「二〇世紀社会主義」の総括のために
社会主義研究家 中野徹三
(注)、これは、『労働運動研究』誌1999年11月号no.361〔特集 労働運動研究所創立三〇周年記念号〕に掲載されたものです。このHPに全文を転載することについては、中野氏の了解を頂いてあります。なお、本文傍点個所は太字にしました。 健一MENUに戻る
〔目次〕 はじめに
2、「二〇世紀社会主義」をどう規定するか ―若干の史的教訓
はじめに
二一世紀が二〇〇一年から始まるとしても、一九で始まる 「一九〇〇年代」は、あと三〇日余で確実に終末を迎える。
すでに本年は、「欧州最後の革命」がおきて一〇周年であり、ソ連崩壊後の九年目である。一九一七年一〇月を起点とする「世界最初の社会主義国家の成立」は今世紀最大の事件のひとつであり、とりわけ社会主義に熱い関心を寄せる人びとにとっては、それは世界史の「近代」から「現代」を画する、不滅の里程標であった。五〇年前、学生だった私たちは、眼前に展開する中国革命の凱旋行進にワクワクしながら、当時ソ連から伝えられたらしい次のスローガンに、心を奪われていた―「私たちは、すべての道が共産主義に通ずる時代に生きている。」
その後の五〇年間に、この素朴な「歴史への信頼」は、不安や疑問、さらには深い幻滅と批判に置換されていったとはいえ、それでも「この現実に存在する」体制の存続とその発展可能性とは、やはり私たちの社会主義的な理想のアクチュアリティにとっての、代替不能のよりどころと見えた。そして「ペレストロイカ」は、私たちのこの希望を担う、最後の革命だった。
だがこの革命は、体制を革命しつつ、革命を通じてこの体制を全ヨーロッパ的に崩壊させた。それは体制の革命でなく、体制に対する革命となった。「社会主義国家」に対する史上最初の革命は、やはり一九一七年に並ぶ世界史的事件であり、しかもそのプロセスの速かさは、一七年の「世界を震撼させた一〇日間」と同じほどに衝撃的であって、ロイ・メドヴエージエフはここから、彼の最近著の序文で「一九一七年と一九九一年の諸事件の類似は明らかであり、驚くべきものに思われる」(1)、と記している。この体制の成立と崩壊とを一貫してとらえる視座の確立なしに、社会主義の未来を正しく展望することができないことは確かである。
わが国の社会主義運動にとって不幸なことは、ソ連体制とほぼ同時に、この崩壊をひとつの本質的契機として日本政治の五五年体制が解体し、その過程でこれまでの社会主義理論の十分な再検討とそれにもとづく実践的・組織的準備も全くないままに、その有力な一潮流が、長く対決してきた政敵と与党連合を組むという事態に引き込まれたことであった。そしてこれは、五九年のゴーデスベルク大会で自党の綱領を抜本的に改定して七年後にキリスト教民主同盟・社会同盟と主体的に大連立を組み、以後六九年での大躍進を経て次には自由民主党と連合(小連合)して戦後最初のブラント社会民主党政権を誕生させ、そのもとでの大胆な東方政策の展開によって七二年には第一党にまで進出したドイツ社会民主党の歩みとはあまりにも対照的な足どりであった。左表は当時の西独選挙結果。CDU/CSU=キリスト教民主同盟・社会同盟、SPD=ドイツ社会民主党、FDP=自由民主党。[( )内はベルリンの議席数。]
CDU/CSU |
SPD |
FDP |
|
1957 |
270(8) |
169(12) |
41(2) |
1961 |
242(9) |
190(13) |
67(2) |
1965 |
245(6) |
202(15) |
49(1) |
1969 |
241(8) |
224(13) |
30(1) |
1973 |
225(9) |
230(12) |
41(1) |
ブラント政権とその実績が、単にドイツ一国の政治の変革にとどまらず、それまでの東西の冷戦構造そのものに大きな風穴を開け、遥かにドイツ統一への道を準備したことは、銘記されねばならない。にもかかわらずわが国の社会主義運動は、「現実社会主義」体制の崩壊に至るまで、西欧社会民主主義に対する古い偏見から容易に自分を解放しようとしなかったが、その責任の大きな一半は、私たち日本の社会主義研究者にある。なお紙面が限られているため、詳細は私の報告の基礎となっている拙著(『社会主義像の転回』三一書房、九五年)のご参照をお願いしたい。
