手に誕生会をする。心のこもらない、形式化した誕生祝いへの批判です。3人を死ぬほど嫌っていた連中が普通のドアから現れて、3人をノックアウトしてしまいます。これは誕生日が「この世に生まれたことこそが不幸なのだ」という呪いの日でもある。そういう強烈なメッセージに聞こえました。

 またしてもドアが開き、照れながら入ってきたのび太のパパ。その日は、外で待たされていたのび太のパパの、ほんとうの誕生日でした。

 

  『31匹のドラえもんの巻』

 のびたと静香ちゃんがドラえもんの研究室のドアをたたくと、

 ほんもののドラえもんのほかに、クローン30匹がうじゃうじゃいました。「わぁ、おもしろい」と静香ちゃんは叫びましたが、ほんとうは恐ろしい話なのです。

 本物とにせものに取り囲まれて気味が悪いのに、とりわけ怖いのは『心の中読み取り機』『心の中読み取らせない機』が売買されていること。15年前、研究段階で未だ何もなかった時期に、この文章を書いた作者の洞察力は確かです。

 現実は、クローン牛が市場に出回っており、イタリアでは、クローン人間の実験が始まっています。クローンを創りだし、人間の心さえ取引きや売買の対象になる世の中、科学技術の発達が果たして人を幸せにするのか。考えさせます。

 

  『菊地桃子だよ全員集合の巻』

 ドラえもんが、道で菊地桃子と逢い、家を訪ねるのです。

 家族紹介で父宇津井健、母小山明子、兄渡瀬恒彦、さらに次兄に加藤剛や風間杜夫などなどが出てきます。さらに姉大原麗子、伊東ゆかり、壇ふみ、堀ちえみや斎藤由貴、後藤久美子と並べます。固有名詞を使うのがこの作者の特徴らしいのですが、マスターベーションのやり方をいろいろ並べ、「マスターベーション」ということばがだんだん薄っぺらになって来る、ブラックユーモアです。

 ドラえもんに「お伺いしたところ、こちらの方々はみなさんマスターベーションにたいへん関心を持っていらっしゃるようですが、わたしのようにマスターベーションに造詣(ぞうけい)の深くないものでもここにお邪魔していてよろしいのでしょうか」と言わせます。

 森繁久弥、久米宏、仲代達矢、中村玉緒・・・と並べ、テレビやマスコミ全体、映画、有名人を網羅して、セックス産業が満ち溢れた現代を痛烈に批判し、皮肉ります。短い文章に「マスターベーション」ということばが34回出て来ますが、この一語でセックス社会を誇張し、抽象化しています。

 また、日常的に興味本位で繰り返されるワイドショー、それらにうかうかと弄ばれている主婦たちへのパンチとも受け取れます。

 

  『ドラえもんのアルバイトの巻』

 どの病院にも内科、脳外科、歯科から肛門科、胃腸科、形成外科、産婦人科など医者はいっぱいいましたが、患者の方がいなかったので、「患者屋」のバイトに頼っていました。

 精神科の「患者屋」のバイトをするドラえもん、とくに、経験と知識が必要な精神科の「患者屋」はひっぱりだこです。

 治療がおわったドラえもんは、バイト料をもらい病院を出て2分もしないうちに、気分が悪くなり道路の真中で倒れます。それほどバイトがきついのです。今度は本物の患者になって病院へ来ても、ほんものの患者を治療できる医者はいないのです。

 「たいていの場合医者が患者を治療するものですよ」

 「そこの患者というのは、全員自分のことを精神科医だと思いこんでいる患者だったんだ」

 「患者は患者だから同じじゃないですか」

 「そうはいかんのさ。全員が自分は精神科医だと思いこんでいる患者たちは、患者を治療しなければならないと思っていたんだ。そこでその病院の精神科医たちは全員患者を装い、その自分は精神科医だと思いこんでいる患者たちに治療されるふりをしながら治療していたんだよ」

 ドラえもんと精神科医の、頭が混乱しそうな会話が続く。

 国中がわけの分からない神経症、精神病という自殺予備軍になりつつあると洞察した作者です。

 この作品が書かれた年から15年以上が過ぎたいま、ここ数年、自殺者が3万人を超すという深刻な現実になりました。その数字は、1日80数人が毎日々々、自らの命を絶っていることになります。

 

  『可哀そうな可哀そうなのび太のパパ』

 「仕事でくたくたになり、朝起きるのが死ぬほどつらい。仕事で疲労困憊、おまけに誰からも嫌われているパパ」。こんなわたしが、可哀そうといえるのか?自分を客観的に見ることができないパパです。

 現役世代はいま、死に物狂いです。そんなパパとテレビ画面ばかり見て話すママ。ここに象徴される家庭崩壊、会社では窓際族にされ、リストラに翻弄(ほんろう)される父親です。

 1日に26回も食事づくりに追われる母親、ここでは、食事作りのみに埋没する無知性の母親と、どのテレビ番組も、食べる、料理の満艦飾(まんかんしょく)です。一方で「デパチカ」「ホテイチ」の高級料理から、スーパー、コンビニ頼りの手軽料理の蔓延(まんえん)を予見しています。まな板包丁のない家庭や、台所すらないマンションなど、現代社会の中で音を立てて崩れ去る家庭の姿が浮かび上がり、一方で「やせる方法」「ダイエット」の書物や薬が大流行の、過食、飽食の現代です。

 

  結論

 筆者は、1986年にこの『連続テレビ小説ドラえもん』を書いています。16年前、いまほど経済状態は深刻な状態ではなかったときに、強烈な洞察力で、時代のいまを描きました。

 

 深刻な不況と自殺者が年間3万人を超し続ける状態は、現代の孤独そのもので、作者はそれを『ドラえもんのアルバイトの巻』と『可哀そうな可哀そうなのび太のパパ』で表現しています。

 実は今年、私の親族で自殺者が出ました。「いじめ自殺?」と新聞報道されました。

 さらに、親友の夫は某有名企業の局長まで勤めたのですが、第2の職場に赴いてから神経症になりました。その子どもは、仕事がきつくて引きこもりになり、目下、父子で精神科通いをしており、友人はその付き添いです。

