名古屋の話

〔3DCG 宮地徹〕

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      4彼岸

      5別れ

        隣人

 「隣人」がプロ野球で活躍している。

 11年振りに、セ・リーグ優勝を狙う中日ドラゴンズの韓国人選手たちである。宣投手とサムソン・リー投手 、それに外野手の李選手らの活躍を、毎試合胸躍らせて観ている。韓国の報道機関も、月45回はスポーツ紙の一面に3選手の活躍を載せ、テレビ放送は、百試合を超えるという。『韓国の3銃士』がドラゴンズを支えていると、新聞は伝えている。

3人とも韓国のスター選手だった。なかでも宣投手は、「韓国球界の国宝」とまでいわれた選手で、4年前ドラゴンズに入団し、最後の押さえとし数々の勝利に貢献した。塁に出れば足で引っ掻きまわし、相手投手のペースを錯乱する李外野手、中継ぎ投手のなかで、最も信頼のおける1人に成長したサムソン・リー投手などがいなかったら、今年のドラゴンズは、優勝を争うチームになったかどうか。

地図で見る朝鮮半島は、大陸から鉈(なた)のように突き出た、九州とは目と鼻の先の隣国である。が、35年間も植民地支配した日本はよき隣人ではなかった。

 子どもの頃、長いスカートをはく人を「朝鮮人みたい」と嫌ったし、悪いことが起きると「朝鮮人がやった」といじめた人もいた。日本の差別意識は根深い。しかし、逆境の国はかえって優れた作家文化人を育てた。現在の韓国大統領と、日本の首相を比べれば、残念ながら格の違いが分かる。

 1945年、日本の敗戦と同時に始まった冷戦で、国土を2つに分断された朝鮮。さらに5年後、「朝鮮戦争」で沃野を焼かれ、家族を殺された悲劇の国と、その戦争の特需景気で立ち直った日本は、対照的な隣人同士である。

 長年の常識を覆し「38度線を越えて戦争を始めたのは北朝鮮」との研究が公になったのは、戦争から30年近い歳月が経った1977年、北朝鮮の資料でアメリカが情報公開した。専門家の地道な研究資料は説得力があり、納得させる。

 この秋、また日韓プロ野球交歓試合が開かれる。草の根友好大賛成。『3銃士』たちと不幸な歴史を乗り越えて、隣人としての熱い握手を交わしたい。 (19999月最後の日、ドラゴンズ リーグ優勝)

 

      燃えた球場

 名古屋球場が中日、巨人戦を最後に、48年の幕を下ろした。観客は延べ6千万人という。とくに今年は動員率が16%の伸びというから凄い。この『土と芝の劇場』に幕が下りた日、静かな、深い感慨がこみ上げた。

 45年前の819日、あの日も中日、巨人戦だった。空気が乾燥して良く晴れていた。中学2年の私は兄と初のプロ野球見物をした。まだテレビがない時代、実際にプロ選手たちを直接見ることができるなんて、まさに夢見心地だった。

 1塁側内野席に着いてすぐ、近くで薄煙が上がった。木造の観覧席に新聞紙など敷いて観ていたので、たばこの火が原因だったと思う。その煙は整備の人たちの手ですぐ処置された。しかし別の場所からまた煙が上がった。それがすぐ消される。そんな繰り返しだったので、バックネット方面から煙が出たときも、みんな「またか」という感じで試合を観戦していた。すぐ消えると、気にもしなかった煙が勢いを増し、炎に変わり始めた。それから間もなく、球場全体を赤い舌がめらめらなめるように、炎が広がった。「いかん、逃げよう」という兄と出口方向へ急いだが、気が動転した観客で押すな押すなの大混乱だった。

 進もうとすればするほど列は乱れ、折り重なる人、人、人が山になり、いつの間にか兄ともはぐれていた。もがいて、呻いて、ときには人の下になり上になりして、パニックの波から抜けられなかった。そのうち、地面に頭から真っ逆さまに墜落した。

 気がついたら、はだしで球場近くの道を1人とぼとぼ歩いていた。もう夕方近かったようで、落ちたときひねった首の痛みもあり、人々に混じって駅方面へ漂うように歩いていた。

 あれから45年、この夏偶然、夫の友人もあの火事に遭ってけがをし、病院に通ったことを知った。球場側は全員に無料招待券を見舞いとして配ったと聞いた。あれ以後、頸椎や体調全体がおかしかったが、病院に行かなかったから、私には何の見舞いもなかった。いつの事件も隠れた犠牲者は何倍もいる、そう思った。