(1) この体制は(ここでは思想と運動としてではなく、それが「実現」した政治・社会体制としての「社会主義」が主たる対象となる)、中東欧においては程度の差はかなりあるにせよ、総じて近代化の遅れた諸国において成立し、展開した。これらの諸国では、資本主義的生産とその担い手たる市民階級の形成が遅れ、前近代的な農業制度が根強く支配し続け、これに対応して基本的人権ならびにそれにももとづく近代民主主義的政治制度と市民意識・市民文化、すなわち市民社会が欠除しているか、ごく未成熱であった。概して多民族・多種族的構成で、複雑な支配=従属の歴史を持ち、その様相は旧ソ連・旧ユーゴスラビアの解体後に爆発的に開示される。
(2) これらの国で「現実社会主義」体制を組織することに成功した革命の指導部隊は、おおむね自国の伝統的なポピユリスト的革命観に、ベルンシユタインがそこに「ジャコバン主義的伝統」を見た一八四八〜四九年革命前後期のマルクスのプロレタリア革命論(私のいう「マルクスの二つの民主主義概念」のひとつ)(2)を接合したレーニン主義を範とする革命イデオロギーを持ち、ロシア革命の成功後は、「マルクス・レーニン主義」を不可侵の教条として全構成員を強力に思想的に統合する、世界観政党として活動した。この世界観と革命理論が、マルクスの資本主義批判と史的唯物論という巨大な学問的業績に依拠した一定の科学性と、共産主義の史的必然に対する弁証法的・メシア的信念を内蔵し、抑圧を憎しみ、理想社会を希求する多くの魂を惹きつける強い理念的魅力を有していたことは、この党の成功の一大条件を成している。またこの党は、レーニン主義にもとづき党の指導的エリートが全党を上から一元的に指導・統制する「民主集中制」を採用し、党員や大衆の革命的意欲を鉄の規律のもとに軍隊的に組織して、指導部の方針を効果的に実現させた。
(3) だが、これらは「二〇世紀社会主義革命」の成功のための条件の一部にすぎなかった。ロシアにおける史的最初の社会主義革命の成功も、第二次世界大戦を契機としてのその中東欧への浸透と中国革命の成功―この体制の「世界体制」化も、二つの世界戦争と不可分の連関にあり、戦争による旧体制の解体をその不可決の条件としていた。
武力――最大の政治的・軍事的暴力の行使を革命と革命後の政権の不可決の手段とする観点を「マルクス主義者の試金石」と考えていたレーニンとボリシエヴィキは、ツアーリズム・ロシアの帝国主義戦争への参加とそれによる体制の破綻、そしてそこに生じた二月革命後の事態を徹底して合目的的に活用し、首都の武装蜂起を成功させる。だがこのボリシェヴィキ政権は、死者一〇〇〇万人(うち市民七〇〇万人)という「ヨーロッパがそれまでに経験した最大の国民的悲劇」(エヴァン・モーズリー)(3)としての内戦と、革命の聖地クロンシュタットの水兵反乱の鎮圧を経て、漸く一定の安定を得ることになる。
階級敵に対する内戦の手法は、スターリン主義のもとで大規模に体系化され、装置化されて自国と他国の人民に適用された。強制収容所と大粛清は、けっしてスターリンとその配下の恣意の産物ではなく、この「階級戦争」の論理のもっとも野蛮な形態での貫徹にほかならなかった。さらに中東欧の「人民民主主義革命」は、ソ連軍の占領支配という絶対的条件のもとでのみ、はじめて進行可能だったし、また中国革命は二〇世紀で成功した、最大規模の内戦そのものだった。
こうして成功した「現実社会主義」体制は、以後の自己の存続と発展のためにも、政治的・軍事的暴力による支配を不可決の条件とする独裁体制となった。私の著書から引用させて頂くならば、「この直接の結果として、その体制を生み、支えた最大の決定的な力は政治的・軍事的暴力であった。暴力の行使なしにこの『社会主義』は政治権力の獲得も、私的所有の廃止も市場の廃絶も農業の集団化も出来なかったし、体制を守ることも、それを東欧や東アジアに拡張し、獲得することも出来なかった。ドイツの共産主義研究家ヘルマン・ウェーバーの言葉を借りるならば、「『スターリン主義とは何にもまして暴力、しかもテロルという野蛮な形態での暴力だった。』『労働者と農民の国家』の権力は、第一義的には軍と秘密警察に体現された権力であり、その手段は「腕づく」とスパイと恐怖心の併用であって、この手法は第二次大戦後は東欧諸国に導入された。」(4)
