連作短編4
〔3DCG宮地徹〕
夏の嵐が走り去り
〔目次〕
1、荒れる学校
2、つっぱりグループ
3、しあわせ求めて
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連作短編1『復活』 前編『つけられる女と男』、後編『復活』
連作短編2『政治の季節の ある青春群像』
連作短編3『めだかのがっこう』
エッセイ 『政治の季節』
1、荒れる学校
世間が夢中になった桜、門の脇にある2本の桜の木も咲きほこったが、華やぎはまたたく間に散り尽くした。
葉ざくらの季節になると、大量の毛虫が発生し、次々とみどりの葉が食い荒らされる。桜の葉は虫たちの好物で、夥しい毛虫の糞が地面を黒くおおう。
香は、午前中の小学生の授業を終え、ホッとしながら、庭いっぱいに行儀よく並んだ自転車を眺めた。駅駐輪場の自転車のあわただしく、多様な表情とは違い、どの自転車も一様にすっきりして、これから人生のスタートをするみずみずしさに溢れている。
小中学生たちを相手にしながら、心寒々となる事件が多すぎる世の中を実感していた。衝動的、短絡的に犯罪にはしる少年たちが気になる。
学習塾を始めて10年過ぎたころ必死に取り組んだあの事件も、一世代前の物語になったのだろうかと、香はしみじみ思い返した。
田中母子が塾を訪れたのは、いまと同じ葉ざくらの季節だった。
田中の母は、香が現役で働いていた頃、こどもの保育園の看護婦兼保母として働いていた。そのつながりを頼っての来訪だった。
「これ見てください。小学校の通知表です」
立ち会った正志と香は、出されたその通知表へ眼を移した。
「先生にも、中学へ行ってからが楽しみですと励まされたんですよ」
国語、算数など基礎4教科はすべて3段階評価のAだった。とくに、図工と書道は抜群と特記してあった。子どものことを明るく話す田中は、保育園でのそれとは違う、まさしく母の顔だった。
正志と香は、沈黙したままの、まだ幼さの残る顔つきのその子を受け入れた。
小学校のトップクラスという評価が嘘のように、中2の英語、数学とも基礎がなく、成績は一直線に下降していた。正志は、他の生徒の気持ちを考えて、中2
の授業がない日に、午後9時に田中を来させ、通常授業が終わると田中の特別授業にした。
丁寧に英語の勉強の仕方を教えた。数学の基礎を自分のものにするよう、納得して特別宿題をやらせた。帰りは10時、ときには夜中の12時になった。それでも、正志には田中の眼は暗くはなく、意欲的にも感じられた。特定の子に力を入れて、ほかの塾生たちに迷惑がかかってはいけないと、夫婦で話し合い、理科のバイト先生を学年毎に3人雇い、すべて複数担任にした。
香も、長年の外勤生活に区切りをつけて、学習塾一本に集中し始めた。テストの監督、塾ニュースの作成、ときに小学生の社会科、国語の何でもやる応援講師だった。
とくに、塾ニユースを一人ずつ音読する日は、みんな大好きだった。何より授業がないという喜びのようだった。それが、結果的に社会や国語の授業になっていた。
田中が中3になり、成績も少しずつ上向きになり始めた頃、中2に森、佐藤、川村、谷、井上など、新しい塾生が次々応募してきた。
中2クラスはとりわけ女子の優等生が多かった。当時学校は、校内暴力が荒れ狂っていた。
香は、近くのスーパーへ買い物に出かけた折りに、子どもが通った保育園時代の友人2人と出会い、立ち話した。
「学校では授業に集中できない、塾でやっと勉強ができると喜んでいるのよ」
「うん、みんな真面目にやってるようね」
「家の子 『森が塾では勉強してるー!』 なんて言って、びっくりしてるわ」
「どうして?」
「学校ではね、面白くないことがあると、すぐ席を立ってしまうって」
「どこかに行くの?」
「子分を引き連れて、ときにはタバコも吸うらしいわよ」
「えっ? 先生は黙っているの?」
すると、別のひとりが
「佐藤や井上も塾に入ったと聞いたけど、佐藤はよその塾の特待生だったそうよ」