 人ごとのように考えていた精神科、自殺は遠い話ではなくなってきました。ですからとりわけこの2つの章の印象は強烈でした。

 

 さらに『ハッピーバースディのび太のパパの巻』では誕生祝いどころか、作者が発する「生まれてくることこそ不幸なり」というメッセージが伝わって来ます。それはいま、子を産まない、産めない人の増加で深刻な少子時代になっていることで証明されました。

 極端ともとれる「マスターベーション」という表現による、総セックス社会と、テレビ、マスコミ批判は『菊池桃子だよ全員集合の巻』で、さらに『31匹のドラえもんの巻』での、クローンドラえもんたちと「心」なき科学が台頭する人間社会を予見して、その恐ろしさに心寒々としました。

 

 これは『日本むかしばなし』ならぬ『現代日本怪談シリーズ』でした。  おわり

 

 

 

      少しのお金とたくさんのユーモア

       松山幸雄『自由と節度』にみるジャーナリスト魂

 

 映画の『カサブランカ』『ローマの休日』『シェーン』に共通しているものは、自己抑制。

 1950年代のアメリカにはそれがあったという筆者の、ジャーナリストとしてのセンスが、読む者の意欲を高める。

 最近のアメリカは、ソ連邦崩壊以後一人勝ちで、思い上がりがある。かつては「自由」と「豊かさ」を目いっぱい求めながら、同時に周辺の人たちへの配慮をするアメリカだったと。

 1971年から77年までニューヨーク、ワシントンと暮らし、ボーン国際記者賞、日本記者クラブ賞や吉野作造賞など受賞した著者は、アメリカの良さを認めながら、あえて指摘する。

 

 CTBT〔包括的核実験禁止条約〕批准を上院が拒否、

 地球温暖化防止のための京都議定書にNO、

 武器輸出は世界的に減ってきているのに、断トツに増えている。

 あるいは、人口は世界の5%以下なのに世界資源の30%を消費している。

など、具体的な事実に触れる。

 私はあらためて思った。アメリカの軍事予算は前年より480億ドルも増えているとか。ハイテク兵器の実験場になったアフガン、それを他の国でもやりたいのだ。軍需産業はホクホクではないか。

 

 著者の基本姿勢は、自由なハト派と宣言する。

 それは「無謀、残酷な戦争を始めた指導者、組織、思想を再び日本にのさばらせてはならない」という、戦争体験者としての思いであるが、空襲、疎開世代の私もおおいに共感した。

 

 さらに、私は「反共」と率直に記す。

 なぜなら〈社会主義思想の出現が、資本主義を緊張させ、自己修正させていった歴史的効果を認めながらも〉それらの国では「言論、出版の自由」がないことを現場で見聞したからという。

 ソ連邦や東欧の社会主義は崩壊したが、欧米インテリのソ連嫌いは、ひとつはチェコを強引に共産主義国に仕立てたことと、「カチンの森」事件だという。

 これは数千人のポーランド将校の処刑された死体がカチンの森で見つかった事件。モスクワはナチスの仕業と言い続けた。

 『戦後、数千万人の難民が出たが、そのほとんどは社会主義体制から西側への亡命者である。ひところ中国やソ連に対する進歩派の憧れは社会科学というより、信仰に近いものがあった』。40年前から変わらない『信仰は論理に優先する』との実体験の感想は説得力がある。

 

 私は、最近観たばかりの映画『イースト・ウエスト(フランス語でEST―OUEST)』を思った。1946年、母なる祖国へ到着した亡命ロシア人たちが、スパイ容疑で次々流刑か、収容所送りになった。映画はいきなり家族がバラバラに拘束される場面で始まる。

 主人公アレクセイも、フランス人の妻マリーと息子セルゲイとオデッサの港に帰国したが、マリーが外国人だったので、「外国のスパイだろう」と厳しい尋問、暴行を受ける。

 若き有能な医者だったアレクセイは、生きるために体制に屈服した形の偽りの生活を続けながら、秘密警察の監視と逮捕の恐怖と闘う。妻は夫の真意が掴めず苦しむ。結局、妻はスパイとして国家反逆罪で収容所生活になった。

 主人公は妻との愛を貫くが、カトリ−ヌ・ドヌーヴ演ずるフランス大女優の助けで、わずかなチャンスを活かして妻はフランスへの亡命を果たす。10年の地道な闘い、切ない人間ドラマである。

 

 「朝日」時代のいちばん悲しい、腹立たしく、つらい経験、それは「朝日新聞阪神支局襲撃事件」で戦後40年以上過ぎて、日本はこの程度の民主主義しかもてなかったという切なさだろう。

 筆者へは、「貴下は朝日の革新の伝統とややはずれた意見をもっているようだ」との投書が来たりしたが、堂々と署名いり文章を書き続けたという。「朝日」の論説には、左からの批判も多いというのは意外だった。

 

 

 著者は、『明るい気質や、他人に好感をもたれようと努めるサービス精神も実力のうち』と、これからの国際社会での好感度について触れるが、ユーモアや相手の意見を謙虚に聞く姿勢の大切さに、度々触れている。

 それは、現役時代に進歩的といわれる人たちの「われこそは、正義の味方『月光仮面』で押しまくる」人たちへの、痛烈な批判と受け取った。

 

 処世訓として、『何を成しとげるか』より『人生いかに生きるか』『いかに楽しく過ごしたか』が重要と人生の後輩たちに記す。

 

 最後にまた映画、『人生に必要なのは希望と勇気と若干のお金』というチャップリンのことばに、『そしてたくさんの笑い』と付け加えることも忘れない。

 素直に読み終えた。

 

(松山幸雄著『自由と節度』 岩波書店289頁 2002年2月発行)

 

 ()なお、松山氏の『ゆとりの中から個性が生まれる』が、『私の好きなエッセイ』に載せてあります。

 

 

 

       異端 藤田紘一郎教授

        一般向けの本を出したら堕落である

 

        1千万円の研究費は出ない。査問委員会にはかけられる医学界

 

 『人にどう思われてもいいから、思ったことは言い続ける』。しかし『裏でこそこそしないでおこう』。15年間研究を無視され続けてきた研究者は新聞紙上で、そう語っていた。

 

