連作短編1

 

〔3DCG宮地徹〕

 〔目次〕

   (前編) つけられる女と男

     序章

     初夏 1961年

     冬の花

     春 1978年

   (後編) 復活

     脳波検査

     共産党との民事裁判と友人たち 1977年

     学習塾と小母さん先生

     東欧革命・ソ連崩壊と排除された人々 1989年

     復活−インターネットとこどもたち 1997年

 

 (関連ファイル)           幸子のホームページに戻る

     連作短編2『政治の季節の ある青春群像』職場における4・17半日ゼネスト、1964年

     連作短編3『めだかのがっこう』

     エッセイ  『政治の季節』

 

つけられる女と男

 

   序章

 

 香は、生まれ育った街名古屋を歩くのが好きだ。それは、青春時代の舞台そのものだからかも知れない。

 夕方の街は久しぶりだった。そのせいか、広小路通りの歩道に覆い被さるようなケヤキ並木は、形の良い、伸びやかな姿で、清々しく目を愉しませる。近ごろ流行りのセルフサービスの喫茶店で、焼きたてパンとアイスコーヒーを買い、歩道に面した席で止まり木の鳥のような格好で、ガラス越しに夕方の街を見続けた。

 

 勤め帰りのサラリーマンが足早に通り過ぎる。携帯電話でしゃべり続けながら歩く女性が多い。男性は例外なく大きなパソコン入りの鞄を下げている。勤めから解放された顔のさわやかさが香の心を和ませる。

 W杯で日本がベスト16になった。繁華街栄は、ブルーのユニホームやTシャツ姿の若い男女が溢れ、大声で歌を唄いながら歩道を練り歩いていた。

 ぼんやりそんな光景を眺めていると、それは、40年前のあの春の宵に飛んだ。

 

 栄交差点から道1本東にある公園、セントラルパークは、梅も桜もないけれど、アベックが多く、甘い春色を演出していた。両側にベンチが無造作においてあるだけの広い公園で、道路との境にクスノキが連続して植えてあり、それがこの公園をおおらかですっきりさせている。

 「待った?」

 「いま来たところ」

 約束の6時きっかりに、この近くの職場から駆けつけた香に恒夫が答えた。

 彼とは2年前風邪をこじらせて肋膜炎で入院したとき、公務員の非現業共済組合病院で知り合った。

 「連絡できなかったけど、今日6時半から栄の交差点で街頭カンパなの」

 「久しぶりなのに、そんな事どうでもいいじゃないか」

 不満そうな恒夫に悪いなと思って、香は黙った。

 「春の宵っていいわね、冷たかった空気にそっとやわらかさが加わって。陽が明るいせいか木も街も輝いて見える、値千金ね」

 「そうかなあ、春はあけぼのっていうよ」

 こんな風な皮肉屋の所が恒夫の特徴でもあった。香が世の動きに関心をもつようになったのは、彼の影響が大きい。

 楽しい会話も時計が気になった。

 「カンパはパスするだろ?」

 「ごめんね!」

 大声で言って、香は栄交差点へ走った。

 

 交差点に着くと、読書会の仲間が6、7人「三池の1500人首切りにご支援を」と訴えていた。

 この闘いは九州の三井三池炭鉱で、1278人が指名解雇され、これに反対する三池労働者を、同じ時期安保共闘に結集した民主勢力が支援し、1960年1月からその年10月まで続いた。日本だけでなく国際連帯に支えられて、当時盛んになった合理化反対闘争の頂点に立ったものだった。

 

 安保と言えば三池と、まさに政治の季節だった。仰いだ南東の空に、淡い藤色の雲が浮かんでいた。

 素通りする人の方が圧倒的に多かったが、7時近くなり、サラリーマン風の通行人が増え始めた頃から、ごく自然に募金に応じてくれ出した。交差点の東南角は「オリエンタル中村」というデパート、対する東北の角は銀行だった。2つに分かれて募金箱を持って立った。そのうち全員が東北の角に合流した。

 

 誰かが「みんな仲間だ炭掘る仲間…」と口ずさんだ。それがいつの間にか増えた仲間、若い男女14、5人のハーモニーとなって街角に響き、大合唱になった。春の宵は次第に暮色が濃くなっていった。

 夜8時前、カンパを止めてみんなで集計した。

 「1万3千円だ!」

 「えっ? 1万円を超えた?」

 「やったぞ!」

 喜びの大声が歓声になって、空に舞い上がった。

 

 あれから40年の月日が経った。一昨年、香は、ヤマの男たちが涙ぐむ写真と共に、三池炭鉱閉鎖を新聞で知った。

 世の中は進歩したのだろうか。別れた恒夫の事も、仲間と訪れた炭鉱住宅も、春の宵のまぼろしのごとしである。

 香は思い出したようにコーヒーのストローを口にした。

 

 

   初夏 1961年

 

 その日、初夏の明るい陽が夜の闇に消されるには少し間がある時刻だった。香は、久しぶりに早く職場から帰ることができたので、くつろいだ気分で市バスから降り、アパートまでのゆるい坂道を歩き始めた。

 「山田さんですね」

 「はい」

 後から声をかけられ、反射的に返事をして香が振り返ると、年の頃30代半ばと見える背広姿の男性だった。

 「今度共産党の8回大会に出られますね」。

 「あなたどなた? いきなり失礼でしょ」と言いつつ香の胸はドキドキした。そして、無防備に自分の名前に返事をしてしまった愚かさを悔やんだ。

 「公安調査庁の者ですが・・。大組織の中での活動について・・・」

 男は何のためらいも感じていないらしいのがその話振りから感じられ、香は余計抵抗を感じた。その後、何を言われても無言で通した。

 

 男は香が急ぎ足になると急ぎ、止まると同じように足を止める。静かな住宅街が香には、にわかに闇の中で1人立たされた荒野のように感じられた。くるりと踵を返すと、いま来た坂道を駆け降りた。電車通りまで一気に走って、たまたま来た市バスに飛び乗った。と、後を追って来た男も動き出したバスに乗った。

