中国・福州からの通信

 

中野英夫

 

 ()、これは、経済理論研究者・中野英夫氏による中国・福州からのメールです。中野氏は、2001年10月、中国福建省の福州に行き、そこの日本語学校で日本語を教えています。メール内容は、中国社会主義の実態と本質、「社会主義的市場経済」の裏側、中国共産党・その幹部たちの建前と本音、国民の様子を、ありきたりのマスコミ報道とは異なったユニークな視点で観察したものです。

 

 メールは、随時発行で、その都度、追加していきます。このHPに転載することについては、中野氏の了解をいただいてあります。なお、通信内容で、希望するテーマがあれば、中野氏にメールを出してください。  健一MENUに戻る

 

 〔目次〕

   2004年 8月25日 「韓国の歴史ドラマ」

   2004年 7月22日 「政治冷・経済熱」

   2004年 7月 3日 「『整形美人』をめぐって」

   2004年 4月 7日 「中国における都市と農村の収入格差調査」

   2004年 4月 5日 「現代中国の思想状況と近代性の問題」

   2004年 4月 1日 「中国における『廣松渉』」

   2004年 2月14日 「中国だから」

   2004年 1月28日 「列車の旅も変わったもんだ」

   2004年 1月13日 「今日の授業から」

   2003年12月20日 「きれぎれの断章」

   2003年11月10日 「西安での反日デモについて」

   2003年10月 5日 「貴州省貴陽市の貴州大学訪問

   2003年 9月25日 「また香港に行ってきました」

   2003年 9月 5日 「中国人留学生問題」

   2003年 8月15日 「三国演義のテレビ」

   2003年 7月25日 「中国における失業問題」

   2003年 7月21日 「テレビを買いました」

   2003年 6月17日 「シンセンの隣町にて」

   2003年 5月29日 「これは中国のことだろうか」

   2003年 5月22日 「こんな若者もいる―就学理由書」

   2003年 4月20日 「新しい授業」

   2003年 4月18日 「マナーの成熟」

   2003年 4月 7日 「南京と南京大学」

   2003年 4月 6日 「国営企業の『配当金』」

   2003年 3月 4日 「毛沢東グッズ」

   2003年 2月19日 「ご真影・若年労働」

   2003年 1月27日 「中国マルクス主義経済学の新動向」

   2003年 1月12日 「ネット規制」

   2002年12月 7日 「アモイと文革体験者」

   2002年11月22日 「学歴について」

   2002年11月12日 「独立採算? 小学校の教室借用費用」

   2002年10月6日  「中国の観光事業」

   2002年9月29日  「現代中国についての三つの疑問」

   2002年9月15日  「図書館員と『ひつばおん』」

   2002年9月 1日  「廣松渉の中国語版『物象化の構図』

   2002年8月22日  「やられました」

   2002年8月 4日  「待業青年とマイカー送迎中学生」

   2002年7月15日  「不思議な『理容店』や『温泉サウナ』」

   2002年6月24日  「陳独秀とマーリン、葉剣英」

   2002年4月 2日  「陳独秀について

   2002年3月17日  「食生活の変化」

   2002年2月23日  「似て非なるもの」

   2002年1月24日  「飛び越えた革命」と「飛び越えた文化」

   2002年1月15日  「中国における労働価値説研究」

   2001年12月3日  「魂に触れる革命」

   2001年10月30日 「もう中国は資本主義社会」

 

 (関連ファイル) 中野英夫『加々美光行著「歴史のなかの中国文化大革命」書評』

 (中野メール)  cee54260@hkg.odn.ne.jp

 

 「韓国の歴史ドラマ」 2004年8月25日

 

 日本では、韓国のテレビドラマ(「冬のソナタ」でしたっけ)に人気が出て来たそうですね。中国でも、韓国のテレビドラマは日本のよりも人気があります。韓国のアイドルは浜崎あゆみや宇多田ヒカルと同様に名が知られています。

 

 私も中国で放送されている、ある韓国のテレビドラマに注目しています。といっても、若者向けのラブストーリーではなく、歴史もので、李朝最後の皇后、閔妃を主人公にしたドラマです。閔妃は日本の朝鮮侵略に抵抗した女傑で、最後は日本人の手によって殺害されました。ですから、このストーリーは「韓国併合」に至る近代日朝関係史をドラマ化したものと言ってよいでしょう。李朝の「攘夷的改革」を行おうとする現皇帝の父親の大院君、その大院君と対立する保守派の閔妃、怖い父ときつい嫁の間を右往左往する現皇帝の高宗、そして日本の特命大使の井上馨、この四者の絡み合いでドラマは進んで行きます。

 

 さて、私は、このドラマの放映という事実から中国のある種の変化を感じています。改革解放以来、中国の目は欧米・日本に注がれてきたと言ってよいでしょう。ところが、最近はアジア、とくに、経済発展の著しく、ともに日本の侵略を経験した韓国に対して目を向け始めているのです。このこと以外にも、中国が韓国との友好関係を重視している証拠と思われる事件が起こりました。中国政府の公式HPに「高句麗は中国の地方政権だった」と記載されているのに対し韓国が抗議をして、中国が素直にそれを訂正したというニュースです。

 

 中国は、「お隣の西欧」である日本一辺倒からアジアの国々との友好をより大切にするという方向に変わりつつあるのではないでしょうか。いわゆる「反日意識」というのもこうした傾向とは無関係ではないと思われるのです。

 

 

 

 「政治冷、経済熱」 2004年7月22日

 

 国の識者の間では今こんな言葉が流行っているそうです。「政治冷、経済熱」。現在の日中関係を表した言葉です。つまり、「政治問題や政府間関係においては隙間風がさしているけれど、経済交流は相変わらずの熱気だ」という意味です。「文字の国」ならではの簡潔にして明瞭な表現と言えるでしょう。

 まさに、ここ福州でも、以前から多数の日本企業が進出して来ており、最近でも「中国市場はどうなんだ」と、マーケット調査にやって来る日本のビジネスマンが増えています。もちろん、こうした日本人と付き合っている中国人は、心の奥底はいざしらず、「反日意識」などもちろんおくびにも出しません。ところが、皆さんたちに伝わってくるのは、「西安の大学での反日デモ」とか「釣魚台問題」とかですね。

 この落差は何なんでしょうか。当たり前と言えば当たり前なのですが、それは、その中国人の立場によって日本に対する見方が変わっているに過ぎないというだけのことです。とくに、それが政治問題と経済問題とでは対照的な落差を生んでいるというわけですね。

 そして、これも当たり前のことなんですが、相手について無知とか無関係であればあるほど、偏見や誤解が極端になっていくのです。そんな最中こんな事件がありました―――。

 中国の人気アイドルが旧日本海軍の旭日旗をデザインした衣装を着たことから、いっせいにこのアイドルを非難し始め、ついにはこのアイドルに糞尿入りの瓶が投げつけられるという事件が起きたのです。そして、この事件での中国民衆の動向に危惧を感じた馬立誠と言う研究者が一つの論文を発表しました。それが最近の中国論壇の話題となった「対日新思考」と言われる論文なのです。

 「新思考」と言われているものの、その論旨は「相手への無知と感情だけに基づく議論は何物も生み出さない」という至極当然のことを書いているに過ぎません。それが話題になったというのは、それほど「反日感情」なるもの―繰り返しますが日本のことをほとんど知らない者たちの言動です。そしてそれは極少数であるということも付け加えておきましょう―がとてつもない「幻想」に基づいていることの証拠です。例えば、「日本人観光客が多いのは中国をスパイに来ているためだ」なんて議論があるそうで、馬氏はこうした議論を義和団の暴行や紅衛兵の英国代表部焼討ちに比しています。そう言えば、日本では攘夷派による英国領事館焼討ちというのがありましたし、現代でも「人権」とか「平和」とかを口にすると、「にちゃんねらー」と称される人達が「中国の工作員だろ」と決め付けるのがありますね。

 日中双方の現代の攘夷派。笑い話の種でしょう。しかし、ピエロだと思われた男がドイツを滅亡の淵まで追いやったという例もありますから・・・・・。

 

 

 「『整形美人』をめぐって」 2004年7月3日

 

 今日の『福州日報』にこんな裁判の記事が載っていました。福州ではなく、北京の話なんですが、「ミスワールド」中国地区予選に参加していた「整形美人」(中国語では「人造美人」と言うそうな)が参加資格を取消され、その小姐は主催者に謝罪と賠償金を要求したというものです。

 その小姐の言によれば、参加資格取消は「整形美人」を差別するものであり、また自分の名誉が毀損されたことにもなるとのこと。これに対して、主催者側は「客観的に審査を行うために、美容整形をした女性には遠慮してもらった」と反論しています。

 小姐は「美容整形は化粧や服装とまったく同じこと。そもそも『整形美人』という言葉自体が美容整形をした女性を特別扱いするもので、あってはならない言葉だ」と主張しています。

 裁判所は和解調停を勧めたのですが、両者とも譲らず判決を待っている状態です。この裁判には、この小姐に整形を施した美容整形の専門家(医師ではなく、日本で言う美容コンサルタントです)が原告=小姐側の弁護人として参加しています。で、いかにも奇怪なのは、このコンサルタントさんが、「ミスワールド」中国地区予選の審査員の一人であるということです。いったいどうなっているのでしょうか。

 中国もここまで来ているのですね。

 蛇足ながら、「美」とは何なんでしょうね。春秋時代の美人、西施は痩せ型、唐朝の楊貴妃は豊満型だったそうです。美人の判断も時代によって変わるわけですね。こう思い巡らしているうちに、「歴史−内−存在」とか「間主観性」とか「Gultigkeit」(すみません、私のパソコンではウムラウトが表示できないもので)とかという、ヒロマツ語が頭に浮かんできました。

 

 

 「中国における都市と農村の収入格差調査」 2004年4月7日

 

先日、中国社会科学院経済研究所の『中国における都市と農村の収入格差調査』を要約した報告が載っている雑誌を購入しました。それをご紹介しようと思います。

まず、次の表をご覧ください。

 

 

年平均収入(表1) 元

   

都市

農村

都市/農村

2002

8,038

2,588

3.1

1995

4,410

1,564

2.8

 

 

 

 

 

ジニ係数(表2)

 

都市

農村

全国

2002

0.319

0.366

0.454

1995

0.280

0.381

0.437

 

表1でわかるように、中国の都市と農村の収入格差は2002年で3.1倍になっていますが、これは世界でも最高の数字だそうです。しかも、これはあくまで貨幣収入の格差なのであり、社会保障・教育費補助などを考慮したら、実質的には6倍に達すると主張する研究者もいるとのことです。表2のジニ係数とは「収入の平等性」を示す指数(0≦ジニ係数≦1)で、この係数が高ければ高いほど格差が大きいことを表します。19952002年の間に、都市ではその数値が上昇し、農村では逆に下降しています。つまり、都市では富裕層がより豊かになり、農村では富裕層が減っていることを表しているわけです。しかし、報告者は、これは農村全体が貧しくなったということを意味せず、都市の、とりわけ都市富裕層の収入増加のスピードが全国平均や農村のそれよりも急速であることを示していると、言っています。

 

それでは、なぜ農村ではジニ係数が下降したのでしょうか。これについて、報告者は次の三つの理由を挙げています。一つは、農村戸籍の都市戸籍への移転です。農村の中で都市戸籍への移転ができる層は比較的裕福な階層と考えられますから、このことにより、農村の富裕層が減少したというわけです。二つめは、出稼ぎ農民の増大です。一見、このことは農村内部の格差を拡大させる原因のように思われますが、それは一部の者だけが出稼ぎに出た時代の話であり、現在では逆に農村の貧しい層にも現金収入を獲得する機会を与えたことになるわけです。三つめは、税制改革です。以前の税制は報告者の用語を使うと累進課税とは反対の「累退課税」ということだそうです。つまり、豊かな者にも、貧しい者にも一律の「平等な」課税額が義務付けられており、これが実質的な不平等を招いたというわけです。この「不平等な平等課税方式」が改正されたことにより、農村内部の経済格差がやや縮小されたのです。どうやら、報告者は、農村の収入平等化を「貧しさの平等」と捉えるよりも「豊かさの平等(への第一歩)」と捉えているようです。

さて、報告者の言わんとすることをまとめてみると、こうなるでしょうか。

農村も都市も豊かになりつつあることは間違いない。しかし、そのスピードにはあまりにも格差がある。これが世界で一番の都市と農村の格差を招いている。

※ 雑誌《財経》2004年第3・4期(220日発行)(中国証券市場研究設計中心刊) 李実・岳希明(中国社会科学院経済研究所研究員)《中国城郷収入差距調査》を要約。

 

 

 

 「現代中国の思想状況と近代性の問題」 2004年4月5日

     汪暉

 

歴史はすでに終結したのか?

 

1989年は歴史の一つの境目であった。一世紀に近い社会主義の実践が一段落を告げた。二つの世界は一つの世界へ、グローバルな一つの資本主義世界へと変わった。中国はソ連や東欧の社会主義諸国のように瓦解こそしなかったが、このことは中国の社会・経済がグローバリゼーション化された生産・貿易プロセスに急速に入っていくことを妨げるものではなかった。中国政府の社会主義堅持の方向は以下のような結論を妨げるものではないのである。すなわち――経済、政治、文化ないしは政府の動向も含む中国社会の各種の動向はすべて資本と市場の活動の制約を深刻な形で受けているということである。我々が20世紀最後の十年間の中国の思想と文化の状況を理解しようとするならば、上述の変遷およびそれに付随する社会の変化を理解していなければならないわけである。[i]

 

よって、現在の中国知識界の思想を分析していく前に、90年代の中国知識界の思考と密接に関連している前提をいくつか取り上げる必要があるだろう。

まず、1989年の事件が中国の70年代末以来の改革路線を変えることはなかったということが挙げられる。まさに反対に、国家の推進政策の下で、改革(主要には市場化に適応した経済体制の建設と立法の分野での改革である)の歩みは80年代で最も開放的だった時期よりもいっそう激しく進行しているのである。生産、貿易、金融体制におけるさらに進んだ改革を通して、中国は日ごとに世界市場競争の中に入って来ているが、これにより内部の生産と社会の機構の改造も近代的市場制度のコントロールの中で進められて来ている。他方、商業化およびそれに伴う消費文化が社会生活の各分野に浸透して来ており、国家と企業の市場に対する対応は単なる経済の問題だけではなくなり、こうした社会過程自体が市場法則によって社会生活全体を規制することを最終的に要求するようになったのである。こうした歴史的状況下で、知識人の元来の社会的役割と職業方式が深刻な変化を蒙るようになったばかりではなく、国家とりわけ各級政府の社会生活と経済生活における役割も相応な変化を見せている。つまり、これらの機構と経済・資本との関係は日ごとに密接なものになって来ているのである。

 

その次に、90年代の中国知識界の声というものが国内から発せられたものではなく、国外が発せられたものであることが挙げられる。それは、一つには1989年の事件が現代中国の歴史上でも大規模な主流派の知識人の西遷を生み出し、多くの学者や知識人がそれぞれ異なる原因で出国し海外在留や亡命生活を選択していったこと、もう一つには70年代末に国家の実施した留学生政策が90年代になって影響力を発生して来たことの結果である。なぜなら、この時期から欧米や日本に留学していた多くの学生が続々と学位を取得し、その中の相当な部分がこれらの国で就職したり、また他の部分は中国に帰国したりしたからである。知識の主体について言うならば、この二つのタイプの知識人はそれぞれ異なる経験に基づき、欧米の社会と欧米の学術について深く知る機会を得ることができ、その欧米社会観察の結果を中国の問題に対する思考の中に持ち込んでいったゆえに、国内の知識人の見方とは差異を生み出していった。知識の制度的側面について言えば、現代の教育と学術の制度はだんだんと国境を越える体制となっていき、知識の生産と学術活動はすでにグローバリゼーションの過程の一部分になった。

 

第三に、1989年以後、国内の知識人は彼らの経験した歴史的事件を再思考せざるを得なかったことが挙げられる。このことから、環境からの圧力、あるいは自らの選択により、大部分の人文・社会科学の分野の知識人は80年代の啓蒙知識人のやり方を放棄し、知識規範の問題を議論したり、さらに専門的な学術研究に従事したりして、職業としての知的活動という方式に転向していった。「文化:中国と世界」等の西洋の学術の紹介を主としていた知識人グループの解体、および『学人』等の中国の歴史と思想の研究を中心とする出版物の出現について、ある人は90年代の知識の方向性の転向を「国学」の復興と見なしている。しかし、このような概括はどんな意味においても適切ではない。第一に、1989年の学生運動の失敗は、知識界をして80年代の思想運動の含意を再思考させたり、自身が従事していた文化運動と中国の歴史との関連性について反省させたり、研究の視角を内在的な現実的要求を包含している中国の歴史に向けさせたりしたわけだが、しかし、それは単純な学術復興ではないであろう。第二に、確かに学術史の研究は一度は知識界の話題とはなったが、新世代の学術研究を概括的に「国学」の範疇の中に入れることは難しい。確かにこれらの知識の方向性の転向は直接には知識の関心が「欧米」から「中国」に転変したことを示しているが、注意すべきはこうした自己調整の努力は当時においてはヴェーバーの「職業としての学問」観に依拠していたという点である。各種の知識の方向性の変化の中で、学術の職業化はとくに明確な趨勢のように見える。1992年以降、市場化の進行は社会科学の分業化の趨勢を加速させているが、こうした趨勢は学術の職業化の内在的要求と自然に合致しているものなのである。職業化の進展とアカデミズム化の方向は知識人の役割をだんだんと変化させており、基本的には、80年代のような知識人階層はだんだんと専門家、学者、職業人に変わって来ているのである。

我々は当然にもさらに一連の重要な現象を挙げることができよう。しかし、概括的に言えば、上述の三つのことは、ともに80年代の中国知識界とは異なる文化空間を創造し、元来の知識人と国家の関係を深刻な形で変えたばかりではなく、知識界自身の同一性をも再び存在できないようにさせてしまったのである。伝統的価値の希求から人文精神のアピールに至るまで、職業的責任を自覚的に担うことから社会的使命感をあらたに呼びかけることに至るまで、現在の中国知識人のそれぞれ異なりかつそれぞれ交差する努力は、一方で現代社会の変遷が生み出したものに対する一種の批判性のある倫理的な姿勢となり、他方ではまたこの種の姿勢に基づく自己に対する再確認の社会的行為となった。80年代の知識界は自己を文化英雄や先駆者と見なしたが、90年代の知識界は新しい適応方法の探究に努めつつも、どこにでも浸透して来る商業文化に面し、彼らは自己がすでに現代の文化英雄や価値の創造者足り得ないことを痛苦をもって意識するに至ったのである。

 

現在の中国社会は極度に複雑な歴史時期に進入し、知識人グループの社会問題に対する見方も混乱して来た。近代以来、中国の知識界の歴史的反省は中国がいかに近代化を実現するかということ、そして、なぜ中国が近代化実現に成功しなかったのかということに集中してきた。そして、80年代においてはこの問題は中国社会主義への反省に集約されていたのである。つまり、社会主義という方式は当時いつも反近代化の方式と見なされていたわけである。このように、当時においては思想状況の明白化は実際には社会問題の明確化から来ていたのである。中国の知識界にとっては、近代化とは、一方では富強を求めそれによって現代的な国民国家を建設する方式であり、他方では欧米の近代社会およびその文化と価値を規範として自己の社会と伝統を批判していく過程であった。このゆえ、中国において近代性なるものを語る時、その最も主要な特徴の一つは「中国/欧米」「伝統/現代」という二元的な用語によって、中国の問題に対して分析を進めることであった。

しかし、欧米(とりわけ米国)に身を置き、欧米の批判思想の影響を受けた若い知識人にとっては、いわゆる「欧米化の道」は中国の模範として疑わしいものへと変化してしまった。また、中国特有の市場社会の中に身を置いている知識人にとっても、改革の目標は結局どんなことなのかという問いが同様に混沌としてきた。80年代の中国の啓蒙思想が認めていた「良い社会」は経済の市場化とともにはやって来なかっただけではなく、市場社会自身が、ある意味においてはさらに克服しがたい新しい矛盾をも呈するようになったのである。資本主義によるグローバリゼーションは経済、文化ないしは政治の領域において国民国家の境界を打破したことを意味しているばかりではなく、同時に人々がグローバル経済と国内経済の関係の中において自己の利益の所在をいっそうはっきり認識するようになったことも意味している。注意すべきことは、グローバル経済の進展過程はいぜんとして国民国家のシステムによって政治的に保証されているということである。このことにより、国民国家の機能に変化が見られたとしても、それは、グローバル経済の進展過程の中で利益を受ける一つの単位という意味において、かえっていっそうその役割を顕在化させているのである。国際経済システムの中での利益関係の明白化は逆に国民国家の内部統合に役立っているのだ。中国について言えば、こうした経緯の結果、1989年の事件が生み出した国家と社会との緊張関係は一定程度弛緩するようになったわけである。

 

思想の方面から見ると、90年代の中国の知識人が面している問題も大幅に複雑化して来た。まず、現代社会の文化的危機と倫理的危機は、もはや中国の伝統的な腐敗のゆえであると簡単に見なすことはできなくなった(ゆえに、ある人は反対にこの種の問題は伝統が失落した結果だと言っている)。なぜなら、多くの問題はまさに近代化の過程で生み出されたものだからである。次に、中国の経済改革がすでに市場社会の基本的形成を導き、国有企業が国民総生産の30%前後しか占めなくなったこの時代においては、中国の社会問題を社会主義の問題だと簡単に言うことはできなくなったこともそうであろう。さらに、ソ連、東欧の社会主義システムの崩壊後、資本主義によるグローバリゼーション過程はすでに現代世界の最も重要な世界的現象になり、中国の社会主義改革はすでに中国の経済と文化の生産過程をして世界市場の中に参入せしめた。このような歴史的条件下では、中国の社会・文化問題――政府の活動も含む――は、もはや中国という環境の中だけで分析していくことは不可能になったのである。換言すれば、中国の社会問題を反省する際には、今まで通常批判の対象とされてきたものを理由として取り上げるという方法は、もはや現代の社会の苦境を説明し難くなっているのである。アジア資本主義が勃興して来たという歴史的環境の中では、伝統という言葉はもはや自明の蔑称ではなくなり、生産と貿易過程の多国籍化あるいはグローバリゼーションの中では、国民国家という言葉ももはや自明の分析単位ではなくなっている(しかし、このことは現代世界がすでに国民国家を超える政治システムを構築することに成功したことをけっして意味していない。逆に、生産と貿易の多国籍化は既存の国民国家システムによってその政治的保証がなされているのだ。問題は国民国家システムがますますグローバルな生産と文化の過程に適応できなくなっているということなのである。まさにこの意味において、国民国家システムと国民国家の社会的政治的役割は深刻な変化に面しているのである)。資本の活動が社会生活の各領域に浸透している環境の中では、政府やその他の国家機構の行為と権力の運用もすでに市場や資本の活動と密接に関連するようになり、簡単に政治の角度からだけで分析することもできなくなっている(このこともまた政治についての分析が意義や価値を持たないという意味ではない)。それでは、中国の問題とはどんな問題なのか、あるいは、どんな方法や言葉で中国の問題を分析したらよいのだろうか。多元主義の文化観、相対主義の理念、現代的ニヒリズムなどの各種の理論が統一した価値と規範の再興を瓦解せしめているこの時代、批判性をその特徴とする各種の理論は、自己の進めている激烈な批判の過程の中で、その批判性自身がまさに活力を喪失していることに気付き始めている。ゆえに、批判の前提をあらたに確認することが必要なのだ。しかし、現在に至るまで、改革/保守、欧米/中国、資本主義/社会主義、市場/計画などの二元論は依然として支配的な思想の様式である。しかし、これらの思想様式では上述の問題はほとんど解き明かすことができないのである。

 

現在の中国思想界は資本の活動の過程(政治に関わる資本、経済資本、文化にかかわる資本の複雑な関係を含む)の分析を放棄し、また、市場、社会、国家の相互浸透や相互衝突の関係の研究を放棄し、ただただ自己の視野を倫理的側面あるいは近代化イデオロギーの枠内に限定している。これは特別に注意すべき現象であろう。現代中国の社会、文化問題は中国の近代化に関わる多くの複雑な問題にわたっているが、私の取り上げようとする問題は、もし中国社会主義の歴史的実践が中国近代化の特殊な形態であるというのなら、ヴェーバーやその他の理論を借用した中国の啓蒙主義的知識人の中国社会主義に対する批判はなぜ同時に中国の近代化に関わる問題の反省という形にならなかったのか、というただこれだけのことである。現在の世界の変化の中で、中国社会の改革の実践は、一方では、中国社会の基本構造を深刻な形で再構築した(知識人が迫られて行った自己確認の行為自身が、社会、文化の主体がすでに中心的地位から縁辺へと転化していったことを表明している。社会の特定階層の地位変動は疑いもなく中国の社会構造の再構築を示す象徴の一つである)。他方では、中国社会の改革の実践は世界資本主義の発展方向に対して現在に至るまで不確定な要素を提供しているのである(中国の道の独特性についての議論の最終的な問いは以下のような問題となって現れるだろう―資本主義の歴史的形態から偏奇した形での近代社会、あるいは近代化に対する反省を伴った近代化過程は存在するのか否か)。私は、上述のすべての問題は現代の知識人の倫理的なポーズの背後に隠されている深刻な問題であり、これらの問題自身こそが現代思想の曖昧な状態を生み出した歴史的原因であると思う。

 

三種の近代化イデオロギーとしてのマルクス主義

 

現在の中国の思想が批判性を喪失したことについて議論をしようとするなら、まず中国マルクス主義と近代化との歴史的関係を理解する必要があるだろう。近代化理論に依拠して中国の問題について研究を進めている、いく人かの欧米の学者は、中国の近代化を科学と技術の発展、伝統的農業社会の都市化および工業化への巨大な転変として単純に理解している。[ii] 近代化理論は欧州資本資本主義の発展の中から近代化の基本構造を理解しようとしているわけだから、近代化の過程は通常資本主義化の過程として理解されている。マルクスについても、近代化はやはり資本主義的生産様式を意味しているのである。しかし、中国の状況はそれと少しばかり異なり、現在の中国の近代化についての問題は中国のマルクス主義者がそれを提出したばかりではなく、中国的マルクス主義自身もすなわち一種の近代化イデオロギーなのである。中国の社会主義運動は近代化を基本目標としているばかりではなく、それ自身もすなわち中国の近代化の主要特徴なのである。現在中国で流行している近代化の概念は主に政治、経済、軍事、科学技術の落後状態から先進的な状態への過度と発展を指しているわけだが、この概念はたんなる技術性の指標ではなく、たんなる中国における国民国家と現代的官僚体制の形成でもない。それは一種の目的論的な歴史観と世界観、自己の存在意義を自己の所属している特定の時代と関連付ける一種の態度をも意味しているのである。まさにこのゆえに、社会主義的近代化の概念は中国の近代化の制度および形式と資本主義的近代化との差異を指しているばかりではなく、一つのまとまった価値観をも表しているのである。

 