 藤田教授を知ったのは、痛快な『いじめと笑うカイチュウ』というエッセイだった。ご本人にとっては痛快どころか、先端医療重視の医学界で、長年無視され続けた苦悩を、一気に吹き飛ばしたい思いをこめた一撃だった。

 それはもう7年前の話になる。そのエッセイが、平成7年度講談社出版文化賞 科学出版賞を受賞した。

 ところが、医学の世界では『誰にでも分かる本を書いたら堕落とみられる』庶民感覚では到底理解できない掟があるらしい。

 それ以来科学研究費約1千万円は申請しても出なくなった。それだけでなく、学内の査問委員会にかけられたというのである。

 また、化粧品会社や製薬会社の寄付金も来なくなったという。抗生物質や抗菌グッズにも批判的な立場だから当然かもしれないが、20人を超える研究室を養うためにも、出す本の1冊1冊が勝負と、切実な現状を語っておられた。

 

 先日、歯科医師が歯周病に対して『レザー治療は組織をすべて破壊してしまう。原因はかびである』との見解を治療に貫いている話を読んだ。現在歯科通いの身で、よくレザー治療をされるので切実な問題である。

 『それでもガン検診うけますか』という本で有名になった近藤誠医師は、講師以上にはなれないと、医学の現状に批判的な精神科医師の文章も読んだ。そして、藤田教授である。

 

 いろいろな見解があるのは当然、多面的な研究をして欲しい。そういう立場と自由な発想こそ、庶民の健康を守る医療を創り出すことができるのではないかと私は考える。

 

 中日新聞夕刊(2002年1月7日)に載った『極度の清潔は危険』という記事を教授の了解を得て掲載します

 

 

        『極度の清潔は危険』

      異端の肖像 「カイチュウ博士」藤田紘一郎さん

 

      医学界の風当たり強くても『好きな研究が大事』

 

 サナダ虫を自ら体内で飼い実証

 

 ヒロミ。サトミ。サナダ虫に名前をつけて、自分のおなかで飼ってみる。肛門(こうもん)から出てきた虫を教授室でズボンを脱いでのぞいたところを、訪ねてきた女性に見られてしまう。

 

 「カイチュウ博士」として知られる藤田紘一郎・東京医科歯科大学教授の実体験にもとづくエッセーは、とにかく笑える。ときにおしりをさらしながら、カイチュウ博士が繰り返し訴えるのは「極度の清潔は危険」という「真実」だ。

 

 博士いわく。昔から人の体にすんでいる“老舗(しにせ)”の寄生虫は体にさほど悪さはしない。逆に、これらが駆除されるにしたがい、花粉症などのアレルギーは増えている。さらに今では、抗菌、除菌と騒ぎたて、皮膚に普通にいる常在菌まで追い出そうとしている。そんな「超清潔志向」が日本人の免疫力をなくし弱くしている。薄暗い廊下に回虫やサナダ虫の標本が並ぶ大学の研究室に、博士を訪ねた。話してみると、エッセーの愉快な「カイチュウ博士」とは印象が違う。口調は真剣そのものだ。ギャップの理由を尋ねると「一冊、一冊が勝負なんです。とにかく読んでもらわなくては」との答えが返ってきた。

 

 カイチユウ博士は一九九四年に、エッセー「笑うカイチエウ」を出版して、一躍、マスコミへの露出も増え、時の人となった。しかしそれ以来、国の科学研究費は申請しても出ない。

 

 「医学界は古い体質のところで、だれにでも分かる本を書いたら堕落と見られる。助教授や講師でそんなことをしたら、教授にはなれない。私の場合は、研究費(切り捨て)という形ではねかえっているんでしょう。だれかが零点をつければ、研究費の申請ははねつけられる。一般受けする本を書くということは、覚悟のいることなんです」

 

 清潔社会の象徴として、抗生物質や抗菌グッズにも矛先を向けるため、化粧品会社や製薬会社の寄付金も、ぴたっと来なくなった。

 

 大学から回ってくる最低限の予算では光熱費や人件費、コピー代などで終わってしまい、研究費にはとても満たないという。講演や本などで稼いだ金を、大学にいったん寄付し、そこから研究室に回してもらっている。「本を書く前には研究費と寄付金で一千万円はあった。そこまでは稼げないが、仕掛けてしまった以上、二十人余の研究室を養う責任がある」

 

 自らサナダ虫をおなで飼うのも、講演や出版の分野での“アイドル”として延命するためのカイチュウ博士の苦肉の戦略だ。

 

 「娘は、何で大学教授にもなってサナダ虫なんて飼うのって嫌がっている。僕だって、入れたかないですよ。でも自分の存在が消えちゃうのは困る。寄生虫に害はないって言っている以上、身をもって示さないと納得してもらえない」

 

 南の島に滞在し肩の力が抜けた

 

 「キタナイ」ものへの情熱は、東京大学大学院卒業後、商社の熱帯病対策のために半年間、インドネシアのカリマンタン島に滞在したことから始まった。

 

 「島の人々はうんちが流れている川で口をすすぎ、体を洗っている。でも肌はつるつるで、花粉症もない」。寄生虫がアレルギーを抑えているのでは、と研究を始めるきっかけとなったという。

 

 島での体験は、学者としての在り方にも影響を及ぼした。インドネシアに行く前はつねに学界での目を気にした。教授室の電気が消えるまでは、自分も先には帰らなかった。しかし、米がなくなれば、自分も魚やらイモやらとりに行かざるを得ない本能むき出しの島の暮らしを経て、「人にどう思われてもいい。そのかわり裏でこそこそしないでおこう」と肩の力が抜けた。

 

 帰国後、助手として東大に戻ったものの、自分を装うことはむなしくなっていた。暇なときには忙しいふりをするのはやめて、学生とトランプに興じた。「上からはインドネシアに行く前の、従順で使いやすいというイメージで助手として呼んでもらったのだと思うが、違ったので、嫌われてどっか行けとなった」

 

 テキサス大に渡りその後、教授として金沢医科大、長崎大を渡り歩いた。

 

 「東大系ということにこだわれば、地方になんて行きたくないとなるが、それより好きな研究ができる方が大事だった。寄生虫がアレルギーを防ぐのに役に立つなんて研究は、(東大のように)上がいるとやらせてもらえない。助教授のときは、こっそりやった。教授ならば、どこにいても気兼ねせずに、好きな研究ができると思った」