この独裁は、どこの国でも例外なく(東欧諸国や中国などのお飾りとしての「多党制」を含めて)「プロレタリアート独裁」という名目での一党独裁であり、党の教義と世界観は、やはり国により程度の差はあれ、全国民に強制された。言論や出版、集会と結社の自由などの自由権的基本権は、憲法の建前はどうあれ、実質上は完全に否認されるか、極度に制限され、国民が憲法上または国際法上の自分の権利を行使するや、ただちにそれは政治犯罪とされた。またこの体制は、自己の目的を実現するため、フレームアップを含む無数の弾圧を政治的手段として日常的に行使した。
この体制が政治的・軍事的暴力を第一の決定的な存在要件としていたという事実は、ゴルバチョフのペレストロイカによって人権と民主主義の保障が短期間に急速に進捗し、市民が政治生活に初めて公然と進出して軍と秘密警察が介入の自信を失った時、この体制が一挙に解体に向かったこと、またゴルバチョフの「新しい思考」が、「プロレタリア国際主義」の名による東欧民主改革のこれまでの数々の圧殺の再現を明確に拒否した時、八九年の東欧連続革命はあっという間にこれまでの「現実社会主義」体制を転覆させたこと、に疑問の余地なく物語られている。
なおここで、先に引いたロイ・メドヴェージェフの著書が、同じ思想を次のように明確に述べている点に、読者の特段のご注意を喚起したい。
「以前の形のままの社会は、全体主義という条件下で世界最強の軍隊と最も広い組織網を持つ国家保安制度に守られてのみ存続し、発展することができた。つまり、わが国における共産主義体制は全面的『冷戦』下でのみ有効だったのであり、デタント、平和、民主主義のもとでは崩壊しはじめたのである。」(5)(傍点は引用者)
(4) 体制を支えた全体主義的独裁の性格ならびにこの独裁が人民に及ぼした被害の規模。
これらの国々の政治体制はそれが例外なしに一党独裁であり(一六カ国すべての憲法は、共産主義政党の独占的指導権をうたっていた)、独裁党の政治的決定が国家機関の名目的権限に無条件に優越するが故に、文字通りの超法規的独裁であって、憲法上の規定はどうあれ、法治国家的制度や三権分立も欠除しているか、ごく形式的なものにとどまった。「法ニヒリズム」、暴力を可能な限り制限する法の意義を軽視し、むしろ暴力を法の不可欠な要素とみなしもする傾向は、ロシア思想の特有な伝統であるともいわれる(6)が、レーニンとボリシェヴイズムは、この伝統のもっとも苛烈な実践者だった。[晩年のモロトフは、「レーニンとスターリンのうち、どちらが厳酷だったか?」と聞かれて、もちろんレーニンだ、と答え、レーニンがスターリンの「ソフトさとリベラリズム」(!)を叱責して、「どんな独裁を我々は持っているのかね? 我々が持っているのはミルクと蜜の権力で、独裁ではない!」と述べたという思い出を語っている(7)]。新中国の憲法史は、内戦期から文化大革命期を経てこんにちまで永続するこの政治体制の半軍政的性格を、よく示している。すなわち、七八年憲法までは解放軍は中国共産党の指導する労働者・農民の子弟兵であり、「プロレタリア階級独裁の柱石」であるとされていた(一九条) が、ケ体制が確立したなかで改正された八二年憲法では、全国武装力の指導は全国人民代表大会において選出される「中央軍事委員会」が行なうとされ(九三条)、「党軍不分」の体制は一応修正された。だが、一〇年前の天安門事件当時のこの機関の主席はケ小平であり、規約上党の最高指導者である党総書記の趙紫陽 (現在軟禁中)と、国を代表する国家主席の揚尚昆は、共に副主席であって、ケの下僚に過ぎず、ケ主席が事件を動乱と規定し、その武力鎮圧を決定したのである。そしてこの独裁の超法規的性格は―皮肉なことに―、既成の法手続きも、現職の大統領すらも平然と無視したソ連邦の解体過程の政治的便宜主義にも現われた。超法的に存続した国家は、やはり超法的に崩壊したのである。ところでこの体制の本質を規定するうえで本来もっとも重視さるべきでありながら、わが国では奇妙にも軽視されるか、無視されているものは、憲法上はこの体制の主権者とされた人民の総体が、そのもとで蒙った永続的かつ全面的な人権抑圧であり、とりわけ古典的スターリン時代に実施された大量弾圧=政治犯罪としてのジェノサイドから、独裁党の政策選択の結果として生じた大飢饉や強制移住等々の結果までを含む、すさまじい規模での人命の損失の悲劇である(いうまでもなく、その規模と内容は時代と国によって可変的であり、スターリン批判以後はかなりその様相は緩和されたが)。