中国における近代化の概念と近代化理論中の近代化の概念には区別すべきところがある。それは、中国の近代化の概念が社会主義イデオロギーを内容とする価値への志向を包含しているところから来ている。毛沢東のようなマルクス主義者は歴史の不可逆な進歩を信じており、革命あるいは「大躍進」のような方式で中国社会を近代化という目標に向かって邁進させた。彼の実行した社会主義的所有制は、一方では、富強な近代国民国家を建設するためだったし、他方では、労働者と農民、都市と農村、頭脳労働と肉体労働という「三大差別」を消滅せしめるという平等を主要な目的としていたのである。公有化運動を通して、とりわけ「人民公社」の建設がそうであるが、毛沢東はこの農業を主とする国家において社会動員を実現し、全体の社会を国家という目標の中に組織化したのである。体内的には、これは晩清政府も民国政府も解決できなかった国家の税収問題を解決しようとすることであり、農村の生産と消費の収奪を通して都市の工業化のために資金を蓄積し、社会主義の原理に照らして農村社会を組織することであった。この意味においては、農村の公有制はさらに深刻な都市と農村の不平等を前提するものであったのである。[iii] 対外的には、これはまた、社会を国家という目標の中に効率的に組織化し、落後した中国社会を一つの統一した力量に凝縮させ、民族主義の任務を完成させることを意味していた。毛沢東本人は、自分が指導している社会主義革命は孫中山の民主主義革命の継承と発展であることを何度も語っている。事実、このことは、革命に対するこうした理解によって、前世紀以来のすべての中国近代化運動の基本問題を解決する意図を持っており、そして、この近代化運動は未来の方向をも決定したのである。[iv] 毛沢東の社会主義は一方では一種の近代化イデオロギーであり、他方では欧米の資本主義的近代化に対する批判であった。しかし、この批判は近代化それ自身に対する批判ではなく、ちょうど反対に、革命的イデオロギーと民族主義の立場に基づいて生み出された近代化の資本主義的形態あるいは段階に対する批判であった。ゆえに、価値観と歴史観の面から言うと、毛沢東の社会主義思想は反資本主義的近代化の意味を持つ一種の近代化理論だったのである。政治の結果から見ると、毛沢東の三大差別の消滅という社会的実践は国家から独立した社会範疇の存在可能性を消し去り、以前に例を見ない、一切を包括する膨大な国家システムを作り上げたのみならず、社会生活の各方面をも前衛政党のまわりに組織化させたのである。

 

「反近代の意味を持つ近代化理論」は毛沢東の思想だけの特徴ではない。晩清以降の中国思想の特徴の一つでもある。「反近代」の方向は人々の言う伝統的要素のゆえからだけではなく、より重要なのは、帝国主義の拡張と資本主義的近代社会の危機の歴史的展開が中国における近代的歴史環境の探求を余儀なくさせたゆえもあるのである。中国の近代化運動を推し進めた知識人と国家機構の中の識者はすべて、中国の近代化運動が欧米資本主義の近代化に伴った数々の弊害をいかにして避け得るのかという点を考えざるを得なかった。康有為の空想的な大同思想、章大炎の平等観念、孫中山の民生主義および中国の各種の社会主義者の資本主義への批判は政治、経済、軍事、文化などの各分野における彼らの近代化試案(近代的国家の政治制度、経済体制および文化価値を含む)に付随して提起されたのである。さらにこうさえ言えるだろう。近代化への疑問と批判それ自身が中国の近代思想の最も基本的な特徴であると。このゆえ、中国の近代思想およびその最も重要な思想家は矛盾を孕んだ形で中国の近代化についての思想努力と社会的実践を進めたのである。中国の近代思想は近代に対する批判的な反省を含んでいる。しかし、近代化の探求の過程で、この特定の環境の中から生まれた深刻な思想は、ある面では反近代的な社会実践とユートピア主義をも生み出した。官僚制国家に対する危惧、形式主義的な法律への軽視、絶対的平等の重視などである。中国の歴史的環境の中では、近代化への努力は「合理化」過程を拒絶する形で進み、深刻な歴史的矛盾を生み出したのである。毛沢東について言えば、彼は一方で集権的な方式で近代的国家システムを作り上げたが、また一方ではこのシステム自身に対して「文化大革命」式の破壊を行った。一方で公社制度と集団経済方式を用いて中国経済の発展を進めたが、他方では分配制度の方面で資本主義的近代化が導くはなはだしい社会的不平等を避けようと図った。一方では公有制によってすべての社会を国家の近代化という目標の中に組織化し個人の政治的自主権を剥奪したが、他方では彼は国家機構が人民の主権を抑圧することを心の底から憎んでいたのである。総じて、中国社会主義における近代化の実践は反近代の歴史的内容を含んでいたのである。この種の矛盾を孕んだ方式にはその文化的根源があるが、しかし、それは、中国近代化運動の二重の意味を持つ歴史環境(近代化を求めつつ欧米の近代化の数々の歴史的結果に対しては反省をするという意味)の中において解釈する必要があるのである。

 

「文化大革命」の結束を境として、永続革命と資本主義批判を特徴とする社会主義はその終結を宣告された。そして、1978年に、現在に至る社会主義の改革運動が開始された。思想の方面から言うと、以前のような社会主義のあり方への批判は主に以下の二点に集中している。

(1)       理想主義的な公有制および平均主義に基づく分配制度は効率の低下を招いた。

(2)       専制的な作風は全国規模の政治迫害を招いた。

これにより、これまでの歴史の進行に対して清算と総括が加えられるとともに、効率追求を軸として、中国の社会主義改革は、農村における人民公社の解体と土地請負制の実行から始まってだんだんと発展していき、都市の工業における請負制と株式会社制の実行に至った。そして、開放改革の実践の中で中国はだんだんと世界資本主義市場の中へと入っていったのである。[v] 改革の進展は明らかに経済の発展を推進し、元来の社会構造を改造した。しかし、それが放棄したのは毛の理想主義的な近代化方式だけで、近代化という目標自身は継承したのである。現代の改革された社会主義も同様に一種の近代化イデオロギーとしてのマルクス主義なのであり、一種の実用主義的マルクス主義でもあるのである。改革前の近代化と異なり、中国が現在進めている社会主義改革の主要な特徴は経済領域での市場化であり、中国経済および社会・文化と現代資本主義の経済システムとの接触を通じて、中国社会をグローバルな市場社会の中に参入させている。改革前の社会主義と比べると、現代の社会主義は一種の近代化イデオロギーとしてのマルクス主義ではあるけれど、すでに前者のような反近代化の傾向は基本的に有していない。

 

現在の中国社会の改革が成し遂げた、驚くべき成功は経済の範囲に限られるものではなく、深刻な政治的内容も含んでいる。中国社会主義の改革は、経済の発展を通じて中国近代民族主義が完成させようとした歴史的任務を達成し、同時に科学技術の発展および経済の形態が資本主義市場に向かうことは巨大な歴史的進歩であると深く信じている。「一部の人から先に豊かにさせる」というスローガンは、中国の社会主義改革の提唱者が「一部の人から先に豊かになる」ことが一種の便宜的な策略であり、生産関係の変化と社会資源の公正な分配には及ばないと認識していることを表明している。人々は通常「競争メカニズム」の形成あるいは「効率アップ」をもって「家族請負制」が農村改革において巨大な成功を収めたと解釈しているが、土地の再分配過程に含まれている平等の原則およびこの過程でだんだんと形成された都市と農村の相対的な平等関係を見落としている。事実が証明しているように、公正と平等は生産効率アップの基本要素である。農業経済の専門家の研究によると、1978年〜1985年の間、都市と農村の収入格差は縮小したが、1985年より再び拡大した。1989年から1991年までは農民の収入増大は基本的に停滞し、都市と農村の収入格差は1978年以前の状態に戻った。1993年以降、国による食糧価格の引き上げ、郷鎮企業の増大スピードの上昇、出稼ぎ労働者の収入増大などの原因により、農村の収入の増加はそのスピードが上昇した。しかし、都市における大量の余剰労働力のゆえに、こうした情勢は現在また変わりつつある。[vi] 農村経済の発展状況は相応する社会的平等(とくに都市と農村間の平等な関係)と直接関連しているのである。農村の改革と比べると、都市で進行している市場改革と私有化過程においては、社会的な富(とくに国有財産)の再分配は、出発点の平等状態から「最初の所有者」を見出し、ルールの結果としての平等状態から「最終の所有者」見出すという市場ルールをほとんど遵守していない。[vii] 人々が常に見落としていることは、効率第一のこの種の実用主義が新しい社会的不平等の条件を創造し、また政治の民主化にも障害を作り出しているということである。もし、社会の富の再分配が充分に公開された形で、あるいは民主的な監視の下に進行されたならば、国有資産の分捕り合戦を特徴とするような再分配はこのようにはなはだしい形で進行することはなかったであろう。現在人々は私有財産権の合法化をもって現在の社会矛盾を解決することに希望を寄せているが、もし、私有化の過程が民主的かつ公正な条件下で進められなければ、この合法化過程が保護するものはただただ不当な分配過程でしかなくなるのだ。1978年以来、改革問題について一連の論争があったが、この論争の核心の問題は近代化が必要なのか否かということではなく、どんな方法による近代化なのかということなのである。私はこの問題を以下のようなぶつかり合いとして概括しよう。すなわち、反近代的近代化理論としてのマルクス主義イデオロギーと近代化理論としてのマルクス主義イデオロギーとの闘争であると。しかし、今日、このような論争はすでに現代の経済・政治闘争の基本的特徴を説明することはできなくなっている。

 

第三種の近代化イデオロギーとしてのマルクス主義は空想的社会主義の特徴を強く備えている。私がこのように指摘しているものは、1978年以後中国共産党内およびマルクス主義的な知識人の中に出現した「真正の社会主義」の思潮である。その主要な特徴は人間主義をもってマルクス主義を改造しようとするもので、かつこの種の改造されたマルクス主義をもって改革以前の主流イデオロギーを批判しようとするものであった。よってまた、現代の社会主義改革運動に理論上のバックグラウンドを提供するものであった。この思潮は当時の中国の「思想解放運動」の一部であった。人間主義的マルクス主義は一方で国家指導型の社会主義がマルクス学説中の人間の自由と解放に関する思想を忘れ、それにより「人民民主主義独裁の名義」の下で残酷な専制を生み出したと批判し、他方では社会主義改革思想とも矛盾を生じたのである。私はこの矛盾を空想的社会主義と実用的社会主義のぶつかり合いと解釈している。中国の人間主義的マルクス主義が注目していた理論問題はマルクスの『1844年経済学―哲学手稿』中で議論されている「疎外」問題であった。初期マルクスはフォイエルバッハなどヨーロッパの人間主義哲学中の疎外概念を継承し、かつそれを資本主義的生産関係の分析、とくに資本主義的生産過程中の労働の分析に用いた。彼の指摘した疎外は第一に資本主義的生産関係中の労働疎外であった。中国の人間主義的マルクス主義はマルクスの疎外概念を資本主義的近代性への批判という歴史的な意味から切り離し、この概念を伝統的社会主義の批判に用いた。その主要な側面について言えば、こうした思潮は毛の社会主義、とりわけその専制的主義を伝統的な封建主義の歴史の残存物と見なして批判し、さらに社会主義自身の疎外問題にも論及したが、社会主義への反省は近代性の問題の反省には向かわなかった。まさにルネサンス以降のヨーロッパ人間主義による宗教批判と同様に、中国の人間主義的マルクス主義の伝統的社会主義批判は中国社会の「世俗化」運動―資本主義的市場の発展を生み出したのである。こうした特定の環境中では、マルクスの欧米資本主義的近代性への批判は一種の近代化イデオロギーへと転換されてしまい、現代中国の「新啓蒙主義」思想の重要な組成部分になったわけである。中国の人間主義的マルクス主義の主要な任務は毛の反近代的近代化イデオロギーおよびその歴史的実践に対する分析と批判であり、中国が資本主義に向かって開放された社会主義へと改革している中では、その抽象的な人間の自由と解放の理念は最終的には一連の近代的価値観へと転化したのである。換言すれば、それ自身はすなわち近代化イデオロギーとしてのマルクス主義なのであり、このことにより、近代化と資本主義的市場自身が生み出す社会危機に対しては、相応した分析と批判はほとんどできないのである。市場社会およびその法則が日ごとに主流の形態となって来ている中国の環境の中では、伝統的社会主義の歴史的実践の批判を主要目標とする批判的社会主義はすでに衰亡しつつあるのだ。[viii] 中国の人間主義的マルクス主義がもしその批判的活力をあらたに発揮したいのなら、その人間主義的志向から抜け出て、その人間に対する関心を時代の特徴を有す一種の政治経済学の基礎の上にあらたに据えなければならないだろう。

 

近代化イデオロギーとしての啓蒙主義およびその現在の形態

 

80年代を通じて、中国思想界で最も活力があったのは中国の「新啓蒙主義」の思潮であった。最初、「新啓蒙主義」の思潮はマルクス主義的人間主義の旗幟のもとで活動した。しかし、80年代初期に起こったマルクス主義的人間主義に対する「精神汚染清掃運動」の後、「新啓蒙主義」思想はだんだんと知識人の急進的な社会改革運動の一種へと変わっていき、ますます民間的かつ反正統的な欧米化の傾向を持つようになってきたのである。「新啓蒙主義」の思潮は統一した運動というものではなく、この思潮の中の文学や哲学の方面は当時の政治問題とは直接の関係はなかった。私が特に指摘したいのは、中国の現在の「新啓蒙主義」が国家の目標と対立する一種の思潮であると単純に認識したならば、新しい時代以降の中国思想の基本的脈略を理解することができないということである。「新啓蒙」の思潮自身は複雑で錯綜しており、また80年代後半にははなはだしい分化もしたが、歴史的に見ると、中国の「新啓蒙」思想の基本的立場と歴史的意義は総体としての国の改革実践にイデオロギー的基礎を提供したことにある。中国の「新啓蒙知識人」と国家目標の分岐は両者の間の緊密な関係の中から徐々に生まれてきた。現在の啓蒙思想が欧米の(主要には自由主義的な)経済学、政治学、法学およびその他の知識分野からその思想的インスピレーションを得て、これをもって正統的マルクス主義イデオロギーに対抗しようとしているのは、国の推し進めている社会改革が現在まさに市場化過程からさらにグローバリゼーションに向かおうとしている歴史趨勢のためである。この意味において、「新啓蒙知識人」と正統派の対抗は民間知識人と国家との対抗として単純に解釈することはできない。ちょうど反対に、総体的に見るならば、彼らの思想的努力は国家目標と大体において一致しているのである。80年代に中国思想界や文化界で活躍した知識人(その中の一部分は1989年後海外に亡命しているが)の多くは国の研究機関や大学の中心メンバーになっており、さらにその一部分は90年代に中国の立法機構の重要な高級官僚にもなっている。[ix] 問題の複雑性は、変革の過程が社会を改造したばかりではなく、国も改造し国の内部に構造性の亀裂を発生させ、それがまた異なる政治集団を生み出したことにある。いく人かの知識人グループと国との対抗関係は実際上は国家意志内部の衝突を反映しているのだ。しかし、こうしたすべての複雑な状況は1989年以後の中国の政治状況および亡命知識人の立場の転変によって覆い隠されてしまったのである。このように国の内部における分岐と「新啓蒙」知識人活動の複雑な関係が自覚的にあるいは無自覚のうちに覆い隠されてしまったことは、80年代の中国の思想状況を認識することに対し大きな障害になっている。

 

中国の「新啓蒙主義」は社会主義という基本原理に再び訴えることなく、直接に初期のフランス啓蒙主義や米英の自由主義から思想的インスピレーションを受け、現実の中国社会主義に対する批判を伝統と封建主義への批判として捉えている。「新啓蒙思想家」が意識していると否とに関わらず、「新啓蒙」思想が求めているものはまさしく欧米資本主義のような近代性にほかならない。換言すれば、「新啓蒙主義」の政治批判(国家批判)は一種のメタファーを使って、改革前の中国の社会主義的近代化の実践を封建主義的伝統に喩えているのであるから、その歴史的実践の近代性を見ようとしていないと言える。中国的な近代性(その特徴は社会主義という方式である)への反省を伝統/近代という二分法の中に置き、近代的価値の再興を完成させようとしているわけである。80年代の思想解放運動の中で、中国の知識人の社会主義に対する反省は「反封建」のスローガンの下で進められ、これにより、中国社会主義の持つ困難性もまた全体としての「近代的危機」の一部分であることが忘れ去られてしまった。「新啓蒙」は伝統/近代という二分法の中で自己認識を進めたがゆえに、近代的国家体制、政党政治、工業化過程およびこれから生じた専制や不平等もまた一種の「近代化」現象であることを見落としたわけである。多くの面から見ると、とくに中国を世界資本主義経済システムに入らせるという現実的な目標から見ると、中国の「新啓蒙」と改革された社会主義には多くの共通点がある。伝統的な社会社会主義を封建主義の歴史的伝統から生まれたものと解釈することは、中国の「新啓蒙主義」の闘争戦略であるばかりではなく、一種の自己認識のための手段でもあった。すなわち、それは、自己を宗教的専制と封建貴族に反対したヨーロッパのブルジョアジーの社会運動と似たものとして認識するということであったのである。こうした自己認識の中で覆い隠されてしまったものは、近代化イデオロギーとしての「新啓蒙主義」と近代化イデオロギーとしてのマルクス主義とに共通な価値と歴史に対する理解の方法であった。それは、進歩に対する信念、近代化の承認、民族主義の歴史的使命および自由平等という未来像など、とりわけ、自身の努力と存在意義を、未来社会へと向かう過渡期としての現時点に関連付けるという近代的な態度である。以上のような両者の関係を指摘したのは、両者の間に徐々に現れてきた歴史的矛盾を抹殺しようという意図ではなく、新啓蒙知識人が特定の社会グループとして「国家」と区別されることを否認するためでもない。ましてや、一種の価値意識である知識人の独立精神を否定するためでもない。私がここで述べたことは事実としての歴史的関係であるのだ。もし、知識人が虚構の関係の上に自己に対する認識を打ち立てたならば、いかに自己の独立性を強調したとしても、その言うところの独立性はすべて疑わしいものになる。なぜなら、私は、自己を確実に認識できない者が確実に現実を把握できるとは信じられないからである。

 

中国の「新啓蒙主義」思想は統一された形を持つものではない。その思想の体系性について言えば、中国マルクス主義の統一された形にははるかに及ばない。事実に則して言えば、中国「新啓蒙主義」は広範にして様々なものを含む一種の社会的思潮なのであり、それぞれ異なる数多くの思想要因によって構成されたものである。これらのそれぞれ異なる思想要因は伝統的社会主義への批判と目標たる「改革」の追求の過程の中においてのみ、同盟を結んだにすぎない。しかしそれでも、我々は、この社会的思潮の基本部分について不完全ではあるが共通点を帰納するという試みが依然としてできるだろう。なぜなら、相互に分岐しかつ相互に関係するこれらの思想の実践は、すべて中国近代化のプランを求め、作成することを基本任務にしているからである。こうした近代化プランの主要なテーマは経済、政治、法律等の各分野で「自主性」あるいは主体的自由を打ち立てるということであった。経済学の分野では、それは、伝統的社会主義の計画経済への批判を通じて、市場経済の正統的な地位および商品流通過程中の価値法則をあらためて確認し、さらには市場と私有制を近代的経済の普遍的な形態として理解して、最終的には中国経済を世界市場に参入させるという目標(それは経済的自由の一つとして理解されている)を実現するという主張として現れた。[x] 経済改革の思想は最初価値法則等古典派経済学(とりわけマルクス主義経済学)からインスピレーションを受けたが、古典的なマルクス主義経済学の価値法則学説の中に潜んでいた資本主義への批判はだんだんと薄れていき、価値法則のイデオロギー的側面は現実の資本主義市場の肯定に等しいものとされ、この概念が持っていた一切の独占的支配の深刻な形での暴露という働きは失われていったのである。政治の分野では、形式化が完備された法律と近代的な官僚制度の再建が要求され、報道や言論の自由の拡大を通して、人権を保障し、統治者の権力に限定を加える議会制度(それは政治的自由として解釈された)を徐々に作り上げることが要求された。[xi] しかし、毛沢東時代の群集運動への恐れから、多くの論者は政治の民主化に対する理解を「形式的民主」、とくに法制整備の側面に主に集中したのである。このことにより、「民主化」という広範な対象を持つこの社会問題は上層部による社会改革のプランの策定と専門家による法律の改定、建議の分野に限られ、広範な人々による政治参与こそが民主化にとって依然として必要な内容であるということが軽視されたばかりではなく、こうした政治参与と立法過程の積極的な相互関係がまさしく近代的な民主的変革の基本的特徴であることも完全に無視されたのである。驚くべきことに、いく人かの学者は現代の立憲政民主制度のなかに含まれている直接民主制と間接民主制の関係(どんな形であれ)を無視して、直接民主制の民主主義実践中の意義を完全に排斥しようししているのだ。はなはだしい場合には、民衆の普遍的な政治参与を専制主義の温床と見なしてさえいる。この種の「民主観」はどんな意味においてもすべて民主的精神に反しているものであろう。文化方面では、いく人かの学者は科学的精神あるいは科学主義的価値観をもって、世界史と中国史の新しい様相を打ちたてようとしており、伝統的社会主義の実践に対する批判を、これまでのすべての中国封建社会の歴史的社会構造の体系的な研究とその批判の上に打ちたてようとした。[xii] 他のいく人かの学者は哲学や文学などの領域中の主体性の概念についての議論を通じて、一方で自由と解放を求め、他方で個人主義的な社会倫理と価値基準(個人の自由と理解されている)を打ちたてようと試みた。主体性の概念には近代化の過程およびそのイデオロギーに対するある程度の疑念が含まれているものなのだが、当時の環境の中では主に個人の主体性と人類の主体性を指していたのである。前者と対立するものは専制国家とそのイデオロギーであり、後者と対立するものはすべての自然界である。この概念を提起することの積極的な意義はポスト社会主義時代における人の基本的政治権利のためにその哲学的基礎を提供することにあった。このような主体性概念は主体―客体という二元論の上に打ち立てられたもので、18〜19世紀のヨーロッパ啓蒙主義の楽観主義的な雰囲気を溢れさせていた。[xiii] 注意すべきは、個人的自主性を追求していく過程で啓蒙思想が西欧の宗教改革と古典哲学(とくにカントの学説)の中からその思想的淵源を汲み取るとともに、ニーチェやサルトルなどの思想家からもインスピレーションを得ていたことである。しかし、中国の環境の中では、ニーチェやサルトルなどの欧米的近代化への批判の側面はオミットされてしまい、彼らはただただ個人主義と反権威の象徴としてしか解釈されなかったのである。[xiv] 中国の啓蒙主義思想の内部衝突は通常は古典的自由主義倫理と急進的で極端な個人主義倫理との二元的対立として表現されている。主体性の概念は、今日においても内在的な可能性を含んでいるとしても、もし、我々がこの概念を上述の二元的対立の中から解放し、新しい歴史的条件の中にそれを置くことができなければ、この概念は潜在的な批判性の喪失した抜け殻に化してしまうおそれがある。以上のことをまとめて言うならば、新啓蒙思想が含んでいた批判性は80年代にその青春の活力を燃え上がらせたが、近代化イデオロギーの枠の中に組み入られていく過程でその批判性はだんだんと活力を失っていった。今や我々はこう言うことができる―中国の啓蒙主義者の思想の内部に多くの衝突があろうとも、また啓蒙主義者の啓蒙主義の社会的効用に対する自覚の程度がどの程度のものであろうとも、中国の啓蒙主義は中国の現在において最も影響力のある近代化イデオロギーであり、ほんの短い歴史的時期の中で激情的な批判思想から現在の中国の資本主義文化の提唱者へと転化を遂げたのであると。

 

80年代の後半に、社会統制が事実上緩んできたことから、中国の「新啓蒙主義」の内部分化がだんだんと表面化していった。1989年の世界的な変化の後、中国の「新啓蒙」運動の内的一致性はもはや存在しなくなった。中国の「新啓蒙運動」と社会主義改革との間には目標上で部分的一致性があったことから、この運動のメンバーで保守的な部分は体制内改革派となり、テクノクラートあるいは政府公認の近代化イデオロギーとしての新保守主義の理論家になった。この運動のメンバーで急進的な部分は政治上の反対派をだんだんと形成していった。その主要な特徴は自由主義的な価値観に依拠して中国における人権運動を進め、経済改革を進めるのと同時に政治の領域でも欧米型の民主化改革の実行を促そうとしたことである。文化の面では、「新啓蒙主義」の急進的な部分は(ここで急進的というのは文化面での伝統に対する態度である)社会目標としての「近代化」が価値観の危機を招く可能性(すでに招いた可能性も含めて)があるのに気付き始めた。このグループのいく人かの敏感な若い学徒はキリスト教倫理に依拠して中国の近代社会思想中の価値問題と信仰問題について新たな提起を行っている。[xv] この問題の提起はヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が中国の知識界に伝わったこととも明らかに関係がある。こうした問題提起の中で最も簡明な論理は、もし資本主義の発生と新教の倫理とに関係があるのならば、中国の近代化の実践は文化面において徹底的に変革されなければならない、というものである。一般的に言えば、80年代の中国の啓蒙知識人は普遍的に欧米式の近代化の道を信じており、その前提は抽象的個人あるいは主体性の概念と普遍主義の立場の上に立ったものだったのである。

 

しかし、啓蒙主義内の分化が発生して来た過程中において、この種の普遍主義に対する疑念ははじめて可能になった。その最初の象徴は相対主義的文化理念の登場である。私がここで指摘しているのは、90年代初期に、いく人かの啓蒙主義者がその先駆として伝統的価値、とりわけ儒教の価値を求めるようになったという事実である。彼らは欧米社会の各種の発展モデルが中国の社会と文化に適合するか否かについて懐疑を抱き始めた。こうした思想傾向は、日本および韓国、シンガポール、中国台湾、香港の所謂「アジア四小龍」の発展振りにとくに刺激され、これらの国と地区の近代化の成功を「儒教資本主義」の勝利と見なすようになったのである。しかし、「儒教資本主義」という概念は三つの基本問題を覆い隠している。第一に、それが東アジア各国の完全に異なる発展の経路と儒教文化圏内部の社会的差異や歴史的差異を覆い隠しているということである。例えば、日本、韓国、ベトナムそして中国はともに儒教文化圏に属していながら、なぜその発展の経路はかくまで異なるのだろうか。第二に、それが実際上は資本主義を唯一の近代化モデルと見なしていることである。儒教を資本主義と関連付けることを通して、この概念は儒教の伝統が近代化を妨げる歴史的負担とならず、むしろ近代化を実現する歴史的動力になることを暗示しているのである。換言すれば、この概念における儒教的価値に対する心情は伝統主義的なものではなく、また資本主義的文化の力量を圧迫するものでもない。これらの学者の視点においては、儒教の中国近代化過程における作用はすなわち、ヴェーバー言うところのプロテスタンティズムの倫理のヨーロッパ近代資本主義に対する作用に等しいものなのである。第三に、それが総体としての近代化過程と植民地主義の歴史との分かつことのできない関連を覆い隠していることである。もし、儒教資本主義をある種の規範となるまでの高みにまで祭上げてしまうと、近代の歴史形成の基本動力を覆い隠してしまうことになろう。グローバル市場およびその法則の国民国家内部に対する経済関係の制約性と規範性はその他のどんな力よりも基本的ものであろう。「儒教資本主義」は依然として一種の近代化イデオロギーなのである。欧米的価値を退けることを通して生まれたはずの「儒教資本主義」概念の帰着点は、結局、資本主義的生産様式と世界資本主義市場という欧米に源を発する歴史形態に対する徹底した肯定であり、それに文化民族主義的衣装を纏わせたものにすぎない。中国の環境においては、「儒教資本主義」と現代中国の改革的社会主義は同一の問題の両種の表現にすぎないのである。