「それは知らなかった。お母さんがお菓子を持って挨拶にみえたわ…」
「佐藤や井上はね、よく暴力をふるうって。この前も、英語の先生が殴られたとか」
「うん、聞いた聞いた。小柄な先生は顔をばんばんに腫らして、可哀想だったって」
親たちは学校の話をとてもよく知っていた。
物騒なニュースは、学習塾の正志たちの耳にも入ってきていた。
授業が終わるとよく夫婦で話合ったが、荒れる子たちの本心は分からないままだった。
「生徒たちを注意深く見ながら授業していて、それらしさは何も感じなかったなあ」
「それどころか、みんな真面目に授業に集中してるよね」
「学校の授業での態度と、塾でのそれとの落差は何だろうね」
「ひとクラスの人数が塾は25人か30人、それも複数担任なのに、学校は一人の先生で40人だものね」
「それにさ、お金を払ってでも勉強したい、塾ってそういう子がくるところでしょ?」
「学校はやる気がある子もない子も、出来る子もそうでない子も全部一緒だから大変だよな」
2、つっぱりグループ
玄関に、突然、二人の男性が現れた。
応対に出た香への挨拶もそこそこに、
「いるいる、や、井上も、田中もいるじゃないか」
そう言いながら、二人は玄関の小窓から十メートルほど先に見える、塾の教室を覗き見た。
「いや、大変失礼しました。私たちは北部中学の教師です。ご存知かと思いますが、先日学校でちょっとした事件がありまして、夏休みに入った子どもたちの校外指導をしているのです」
そう言いつつ、気になるのか透明なガラス越しに見える教室の、黒板の前に立つ正志と、前列の席に並ぶ生徒の顔をちらちら観察している。
学校が夏休みになると始まる夏季講習は、特別の教材で多少角度を変えた実力養成講座を行い、どの塾も力を入れる。
中学から私立へ行く子が多い東京や大阪と違い、愛知県は圧倒的に公立高校が、一部の私立高校とともにハイレベルを保っていた。
高校受験を控えた中2、中3の生徒は、暑さ真っ盛りの午後3時から夕方まで、授業に集中する。
まもなく中学の教師2人は帰って行った。
学校の先生が塾まで覗きに来たのは、夏休みに入り夏期講習が始まってすぐだったが、それから暫くしたある日、田中がかみそりをあてられ、丸坊主になって塾に来た。それはつるつる滑る氷のようだった。正志も香も胸がドキッとした。
1学期の終わりに田中の母親が、手作りのシナモンケーキを持って訪れたとき、香が訊いた。
「この頃、家での田中君はどうですか?」
「力を入れて教えて頂いてありがとうございます。やっと成績が上向きになり始めたという感じですが……。うちのお父さんは子どもに教育することは熱心だけど、怒ると本気で丸坊主にだってします」
「何かあったのですか?」
「学校の仲間と、ちょっと…」
そう言っていた。そのとき、素直で真面目な少年に何かあったなと、母親の態度から感じていた。
正志も香も、目の前でテラッと光る頭の少年が痛々しく、正視できなかった。
あの笑顔のやさしい、真面目そうな父親に小さいときから期待され、いい子で通した田中が、中学へ行っていい子をやめ、父親に反逆し始めたのか。
香は、友達の前にも出たくないはずの田中が、塾を休めない、少年の心があわれだった。
その頃、夏季講習が終わる夜9時過ぎ、中2クラスの男子が塾から帰るとき、塾の外で騒がしい声が聞こえた。が、すぐ静かになりみんな帰って行った。
数日後、中2クラスの谷の父親が塾に現れた。
「先日、塾の帰りにいじめられ、学校で佐藤に殴るけるのリンチを受けて、顔や手に大けがをしました」
「えっ、谷君は大丈夫ですか?」
「日ごろから、小さいからと心配はしていたのですが…」
そういう父親は、誠実そうな感じの喫茶店の店主である。
「学校へ抗議に行きました。こんな暴力を振るわれて黙っておれないから、マスコミに言うと言ったら、先生が青くなって、それだけはなんとかご勘弁をと言うんです」
「我慢できませんね」
「だから、わたし、リンチした佐藤の家へ怒鳴り込みました。『息子を出せ! 俺がなぐってやる』 佐藤の親父にそう言ったんです」