スターリン主義によるソ連の人命の損失数(戦争による犠牲は除く)については、東西の研究者から種々の推計が出されているが、どんな基準によっても、一千数百万人を下回ることはありえない(詳細は省略)し、またレーニン時代の内戦期の人命喪失数(約一千万人)は、ボリシエヴィキ党の政策決定が内戦勃発の第一の決定的要因である以上、その主要な責任は、同党とその政権が負わねばならないであろう(8)。毛沢東時代の中国については、四九年から五二年二月までに八七万余人が「反革命分子」として処刑され、大躍進期の餓死者二、二一五万人、文革での被処刑者または異常な死者一八六万人を合わせて、総計二、六〇〇万人が犠牲になった、という研究が党史研究室から党書記局に提出されたが、非公開とされたという記事が、香港の月刊誌.『争鳴』の九六年一〇月号に発表された。なお、本誌九八年二月号で福田玲三氏がいち早くその一部を紹介されたところの、フランスの歴史家六人による大著『共産主義黒書』(ロベール・ラフォン社、一九九七年)の序章でステファン・クルトワは、共産主義体制下での犠牲者(死者総数)を、今後正確にさるべき個人的仮説として、国ごとに次のように提示している。(9)
ソ連 二、〇〇〇万人
中国 六、五〇〇万人
ベトナム 一〇〇万人
北朝鮮 二〇〇万人
カンボジア 二〇〇万人
東欧 一〇〇万人
ラテンアメリカ 一五万人
アフリカ 一七〇万人
アフガニスタン 一五〇万人
コミンテルンと権力を
握っていない共産党 約一万人
総 計 約一億人
これらの数字とその根拠などについて、当然厳しい批判的検討が必要とされることは、いうまでもない。だが最大の問題は、そういうところにはない。社会主義の第一の目標とは本来、貧困や戦争に脅かされる人民の生命と人格の徹底した擁護にあったはずであり、途方もない規模の民衆殺害を犯した体制に対して、社会主義という規定を与えることが、今そのことを知った私たちに許されるだろうか?という問題である。それは、私たちの理念=価値規範としての社会主義の問題であり、同時に次の世紀の私たちの社会主義的ヴィジョンに本質的にかかわる問題である。
だがわが国のソ連史家諸氏には、こうした視点は無縁らしい。岩波新書に収められている渓内謙氏の『現代社会主義を考える』や和田春樹氏の『歴史としての社会主義』にも、驚くべきことに大量弾圧の事実とその意味するものについての言及すらまったく存在せず、書名が示すように、ソ連は依然として社会主義体制に属するものとされている。
全体主義的独裁はその本性上個人独裁を生み、グロテスクな指導者層のカリスマ化を――とりわけ後進諸国において――現出させたが、ここではまた出身階層による差別も継続される。一般に知識層と自律的な個人、その文化は警戒され迫害される。その体制のもとで人間は、与えられた世界=「存在」との絶対的同意が強制され(ミラン・クンデラ)(10)、また各人からは主体としての責任が取り去られるため、「彼らは大人になれない。」(ヴォルフガング・テンプリン)(11)。
(5) 「現実社会主義」の経済体制は周知のように、主要な生産手段の国有化と、それを基礎としての、党=国家官僚による集権的管理・計画とを二大特徴とした。
私有と私的経営が基本的に消滅しているところでは、他の分野とひとしく党=国家官僚が全体社会の生産と分配・消費の経済過程を彼等が立てた計画にもとづいて上から指令し統制する「行政的システム」、「命令経済」 (経済生活に対する超法的独裁)が支配した。計画は社会主義における商品経済の廃絶というマルクス主義の命題にもとづいて・またその原初性の故に「集権的物量計画体制」であり、生産高は現物表示で指令されたが、この官僚独裁の手法は、その限り資源と労働力を動員して強行的に工業化の基礎をつくるうえでは有効であり、後進諸国に開発モデルを提供した。だがこのシステムは、ソ連一国で八〇年代に一、八〇〇万人というぼう大な行政官僚の大軍(被雇用者の一三パーセント)を産出し、国の資源と設備、国民の労働力は、官僚マフィアの財産となった。