 この火災で球場は全焼し、死者3人、負傷者300人余りが出た。あれから半世紀近い月日が流れて、思い出の球場がいま歴史を閉じる。鮮烈なあの体験があったから、今もテレビにかじりついて、一層のドラキチになった。こんなおばさんがいるから、名古屋のファンは強い。

 昭和29年ドラゴンズ日本一の時、グローブのような大きな手で、日本で初のフォークボールを投げ、32勝した杉下、昭和2546本の本塁打を飛ばした故西沢選手などプロの技が忘れられない。そうだ、昭和63年に44セーブ・勝利の郭投手もいる。名古屋らしくこれらの選手は地味で、質実剛健である。

 今年3年連続首位打者のパウエル選手も、セリーグで過去2人しかない快挙である。それでも淡々として「恵まれない人は、まだいっぱいいる」と福祉活動に熱心だ。そこがまた魅力なのだ。

来春はドーム球場に変わる。45年ぶりに夫婦で出かけてみようと思う。プロの技にしびれたい人々で、きっと名古屋は燃えるだろう。

〔1977年 名古屋都市センター発行『名古屋とっておきの話』(経営書院)に掲載〕

 

      四間道(しけみち)

 『四間道』は名古屋駅近くの商店街、円頓寺の南、国際センタービルの北の位置にある。この面白い名前の道を知ったのは、同じ会社の建築技術者Oさんが、社内報に載せた一文だった。

 それによると、およそ300年前の元禄13(1700)、この地域に大火があった。そこで、防火対策として、道幅を4(7メートル)にして、道の東側を高く盛土し、石垣を積んで土蔵を連続させたとのことである。技術者らしくきちんとした文で、短くまとめられていた。

 当時、毎朝名古屋駅からここを通り、少し先の官庁街まで自転車で通勤していたので、この文にとても関心をもった。もう少し詳しく知りたくなり自分でも調べたところ、興味津々の歴史物語にのめり込んでしまった。

 慶長15(1610)、それまで政治の中心だった清洲から、武家、社寺、町家、それに町名までも総移転して、名古屋城下町をつくったのである。これを『清須越』といったとのこと。

 大火のころは西に農地が広がっていたが、『大船町』として西側へどんどん家屋の建設が進み、いまに残る下町になったという。

 その頃名古屋城を築城した福島正則は、城を作る資材を運ぶため堀川を開削した。『四間道』はその堀川の西岸に位置しており、その水運を利用して商人は、米穀、みそ、薪炭など重い物の運搬で、商業活動は大隆盛したことが分かった。

 早春の朝この道を自転車で走ると、この歴史道は悠久の夢から覚めず、眠り続けていた。晩秋、勤め帰りに通るときは、連続する高い土蔵の白壁と道を挟んで対する木造中2階の町家造りの家が、アルミサッシにはない温もりで疲れを癒してくれた。穏やかな冬の日、彼と待ち合わせて歩いたときは、土蔵の白が目にやさしく、遠い昔の堀川のさんざめきが聞こえて来るような錯覚を覚えた。

 『塩町うらから納屋うらまで、拾五町余りの間白壁の土蔵には浪花者も舌を巻き、碁盤割の町中に総格子の無商売多くて豊かに暮らすを見て江戸っ子きもをつぶして尻ごみなす』天保期(1840年頃)の『天保見聞名府太平鑑』には、このように当時の『四間道』が表されている。

 現在(いま)私は、『不可思議』と名のついた土蔵の中の喫茶店で熱いコーヒーを飲む。道を挟んで対する緑の『浅間社』、ここが『四間道』のスタート地点である。

 三の丸局舎へ転勤になって、15年間この道を通った。8年前退職してからも、歩くことが好きでよくここを歩く。同じようにこの道が好きで文章にしたO氏は、55歳で下請け企業へ転 職後、1年で鬼籍の人となった。夢のごとき人の一生はかくも短く、歴史は延々と続く。

 名古屋市が、街並み保存地域として有松、白壁町、中小田井と共に四間道を指定したと知り、わがことのようにうれしい。デザイン都市と古い歴史の共存で、生まれ育った名古屋が、豊かな文化都市になって欲しいと願う。

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  蔵街は白壁ぬくし夕映へる

  紫陽花を一鉢咲かせ蔵つづく

  夕映へや堀川四間道風涼し   大牧冨士夫

 エッセイ「四間道」を愉しく読みました。先日友人に案内してもらい、四間道に行ってきました。「歴史は延々と続く」感しきり、名古屋にもこんな街があったのだなと話し合いましたが、「街並み保存地域」としては寂しいな、というのが友人と共通の正直な感想でした。浅間社の杜は大茂りでしたが、楽しみにしていた「不可思議」は、看板だけが空しく残り、熱いコーヒーは飲めませんでした。残念。ホームページのご訂正を。ご健筆をお祈りします。