 普通の乗客がかなりいたので、気持ちは先程より落ち着いたが、「民主国家日本でこんな事が許されるのか」と、香の胸はふつふつ沸いて来る怒りで煮えたぎった。

 およそ10分も乗っていると名古屋市の繁華街になった。丸栄デパート前の停留所でさっと降りた。降りる客が多く、男もその中にいた。香は、デパート1階の雑踏で男をまくつもりだった。しかし男は執拗に香をつける。これは駄目だと考えて、この近くにある自分の職場のビルへ向かった。それでも男はあきらめずまつわりついて来た。

 

 こんな状態ではどうしようもない。香は早足に歩きながら「抗議の応援を頼むしかない」と、職場の玄関にある守衛室へ駆け込んだ。そこで電話を借り、共産党事務所へ電話したら、ほどなく百戦錬磨の日中友好協会の活動家大橋が、押っ取り刀で駆けつけた。

 「なんと卑劣な奴らだ、許せん!」と、熱血漢の彼は太い低音で、怒鳴るように口走っていた。

 気が付いたら、男の姿はいつの間にか消え、香はやっと平常心に戻った。

 香25歳の初夏だった。

 

 1960年の安保闘争は、社会党、共産党が、生存権をかけて闘う三池闘争とともに、労働組合との共闘を広げ、国を包む大きなうねりとなっていた。地域や職場での読書会、安保研究会、三池守る会など、学習や署名活動などが活発に積み重ねられた。香は、組合代表の1人として国会請願に参加し、生まれて初めて両手を広く伸ばして歩く、フランスデモを体験した。

 安保闘争では、学生組織の一部が国会突入を図り、東大生樺美智子さんが警察機動隊に殺された。香は怒りを感じたが、共産党は党に反対する勢力の暴挙として、その死を黙殺したことを不思議に思った。

 

 安保闘争の中で共産党の組織も飛躍的に伸びた。読書会の仲間は、香にも熱心に入党を勧めた。組織に縛られたくないと、長い間断り続けたが、父が6年間兵役につき、戦争で苦労した母をみて育った香は、仲間と行動を共にしていたので、入党は時間の問題だった。

 

 マルクス・レーニン主義の学習で、香が共鳴したのは、「搾取のない自由な平等社会」というユートピア思想と、「人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という社会形態だった。

 党歴が浅いのに綱領決定の共産党第8回大会の代議員に選ばれたのは、 職場の組織が真面目で献身的活動をくり広げる若者ばかりだったので、「革命拠点」職場の総責任者に押し上げられた結果だと香は考えた。

 愛知県代表30数人のほとんどが、活動歴が長い常任活動家で、職場代表は2割もいなかった。それ以上に、女性は1人で、最年少というのは異例だった。

 香たちの組織は、活動者会議などで献身的な全党の鏡と評価され、ひたすら党中央に忠実な実践部隊と認められた。

 

 その頃、安部公房、大西巨人ら党員文学者21名が除名になり、野間宏の権利停止などあったが、日々忙しく深く考えなかった。満場一致で綱領を採択した会場で、中央委員でただ1人、賛成でなく保留にした中野重治の姿が目に焼きついた。香の党員生活の華々しいスタートに象徴的出来事だった。

 

 それにしても、なぜ公安当局は香が大会代議員になったのを知ったのか。

 なぜ、こんなに執拗に香をつけるのか。

 香は、1年間の中堅幹部養成訓練を終え、新しい部署に配属されて間がなかった。

 期待の新人は、5日間旅行と休暇を申し出た。

 「うれしい、香さんがこの課に来るって」と言い合った同僚たちが、「アカなの?」と微妙に変化し始めるのに時間はかからなかった。香は、入党間もなく職場組織の責任者になった。直後に開かれた労働組合の大会で、共産党組織の代表として「政党支持の自由」について論じ合った。とりわけ「社会党へのカンパとして、組合員すべてから給料天引きするのは間違っている」との発言は共感も呼んだが、現状のままで良しとの結論になった。

 そのような職場の雰囲気の中で、「あの人は共産党大会に出る」と、職制が自信ありげに言ったという。香には、なぜペンネームでしか党の会議には出ていないのにと、不愉快で不気味な疑問が残った。

 

 

   冬の花

 

 政治の季節、香は仕事にサークルにのめり込んだ。

 多くの友人の中に、長身を粗末な服で包み、素足に下駄ばきの正志がいた。政治や社会科学を学んで、職業革命家の道を選んでいた。

 正志と付き合い始めたある日、香は聞いた。

 「民主青年同盟の専従活動家って給料いくらなの?」

 「たてまえは1万円、会社員時代の3分の1になった。大学卒の初任給がおよそ2万円、でもカンパや同盟員費が集まらないと遅配や欠配にするんだ」

 「じゃ食べていかれないわね」

 「だからさ、下宿代は友人の所に転がりこんで折半。夜はラーメンで、朝は残しておいたラーメンのスープにトースト」

 安い給料は遅配続きらしいのに、苦にもしていない。香はそのおおらかさに惹かれた。夢は大きかった。

 デートは何かの集会や会議の後の短時間だった。安い「トンちゃん」や「豚足」で栄養補給し、いつも香が支払った。

 

 正志は、日本民主青年同盟の地区委員長として、共産党の活動者会議にも参加していた。その会議での香の活動報告は先進的で活気があったので、会議ではいつも指名され、活動家たちを刺激した。

 「男性の多い中で、個性的な美人が堂々と発言する。香は高嶺の花だったよ」

 「若いときは誰でもきれいよ。たしかに『香さんの発言を聞くとやらなきゃという気持ちになる』と言ってくれる人はいるけど。いつも、いつも発言を求められ、ときには活動報告をしたくないときもあったわ」と、香は本音を洩らした。

 

