日本共産党の党勢力、その見方考え方

 

(宮地作成)

 〔目次〕

     1、情勢と党勢力、選挙結果

     2、1970年からの党勢力の3つの時期区分

     3、党勢力の各要素の見方、考え方

       1)、P(党員)、党支部数、および党員の三層構造

       2)、HN合計数増減とHN比率

       3)、総選挙結果…議席、得票数、得票率、対N比率

       4)、党勢力三要素とその8つの階層構造

    (添付資料(1))

      95年参院選比例代表選挙の有権者比得票率と日曜版有権者比の相関図

    (添付資料(2))

      日本共産党の党勢力データと情報…日本共産党HP

      (1)、日本共産党の議員数 日本共産党が与党の自治体

      (2)、日本共産党の政治資金

 

 (関連ファイル)              健一MENUに戻る

    『ゆううつなる党派』その動態的・機能的党勢力

1、情勢と党勢力、総選挙結果

 1)、1970年以降の情勢と党勢力データ

  党勢力のPとは、Party、ドイツ語の「パルタイ」の頭文字で、党員のことである。HNは、しんぶん赤旗日刊紙を、「本紙」とも言うので、そのHと言い、日曜版をNと呼ぶ。日刊紙と日曜版を合計したものを、HNという言い方をする。選挙結果はすべて総選挙のものである。

情勢と共産党の動き

党勢力(P、HN)

議席

総選挙得票数・率

70

11回大会 民主連合政府 

「敵の出方論」隠蔽→人民的議会主義

30万、HN180

72

民青、学生の「新日和見主義」

72

72.7「発達した資本主義国における革命

運動の諸問題」国際理論会議 革新自治体の上昇傾向  社会党 90 118 議席

30万、HN250

(前回14) 39

563万票 得票率10.8

73

ベトナム、沖縄、高度成長

12回大会 民主連合政府綱領

30数万、HN282

75

革新自治体ピークに 160自治体、9都道府県

76

13回大会 「独裁」→「執権」→削除

「マルクス・レーニン主義」→「科学的社会主義」 「自由と民主主義の宣言」

38万、HN300万以上

19

603万票 得票率10.6

77

14回大会「社会主義生成期論」

40万近く、HN326

79

7879 革新自治体敗北

41

576万票 得票率10.6

80

社公合意 

15回大会 自由分散主義批判

44万、HN355

29

594万票 得票率10.1

(衆参同日選挙)

82

82.7 第16回大会 イタリア共産党批判

48万、HN339

83

27

543万票 得票率9.5

85

85.11 17回大会

48万強、HN317.7

86

27

542万票 得票率8.8

(衆参同日選挙)

87

87.11 第18回大会

49万、HN317.5

89

イタリア共産党批判

90

90.7 第19回大会

48万、HN286

16

522万票 得票率8.0

94

94.7 第20回大会 丸山批判

36万、HN250

(最高よりP13万減)

96

26

()727万票 得票率13.08

()710万票 得票率12.55

97

97.9 第21回大会 宮本議長引退

37万、HN230

(最高よりHN125万減)

00

00.11 第22回大会 規約全面改定、自衛隊有事活用

386517

HN200

20

 ()735万票 得票率12.08

()663万票 得票率11.23

03

9

()484万票 得票率8.13

()459万票 得票率7.76

04

04.1 第23回大会 綱領全面改定、天皇制・自衛隊容認

P403793

HN173 (最高時より半減)

05

9

()494万票 得票率7.25

()492万票 得票率7.25

06

06.1 第24回大会 綱領継続

404299

HN164

07

07.12 幹部会データ

(HN147)

この第21回大会P37万人にたいしての具体的公表『官報』データがある。『政治資金規正法の規定による政治団体の収支に関する報告書の提出があったので、要旨(平成10年分)を公表する件(自治195号) [政党]日本共産党中央委員会報告 平成11.3.31』によれば、本年収入の内訳 個人の党費・会費3,183,233人となっている。

「個人の党費・会費」の数は1年間分の合計である。3,183,233÷12カ月=265,269人になる。大会後当時の公表・党籍党員38万人にたいして党費納入党員26.5万人で、年間党費納入率69.8%である。1年間通じて一度も党費を払わない、党籍だけの未結集幽霊党員が11.5万人いる。