 

 しかし、その研究の成果である「寄生虫の分泌物が特殊な抗体をつくり、アレルギー反応を予防する」との藤田説は学会では十五年間にわたり無視された。

 

 本を通じて突く人間のごう慢さ

 

 「寄生虫というだけで、先端医療とは一線を引かれてしまう。このまま、研究を続けても黙殺されるだけ。せめて一般の人に分かってほしい」。「研究者をやめてもいいや」と腹をくくって書いたのが「笑うカイチュウ」だった。

 

 「清潔はビヨーキだ」「体にいい寄生虫」「キレイ社会の落とし穴」…。刺激的なタイトルの本の数々は一般受けはしても、医学界での風当たりは強かった。「国家公務員のくせに」と投書も来た。ときに学内の査問委員会にもかけられる。

 

 それでも、もう後戻りできない。「今さら開業医になっても生きられない。何より仕掛けておいて負けるのは格好惑い」。

 

 最近は、寄生虫のみならず、狂牛病やエイズなど感染症全般について書くことも増えた。効率優先主義や熱帯雨林の乱開発など、病の背景に潜む人間のごう慢さを突く。昨年八月に出した「謎(なぞ)の感染症が人類を撃つ」のあとがきには、こんな一節がある。

 

 「人類は自分自身が『地球を宿主にしてい一つのパラサイト(寄生動物)に過ぎない』という事実を完全に忘れてしまった」

 

 寄生している限り、そうそう悪さもせず、一生を全うする寄生虫に比べ、ヒトは「自分で自分の首を絞めるばかなパラサイト」という。自分が寄生している地球を傷つけ、自分に寄生している雑菌、寄生虫を殺す。それが「共生」の輪を断ち切っていると警告する。

 

 「自滅していいならそれでもいいが、そういう割り切り方もできない。そんなばかな人類だが、生き物として魅力的に生き続けるために、思ったことは言い続けます」。カイチュウ博士は結局のところ、どんなパラサイトも好きなようだ。

   (早州由紀美)  (2002年1月7日中日新聞夕刊)

 

 ふじた・こういちろう 中国(東北地区)生まれ。62歳。東京医科歯科大学医学部卒業後、いったん整形外科医となったが、寄生虫学に興味を持ち東京大学大学院医学研究科へ。東大助手、テキサス大助手、順天堂大学助教授、金沢医科大教授、長崎大学教授をへて現在、束京医科歯科大教授。

 

 

 

       クレヨン画の小さな絵本

          『世界がもし100人の村だったら』

 

心にひびく不思議な大人の絵本です

 

 本屋でさがしても見逃してしまいそうな絵本が、一部の書店では『ハリー・ポッター』シリーズをしのぐ売れ行きで、

もう44万部以上も売れているそうです。

 インターネットで検索すると、『100人の村』関連HPが2000件近くあり、さすがネット民話だと思いました。

 

『世界がもし100人の村だったら』は、Eメールが世界を駆け巡っている間に、みんなに転送され、書き加えられて、いつの間にか出来たネット民話を絵本にしたものです。

 

 原典  イギリスの詩人 ディヴィッド・タウブ氏の『「ザ・グローバル・ヴィレッジ」の著者とストーリー』というエッセイ

 

 基になったのは  ドネラ・メドウズ氏が90年に書いた新聞のコラム。

  抜粋を『ザ・グローバル・シチズン』にまとめられた。その中の1篇のエッセイ

  環境学者、大学女教授、『成長の限界』など環境問題の古典の著作がある。2001年2月死去〕

 

 採話者  池田香代子さん 〔ドイツ文学翻訳家 民間口承文芸研究家・・・『ソフィーの世界』など訳す〕

 

 1997年まで世界銀行本部に勤務していた中野ひろみさんが、当時人口問題担当だった同僚のドイツ人 ライボルト氏から2001年にメールが転送されてきた。

 英語圏で廻っていたこのメールを翻訳して日本に紹介したのが中野ひろみさん

 

 以上が、このネット民話誕生の筋書きのようです。

 

 何がこんなに人々の心を、そして私の心も捉えたのでしょうか??

 

 絵本は

『世界には63億人の人がいますが

もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるのでしょう』

と大きな字で書かれています。

 

 私は

『20人は栄養がじゅうぶんではなく 1人は死にそうなほどです でも15人は太り過ぎです』にハッとしました。

 

 素朴なクレヨン画の顔々々、同じ人間なのに豊かな富に恵まれた人と、

飲む水も、食べる物も家もない人がいる地球村。

 アフガニスタンの貧しい、空襲に逃げ惑う人たちを毎日のようにテレビで観て、

いっそう現実味を帯びて感じた人は多いはずです。

 

『すべてのエネルギーのうち 20人が80%を使い80人が20%を分け合っています』に、子どものころ欧米映画を観て、冬なのに半そで姿で、暖かな部屋に暮らす人たちをすごいなと思ったことを思い出しました。

 

 惹かれたところは

 

『あなたは豊かで恵まれていますよ』

『いろいろな人がいるこの村では あなたと違う人を理解すること

相手をあるがままに受け入れること』というところ。

 

 釈迦は『人生四苦八苦』といい

世の中は苦多く、考えようで、喜びも多い。

 

 今日は阪神大震災の7回目の記念日ですが、

 友人Wさんはあの日、娘夫婦を亡くしました。

そして、遺稿の童話が「新人賞」をとり、昨年、韓国の「童話50選」に選ばれました。

 Aさんは、待望のお孫さん誕生に大喜びしました。その子は障害児でした。

 Oさんは、息子がひきこもりで療養中です。

 Tさん、Kさん、Yさんは、3〜40代で伴侶が亡くなってしまいました。

でも、子どもたちはやさしく、優れた研究者、経済人として世界に羽ばたいています。

友人たちの、その苦、楽への想像力がもてる人にならねばと、あらためて思いました。

 

 『昔の人は言いました 巡り往くもの、また巡り還る、と』

 これは、わが身から出たものはいずれわが身に戻って来るということ

『だから心をこめて生きてください』

『傷ついていても傷ついたことなどないかのように 愛してください』

 