 香と正志は、ときには音楽喫茶で心を潤しながら、政治と文学、音楽や映画、スポーツなど趣味の一致で人生の充実を求め合った。

 正志が3年間働いた職場を辞めて、専従活動家になる決意をしたとき、穏やかな学者の共産党国会議員佐藤を伴って自宅へ赴いた。

 「職業革命家の道で生き甲斐のある人生にしたい」

 「折角いい大学を出て、いい所に就職したのに、職場を辞めて共産党の専従なんて許さないぞ」

 決意を話した正志に、両親は怒った。

 正志の父は、長年、名古屋で教育者として働いた。戦後の学校施設が不足している中で、PTAの役員や地域の実力者と懇談した。

 「なんとか、子どもたちにプールを作ってやりたい」

 「オイッ 校長!プールが作りたければこの杯を受けろ!」

 苦もなく何人かの杯を飲み干す。

 「雨が降ると部屋に閉じこもるしかないので、体育の時間は本当に困っています。体育館があったらと、切実に思うのです」

 「何? 体育館? そーか次は体育館か。なら俺たちの杯受ける勇気あるか?」

 『酒はしずかに飲むべかりけれ』と詠ったのは若山牧水、正志の父の酒は、蛮声張り上げての交歓の宴だった。酒に強いのを幸いに、実力者と良好な関係をつくり、次々施設の整備を図った。

 市電の終電車に乗り遅れ、学校がある桜山から自宅の中村区まで、時間にして2時間余りをよく歩いて帰った。ときには途中の電柱にもたれて居眠りしていて、ジープに乗った進駐軍が家まで乗せてくれたこともあった。千鳥足の酔っぱらい校長は、大声で歌を歌いながらのご帰還で、近所で評判になっていた。正志の母親が病気になったときは、買い物籠から平気で大根など覗かせて街を歩いた男だった。

 教育内容が新鮮だったので、ユニークな名物校長として周囲の信頼は厚かった。その父は現役時代、共産党の組合幹部から不当につるし上げられた体験など、苦々しく語った。

 正志は、既に職業革命家の道を決意して、退職願いを出してしまっていたので、話合いは決裂した。

 父は怒鳴り、勘当を宣告した。

 「お前のような冷血動物はいますぐこの家を出ていけ!」それが最後のひとことだった。

 

 香は、以前正志からその話を聞いたことがあった。

 「お父さんの意見は、お母さんより筋が通っていた」。

 冷静に話合いに臨んだ国会議員の佐藤は帰り道、ポツリと言った。

 香が結婚の意志を伝えようと彼の家を訪れたとき、母親と弟だけが出て話してくれた。父親は襖1枚奥にいたが、頑として会おうとしなかった。

 

 2人の結婚式は、会費300円で100人近い仲間が祝った。正志の親族は欠席のままだった。

 ましなドレスもない香に、仲間の1人が、安い布で真っ白なウェディングドレスを1晩で縫ってくれた。

 「香さんの彼はどんな仕事の人? 給料は?」

 「世の中をよくする政治活動してて、給料は高くないけど・・・」

 叔父の質問に、香はどきまきしながら答えた。それは、娘の結婚を喜びながら、心配した母の心そのものだった。

 母はなけなしのお金で、高価な和服と布団を娘に贈った。叔母3人を始め親族が正志の職業に疑問を持ったまま、それでも揃って会場に来てくれた。それは香にとっておおいに励みになった。

 

 新婚生活の家財道具は、正志の僅かな退職金で買った冷蔵庫だけだった。それを知った兄妹が、洋服箪笥と下駄箱を贈ってくれた。香にとっては予期しない、十分過ぎる新婚生活のスタートになった。

 広い会場では、粉末ジュースで乾杯した後、演劇、コーラス、民謡と、1960年代の、貧しくも心のこもった、熱気に満ちた祝宴が夜遅くまで続いた。

 

 冬の時代の訪れは唐突だった。

 2人の結婚から14年が過ぎたある日、正志は突然切り出した。

 「党の異見処理に納得出来ないので裁判で闘う。君に迷惑がかからないよう離婚する。2人の子供は引き取る」

 「急に何を言い出すの? いままでも私の給料を柱に生活して来たのに、『2人の子供をひきとる』離婚なんて不可能だわ」

 「党内の秘密は夫婦であっても守らねばならなかったので、秘密にしていたが・・・」

 「何か変、何か次元が違う」

 青天の霹靂(へきれき)だった党との裁判と離婚宣言、それは強烈な打撃だったが、同時に香には浮世離れした空想小説にも聞こえた。

 正志は、既に党内での意見の違いで専従をくびになっており、それを不服として裁判にもち出したことで除名になっていた。その現実のために、2人はくり返し話し合った。

 話合いになると、いつも香の胃はキリキリ痛んだ。

 理想に燃え、請われて共産党の専従になって15年近い。極端に安い給料の遅配や欠配は常のこと、幸い安定してボーナスの入る公務員の香が、経済の柱になってやりくりして来た。 香は「夫はなぜくびになったか、経過が納得出来ない」と、党中央の宮本委員長に質問状を出した。

 訴願委員会からは「手紙受け取りました」というはがきが来るばかりだった。段々と虚ろになる気持ちと闘いながら、2回3回と出し続け、6回目の精魂込めた訴えと質問を無視され、香は、共産党のいう民主集中は、異見の握り潰しであると悟り、絶望して離党を決心した。

 子どもは10歳と4歳だった。育ち盛りの子に毎日の惣菜は安いイワシか卵ばかりでしのいだ。刺身が食卓に並ぶなどあり得なかった。長年の質素な生活に不満はなかったが、崩れた理想への絶望感は大きかった。

 

 1973年、香は転勤になった。退職までの14年間を、名古屋駅から官庁街の中区三の丸まで自転車で通った。

 途中の幼稚園に山茶花の垣根があった。氷点下の寒さのなか、山茶花が鮮やかな彩りで街を飾っていた。毎朝自転車を走らせながら、可憐に咲いていたその紅と白の花に、香は目を奪われた。

 山茶花の胸を打つ美しさは、久しく笑いを忘れた冬の時代の、心を和ます冬の花だった。

 職場にいる間は、党からの電話や張り込みの圧迫から逃れられる安心感があった。

 歩き慣れた道を逆の方角から歩いて眺めると、ビルも家並みも、全くの異風景に見える。そのときの香には、いままで見えなかったものがはっきり見えてきた。

 香は自由な日本でよかったと、心底思った。「生きねばならない」その思いだけが香を支え続けた。

 