 

「儒教資本主義」と同じように、別の学者たちは、中国の現在の経済生活中での、古来からの宗族と地縁の力の意義を極力論証しようとしている。彼らは、「コミュニティ」あるいは「集団」を特徴とする中国の郷鎮企業が中国を非資本主義的かつ非社会主義的な近代化の道へ引っ張っていくことを信じている。[xvi] 「郷鎮企業による近代化論」には重要な現実的根拠がある。地縁と血族を核心とするこの種の集団所有制の形式は多くの地方で経済的奇跡を生み出している。今までの思考を修正した中国の啓蒙主義者は郷鎮企業を一種独特の近代化モデルにしようと試みているが、それは、理論上において資本主義と社会主義の衝突を回避し、グローバルキャピタリズムの環境の中で欧米とは区別される近代化の道を探し出そうとしているためである。1993年〜1995年の間に、社会研究に従事している中国のいく人かの学者は調査を深めて顕著な成果を収めている。これらの学者の基本問題は、人民公社の解体以後農民は組織化されない完全に自由な個人になったのか否か、集団に依拠して富を得ることは再集団化に等しいのか否か、個人経営経済の発展は私有化の開始を意味しているのか否か、市場経済の発展があっても人民公社の三級合作組織は依然として存在しているのか否か、それらの組織にどんな変化があったのか、農村社会の各種組織の間には無秩序な発展状態があるのか、それとも秩序のある統合状態があるのか、農村社会の組織の整合にはどんな特徴があるのか、などである。調査の深化によって、研究者は、公社の解体後、集団と個人の関係の変化、農民個人と社会化された農業生産との関係、農村組織と農村組織との連係関係の変革を詳細に分析して描写している。そして農村の社会発展における地域化の趨勢をスケッチして、「新集団主義」の概念を提起した。研究者たちの見方によると、新集団主義の組織化方法は近代市場経済の競争原則を体現しているとともに、現行の社会制度および共同の富裕化という目標にも合致しており、伝統的な家族文化の精髄を継承して、中国の「コミュニティ社会」という本質を体現しているわけで、中国的特色を持つ社会発展の道を本当の意味で体現しているものである。[xvii] 郷鎮企業による近代化理論と新集団主義の観念は公社制時代の歴史的教訓を忘れておらず、この理論による「集団」所有制に対する研究も、新しい「集団」所有と中国社会主義の歴史的実践中の集団主義とを厳格に区別している。その中で最も重要な区別は明らかに「個人利益」の強調、すなわち「新集団」の基礎が個人利益を基礎とした自発的な協力の産物であるということである。集団と個人は共同利益と地縁・郷土人意識で結ばれており、「協力」自身の目的は「市場経済の情勢に適応するため」で、より効率的に経済利益を獲得することを目的としたものである。

 

郷鎮企業による近代化理論と新集団主義理論の提起はともに、グローバルキャピタリズムという歴史的状況の中で理論の刷新と制度の新たな創造を進めようという努力を意味している。「集団」、「協力」、「地縁」、「郷土意識」などの概念の再使用は、社会的生産・分配過程中の「公平」あるいは「平等」などの問題を明らかに強調しているものである。「新集団主義」の理論的視野の中では、中国農民は、伝統に復帰しているように見えながら、農村という何世紀にもわたって閉鎖されていた領域を飛び出し、農村工業の急速な発展と近代的企業制度の迅速な開発を主要な手段として、はじめて市場を発展させ、都市化(国家投資によらない都市建設)を促進して中国経済改革を深化させる重要な推進力と都市での国有企業改革のための安定した後方基地を生み出した。そして、これは、中国農民がはじめて経済改革をリードし中国を近代化へと推進させた動きであると、評価されているのである。[xviii] しかし、郷鎮企業による近代化理論と「新集団主義」のケーススタディはすべて個別のケースを普遍化し理想化するという明らかな傾向を帯びている。この種の理論は「非西欧型の近代化の道」を早急に提出しようと試みたため、かえって近代理論と同様に近代化を中立的な技術化の指標として解釈してしまった。この理論が見落としたものは、郷鎮企業の生産様式と全体としての資本主義的国内市場および国際市場との関係であり、郷鎮企業と市場化を極力目指すという国家目標との関係である。技術上から見ると、郷鎮企業による近代化理論と「新集団主義」理論は郷鎮企業を一種独特の近代的生産・社会組織モデルとして描こうと試みており、郷鎮企業と農村組織が中国の各地区により極めて異なる発展方法となっていることに注意をあまり払っていない。[xix] そしてまた、「効率」の追求を主要目的とする郷鎮企業の資源と環境の破壊、労働者保護の軽視などの方面における「近代化のつけ」をもはなはだしく見落としているのである。

 

「郷鎮企業による近代化理論」は郷鎮企業に対する理想化された描写とその生産関係内部における内在的矛盾に対する軽視によって、啓蒙主義の伝統的社会に対する批判をアウフヘーベンし、私有制に基づく資本主義を社会主義的公有制に代替する唯一の方式と見なさなさないで、近代化の第三の道を掘り当てたかのようである。郷鎮企業の実践から出発して中国の近代化問題を理解するということは確かに重要視するべきものであろう。しかし、この理論は中国経済が世界資本主義市場の中の活発な部分であることを完全に無視しており、同時に近代性というものを中立的な技術的指標として捉えている。これにより、この理論は近代性あるいは近代自身が孕む問題に対して相応の診断を下すことができなくなっているのである。我々はこう問うてよいだろう。一種独特の社会モデルとしての郷鎮企業が市場に参入した後の活動もはたして独特のものになるのだろうかと。郷鎮企業内部の特色をもってグローバルキャピタリズムに対抗していくという予言は理解できるものであり、この理論は確かに文化と統計的数字を利用して中国近代化の道の独自性を啓発した。しかし、この理論の創始者は当人言うところの独自性が(私はこの独自性の存在を否認するものではない。ただし、それは、私が中国と日本あるいはアメリカとイギリスの間の差を否認しないと同様のことである)、現在においてはグローバルキャピタリズムという市場関係の上にしか存立し得ないことを忘れているのである。この理論は「中国的特色を持つ近代化理論」の一つでしかなく、その全体としての論証は結局近代化という目的論の枠内に存立しているのである。最近の数年間の社会の発展の中で、江蘇、浙江、広東などを含む多くの地区では郷鎮企業の構造に変化がまさに生じている。それは一方で集団企業の私有化として現れ、他方では合弁化、すなわち多国籍資本と結びついた新たな経済体制として現れている。よって、郷鎮企業が結局は一種の近代化の道なのかあるいは一種の近代化モデルなのかは、依然として継続して観察する必要がある。さらに言えば、私の見方では、郷鎮企業の形式は中国の近代化、とくにその工業化の道を、欧米およびその他の国との比較において重要な区別を与えるものとなっている。これを根拠として提起された「郷鎮企業による近代化理論」はその意味において、その批判の主要な矛先は欧米資本主義を唯一のモデルとする見方であり、こうした理論の提起は重要な理論的実践的意義を持つものである。しかし、この理論は依然として効率を基準とするものであり、この理論が言及していないものは、郷鎮企業の生産と分配の制度が経済上の民主主義を拡大できるか否か、郷鎮企業の文化が政治的民主主義やその制度形式の保障を形成するのに有利か否か、郷鎮企業の生産方式が自然の生態系に対してそれを保護する作用を果たすのか否か、郷鎮企業の組織方式が社会的政治参与能力に対して有利に働くか否か、郷鎮企業がグローバルキャピタリズムの状況下で経済的平等(国内と国際の)のために制度的倫理的基礎を創造できるのか否か、などの論点である。よって、この理論の批判性はかなりの制限を受けざるを得ない。換言すれば、郷鎮企業による近代化理論は、郷鎮企業の経済的構造と運動法則の中から近代の社会経済と政治過程に対する批判の源泉を有していないのである。

 

80年代の啓蒙思潮はかつて中国の社会改革に大きな解放の力量を提供した。そして、かつてそうであったように、現在でも依然として中国の知識界の主要な思想傾向である。しかし、急激に変遷する歴史の環境の中では、かつて中国で最も活力があった思想の源泉である啓蒙主義は日ごとに曖昧な状態に置かれるようになってきており、現在の中国の社会問題に対する批判と診断の能力をだんだんと喪失してきたのである。このことは、中国の新啓蒙主義の提出した諸命題がすでに完全に意義を持たなくなったことを意味していないし、私は80年代の思想運動がすでにその目的を果たしたとも言っていない。私の言いたいことは、中国の啓蒙主義が直面していたものは一つの資本主義化された社会であること、すなわち、市場経済が日ごとに主要な経済形態となっていき、中国の社会主義経済改革が中国をグローバルキャピタリズムの生産関係の中に連れ込んでいったこと、それにともない、国家とその役割にも徹底的ではないけれど相応の変化、しかし重要な変化が発生したということである。資本主義的生産関係は自身の代弁者をすでに生み出し、啓蒙知識人は価値の創造者として深刻な挑戦を受けた。さらに重要なことは、啓蒙知識人が一方で、商業化が金銭至上主義、道徳の腐敗、社会的無秩序を生むのを極力避けようとしながらも、他方では自身が目標としていた近代化の過程の中にすでに身を置いていることを承認せざるを得ないという矛盾があるのだ。中国の近代化あるいは資本主義市場化は啓蒙主義をそのイデオロギー的基礎と文化的先駆としている。まさにこのことにより、啓蒙主義の抽象的な主体性概念と人間の自由解放という命題は、毛沢東的社会主義の批判を試みた時には、巨大な歴史的積極性を顕示したが、資本主義市場と近代化過程自身の生んだ社会危機に面した時には、かくも無力になってしまったのである。啓蒙主義の姿勢を堅持している、いく人かの人文系の学者は現実の資本主義化過程が生み出した社会問題を抽象的な「ヒューマニズム精神の失墜」に帰結させている。[xx] 彼らはあらためて欧米と中国の古典哲学へと向かい、究極的的関心対象と倫理規範を探し求め、この問題の解決を最終的には安身立命を目的とする個人的な道徳の実践に求めた。このような環境の中では、啓蒙主義は一種の神聖この上ない道徳的姿勢(啓蒙主義は、かつては反道徳性が特徴だったのだが)にほぼ等しいものにすぎなくなり、その抽象的で曖昧さを含むカテゴリーは、いたるところに存在する資本の活動と真実そのものの経済関係に対して分析をなすには、まったく無力なものと化した。ゆえに、すでにグローバルキャピタリズムの一部分となっている中国の近代化問題に対して診断と批判をなす能力を喪失してしまったわけである。さらに重要なことは、何がいわゆる「ヒューマニズム精神」なのか、そして、それが失墜したとしたら、どんな力がその失墜を引き起こしたのかということである。啓蒙主義の思想家はかつて、「合理化」過程が自然に対する支配をもたらすだけではなく、人間の主体的な自由、道徳、公共心の進歩と人類の幸福も促すと高望みしていた。しかし、このような信念は現在深刻な疑問に直面しているのである。ゆえに、我々が「ヒューマニズム精神の失墜」を議論しようとするならば、この失墜と中国「啓蒙主義」が目指していた近代化運動の歴史との関連を明らかにしなければならない。この「ヒューマニズム精神」に関する議論は1994年から開始され一年以上にわたって続けられ、参加者も多数に上ったが、以下のような問題に触れることはなかった。すなわち、いわゆる「ヒューマニズム精神」が80年代の知識人の思想運動と直接関連があるという話ならば、1989年以後の急激な社会の変遷が独特のグループである「知識人」集団をいかに瓦解させたかという問題である。この中国「知識人」の社会的身分を変えた社会的変遷は以下のような過程を包括している。すなわち、近代社会は日ごとに分業が細分化していく過程であり、近代的企業や会社内部では階層制が発達し、国家体制の内部では官僚のテクノクラート化が進行し、また、それにともなって社会価値の転移が生まれるという過程である。元来の「知識人」階層は現在専門家、学者、マネジメントスタッフ、テクノクラートに分化しつつあり、かつ中国社会が日ごとに発展させている階層制度の中に組み入れられているのである。現在の「知識人」の変化をある種の「精神」の失墜に帰結させることは、「知識人」階層に変化を生じさせた社会的条件の問題を回避することに等しい。そうした誤りの根源は「啓蒙主義」知識人がこうした社会過程に対し極めて曖昧かつ矛盾した態度を取っていたことなのである。

 

中国のいわゆる「ポスト・モダン派」はまさにこの曖昧さを利用して、欧米のポスト・モダン思想を直接中国の「啓蒙主義」批判の武器にしている。もっとも、中国の「ポスト・モダン思想」は中国の「啓蒙主義」よりもずっと曖昧なものなのだが。私はここでは中国の「ポスト・モダン」について全面的に分析することはできない。なぜなら、この思潮の中には各種の要素と複雑性を含んでいるからである。私がここで分析しようとするのは、主に「ポスト・モダン」のいく人かの代表人物の文章である。「中国的ポスト・モダン思想」は欧米、とりわけアメリカのポスト・モダン派の影響を受けて生まれたものであるが、その理論の範囲も歴史的範囲も極度にいろいろな色彩に彩られている。私はこの「中国的ポスト・モダン思想」も近代化イデオロギーを補充するものとして見て取っている。「中国的ポスト・モダン思想」の主要な理論的源流は脱―構築主義、第三世界理論、ポスト・コロニアリズムである。しかし、「中国的ポスト・モダン思想」は従来から中国の近代性の問題について歴史的分析をなしたことはないし、中国の近代文化と欧米の近代文化との関係について精緻な分析を行った中国の「ポスト・モダン思想」の信奉者も一人として見られない。文学の分野では、彼らが脱―構築の対象としている歴史対象は啓蒙主義がかつて試みた歴史批判と同様で、ともに中国の近代革命およびその歴史的理由である。やや異なるところは、彼らが啓蒙主義の主体性概念に嘲笑を加えているところであるが、その中国啓蒙主義の主体性概念を特定の歴史的環境に置いて分析するということはいまだ見られないのである。「中国的ポスト・モダン派」が「啓蒙主義」の歴史的姿態を嘲笑している時、彼らは、「啓蒙主義」が商業化されたマスメディアの支配する、消費主義的「ポスト・モダン」社会にすでに身を置いていることを理由として、一つの歴史過程かつ社会運動としての「啓蒙主義」がいかに時代にマッチしていないかを述べているにすぎない。ポストコロニアリズムは欧米(主にアメリカ)の文化制度内部の自己批判と見てよいだろう。それは、周辺文化の立場から欧米中心主義文化の所作を批判するものであり(ポストコロニアリズム理論自身の議論は本稿の任務ではないが)、植民地主義の文化と知識の領域における現れを暴露したものである。その中には欧米の国民国家理論が植民地の人民によって宗主国への抵抗に用いられたという複雑な過程も含まれている。「中国的ポスト・モダン派」の文化批評の中では、ポストコロニアリズム理論はしばしば、かえって一種の民族主義的な言辞に等しいものとして扱われており、中国の近代性をめぐる議論の場では、かの「中国/欧米」という二元論の図式を強める役割を果たしているのである。例えば、周辺の立場から漢民族中心主義に対する分析をした中国のポストコロニアリズムの理論家は一人としていない。しかし、ポストコロニアリズム理論の論理にしたがうと、当然あって然るべき議論のはずなのである。皮肉にも、いく人かのポスト・モダン派はポスト・モダンの理論を利用して欧米中心主義に批判を加えているが、論証している当のものは中国が再び世界の中心となる可能性と彼らのいわゆる「中華性」の再建なのである。中国のいわゆるポスト・モダン派の中華性に将来性があるという予見は、資本主義の中心に生まれ変わった新中国と自己の文化、欧米文化との関係に触れないばかりか、伝統主義者の21世紀についての予言と期待にも完全に一致しているのである。[xxi] このことはけっして驚くべきことではない。

 

中国的ポスト・モダン派のもう一つの特徴は、大衆文化の名義で欲望の生産と再生産という虚構を人々が需要しているものとし、実際は市場化過程の中で資本の支配を受けている社会形態を中性的でイデオロギーの支配を受けない「ニュースタイル」としているところである。[xxii] この種の理論的分析の中には、大衆文化内部の階層差や分野における違いに対する調査や分析が欠落しているばかりではなく、商業化あるいは消費主義のイデオロギーに対する相応の解明や批判もないのである。彼らが中性化された欲望、状態、人々、大衆文化などの名義で自分たちが所属する知識人のグループに攻撃を進めた時、消費主義をその主要な内容とする市場主義のイデオロギーは、彼らのポスト・モダン理論を通じて合法化された。「中国的ポスト・モダン派」が否定したものは「新啓蒙主義」の厳粛な社会・政治批判であったが、彼らは一切の価値を脱―構築したようであるが、同時に、現代生活を構成する主要な特徴である資本の活動に対しては何らの分析もしなかったし、この資本の活動と中国の社会主義改革運動との関係についても評価を下していないのである。彼らのしばしば言う「公認のあるいは主流の文化と大衆文化」という二元対立図式の中には、この両者の資本の活動を通じた複雑な関係は見られない。このことはまさに現代中国の社会文化の特徴の一つであるにもかかわらず。事実上、中国的ポスト・モダン派はその希望をまさに「市場化」に託しているのである。「『市場化』は『他者化』という憂慮すべき事態の低減と民族文化の自己定位の新しい可能性を意味している」「市場化の結果によって、必然的に古い『偉大なる叙事詩』が生み出したアンバランスな状態が克服され、このアンバランスが生み出した社会的震撼と文化の失墜も清算される可能性がある」「そして、新しい選択の可能性、民族としての自己認識と自己発見の新しい道をも提供している」[xxiii] ここでのいわゆる「市場化」は一般的な意味での市場への賛同ではなく、総体の社会の運動法則が市場の軌道に乗ることを意味している。このゆえ、「市場化」は経済学的カテゴリーのひとつではなく、政治、社会、文化そして経済的カテゴリーなのである。90年代の歴史的環境の中では、中国の消費主義文化の興隆は単なる経済的な事件ではなく、政治的な事件でもあるのだ。なぜなら、この消費主義文化の大衆の日常生活への浸透は支配的イデオロギーの再建過程を完成させたからである。この過程の中で、大衆文化と公認のイデオロギーは相互に浸透し中国の現在のイデオロギーにおける主導的地位を占めるに至り、その反面、排斥され喜劇化されたのは知識人の批判的イデオロギーであった。いく人かのポスト・モダン派が採用したアカデミックな批評方法の中に隠されているものは、彼らの文化政治上の策略である。すなわち、大衆文化(虚構の人々の欲望と文化の市場化形態)を擁護しエリート文化を排斥するという形で、再び中心課題―中国的特色を持つ社会主義市場へと回帰していくという策略である。中国的ポスト・モダン派の文化批評の一部分はすでに中国内部の独特な市場イデオロギーを構成する有効な部分になっているのである。

 

現代の中国の情況では、思想界や知識界の以上のような問題に対する回答は極めて無力なものである。しかし、中国から欧米に留学した、いく人かの学者とその中国在住の協力者は分析的マルクス主義などの欧米の理論を借用して問題を提起している。彼らの近代中国の歴史に対する把握は多くの学者に不満を感じさせているが、私はこれらの若い学者たちの問題意識は先鋭的なものを持っているものと思う。思想の方法上、これらの若い学者たちも、中国/欧米という枠内で中国の問題を議論した啓蒙主義者の思想方法を一定程度乗り越えている。彼らが考慮している問題は冷戦の終結と密接な関係がある。その主要な出発点は、冷戦時代の古い概念やカテゴリーは中国と世界の求めているものをもはや満足させることはできず、時代が制度と理論の革新を呼び寄せているという観点である。彼らの代表者は「新進化論」、「分析的マルクス主義」、「批判法学」の中からいくつかの有益な啓発を汲み取った後、中国の深く厚い土壌を基礎として、中国にすでに出現してきた制度と理論の革新の萌芽を大きく育て上げようとしている。いわゆる「新進化論」の提唱するものは、伝統的な「社会主義/資本主義」の二分法を乗り越え、中国社会主義経済制度中に保存されてきた要素、例えば郷鎮企業や農村組織の形式に対して制度革新を進め、発展を目指そうというものである。John Roemer Adam Przeworski などのアメリカの学者が提起した「分析的マルクス主義」を中国に導入する目的は、マルクスの学説を厳密に解説することによって、現代の条件下で人類の全面的解放と個人の全面的な発展という理想を実現させることにある。その最も核心になる思想は、社会主義の理想は以前から、少数の経済、政治上のエリートによる社会資源の支配を広大な人民による「経済的民主主義」に代えることであるというものである。事実上、この理論の提起がその矛先を直接向けているのはロシアで実行され、中国で進行中の国有資産の株式会社化や私有化運動である。ゆえに、彼らの観点はまさしく、政治的民主主義が公有資産の少数者による「自発的私有化」を許さないための必要条件になり、もし、「資本主義的民主主義」が「資本」と「民主主義」の妥協であるならば、社会主義は経済、政治双方の民主主義の実現と同義になるというものである。「批判法学」の重要な理論的成果は、欧米の18世紀以来の民法の最核心の内容―財産権の絶対性、すなわち財産の「最終所有者」の財産に対する排他的な処分権―がすでに解体していることを明らかにしたところにある。この理論の中国の環境における意義も、いかに経済的民主主義を拡大して大規模な私有化運動を抑制していくかに関連している。彼ら自身の観点から言えば、それは、概念上において「私有制/国有製」の二分法を乗り越えて、その注目点を「財産権の束縛からの分離」と経済的民主主義の拡大を通じて、いかに生命と自由の権利を財産権よりさらに重要な憲法上の地位に引き上げるかに移しているものなのである。まとめて言えば、「新進化論」「分析的マルクス主義」「批判法学」を理論的基礎とする中国の学者は、経済的民主主義と政治的民主主義を指導思想として、あれでなければこれという二分法を乗り越え、各種制度の革新の機会を求めているのである。[xxiv]

 

社会主義あるいは資本主義という概念を引き続き使用するか否かは重要ではない。現在の中国社会が面している問題も明らかに資本主義あるいは社会主義という概念を用いて簡単に解釈できるものではない。要点は現在の中国社会が面している社会問題に本当に接しえるか否か、具体的な情況の中で意味のある分析ができるか否かにかかっているだけなのだ。中国において新マルクス主義が出現したことは、アメリカの大学における経済学、社会学、法学中のマルクス主義的な思潮と深い関連があるわけだが、これもまた、いわゆるグローバリゼーション化という条件のもとでの「理論の国際化」と見なすことができるだろう。しかし、この種の研究における欠陥の一つは、歴史的な具体的過程を軽視して生まれた欧米の理論を安易に運用したほかに、彼らがその注意を経済領域のみに集中し[xxv] 文化の領域にほとんど触れていないということが挙げられるだろう。中国の新マルクス主義がすでに経済民主主義の問題をすでに提起したと言うのならば、文化における民主主義の問題を提起してもいないし、議論もしていないとは言えるのである。市場メカニズムの支配という条件下で、文化分野の資本の運動は総体としての社会活動の重要な分野である。文化分野の資本に対するコントロールとマスメディアの掌握は社会の基本的な文化傾向と主流のイデオロギーの方向を決定付ける。例えば、現在の最も重要なメディアはテレビであるが、国のメディアに対するコントロールのほかに、中国のドラマ制作は市場化しつつもある。それでは、大衆文化と国との間に形成されたこの種の関係が文化における民主主義の内在的機構を提供するのだろうか。多くの知識人は、「市場化」が自然に中国社会における民主主義の問題を解決できると、楽観的に認識しているが、それは、実際は天真爛漫な幻想であろう。メディアと大衆文化がすでに相当発達している中国の現在の情況において、とりわけ中国の文化の生産と国際・国内の資本の活動が密接に関連しているこの時代において、文化の生産と文化分野の資本に対する分析を放棄することは、中国の現在の社会と文化の複雑性を本当に理解することにはならない。新マルクス主義はとくに経済的民主主義に注目しているが、文化における民主主義については基本的にほとんど触れていない。これもまた、中国の近代化という目標と近代化理論が彼らに与えた影響を少なからず示している。中国の環境においては、国家機構と市場の関係は錯綜して複雑である。文化の生産は一方で国家機構のコントロールを受けるとともに、もう一方では資本と市場の活動の制約を受けている。しかし、経済と市場自身は従来から国家の領域から独立しているわけではない。現在の条件のもとにおいては、文化の生産は全社会の再生産の一部分なのである。よって、文化問題に対する分析のためには、マルクスの「土台」と「上部構造」という二分法を乗り越える必要があり、文化を全社会の生産と消費過程の有機的部分として捉える必要があるのである。言い換えれば、中国の学者にとっては、文化批判は一方で社会・政治・経済過程の分析と関連付けられなければならないし、他方では方法論上、文化の分析と政治経済の分析の結合点を見つけ出さなければならないわけである。この分野では、系統的な理論と観点を提出している学者はごく少ない。なぜなら、本当の理論を創造しようとするには大量の経験分析と歴史研究が必要であり、とくに後者についての業績は依然として相当不足しているからである。しかし、以上のことは最も基本的な結論を導き出すことを妨げない。すなわち、経済的民主主義を実現すること、政治的民主主義を実現することそして文化における民主主義を実現することは同じ一つの闘争であるという結論である。

 

中国社会にとっては、経済的民主主義についての議論が対象とするものは全社会の分配制度と生産様式である。したがって、この議論は政治的民主主義にその話題が及ぶのは避けることができない。この意味において、経済的民主主義と文化における民主主義についての議論は政治的民主主義の議論に実質的な内容を提供する。90年代以来、政治的民主主義に関する議論は明らかに少なくなってきた。これはこの話題が依然としてタブーだからである。この他にも、冷戦終結後の情況の中で現実の歴史目標に見合う民主と統制の境目をいかに確定するかも考えるべき問題になった。政治的民主主義は社会的実践目標だけであるだけではなく、文化への反省と歴史への反省の課題でもあるのだ。政治的民主主義に対する解釈は一方では異なる文化価値観の制限を受け、他方では国際的な経済・政治関係とも密接に関連している。中国独特の市場社会の形態においては、経済的民主主義や文化における民主主義から切り離された政治的民主主義の問題は存在しないし、政治的民主主義や文化における民主主義から切り離された経済的民主主義の問題も存在しない。ゆえに、我々は一方で、民主主義の問題は90年代になって新しい社会的内容を増やしてきたと言えるし、他方で経済的民主主義を議論する際、政治的民主主義の問題を回避することはできないとも言えるのである。

 