「事実上、国家財産は国民全体の財産から省庁の派閥の財産に変質した。」(ゴルバチョフ)(12)技術的進歩と経済的諸関係の複雑性の増大、国民の教育水準と需要の高度化等は、企業と労働者、技術者の自主性と創意の発揮、「人間的要因の活性化」(ザスラーフスカヤ)(13)をますます要求するが、非民主的なこの体制はこの要求に応ええず、経済活動は停滞し、危機に陥った。ソ連のペレストロイカは、国有化体制を維持しつつ企業の自由な経済活動を発展させようとする、一種の「市場社会主義」戦略だったが、体制の政治的民主化が一党独裁を打破して進展すると、命令経済体制は全東欧でいっせいに瓦解し始めた。こうして政治的独裁は、命令経済システムの経済的背骨をも成しているのであって、私見によれば「市場経済は政治的モノシリズム(政治的独裁)と(中国のように)ある程度共存可能であるが、命令経済は政治的民主主義とけっして共存できない。」(14)
したがって「ソ連社会に形成されていた集権的計画経済のモデルもまた、民主主義とも結合可能な社会主義モデルのひとつとみておきたい」と述べる伊藤誠氏の願望(15)は、スターリン主義の「経済学的」ノスタルジアのひとつにすぎない。この伊藤氏が期待する「中国社会主義」の路線(一党独裁下での市場経済化としての改革・開放)の前途も、結局は上述の法則を確認することとなろう、と私は考える。
(6) 最後に、この体制の運命を規定した国際的条件として、二〇世紀後半の西側資本主義諸国の経済的・社会文化的発展が挙げらるべきであろう。六〇年代以降の西側経済の情報化とポスト・フオーデイズム段階への移行は、東との間にいっそう決定的な力量の差を生み、東の民心の体制への幻滅と反撥をさらに深めた。
―― 若干の史的教訓
ソ連型社会の見方についてのアメリカのソ連研究者のロバート・ダニエルズの分類を借用すれば、九一年以前のマルクス・レーニン主義者はそれを資本主義に続くより高い発展段階にある「ポスト・キャピタリズム」としたが、この議論は体制とともに崩壊してしまい、九一年以降はこの社会を前資本主義社会、「プレ・キャピタリズム」としてとらえる立場が、ロシアを含めて多数である。これに対してダニエルズはトロッキーの弟子でありながらソ連社会論で彼と論争したバーナムらの経営者革命論(現代資本主義企業では資本の所有者=株主から執行者たる経営者への権力の移動が生じている、とする)を踏まえて、行政官僚がすべてを支配しているソ連社会は、「資本主義と平行した社会の一形態」であり、「国家社会主義のソヴェト型システムは・・・・普遍的な『経営者支配』の傾向の極端な一例にすぎない。」(15)と述べる。この視点はそれなりに興味深いが、現代資本主義分析での「経営者支配」論の妥当性の批判は別としても、ソ連型社会には党=国家官僚層から区別された実質上の所有者階級はいないのだから、この社会の「経営者」は総体として、資本制下の経営者よりもはるかに大きい権力を、名目上の「全人民所有」と各種社会的所有その他に振るうのである。マルクスがいうように、所有は本源的には対象をわがものとする「関係行為」であり、したがって国家化された財産を独占的に管理することを通じて人民を支配した党=国家官僚の特権的上層部は、この社会独自の支配階級だった、といってよいと思われる。同じくアメリカのロシア研究者であるモッシェ・レヴィンは、この社会の「もっとも興味深いメルクマールのひとつは、市民階級抜きのほとんど古典的なプロレタリアの産出、にあった。そのかわりに、社会化された国家財産の基礎のうえに立ち、またその名において統治したところの、官僚エリートをともなう官僚階級が存在した。」(17)(傍点引用者)と述べている。なおダニエルズはソ連社会を一種の「国家社会主義」としてとらえるが、彼の社会主義の定義は「経済経営に対する公的な統制を持つすべてのシステム」であり、これではナチの「国家社会主義」も「社会主義」に含まれることになろう。私は、先に述べた理由から、この社会を社会主義の一種とは規定せず、さしあたり次のように定義しておいた。
「主要な生産手段を勤労人民の名で党=国家(官僚)が事実上領有・独占することを通じて人民を支配しつつ、この官僚支配をマルクスの理念と社会主義の『理論』で正当化した特異な国家主義社会。」(18)。