   春 1978年

 

 春江一也著『プラハの春』の中に、「尾行」という章がある。

 「3日前、大使館からアパートに戻る途中、ソ連製の黒い乗用車につけられた。そして白昼、市内を歩いていて尾行された。カレル橋の上で気配に気づいた。何気なく振り返ると10メートルほど後を中年の男が歩いてくる。聖フランシスコ・ザビエルの像まで来た所で立ち止まった。見上げるふりをして窺うと、その男はいつの間にか反対側の歩道でプラハ城を眺めていた」。

 

 1968年ソ連軍侵入に遭遇した著者が、現役外務官僚として体験したことをドキュメンタリ−タッチで書いている。

 著者は「最終的には50万人の良心的な党員が追放されたのだが、歴史としての『プラハの春』にかかわり、挫折し、苦悩し、絶望しながらも、苦闘した人々の生きざまは1つ1つがドラマであった」と「プラハの春」の死を熱い心で描いている。

 正志は、日本民主青年同盟と、日本共産党の専従を、15年近く誠実に活動してきて、党中央への批判発言をして専従をくびになった。納得できず、お金もなく、独りで法律を研究し、専従解雇不当を民亊裁判で訴えて除名になった。

 たちまち「反党分子」のレッテルが張られ、党内の各機関で凄まじい反党分子キャンペーンが行われた。

 共産党という組織では、目隠しされた馬のように、わき見してはならない。ただひたすら革命を信じて、党中央の活動方針に従わなければ、たちまちレッテルが張られる。とりわけ、専従活動家が党中央への異見や疑問をもったら、危険が身に迫る。

 正志は誰とも連絡をとらなかった。毎日、家で法律と四つに組むのが使命だと考えた。

 そんな頃、正志は家から10メートルほどの所にある中部電力の社宅わきに、不審な乗用車が停まり、毎日わが家を監視していることに気づいた。注意して見ると、2人組で来て、1人は一定個所で玄関の出入りを見張り、他の1人は家の周辺をぐるぐる廻るというやり方であった。

 正志はその監視があまりに執拗なので、家から出て行って「あんたは毎日誰の指示で見張るのだ」と抗議した。

 その若者は返答に困り、停めてあった車で逃げるように走り去った。正志は、車のナンバーを書き留めて陸運局で調べた。日本共産党トヨタ自動車支部所属の県直属党員の車だった。

 

 県直属とは、最重要拠点のトヨタ自動車支部を地区の所属にせず、このような秘密活動に動員する。長年の専従活動をして来た正志にはそれが分かる。正志は、わざわざ豊田市の工場に行って、その自動車ナンバーの人に面会を求めた。しかしその人物が夜勤明けで休みだったので、会社で調べた電話番号で自宅に抗議した。その人物は党の要請で監視をしていたので、しどろもどろな返事で困惑しきっていた。

 『プラハの春』で、「ソ連軍の兵士が理由も分からないまま、指令どおりチェコへ進入し、真剣なチェコ市民の抗議に戸惑う状況」は、正志がいま体験したことそのものであった。

 

 こんな状態でかれこれ1週間が過ぎたころ、その日も、玄関が見える位置に1人と、家の裏側から少し離れた所に1人が張りこんでいた。正志は丁度学校から帰った長男に言った。

 「変な人がいるからね、玄関から靴を持って来て」

 「うん、わかった」

 小学3年生の長男は、父親の身に漂う緊張した雰囲気に何かを感じて素早く行動した。

 正志は、子どもが持って来てくれた靴を履いて裏側の窓から飛び下りた。逃げられないように、一気に監視要員に近づき、毅然と抗議した。

 「卑怯な監視を続けるなら、法的措置に訴えると県委員長に伝えよ!」

 正志はその時も、その車のナンバーを陸運局へ調べに行った。今度は日本共産党の県委員会所有の車だった。

 正志が時間を決めて散歩に出ると、執拗に影武者のごとき尾行が繰り返された。共産党という組織は、人間を追い詰め、精神的破綻を起こさせるように極めて計画的、組織的に連日、尾行要員を投入した。

 

 「党は非人間的尾行を毎日繰り返している。こんなことは許せない」

 「県委員会に問い合わせたら『県委員会としては全く関与していません』という回答でしたが・・・」

 香が、共産党の職場支部責任者に張り込み、尾行を抗議したときの返事は、あらためて香にあることを感じさせた。

 下部の党員は誠実に党組織を信じて疑わない。彼らにとって、党は神聖で誤りの無いものなのだ。但し、何かに自分が直面するまでは。と、香は思った。

 このような正志への張り込みは、毎日、延べ1カ月間ほど続いた。

 

 「共産党中央に対して、党員が裁判を起こすのは前代未聞のこと。国際共産主義運動史上一度もない。すぐ却下を!」と、大声を上げたのは裁判所での共産党側だった。

 裁判長は正志の訴えを門前払いせず、申請を受理して審議に入った。

 正志は、権力による人権侵害に徹底的に抗議する共産党が、党員を使い、「反党分子」には平気でこのような人権侵害をすることに強烈に対抗して闘った。それと共に張り込みと尾行は、自分の毎日の行動と、支援者や支援弁護士の有無をさぐり出すためだと理解した。

 香は仕事から帰ると、日々その状況を聞き、理想とはまるで違う実体に打ちのめされた。

 「日本が共産党の独裁社会でないことは、庶民にとって幸せなことなのだ」。いつも結論はそこに行き着いた。

 

 

 

復活

 

 

   脳波検査

 

 正志は、正規の会議で共産党の中央や愛知県の、一面的な赤旗拡大の方針を批判した。

 「様々な庶民の要求を闘うより、夜中に『いまから10部増やしてこい』というような指導が長く続いた結果、赤旗拡大先進県愛知県では、正直に『増えませんでした』という地区の委員は徹底的に批判、罵倒され、虚偽の部数を拡大した、と申告した地区が出た。内緒で大量に赤旗をトラックで捨てるという事態が起きている。これは党中央の方針にも問題があるのではないか」と。

 

 「中央批判をした専従はくび」これが共産党の答えだった。正志は専従解任と自宅待機を宣告された。

 正志はそのような報復は誤りであると、長大な党中央批判、宮本委員長批判の「意見書」を提出した。

 党は「そんな内容の意見書を出すのは頭がおかしい」として、共産党系の民主診療所に指示し、正志の脳波検査をさせた。1976年、夏だった。

 香には、かつて何かの本で読み、半ば疑いながら事実なら怖いとな、と思った体験がある。それは、スターリン時代の社会主義国ソ連で、異見をもった者は、次々精神病にして精神病院に閉じ込めた歴史である。

 どんな理由があろうと、人の脳を勝手に検査するという、人格抹殺行為が許されるのか?