中国における民主主義についての議論は個人の自主性と政治参与能力をいかに保障するかに集中している。中国の知識界のこの問題に対する思考は二つの異なるがまた相互に関連もする分野で展開されてきた。一つの分野は経済上の自由主義についての論述である。私有化運動と郷鎮企業の発展および中国での多国籍資本の存在により、中国社会の経済構造はかなり複雑になっている。しかし、多くの経済学者は、依然として市場とその活動が一種の「自然過程」として自然に民主主義の実現に導くと信じている。彼らは「市場の論理とは個人の権利たる自由な取引であり」「国家という観念は公共権力という強制力である」「前者は個人の自由権の確立とその保障のための基礎であり、後者は公共選択の結果を前提とする」ゆえに、市場自身の発展は個人の充分な自由権をまさに保障するものであると言うのである。[xxvi] こうした経済的自由主義の論述中では、個人の権利は市場の論理を通じて保障され、市場は国家と複雑な関係にあるものの、その性質上国家権力の過度の拡張に制限を加えるものになるとされる。我々は、こうした理想主義的な叙述がその矛先を向けているものは国家の市場と社会に対する干渉であることは理解できるが、しかし、国家は完全に市場の外にある存在であるばかりでなく、個人に直接対立しているものなのでもある。そうすると、我々はどんなカテゴリーをもって市場内部の支配力を叙述すればよいのか。経済的自由主義の論述は中国の市場が国の改革計画との関係を形成していることを覆い隠し、一種の自然カテゴリーとしての「市場」概念を作り上げ、そのために市場関係内部の支配と被支配の権力関係の分析を喪失してしまったのである。こうした権力関係は社会の腐敗の主要な根源であるばかりでなく、社会資源の不平等な分配の基本前提でもあるのだ。計画/市場という二元論の中では「市場」概念は「自由」の源泉であると仮定されている。しかし、この概念は市場と市場社会の区別を曖昧にさせているのだ。市場が透明な価値法則が作用する交換の場所と言うのなら、市場社会は市場法則によって政治、文化および我々の一切の生活領域を支配することを要求していると言わなければならない。市場社会の運動は独占的な上部構造と切り離して考えることはできないのである。まさにこの意味で、「市場」概念は近代社会の不平等な関係および権力構造を覆い隠すものなのである。まさに、ウォーラスティンがブルデューの貢献を総括した時、「もし政治による保障がなければだれも永遠に経済を支配できない・・・・・国家の後ろ盾がなかったり、ましてや国家に対抗していたりするという状況下で、一人の(ブルデューの定義における)資本家になるということは実にばかげた考え方である」と指摘したとおりである。[xxvii] もし、国家が資本主義の運動の構成要素であるならば、現在の中国の知識界を支配している想像上の経済的自由はあらためて定義し直すべきではないだろうか。国家の経済に対する干渉の程度をもって経済と政治における民主主義の問題を解釈することは、結局誰が国家の行為の受益者であるべきかをあらためて論証することに等しいのではないだろうか。

 

二番目の分野は市民社会と公共領域についての議論である。ますます多くの人が、市場が国家の外にある一切ではなく、市場/国家という関係の中では「社会」という媒介の力が必要であり、それによってこそ力のバランスが保たれるということに注意するようになった。ハバーマスなどの影響のもと、多くの人がその注意力を市民社会と公共領域のカテゴリーに転ずるようになった。彼らは、中国社会に市民社会が出現しつつあることを認識したり、あるいは、中国で欧米流の市民社会が形成されることを望んだりしている。この市民社会の役割は個人の権利を保障し、国家権力による過度の干渉に抵抗することである。もし、この議論を規範的な方法で政治的民主主義を求めるものと見なすならば、我々は理解かつ同調し、また一定程度こうした議論を支持できよう。しかし、もし、こうした規範的な研究を具体的、現実的な進路あるいは経験と見なすならば、こうした理論は自己矛盾に陥ってしまうだろう。中国における市場化改革は首尾一貫として国家という強大な存在と関連しているからだ。国家の推進によって形成されたいわゆる「市民社会」が、多くの人が期待しているような社会/国家という両極構造の中に位置付けられるとは疑わしい。[xxviii]  例えば、多くの政治エリートおよび彼らの子弟が直接経済に関与したり、大会社や企業の代理人になったりしている。彼らが「市民社会」の代表者であると言うことができようか。このことは、中国では経済エリートと政治エリートが合して二にして一となる社会構造がすでに出現していることを表明している。しかも、彼らはまた国際的な経済活動にも直接に関与しているのだ。中国で暴露されている一連の重大な腐敗や醜聞は、すべて高級官僚あるいはその子弟が国内・国際の経済活動中に行った不法行為なのである。さらに重要なことは、こうした議論が「社会」の役割により注目して、社会というカテゴリーに対立するものとしての「国家」カテゴリーが究極的にどんな意味を持っているのかをあまり分析していないということである。それは動かしがたいものとして「社会」の外あるいは上に位置しているのか、それとも「社会」と相互浸透しているのか。「国家」の内部は特定の空間を包摂しているか。この空間は特定の条件下ではある種の批判的空間と称する可能性はあるのかないのか。以上のことが問題なのだ。

 

この問題はまた社会と政治における批判的空間をいかに形成するかと言う問題にも関わってくる。このことについて、いく人かの学者はその注意力を文化生産の分野に転じている。例えば、メディア・印刷文化である。なぜならば、この分野においては、中国では「民間」刊行物、「独立した」プロデューサーおよびその文化作品が出現しつつあるからである。1989年以後、『学人』(編集者 陳平原、王守常、汪暉)叢刊に始まって、一連の「非政府系の」学術刊行物がだんだんと出現してきた。例えば、『中国社会科学季刊』(編集者 ケ正来)、『原道』(編集者 陳明)[xxix] 、『公共論叢』(編集者 劉軍寧、王焱、賀衛方)などである。同時に一連の政府系と非政府系の中間にある刊行物も出現してきた。例えば、『戦略与管理』(編集者 秦朝英、業務編集者 楊平、李書磊)[xxx] 『東方』(編集者 鐘肺璋、副編集者 朱正琳)[xxxi] などである。中央テレビ局の専門番組『東方時空』もテレビ局の招聘を受けた民間のプロデューサーが参与して制作したものである。これらの一連の動きは新しい文化の光景を確実にもたらしている。しかし、「民間出版物」について言えば、ここには特別注意すべき点が二点ある。第一に、「非政府系」の出版物であっても政府系の出版社によって出版されていることである。なぜならば、中国の体制においては民間の出版社というものは存在しないからである。第二に、これらの「民間出版物」はすべて正式の刊号がない(いわゆる本の形での刊行である)。よって、これらの出版物は合法と非合法の間に位置している。さらに重要なことは、体制内部の空間にあり保護を受けられるということから、正式な刊行物(あるいは政府系の刊行物)は民間の出版物よりかえって大胆な批判的意見を発表できるということがある。現在の中国でその影響が最大と言ってよい刊行物の『読書』を例にとると、この雑誌は中国の思想解放の象徴とされている。しかし、中国の知識人に広く歓迎されているこの雑誌は「民間の出版物」ではなく、国家出版社の出版で、報道出版部に直属している刊行物なのである。これらの文化生産物は中国の社会文化空間を開拓するのに広い意義を持っている。しかし、これらの空間は国家と社会の間の空間でもあり国家内部の空間でもあるのだ。したがって、国家による政治的干渉を拒否しうる本当の力を持つものではない。『東方時空』のようなテレビの専門的番組は、独立したプロデューサー、国のイデオロギー機関、巨額な広告収入の三者が共同で作成している番組である。民間の力の参与により、その映像やキャスターの性格は政府系の報道番組の平板さとは大いに異なり、一定程度、以前の番組では触れられなかった社会内容にも触れている。しかし同時に、この番組は政府のイデオロギーを宣伝し製造するという任務も担っており、国の厳格なコントロールのもとにあるのである。中国の「公共空間」はこの意味では国家と社会の間を媒介する調整力ではなく、国家内部の空間と社会の相互浸透の結果なのである。

 

90年代以降、アメリカ、台湾、香港、中国で多くの学者がハバーマスの公共領域理論を中国の問題の探求に導入した。ハバーマスの理論にしたがって言えば、早期の自由主義の公共領域は市民社会と密接な関係にあった。それは社会と国家の間に介在して二者に対して監督を実施し評価を与えた。ハバーマスの構築したものは一種の規範的な理念型であるが、彼が特に注意したものはこの理念型の近代の歴史の中での変形と転換であった。これがすなわち彼が言うところの公共領域の「再封建化」である。すなわち、メディアやその他の公共領域が国家、政党、市場に左右される状況である。この理論の基本的論理にしたがうと、我々は、まず大陸の公共空間が市民社会我成熟していないという前提のもとで形成され、多くの状況下では国家体制の内部にそれが存在することすらあると推論することができよう。しかし、それが国家体制内部に存在できるのは、一方では国際・国内市場の経済的援助があるためであり、もう一方では国家的利益の要求と国家内部の空間形成があるためである。よって、この公共空間の形成はハバーマスの描いたような早期ブルジョアジーの公共領域をいまだかつて現したことはなく、メディアの社会体制での地位は、中国の公共空間とハバーマスの描いたヨーロッパの公共領域の差を説明しているばかりではなく、メディアがこうした環境の中では従来から自由討論と世論形成の領域ではなく各種の支配力が角逐する場所であることを表している。この意味において、社会/国家の現在の中国における複雑な関係はあらためて研究される必要があるのだ。この複雑で入り組んだ関係の中では、市場にせよ「社会」にせよ国家の過度な干渉には抵抗できないのである。以上のことは、経済的民主主義の問題・文化における民主主義の問題が政治的民主主義の問題と直接関係して切り離されない問題であることを表している。そして同時に、市場を通じて自然に国内・国際領域中の公平、正義、民主主義が達成されるという考えは一種の別のユートピアにも過ぎないことを表しているのである。[xxxii] 

 

中国の現在の思想の最新段階を告げるものは「新啓蒙主義」思潮の歴史的失墜である。しかし、我々は、これは近代化イデオロギーとしての社会主義と「啓蒙主義」の歴史的勝利であると言い換えることもできるのである。まさにこの相互に衝突する二つの思想は共同で中国の近代化のために合理性と合法性を提供し、中国社会のために、グローバル市場とグローバルシステムへと向かう道を切り開いた。多国籍資本主義の時代にもかかわらず、「新啓蒙主義」による批判の視野は国民国家内部の社会・政治のこと、とくに国家の行為に限定されていた。国家内部の問題に対しては、それは、国家による専制への批判から資本主義市場形成過程中の国家−社会の複雑な関係の分析へと、タイミングよくその視点を移動することができず、よって、市場という条件下の国家行為の変化を深く分析することはできなかった。対外的な問題に対しては、中国の問題がすでに世界資本主義市場の中の問題にもなっていること、したがって、中国の問題に対して診断を下す際には同時に日ごとにグローバル化していく資本主義およびその問題に対しても診断を下さなければならないこと、さらに、欧米の状況をそのまま引用して、中国の社会・政治・文化を批判する際のよりどころとすることができないことなどを充分に理解することができなかったのである。中国啓蒙主義の主張は、国民国家による近代化という基本的目標の上に建てられていたわけであるが、この目標はヨーロッパをその起源とし現在では世界に広がっている資本主義の発展過程が生み出したものである。中国の新啓蒙主義が面した新しい問題は、いかにもともとの目標を乗り越えて、グローバルキャピタリズム時代における中国の近代性に対して診断と批判を下すかというはずだったのである。新啓蒙主義の思潮の歴史的な衰退の後、我々が見るものは、思想の廃墟であり、そして、この廃墟の上に屹立する国家を超える巨大な資本主義市場である。さらに、啓蒙思想の批判対象であった国家行為はかなりの程度この巨大市場にコントロールされてすらいるのである。20世紀が終わりを告げようしていた時、ある人物は、すでに歴史は終結したと言っているのである。

 

21世紀に面して:グローバルキャピタリズム時代の批判思想

 

20世紀末期の最も重要な事件は東欧社会主義の失敗と中国がグローバル市場に向けての「社会主義改革」を進めたということである。これらのすべてはイデオロギー対立をその特徴とする冷戦時代を終結させた。こうした歴史の転換点に立って、多くの学者は21世紀に対して、ある者は悲観的なまたある者は楽観的な予言をしている。例えば、21世紀は新しい産業革命の時代であるとか、人口と生態問題を解決する時代であるとか、文芸と宗教の復興の時代であるとか、経済の中心が太平洋圏に移る時代であるとか・・・・である。ハーフォード大学教授、サミュエルP.ハンチントンは『文明の衝突』と題する論文の中で、新世紀で首位を占める衝突はもはやイデオロギーや経済上の衝突ではなくて、人類の中での大きな分かれ目や主要な衝突の根源は文化的なものであり、国民国家は世界の動きの中で依然として最有力の行動者ではあるが、グローバルな政治における主要な衝突は異なる文明の民族と国家グループの間に発生し、文明の衝突はグローバルな政治の焦点となるだろうと、断言している。

 

私はここでハンチントンやその他の学者の予測に対して理論的分析や質疑を出す準備ができないが、(すでにある学者がこのような問題を提起している。すなわち、国際的な政治行為の中で、国民国家は文化的価値を経済および政治的利益の上に置くことができるのかと)私が指摘したい問題は、冷戦の終結後中国を含む社会主義国家は世界資本主義市場の重要な、もしかしたら最も活気のある地区になっているかもしれないということである。さらに、東南アジア地区も元来の資本主義経済システム中の辺境的地位から脱して、新しい資本主義経済の中心の一つになっている。資本主義的生産様式の普遍化という歴史環境の中では、この生産様式自身の矛盾は21世紀にはどのように位置付けられるのだろうか。例えば、中国の市場化過程の中で、国家資本、民間資本、海外資本間の関係はどのようなものになるのか、新階級とその他の社会階層との関係はどのようなものになるのか、農民と都市人口との関係はどうなるのか、発展している沿海地区と遅れた内地との関係はどうなるのかなどなどである。すべての社会関係が資本主義的生産関係の上に置かれた現在、特に市場関係の中から考察すると、根本的問題は、これらの関係の変化は中国の社会全体ないし世界的資本主義市場に対してどのような影響力を持っているのかということに集約されるであろう。多国籍資本主義の時代において、これらの「国内関係」はすでに取るに足りないものになっているのであろうか。私は自由主義理論の大家、マックス・ヴェーバーの不吉な予感を今でもしっかりと覚えている。彼は合理化を特徴とする近代資本主義の発展は必ずや人の人に対する統治制度に導くと認識しており、さらには、どんな方法をもっても社会主義の信念と社会主義への希望を消し去ることはできないとさえ断言しているのだ。グローバルな範囲での社会主義運動すでに失敗した歴史的状況の中で、ヴェーバーの提起した問題ははたして成立するのだろうか。

 

問題の複雑性は以下のような面にある。すなわち、一種の近代化実現の方法あるいは中国的近代性の主要な形式として、中国社会主義は同様に社会の組織化、とくに国家の人に対する専制を招き、それは資本主義よりもいっそうはなはだしいものであったということである。ヴェーバーとマルクスの近代性に対する反省はともに資本主義の観察の上に建てられているが、今日、我々は中国社会主義への歴史的反省を同時に近代性の問題点への反省としても見なければならないのである。この近代性の問題点がヨーロッパの近代資本主義およびその文化が引き起こしたものなのであることは言うまでもない。市場社会の発展とそれによる社会資源の独占は、必然的に自発的なかつ計画的ではない形での社会保護の運動をともなうことになったが、この二つの側面の衝突は十九世紀から二十世紀に至る最も深刻な社会危機(二つの世界大戦を含む)の原因となり、近代社会制度の自己改革の基本的動力ともなった。近代社会主義の勃興は資本主義に内在する矛盾に対する理解とその克服という歴史的願望に基づいているが、ある種の社会主義の実践はこの歴史的任務を完成できなかったばかりか、最終的には自身をグローバルキャピタリズムの中に参入させようとすらしているのだ。これと同時に、資本主義は社会主義運動や各種の社会運動の中から自己批判の契機と改革の機会を見出したし、今日に至っては、我々は元来の意味で国民国家を単位として社会主義と資本主義の問題を論ずることがすでにできなくなっているのである。まさにこの意味において、我々がグローバリゼーションあるいはグローバルキャピタリズムというような概念を用いて現在の世界の変化を描こうとする時、我々が主張していることは、資本主義的独占構造およびその運動法則が現在の世界の所有関係を代表しているというようなことを絶対に意味しない。なぜなら、欧米の社会体制と公共政策の中には各種の社会主義的なあるいはその他の社会機構が含まれているからである。制度の運用の中に含まれている社会主義的なあるいは社会保障的な要素のほかに、我々はブルデューが「物質文明」と称した分野―生活過程の底で進行し長い歴史の中で形成されてきた交流関係も発見できるだろう。この意味においても、中国社会主義への反省は、過去の検討ばかりでなく現在と未来への予言でもあるのだ。なぜなら、我々は依然として近代化を目標とする同一の歴史過程の中に身を置いているからである。伝統的な形の社会主義は近代性に内在する危機を解決できなかったし、近代化イデオロギーとしてのマルクス主義と「新啓蒙主義」も現在の世界の発展に対して適切な解釈と回答を出すことはほとんどできなかったのである。まさにここに「中国問題の再思考」の必要性が隠されているのである。

 

中国の思想界は現在いわゆる「グローバリゼーション」について議論しているが、これと対照的に、欧米のメディアは中国の民族主義について語っている。多くの中国の知識人は「グローバリゼーション」に儒家の大同思想のような理想主義を抱いているが、この種の「大同」的天下一家主義は、ここ一世紀以来不断に繰り返されてきた「世界に向かう」という近代性への夢想にすぎず、我々はこの中からぼんやりとした形ではあれ「儒教化された世界図式」の様相を見出すこともできるだろう。しかし、別のいく人かの青年は商業ベースを利用して『ノーと言える中国』のようなベストセラーを発表し、すでに中国に対し不安を持ち始めている欧米社会に、中国民族主義に関する疑念と明らかに誇張された「中国脅威論」を引き起こした。ある程度の意味では、後者の商業ベースによる成功によって、多くの海外メディアは中国民族主義の思潮が極端に排外的な性質を持っていることを認識したが、しかし、この本の出版と発行の過程が商業ベースと関係していることを見落としている。国民国家システムに徹底的な瓦解と再編成がない限り、民族主義が国民国家の同一性の基礎であることは消滅しない。さらに重要なことは、現在の民族主義的な政治と伝統的民族主義の間には重要な区別があるということである。現在の民族主義はグローバリゼーションの対立物と見なすよりも、むしろグローバリゼーションの副産物と見なすべきである。民族主義の問題についての議論はグローバルな政治経済システムに関連付けられなければならず、それだけを孤立させて説明するわけにはいかない。中国は21世紀には発達した市場社会になることだろうが、新たな世界の覇者の一員になる可能性はない。アメリカと旧ソ連の経済、政治、軍事的地位は冷戦の過程中に形成され、ソ連の崩壊後は、NATOが世界的にも圧倒的な軍事力となった。予測が可能な短期的な将来においては、どんな国家もこのような軍事的な覇権を持ち得ないであろう。グローバルな政治、経済、軍事構造から思考しなければ、その論者が積極的に民族主義運動をしようと、極力民族主義に反対しようと、問題の根本的な症状を見落としてしまうのである。

 

このようなグローバリゼーションを現在の世界の最新的な発展段階と見なす学者は、グローバリゼーションの過程が資本主義の発展にともなって発展してきた世界史の長い過程の一つであることをほとんど忘れているかのようである。それは、それぞれ異なる歴史段階あるいは時期を何度か経験しているのである。まさに従属理論の重要な解明者であるアミンが指摘しているように、産業革命以前の重商主義の時期(1500〜1800)には、大西洋を中心とする商業資本がその支配的地位を形成し、かつその周辺地域(アメリカ)を生み出し、産業革命によって誕生したいわゆる資本主義の古典的な時期(1800〜1945)には、欧米資本主義の発展にともない、アジア(日本は一つの例外であるが)、アフリカ、ラテンアメリカが欧米資本主義の周辺地域となった。そして、これらの地区は農業と鉱業の生産を通して、グローバルな分業体制の中に入っていった。これと同時に、ブルジョア的国民国家システムをその形式とする工業システムの形成にともなって、民族解放運動もこうした地区で起きてきたわけである。そのイデオロギー的特徴は工業化を解放、進歩と同義語と、また「追いつき追い越せ」の手段と見なすことであり、かつ、資本主義の中心部からの啓発のもとで、豊かで強い国家を目標とすることであった。第二次世界大戦終結後より今日に至るまでの時期は、周辺地区が不平等な条件下で工業化を進めた時期である。この時期には、中国を含む多くのアジアとラテンアメリカの国々は国家としての政治主権をあらためて獲得したのである。しかし、資本主義的グローバリゼーションにともなって、自足的な国民工業システムは瓦解し、最終的には一体化された世界生産と貿易システムの構成要素になってしまったのである。[xxxiii] グローバリゼーションの過程は我々が面している各種の問題を自明の如くには解決できないのである。現在の世界の発展動向から見ると、生産と貿易過程のグローバリゼーションは、これに適応する国民国家を超える政治―社会組織の新形式を自動的に生み出すものではなく、アジアやラテンアメリカなどの周辺部に適応するような政治、経済関係を発展せしめるものでもなく、ましてや、いわゆる南北間の経済格差や不平等を解決するものでもない。同様に明らかなことは、国民国家の地位は弱まったものの、政治、経済、軍事の独占は変わってはいない。よって、もし、民族主義が生み出したある種の負の側面を消し去ろうとするならば、広範なグローバルな関係の中から、さらに公正で平和的な政治経済関係を建設できる可能性を検討していくべきなのである。

 

中国の情況について言えば、日ごとに深く生産と貿易のグローバリゼーションの過程に参入していっているゆえに、国際資本と国民国家内部の資本の支配者(中国を含む第三世界の国家について言えば、資本の支配者はすなわち政治権力の支配者である)との相互浸透と相互衝突は、一方では国内の経済関係をさらに複雑にし、他方では不可避に体制的腐敗を招いている。このような腐敗は政治生活、経済生活そして道徳生活の各方面に浸透し、すでに深刻な社会的不公正を生み出している。純粋に効率の観点から見ても、もし、制度の革新を通じてこのような過程を防ぐ社会機構を発展させていかなかったなら、この種の体制的腐敗は経済の発展に対して必ずや重大な障害を生み出すことになろう。また、このような腐敗と付随してくる盲目的な消費主義も急速に自然と社会の資源を消耗せしめてしまうだろう。

 

以上のすべては、前世紀以来中国の思想界で普遍的に流行していた近代化という目的論的世界観は、現在まさに挑戦を受けているのであり、我々は習慣になったこの思想的前提を再考する必要がある、ということを表明している。一つの理論によって、我々が面している、かくの如き複雑かつ相互に矛盾しているこれらの問題を解釈することはできないにしろ、中国知識人の早くからの習慣となった、中国/欧米、伝統/近代という二分法を超越して、近代社会の実践中の制度革新的な要素にさらに多く注目し、民間社会の再生能力に注目して、中国が求めている近代性の歴史的条件と方式を新たに検討し始め、中国の問題をグローバリゼーションの歴史的視野の中に据えて考慮することは、切迫した理論的課題である。社会主義の歴史的実践はすでに過去のものとなり、グローバルキャピタリズムの未来図もヴェーバー言うところの近代性の危機をいまだ消し去っていない。一つの歴史段階としての近代期は依然として継続中である。これは、社会に対する批判思想が引き続いて存続し発展していく動力であり、中国知識界が理論の革新と制度革新を進めていく歴史的な機会でもあるのである。

 

 

 

   「中国における『廣松渉』」 2004年4月1日

 

この稿を執筆するにあたり、最初に悲しい出来事に触れなければならない。南京大学中日文化センターの中心メンバーで『存在と意味』の翻訳担当者である何鑑氏が去年の秋亡くなられたという知らせである。私は彼の依頼を受ける形で、彼の訳した『存在と意味』の原稿チェックというお手伝いをさせていただいたわけである。

「僕も廣松さんと同じで、ガンなんですよ」と漏らした彼のつぶやきが今でも脳裏に残っている。ここで彼のご冥福をあらためて祈ることを了承されたい。

さて、廣松著作集の中国語訳というプロジェクトが生まれたきっかけは、南京大学中日文化センター所長の張異賓(ペンネーム:張一兵)氏が『ド・イデ』を研究していた時、「廣松渉」という名前に目を留めたことに始まったそうである。そして、張異賓氏は中国に廣松哲学を初めて紹介したのである。以下では、この張異賓氏の廣松哲学紹介の概要を述べていきたい。

 

 一、中国のマルクス主義哲学への関心の方向と廣松哲学

 

中国にも欧米からの新しい思想が続々と流入して来ている。マルクス主義研究についても例外ではなく、いわゆる「西欧マルクス主義」や「疎外論」が一時中国の知識人の間で流行したことがある。例えば、もう十五年ほど前になるが、「疎外論」によって中国の現状を批判するという動きが発生している。それは、「人間と社会の本来のあり方」が「専制国家」によって「疎外」されているがゆえに、その「人間と社会の本来のあり方」を回復しなければならないというものであった。ここで、批判されている「専制国家」とは字面では前近代的な社会体制のことであるが、実は中国の現状のことを指している。(その結果、彼らは当時の政府から厳しい批判を受け、こうした知識人のリーダーの一人である『紅旗』編集長の王若水に対し離党勧告が出されるという事態に到った)

誤解を与えないようにここで言っておくが、だからと言って「疎外論」を語ることが今でも禁止されているわけではない。それどころか、純学術上では欧米からの思想を語ること、そして、それをマルクスと結び付けて語ることもまったく自由である。例えば、ハイデッガーとマルクス、ポスト・モダンとマルクスを結び付けて語る研究者も中国にはいる。

しかし、張異賓氏の目からはこうした動きに一つの欠陥があるように見えたのである。それは、欧米の新しい思想とマルクスとの関連を語る時、彼らが「初期マルクス」すなわち『経哲』ばかりに注目していることであった。「『後期マルクス』と欧米の新しい思想との関連も考えられないか」―これが張異賓氏の視点であった。張異賓氏は廣松やアルチュセールと同様に、「疎外論」すなわち「人間主義的マルクス主義」「人間と社会の本来のあり方」→「疎外態」→「人間と社会の本来のあり方の回復」という図式いまだヘーゲル哲学の枠内にあるのではないかと、感じていたのである。そして、ここに張異賓氏と廣松哲学の繋がりが生まれたのである。

 

 二、ハイデッガーと「後期マルクス」の橋渡し

 

張異賓氏は、マルクスとの繋がりという意味において、欧米の哲学者の中でもとくにハイデッガーに関心があるようである。「世界―内―存在」というハイデッガーの存在把握は「後期マルクス」の出発点である「人間とは社会関係の総和である」というマルクスのテーゼとまさに通じるところがあるというのが張異賓氏の基本視角なのである。「疎外論者」の言うような抽象的な「人間性」というのはマルクス―成熟したマルクスの人間把握ではない。ハイデッガーの「世界―内―存在」をより豊富化させたものがマルクスの人間存在観ではないか、と張異賓氏は考えたのである。そこに、廣松の「歴史―内―存在」という人間存在把握が目に飛び込んできた。これはまさにマルクスとハイデッガーの橋渡しであった。