 私にはなかなか難しいことですが、すがすがしい気持ちになれました。

不安だらけの世の中で、

『地球市民』の感覚を高らかに歌い上げたこのネット伝説が

 これだけ多くの人々の心をとらえたことに

私はとても明るいものを予感しました。

 

(『世界がもし100人の村だったら』、マガジンハウス、2001年、838円)

 

HP『100人の村』  google検索『100人の村』関連HP

 

 

 

       「エッ、こんなことが?・・・」廃墟から光を求めて

          ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』上下巻

 

 「抱きしめて」ということばはふつう、恋の幸せに酔う男女か、あるいは幼子を体中で愛撫する慈しみの状態を考える。

 『敗北を抱きしめて』に綴られた歴史的事実の、表現の柔らかさに魅せられた。

 

 いまの若い人たちは、自分たちの国をどう考えているだろうか。

 豊かな経済大国、戦争のない平和な国、あるいは天皇を中心とした勤勉でよくまとまった国・・・等々。しかし半世紀前、いま毎日テレビに映されるアフガニスタンそのものだったことが、信じられるだろうか?

 本書が多くの資料で記すように、広島、長崎を含む全国66都市が、原爆や大規模な空襲で40%が破壊された。すべてが焼けただれた広島、長崎は勿論、特に東京の65%大阪の57%、軍需産業があった名古屋は実に89%が破壊され尽くした国だった。

 そして、死者300万人、孤児12万人、日本人の過半数が栄養失調だった。

 

 日本が半世紀前に体験した、戦争の廃墟をスタートとして、目指した民主主義的な国作りの実態を具体的に、文学的な表現力を駆使して読者の心に語りかける。それらは、私が小学校2〜3年生で体験した空襲、飢餓、恐怖を甦らせ、現在のアフガンの途方もない貧しさや、希望のなさに見事に重なる。

 著者は「できる限りふつうの日本人の声に耳傾け」「下調べに14年かけた」というがピュリツァー賞など受賞し、先頃は日本の大仏次郎論壇賞も受賞した。

 

 アメリカの日本史研究者のこの大作を読んで、特に、「えっ、そんなことが?」「そうだったのか」と感じたことをメモにした。

 

 1〕 廃墟

 

 「すべてがペチャンコになっていた。公衆浴場の煙突、がっしりした土蔵、重い鉄製のシャッターつきの頑丈なビルがペチャンコの大地に親指のように突っ立っているにすぎなかった」・・・最初に東京入りした外国人ジャーナリスト ラッセル・ブラインス

 

 原爆による破壊は徹底的に隠蔽された。

 広島、長崎の悲惨な破壊を記録した日本人のフィルムは没収された。永井隆など被爆者の初期の著作が発売禁止になり、原爆関連の文書は大幅に削除を強いられた。

 1948年末 原爆文学がやっと登場し、1950年になって原爆が人間にどんな結果をもたらすかを描いた創造表現ができた。丸木位里、俊夫妻が出版した画集『ピカドン』だった。

 

 東京裁判の判事でインド人のバルは、広島、長崎の原爆投下に非常な怒りを覚え、帰国後インドで出版した自分の意見書に、『朝日グラフ』〔1952年8月6日掲載〕25枚の原爆写真を再録した。

 

 「日本人は野蛮な猿人間」「黄疸にかかったヒヒ」

 アメリカのメディアは、戦時中こう教育、宣伝していた。「よきドイツ人」を思い浮かべる余地はあっても、「よき日本人」は存在しなかった。だから、原爆を白人のドイツにではなく、黄色人種の日本には落とせた。という人種差別説は私もうなづける。

 

 2〕身震いするような恐ろしいこと。売春で駐留軍を慰安する

 

 「売春という仕事のかなりの部分が、巨大な占領軍の要望に応えるものだった。何万人もの占領軍兵士を受け入れねばならないということは、性的には何を意味するか。とりわけ、日本軍がほかの場所で行った強欲な行為と、「慰安婦」として皇軍への奉仕を強いられた非日本人の女性が膨大な数にのぼったことを知っている者にとっては、それは身震いするような恐ろしいことを意味した」

 

 女を一般公募 

 「求む。進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を。18歳から25歳までの女性」

 「内務省は全国の警察管区に占領軍専用の『慰安施設』の特設を指示した。業者に5千万円の補助金を出す」所詮、勝者と敗者だった。

 

 警察署長のすすり泣き。

 慰安施設発足の日、布団もついたてもまだない場所や、廊下などで、『動物的性交』が行われ、この光景を目にした日本人の証言は怒りをあらわにしたものが多い。当時の警察署長はすすり泣いたという。人間という生物の<>に私も泣きたい。

 

 3〕東京裁判

 

 戦争を行うには、天皇の許可が必要だった。その天皇を被告にしなかった東京裁判はおよそ茶番、アメリカを中心とした占領国は天皇を軍事的に利用して無血進駐をしたのに、戦争犯罪で裁くことは混乱を招くと考えた。

 天皇が自分の忠臣たちの判決が確定した日を選んで、主席検察官と親しく食事を共にした。

 

 東京裁判の判事たちはこう発言した。

 「ドイツの被告〈ニュルンべルグ裁判〉の犯罪のほうが、日本の被告の犯罪より、はるかに凶暴、多用で広汎だった」「南京やマニラでの虐殺をはじめすさまじい残虐行為が繰り返されたことが裁判の過程であきらかにされたが、それでもドイツのジェノサイドに匹敵するものはなかった」

 「裁く側のフランスはインドシナに、オランダはインドネシアに、イギリスはマレー半島にふたたび入りこもうと戦闘をくりひろげていた。その血塗られた侵略を糾弾する検察官はいなかった」

 

 4〕茶番劇 「天皇にお願いしよう」

 

 戦後日本が生まれ変わりきれなかった原点・・・1946年5月の食料メーデー

 「東京のメーデー参加125万人。食べる物のない人たちのうち、113人が宮内庁の代表と面会した。皇室の台所で一般家庭ではとうてい目にすることのない食物を見てしまった」