 香は体の芯から突き上げてくる感情で、血が逆流しそうだった。

 日本共産党は庶民の味方、権力と徹底的に闘う党と信じている人は少なくない。テレビなどで見るその様は小気味いい。共産党は変わったという。笑顔の陰で旧態依然の人権無視が、自由と民主主義を目指す党に許されるのか?

 考えると恐ろしかった。これらは秘密に行われ、覆い隠されている。考えれば考えるほど香は義憤を感じた。

 

 もっとも、正志は変っているといえばいえるかも知れないと香は思った。折角就職した職場で期待されながら、党から要請されると、いとも簡単に退職して専従活動家になったことは、よくいえば理想主義、別の見方をすれば、滅法素直なお人好しなのだ。出世意欲とはまるで無縁、兄弟が経済界や研究分野でそれぞれの働きをしているが、若い頃から地位、名誉、お金がないオレが一番いいんだと言っていた。

 中学生の頃、花の苗を売りにくるといつも僅かなお小遣いで買って、夢中で育てるので「変わった子ね」と母が言ったというが、現在でも花づくりにかけては異常さを感じるほど無我夢中になる。

 

 春めいたある日曜日、珍しく香の友人二人が遠方から遊びにきた。二人とも高校教師を退職した女性である。

 正志の解任や裁判のことを書いた香の文を読んで言った。

 「そんな目に遭ってよく自殺しなかったわね」

 「初めてご主人にお目にかかって驚いた。何十年も昔、三大宗教家の一人といわれた京都南禅寺の柴山管長にそっくり。あのときのお顔を思い出すと心が和むわ」

 「あら、それは畏れ多い。でも誉めすぎよ」

 以来、香は「なんてったって南禅寺の管長さんだから」と上手に持ち上げることも忘れなかった。

 

 

   共産党との民事裁判と友人たち 1977年

 

 香は喜びの長男出産後、産後休暇42日が過ぎて職場復帰したが、「専従は泊り込みが当たり前」という生活だったので、夫の協力は頼りにできず、仕事と子育て、それに活動と、必死の日々だった。

 家に帰れない正志の下着や洗濯物を運んだりもした。

 「お風呂の湯も夫が帰らないので、きれいなまま流すの」

 「男はそんなものじゃないわ、浮気じゃないの?」

 職場の友人は驚いて、真剣に忠告してくれた。

 

 正志が、監禁査問という屈辱的な精神的拷問に、21日間も必死に耐えていたとは夢にも思わず、香も職場の共産党支部指導部として、連日夜遅くまで活動に献身した。社会主義こそ「科学的社会発展の法則」と信じた、党への滅私奉公だった。

 正志は自宅から活動や指導に通うようになってからも、明け方になると必ず、悲鳴に近い低いうめき声をあげた。それは1年間も続いた。そのうめき声で目が覚め、香が正志に声をかけると、うめき声は止んだ。そのまま起きて朝食の支度を済まし、正志より早く出勤する日々だった。

 

 結婚して10年、住む所は名古屋の郊外に変わったが、相変わらず仕事と子育て、それに活動と忙しかった。

 正志は命じられるまま自宅に1年8ヵ月待機した。その間、専従解任を不当だとして、党大会に「上訴」した。しかし、党大会はその訴えを「却下」した。時間は僅か30秒だった。

 正志の主張は、専従に生活費を支払い、それで生計を立てている以上、それは明白な「共産党内における市民権侵害」である。その主張に正志は一層確信を強めた。弁護士なしで名古屋地方裁判所に本人訴訟の民亊裁判を起こした。すると、党は「憲法の裁判請求権を行使したこと」を理由として、正志を除名した。

 

 憲法上の権利を使ったことを唯一の理由として、ある団体がその構成員を除名する。これは、日本の民亊裁判史上、前代未聞の「憲法にも反する犯罪行為だ」と、正志は怒りを覚えながら、独りで法律を勉強しながらの裁判に、益々確信をもった。

 

 香は、ある日職場から帰ったところで、地区委員長から電話を受けた。次の日も、その翌日も電話は執拗にかかってきた。それは憎むべき仇敵に対するような電話だった。何の規律違反も犯していない「模範党員」だった香を、委員長は徹底して冷たく攻撃した。

 「あんたが党員なら、なぜ夫が共産党を告訴する裁判をやめさせないのだ」

 「何回も中央に出した質問に対する返事が先じゃないですか? どうして貰えないのですか!」平行線が続いた。

 香は比較的冷静に応対したつもりだったが、ときに子どもが聞いている電話の前で、大声で泣きしゃべりすることもあった。

 

 香は党員になってから、このときほど真剣に、人としてのまともな道を手探りした時期はなかったように思う。要請された職場支部の会議に欠席し続け、共産党は香を除籍にした。

 正志は退職金もなく、風呂敷包みに身の廻りの物を包んで、事務所からゴキブリのように放り出された。これが、請われてなった専従活動家が、「政治的殺人事件」でこの世から抹殺された瞬間だった。

 専従生活およそ15年、40歳だった。

 

 印象的だったのは、かつて香と職場が同じで、指導部として、日々苦労を共にした民主文学同盟の作家辻峰子から、ひとことの質問もなかったことである。辻は共産党の多喜二百合子賞を受賞した小説を書き、将来を嘱望されていた。