これに関して、『存在と時間』の中の「Zuhandensein」と「Vorhandensein」の訳語についての話がある。中国語ではそれぞれ直訳式の「上手」「在手」と訳されているが、廣松の日本語訳では「用在」「物在」となっている。張異賓氏はこの廣松訳を高く評価している。なぜならば、「用在」という訳は道具的存在=関係性的存在の意味を的確に表現しており、これを「物的世界観」における「物在」に対比させているからである。この訳語は一見単にハイデッガーをマルクスに帰属させているように見えるが、実はハイデッガー的存在論に残る抽象性をマルクス的な把握、すなわち哲学の対象を実践的存在とする視角に変えるものだと、張異賓氏は述べている

「ハイデッガー的マルクス主義」という評価は、廣松本人にとっては迷惑なレッテル貼りかもしれないが、中国においては―少なくとも廣松哲学の紹介者たる張異賓氏の目からはそう写っていること、そして、より重要なことは、廣松哲学は「ハイデッガーとマルクスの混合物」ではなくて、ハイデッガー哲学をマルクスの視点で精緻化したものであると解釈されていること―を理解しておくべきであろう。

 

 三、廣松哲学への疑問

 

とは言え、張異賓氏は手放しで廣松哲学に傾倒しているわけではない。「物象化」の中にも超歴史的なそれと「克服すべき」それがあると言う。

張異賓氏は、マルクスには「自然的規定性上の物化」と「個人にとっては外在的ものとして現れる物化」という二つの「物化」を区別する視点があると言う。それぞれ上記の「超歴史的なもの」、「克服すべきもの」に対応しているのは言うまでもない。「初期マルクス」においては、この二つは「対象化」と「疎外」という用語で表現されていたが、「後期マルクス」においてもこの区別は残っていると言うのである。

ところが、廣松にあってはこの区別が消失しているというのが張異賓氏の廣松批判の眼目である。張異賓氏の目には、ハイデッガー哲学をマルクスの視点で精緻化したはずの廣松がこの点では、ハイデッガーの抽象性に後退してしまっているように写るのである。

「疎外論者」が廣松を批判する常套文句であると言ってしまえばそれまでだが、確かに廣松哲学には森羅万象を「物象化」で説明するというところがあるというのは、廣松哲学の支持者でも感じているところであろう。我々はこうした批判に謙虚に耳を傾ける必要があるのではなかろうか。

 

 四、中国にとっての廣松哲学の意義

 

先日、『アソシエ12』を送っていだいた。その中に高橋洋児氏の「廣松渉と物象化論」と題する論文があった。この論考の最後のほうで、高橋氏は中国での廣松渉著作集の翻訳に触れこう述べている。

「共産主義者・廣松は、新興資本主義国・中国で翻訳されつつあることを知れば、どう思うであろうか。もし中国でも廣松流の『近代イデオロギー』批判が受容されるとすれば、それは喜ばしいことであろう。だが、このイデオロギーが『資本主義時代に照応するイデオロギー』とイコールだとすると、当の批判が、資本主義化を官民挙げて熱狂的に推進しつつある国で受容されることは、まずありえない話だということになる」

中国の現状を総体的に見ればまさにそのとおりである。しかし、「資本主義の発展が資本主義を克服しようとする思想を生み出す」というのは、マルクスのお得意のパラドクスではなかっただろうか。そして、現在中国では、知識人集団というごく限られた世界の中ではあれ、そうした思想が発酵しつつあるのである。

それは、いわゆる「保守派」と称される部分とは決定的に異なり、欧米の新しい思想を学びとった若い世代が担い手となっている。彼らの思想は雑多である。ポスト・モダンの紹介者がいたり、フランクの「従属理論」やウォーラステインの「世界システム論」で再武装したネオ・マオイストがいたり、農村の郷鎮企業に「地域共同体の復権」を見てとる者もいる。しかし、彼らにはすべて共通点がある。それは、「近代イデオロギー」を拒否するという観点をもっていること、そのほとんどが海外留学の経験者であり欧米社会を肌で感じてきたということの二点である。

こうした欧米に学びしかも欧米の現実も知っている」若い知識人の存在を考える時、まさに当の「近代イデオロギー」=物在的世界観と主観―客観図式を批判する廣松渉の哲学が受容される可能性は大きいものと言えよう

さらに付け加えるなら、廣松の「疎外論」批判も中国の知識人を引きつける可能性がある。なぜなら、「疎外論」に代表される「人間主義的マルクス主義」も「一種の近代イデオロギーであるという批判が、こうした若い知識人から発せられているからである。

これからも、私は「中国における廣松哲学」の動向をじっくりと観察していきたい。

 

 

 

   「中国だから」 2004年2月14日

 

 中国在住の日本人の口からよく「中国だから・・・・」という言葉が漏れます。例えば、「会議の開始時間からもう10分も過ぎている。まだやって来ない。中国だからなぁ」「役所に製品の輸入許可を頼んだのにもう一ヶ月もほっぽっておかられた。中国だから仕方がないか」などですね。
 もちろん、「民族差別」の危険性を孕んだ物言いですが、多くの日本人(あるいは中国駐在の欧米人も?)がこのような慨嘆を言っているのは事実です。

 私が考えるに、この言葉は三つの意味が錯綜しているんじゃないでしょうか? すなわち、
 一、色濃く残る前近代性のことを指す
 二、「社会主義」体制下の「親方五星紅旗」意識などや指令的体制を指す
 三、改革後に出てきた様々な悪習を指す
 かつての中国の知識人も同じような感慨を持ち、こうした現象を批判していました。

しかし、それは主に一、二のことを指しているようです。もちろん直接社会主義体制を批判するのはご法度ですから、一の「封建主義批判」という形で間接的に二の社会主義体制を批判するわけです。つまり、「社会主義体制とは伝統社会の衣装替えにすぎない」ということをイソップの言葉で言うわけです。さらに手が込んでいるのはマルクスの言葉を使って、その批判を進めているというところです。少々古い話題ですが、十五年ほど前に中国で「疎外論」ブームが起きたことがありました。それは「封建主義」(実は社会主義体制)を疎外論を使って批判するというものでした。これはマルクスオリジナルの疎外論と言うよりも、ルソー的疎外論と言うべきものでした。「人間の本来のあり方」→「専制政治」→「人間の本来のあり方」というヤツですね。これではまったくの近代化イデロギーでしょう。まさに、広松さんの「疎外論は近代イデオロギーの枠内にある」とのテーゼがぴったりと当てはまるケースだったのです。当時の中国の「疎外論者」はかなりの程度、「全般的西欧化」路線に近かったと言えるでしょう。(だから、最終的にお上のお叱りを受けたわけです)

 ところが、最近は知識人の論調が変わってきました。三の「市場経済化」の負の側面を批判するようになって来たのです。先月私は『思潮―中国「新左派」およびその影響』と題する本を手に入れました。この本では最近の知識人の論調の変化が紹介されています。しかし、それは、「新左派」という言葉に象徴されるように、たんなる「復古」ではありません。ここで紹介されている若い知識人は多かれ少なかれ西欧の新しい学術・思想の影響を受けた人たちばかりです。その思想は雑多です。ルカーチやフランクフルト学派、フランクやアミンの「従属理論」やウォーラスティンの「世界システム論」、ユートピア思想家としての毛沢東の再評価などです。このように雑多ではありますが、「資本主義的近代化を拒否する」という一点においては共通の傾向があります。少なくても、「中国の知識人は西欧化に憧れている」というような「常識」は捨てなければならないでしょう。

 現在、この本の中の論文を翻訳中です。出来次第、皆さんに送らせていただきたいと思っております。

 

 

   「列車の旅も変わったもんだ」 2004年1月28日

 

 土楼見学は列車の硬臥(二等寝台)を利用しましたが、いや、中国の列車も変わったもんだ。何しろ昔の硬臥ときたら、喧騒、でかい荷物、ちょっとおっかない女性車掌さん・・・・等々、まさに「中国らしい風情」があった。
 それがどうだろう。今の硬臥は。ベッドは昔の軟臥並の柔らかさ、一組六寝台ごとに車内放送のテレビがセットされている。軽食や飲み物の売り子さんがひっきりなしに通る。何より驚いたのは車掌さんが車内で退屈している子供のために、おもちゃまで売りに来るのだ。それがとても商売上手。子供におもちゃ(なんと日本では懐かしい地球独楽だった)を手に取らせて購買欲を引出す。優しい言葉で子供の好奇心を刺激するように話し掛ける。子供が欲しがるとお母さんはいやと言えない。実にうまい。

 それにもまして、乗客の格好が違う。昔は中山服が圧倒的で、荷物は青・赤・白の縞模様のビニール袋。しかし、現在では服装も垢抜けて、荷物も粋なディパックやスーツケース。

 こんな何気ない光景にも中国の巨大な変化が現れているですね。

 

 

 

   「今日の授業から」 2004年1月13日

 

 今日の授業は、「〜もあれば〜もある」の文型を学習しました。

 さて、私はこの文型の練習として、「〜は現代化が進んでいるので〜もあれば〜もある」という課題を与えました。ちなみに私は例文として、「上海は現代化が進んでいるので、地下鉄もあればモノレールもあります。」という文を紹介しました。

 一人の学生の回答はこんなものでした。「中国の社会体制は進んでいるので、『私有制』もあれば『共有制』もあります。」

 意外な回答に私は感心し、私は全員にこの文をメモしておくくように命じ、暗誦もさせました。しかし、後で私はふと疑問を感じました。それは「何に比べて『進んでいる』のか」ということです。

 その「何」に代入できる言葉は次の三つが考えられます。
 一、(私有制が増えてきているので)「指令・計画経済」に比べて。
 二、(共有制もあるので)「資本主義経済」に比べて。
 三、(所有制が多様なので)「指令・計画経済」や「資本主義経済」に比べて。

 多分、その学生の年齢から考えて一か三だと思われるのですが、もし三だとするならば、今の若い者は「社会主義市場経済」を基本的に信用しているということになるのでしょうか?

 

 

 

   「きれぎれの断章」 2003年12月20日

 

 どうもご無沙汰しています。中野@福州です。11月は留学生の申請書の翻訳で忙しい毎日でした。

 まず、その留学生の件なのですが、ご存知の先生もいらっしゃると思いますが、各地の入管局は中国からの留学生に対してかなり厳しい審査をするようになりました。とくに、両親(経費支弁者)の収入状況を徹底的に調査するのです。彼らの銀行預金が人から借り集めた見せ掛けのものではないかどうかを調べるわけです。その余波で、私は以前には必要なかった当人の資産状況の説明書を翻訳しなければならなくなり、上記のように「忙しい毎日」となったわけです。もちろん、「中国からの留学希望者に対する差別ではないか」という意見も当然あることとは思いますが、一面、悪質な留学仲介業者や仕事の目的だけで日本に来る連中を排除するのには有効だと、私自身は思っています。

 それと、これもご存知だと思いますが、珠海の集団売春事件の判決が下りました。首謀者の中国人二人には「無期懲役」という極めて厳しい判決が出たわけです。一人はまだ26歳の女性ですから、やや同情の念がないわけでもありません。驚いたのは中国が引き渡しを求めている三人の日本人の実名と顔写真が新聞で報道されたことです。日本政府は引渡しは拒否しましたが、私としてはこの三人が自発的に中国に出頭し、自分の罪を認め、中国人側の刑の軽減嘆願してほしいと思いますね。そうすれば、日本人に対する評価も少しは上がるんじゃないかという気がするのですが・・・。いかがでしょうか。

 最後に。南京大学中日文化研究センターから『中日文化研究』の第2期号が送られてきました。その中には広松の「ドイツイデオロギー編纂上の諸問題」の中国語訳が掲載されています。訳者は彭さんという方で、以前にも『物象化論の構図』を翻訳されています。そして、今年10月に亡くなった『存在と意味』の翻訳者である何鑑さんへの追悼文が載っています。もし、お入用であれば私のところへ、ご住所を記載したメールをお送りください。私が担当者にお願いしてみます。

 

 

 

   「西安での反日デモについて」 2003年11月10日

 

 今回の事件は正直言って、中国に在住している私には実感がありません私自身は、無神経なのかも知れませんが、まったく「反日」意識というものを感じたことがないのです。でも、以下のような感想が浮かんできました。社会主義」という概念は本来徹頭徹尾internationalな概念であったはずだ。ところが、今回の事件(だけではなく、過去の「反日」運動も含めて)を見るとその概念がナショナリズムによって侵食されている気がしてならない。

 もちろん、私は1920年代のコミンテルンの「民族・植民地問題に関するテーゼ」によって提起された「民族解放と社会主義運動の結合」の世界史的意義を―社会主義なるものに批判的であるか否かを問わず―躊躇なく認める。それはアジア・アフリカの民族運動に多大なる力を与えたのは間違いないのだから。

 しかし、私が「躊躇なく」認めるのは1975年の「インドシナ解放」までである。それ以降はナショナリズムによる侵食そして変質が始まったのではないかと、あらためて思う。そして、現代、ナショナリズムは負性を噴出させているのではなかろうか。ユーゴスラビアの解体過程を見よ。北朝鮮の現在を見よ。

 いやこれらの国家ばかりではない。グローバリゼーションの進む中、逆に我が日本でも石原慎太郎の一連の発言に見られるような、恥ずかしげもない民族差別言辞がまかり通っているではないか。

 ナショナリズムは両刃の剣―民族解放運動の巨大なバックアップであると同時に排外主義の温床。そして、現代においては後者の面が露出してきていると、私は感じざるを得ないのである。

 なお、置塩信雄氏が亡くなられたことを松尾氏のHPから知りました。宇野弘蔵、広松渉そして置塩信雄と日本を代表する知性がまた一人減ったことに寂しさを感じているところです。一度か二度、お手紙・論文をやり取りしただけの関係ですが、ご冥福をお祈りします。

 

 

   「貴州省貴陽市の貴州大学訪問」 2003年10月5日

 

 国慶節の休みを利用して、貴州省貴陽市の貴州大学を訪ねてみました。85年〜87年、私はこの大学でやはり日本語を教えていました。16年ぶりの再訪というわけです。

 予想していたとおりの大変化でした。貴州大学は貴陽市の郊外にある大学ですが、当時大学の周りは苗族の村でした。苗族のおばさんが大学のキャンパスを悠々と水牛を連れて闊歩する―そんなのんびりとした光景が見られました。春にもなると、大学の外は菜の花の黄色でまぶしいほど。まさに「田園の中の大学」という形容がぴったりだったのです。

 ところが、現在はホテルや飲食店が建ち並ぶ行楽地と化していました。前からこの地区は「花渓公園」として貴陽市民の憩いの場でしたが、当時はポツン、ポツンと建物があるだけの公園でした。それが日本の観光地のようになってしまっていたのです。面影はどこにもありませんでした。もちろん、大学の建物も「近代化」されていたのは言うまでもありません。

 懐かしい人々に会おうと思っても、当時の日本語科の教師たちは、日本留学をしたり、(中には日本国籍を取得して日本に定住した人もいます)シンセンのような大きな街に移ったりして一人もいなかったのです。幸いにも、当時の英語科の先生が現在外事弁の所長をしているので、その方に色々とお世話になりました。あともう一人、経済学部の先生で日本語と宇野理論に興味のある方がいて、(一橋大学に留学したこともあります)その方とも再会することができました。

 

 「一抹の寂しさ」というものは確かにありましたが、新たな出会いもありました。二人の日本人の先生にお会いすることができました。そのうちのお一人のご婦人はなんと本来は福州の農業大学附属職業中学で日本語を教える予定だったとのこと。しかし、事情があって福州行きが取りやめになり、貴陽まで来られたと言うのです。こんなことで、たった一日だけの出会いでしたが、すっかり旧知の間柄のようになりました。

 ただ変わらなかったのは、あの陰雨と桂林を思わせるカルスト地形の低山、そして練炭と唐辛子油の匂いだけでした。

 今も昔も貧しい貴州を表した言葉に「天に三日の晴れ無し、地に三里の平無し、人に三分の銀無し」というのがありますが、前の二つはそのままですが、最後の一つの文句はほんのわずかではあれ変わりつつあるようです。

 

 

   「また香港に行ってきました」 2003年9月25日

 

 どうも中野です。また十二時間、長距離寝台バスに揺られて香港に行ってきました。まあ、今度は両親が香港旅行をするというもので、ビザ更新じゃないんですけどね。

 まずシンセンについて驚いたのは、またまた駅前の風景が変わっていたこと。6月に行ったばかりなんですが迷子になりました。地下鉄工事が急ピッチで進んでいるためです。

 香港の名所はだいたい回りましたから、唯一の楽しみは日本の本を香港三越で買うことだけです。今回は西部邁の『知性の構造』と推理小説・パソコンの本(すべて文庫本)の三冊を買いました。香港の喫茶店で西部のその本=知識人論を読んでいてシンパシーを覚えるところがあり、「そんな気になってはいかん」と自分に言い聞かせたりなどしましたね。しかし、私は「三流の左翼より一流の右翼から学ぶところは多い」と思っていますし、西部はそれなりに学ぶべきところがあると感じていますから、ある意味では自然の感情だったのでしょうね。

 シンセンに戻って、私はケインズ先生のお考えを実行いたしました。つまり「貯めるより使え」。というのは・・・・・。

 香港のコインが余っていたので、福州に持ち帰ろうとしたのです(香港の小額のコインと人民幣の交換は銀行は受け付けてくれません)。ふとそこで、考え直しました。「福州に持ち帰っても使えない。しかし、シンセンでは香港ドルは流通しているようだ。いっそのことお乞食さんにやってまえ」とね。そして、歩道橋の階段に座っていたおばあさんに香港コインのすべてをあげました。「この乞食のおばあさんが香港ドルを使えば、少なくともオレが死蔵するより中国経済しいては世界経済ににプラスの影響与えることは間違いない」と思ったわけです。ただし、そのおばあさんが、私のやったものが香港コインであることを知っていたかどうかは定かではありませんが・・・・。

 

 

   「中国人留学生問題」 2003年9月5日

 

 私の友人の日本語教師が日本の中国人留学生をめぐる情勢についてレポートしてくれました。(一部表現を変えています)
 これが民衆のショービニズム的傾向に火を付けるのではないかと心配です。

 日本の入管管理局及び警視庁による(ある程度脅しですぐ収まるかもしれませんが)中国人留学生への監視体制が強化されています!!

 外国人犯罪の約4割りが留学、就学の正式なビザをもっている学生だということや「留学生10万人計画」が達成され1万人ほど超過しているなどは通常のニュースなどで聞き及ぶ事かと思いますが・・・

 (極めて主観的に)よくないと思われるバイトや立ち入る場所にいると、捕まります。ひどい例は祭りを見に行っただけの中国人(韓国だっけ)学生がID不携帯で拘留されたり、ただロッテリアの前で待ち合わせしてても店で何か問題があるとそこにいる中国人全て捕まります。もちろん問題無ければ釈放ですが、「どうしてあんな所にいたんだ」など問い詰められます。バイト先もゲーセン、カラオケはもちろん、深夜のバイト、10ルックス以下の暗い所、ビラ配りなども場合によってはだめです。風営法上正規の店でも関係ありません。性感じゃなく普通のマッサージももちろん。一日だけのバイトもタイムカードなど少しでも問題があると、もう次のビザはおりません。さらに「怪しい外国人がいたらチクってほしい」との通達があり、一斉摘発が頻繁に行われています。細かい規定は無いに等しいんです。警察にだめだと思われたら、捕まります。

 彼ら彼女らに生活の日本語会話能力が必要だと痛感したのは、この話からです。(この事だけじゃもちろんありませんが)全く日本語が話せず来た人がバイト探しをする時、どうしても中国人がいる所を探します。しかし最近頻発しているのが中国人が中国人をだます詐欺。りっぱな事務所に連れてきて明日から働いて欲しいといって保証金を騙し取る手口です。またはビザが切れる中国人を別の中国人が偽装結婚をさせビザを取らせます。そのうち中国系の飲食店で働かせ、最終的にはチャイニーズマフィアのトラブルに巻き込まれ殺されました。極端な例だと思われるでしょうが、トラブルが頻発しているのは事実。またアメ玉のような麻薬があり巻き込まれる人も少なくないそうです。日本の学校では日本人の中で働いた方が安全だと呼びかけています。

 後、マナーの事はやはり益々問題になってるようです。以前夜中の大声の事を書きましたが、ゴミの問題も大きいようです。大家さんや同じアパートの住民間のトラブルならまだしも、今は簡単に警察が踏み込みます。難癖つけては、しょっぴきます。今東京入管の留置所は満杯だそうです。

 景気が悪い程度の脅しを超楽観的な中国の若者に言ってる場合じゃありません!!学生は本当に本当に覚悟が必要です。少しでもトラブルを起こせばアウト!極端な話問題がある場所に通りかかっただけで中国人というだけで連れて行きます。海外生活の全てを失い家族は悲しい思いをします。ひどい例では莫大な借金を抱えたまま強制送還され黒社会の中で体を売るしかない人もいます。勿論最悪なのは殺したり、殺されたり・・・外国人だけでなく日本の治安事体悪くなっています。

 日本という国は本気で中国人を1万人ぐらい(「10万人計画から超過した分」締め出そうとしているように見えます。まだまだありますが、とにかく日本で本気でまた覚悟をもってがんばる人を送り込んでください。これは日中両国のためでもあります。では・・・

 

 

   「三国演義のテレビ」 2003年8月15日

 

 相変わらず、テレビの歴史ドラマばかり見ています。最近は『三国演義』にはまっています。

 戦闘シーンは迫力がありますね。特に「赤壁の戦い」のシーンは「すごい」の一言。エキストラの人数、建物のセットどれをとっても、日本の映画・テレビがちゃちに見えます。中でも魏軍の水軍要塞のセットは東京ドームぐらいの規模があるように見えました。それを炎上させてしまうのだから、「浪費」と言えば浪費になるのでしょうが。

 こうした戦争ものの映画・テレビだけは「社会主義」と称されている政治経済体制の国にはかなわないと思います。そう言えば、中学の時に見た旧ソ連の『戦争と平和』も迫力満点でした。もちろん、バックには軍の支援があるからですね。兵士をエキストラとして出演させているばかりではなく、セットの組立もあれだけの規模のものなら、軍の協力なくてはできないものと思われます。また、ある将軍が曹操に部隊指揮の訓練を披露するというシーンがありましたが、見事に統制がとれていて、エキストラはそうした訓練を受けている人たちであることがわかります。

 「社会主義」と称されている政治経済体制については、論者によって様々な定義が下されていますが、その中に「兵営式社会主義」という表現がありましたね。『三国演義』を見ていて、ふとこの言葉が浮かんできました。

 

 

   中国における失業問題 2003年7月25日 「アソシエ」掲載

 

 私の教室の中で目立つのは、「待業青年」と呼ばれる若者たちだ。高校を卒業したけれど、大学に行く学力はないし、仕事も見つけ出せないという若者たちである。それで、「日本留学」に一縷の望みをかけて私の教室にやって来るわけである。私は「将来中国の大きな問題になるだろう」とかねてから思っていた。

 

 そんな矢先、翻訳の仕事が舞い込んできた。『中国経済発展中的就業問題及其対策研究』という著作の第四章「転形時期造成労働力失業的主要因素分析」を訳してほしいという依頼であった。中国の失業問題の分析とその対策について書かれたものである。著者の馮Uさんは中国人民大学統計学部大学院を卒業し、翌年博士号を取得、現在中国建設銀行総本店の資金部に勤務されている若手女性研究者とのこと。例の廣松の『存在と意味』の翻訳チェックが終わったばかりで、当初は断ろうかと思ったが、校長のどうしてもという言葉で引受けることにしたのである。

 

 しかし、仕事に取り掛かってみると、結構興味深い問題が次から次へと現れ、私は翻訳作業にのめり込んでいった。この場を借りてこの著作の要旨を簡単に紹介していこうと思う。

 

 1、失業をもたらす四つの原因

 

 著者は、現在の中国の失業問題の原因として次の四つを挙げている。その四つとは、(1)「社会主義市場経済」への体制転換、(2)産業構造の転換、(3)技術進歩、(4)農村の余剰労働力の都市への流入である。

 (1)は「親方五星紅旗」の安楽さにどっぷりと浸かっていた国有企業の労働者が「民営化」によって人員整理の対象になっていること、(2)は第一次産業から第二次、第三次産業への産業構造への転換による失業、(3)は技術進歩による労働者排出、(4)は言うまでもなく「人口大国」「農業大国」中国固有の問題である。

 この中で、(2)、(3)はどこの国にも見られる現象と言えるが、(1)、(4)は「社会主義市場経済」中国、「人口大国」中国の固有の問題と見てよいから、ここでは、この(1)、(4)を中心にして紹介していくことにする。

 

 2、体制転換」が失業に与える影響

 

 著者は面白い言葉を使っている。「隠れた失業」というのがそれだ。この言葉は著者にとって中国の「失業問題」のキーワードにもなっている。ではこの言葉の持つ意味とは?