 「1週間後、25万人が再び食料メーデーに集まった。民衆の抗議運動が、天皇にお願いし、訴えるに変形していた。そして左翼を自認する人々も食料危機を克服し、民主革命を指導してくれるよう、恭しくお願いしていた」

 世界の民主主義運動史上、これほどの茶番劇はない。

 

 結論として、著者は「戦後の民主主義はアメリカの押し付けではない。自らが平和を望み、民主主義を切望して『戦争の終わり』を抱きしめた」と語っている。

 

 歴史ってなんだろう

 

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。

 同じ民族同士が殺し合う悲劇、日本は「朝鮮特需」で大儲けして廃墟から立ち直った。

 その日の暁、北朝鮮側が1年あまりの周到な準備のもとに、南の全域に攻撃をしかけた。

 長い間、私もこの戦争は南から仕掛けたと信じてきた。左翼的、進歩的といわれる人たちの多くがそうだった。自由と平等という理想を掲げる社会主義国が、そのようなことをするはずがないという確信をもって。

 社会主義が崩壊して、始めてアメリカ国立公文書館にある『北朝鮮からの略奪文書』をひもといて、逆転の現実を文章にした萩原遼氏が現れた。

 朝鮮戦争の直前、連合軍総司令官であるマッカーサーの命令で、日本共産党の中央委員24人が公職追放された。そして、レッドパージの嵐は公共部門から民間の出版関係、映画界などにも及んだ。発行停止処分の新聞、出版物は1400近かった。

 東西冷戦で、非軍事化と民主化が目的だったはずのアメリカ占領政策は,2年で急転した。戦争放棄の平和憲法制定から急遽、再軍備を要求してきた。

 日本という国が完全に生まれ変わり得なかっただけでなく、沖縄の基地のように、アメリカが放さないで庶民が依然苦しんでいる事実が、切ない。

 

 この著作で、私には理解できないこともある。

 それは、膨大な資料と文学的ともいえるセンスで良心的に真実が記されているこの本は、読む者を夢中にさせる力があるが、下山事件、三鷹事件、松川事件などの記述がないことである。

 この当時、国鉄の下山総裁が、溺死したり、三鷹車庫で電車が暴走したり、あるいは長い間の裁判で無罪になった松川事件など、謀略事件といわれる事件も相次いで起き、国中が騒然となった。

 それらはどこにも書かれていないことが、〔私の読み落としでなければ、〕唯一物足りないのである。

 

(『敗北を抱きしめて』上400頁 下494頁、岩波書店、2200円)

 

 

 

       ロシア児童文学誌『イワン』によせて

 

 〔注〕ロシアの児童文学誌『イワン』は、1991年のソ連邦崩壊の年に13号を出し、およそ年1回の割合で発行されている。2001年2月発行の21号が、友人から送られてきたものである。なお、同人として6人の日本の方たちが翻訳にあたられていた。

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 デッカイ月が東の空に静かに登り始めた。子どもが小さかったころ、どんなに忙しくても、仲秋の名月には月見だんごとススキを供え、夜空を見上げながら、いろんなお話をし合った。

 これは日本のふつうの光景で、私の子ども時代も親たちはそうしていた。これは、自然に対する畏敬の気持ちを、知らず知らずのうちに教えられていたのかも知れない。

 夜になると、おはなしの本をよく読んだ。

 親の私は、昼間の仕事の疲れで、横になるとつい眠ってしまいそうになりながら、「おはなしのとき」は長く続いた。赤ちゃんのころから始まり、妹は小学校へ上がるまで、兄は小学校4年ころまで。

 母が、ときには父が、自分に集中して読み聞かせてくれる「おはなしのとき」は、たとえようもなく、愉しいひとときだったようだ。

 『日本むかしむかし』の『ももたろう』や『さるかに合戦』『こぶとりじいさん』のはなし。

 音楽つきの『ピーターと狼』や『くるみ割り人形』。わるい赤鬼が最後に「あおくーん」と泣いて仲良くなる『泣いた赤鬼』、さらにいわなを食べて竜になってしまった『たつの子たろう』のはなしなどは、何十回どころか、何百回といえるほど読んだ。

 少し大きくなってからは、小人のおはなし『コロボックル』や冒険ものなどへ変わったが、自分で『日本児童文学』の

50冊などへ進んでいった。

 今回、思いがけず手にしたロシア児童文学誌『イワン』を読んで、社会の仕組みや国のありようが、人の幸せを大きく左右する。まして子どもの世界においては。そのことを強く感じた。

 

 〔1〕すばらしいものにあこがれる心、熱い感性を

 

 『新生ロシアの児童文学―おはなしの隆盛』 ローラ・ズボナレワ  イーゴリ・ナガーエフ を興味深く読んだ。

 90年代、新生ロシアの児童文学では、昔話、民話、ロシア正教の説話まで、文学のおはなしのジャンルは多彩になっている。しかし「全体主義時代のイデオロギー神話との戦いがつづいている」という。

 

 「ゴーリキーによって人為的に育成された〔子どもらしくない子ども時代〕にかわって、再び貴族の館や愛情あふれる家族の中でのバラ色の子ども時代という神話がもどってきた。ピオネールの英雄たちや、優等生ワロージャ・ウリヤーノフ〔レーニン〕の諸々のイデオロギー伝説にかわって、若い読者たちのところへもどってきたのは、聖人伝に基づいて描かれたロシア正教の聖者たちの敬虔な子ども時代の模範像で、90年代はさまざまな価値体系が攻めぎ合うなかで、肝心なことは、子ども自らが、選択できるよう注意を払うことだ」とあるのは、大事な指摘だと思う。

 

 『新生ロシアの児童文学―おはなしの隆盛』が「自らを難破船の船長」になぞらえ、慢性的な財政難の『児童文学』誌の編集長として活躍するのが、この稿の執筆者イーゴリ・ナガーエフであり、副編集長がローラ・ズボナレワである。実践による文章の真実味が迫ってくるのも当然かも知れない。

 70年間、ソビエトの子どもたちに与えられてきた「イデオロギー伝説の実態を明らかにするという、ありがたくない仕事をする少数の才能ある作家たち」が、ごくわずかでもいることは、すばらしい。

 