ところが共産党『政治資金収支報告』にあるように、日本共産党は3,183,233人という年間「個人の党費・会費」人数を『政治資金規正法の規定による政治団体の収支に関する報告書』以外には、ホームページで公表していない。その資金内容も古いデータである。年間党費納入率69.8%、党籍だけの未結集幽霊党員が11.5万人という実態を政府・自治省には報告するのに、HPで国民には隠したいのか。

この『官報』データの内訳は、4、党勢力の各要素の見方、考え方 1)、P(党員)、党支部数、および党員の四層構造の末尾に載せた。

 なぜ1970年以降の分析なのか。それは、1970年第十一回大会で、「人民的議会主義」路線を公式に提起したことを、一つの転換点と位置づけて、そこで時期区分する考え方である。

PHNだけを党勢力と見るなら、1961年第八回大会「綱領」決定以降を分析すべきであろう。しかしPHNと総選挙結果とを合わせた総合的党勢力分析の点では、「人民的議会主義」路線、「民主連合政府」提起以降という区分も、一つの方法だと考える。

 

【創立90周年】共産党が政権に最も近づいた頃を調べてみ

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出典 www.npa.go.jp

党員数の推移グラフ

グラフを見る限り、党員数のピークは昭和62年(1987)であることがわかります。
ちなみに機関紙数のピークは昭和55年(1980)。

 

2、1970年からの党勢力の3つの時期区分

 〔小目次〕

   1、第一期、PHN拡大期、国政選挙一進一退期1970年から80年

   2、第二期、PHN減退期、国政選挙減退期、1982年から1995年

   3、第三期、HN減退継続期、P上向き、国政選挙前進期、1995年以降

 1970年から現在までの約30年間、党員、機関紙、選挙を中心とする党勢の経過は、次の三つの段階に分ける。

 第一期、PHN拡大期、国政選挙一進一退期、1970年から1980年

 この間、(1)、ベトナム侵略、沖縄返還、高度成長、公害、オイルショック問題などで大衆運動が盛り上がった。

(2)、その中で、革新自治体が増加し、1975年には、160自治体、9都道府県に革新首長が実現した。

(3)、ユーロコミュニズムが台頭し、77年には、イタリア、フランス、スペイン三党書記長会談が持たれた。日本共産党も、民主連合政府綱領、「自由と民主主義の宣言」を出し、党民主化に転換する姿勢を見せた。

 その中で、党員は30万から82年の48万に、機関紙は180万から355万に躍進した。

 しかし、総選挙での議席数は一進一退し、得票率は10.数%台、得票数600万票弱で停滞した。

 そこで、第一期から第二期への転換時期、即ち党勢拡大期から党勢減退期への転換時期をいつに設定するのかということである。機関紙部数のピークは、1980年の355万部である。ところが党員数のピークは、1990年の50万人近いとなっている。この間の10年間、党員はまだ拡大期にあり、6万人近く増えている。ピークは別々に2つあるという見方もできる。しかし私としては、PHNの党勢力ピークは1980年だと考える。

 なぜならHNの機関紙は、しんぶん赤旗日刊紙月2650円、日曜版月650円という商品であり、支部機関紙係は地区委員会に申請している機関紙部数代金を100%支払わなければならないからである。紙代滞納になれば地区専従または地区支局員からのきびしい督促を受ける。紙代上納期限での未回収分、および減紙による回収不能分は、支部機関紙係個人または支部LCが、自腹で立て替えてでも、地区へ上納しなければならない。支部LCとは、支部指導部のことで、支部のLeader Classの頭文字である。

 ところが下記でも触れるが、「機関紙拡大月間」中は、雰囲気的にとてもその前、またはその期間中に減った読者分の減紙申請を地区に出せない。雰囲気的にという意味は、「月間」活動は、成果を上げるために、一種の全党的思想動員、思想点検運動の面も伴って行われ、減紙申請など出そうものなら、直ちに日和見主義、一体どういう思想なんだとして批判され、他支部LCも大勢参加した点検会議において、見せしめ的自己批判を強要されるということである。