 中国のかつての計画経済体制の下では、国有企業の雇用労働者数は市場における実際の需要によっては決定されず、計画当局が決定した「雇用数ノルマ」によって決定されていた。そしてそれは往々にして実際に必要な雇用労働者数をオーバーしていた。著者によれば、このオーバー分の労働力はその賃金水準に比べその限界生産性が極めて低いもので、市場経済の原理に従えば、本来「失業して然るべき」存在なのである。まさしくこれこそが「隠れた失業」である。

 

 しかし、改革開放後、国有企業の民営化=有限公司化(とりあえず株式会社化と解釈してよいだろう)が進展していき、各企業は「お上」にではなく「市場」に目を向け始め、各企業にとっては生産性の低い労働力の排出が課題となってきたわけである。つまり、「隠れた失業」が「明らかな失業」になろうとしているのである。

 

 だがまた、著者はこれがスムースにいかないことも指摘している。その理由の一つとして著者は企業における「インサイダーコントロール」の存在を挙げている。これは、欧米の労働経済学の「インサイダー―アウトサイダー」理論を取り入れたもので、すでに雇用されている労働者が既得権益を持ち、新規雇用を様々な形で妨害するということをモデル化したものである。このモデルの面白いこところは、労働者だけではなく、企業にとっても、すでに雇用されている労働者を解雇し新規雇用を行うことは、解雇のためのコスト、新規雇用者の育成コストがかかり、結局のところ効率的ではないという一種の「共犯関係」があると指摘しているところである。もう一つは、国有企業労働者の意識の問題である。大型国有企業ともなれば、子供の教育から老後の生活まで企業が労働者の一生の面倒を見ることになるので、「低賃金になっても企業から離れたくない」という意識が労働者の中で普遍的に生まれてくると、著者は言う。

 

 こうした企業、労働者双方の「親方五星紅旗」意識に著者は厳しい目を向け、「ある程度の失業は市場経済化にとって必要」と言い切っている。もちろん、著者は失業を放置しておけとは言ってはいない。失業保険制度をより整備し、また新しい環境に適応できるような職業訓練の制度を設けよと主張しているが、中国の若手研究者がここまで「見えざる手」を信仰しているとは、予想がついていたとは言え、やや驚きであった。

 

 3、農村の余剰労働力が失業に与える影響

 

 もう一つの、そしてさらに膨大な「隠れた失業」は農村に存在している。中国は人口大国であること、その人口の大部分が農村に存在していることは周知の事実である。しかし、無限の人口に対して土地は有限である。したがって、農業に必要な労働力をはるかに超える膨大な労働力が「家の手伝い」という形で農村に滞留していることになる。これもまた「隠れた失業」の一種であると、著者は言い、以下のような数字を挙げている。

 

 「1995年には、中国の約4.5億人の農村労働力中、農村余剰労働力は約1.37億人を占めて就業を求めており、農村労働力の不充分就業率は30%前後に達していることになる」

 この膨大な農村余剰労働力が都市に流れ出した時、この農村の「隠れた失業」が都市の「明らかな失業」を生み出した。すなわち、都市に流れた農民が都市住民の職を奪ったのである。農民工は臨時工が多く、低賃金で福利厚生のコストもかからないから企業はこぞって彼らを雇用し、都市の若者の多くは予定していた職場を失うことになったわけである。

では、著者はこの対策として、計画経済期の遺物である都市・農村の分断政策、農民の都市流入抑制策を継続せよと言うのか。否。まさに逆である。著者はここでも「市場化を進めよ」と主張している。著者は計画経済期の都市・農村の分断政策は一種の「身分制社会」を形作ったとまで断言し、手厳しい批判を加えている。この政策は徹底的に改革せねばならない、自由な労働力の移動の保障こそが経済発展を可能にすると言うのだ。その例として、著者は都市に出稼ぎに出た農民が帰郷して地方に新企業を設立し、地域経済を活発化させたことなどを挙げている。

 

 農民の都市流入の規制緩和は、都市での失業を増大せしめる可能性があるのはいうまでもないが、「それでも、そうした労働力を吸収する道がある」と著者は言う。それは第三次産業の振興である。いかなる国でもその工業化の最終的結果は第三次産業の発展であり、しかも第三次産業は次々と新しい業種を生み出すという特徴を持っている。中国もその現代化の進展とともに第三次産業が今後発展していくはずであり、第三次産業の中には労働集約型産業も多く、都市の第二次産業では吸収しきれない労働力を吸収する能力があると、著者は予想しているのである。

 

 確かに「第三次産業の振興による労働力の吸収」とは面白い視点である。しかし、そうした労働力のスムースな流動には、当の労働者が新しい業種に必要なスキルを持っているということが大前提であろう。とくに新分野が多い第三次産業ではなおさらのことである。そう考えて見ると、私は「本業」=教師という自分の立場を省みなければならなくなる。私が中国の若者たちに与えた「スキル」は本当に役立っているのかと・・・・。

 

 

   「テレビを買いました」 2003年 7月21日

 

 「中国語の勉強になる」と周りの人に勧められ、大枚600元をはたいてテレビを買いました。毎晩見る番組も決まりました。夜遅くに放送されている清の康熙帝の一代記です。パターンは古くから清に仕えてきた満州族の有力家臣、南方に半独立の藩王国を築き上げた呉三桂、北方のジュンガル・蒙古族、台湾の鄭政権など、康熙帝の独裁的権力を脅かす者たちをいかに潰していったかがテーマです。

 とくに面白いのは台湾問題。ドラマの中で康熙帝は何度も「台湾は清の固有の領土だ」と繰り返しています。そして、台湾鄭政権の中にも復帰派と独立派がいて抗争するのです。「満州人と同じように頭を剃り辮髪にして清朝に忠誠を尽くすべきだ」という者がいると思えば、「頭は剃らずに朝鮮のように臣下の礼をとるだけでいい」という者もいるわけです。思わず、「誰が陳水扁の役なのか」なんて思いましたね。また、康熙帝がいささか短気を起こして「台湾武力解放」を主張すると、台湾対岸の福建駐在の武将たちはそれに頑として反対するなどというのも現在の情勢に重ねると興味深いものがあります。

 だが、鄭成功は現在の大陸でも「民族英雄」。ドラマの製作者は鄭成功を露骨に批判せず「台湾は本土に復帰するべきだ」という主張をドラマに反映するという難しい作業をこなさなければならないようですね。

 

 

   「シンセンの隣町にて」 2003年6月17日

 

 ビザの更新に香港まで行ってきました。今回は前のメールで紹介した「焼肉オヤジ」(今は店を閉めて福州で貿易事務所を開設していますが)といっしょでした。彼が「一年間の商業ビザが取れるところを知っている。紹介しよう」というものですから。

 十二時間、長距離寝台バスに揺られ、朝シンセンに着いてバスを下車し、街の様子を見ると意外なことにマスクをしている人がほとんどいない。出入国管理官だけあの異様なマスクをしているのが目立ちました。もう、広東・香港ではSARSの脅威は去ったと見てもいいでしょう。

 香港へ「出国」してこのまま香港の中心部に行くかと思ったら、さにあらず。香港側の羅湖駅の中に中国旅行社がありここでビザが取れるとのこと。「一年間の商業ビザ」は取得困難と聞いていたが、あっさりとOK。たった、二時間ほど待っただけで待望の一年ビザを手に入れることができたのです。オヤジさんに感謝、感謝。

 「中国の外」に出ていたのはたった二時間ほど。すぐにシンセンに引き返して気が付いた。帰りのバスは夜7時過ぎの出発。時間が余ってしょうがない。そこで前にオヤジさんがやはり焼肉屋をやっていたトウカンという町に遊びに行くことに。この町は広州とシンセンの間の町でシンセンからバスで一時間ほど。シンセンと同様に外国企業の進出が著しいところです。

 バスが町に入って驚いた。なんとシャングリラホテルが建設中なのです。シャングリラホテルがある都市でここが多分最小の都市だと思います。町は西部開拓の町の雰囲気。田んぼだらけのところに突然町ができたという感じです。それも飲食店がぎっちり。何にもないところにススキノ・新宿が突然出現したと思ってください。オヤジさんの話では、「シンセンが中国で一番治安が悪いと言われているが、シンセンは他郷の人間の流入を厳しく規制するようになってきており、シンセンに潜り込めない連中がここにやって来るようになった。そんなわけで、本当はこのトウカンが中国で一番治安が悪い」とのこと。続いて、「だけど、カラオケ小姐はここが一番美人。中国の各地から選りすぐりの美人が来ている」と太鼓判を押します。オヤジさんは懐かしそうに歓楽街を、私を連れて回ります。なじみのカラオケバーがあるホテルに行くと、ボーイさんたちがオヤジさんに挨拶。まるでこの町の主であるかのよう。

 ついには、昔なじみだったカラオケ小姐を喫茶店に電話で呼び出しました。えっ、その子達はどうだっただって? ええ、まあその・・・・。ま、オヤジさんは物事をオーバーに言うくせがあるとだけ言っておきましょう。ただし、彼女たちは私より高い銭を稼いでいるのは間違いありません。

 以前からお話していたように、私は中国の女性研究者の「就業・失業問題」の著作を翻訳しています。その本の中で「現代の発展途上国の現代化の過程は、第一次産業→第二次産業→第三次産業と労働力が順次移転して行くのではなく、第一次産業から一気に第三次産業に移転して行くのが特徴」と言っていましたが、なるほどカラオケ小姐も確かに第三次産業の従事者であるのは間違いないですね。

 

 

   「これは中国のことだろうか」 2003年5月29日

 

 やっと、留学申請書の翻訳が終わったと思ったら、またまた翻訳の依頼。うちの校長さんはもうホイホイ仕事を引き受けるもんだから・・・・・。
 若手の女性経済研究者の著作を翻訳してくれという話。失業問題に関する本です。翻訳作業中に「これは中国だけの話かな」と思ったので、みなさんにご紹介します。どこかの国のオトーサンにとっても身に詰まれる話じゃないかと・・・・。
 それにしてもこの小姐、本に写真があったので見てみるとなかなかの美人。しかし、その口調は「失業は仕方がない」というようなニュアンスなわけでして。そのギャップが!

 

 中国が計画経済体制にあった時期、人々は国有企業でどんな仕事でも見つけることができたならば、それを一生の幸福と見なしていた。なぜなら、当時の国有企業での収入は必ずしも低いものではなくかつ一生の雇用が保証されていたからである。当時、国有企業にも不景気な時があり破産することもあるなどと、考える人は誰もいなかった。同時に、国家は高就業率を実現するために、人為的に国有企業に大量の職員を配属し「高就業、低効率、低賃金」の局面が形成されたのである。社会的な就業圧力は緩和されたものの、それは国有企業自身の有効需要をはるかに超過したものであり、企業内部の余剰人員はますます増大して行ったのである。

 

 しかし、中国が社会主義市場経済体制へと転換して行く過程の中では、市場メカニズムの規制力が国有企業の投入−産出に対してもその作用を発揮し始めた。市場競争の圧力に面して、国有企業も、労働力投入のコストおよび競争力への影響ということを考慮するようになってきたのである。企業を退職した職員というものの出現は国有企業が改革を深化して行ったことの一つの表れであり、隠れていた失業が顕在化したことの主要な表現でもあるのだ。以上のことは、国有企業が労働力の調整の方面で市場メカニズムに巻き込まれて行ったことを表明するものである。

 

 

   「こんな若者もいる―就学理由書」 2003年5月22日

 

 私、○○○は1996年6月に福清市第三中学を卒業し、父の経営する○○汽車(自動車)修理組立工場に就職し、会計業務を担当し現在に至っています。

 近年、会計業務は一般にコンピューターが使用されていますが、そのため、当然にもこの業務に従事する人間にはコンピューター関連のハイテクノロジーの専門的知識が必要になってきます。しかし、ただ高級中学を卒業しただけの私にとっては、それは業務上の制約となりました。実務に応用が利かないのは言うまでもありません。

 

 私が入社した年、父の会社は人員不足に見舞われ、急に私は「手伝ってくれないか」と言われました。この申し出と「早くに社会に出たい」という私の当時の希望は、はからずも一致したのです。私は軽率にも学業を放棄し大学へ行くことを断念しました。今の時点で思うと悔やんでも悔やんでも足りません。あの時に大学へ進学していればどんなに良かったことでしょうか!

 私は今学習と研修の継続の必要性を痛切に感じています。私は自分を励まし、こう自分に語りかけています。「自分を信じる心がありさえすれば、強い決意がありさえすれば、大学で学習するのに遅いということはないんだ」と。私は密かに決意を固めました。「日本の大学へ進学しさらに多く、さらに深く学ぶのだ、そして、帰国した後は父の会社の発展のために力を尽くすのだ」と。

 

 現在父の会社は経営が適正で仕事も不断に拡大しています。また、日本等の先進国から各種の先進的設備と組立工程に必要な付属品を導入しています。中国の国民経済の不断の発展とともに、人々の生活水準も日増しに高まることでしょう。その時、車は人々の生活必需品になるはずです。車の修理組立業には未来があります。そして、それを壮大にしていくのは我々若者です。父の仕事を受け継ごうとする私と夫にはさらに責任があり、その任を放棄することは許されないのです。そして、この任務を果たすには、当然海外の新しい技術や経営管理の手法を学ばなければなりません。

 

 しかし、夫は会社の骨幹となる技術員ですから会社を離れることは今できません。そのゆえ、海外で研鑚する責務は私の肩にかかってきたわけです。しかしそれはまた私が将来大きく成長する機会を、私が以前からの心に潜めていた夢を実現する機会を与えられたことを意味します。そしてこのことによって、私の日本留学の決意はさらに固まりました。

 会社の役員会も私の日本留学を推薦することを決定し、父は私の留学期間の一切の費用を負担することに同意してくれました。父と役員の方々のご厚情に感謝しつつ、私は、日本に留学して日本語と経営・会計方面の知識を学び、帰国後は会社の発展のために貢献することをここに正式に決断しました。

 

 以前、私は四月度入学生として申請書を提出しましたが、入国管理局の方は私の卒業証書に疑問点があると判断され、在留資格認定書は認可されませんでした。このたびは、卒業証書の真実性の証明のため、とくに学校の学歴証明書とクラス担任の証明書を附して提出いたします。このたびこそ、貴国が許可を下されんことを心から願っております。

 

 

   「新しい授業」 2003年4月20日

 

 新しい授業を始めました。『日本概況』という授業です。中国人が書いた『日本概況』という本をテキストにやっています。参加者はうちの老師たちがほとんど。それに中級以上の学生が一部というところです。

 で、昨日のテーマは「日本の家族」。中国人の多くは「日本の女性は男性に支配されている」というとんでもない誤解をもっているので、これはぜひ訂正しなけりゃならないと、奮闘しました。

 開口一番、私は「家の中ではお母さんが毛沢東。絶対的権力者なのだ」 続けて「財布を握っているのはお母さん。お父さんは自分が稼いだ銭であるにもかかわらず、子供たちと同じように、お母さんから『お小遣い』をもらって、昼飯代とかタバコ代にするのだよ」と、可哀想なお父さんの話を連綿と繰り返しました。

 ちょっと、調子に乗って「お母さんは家事が楽になり、財布も握っているので、暇を持て余してブランド品のショッピング、テニススクール。はては、ホストクラブ。それに比べて、お父さんは穴のあいた靴下のまま」なんて口走ってしまったのは、別の誤解を中国人に与えてしまったかな?

 

   「マナーの成熟」 2003年4月18日

 

 私のいるアパート兼教室の近くにマクドナルドがあって、朝飯はもっぱらそこで済ましています。今日の朝そのマックに行ってみると、「街の美化運動」キャンペーンが掲示されていて、「ガムの噛みかすを街から一掃しよう」という提案が書かれてありました。

 私は以前、「資本主義社会の成熟にともなって、『近代的な倫理やマナー』も発酵していく」と書きました。まさにこれがいい例ですね。そして、こうした「資本の文明化作用」(の肯定的側面)を無視してどんな「資本主義を超える社会もありえない」とも、書きました。大量生産―大量消費社会、端的に言うと、「膨大なるゴミの集成」の社会を生み出したのは、現代資本主義= フォーディズムですが、また、そのゴミを処理しようと様々な努力がなされているのも、現代社会のもう一つの側面です。

 マックという消費社会を象徴する大企業がこうしたキャンペーンを張っている―皮肉といえば皮肉ですが、正しいことは正しいと率直に我々は認めなければならないでしょう。

 それにしても、中国政府は「社会主義的精神文明」というテーゼを打ち出しているにもかかわらず、実際は・・・・・・。残念ながら、この面でもまごうことなき資本主義的大企業に負けているんですね。

 

 

   「南京と南京大学」 2003年4月7日

 

 どうも、中野です。四日〜七日、南京大学の中日文化研究センターを訪問しました。『存在と意味』の分厚い中国語原稿を抱えての旅です。

 四日の福州は曇りでしたが南京は晴天。センターの年さんという女性が迎えてくれました。彼女はご家族と一緒に仙台に十年住んでいたそうで、今年の二月南京に帰ってきたそうです。十年の日本での生活で日本語は流暢なもの。お子さんがいま五年生で、「中国語がわからない」のが悩みと言っていました。この日はとくに予定がなく、そのまま大学経営のホテル兼留学生宿舎へ。まだ、日が高いので一人で街の中心にある玄武湖へ写真を撮りに行きました。街の中の湖ということで、あまり期待はしていなかったのですが、どうして、どうして。対面は中山陵のある緑濃い紫金山、こちら側は街を囲む城壁です。歴史的な都市景観と自然景観が融合しています。

 この時は街路樹が目立つ街の中心部も散歩したのですが、ゴミがまったく落ちていないのに気が付きました。人々もその話し方など、どことなく穏やかに感じます。全体的な印象は「落ち着いた街」というところでしょうか。やはり「古都」なのでしょうね。

 翌日は年さんと、『存在と意味』の翻訳者の何鑑さん―お忙しい張異賓所長に代わって研究センターの実質的な仕事をすべてやっておられます―に大学構内を案内されました。古い建物、緑の木々、我が北大を思い起こさせます。とくに学長室のある建物はまことにレトロ。蔦が壁を覆っています。もちろん写真を一枚。昼食には、お忙しい張所長(副学長)も参加してくれました。「広松を知ったのはどういうきっかけですか」と尋ねたところ、「ドイツイデオロギーの研究をしている時に、偶然に知った」とのことでした。我々はその「偶然」に感謝しなければならないかもしれませんね。張先生は大学ごとに重点的科目を指定するという国家的プロジェクトの哲学部門を担当しておられ、南京大学がその指定を受けるようにと、奔走中です。ですから、土曜日にもかかわらず、昼食後そのお仕事に出かけられました。ですから、より具体的な話ができなかったのは残念です。

 午後は一人で「南京大虐殺記念館」へ。日本人が一人で行くのは・・・・と躊躇したのですが、結局行くことにしました。翌日は年さん、何さんと中山陵と市の南にある「古街」へ。運河の両側に伝統的様式の建築が立ち並んでいます。この写真を撮ることがもう一つの目的なので、いろいろなアングルから撮りまくりました。もっとも、この建物群は最近建てられた「古い建築物」なのですが・・・・・・。

 さて、チェックはいちおう終わったのですが、完璧というわけにはいきません。六月出版の予定なのですが、詰の作業はまだ残っています。その際、メール等で諸先生方にお伺いすることがあるやもしれません。その節はよろしく。

 

   「国営企業の『配当金』」 2003年4月6日

 

 私は授業以外に中文の日本語訳も担当しています。ほとんどが留学申請書の翻訳です。その中には父親の収入証明書なんてのもあるわけですね。

 そうした父親の中に国営企業の発電所の副所長という人がいました。その人の収入証明書を見ると、給与以外に「分紅」というのがありました。これは中国語で「配当金」を意味します。もちろん株式会社(中国では「有限公司」)の「配当金」のことです。国営企業の「配当金」? 私は一瞬頭が混乱しました。

 要するにこの発電所は独立採算ということなんでしょうけど、いちおう「国営企業」なんだから、株式会社=営利企業に関わる「配当金」という用語を使うのはどうも納得できませんでした。少なくとも日本語訳では「配当金」という言葉は使うことができないと思います。「剰余金の分配分」とでも訳せばよいのでしょうかね。

 それにしても、公共部門の企業のスタイルという分野に限り、中国は日本よりも「市場化」ないし「民営化」が進んでいるといわざるを得ませんね。今純ちゃんが目の敵にしている郵政部門が仮に民営化されたとしても、「剰余金」を堂々とそのトップで「分配」したとしたら・・・・・まあ大ニュースだろうな。

 いや本当にどう訳せばいいのかな。困った。お知恵拝借。

 ところで、私は四日より例の『存在と意味』の件で、南京大学に出張です。その時の話はまた。

 

   「毛沢東グッズ」 2003年3月4日

 

 春です。北海道の人間なのですけど、これほど春が来るのを待ちわびたことはありません。北海道は暖房が整っているで比較的過ごし易いのですが、ここ福州は「暖房」という観念自体がありません。それに今冬は福州でも何十年振りかで降雪があったほどの寒さでした。前にも書きましたが、「春節」という言葉の持つ意味を深く感じました。

 さて、公式の場で「御真影」が消えていくのと対照的に、街では「毛主席グッズ」に人気があるようです。「趣味としての毛主席」というわけです。バスの運転手さんが毛主席の写真を運転席に飾っているのを見ました。あの「御真影」の写真ではなく、若き毛沢東、やせて目つきの鋭い延安時代の写真でした。

 私も買ってみました。(本当に俺も趣味人だね) ナップザックです。背面のデザインが紅衛兵の腕章を付けている文革期の毛沢東です。

 で、その中に『存在と意味』の原本と訳文が入っている・・・・・・広松渉と毛沢東―何なんだろこの取り合わせは。

 ところで、このナップザック役に立つこともあります。学生が暇がなくて宿題をできなかった」と言う。すかさず、私は「暇は『有没有』の問題じゃない。『探すか探さないか』の問題だ」と切り返すわけです。そして、おもむろにこのナップザックを取り出して、「彼は国民党軍の爆撃の中で『矛盾論』を書いた。どんな時でも勉強はできる。彼は神ではなく、人だ。君たちも人だ。だから君たちにもできる」と「お説教」を垂れるわけです。もっとも、こんな話、「今時の若いもん」には効果がないか(~_~;)

 え〜どうでもいい話でした。

 

 

   「ご真影・若年労働」 2003年2月19日

 

 春節の休みには江南の旅ということで、杭州(西湖)・紹興・寧波と廻ってきました。紹興では魯迅の小説「孔乙已」に出てくる酒店をモデルにした店で紹興酒を味わいました。

 ところで、私の学校では教室が足りないため小学校の教室を借りています。その教室について、うかつですが最近気づいたことがあります。教室には「偉大なる舵取り」の「ご真影」が見当たらないのです。もちろん、「黒猫・白猫のおじさん」の写真もありません。本来それがあった場所には五星紅旗が飾ってありました。ふと見ると、学校の物置にご真影がさびしく打ち捨てられてありました。

 と、ここまで書いてテレビのニュースが始まりました。十四五歳の女の子たちの労働条件についてです。一人の女の子が工場で病気になり何の保証もないままに家に返されたと言うのです。また、残業手当は食事の支給に変えられてしまったとかという話もあります。(もちろん、こうしたことが報道されるという進歩的な側面も忘れてはいけません)

 「ああ野麦峠」を思い出してしまいますね。まさに中国「資本主義」は十五・六世紀の初期資本主義の荒々しさを持っているようです。前にも書いたとおり、中国「資本主義」はいまだパーリアキャピタリズムの段階なのでしょう。

 

   「中国マルクス主義経済学の新動向」 2003年 1月27日

 

 つい先日中国の経済研究者の著作を書店で発見しました。題して『労働価値論の焦点問題』というのです。何気なしにページをめくってみたところ、「転形問題」を中心にした論文でした。ボルトケビッチやシートンの解法とその批判が出ているのはまあ当然として、森嶋通夫やスティードマンなどにも触れられているのが結構―中国にあっては―新鮮な感じがしました。

 さっそく購入して読んだわけですが、スティードマン批判に際して「彼は貨幣額表現の生産価格と労働量表現の価値を混同している」「スラッファの生産価格は商品の交換比率であって価値とはまた異なる」などの見解を打ち出していました。こういう視点に触れると、以前のメールで「中国のマルクス経済学は相変わらず・・・」というような論調で書いたのをちょっぴり反省しなければならないなと、感じもしました。

 著者は白暴力―打ち間違いではありません。こういう名前らしいのです―という人で、北京師範大学の教授とのことですが、特に私の関心を引いたのは、彼が価格および価値論を層次的に把握すべきだ主張しているところです。それは六層に分かれており、第一層は価値実体の本質、第二層は価格の究極的基礎としての価値実体、第三層は市場価格の中心としての自然価格、第四層は市場価格、第五層は総価格水準(物価)、第六層は価格管理となっています。そして、第一層はマルクスの、第二層は古典派の、第三層はネオリカーディアンの、第四層は新古典派のそれぞれ研究対象であるというのです。私は「あなたの方法には大賛成である」と彼にメールを送っておきました。

 さて、南京大学から依頼された例の『存在と意味』の翻訳チェックが始まりました。分厚い原稿の束を見てため息をついているところです。

 

 

   「ネット規制」 2003年1月12日

 

 皆さんは中国政府がネット規制をしているのはご存知ですね。それが身近に降りかかってきました。

 福州に住むある日本人教師が自分のHPを開いているのですが、それがここ一ヶ月ほどアクセスできなくなっているのです。彼はgeocitiesのサーバーを利用しているのですが、彼自身もアクセスできなくなったとのこと。

 実はこの問題、中国関係のHP全体で問題になっているようです。そのあたりの情報によると、geocitiesを利用した「反体制的HP」が当局の逆鱗に触れ、作者は逮捕されたとか。(確実な情報ではありませんが)

 それと、蛇足ですが、『情況』のHPの調子がおかしいようです。これもまさか・・・・・・・。

 うん?こんなこと書くとオレも国外追放されるかな?