 人間に対するその程度の関心で文学作品が書けるのだろうか。香は疑問だった。

 また血の通った姉妹でも、党の活動家の一人は、差し障りないことは話し合うが、一度も、何の疑問も聞いてこなかった。ひたすら党中央は常に正しく、除名された反党分子は悪と信じているのだろうと香は思った。

 

 香は、埴谷雄高の小説『深淵』の中の一節を思った。

 「組織の中では、しばしば罪があって排斥されるのではなく、排斥する気があってから、罪がつくられるのだ」そして「なぜ美しい握手にはじまって、最後はおそろしい悲愴な血に汚れてしまうのだろう・・・」「答えはひとつだ。そこには、ひとつの指導部しかないからなのだ。ひとつしかあってはならない、この石のごとき信仰は驚くべき善と悪を成し遂げている」

 

 職場だけでなく、地域の子育てを共にした仲間5〜6人が、子どもの保育園卒園を機に「美女の会」と称して定例の、母親息抜き食事会を約束していた。これを地域の党組織の責任者が聞き、「反党分子の奥さんを励ます会」だと決め付け、解散させられた。香はあ然とした。そして、この組織の「真面目さ」が恐ろしくなった。

 

 正志が共産党をくびになったこと、それを不当として共産党を相手に裁判で闘うという予想もしない出来事で、香は多くの友人を一挙に失った。

 友人達は、長男出産のときは連日の活動で帰宅しない正志の代わりに、自宅に泊まりこんでくれた。また子育てのころは、昼間の保育園から子どもを引き取り、会議や活動の間はお互いの子を預け合った。民家を借りて、夜間7〜8人からときに10人にもなる乳児から学齢期前までの子どもを保育する。そのため交替で複数の親が泊り込んだ。

 昼間の勤務を終えた当番の親二人が、子どもたちに夕食を作って食べさせ、しばらく遊ばせてから、乳母車で近くの銭湯へ連れて行った。子どもたちに絵本など読み聞かせてみんなが寝てから、乳児のおしめの洗濯をし、記録をつけ終わると夜中だった。親は肉体的にきつかったが、夜遅く、子どもを連れ歩くよりいいのではないかとの発案だった。

 

 そんなある日、出勤途上で市役所の組合幹部に出会った。「夜間保育やってるんだけど、大変で応援が欲しい」という香に、「ああ、テレビで見たよ。親の活動のために子どもたちを犠牲にしてない?」

 香には、ひどく冷めた答えに聞こえた。子どものためと思っての必死の夜間保育は、共同保育の先進的ケースとして朝のNHKテレビで放映され、評判になっていた。

 思想性は確か、という党員ばかりで始めた夜間保育は数ヵ月後に、2人辞める人が出た。

 「どうして?みんなで支え合うはずでしょ?」

 「彼がね、子どもが可哀想だというのよ」

 別の一人は

 「自分が夜間保育の当番で体をこわしてしまった。子どもと1週間離れるなんて淋しい」と、正直に気持ちを話した。

 およそ1年過ぎたころ香も病気で倒れた。その間残った人に負担がかかり、結局、香は夜間保育を辞めた。

 

 友人の党員達は誠実で善良な人々だったが、正志が除名されると、中央や愛知の党幹部の言い分を鵜呑みにして、香に事情を尋ねることもなく、瞬時に背をむけて離れて行った。

 以来、香には1度も電話もなければ、会ってもいない。 みんな「縁なき衆生」となった。

 同じ志をもつ多くの友人と一挙に断絶し、香は人間と人間の関係はいかにもろく、果敢ないかを思い知った。

 

 一方、戦時中疎開した田舎の中学時代の友人達は、思想や組織に関係がなかった。事情を知り駆けつけてくれた。

 「貴女の家からの帰り、貴女の事を話しながらSやMが涙を流すの。それを見た私も涙がこぼれました」。

 様子を見に来てくれた恩師からの手紙は、香の心に沁みた。ここにはまだ涙を流してくれる友がいた。

 香は固辞したが一人5千円ずつのカンパが送られてきた。数ヵ月間、カンパは毎月届いた。

 

 月末になると、香は心ある人に2万円、3万円と借りてしのいだ。ボーナス月は、貯金通帳が1日だけ賑やかになる。翌日には返済で通帳の数字は消えた。正志と話し合って、貴重な蔵書も売った。当時のお金で2万円、それでも助かった。

 ごく身近な人の善意に頼り、2年間借金を重ねて切りぬけたが、心の空洞は埋まらなかった。

 共産党の批判を信頼できる人たちに話せば、いままでの理想を自分で崩すことになる。香はこの大きな矛盾に立ちはだかれて、政治には沈黙した。選挙はずっと棄権し、香と正志は一切の政治活動から目をそらし続けた。

 月日は、いつの間にか10年流れていた。

 

 裁判では、共産党の「裁判になり得ないという主張」より、正志の主張する「給料を払われている者の市民的権利」という言い分が認められた。但し、これは仮処分であり、どの法律を適用するかでは、「弁護士、会社役員並みの有償委任契約」と認定された。正志の主張する「民事での雇用契約」という主張は却下されたことになる。

 これを巡って、本訴で、正否が問われるはずであった。

 共産党側は、愛知県の名のある党員弁護士、有名な憲法学者をずらりと揃え、弁護士なしの提訴者正志に対峙した。

 

 裁判にこだわった正志だったが、解任からすでに2年近い日を裁判に費やしていた。ある日、正志は親しい友3人に事情を話した。

 「少しでいいけど、お金借りられないかな」

 「金の貸し借りは友情を壊すからなあ、悪いけど・・・」

 2人には断られた。

 もう1人、靴製造、販売の社長は簡単に10万円貸してくれた。香任せの家計は、借金80万円になっていた。

 「2人の友のことばに横っ面をはられた思いで、そのとき、提訴取り下げを決断したよ」。正志は香に、しみじみとした調子で裁判の提訴取り下げの心境をもらした。

 

 意外だったのは、「やるだけやった」という安堵感が正志を包んだことだった。

 正志は生活再建の道を探し始めた。年齢42歳で、思わしい仕事があるはずはなく、小中学生相手に学習塾を開くことにした。正志は大手河合塾に行き、テキストを使わせて欲しいと申し出た。応対に出たその人は、偶然にも正志の父の後輩だった。「教室は最初から2つ作りなさい」の助言などと共に、教材使用を気持ち良く許可してくれた。