 また地区委員会による拡大成果部数追及、連日点検、成果を上げられない時の思想点検があまりに激しいので、虚偽の架空拡大申請や「月間」が通り過ぎるまでの1カ月間無料で配る自腹支払いの架空拡大申請も発生する。しかしそれらの分の紙代を「月間」後も抱え続けることは、支部LCまたはその党員の経済負担上とてもできない。「月間」が過ぎるのを待って、これらは減紙申請としてどっと吐き出される。したがって上記の表の機関紙部数は、「月間」ピーク時点とその後というズレが若干あるにしても、HNの増減状況をほぼ正確に反映している。

 一方、党員の毎月1%党費納入については、機関紙代のような追及はできないし、実際としてもない。そして長期の未結集党員、党費未納党員は、そのまま党員数として地区、県、中央の各レベルで集計され続ける。長期の未結集党員の実務的除籍を奨励して、その機関の集計上の党員数が減れば、上級機関からこれまたきびしい批判をされるので、地区常任委員会も県常任委員会もその実態には目をつぶる。このようにPHNと票読みの数字だけで、指導、点検したり、その幹部、機関を批判、評価したりするという指導スタイルはいつ頃から日本共産党内に定着したのか。数字だけの一面的追及と評価という成績主義的党活動スタイルに嫌気がさして、このどこが一体政治運動、革命運動なのかと不信を抱いて、未結集になる党員がどれだけいることか。新たに拡大された新入党員数がその上にどんどん累積されていく。

 実態のない党員の正しい解決という再説得運動と除籍処理の二本立て方針を党中央が初めて積極的に打ち出したのは、1990年以降のことである。1980年から党員数上のピークとなる1990年の10年間に4万人の新入党員があったのは事実である。しかし、その数字を上回る党員が新たに「離党届」を出さない長期未結集になった。

 しかも、この10年間に、HNは増減相殺結果で55万部減って、300万部に減っている。党員だけが、その増減を相殺した実質増加分で4万人増えるということはありえない。

 したがって、PHNの党勢力ピークは、1980年で、それ以後は一貫した党勢減退期に入るという時期区分が正しい。

 第二期、PHN減退期、国政選挙減退期、1982年から1995年

 この間、党内外の環境も激変した。

(1)、70年代末に、革新自治体が次々と敗北し、80年には社公合意がなされた。

(2)、ユーロコミュニズムの影響と日本共産党中央の党民主化姿勢もあり、党内でも様々な党民主化の動きが高まった。そこには反民主主義的組織運営原理としての民主集中制の下で抑圧されていた党中央とは異なる見解、主張も表面化してきた。

 ユーロコミュニズムの場合はその党民主化をさらに発展、強化させ、民主集中制の規制を緩和、もしくは放棄する方向に進んた。それに対し、日本共産党常任幹部会は逆に、それらの党民主化の動きを、自由主義、分散主義と批判し、排除し、民主集中制の規律を強調し、党内での締めつけを強化した。

 78年から80年にかけての田口・不破論争、83年から85年での民主文学四月号問題、84年の平和委員会、原水協問題、84年の日本共産党による日中出版への出版妨害問題、85年の東大院生支部の宮本退陣決議案問題など党内、各分野で様々な民主化要求が出された。しかし宮本顕治および党中央は、これらをすべて抑圧し、それぞれについて赤旗『前衛』等で大キャンペーンを行って、その関係者を排除した。

 私はこれらの一連の民主化運動抑圧を日本共産党の逆旋回と名付けている。この逆旋回の経過については別ファイルに載せた。

(3)、第一期では、共産党は大衆運動、党員機関紙拡大、選挙運動の3つを基本課題として総合的、積極的に取り組んだ。しかし第二期では大衆運動への取り組みが次第におろそかになり、各支部、各党員の活動の実態は、機関紙拡大と選挙での票読みに偏った、一面的なものになっていった。

(4)、一方、1989年から91年の中国天安門事件、東欧革命、ソ連崩壊で社会主義、共産党のイメージが決定的にダウンした。

 その中で、党員は最高の49万から、1996年の36万となり、13万人減少し、機関紙は最高の355万から250万へと、105万部減となった。この14年間は、党員、機関紙とも一貫した減退をたどっている。