 

 

   「アモイと文革体験者」 2002年12月7日

 

 先週アモイに行ってきました。アモイ大学で実施された「日本語能力検定試験」に参加する私の学校の生徒を引率して行ったのです。

 アモイはきれいな街です。ゴミがほとんど落ちていません。市民のマナーも良く、「謝謝」や「対不起」などの「文明用語」も飛び交っていました。先にお話した九塞溝と同様、やればできるわけです。もちろん、どちらの地域も外国人が多い所だから、ということはありますが、何事も教育しだいだということですね。そこで、ふと「党の指導ということもあながち悪い面だけではないな」と感じました。

 それと、一緒に行った教師の話。彼は在日華僑で、65年に中国に帰国したのです。ちょうど「文革」が始まる直前のことでした。彼は、私にこう言いました。

 「日本にいたときは中国国籍の華僑には就業制限などの差別があった。中国に帰ったとたん文革が始まり、今度は『日本のスパイだろう』などという言いがかりをつけられた。日本語の本を読むことさえ抑圧された。日本で差別され、祖国で迫害を受ける。こんな馬鹿な話があるか。私の家族は祖国に貢献するため帰国したのだ。それが・・・・・。」

 ほんのちょっぴり、文革に「郷愁」を感じている私も何も言えませんでしたね。最近、在日福建人(ほとんどが華僑の街、福清市出身者)の良くない噂を耳にしますが、文革時に彼らは、親戚が海外にいるというだけでスパイ扱いされたのでしょう。その反動が今になって現れているのじゃないかという気がいたします。

 

 

   「学歴について」 2002年11月22日

 

 みなさんは、少なくとも建前上は「学歴と人間の能力は無関係である」と言っているでしょう。私もかなり本音に近い形でこの命題を信じていました。しかし・・・・というお話です。

 私は毎日朝に三時間、夜に二時間の授業を持っています。(5×5=25時間プラス日曜日の夜二時間。週27時間(*_*)) 朝のクラスは待業青年がほとんどで、夜のクラスは企業勤めの人間、大学生などが多いのです。当然、前者の学歴は高卒以下がほとんど(それも田舎の高校)で、後者のそれは日本で言う専門学校、大学卒の比重が多くなります。

 私の中国語がまだまだで説明不足になっているということを差し引いても、両者の理解力には歴然たる差があります。一見学歴とは無関係な単語の暗記、ひらがなの読みという単純な作業においても差が出ますし、何より「問題の求める答えはどのようなものか」「問題をどのように解くか」ということで顕著な差が明らかになるのです。教科書の問題の意味は中国語で書かれていますから、結局「論理的思考」の習熟度の違いということに帰着すると、思われます。

 ここで、私はこの年になってやっと気が付きました。すなわち、「学校教育の重要性は知識の取得にあるのではなくて、ある一定のルールに従って問題を解決するという能力を自然に会得させるところにある」、簡単に言うならば「人の言うことが理解できる力を養うことにある」と。

 

   「独立採算? 小学校の教室借用費用」 2002年11月12日

 

 どうもごぶさたしています。わたしの学校の生徒の募集情況はまあまあです。それで、教室が足りなくなり、近くの小学校の教室を借りています。その費用の件がちょっとわたしの関心を引きました。というのは、うちの学校が支払う使用料は市政府に納められるのではなく、直接その小学校の「収入」となるのです。なんでも、そのお金は最終的に先生方の「特別賞与」に化けるとか。

 まあ、日本でやったら(ばれたら)大問題になりますね。ところが、こちらでは堂々とという次第です。もっとも、厳密には中国でも「不正行為」にあたるのでしょうけど。中国では、「社会慣習」と「不正行為」の差があいまいなものなので、こんな事が起きるわけです。

 エンゲルスの「資本主義的生産の無政府性」という言葉が浮かんで来ます。「自由競争」というかっこいい言葉よりも、このエンゲルスの言葉が「中国的特色を持つ資本主義」にはふさわしいのかもしれません。

 

   「中国の観光事業」 2002年10月6日

 

 1日から6日まで四川の九塞溝・黄龍に行ってきました。共に世界遺産に登録されている中国の自然保護区です。私の筆力では、その自然景観を言葉にするのは難しいのですが、一言で言えば、北海道の山々を彷彿とさせる山岳景観の中に、「上高地」「尾瀬」「クワウンナイ」が同時に存在しているとでも、言えばよいのでしょうか。(ご希望があれば、写真を添付ファイルでお送りします) つまり、「水の美」が凝縮している地域なのです。まさに、日本人好みの自然景観と言えましょう。

 ・感心した点1・・・中国の観光地に見られるゴミの氾濫が見られない。お得意の「人海戦術」でゴミ回収員が大量に動員されている。東京ディズニーランドのように、ガムの包装紙のようなほんの小さな紙くずも、彼らは見逃さず回収している。そのためか、ポイ捨てする観光客もほとんど見られない。違反者は五百元の罰金を課せられるという効果もあるかもしれない。また、区域内は禁煙である。

 ・感心した点2・・・トイレ。水洗式ではなく、便器にビニール袋が据え付けられており、便は自動的にそのビニール袋の中に回収されるようになっている。ただし、その後の廃棄方法については聞き漏らした。バスを使った移動式トイレもあり、それも前述の装置を使っている。

 ・感心した点3・・・九塞溝内にはチベット族の集落があり、彼らは従来の生活スタイルを続けることを保障されている。北海道の「アイヌ村」のような「観光村」とは異なる。

 ・問題点1・・・オーバーユース。入場料が六十元と比較的高価であるにもかかわらず、冬の札幌地下街を歩くのと変わらないほどの混雑。九塞溝では、区域内を低公害バスが走っているが、入場者にあわせて増便しているためひっきりなしに、バスが走っている。これでは、いくら低公害車でもその効果は疑わしい。遊歩道はあることはあるが、ほとんど利用されていない。バス路を観光客が列をなして歩いているという状態。

 ・問題点2・・・九塞溝と黄龍を結ぶ道路ははっきり言って自然破壊。立山の美女平と室堂を結ぶバス路と同じ。大雪横断道路ができた時の光景を想像させた。

 今、中国は「消費社会」の入り口、「観光ブーム」の入り口にさしかかっているわけですが、観光地のオーバーユースはもはや日本以上になっています。もちろん、こうした動向の恩恵を受けるのは、わずか数パーセントの都市部の人間だけですが、その「わずか数パーセント」でも千万人単位の数になるわけです。

 第一報ということで、まったくまとまりのない文章になりました。どしどし質問をください。体験したことはもらさずお話しするつもりです。

 

 

   現代中国についての三つの疑問 2002年9月29日

 

 1.中国の経済体制は「社会主義」的だろうか。

 

 かつて、日本の資本主義を評して「脱資本主義」だの「会社社会主義」だのと断定する御仁がございましたね。その方たちの拠って立つ根拠は、「日本は法人資本主義なので、資本家はいない」というものでした。この「理屈」、中国共産党が喜びますでしょうね。なにしろ「中国は社会主義体制を堅持している」という建前中の建前を擁護してくれるんですから。えっ、おわかりにならない。すみません。私は話をはしょる癖があるんで・・・・。

 

 つまりですね。いまの中国では、かなりの企業が「お上」の手から「下々」に移っているんですな。例えば、私の住む福州では「水道」企業まで「下々」が経営しているんですよ。で、その「下々」企業の大多数は「有限公司」、ようするに「株式会社」です。中国ではこれを「集団的所有」という難しげな名前で呼んでいるんですが、「株式会社」であることは間違いない。「株式会社」である以上、「多数の人々の社会的所有であり、個人資本家の所有ではない」したがって、「中国は社会主義体制を堅持している」というオチになるわけです。

 

 どうでしょう。この「理屈」、日本を「脱資本主義」「会社社会主義」とおっしゃる御仁のお話といっしょじゃありませんか。いやしくも、「アソシエ」の会員の方ならば、この御仁の「理屈」がアホラシいというのはおわかりでしょう。奥村宏先生のご本を読めばそれで済むと思いますのでここではいちいち批判などしません。で、中国のお話です。この御仁の「理屈」がおかしいならば、「株式会社」が企業の多数を占める中国の経済体制が「社会主義」的であると断定するのも、少々ためらわれるということになりませんか。

二点付け加えておきましょう。

 

 「社会的所有」ならば、当然「労働者の経営参加」や「剰余分配制」(ただし、ボーナス制はあります)があってしかるべきですね。でも、多くの中国の「有限公司」にはどちらもないのです。「経営者」層(大多数は株主でもあります)の一ヶ月の賃金の中には1万元に達する例もあります。これに、株主としての配当が加算されるのはいうまでもありません。これに比べて一般労働者の賃金は、多くて1000元、平均で800元というところでしょうか。

 こうしてみると、少なくとも、私は「中国は社会主義体制を堅持している」と断定する気にはなれないのですが・・・・・。

 

 2.では、中国の経済体制は「資本主義」的だろうか。

 

 司馬遼太郎が「商売は人を正直にする」と言ったことがあるそうです。つまり、完全競争下の市場経済は、「価格」と「品質」だけの「正直な」競争になり、価格も一定の水準に落ち着くというわけですね。ぼろ儲けもないかわりに、大損もない、また、不正行為も結果的には信用を失う羽目になるということだと思います。

 

 この「理念」としての市場経済(現実には決して存在しなかったものですが)と現実の中国を比べると、あまりに落差があるんですね。何よりも偽物の氾濫が目に余ります。なにしろ、偽札すら「日常茶飯事」なのですから。日本で偽札が発見されたら、新聞の三面に大きく載りますね。「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という伝で言うと、まあ、偽札は私たちの日常生活ではめったに見られないことだからニュースになるわけですね。ところが、中国では、そんなものはニュースにはなりません。お店の小姐はお客から紙幣を受取ると、まず引っ張ったり、透かして見たりします。偽札がどうか確かめているんですね。偽札はお乞食さんや「夜の小姐」と同じぐらい「ありふれている」ことなんです。

 他にも、納期は守らないとか、指図書どおりの製品はめったにないとか・・・・。まあ、こんなことは私なぞがおしゃべりするよりも、ご友人の商社マンにでも聞いてください。それこそたっぷりとお話してくれると思います。

 

 さて、司馬遼太郎の発言に戻ります。この発言はまた、「成熟した市場経済ではそれに対応する倫理も生み出す」ことも言っているんじゃないかと思うんです。よく、「お客様の笑顔が私たちの何よりの報酬です」なんてのがありますね。「ウソ、こきやがれ」と言うのは簡単ですが、私は100パーセント、ウソとは断定できないんです。「良い製品をつくるこによって、社会に奉仕する」と、新入社員を前にして社長さんが言うとき、本人もある程度は自分の言を信じているのじゃないでしょうか。少なくとも、成熟した市場経済ではこうした倫理が発酵して来るとは言えましょう。

 

 ところが、中国では・・・・というお話になるわけですが、はっきり言って、そうした倫理の「最小限綱領」―「同意の契約は履行されるべし」もちゃんと守られているか怪しいものです。もちろん、前にレポートしたように、かなりお店の小姐のマナーはよくなっています。それでも、「お客様に奉仕することによって、間接的に社会に奉仕する」なんて意識までには至っていないでしょうね。私事になりますけど、私は福州の日本料理店に出張講義に行ったことがあります。そこで、日本語を教えると同時に「接客マナー」というものを教える羽目になりました。「常にお客様の立場になって考えましょう」なんてことを言ったりしたわけですよ。「日本語の動詞の活用はウンヌン」なんてことの前に、まずそんなことを教えんきゃならないんですね。もっとも、授業の後、「私もついにブルジョアイデオロギーの奴隷になったか」とさすがに可笑しくなりましたが。

 

 結論を急ぎましょう。要するに、現代の中国は、急激に資本主義化は進んでいるものの、成熟した欧米・日本のような資本主義経済にはまだ達していない、少なくとも、文化・倫理等の上部構造を包含する「資本主義の精神」を体現した社会にはなっていないと、言うことができると思います。言葉を変えれば、統制経済が急激に退場した後、その空白をウェーバーの言う「パーリアキャピタリズム」が襲った社会とでも言えるのではないでしょうか。

 

 3.でも、政治的には「資本主義」とははっきり異なるのでは・・・・・・。

 

 おっ、声が聞こえますね。「共産党が一党独裁を行なっている以上、資本主義的な体制ではないよ」 じゃ、あなたは「社会主義」と思うのですか。「いや、『本当』の社会主義でもない」おっ、出ましたね。「『本当』の社会主義」という言葉が。

 いや、私はあなたをからかっているわけじゃない。基本的にはあなたのご意見に賛成です。政治機構に限れば、いうまでもなく「資本主義国家」の「議会制民主主義」とは決定的に異なりますし、かといって、「『本当』の社会主義」でもないでしょう。でも、「『本当』の社会主義」というのはあまりにも曖昧模糊としています。浅学非才の私には、この言葉の定義を、自信を持って言うことができないということなんです。

 

 ただ、こんな私でも以下のことだけは言えるでしょう

現在の中国共産党は経済体制については資本主義化を進め、「社会主義とは何か」という議論をまさに曖昧模糊にしています。にもかかわらず、「中国共産党の指導」という原則だけは絶対に譲りません。要するに「社会主義とはどんなものかわからんでいい。でも、社会主義の理念の唯一の体現者、共産党は正しいと信仰告白しろ」と国民に「指導」しているわけですね。少なくとも、この態度は「『本当』の社会主義」の体制ではないと言えるでしょうね。せめて、社会主義を基本理念とする諸政党の平等な連合政権(民主諸党派という「刺身のツマ」がありますが、これらの政党も共産党の『指導』を受け容れることになっています)というのであれば、評価はまた違ってくるのですが・・・・。

 いや、このあたりの議論はそれこそ「アソシエ」会員の得意とするところ。私なぞがしゃしゃり出るのは恐れ多い。このあたりにとどめておきましょう。

 

 4.とりあえずの結論のようなもの

 

 「パーリアキャピタリズム」と「一党独裁」。私の言いたいことは結局、この二つに収斂します。しかし、実はこの二つが結びついているのは、「社会主義」と称される体制だけではありません。第二次大戦後に独立した発展途上国は、多かれ少なかれ、ほとんどがこの二つが結びついたものであると言ってよいでしょう。いわゆる「開発独裁」型の国家ですね。現代の中国のことを語るとき、この「開発独裁論」は重要な武器になる―これが私の「とりあえずの結論のようなもの」です。

 まあ、素人の思いつきとして聞き流してください。

 

 ()、これは、「アソシエ・ニュースレター9月号」に掲載された論考の転載です。

 

 

   「図書館員と『ひつばおん』」 2002年9月15日

 

 中国語版『物象化論の構図』の張一平氏の紹介文を翻訳しているところです。この作業で、あらためて広松氏の「すごさ」(問題点も含めて)を感じています。

 さて、日本人でも知っている中国の「反抗精神の塊」と言えば、私は二人の人物?がすぐ思い浮かびます。一人は毛沢東、もう一人?は孫悟空です。

 で、この二人ある種の「コンプレックス」を持っていることでも共通です。前者は北京図書館の司書として、周りのインテリたちに引け目を感じ、後者は「ひつばおん」という、天界の最下層の馬飼い役人であったことがあり、「ひつばおん」と言われると、すぐ頭に血が上ってしまいます(それにしても中国ですね! 神様の世界にも官僚制があるのですから)。

 しかし、コンプレックスの反作用は大きい。前者は「文化大革命」を起こし、後者は天界をメチャクチャにしました。毛沢東は若いころ「本馬鹿」と言われるほどの読書家であったことは知られています。それにもかかわらず、文革期には「本を読めば読むほど馬鹿になる」なんて言っています。毛沢東の心の中には「知識に対するとほうもない憧れ」と「知識人に対する反発」が同居しているわけですね。悟空も天界と一人で渡り合える力を持ちながら、フォーマルな立場は最下層の役人「ひつばおん」なのです。

 ここまで書いているうちに、丸山真男が(多分)吉本隆明を「半インテリ」と揶揄したことを思い出しました。そのときの吉本の怒り狂いぶりは有名ですね。

 私は、どうしても毛沢東や悟空や吉本の気持ちに同情的になってしまいます。ええ。私も大学院にも行っていない「半インテリ」ですから。

 

 

   「廣松渉の中国語版『物象化の構図』」 2002年9月1日

 

 中国語版『物象化の構図』やっと昨日入手しました。

 中国にしてはデザインも斬新。何より驚いたのは表紙をめくると、バーンと一面に廣松氏の写真。毛主席の本でもこんなことはないですよ。日本語版との異同はこれからじっくりと検討することにして、まず、翻訳の統括者の張一平氏の紹介文を読みました。その中で「なるほど」とか「面白い」と思ったのは、以下の三点です。

 一、中国の研究者の多くは「ハイデッガーと初期マルクスの関係」を検討しているが、廣松は「ハイデッガーと中後期マルクスとの関係」に着目している(張氏はZuhandensein的世界観というものにとくに関心があるらしい)

 二、廣松は二つの「物象化」を区別していない。
 「マルクスはさらに一歩進んで資本主義的生産過程中の二種の物化を区別している。一つは、『個人のその自然的規定性の上での物化』である。これは一般的な意味で言われる、人が生産中に行なう自然的対象への占有と対象化であり、社会の存在と発展の基礎である。二つには、資本主義的生産の中で人の物化がまた『個人の社会関係上の物化として、同時にその物化がその個人に対して外在的なものとして』表現されることである。それはすなわち、歴史の主体が顛倒して客体として表現され、人の関係が逆立ちして物の関係として表現され、かつ人が自己の創造した経済的諸力の奴隷となることである」p13。

 「何だ。『疎外論者』の対象化と疎外の区別ウンヌンの議論と同じものじゃないか」という批判は簡単ですが、廣松の論理に従うと「すべてが物化されてしまうのじゃないか」という疑問は、私も持っていますから、素直に耳を傾けたいと思います。

 三、「東方(大和)の特色を持つ廣松哲学」p21
 これは「アソシエニュースレター」六月号で直江清隆氏が紹介されているとおりですが、「大和」の特色を持つと言われると・・・・・・。うーん、ちょっとね。

 

   「やられました」 2002年8月22日

 

 やられました。やられました。ついに偽札を掴まされました。それも100元という高額紙幣。(なんか喜んでるみたいですね(^_^)

 事の起こりは今週の月曜日。私は「中国銀行」から200元を下ろしました。翌日、その一枚をマクドナルドで使ってみると、小姐が「偽札だ」と言います。すぐに「中国銀行」に行って、「偽札発見器」(中国ではこういうものがあるのです)で確かめてみると、「本物」というご宣託。

 しかし、その翌日また別の店でそいつを使ってみると、店のおばさんがまたまた「偽物」と言うのです。中国では小さな店のおばさんでも偽札を見抜ける目があるのですね。そこで、またまた、「中国銀行」へ。なんと話を聞くと、「偽札発見器」もWindowsのようにたまにフリーズすることがあるというのです。要するにこの100元札は「本物の」偽札でした。

 中国の法律では、偽札は即没収。持っていた人間にはなんの保証もありません。私は100元を泥棒されたのと同じなのです。でも、「中国銀行」が私にくれたお札です。納得いきません。そのことを言うと、もつろん、銀行員の小姐は「そんなことは絶対にない」と言います。まあ、そうでしょう。銀行が偽札を渡したとなったら、いくら「馬馬虎虎」の中国でも、いくら偽札が「日常茶飯事」の中国でも、大問題になります。

 思い出しました。私は預金を下ろしたその夜、例の焼肉屋のオヤジの店で飲んでいたのでした。帰りはタクシーに乗りました。小銭がないので100元札を渡すと、運転手さんは「つりがない」と言います。持っていた小銭はあわせて5元。料金は7元。運転手さんは「それでいい」と言うのです。なんと親切な人だろうと思ったのが甘かった。多分、私が100元札を渡した時に、偽札とすりかえたのでしょう。銀行の小姐も「わたしもやられたことがある」と言いました。銀行員がだまされるなんて・・・・。このオチで私もやっと諦めたわけです。

 それにしても、マックの小姐が見破らなかったら、またマックからそのお札を受取った人もわからなかったら、またまたそのお金を受取った人も・・・・・となれば、物事は万事円満に行くわけですね。それどころか、「需要拡大効果」も持っています。うん?この理屈はどこかで・・・・・・・・。

 

   「待業青年とマイカー送迎中学生」 2002年8月4日

 

 福州の本屋にはまだ中国語版『物象化論の構図』は置いていないようです。今日、注文しておきました。

 さて、夏休が始まりました。私の午前のクラスにも中学生、高校生、大学生が参加するようになりました。それ以外はほとんど「待業青年」。要するに失業している若者です。中国(の都市部)ではもはや高卒ではなかなか仕事が見つからないようですね。新聞の人材募集コーナーを見ても、高卒は当たり前。大卒に限定している募集広告も想像以上に多いです。それから比べると、日本の「就職難」なぞまだまだ贅沢な話です。

 その一方、ついに出るものが出たというのもありましたね。

 ちょうど「手段」を示す助詞「で」の説明の授業でした。私が「あなたは何で学校に来ますか」と問うと、一人の中学生の女の子が「車で来ます」と答えたのです。最初は中国お得意の「公私混同」、つまり企業や役所の車を個人的に使っているのかと思いましたが、どうやらそうではないようです。マイカーというわけです!

 待業青年とマイカーで送り迎いをしてもらう女の子。私の教室は現代中国の縮図です。

 

 

   不思議な「理容店」や「温泉サウナ」 2002年7月15日

 

 いや、暑い日が続いています。ここ福州では35〜36℃は当たり前。北海道出身の私にはこたえます。

 ビザの切り替えで香港に行って来たことは前に述べましたが、その時は、十二月の時と同じように夜行バスで深センまで行き、そこから、「国境」(みたいなものですね)を越えました。

 で、その深センで不思議なことに気付きました。長距離バスのバスセンターの近くに理容店がずらっと並んでいるのです。そして、人がその前を通る度に、お店の小姐が手で招くのです。そんな店が何軒も軒を連ねているのです。

 「単なる理容店じゃないな」と感じていましたが、福州に帰って知人に尋ねると、やはり「そんなお店」だったのですね。

 中国では「そんなお店」がいたるところにあるようです。例えば、福州でも私がよく行く「温泉サウナ」(福州は市内で温泉が湧いています)でも、薄暗い休憩室で小姐が私に声を掛けてきます。

 「公安の手入れはないのか」と知人に尋ねたら、「まったくない」と断言しました。それどころか、「公安員もサービスを受けているはず。店のオーナーは公安のお偉いさんにそれなりのものを送っているはず」とも言うのです。

 いやはや、なんとも、もう・・・・・・・。

 

   「陳独秀とマーリン、葉剣英」 2002年6月24日

 

 一人の人間について調べていると、その周囲の人間で「気になる人」が出でてくるものですね。「浮気性」と言ったらそうなのでしょうけれど・・・・。

 陳独秀の周囲の人間で気になる人が二人出てきました。

 

 一人は、コミンテルン代表のマーリン(スネーフリート)。オランダ人で、インドネシアでインドネシア共産党の前身、「東インド社会民主連盟」を創設し、当時のインドネシア人の大衆団体「イスラム連盟」にそのメンバーを加入させるという戦術を生み出し、「社会民主連盟」の勢力を拡大させました。また、コミンテルン大会に出席、レーニン、ロイとともに「民族植民地問題に関するテーゼ」の作成に貢献しています。そして何より重要なことは、コミンテルン代表として中国に来て、中共と国民党との「党内合作」を実現させたことです。この「党内合作」という、ある意味では珍妙な統一戦線の形は、彼のインドネシアでの経験と切り離して考えることはできないでしょう。

 

 で、面白いのは「党内合作」を立案した人物、すなわちマーリンとそれを推進した人物、すなわち陳独秀とがともに、「党内合作」に反対したトロツキーの支持者になったということです。陳独秀は率直に「党内合作」の誤りを自己批判していますが、マーリンはどうだったのでしょうか。関係文献をあたっても、いまひとつはっきりしません。今後の私の宿題と考えています。

 

 陳独秀の関係者としては、 マーリンは識者にとってはまあ奇異としないでしょうが、もう一人の人物はどうでしょうか。その人物とは葉剣英元帥なのです。

 

 なぜこの人物に興味を抱いたかと言うと、離党後の陳独秀と党の間の連絡役をしていたのですね。また、王凡西の『中国トロツキスト回顧録』にも、第二次国共合作成立後、「国民党政府の獄中にいたトロツキストの自分を葉剣英が探しに来てくれた」とあります。「トロツキストはファシストの手先」と言う王明・康生などが党内にいるにもかかわらず、こうした人物と連絡を取っていたわけです。そして、最近話題になった『毛沢東秘録』。あの本の主人公は毛沢東でも四人組でもケ小平でもない。まさに葉元帥なのです。

 

 葉元帥は周恩来とともに中共の「柔軟さ」を象徴している人物に思えるのです。もし、葉元帥が「天安門事件」の時まで生きていたなら・・・などと考えてしまいます。

 

 

   「陳独秀について」 2002年4月2日

 

 最近一冊の本を読み終わりました。上海復旦大学中国語文研究所教授、朱文華氏の『終身の反対派―陳独秀評伝』という著作です。

 陳独秀と言えば、かつては「右翼日和見主義」「裏切り者」の一言で片付けられ、文革期にはその墓が紅衛兵によって破壊されほどの「悪役」でした。しかし、現在では「双百政策」(百花斉放・百家争鳴)が学術界にはある程度浸透しているようで、この本ではかなり客観的な評価がなされています。

 中共創設期の役割については高く評価されているのはもちろんのこと、第一次国共合作の末期における国民党との「妥協」についても、その第一の責はコミンテルンの指導にあると断言しています。それどころか、トロツキー派への転向後の言動についても、一定の評価がなされています。例えば、国民党政府がソ連の中東鉄路(帝政ロシアから受け継いだ満州の鉄路)の職員を大量逮捕したとき、中共は「ソ連擁護」というスローガンを提出しましたが、これに対して陳独秀は「民衆の感情を考慮していない」と批判しました。この言動についても「基本的に正しいと言うべきである」との評価がなされています。

 いや、陳独秀の理論的指導者たるトロツキーその人についても、明確に「革命に功あり」と断言し、「スターリンが編集を指導した『ソ連共産党史』の中のトロツキー全面否定は、採用できない」と批判しています。

 我々には「常識的」な見方でも中国においては「大胆な見解」と言うべきでしょう。その他、中国のトロツキー派の動向についてもかなり詳しい内容になっています。日本の新左翼諸党派同様、ここでもセクト主義と離合集散がはなはだしかったことがわかります。そしてまた、彼らの小児病的傾向と陳独秀との違いも明白に記述されています。それは、陳が「近代民主主義」に高い評価をしていることを特記していることに現れています。すなわち、陳独秀はトロツキーの左翼的反対派の傾向というより、彼の「西欧的知識人」としての性向を受け継いでいると、著者は言いたいのだと私は解釈しました。

 この本を訳してみようと思っています。『情況』で出版してくれるかな(^_^;)

 

   「食生活の変化」 2002年3月17日

 

 大戦中のお話ですが、蒋介石は敗戦続きの将兵を前にこんな講話をしたそうです。
 「日本の兵士は冷や飯を食い、水で顔を洗うという。ところが諸君たちは暖かい飯、暖かいお湯じゃなきゃいやだと言う。冷や飯を食っても闘える兵士と暖かい飯じゃなくてはだめだと言う兵士―どちらが強いかは明らかだ。諸君たちも敵の立派なところは見習え」

 日本人は「冷や飯」を食い、中国人は食べない―これは確かに事実でしょう。しかし、蒋介石はある事実を隠しています。日本の米と中国の米との違いです。中国の米は冷えるとボソボソになり確かに「冷や飯」では食べられるものではない。ところが、日本の米は「冷や飯」でも美味いわけです。(『美味しん坊』で「コシヒカリの水漬け」というメニューがありましたね)

 ところが、最近の中国の米事情は違うのです。日本の米と同じ食感の米が流通しているのです。しかも、―ここが重要なのですが―このような米は中国の東北地方でしか生産されていないのです。つまり、ある程度の経済力のある南方の人間は現地で生産された米を食べずに、北方から移入された米を食べているわけです。

 「現地でも生産されている基礎的消費財を嗜好のゆえをもって他地域から移入する」―これは「消費社会」の一つの特徴でもありましょう。いや、米だけではありません。中小都市でもマック・ケンタッキーがあり、若い人でいっぱい。古いタイプの市場(しじょうではなくていちば)がなくなり、スーパーマーケットに人が集まる。さすがにマイカーは少ないものの、自転車に替わってバイクが走り回る―中国は確実に「消費社会」へと向かっています。

 

   「似て非なるもの」 2002年2月23日

 

 みなさんは、「麻婆豆腐」はご存知ですね。では、「麻辛豆腐」はご存知ですか?
あまり知っている方はいらっしゃらないでしょう。まあ、「豆板醤ソースで豆腐を煮た料理」という意味では、同じものと言えるでしょう。じゃあどう違うのか?これには三つの説があるようで・・・・。

 

 一般的中国人・・・・「同じもの」

 厳家其『文化大革命史』での説・・・・「紅衛兵が、『麻婆豆腐という名称は封建的な名称である』と言って、麻辛豆腐に変えさせた」

 

 私の行きつけの四川料理屋の小姐の説・・・・「ひき肉が入っているのが麻婆豆腐。入っていないのが麻辛豆腐」

 

 うーん。難しい。でも、これならはっきりしています。「党員」と「コミュニスト」。前者は、「おえらいさん」の意味で、後者は、コミュニズムを信奉している者。要するに、「党員」の中には、「共産主義」なり「社会主義」の意味を理解している者がほとんどいないということですね。というのも、最近新聞でこんな事件を見つけたからです。

 

 とある村の副書記が、村のやくざの後ろ盾になっていたというんですよ。このやくざは強盗・恐喝はては殺人事件まで起こしていたとの事。しかし、この悪事は村の副書記によって外部に隠されていたというのです。悪事が露見して、やくざは死刑、副書記は懲役刑を食らいました。この世界はどう考えても「マルクス主義」うんぬんの世界じゃない。まさに、前近代社会、「黄門さま」の世界ですね。多分、こうした連中は『党宣言』も読んでいないんじゃないかな。