 演出家 ワフタンゴフは人生における「おはなし」の位置を「いつわりのない熱い感性。ユーモア。すばらしいものにあこがれる心。実現されるはずのものにあこがれる心」と考えている。

 また「この10年間、アントーニー・ポゴレーリスキーの『人間にはふしぎなもの、月並みでないものに惹かれる特性がある』という言葉をよく思い出す。それはいつになく、おはなし隆盛の時代をむかえているから」とあるが、はなしができるねこや、キリンや子ゾウ、いじわるな雨雲もでてくるおはなしや、いろんな冒険物語など、意欲的な作家たちの、『新しいおはなしの誕生』の隆盛を願わずにいられない。

 

 〔2〕流刑を逃れて逃亡した家族の苦難

 

 『花咲くリンゴの木の下でー私の歩いてきた道から』の作者イリーナ・アンドリアーノワイリーナ・アンドリアーノワは、家族について次のように書いている。

 

 「母方の両親は、30年まで農村で暮らした。

 牡牛と数頭のヒツジと鶏と、果樹70本ほどの果樹園をもっていたから、富農とみなされた。農業集団化と銃殺刑と流刑から逃れて、数千人の農民たちとモスクワに逃亡した。何も持たず、子どもだけを連れてのそれが、どんな恐怖だったかが理解できる年になった。

 

 祖父はモスクワ人民義勇兵に召集され、鉄砲の撃ち方も戦闘の訓練もないまま、腹部に重症を負い死亡した。祖母の嬉しそうな顔はみたことがなかった。つましく、忍耐強い真の意味のロシア正教徒だった」

 「父方の祖父は、製菓工場に就職し、未来の妻とふたりとも共産党員になった。ふたりは若く、愚かだった。だから新しい社会がほんとうに建設されるものと信じた。このころクレムリンで、秘書やタイピストといった事務員全員が弾圧されたとき、あちこちの工場で、共産党員が雇われるようになった」。これらの生の歴史が痛ましい。

 

 この作家は、「10代のごともたちは親の家を出ると、群をつくる。この群のこどもたちはデリケートな問題を感じようとしないし、わかろうとしない。かれらのモットーは、みんなとおなじ、だから、みんなと同じであれば、はじめての相手とも愛し合うし、麻薬をやり、あのおやじを暗い横丁につれこんでまきあげようなどということにもなるのだ」と書いている。

ここには、豊かさと平和に慣れすぎた、日本の10代に共通した深刻さがある。

 

 「自分は自分であり、みんなと同じでないとわかってほしい」と、10代にむけて、作品を書き続けている。作者には、『心を病んだパパ』『トクマコフ横丁、五月八日』『アド』の三部作があるという。

 しかし、『ロシアの出版の現実はひどいもので、突破口がない』とも書いている。すべて金に左右されるという。この才能ある作家が机の引出しにいい作品を眠らせなくてもいい状態にしたいものである。

 

 〔3〕みんなどこかに生きて働き・・・

 

 『お父さんがごともだったころ』 アレキサンドル・ラスキン のおこりんぼうのお父さんと、ピンポンに熱中する男の子の話。

 あるいは、バルーンを学校へもって行って、おじさんが北極へ行ったのはうそでないことを証明する『パイロット バルーン』 マリーナ・モスクヴィナ のはなし。

 はかなげな青春の1ページを『うつろい』に書いた イリーナ・ポリャンスカヤ が、次のことばで物語を終わらせていて、何かホッとさせる。

 「みんなどこかにいて、生きて働き、思い思いに善良な市民生活をおくり、とにかく世の中のみんなとおなじようにどこかで暮らしているということだ」。

 どのおはなしもユーモアがあって、夢があって、楽しかった。

 

 〔4〕新生ロシアのこどもたちよ、自由にのびのびと育て

 

 ソ連邦崩壊から10年、日本では理想社会だった国の崩壊について様々な研究がされている。全体主義、スターリン批判までは受け入れられるが、一般的にレーニンは偉大で正しかったという認識が多く、レーニン批判には勇気が要る。しかし、1990年の資料公開〔90年4月ソ連中央委員会会報〕によって一部の研究者たちが、貴重な研究成果を出版した。

 

 作品に出てくるロシア正教については、以下の資料がある。

 「1914年当時、ロシヤ正教徒が、総人口の70%〔約1億人〕だった。1918年の革命で支配者になったレーニンは、「戦闘的無神論」を掲げて、「ロシヤ正教会は速やかに破壊、根絶しなければならない」と極秘指令で、聖職者全員銃殺、教会財産没収路線をとった。

 その結果、1917年の数百人暗殺、から1921年から23年にかけての8100人銃殺などがおこなわれたことが分かった。〔資料は廣岡正久教授著『ソヴィエト政治と宗教―呪縛された社会主義』 など 〕

 

 聖職者の殺害だけでなく、『花咲くリンゴの木の下で』の農民の逃亡について

 1918年5月の「食料独裁令」以後、激しく抵抗する農民を弾圧しつつ、「食料徴発体制」をとり、抵抗農民を裁判もなく射殺した。その凄まじさは、殺害した農民の10数万人という悲惨な歴史になっている。

 共産党が革命で権力をとった。党員が優遇される。これらの庶民の実態が具体的で、『若く、愚かだった』という若い世代の断定が面白い。

 

 私は、資本主義国日本で、理想社会実現のためにと、15年間 以上を共産党員として活動した。

 夫は、もっと積極的に「職業革命家こそ理想的な生き方である」と、社会的、経済的な諸々の不利な条件を承知で、職場を辞めて専従活動家の道を歩いた。

 その中で、党の方針に批判的意見をもって行動し、除名された。もちろん、ソ連だったら間違いなく夫婦とも、監獄行き、銃殺だったろう。

 私たち夫婦の「若く、愚かだった」情熱と歴史をあらためて思った。

 

 人間的、自由と平等を掲げる社会で、いとも簡単に人が殺される。これは決定的な問題をふくむ体制である。そう考えるようになったのは、ソ連邦崩壊後である。党からの徹底的な攻撃と、友人たちとの離反、経済的困難も身にしみたが、理想が崩れた精神的苦痛が、何より辛かった。

 