 第三期、HN減退継続期、P上向き、国政選挙前進期、1995年から現在
(1)、現在の日本の政党状況において、反自民、自民批判票をある程度集めていた社会党が事実上崩壊し、それらの票は行き場所がなくなった。政党不信、政治不信から、流動的な無党派層が増大し、投票率が低下した。この状況は、自民党との対決姿勢を明示する共産党、かつ、14年間一貫した党勢減退傾向にあるとはいえ強固な組織政党である共産党に有利となる一時的条件を形成している。

(2)、政党再編の混迷状況がいつまで続くかわからないが、とにかくこの条件の中で、共産党は1996年の総選挙で多くの票を引きつけ、得票率でも前進した。これが、いわゆる一時的な「雨宿り現象」に終わるかどうかは、政党再編の進行状況とも関係し、もうすこし様子を見なければわからない。

(3)、1997年の第二十一回大会では、その前進を背景として、当面の目標として、衆議院に百をこえる議席、参議院に数十の議席をもつ、二十一世紀の早い時期に、・・民主連合政府を実現という方向をうちだした。

(4)、この選挙での前進と、第二十一回大会がうちだした方向については、様々な評価がある。それは、後房雄名古屋大学教授「共産党は『普通の政党』になれるのか」にある。佐高信、加藤哲郎の「共産党倍増論」また第二十一回大会めぐる「新聞論調」でもその評価を見られる。

(5)、この間、党員は、2000年、第22回大会までに、2万人増え、386517人になった。ただその増やし方は、以前とは様変わりしている。以前は、党シンパで、サークルや学習会にも参加し、入党工作をすると決定した一定レベルの活動家が対象者だった。

 現在では、どの共産党演説会でも、その参加者全員に入党を呼びかける。さらに赤旗日曜版読者全員に、地区委員会がわら半紙に印刷した、従来の半分大の「入党申込書」を配布して、入党を必ず呼びかけるよう党中央からの強力な指示がでている。

 共産党に入党することと、共産党後援会に加入することとの境目を事実上なくしてしまうという、党中央の新しい党員拡大方針の実践結果としての2万人拡大である。もっとも1987年の最高時49万人から、その25%、13万人減という急激な党員減退傾向が、この党員拡大方式大転換によって食い止められれば、それは党中央の賢明な、正しい方針ということになる。

 ただ何の活動にも参加せず、綱領も読んだことがなく、赤旗日曜版だけを購読している人が、共産党員となって支部会議に参加すると、会議の討論内容が共産党後援会レベルになってしまうという支部LC(指導部)のぼやきがあちこちで出ている。

 一方、機関紙は、2000年、第22回大会までに、199万部となり、1980年の最高時355万より156万部減、減少率44%となっている。総選挙では、上記の政党、政治状況の中で、2000年総選挙では、前回の比例区得票数710万票、得票率12.5%から、得票数663万票へと、47万票減らした。

 3、党勢力の各要素の見方、考え方

 〔小目次〕

   1)、P(党員)、党支部数、および党員の三層構造

   2)、HN合計数増減とHN比率

   3)、総選挙結果…議席、得票数、得票率、対N比率

   4)、党勢力三要素とその7つの階層構造

 党勢力といった場合、その様々な数字とともに、党機関、その運営システムを合わせた組織機能的な総体を党勢力としてとらえる視点が必要であろう。

 1)、P(パーティ、ドイツ語パルタイの党員、P)、党支部数、および党員の三層構造

 党員は、70年代前半の30万人台から、上述第一期の3つの要因下で最高48万人になった。第二期での『日本共産党の逆旋回』や89年から91年にかけての東欧革命、ソ連崩壊もあって、12万人減少した。しかし2000年には、2万人増となっている。この38万人は、87年の49万人という最高時との比率では、約79%への減少となった。

 これらの党員は、約2万8千の支部に所属し、日常活動をしている。ただその支部会議への結集率、収入の1%党費納入率、党大会決定読了率などに問題をかかえ、未結集党員、党費未納者という「実態のない党員」の存在とその解決が、党中央からひきつづき強調されている。第21回大会時点では、支部数は2万3千に激減した。第22回大会時点では、2万6千になっている。第24回大会は、2万4千支部と報告した。