 香は土曜日の半ドンを利用して、正志を応援した。地域の小中学校の門前に立ち、2人でせっせと塾開始のビラを配った。

 塾は4月新学期のスタートから、50人の申し込みがあった。以後、評判を呼び、ベビーブームで多かった子どもたちで生徒が増え続け、自転車置場から自転車があふれ出た。

 いつの間にか120人にもなっていた生徒の中には、私鉄などで、2時間もかかる遠方から通ってくれた生徒が3、4人いた。「正志さんの塾へ行ってやろう」「香さんとこを助けるんだよ」と、親子で励ましてくれた友や姉妹の大きな愛情を、香は心に刻み続けた。

 

 

   学習塾と小母さん先生

 

 開塾資金は、無理を言って香の妹に30万円借り、それを労働金庫に預け、労働金庫から150万円を借りた。その保証人になってくれたのは、香の妹と職場の同僚だった。どうなるか分からない保証人になってくれた勇気に夫婦で感動しながら、期限つきで、自宅続きの土地を借りた。

 50万円で机や黒板を整え、50万円を土地代、教材に当てた。

 馴染みの大工さんが「困ったときはおたがいさま」と、仕事仲間5〜6人を引きつれてきて、50万円という採算抜きでの塾舎を、1日で建ててくれた。

 その日、早朝から始まった建設の槌音が心地よいシンホニーを奏でた。それは暗い事件続きだった香の胸の中で、暗くて弱々しい短調のp(ピアニッシモ)から、長調のff(フォルティシモ)へ変わった。強く強く高らかに、ひときわ感動的に鳴り響いた。

 

 それからの10年間、ひたすら学習塾の充実に精魂を傾けた。

 正志は、香が残業で夕食どきに帰れないので、昼間の小学生の授業が終わる午後6時、2人の子どもに手伝わせて夕食を作った。息子を「勘当!」と追い出した正志の父も、妻を亡くして80代の一人暮しだったので、正志の兄弟合意の上で同居していた。

 あわただしい食事の後、夜7時から中学生の授業に出るという忙しい日々を過ごしていた。

 「いつも簡単なハムステーキか、ビニール袋の中で鶏肉と粉をまぶしてすぐできる唐揚げだったよ」

 手伝った子どもたちは、夕食後の遅い時間に仕事から帰る香によく話した。

 

 1989年、香は長年勤めた職場を辞め、女が「外さま」で、男が「奥さま」という変形スタイルに終止符を打った。

 その頃には、繁盛した学習塾の収入でやっと経済的に安定し始めた。香の退職金を柱にローンを組み、2階建て塾舎と家を新築した。当時はいい高校、いい大学へ進むことが、幸せを約束するとされた高度成長期だった。

 親も子もそれを求めて塾へ来る。それに答える塾として、正志、香共著で『学力づくり人づくり』という本を発行した。何軒かの地域の本屋でも好調な売れ行きだったので、続編も出した。

 

 正志は、授業準備やバイト先生の指導などに追われ、退職した香も教室に出た。

 社会科「戦争」の単元では「不戦兵士の会」から戦場体験者に来て貰った。「死のラブアン島」から生還した元兵士や、学徒出陣体験者の話は生々しく、生徒たちの目に涙が光るときもあった。

 戦争は、「関が原の闘い」のような昔話ではない。感想文に、素直な子どもらしい戦争反対の気持ちが綴られていた。それらを父母もふくめて全員に知らせるのも、香のやりがいを感じる仕事だった。

 

 習ったところの確認定例テストは合格が90点以上と厳しく、合格するまで再テストを繰り返した。子どもたちは緊張したが、レベルは確実に上がっていく喜びも味わった。

 香が、にわか編集長になった塾ニュースは100号を超え、親にも子にも好評だった。社会体験がいい形で活きたと自信を持ち、香は10年間、塾で小母さん先生をした。

 香と正志は、暗闇の監禁査問、裁判の時期を耐えぬいた後の、さわやかな明るい生活を取り戻していた。

 

 

   東欧革命・ソ連崩壊と排除された人々 1989年

 

 正志の事件からおよそ10年が過ぎた頃、東欧に民主革命が始まった。

 1989年、突如として、テレビが東欧諸国民主化のうねりを映し出した。

 香と正志は、権力をもつ人間が腐敗して行く姿を夢中になって観た。東欧の民主化と、1991年のソ連邦崩壊という歴史の激動ほど、胸躍らせた感動的な現代史はなかった。

 

 ソ連邦崩壊の年に岩波書店から、アンナ・ラーリナ著『夫ブハーリンの思い出』が出版された。絶望的なスターリンの粛清が荒れ狂った1936年、37年は、香と正志が生まれた年だった。著者は夫を銃殺され、自分も収容所生活で命の危険に晒されながら、奇跡的に救われた状態を驚異的な暗記力で思い出し、綴った。香は胸がふさがる思いでその記録を読んだ。

 

 党を離れて20年、香と正志は、東欧の民主革命や、74年間で崩壊したソ連邦など刺激的な出来事で、気分も高揚し、排除された多くの党員、学者、文化人と交流を始めた。

 

 K教授は東欧の民主化の空気がこの日本にも流れこむ頃、『日本共産党への手紙』という本に、率直な党への意見と批判を載せた。そして党を除籍になった。その後の粛清などの研究での新しい発見は、目を見張るばかりである。K教授は「党を辞めた人や、排除された人は100万人いる」と言っていた。

 また94年に突然、既刊の『左翼知識人の理論責任』に党から「堕落、変質」などと攻撃されて、除籍になったT教授は、悪罵への反論は一切党から拒否されている。「真理を探究し、無謬主義をとらない」と公言する共産党の実態を知れば知るほど、香は気が重くなった。

 

 最近正志に、党を除名になつたN教授から、『共産主義黒書』という、ドイツ語版の紹介を載せた論文が送られてきた。

 社会主義で犠牲になった数千万人のデータである。正志は直ぐにホームページに載せたが、このような大量の検挙、投獄、銃殺の犠牲者を出す「理想」が果たして人類の夢だったのだろうか? と香はあらためて考えてしまった。