(注)、上の3句と、文章は、私の『四間道』をお読みくださった大牧冨士夫さんからいただいたメールです。

 

       彼岸

 彼岸になると、ここ名古屋の平和公園へ墓参にくる。

 『墓参り重ねかさねて参り来る身となるまでを一生(ひとよ)と呼ぶか』と鎌倉の住職が歌ったが、50代の私も、彼岸参りを重ねる身になった。

 丘陵地全体を見渡すと、夥しい数の墓石群である。戦後、名古屋の墓を基本的にここに集めるという、大胆な区画整理で10万基近い墓が並ぶのは壮観ですらある。その墓の11つに生があり、死があったと思うと不思議な気持ちになる。そして最近読んで心打たれた青木新門の『納棺夫日記』の死を思った。詩や小説を書く著者は、生活のため「一族の恥だ、汚らわしい」の声に耐えて納棺の仕事をする。

 「1人暮らしの老人の死が、何ヵ月ぶりかで発見される。部屋の中に豆をばらまいたように見える白いものが気になった。蛆だった。布団をはねると、無数の蛆が肋骨の中で、波打つように蠢いていた。蛆を掃くと捕まるまいと必死で逃げる。蛆も命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」。背筋が震えるような死である。

 死を真正面から見つめる著者だから見えた光の光景である。信仰心なく、死を深く考えたことのない身だったが、彼岸の墓地で、永遠の中での、一瞬の命を思った。

 義父が亡くなって7年、私たち夫婦でこの墓参りに来るようになったが、お盆のときは夏日差しに墓石が焼けつき、掃除していても汗が吹き出る。それに比べ、彼岸は気持ちがいい。

 しかし、私鉄や地下鉄を乗り継いで来ると、墓参も1日がかりの仕事になる。「もっと年老いてからこうして来るのも、なかなか大変ね」。帰り道、夫といつも交わす会話である。

 墓地周辺の盛り上がるような緑の一角に、ヒガンバナが咲いていた。糸菊に似た繊細な朱の塊は、彼岸を忘れず律儀に咲く。夏と秋のあわいの高曇り、静かな墓地だった。

『だしぬけに咲かねばならぬ曼珠沙華・・後藤夜半』

 

        別れ

 JR名古屋駅が取り壊しになるという。築後56年というと私と同じ年である。同年を生きてきたことでの親近感から、壊される前にもう一度見ておきたいという気持ちが高じ、2月初め名古屋駅に行ってみた。駅はまだ東西に長く、ゆったり横たわっていてホッとした。

 敗戦後間もなくの頃、小学校低学年の私は母とこの駅に立ったことがある。駅近くの歩道のあちこちには、貧しい身なりの子どもたちがかたまっていた。 私たちはその間をぬうようにして駅を通り抜けた。

 駅裏には食物が安い闇市があった。 砂ぼこりが立つ道の両側に、無秩序にバラックの店が並んでいた。義足の傷痍軍人が箱を持って立っていたり、丼でみそ汁を売る店やおでん屋などがあ った。軍服を着た人も多く、ぜいたくなものは何もなかったが、やっと戦争が終わって、人々が生き生きしている様子が子ども心にも感じられた。

 人ごみをかき分けて買い物をしたかえり道、母は「名駅の銭湯に入っていこうか」と言った。疎開先の乏しいもらい湯の毎日だったから、「銭湯に入れる」という期待で胸がはずんだ。

 駅の奥まった位置にあったその銭湯は、当時の長旅の客がくつろぐ湯だった。普通の銭湯と同じ入口の戸を開けると、湯の匂いが心地よく体をつつんだ。若く行動的だった母も、56歳で逝ってしまった。

 青春時代、よく行った山やスキーは、いつもこの 駅始発23時半発の長野行きだった。重いスキーとリュックを背にコンコースに行列した。

 安保闘争のとき「国会請願」に上京した。仲間が多数上りホームに見送りに来てくれた。列車が動き出した時、現在の夫から「東京から帰ったら結婚しよう」とプロポーズされた。返事もしないうちに列車はスピードをあげて走り出した。

 56年間輝いた名古屋駅との別れは、私の青春劇場が壊されるようで切ない。昭和は又遠くなった。

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