 日本共産党の党員は、結局4つの層に分類される。

 第一の層は、党機関専従、赤旗記者、赤旗支局員という約4000人の専従者、4千数百人の共産党議員、それをふくむ党中央委員である。

 第二の層は、非専従、非議員の都道府県委員、地区委員の数万人、それも兼任している党員をふくむ2万4千支部の支部指導部(LC)等の約10万人である。この層は、共産党の中心で、最も積極的な活動家層である。これは六中総決定の2カ月間読了率35%、約13万人と公表されているように、党中央委員会の随時の決定が2カ月以内に伝わる層である。

 第三の層は、支部指導部(LC)にはなっていないが、日常活動をし、赤旗の地域配達、集金活動にも参加し、党大会決議案討論の会議に参加する層である。これが約5万人いる。会議には参加していないが、自分で読んだ党員もふくめれば、約9万人になる。この第一、二の層の合計が50.7%、約19万人である。

 第四の層は、党大会決議案の討議参加、読了キャンペーンにもかかわらず、2カ月間会議に一度も参加せず、また個人としても読了しない部分で、これが約18万人いる。ただこの層の一定部分は、党費は1%納入し、選挙になれば一応票読みは行い、党財政上でも選挙カンパ、年末カンパにも応じて、なんらかの大衆組織に参加している層である。もちろんこの中には、実態のない党員も入っている。支部段階では、当月分党費納入率が50%前後という所もかなりある。これは収入の1%相当の毎月党費を当月中に納入する党員の率である。2カ月間かけて支部会議結集率40%というデータを合わせて考えると、実態がないのに、党籍だけが残り、党員として党中央に集計されている党員数は、まだ10万人近くいるという見方もできる。

その具体的公表『官報』データがある。「政治資金規正法の規定による政治団体の収支に関する報告書の提出があったので、要旨(平成10年分)を公表する件(自治195号) [政党]日本共産党中央委員会報告 平成11.3.31

1、収入総額   39,194,167,409(約392億円) 前年繰越額  8,341,306,522(約83億円)本年収入 30,852,860,887(約309億円)  本年収入 30,852,860,887(約309億円)
2、支出総額   30,891,546,806(約309億円)
3、本年収入の内訳 個人の党費・会費(3,183,233人) 1,379,552,214(約13億円)(本年収入額の約4.5%)

「個人の党費・会費」の数は1年間分の合計である。3,183,233÷12月=265,269である。
大会後当時の公表・党籍党員38万人にたいして党費納入党員265,269人で、年間党費納入率69・8%である。
党籍だけの未結集幽霊党員が114,731人いるわけである。

 このように、第22回大会時点、党員386517人をこの四層構造としてとらえることができる。

 2)、HN合計数増減とHN比率

 HNの、Hは赤旗本紙のH、Nは赤旗日曜版のNで、本紙とは日刊紙のことである。

 (1)、HN合計数の増減

 HNは、上記第一期で、最高355万部まで拡大したが、1980年以降の20年間は一貫した減退を続けている。2000年までには、P(党員)は2万人増加した。しかし、HNはさらに53万部減紙し、230万部となり、最高時より158万部減、最高時比で約55%になった。

 HN拡大運動としては、毎年必ず「拡大月間」を設定して取り組み、総選挙、参院選挙、いっせい地方選挙前には必ず実質2カ月以上にわたり「機関紙拡大月間」と票読みを併行して行っている。またどの党大会前にも「拡大月間」を決め、前大会機関紙部数を回復し、それを上回ろうという目標を掲げて取り組んでいる。この20年間で、20数回以上の全党的「機関紙拡大月間」を設定し、各県委員会が独自に決めた「月間」運動をふくめるとそれ以上の回数になる。

 その「拡大月間」中は、HN増紙申請だけで、支部からの減紙申請を受け付ける雰囲気がない。なぜなら、この機関紙拡大運動は、一種の思想動員の形をとって行われるので、拡大運動に批判的意見、消極的態度や減紙申請はすべて日和見主義として批判されるからである。党大会後、各選挙後で、その思想動員期間が過ぎると、それまで支部で抱えられていたHN減紙分が、架空の部数の機関紙代負担に堪え切れずに、減紙申請としていっせいに出される。こうして「月間」中の増紙申請分を、減紙が上回ってしまうという、拡大と減少のリズムを繰り返し、全体としては17年間一貫してHN減少傾向を食い止めることができていない。この20数回以上の増減繰り返しの中で、158万部が減った。