「佐藤君は出て来ました?」
「本人は出て来ませんでしたが、親父はこの事件を全く知らなかったようで、驚いて平身低頭だったです」
「今度のことは、親として黙っていられない、正直にすべて話せと息子に言いました」
「……」
「北部中学のつっぱりグループは、田中がボスのひとりで、卒業するときそのグループは、次のボスへ、ちゃんとバトンタッチしていくらしいです。中2では森がボスで佐藤が参謀という感じで、うちの息子や川村を使い走りに使い、思うようにならないと、いろいろ理屈をつけて殴ると言っています」
「グループをぬけよと何度も言っているのですが、連中は毎日のように家に呼びに来ます。息子は『いうことを聞かないと殴られる、あれ買ってこいとかこれ持っていけとか命令される』と恐れているんです」
「買ってこいというときに、お金はどうしてるんですか?」
「息子が家から持ち出していると思います」
3、しあわせ求めて
風の通り道がある。それは風から秋になると言われる季節に、とりわけ顕著に塾舎の窓辺を吹きぬける。コブシの大きな茶色の葉が、小さな舟でも転がるように、音を立てて散らばっている。あれほど熱心に、何度も何度も残して教えた田中が姿を見せなくなっていた。
谷の父親からリンチ事件の一部始終を聞いた正志は、すぐ佐藤の母親に電話をした。
「学校や塾の帰りに暴力を振るう子は、この塾は退塾してもらいます」
「誰から聞いたのですか? どうしてそんなことが塾にわかったのですか?」
「…学校で聞きました。…」
佐藤の母親が、なぜ塾にそんな事件のことを話すのだと、学校へ抗議したのはその翌日だった。佐藤は上の子どもが優秀で、連続してPTAの役員を続けていたから、学校も低姿勢だった。正志には親のその感覚が理解できなかった。
香は話しているうちに、いろいろ感じることがあった。退塾させた子が他の塾の特待生だった。親子のプライドを、猛烈に傷つけただろう。
リンチを受けた子の悲しさは、必死の親ともども切なく胸に迫る。親父に、頭をかみそりで剃られた田中の寂しさはどれほどだろう。なぜこんなつっぱりグループにはまってしまったのだろう。何がどう間違ったのだろうか。親も子も。
塾がスタートしたとき、夫婦でいくつかの学校を回り、校門の前でビラを配った。
大手学習塾で、正志の父と同じ学校だったという教頭に出会った。お父さんにはとてもよくしてもらったと、その塾のテキストを使わせてくれた。教室は二つ作りなさいよと親身になったアドバイスも受けた。そのせいもあってか、スタートから50人もの希望者があり、すべて受け入れた。
3年間、小中すべてのクラスを一人で教えていた正志は、ある夜、職場から帰宅した香に切り出した。
「生徒は増えても必ずしも勉強の成果が上がっていると思えない。授業中も騒がしいし、入る子も多いけど辞める子も多い。入塾テストをして、通知表の成績が普通以上の子にしぼろうと思う」
「え? 」
「ボランティアならいいよ。生活のために始めた塾で次々生徒が辞めたり、続けていても成績が上がらず、希望するハイレベルな高校へ合格しなければ、お金を払って塾へ来させている親にそれこそ恨まれるよ」
「職場の小島さんね、上の二人はよく出来るらしいけど、3人目が通知表に1があるんだって」
「通知表の評価が1なんて、特別の子だよ」
「そう、あの子がお腹にいたとき、車で事故って…。なんでもやることがのろいとか」
「そうだろ? 1とか2のある子は、やや特殊なんじゃないかな」
「でも、小島さんね、子どもがいじめにあったりしても、いつも『1、1、1、よりあひるさんの2、2、2にしようね』って励ますと言ってたわ。そういう子を対象から外すってことね」
「3以上でも7割の子が対象だから、別にいいと思うけどなー」
「そうだけど…。私たちが出した本ね。『学力づくり人づくり』を本屋で読んでこの塾に決めた。そういうお母さんは何人もいるし…。掲げてきたわたしたちの理想に反する気もする…」