 久しぶりに、愉しい「子どものおはなし」の世界に浸った。

 ロシアの子どもたちが、のびのびと自由に、多面的なおはなしを聞き、読む中で、人間的成長を遂げて欲しい。それが、まだ混沌とした部分も多い新生ロシアの、よりよい社会を創る力であるから。

 これが私の切なる願いである。

 

 

 

       藤田紘一郎著『イヌからネコから伝染るんです』

 

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〔3DCG 宮地徹〕

 

 『ペットと共生しながら、ペット病(人畜共通感染症)を予防しよう』。これがこの本のテーマである。「ペツト感染症」にかかる日本人は、最近ますます増えてきた。それはなぜなのだろう。から始まる。

 

 一般的に、学者の文章は難しく書いて、後に専門用語の()をズラッと並べるのが多い。その点、ユーモアを散りばめて、専門用語があっても親しみ易い文章にと、心がけて書かれている。最近の自信作、著者本人がそう言われる本である。

 

 「地鶏のレバ刺し」の話 地鶏は外に自由に放し飼いにして育てる。このトリは庭で餌をついばむとき、一緒に庭に散乱しているイヌやネコの回虫卵を食べてしまう。庭のイヌ、ネコの回虫卵をトリが食べ、そのトリの肝臓や筋肉、或いは牛、豚の肝を生で食べた日本人の16%がイヌ、ネコの回虫症になっているとある。

 

 居酒屋通いの小父さんと「レバ刺し」うんうん、あり得ると思った。しかし、ほとんどが肝臓型の一過性の症状で治ってしまうという。これはイヌ、ネコ回虫症のはなしである。だからあまり神経質にならなくてもいいのかな?

ただし、手洗いや、イヌ、ネコを清潔にすること。とくに室内で飼う場合は念入りな掃除が必要とか。

 

 その他、フィラリア、イヌ糸状虫症、エキノコックス、或いは白癬症(しらくも・・・頭に。たむし・・・体に。水虫・・・足にできる)の項で、マルチーズに顔をペロペロなめさせたら、顔が赤く、オバケのようにふくれた話など、新しい多面的な病気が紹介されている。

 興味深いのは、人間と同じく、ペットの世界にもアトピー性皮膚炎が増えてきた話である。有効な駆虫剤で、イヌ、ネコも寄生虫をもたないよう管理されている現代を象徴している。

 

 日本人が健康を取り戻すためのキーワードは、「共生」と「アバウト」

 このあたりに、藤田教授の思想が感じられる。「アバウト」とは、完ぺき主義の反対で、「それくらいでいいんじゃない?」というところだと書かれている。

 何でも徹底的に追及してきた日本人、細菌や寄生虫を悪者として排除してきた。その結果免疫力を失い、O157やクリプトスポリジウムなどのヤワな病原体に簡単にやられ、花粉症やアトピー性皮膚炎などのアレルギー病にかかり易い体になった。

 

 少年時代に10年間山羊を飼い続け、父が結核療養所の所長だった関係で、人里離れた官舎に住んだため、いじめにも会い「人は誰でも孤独感がつきまとう」と書く藤田教授は、動物たちとの「共生」を説き、ペットからうつる人畜感染症を、予防しようと、温かく訴えている。

 

 日本動物病院福祉協会のアンケート イヌ、ネコと同居している高齢者の70%が「動物は家族」と答えた

『イヌからネコからうつるんです』 講談社発行 263ページ

 ふじた・こういちろう 1959年、三重県立宇治山田高校卒業。65年、東京医科歯科大医学部卒業。70年に東大大学院医学系研究科を修了、東大医学部助手に。順天堂大、金沢医科大、長崎大を経て、87年から東京医科歯科大医学部教授に。日米医学協力研究会主任研究員や日本寄生虫学会幹事などを務めている。

 

 

       『人生後半の愉しみ方』 堀田力+森村誠一

 

 森村誠一さま

 

 三年前、インターネットにホームページを開いたとき、森村さまの文章を載せさせていただいた、愛知県の宮地幸子です。その節はいろいろありがとうございました。

 

 先日、立ち寄った本屋で久しぶりに森村さまの本を見つけました。

 「人生後半の愉しみ方」です。堀田力氏も日ごろ尊敬している方ですので、期待がふくらみ、一気に読みました。

 お二人交互になっている、比較的短い文はとても読みやすく、人生後半期をどう生きたいか、どうしたら実りあるものにできるのか、多くの人がもっている疑問や不安に、答えたものでした。筋を通したお二人の、基本的な生きる姿勢が土台にあるからこその、具体的で多面的な人生論でした。

 

 折角与えられた自由な後半期は、時間が有限で、日々ページが減っていく。人間関係にしても、単なる義理だけの付き合いは、割り切って切り捨てる勇気をもつべきである。自分も切り捨てられているのだから。このあたりは、私も直面している問題で、ズバリ核心をついていると思いました。

 

 趣味についても、「人から認められるくらいにレベルを上げる」は、「長い練習時間も苦にせずどんどん上達するよろこびはもちろん好きだからですが、人間の中には他人に認められたい、誰かに聞いて欲しいという欲求がある」は、退職後始めたピアノについてなるほど、そうだと納得します。チャレンジして、心の充実感が得られる喜びです。

 お忙しいのに、英会話の勉強をし直されていることを知り、あらためて敬意を表します。

 まさに「自分のための人生があるとすれば、それは後半期にこそある」です。

 

 さらに、「文章を書くなら読まれる読者を意識せよ」は、大事なご指摘でした。声を出して笑ってしまったのは、「髪の毛にクリップのようなものをいっぱいつけて、お釈迦さまとめしを食っているような」のところです。

 

 全体を通して、人間としての寂しさや不安なども、率直に出されていたことに、共感を覚えました。そして、子どものころの戦争や、青春時代からの政治の季節にもまれた人生の決算期が、よりさわやかに過ごせそうな気分にしてくれた、いい本でした。

 

 なお、ホームページの方は、地味な文章のページですが、アクセスが1万を超しました。大手の検索ソフトで「エッセイ集」を検索すると、上位に出ており、ささやかな喜びにもなっています。

 

 どうぞ、これからの自由な後半期もお元気で、ご活躍ください。

 

宮地幸子

 

(PHP研究所 2001年、233ページ、1400円)

 

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