 これは党勢力としても深刻な問題であるだけでなく、日本共産党は、政党機関紙による税金免除という税制上の有利な新聞社と言われるように、機関紙売上収入に大きく依存している党財政、とりわけ約4000人の党専従の生活費(活動費)支払にも重大な打撃を与えている。

 (2)、HN比率(赤旗日刊紙と日曜版の比率)

 これは党中央が毎回公表しないので、あまり注目されていない。しかしレーニンが前衛党組織論、党機関紙論を展開した『なにをなすべきか』で強調されているように、宣伝者、組織者としての党機関紙の役割から見れば、HNのなかでHの方が重要な意味を持っている。

 1972年の党創立50周年記念集会で、H55万部、N195万部と公表された。HN合計250万部で、そのHN比率は、22%:78%である。その後は、HN合計数字しか公表されていない。HN最高時の1980年355万部を1970年の比率で見ると、H約60万部、N約295万部である。1997年第二十一回大会でのHN230万部については、日本共産党広報部によれば、H40万部弱、N約190万部余で、そのHN比率は、17%:83%に変化している。

 この7年間で、党員13万人減に対して、Hは20万部近く減紙している。これは党員の減少以上に、H読者という安定した党支持層の幅が縮小していることを示した。

 3)、総選挙結果…議席、得票数、得票率、対N(日曜版)比率

 共産党の1960年代の総選挙結果は、議席数、得票数、得票率の3つとも前進することが続いた時期があった。しかし1970年代以降は、その3つが揃って前進することはなくなった。

 (1)、得票数、得票率での動向

 共産党は全選挙区で立候補するので、得票数、得票率の動きは選挙評価上で、もっとも確実な指標となる。1970年代の評価としては、1983年幹部会の国政選挙では10年来の停滞という声明が正解である。ただその停滞について、宮本顕治を中心とする指導部責任を追及すべきという声が党内から出てきたために、その批判者を抑圧しながら、一方で1984年には国政選挙での一進一退にその公式評価を手直しした。

 得票数は、560万票から600万票の間で推移し、1980年以降は減退傾向に移り、522万票にまで減少する。得票率も10.数%台が4回続き、その後9.5%、8.0%へと減退している。議席数も評価項目に入れれば、一進一退とも言える。しかし得票数、得票率で見れば、やはり十年来の停滞が続き、さらに減退傾向に移ったと言える。

 (2)、得票数の対N比率(得票数と日曜版読者との相関関係)

 共産党は、以前からHN合計数でなく、得票数と日曜版読者数との間に、あるいはそれぞれの対有権者比との間に相関関係があるとしてきた。現実にも各県で当然ばらつきがあるが、(添付資料(1))の赤旗グラフのような、1N2票という関係が成り立つことを、党中央が認めている。

 1970年から1990年の総選挙でも、基本的に1N約2.3票という結果が現れている。これはこの20年間、1N2票の固定票、組織票+1N0.3票の一時的浮動票しか得票できていないことを示している。二人から三人で争う首長選挙は別として、全政党が争う総選挙では、一時的な浮動票、「雨宿り票」を大きく引きつけることができない。

 (3)、「雨宿り現象」という解釈…1996年、2000年総選挙結果の見方

 ところが、1996年総選挙では、(1)、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への選挙制度大転換、(2)、政界再編・混迷状況、(3)、社会党の事実上の崩壊による反自民、自民批判票の行き場所の消失、(4)、政党不信、政治不信の高まりによる投票率の低下と、一方での、政治意識の高い無党派層・浮動票の増大、(5)、共産党の「済し崩し」型原理転換方式によるイメージ・チェンジという環境の中で、各党派が争った。

 これらの環境において、日本共産党は得票数、得票率で躍進した。議席数は、86年27議席、90年16議席、96年26議席へと回復した。しかし、2000年20議席に減った。得票数は、86年542万票、90年522万票、96年小選挙区727万票、比例区710万票へと躍進した。しかし、2000年では小選挙区735万票だったが、比例区では663万票と、前回比で47万票も減らした。得票率も、90年8.0%、96年13.08%に躍進した。しかし小選挙区絶対得票率は、80年7.34%、83年6.46%、96年7.44%、2000年7.35%で停滞している。