この社会では国家が市民社会を呑みこんでおり、両者が分離しないという点で前近代的であり、また人民ではなく、官僚階級が政治権力を独占して人民の全生活を管理・支配しているという点で反民主的であり、全体主義的である。
だがこの特異な全体主義的独裁は、その胎内に一定の市民社会的な発展を結実させた場合、そのほんどは官僚の自己正当化イデオロギーに転化してしまっているとしても、やはり自らが掲げた社会主義の本源的理念に多かれ少なかれ制約され、規定されざるをえず、またその国家活動も粗野で非人問的な形態ながら、ブルジョア社会の経済法則の「自立性」――その人間疎外的性格に対決し、これを止揚しようとする「超近代」的契機を、一部内蔵せざるをえない。この「現実社会主義」の独裁とナチの独裁との間には、多くの共通点も認められるが、決定的な相違点は、前者には理念と現実との背反と相剋が自覚され、ここから理念に基づく現実批判や種々の改革運動が党官僚の内部からも生じうる(「スターリン批判」やベレストロイカはその証左である)のに対して、もともと人間解放の理念などない後者には権力闘争はあってもこうした原理的な葛藤や矛盾は生まれえない、という点にある。ファシズム信奉者たちの聞からは、「人間の顔をしたファシズム」の運動とか、人間の普遍的価値という理念を中心に据えた「新しい思考」などは生ずるはずもなかったのである。
「二〇世紀社会主義」の悲劇的歴史を踏まえた次の世紀の社会主義は、これまでの体制がそれから疎外されていた社会主義的価値を新たな次元で再生させ、再構築せねばならない。そして二一世紀において生命力を持ちうる社会主義とは、次代の社会がそのますますの高度化を要求する諸個人の人権と政治的・社会的民主主義の徹底的擁護と実現を第一の価値とし、また無条件の前提とするところの、さらに前進した社会民主主義以外ではありえないが、地球規模の環境危機の深刻化はじめ科学技術の影響、資本の運動や地域紛争の国際化などすべての面で「グローバリゼーション」がいっそう劇的に進む二一世紀の社会民主主義運動は、これらの人類的大課題を解決するための人類的協同を組織する、国際的な一大政治・社会運動の中核とならねばならないであろう。そしてそのためにも、ロシア革命を含む二〇世紀の革命運動と、その指導理念を成したマルクス主義的社会主義のこれまでの中心的諸命題(私的所有の廃止、プロレタリア独裁、商品生産の廃絶、「各人にはその必要に応じて」、国家の死滅等)、の十全な原理的再検討は、今世紀が私たちに遺した思想的課題なのである。
注
(1) ロイ・A・メドヴェージェフ「一九一七年のロシア革命」、現代思潮社、一九九八年、一二ページ
(2) 中野徹三『社会主義像の転回』、三一書房、九五年(以下『転回』と略)、五七〜六〇ペ〜ジ参照。
(3) 『転回』、二一二〜二一六ページ。
(4) 『転回』 二四二ページ。
(5) メドヴェージェフ前掲書、一四〜一五ページ。
(6) 杉浦秀一『ロシア自由主義の政治思想』、未来社、九九年、二九ページ
(7) Molotov Remembers, Ivan R.Dee, Chicago,1993,P107
(8) 詳細については拙著の二一三〜二二二ページ参照。
(9) Das Schwarzbuchdes Kommunismus, Piper,Munchen /Zurichi,1998,S.16
(宮地・注)、ドイツ語について、英語の〔u〕で書きました。
(10) ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、集英社文庫、三一四ページ。
(11) T・ローゼンバーグ『過去と闘う国々』、新曜社、四一一ページ。
(12) 『ゴルバチョフ回想録』上巻、新潮社、四二五ページ。
(13) 『転回』、二三七〜二四〇ページ。
(14) 『転回』、一八三ページ。
(15) 伊藤誠『現代の社会主義』、講談社学術文庫、二六六〜二六七ページ。
(16) Jahrbuch fur Historische
Kommunismusforshung, Akademie Verlag 1997.SS.136〜139
(17) ibid.,S.163.
(18) 『転回』、二六〇ページ。
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