 それにしても、腐敗行為を行うのは副書記が多い。(今、中央は徹底的に不正撲滅運動を進めていて、かなりの党員が死刑になっています) 中央から派遣された「官」は実際は何もせず、「吏」(土着の実務者)に一切を任せるという中国伝統の官僚制が今でも生きていて、それが腐敗の温床になっているということでしょうか。

 

 

   「飛び越えた革命」と「飛び越えた文化」 2002年1月24日

 

 歴史上「社会主義革命」と称されるものは、ほとんど「段階を飛び越えた革命」でした。前近代社会から「資本主義を飛び越して」、共産党が権力を握ったわけです。この戦略はコミンテルンの「民族植民地問題に関するテーゼ」に集約されているのは周知のとおりです。私は、もちろん様々な問題点が噴出したことを承知しながらも、当時の戦略としては正しいと思っています。

 しかし、肯定するのは「権力奪取」という一点においてだけです。「段階を飛び越えた革命」が「資本主義を凌駕する経済さらには文化」を創造しえたかというと、おおいに疑問を持っています。むしろ、前近代の負の遺産がそのまま「社会主義」と称される体制の土台の一部になってしまったからです。

 中国に即して具体的に言いましょう。「身内に対する甘えと外部の人間に対する徹底的無関心」「契約・法等ルールに対する無理解」「公共マナーの完全な欠落」「権威に対する盲従」などなど−要するに「阿Q精神」ですね−が相変わらず見られます。このような前近代性にくらべると、西欧流の近代的マナーはいかに偽善的に見えようと、はるかに優れたものであると言わざるをえません。

 「飛び越えた革命」は可能であるし、実際実現しました。しかし、「飛び越えた文化」については、私はかなり疑問を持っているのです。「社会主義市場経済」なるものを賛美するわけではありませんが、少なくとも「近代的な人と人との交流」を十億の民が学び取る手段としては、少しは意味のあるものじゃないかなと、最近は思うようになりました。

 

 

   「中国における労働価値説研究」 2002年1月15日

 

 書店にて中国の研究者による労働価値説研究の論文集を入手しました。彼らの関心は、「価値形成的労働とは」という点に集中しております。日本ではそれこそ「耳にタコ」の議論ですね。

 私自身はほとんど興味のない議論(@商品を生産しない労働は、それが別の価値基準からはどんなに尊いものであっても、資本主義経済では0である、Aいわゆる「資本家的労働」の肩代わりをするものは価値形成労働的労働ではない、という二点を抽象的に確認しておけばそれでよい)で、ましてや、それが現実の資本主義あるいは「社会主義」と称される経済体制下のどの労働が「価値形成的」であるか、などという議論はアホラシイ限りと思っております。

 しかし、中国でこうした議論が起こっていることには少し興味が湧きました。結局彼らの議論は「社会主義市場経済」における「管理労働」を「価値形成的労働」として認めよ、ということに尽きるわけです。さすがに、「本音と建前」の国です。原則中の原則たる「労働価値説」は言葉の上では死守する。しかし、現実の「社会主義市場経済」を擁護するためには、マルクスの基本的視点も修正してもかまわないというわけですね。「管理労働」が「価値形成的労働」などというのはどう考えても、労働価値説の否定としか言い様がないと思うのですが・・・。いや、労働価値説を否定するということが学問的に真摯な考察から来ているのなら、私はそれを尊重したい。そうじゃなくて、建前としては認めて、現実の党の政策に合わせて、事実上はそれを否定するというところに、中国のマルクス主義研究の前近代性を感じとってしまうのですが。

 みなさんはどう思われますか。

 

 

   「魂に触れる革命」 2001年12月3日

 

 今、中国では「魂に触れる革命」「文化大革命」が進行中のようです。

 15年前、私が中国(貴州省貴陽市)にいたころ、「没有」が外国人の一番最初に覚える言葉でした。この言葉の深遠さは、「疎外」や「物象化」どころではありませんでした。なにしろ、「ある」けど「ない」のです。お客が国営デパートに行って、「何々はありませんか」というと、売り場のお姉さんは、いかにもめんどくさそうな顔で一言。「没有」。でも、あたりをよく見ると、ちゃんと「ある」ではありませんか。ですから、この言葉の意味は「あんたとは何の義理も縁もない。そんな人間のためにわざわざケースを調べて探し出す必要はない。だから、ないんだ」ということになるわけですね。

 ところがどうでしょう。今では、お客が来ると、笑顔!で「いらっしゃいませ」。商品を渡す時、お金を受け取る時、「ありがとうございます」。そして、お客が帰るとき「お気をつけて」とくるのです。これじゃお客の方も「ありがとう」と言わざるを得ない。すると、「どういたしまして」と返事が返ってくるのです。

 これはまさに「魂に触れる革命」「文化大革命」ではないでしょうか。あの超カリスマの毛沢東でさえなしえなかったことが、自然になされているのです。この「革命」の原動力はいうまでもなく「銭の力」です。「げに、銭の力は偉大なり」と嘆息せざるを得ません。

 さて、この「銭の力」に対抗する運動はこれほどの「革命力」があるのでしょうか。

 「アソシエーション」的結合の重要な道具としてletsや「労働証券」があるわけですが、これらと「銭」とでは今のところ「革命的力量」があまりに違います。「豊かになりたい」という人々の気持ちは現代ではピューリタ二ズム的に否定することはできない。したがって、この気持ちをどう取り入れていくかが「アソシエーション」的運動にとって決定的になると思われますが、いかがでしょうか。

 

 

   「もう中国は資本主義社会」 2001年10月30日

 

 中野英夫です。中国からの第一報を送ります。

 現在私は中国福建省の福州市にいます。ここの日本語学校で日本語を教えることになりました。

 中国の発展の度合いは私の想像以上のもの。上海などはもはや東京やニューヨークに等しい街になったと言って過言ではないでしょう。当地に来て、資本主義経済の底力を感じさせられました。はっきり言って「共産党」を名乗る開発独裁政権の一党支配を除いては、もう中国は資本主義社会と言ってよいと思われます。

 とにかく、驚きの連続です。

 

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 (関連ファイル) 中野英夫『加々美光行著「歴史のなかの中国文化大革命」書評』

 (中野メール)  cee54260@hkg.odn.ne.jp

 



[i] 本稿は学術論文と言うよりも一個人の思想ノートと言ったほうがよいだろう。本稿は当初1994年に執筆されたものだが、その後若干の訂正を施している。しかし、原稿の状況および私が晩清から現代にいたる思想史の研究に専念していたと言う理由から、1994年以後に発生した一連の議論についてはその対象とすることはできなかった。当時の執筆の動機は主に自己の思想の整理のためであった。私には、この文章の構成についても言及すべき資料についてもさらに修正、論証、補充の必要があることは明らかだった。このゆえ、友人の再三の励ましにより、この文章をここに新たに発表した次第であり、このたびの目的は主に議論を引き起こすためである。

[ii] Gilbert Rozman主編の《中国的現代化》、国家社会科学基金「比較現代化」課題グループ訳、江蘇人民出版社 1988年を参照のこと。

[iii] 50年代に中国が近代化を推進した際の都市と農村との関係の問題は、中国共産党が新民主主主義を放棄し、直接社会主義段階に入っていった原因とも関わっている。金観涛、劉青峰《開放中的変遷―再論中国社会超穏定結構》(香港 香港中文大学 1993年)の第九章《従新民主主義到社会主義》はこのことについて深く明晰な研究をしている。p411~460

[iv] 《中国革命与中国共産党》などを参照のこと。《毛沢東選集》北京 人民出版社 1996年版 p610~650。 

[v] 1979年以後の農村改革の意義は50年代以後の歴史の中において理解する必要がある。その動機から見ると、集団化モデルは一方で資本主義の弊害を避けることができ、また小農経済への改造を通じて近代化へと向かわせることができたように見える。しかし、生産奨励のメカニズムが欠乏していたゆえ、集団化は一定程度効率の低下を招いた(林毅夫《制度、技術与中国農業発展》 上海三聯書店 1992年版 p1643)を参照のこと。さらに重要な点は、「農業外への就業機会の拡大を阻害した。政府は工業化を目標としていたけれど、農村においては逆に農業以外への就業機会を極力制限していたのである。政府は・・・・・農村に対して厳しい統制をおこなったので、この制限は非常に有効であった。以前と比べても、集団化の時期の個人の選択の自由度は増大しなかったばかりではなく、かえって縮小さえして、農村経済の発展は厳しく束縛されたのである」1979年以降の農村改革は「比較的自由な『機会構造』を提供し、地方共同体と個人の農民に自主性と実験の自由を提供した。このようにして、彼らは自由に多種多様な経済発展の道と就業機会を探し出していったのである」(高寿仙《制度創新与明清以来的農村経済発展》 《読書》19965期 p123~129を参照のこと)。また、黄宗智はこう指摘している。改革以来の変化は「いく人かの人々の想像しているような、自由市場化された家族農業に対する高度な刺激力の結果、農業生産の劇的な突破が生じたというものではなく、農村経済の多角経営および農業余剰労働力の農村外就業による移転のゆえなのである」。彼はさらにこう言っている。「中国の80年代の改革の中で、長期的かつ最大の意義を持った農村の変化は、農村経済の多様化にともなって生まれた農業生産の反過密化現象であり、広く信じられているような市場化された農業生産ではない。・・・・・80年代の請負制の導入にともない、農業生産量はむしろその増長を止め、極少数の農民だけが静電モデル(?)と政府の宣伝機関の予言した道を進んで豊かになったのである。率直に言うと、80年代の市場化された農業は作物の生産上においては、1350年から1950年に至る600年間と比べて、あるいは集団化農業の30年間に比べてもけっして良い状態ではなかったのである」「長江デルタの農村の本当に重要な問題は、過去においても現在においても、市場化された家族農業かあるいは計画経済下の集団農業かということではなく、資本主義か社会主義かということでもない。それは過密化か発展かということなのである」(《長江三角州小農家庭与郷村発展》 北京 中華書局 1992年版 p16~17

[vi] 羅峪平《終始不能忘記農村的発展―訪国務院研究中心農業問題専家盧邁》 《三聯生活周刊》 1998731日第14期 総第68期 p26

[vii] 蘇文《山重水複応有路―前蘇東国家転軌進程再評術》 《東方》 1996年第1期 p37~41を参照のこと。この一文は前ソ連、東欧の経済改革問題について議論をしており、ここで論及されている基本原則はチェコの経験を指している。

[viii] マルクス主義的人間主義に関する議論は周楊が始めたのではないが、彼のマルクス逝世百周年大会の報告がマルクス主義的人間主義に対する批判を引き起こした。この報告を改稿したものは1983年3月16日の『人民日報』に発表された。原文は出席者に配布された後ただちに回収されている。この報告の題は《関於馬克思主義的幾個理論問題的探討》という。マルクス主義的人間主義に対する最も有力な批判は当時の党内理論家胡喬木から発せられた。彼は1984年1月3日、中共中央党校で講話をし、指名こそしなかったものの周楊やその他の理論家の観点に対し理論的批判を行った。この講話はまず中共中央党校の《理論月刊》に発表され、後に人民出版社によって単行本として出版された。書名は《関於人道主義和異化問題》(北京 人民出版社 19841月版)という。しかし、実際上はこの問題についての議論は1978年後、早くもいく人かの理論担当者の注意を引き起こしていた。人民出版社は1981年1月に《人是馬克思主義的出発点―人性、人道主義問題論集》(北京 人民出版社 1981年版)を出版しているが、この中には、王若水、李鵬程、高尓太などの文章が収録されている。注意するべきは、これらの議論の中で人間主義的な抽象的人と人性の概念が論証の基礎とされているところである。この中では、人間主義に対立するものは神中心主義と野獣主義であり、前者の指しているものは宗教的専制で、中国の環境の中では「文革」の中の「現代の迷信」を隠喩しおり、後者の指しているものは封建的専制とファシズムで、中国の環境の中では「文革」の中の「全面的独裁」を隠喩している。ソ連、東欧の関連した議論の影響を受けて、中国のマルクス主義的人間主義者は、マルクス主義は人間の問題を重視するものであるのに、スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』はこの問題に対して充分な注意は払っていないと認識したのかもしれない。この他、彼らはレーニンがマルクスの『1844年経済学―哲学手稿』(1932年公表)をまったく知らなかったとも指摘していた。王若水はまた《人是馬克思主義的出発点》と題する文章の中で、1964年に毛沢東が「疎外」概念に賛同を示し、疎外は普遍的な現象であると認識していたことがあるとも提起している。以上のことはすべて、中国の人間主義的マルクス主義が中国社会主義の歴史的実践に対して批判を加え、一方ではメタファーの形式を採用して中国社会主義の実践的問題を封建主義の問題として解釈し、他方では人間主義と疎外概念の普遍主義的な特徴を利用したことを明らかにしている。この両方の側面はともに近代的価値観、とりわけ啓蒙運動の価値観に対する肯定を暗示しているのである。このような解釈モデルの中では、社会主義は一種の非資本主義的近代化形式としては検討が進められなかったのである。逆に、社会主義の歴史的実践に対する批判は欧米の近代的価値観に対する大きな肯定となってしまったのである。

[ix] 80年代の思想的啓蒙運動の構造は極度に複雑であった。大体1979年ごろに、ある文章についての理論工作検討会議が開かれたが、出席者の多数は党内の理論家であった。南京大学哲学科の教師胡福明が初稿を執筆し、王強華、馬沛文、孫長江等の人が修訂し、1978年5月11日の《光明日報》に発表された文章《実践是検験真理的惟一標準》がそれである。この文章は事実上思想解放運動に理論的根拠を提供したものと言ってよい。この文章の作成過程についての関係者の記憶には出入りや違いがある(胡福明は、この文章は自分の文章に基づきそれを修訂して成ったものと認識しているが、孫長江は、この文章は二つの文章を合わせて成ったものと言っている)が、彼らは全員文章の修訂と発表は当時の特定の政治的状況おける産物であり、国の意志の表われだったことを認めている。孫長江は「この議論はけっして一人の『秀才』あるいはいく人かの『秀才』のインスピレーションや苦難の思考から生まれたものではない。この議論は歴史の産物であり、《実践是検験真理的惟一標準》というこの文章もまた歴史の産物である」「直接議論に参加したのは理論家だけではなく、政治家もいた」と明確に言っている。注意すべきは、所謂「国の意志」が統一された国の意志として理解されるべきではないということである。なぜなら、当時の国や党の内部には重要な分岐が存在していたからである。この文章はまさしくその一部のグループの表明なのである。この意味において、「国」や「党」はともに一枚岩の存在だと見なしてはいけないのである(この文章の発表前後の状況については、胡福明の回想《真理標準討論的序曲―談実践標準一文的写作、修改和発表過程》 広州《開放時代》雑誌 1996年1,2号および孫長江の《我与真理標準討論的開篇文章》 《百年潮》 1998年第3期 p25~29を参照のこと)。その後発表された李春光などの回想から見ると、当時の思想解放運動と高級官僚の関係は非常に密接だったらしい。《走向未来》のような若い知識人のグループを例にとっても、その中の一部の人間は1989年後各種の原因により海外に滞在したままだったり囚われの身になったりしているけれども、他の部分は逆に官僚にもなっているのである。《走向未来》叢書の状況はこうした情勢の代表的なものである。1989年以後「新啓蒙」の知識人の多くは海外に亡命したが、彼らの当時のシンパは依然として国内に身を置き要職にも就いているのである。例えば、80年代に近代経済学の思想を紹介し一時話題となった北京大学経済学教授肢ネ寧は現在、全国人民代表大会法制委員会の副主任である。これらのグループと異なるのは文学グループや人文系の知識人グループである。例えば初期の《今天》派グループや80年代中期に成立した《文化:中国与世界》編集委員会などである。これらのグループは基本的には政治的グループではなく、文学的あるいは知識的な団体、グループである。注意すべきは、《今天》派の代表人物である北島が当時政治性のある朦朧詩で著名であったけれど、同時に文学の独立的価値の熱情的な賛美者でもあったということである。《文化:中国与世界》も「文化」を旗印にして直接には政治問題には巻き込まれていない。この種の非政治性の主張は当然にもその政治性の結果でもある。すなわち、知識人の独立的地位と価値のために空間を創造しているのである。

[x] 価値法則と商品経済についての議論はマルクスの政治経済学の範疇の中で提起されたが、その中で最も影響があったのは孫冶芳であった。しかし、最近明らかにされた資料によると、孫の発表以前、顧準がすでに同じ問題を考えており、孫とも議論をしていたとのことである。価値法則に関する議論は80年代の中国の思想の特徴を典型的に示している。すなわち、マルクス主義の基本理論範疇をあらためて探求することを通じて、現実的な市場化改革に理論的根拠を提供するという方法である。

[xi] 法制問題の提起は「文革」中の冤罪の再審と関係がある。全国人民代表大会常務委員会委員長であった彭真が提出した「法の前では人々は平等である」は「文革」の結束後流行したスローガンである。しかし、理論上において建設的な意見を提出したのは于浩成、厳家其などの学者であった。

[xii] 金観涛、劉青峰が1984年にある地方出版会社から出版した《興盛与危機》(長沙 湖南人民出版社 1984年版)という著作は社会システム論の方法を用いて中国史を研究し、中国の封建社会が一種の「超安定的な構造」であるという視点を提起した。「超安定的な構造」というこの基本的観点は、両人が1993年に香港で執筆し発表した中国近代史の著作《開放中的変遷―再論中国社会的超穏定結構》の中にもずっと保持されている。

[xiii] 主体性問題は李沢厚のカント哲学に対する解説に由来している。その後彼は前後して主体性問題に関する論考を何本か発表した(李沢厚《批判哲学的批判》増訂版 北京 人民出版社 1984を参照のこと)。しかし、李沢厚の主体性に関する議論をすべての思想界に広めたのはその影響を深く受けた劉再復であった。彼は《論文学的主体性》などの文章の中で、一つの形而上学的な問題を文学運動と思想運動の旗幟に変えたのである(《文学評論》 1985年 第6期 p11~261986年第1期 p3~15)。

[xiv] 現在の中国の知識人の目に映るニーチェやサルトルは西欧の個人主義の代表にすぎないが、魯迅は早くも1907年にニーチェなどの思想家の反近代的傾向に注意を払っていた。

[xv] 劉小楓が1988年に出版した《拯救与逍遥》(上海 上海人民出版社 1988)は最初にこの問題を提起して知識界の大きな反響をよんだ著作である。彼本人もドイツ哲学の研究からキリスト教神学の研究へとだんだん転向していった。

[xvi] 甘陽《郷土中国重建与中国文化前景》 《二十一世紀》(香港) 19934月号 p4~7。 甘陽の論点に対する批評については、秦暉《“離土不離郷”:中国現代化的独特模式?――也談郷土中国重建問題》 《東方》(北京) 1994年第1期のp6~10を参照のこと。郷鎮企業に関する議論については、楊沐《中国郷鎮企業的奇跡――三十个郷鎮企業調査的総合分析》、王漢生《改革以来中国農村的工業化与農村精英構成的変化》、孫炳耀《郷鎮社団与中国基層社会》(ともに《中国社会科学季刊》総第9期 p5~17、p18~24、p25~36)を参照のこと。

[xvii] 王頴の《新集体主義:郷村社会的再組織》(北京 経済管理出版社 1996)および彼女と折暁葉、孫炳耀の共著の《社会中間層:改革与中国的社団組織》(北京 中国発展出版社 1993年版)は改革以後の中国社会、とくに郷村組織と工業化に対して詳細な研究を行っており、現在の中国の発展問題を研究した文献である。文中で言及されている内容は《新集体主義》の内容の概要から引用した。

[xviii] 同上 p204

[xix] 郷鎮企業の江蘇、浙江、広東などの地区での発展は極めて成功したものと言える。しかし、中国社会科学院社会学研究所の黄平などの調査によると、1992年以後、これらの地区での郷鎮企業の形態に重要な変化が発生した。その中で最も突出した変化は、多くの郷鎮企業が、大きな成功を収めた郷鎮企業を含め、続々と外資と合弁して新しい中外合弁企業に転化したことである。他方、中国各地区間の差異により郷鎮企業の各地での状況にも極めて大きな違いが出ている。また、郷鎮企業が大きな成功を収めた地区にあっても、それに相応する環境保護の措置を取っておらず、その結果、環境と資源にはなはだしい破壊をもたらしている。1992年に、私は天津の大邱庄に対する調査の機会を得たことがある。当地区は全国的に著名な郷鎮企業と集団化の発展の典型区である。しかし、巨大な生産量と豊かな生活の影に、はなはだしい環境汚染、生産環境の悪化、極めて問題となる不法行為が見られた。以上のことはすべて、郷鎮企業の状況に対しては具体的な分析が進められなければならないことを表明している。現在の中国農村の変化については、《読書》1996年第10期掲載の一連のレポートを参照されたい。その総題目は「郷土中国的当代図景」である。

[xx] 「ヒューマニズム精神」についての議論はまず《読書》雑誌(北京)で展開され、その後多くの刊行物に波及していった。その最初の問題提起については、張汝倫、王暁明、朱学勤、陳思和《人文精神尋思録之一,人文精神:是否可能和如何可能》 《読書》雑誌 1994年第3期 p3~13を参照されたい。これ以降、《読書》雑誌の1994年第3期〜7期に上海から来た若い学者たちの談話が続々と発表された。

[xxi] 張宝、張頤武、王一川《従“現代性”到“中華性”》 《文芸争鳴》 1994年第2期 p10~20を参照されたい。

[xxii] この「ニュースタイル」という概念は、いく人かの現代の文芸評論家によって、現代の中国文学の主要な特徴を描写するのに用いられている。その意味は、現代の中国文学中の「ニュースタイル」がイデオロギーの支配を受けないオリジナルスタイルだということである。

[xxiii] 張宝、張頤武、王一川《従“現代性”到“中華性”》 《文芸争鳴》 1994年第2期 p15

[xxiv] 崔之元《制度創新与第二次思想解放》 《二十一世紀》(香港) 19948月号 p5~16この文章に対する批評は、季衛東《第二次思想解放還是烏托邦?》 《二十一世紀》(香港) 199410月号 p4~10を参照されたい。

[xxv] 崔之元が現在の中国の経済改革中の問題に対して下した診断も論争を引き起こした問題であった。蘇文発が《東方》1996年第1期に発表した論文、《山重水復応有路》は、旧ソ連と東欧国家の改革問題についての文章ではあるが、その基本思想は崔之元の中国の私有化の進展過程に関する観点にその矛先が向けられている。これは、崔之元の中国の改革の道に対する分析が旧ソ連と東欧の改革との比較を通して進められていたからである。以上からわかるように、中国の現在の改革の道についての議論は中国の改革自体の情況の影響を受けているばかりではなく、旧ソ連と東欧の改革の情況の影響も受けているわけである。よって、将来、旧ソ連と東欧の改革の結果は中国の学者が中国の問題について思考するのに、大きな影響を与えることになるであろう。

[xxvi] 張曙光《個人権利和国家権力》 《公共論叢》 bP 1995 三聯書店 1995版 p1~6

[xxvii] 布羅代尓《資本主義的動力》 三聯書店 1997年版 p85を参照のこと。

[xxviii] 黄宗智はアメリカの中国研究の中における市民社会と公共領域カテゴリーの応用について議論した際、「『ブルジョアジーの言う意味での公共領域』と『市民社会』というこの両カテゴリーの概念を中国に応用する時、国家と社会の間の二元対立というものが常に前提とされている・・・・・・私は、国家と社会の間の二元対立は欧米の近代化の歴史の中から抽出された高度に抽象的な理想であり、中国には適用できないものと思う」と指摘したことがある。Philip C. C. Huang: Public Space/ Civil Societyin China? The Third Realm Between State and Society,Modern China,number2. April 1993,pp.216-240. 黄宗智の議論は主に近代の中国の情況について述べているが、しかし、私は現在の中国の情況であっても適用できると思っている。

[xxix] 当初は中国社会科学出版社から出版されたが、後に経済的問題により団結出版社から出版されることになった。

[xxx] 政府の「中国戦略与管理研究会」の主催。

[xxxi] 中国東方文化研究会の主催。

[xxxii] 東欧の知識人や欧米の学術界の影響を受けて、中国の学術界も90年代に市民社会の問題を議論し始めた。「社会−国家」という二元論モデルの中で、欧米の学者はポーランドの労働組合、団結を例として東欧の集権体制の瓦解と「市民社会」の成熟度には関連があると認識している。アメリカ中国学界の近代中国史の研究はハバーマスの『公共領域の構造性転換』の影響を受け、公共領域の概念をもって中国の近代社会の変遷を再解釈し、多くの学術著作を発表している。しかし、市民社会についての現在の中国における議論の中には、「市場化」を通じて自発的に民主化ができるという幻想が明らかに存在している。中国の市場化改革は確かに新しい社会階層を生み出したが、これらの階層が政治民主化の動力になるかどうかは明らかではない。私は、中国の社会改革の過程中では政治エリートと経済エリートが一体となっていること、および中国の政治腐敗と市場化の複雑な関係に言及したが、これらのことはすべて、市場化であれ、新しい社会階層の出現であれ、政治民主化の実現を保証するものではないことを示している。さらに重要なことは、現在の中国の条件下では、民主主義の問題は経済問題、とくに社会的分配の問題と切り離すことができないということである。このような「市民社会」についての議論と関連してくるのは、中国の多くの知識人が「開放」自身が最終的に中国社会を欧米の方へと向かわせ、したがって、政治上においても民主主義の問題を解決すると認識していることである。しかし、問題は、中国の現在の政治腐敗の原因の一つが国際資本の中国における活動と関連しているということである。これも同様に、「開放」が中国社会の民主化を解決できると簡単に言うことが現実的ではないことを表明している。私がここで提起しているこの二点は、市民社会についての議論を単純に否定しているわけでもないし、いわんや中国は鎖国へ向かうべしと言っているわけでもない。私の言わんとするところはただただ、より複雑なモデルを用いて中国社会の問題を議論する必要があるということにすぎない。中国での市民社会の問題についての議論は民間発行の《中国社会科学季刊》上に主に発表されている。主な文章には、ケ正来、景躍進《建構中国的市民社会》(創刊号)、夏維中《市民社会中国近期難圓的夢》(総第5期 p176~182)、蕭功蓁《市民社会与中国現代化的三重障碍》(総第5期 p183~188)、徳里克《現代中国的市民社会与公共領域》(総第4期 p10~22)、蒋慶《儒家文化:建構中国式市民社会的深厚資源》(総第3期)、朱英《関於中国市民社会的幾点商榷意見》(総第7期 p108~114)、施雪華《現代化与中国市民社会》(総第7期 p115~120)、魯品越《中国歴史進程与市民社会之建構》(総第8期 p173~178)などがある。この他、《天津社会科学》にも一連の文章が発表されている。例えば、兪可平《社会主義市民社会:一個嶄新的研究課題》(19934)、戚衍《関於市民社会若干問題的思考》(19935)、徐勇《現代政治文化的原生点》(19944)などである。

[xxxiii] 「グローバリゼーション」問題についての議論は、汪暉《秩序還是失序》 《読書》雑誌 1985年7月号 p106~112を参照されたい。