「そう言えば塾ニュースや、あの本読んで『わたし自由高校にするわと娘がいうから、そんな高校あったかしらと思ったら、基礎学力をつけて自由な校風の高校へ行くということだったと笑い合った』なんて、父母の意見欄に書いてあったな」
「いま実際に教えているのはあなただから…。率直に言っていままで2年間、一家4人の経済はすべて私に頼って、自分は政党がくびにしたのは許せない、首切り反対の民事訴訟をやると言って、法律の勉強ばかりして…。塾始めたらいきなりせんせい、せんせいなんて、始めのころは多少抵抗があったわ」
「あの2年間の裁判、してなかったら一生後悔すると思えて必死だった」
「私だって職場で仕事と活動で必死だったわ。そのころだった。関西の職場から転勤してきた口やかましい男に、『あんな女、嫌いだ』なんて言われて。男ばかりの職場だから女は目立つ。笑いどころか、微笑みさえ忘れた女なんか、誰だって好きになれないよね。そう言われて当り前よね」
「お互いに冬の時代だったな」
「あなたの好きなクリスマスローズ、名前はよく知られた品のある花ね。地味な紫と白の色調で、咲いていてもどこにあるか分からないような花よね。いつも下向いて咲いている花、私そうなりたかった」
「……」
「家に帰れば、なぜ裁判をやめさせない!と、毎日脅迫電話でしょ。家の周りは張り込み、昼間のあなたは尾行で、神経戦争だった。理想が音たてて崩れる苦悶の日々に、笑いなんて逃げ去るわ。私って、しっかり者のように見られているけど、結局弱い人間なのよね。生活費も10人近くから借りた。2年間で借金も80万円になったわ」
「俺は仲よしだった友達に、借金を申し込んだら友情を毀すって断られた。あれでビリッときた」
「あなたも変わったわね。夢追い人間が、やっと地上に降り立ったって感じ」
それ以後、入塾テストをやり、通知表の評価がふつう以上でないと入れない塾になった。それは塾のエゴとも言えた。学んだ所の確認テストの合格は90点以上、それ以下は合格するまで再テストをした。
「漢字を覚える。英単語を暗記する。合格するまで…。暗記する、覚える、その土台があって、本物の考える力ができる」
「あれでみんな努力することを覚えたよね。努力するという能力が育った」
「小6算数の、小数割る小数で先ずつまずく。次に中学でマイナスの分数や、指数を含んだ四則計算で落ちこぼれる」
「面白かったのは、マイナスにマイナスを掛けると、どうしてプラスになるのと、こだわる子が毎年いることね。頭のいい子ほど」
「有名大学でも学部によっては、二次方程式ができない子がかなりいるなんて、信じられない」
塾は街の勉強屋である。変な生徒が学校のように荒れたら生徒は来なくなり、塾はつぶれる。真剣勝負だった。塾には真面目な、勉強に意欲的な生徒がどんどん入塾して来た。
それにしても、正志も香も、佐藤への退塾勧告は切なかった。
塾の2学期はそれでも順調に始まっていた。
まだ明るい日差しがわずかに残る夕方7時,授業が始まってまもなくだった。玄関に爆竹が投げられ、網戸に4センチほどの穴が開いた。騒々しいスタートだった。
田中や佐藤が辞めた塾に、まだ森は通ってきた。
中間テストの成績優秀者に、数学と理科が得意な森の名が載った。確かに退塾した田中も佐藤も、森も頭がよかった。休憩でも休まず勉強するときもあった
しかし、1学期の通知表で、森よりテストの点数が低い女子が、5段階評価の4や5の評価で、それより点数が上だった森の評価は3だった。
ハイレベルの公立高校へ行ける。それがこの塾の目標で遠くからみんな通ってくる。
1学期の成績上位者一覧表を渡した日、授業が終わると正志は森を残した。
「テストの成績のことで森に話がある。聞きたい人は残って聞いてもいい」。驚いたことに、10数人の男子全員が残った。
「みんなも知っているように、森は真面目に塾で勉強した。その結果得意の数学と理科のテストはとてもいい点数だった。ところが、なぜか通知表の評価はよくない。な森、学校での授業態度、真面目にしないと損だぞ」