 この選挙結果への解釈としての「雨宿り現象」について、1997.11.25中日新聞朝刊の『政界用語辞典』全文を引用しておく。共産党が最近の選挙で票を伸ばしているのは一時的なもので、いわば雨宿り現象だという説がでている。つまり、共産党を除く「オール与党」現象の中で、有権者は他に投票したい政党がないので共産党に投票しているのであって、投票したい政党が出てくれば離れていってしまうという見方だ。共産党の伸びについての消極的な評価といえるが、これに対し同党の不破哲三委員長は「その家に一定の信頼がないと雨宿りには来ない。今まではなかなか雨宿りしてもらえなかった。それに今の雨はなかなかやみそうもない」と反論し、雨宿りに積極的な意義を見出している。有権者は、雨がやんだら共産党の軒先から出ていってしまうのか、それともとどまるのか。他の政党にとっても気になるところだ(野)

 4)、党勢力三要素とその8つの階層構造

 P、HN、総選挙得票数という党勢力三要素は、さらに7つに細分化して考えることが出来る。

 P(党員)386517万人は、上述したように、第一の層から第四の層に分類した。HN読者199万人の内、H読者は約35万人、N読者約162万人である。党員はほとんどがH、Nの両方とも購読しているから、家族党員や未購読党員を差し引くと、党員外読者はH読者15万人、N読者140万人となる。また党員外H読者の過半数が、N(日曜版)も購読しているので、そのダブリ分を除くと、党員外HN読者人数は約140万人いることになる。その140万人は、P3層の外側にあり、かつ2つの層に分かれる。

 第五の層は、固定的読者層で、共産党系大衆団体メンバー、あるいは他の大衆運動活動家である。戦前風の言い方をすれば、共産党シンパともいえる。この層が50万人前後いて、選挙になれば、票読みにも協力し、選挙カンパにも応じてくれる。

 第六の層は、一時的、流動的読者層で、「機関紙拡大月間」で購読契約しても、数カ月から半年位で赤旗の共産党的情勢分析、政策になじめず、違和感を持ち、購読をやめていく層である。

 次に、総選挙得票数という選挙時期の共産党支持者も2つに分けられる。

 第七の層は、1N2票といわれるHN読者外の固定票、計算できる共産党支持層である。その選挙時点のN読者の2倍いるが、ここには読者の家族票がかなりふくまれている。

 第八の層は、いわゆる浮動票でどの総選挙でも1N2票以上の得票数がそれに該当する。とりわけ注目されたのが、1996年総選挙での「雨宿り票」である。1N2票の計算で見れば、722万票という総得票数の内、190万Nの2倍、380万票が固定票、組織票で、残りの約340万が「雨宿り票」になる。しかしこれは選挙制度の影響もかなりあり、上記の政治環境の複合的結果と思われる。2000年総選挙で、比例区得票数43万票減は、 「雨宿り票」が減少したことを示している。

 このように共産党の三要素の党勢力は、細分化した見方をすれば、8つの階層構造をなしていると考えられる。

  (添付資料(1))

95年参院選比例代表選挙の有権者比得票率と日曜版有権者比の相関図

(注)、これは、1995年9月2日の赤旗別刷り、学習・党活動版に掲載された、2つのデータの相関図である。ここでも1N2票という党中央の判断基準が示されている。そして党員と機関紙の陣地の前進があれば、…より大きな躍進を遂げたことはまちがいない(7月25日の常任幹部会声明)として、各県委員会、全国の約2万8千の支部に機関紙拡大を呼びかけている。ただし、1N2票ということと、「選挙の有権者比得票率4%と日曜版有権者比2%との平均値的相関関係」とでは、厳密にはその意味が異なる。党内では1N2票という使われ方のほうが一般的である。赤旗をそのまま取り込んだので、見にくい。

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 (添付資料(2))

日本共産党の党勢力データと情報……日本共産党HP

    (1)、『地方自治体』 与党自治体 議員数等

    (2)、『政治資金収支報告』党費の年間総金額のみ、党員数カット

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 (関連ファイル)

    『ゆううつなる党派』 その動態的・機能的党勢力