 N教授の手紙には「私たちの体験や歴史を真正面から問い直し、歴史の偽造を正す仕事は、次世紀への人間的責務」とあった。

 

 「日本で、あなたのいうように革命で国が変わることはあり得ないと最初から思っていたよ」

 「世の中に絶対の真理はないのよね」

 「私は父親が酒飲みで苦労して育ったから、穏かに暮らしたいだけ」

 「私は何もしない安穏より、ぶつかって痛い目に遭う方を選ぶ。悔いはないけど、恥多い道だったとは思うわ」

 香は、一番の親友だったSと心の底に沈殿していた想いを語り合った。

 

 世の中の正しいことで絶対的なものはない。これは香がここ十数年で掴んだ大きな教訓だった。また、理想だけでは生きられない。たくさんでなくても、お金がなければ生きられないことが分かった。

 共産党思想をもった人生でよかったのは、女も男も人として平等に考えられたことである。女も自分のパンぐらいは自分で稼ぐ、男と家事育児も共に責任をもつという、いまではふつうになった考えで生きて来られたことである。

 

 しかし香は、共産党員として、職場の人たちにかけたであろう様々な迷惑を考えた。

 権利を主張し、活動の無理もあり時々病で倒れた。そのことで同僚に迷惑もかけた。「世のため人のため」のはずが、「自分のための自分の闘い」になった時期もよくあったと香は省みる。そのことで、人間的信頼を失っていたとしても、それは自分の責任と納得できた。

 

 ある日、隣の職場である職員部が大声で確認し合っていた。

 「辻峰子 生理休暇3日」

 「辻峰子? 仕事やらない有名人」

 辻は、かつて実力派の指導部として日々、香ともっとも親密だった。デスクワークで年齢もすでに50歳代のはず。香自身は、デスクワークでもあり、40代になってから生理休暇を取ろうと考えもしなかった。「生理休暇3日」という大声に込められた職員の反発を強く感じた。

 

 政治的に沈黙し続けた間に、香が抱いた不気味な謎も解けた。

 なぜ公安当局は執拗に香をつけたのか、なぜ、職制が大会参加を知っていたのか。

 当時、脱落してスパイになり、除名された愛知県の共産党幹部がいた。民青同盟県委員長と、国民救援会(大須事件関係)幹部だった。二人ともお金に困っていたという弱点を狙われたという。

 さらにもう一人、誠実だった共産党地区委員長の脱落は、党活動の矛盾に悩んでいた節があり、そこへ兄弟に法曹界関係者がいて、思想的に複雑な関係が出来、脱落したという情報である。8回大会参加当時の香は、最年少のノンポリで御し易し、スパイに、と狙われたのだろうと香は判断した。

 既に脱落してスパイしながら、県の大会などに出ていた幹部がいたのなら、公務員の香の職場に、情報は素早く流れただろうことは想像がついた。

 

 

   復活−インターネットとこどもたち  1997年

 

 「年代物のパソコン、買い替えようよ」と香が言った。

 正志は、20年間小中学生の学習塾を開いてきたが、少子時代で大手学習塾が次々とこの地域に進出して来て、個人の学習塾はどこも店じまいの時期を考え始めていた。見栄坊の香の、「惨めはいや」というだけの思いつき発言だったが、そのひとことが思わぬ生き甲斐を創り出した。

 2台のパソコンを新しいのに買い換えた。60歳から夫婦で悪戦苦闘しながら、インターネットに2人それぞれの部屋をもつという、二世帯風のホームページを開いた。それは、長年胸に秘めたものを、香はエッセイ、正志は政治論文で表現したい、そういう希望が2人にあったからできたと香は思う。

 

 どんな組織や個人とも対等な双方向通信、地位もお金もない庶民にとって、民主主義の力強い武器が生まれた。正志は黙して語らなかった政治体験を、ホームページで語り始めた。

 

 「おじさん、二階で何してるの?」

 「インターネットだよ」

 「フーン、おばさんは?」

 「インターネット」

 「ヘェー」

 近所の小学生たちが、毎日のように遊びに来る。塾をやめて、目下は空きになっている教室や庭で遊んでいく。ときには、犬の散歩について来る。「おばさん何かおやつない?」と言うときもある。

 

 「孫のような子達と話していると楽しくて、気分転換になるね」

 「長男は京都に進学し、そのまま住みついてしまったなあ」

 「『子どもは20年の預かり物』というのはほんとね。いい伴侶と巡り会い、いつの間にか2児の父よ」

 「共産党の専従で子どもがぐれたという人は結構いるから、あんな生活で、よくぐれもせず育ってくれたと思うよ」

 「そうね。30年も昔の保育所通いと小学生時代、人さまにはほったらかしで、荒々しい育て方に見えただろうね。でも、めりはりはちゃんとつけたよね。何より、子どもを信頼してたわね」

 「うん、寝る前の本の読み聞かせなんか、赤ちゃんのときから4年生までしたよ。子との触れ合いは時間の長さじゃなくて、深さかな?」

 「娘も、ちゃんと働きながら子育てしてるし。やっぱり親の背中を見てるわね。苦労かけた分、いまでは子どものどんな頼みも、『はいはい』って聞こうという心境よね」

 「そう言えば京都から、ホームページの『21日間の監禁査問体験』を読んだって、電話をしてきたよ」

 「なんて?」

 「『読んだよ。小学生の頃、お母さんが電話で泣きしゃべりして喧嘩していた理由がよく分かった』って」

 

 正志は、インターネットという近代兵器で、「あの世」から甦った。香は、子どもたちに久しぶりの手紙を書いた。

 「冬の嵐がすさまじくって、あなたたちにも苦労かけたけど、父も母もインターネットで完全に復活しましたよ」。

 

(終り)

 

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     連作短編2『政治の季節の ある青春群像』職場における4・17半日ゼネスト、1964年

     連作短編3『めだかのがっこう』

     エッセイ  『政治の季節』