「……学校のセンコーなんか。レッテル貼られたらどんだけやったって、なーんにもならん」
「オレも先生だよ。中学生のころ暴れん坊でな、よく職員室の廊下に正座させられた。通るほかのクラスの先生が、今度はどういう悪さをしたんだなんて聞くほどだったよ。相棒がまたでかくて悪さばかりして、みんなに怖がられてた。でも二人とも授業中は勉強したよ」
「……先生、勉強ってなんですか? 勉強ができるって、どういうことですか?」
「うーん、その科目の基礎をしっかり身につけること。それが、これからの君の身を助ける。学歴社会は問題もあるが、いい点は、日本では身分差別なく誰でも参加できることだ。世界にはそうでない国もたくさんある。もうひとつ、他人に迷惑をかけない生活態度かな」
「……」
「勉強とは、強制されて努力するというような意味もあるらしいけど…」
聞いていた香が言い足した。
「以前も注意したが、ときどき無断で塾を休むときがある。森は頭もいいし、こうしてみんなが一緒に残ってくれるように、とても人望がある。学校でも真面目な態度をとれよ。あまり塾を無断欠席すると家の人に連絡しなければならなくなる」
「家の人に言う」そのひとことで、いままで冷静な態度だった森の顔色が変わり、顔を引きつらせた。
森が、中2で塾へ入ってきて以来、態度は真面目だったし、正志も意識していい所を褒めた。集中力もあった。ただ、ときどきあった無断欠席が、夏になるに従って増えていた。
「森、いいかな」
「……」
「みんなも、わかったな」
「…」
「塾、やめます」
暫くの沈黙のあと、森が部屋から出て行った。大柄な森に続いて、もう一人が出て行った。
その夜以来、森も塾に来なくなった。
数日後、数学の時間に授業計画の説明中、つっぱりグループのメンバーらしい生徒が気のない態度で騒いだ。正志が注意すると、そのプリントをぐしゃぐしゃとまるめて
「こんな塾、やめたるわー」と言い捨てて、部屋から出ようとした。
正志は入り口へ走り、その子の胸倉を掴んで
「なんだ、その態度は! プリントを元の状態に戻せ!」と、怒鳴った。
その子は、さっきの勢いを失い、プリントのしわを伸ばし、しおしおと部屋を出て行った。
およそ1年半関わったつっぱりグループ、大ボスも小ボスも全部塾からいなくなった。
正志と香が、少しだけ分かったことがある。それは子育てにおいての、とくに男の子とおやじの関わりだった。
田中の父親は、約束を何度も破ると、かみそりで頭を剃った。森のおやじは、何かというと暴力を振るった。佐藤の家の育児は全て母親任せで、父は仕事人間だった。その母は優秀な上の子とよく比較した。子どもが小柄だったおやじは、いつもいじめを気にしていた。
子どもから見ればおやじであり、同時に塾長の息子と娘は、「塾の子は、勉強ができて当たり前だから可哀そうね」と仲良しに言われたなどと言いながら、目標の学校へ進んだ。いい学校へ行くことが幸せの保障だった1980年代、高度成長期だった。
正志と香は、ひたすら生徒の学力をつける喜びだけに全力を集中した。裁判後の10年間、政治や社会から目を背け続けたが、それから間もなく、血が踊るような感動的東欧革命に対面し、冬眠から覚めた虫たちのように、ゆっくりと世間に戻り始めた。
この春、小学校教師を定年まで4年残して退職した香の友人は、「中学の授業崩壊が、いまは小学校まで降りてきている」そう言った。体は崩壊寸前だった、付け加えたのは、傍にいた友人の娘だった。
高校教師を定年退職したもう一人の仲良しは、「教師が自分の天職と思って働いたけど、辞めてみてそうではなかったとこの頃思う」そんなことをつぶやいていたのを思い出した。
子どもたちは、寂しがっている。孤独だから群れる。彼らもやがて恋をし、人の子の親になるだろう。人はこうして生きていく。
夏のあらしは走り去った。
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