由羅と萌の二人は由羅の住んでいるアパートへと足早に向かっていったが、幸いにも誰とも会うことなくたどり着くことができた。
「ふう、今日ほどここまでの距離が長いと感じたことはなかったな」 今まで張りつめていた緊張の糸が一気に解けて大きく安堵の溜め息をつく由羅。 「そうね。ところで、お風呂は?」 「風呂は今からためるから、その間シャワー浴びて汚れでもとっとけよ」 「うん、そうする」 そう言って無造作に玄関から上がろうとする萌だったが、それに由羅は待ったをかけた。 「おい、ひょっとして、足の裏はまだ乾いてないんじゃないのか?」 言われた萌は自分の足を確認してみる。 すると、由羅の予想通り萌の足の裏はまだベタベタだった。 「ちょっと待ってな」 いったん部屋の奥へ入った由羅は程なくして新聞に挟んであったであろう広告を何枚か束ねて持ってきて、それを萌の足下から等間隔に並べていき、 「さあどうぞお嬢様、こちらがバスルームになっております」 と、いささか芝居がかった調子で萌を案内した。 「あははは、由羅ちゃんったら……じゃあ、遠慮なく使わせてもらうね」 萌は手早く自らの血にまみれた服を脱ぐと、それを水を張った洗面器の中に入れて血抜きをした。 ある程度赤黒さが抜けたそれは、やはりぼろぼろで、よほどのファッションセンスを持っていない限りはその服を人前で着ることはできそうになかった。 「あーあ、この服気に入ってたのに……」 嘆く萌。さっきまで瀕死の重傷を負っていたとはまるで思えない口振りであった。 幸いというか、下着は大丈夫だったようで、軽く洗って風呂場の隅にかけておく。 萌の体型はその容姿と同じく、ウェストのくびれもほとんどなく、胸の方もあまり膨らんではいなかった。いわゆる幼児体型というものである。 しかし、ただの幼児体型ではなく、肌も特別な化粧品などを使っていないにも関わらず、20才とはとうてい思えないほどのはりと弾力があった。 いわゆる、ぴちぴちした肌もしくは、たまご肌といわれるものである。 シャワーのコックをくいっとひねると、温かいお湯がシャワーヘッドから噴き出し、萌を包み込む。 それは萌の体にへばりついていた血糊を優しく流し落としながら、風呂場の床を赤く染めて排水溝へと流れていく。 そんな中で萌は壁に頭をもたせかけて、今日起こった出来事について思い返していた。 いつもとかわらぬ日常に突然現れた怪物。それに殺されかけた自分。自分を助けてくれたという謎の女性。そして、その女性が使った魔法。 それらの非現実的な事象の連続に自分が関わっていたというのが驚きであり、また、命が助かったということが奇跡のように思えてならなかった。 いや、どう考えてもそれは奇跡としか言いようがなかった。 「はあ……誰だか分からないけど、由羅ちゃんが言っていた人がいなかったら、わたしはこの世にはもういなかったのか……え?」 そこまで言ったとき、あまりの非現実さに麻痺していた恐怖感がフラッシュバックで蘇ってきたのか、足が震え、へたり込んでしまった。 「わ、わたし、死んでたかもしれないの?……」 「おーい、萌どうしたぁー?」 部屋の方から由羅の声がする。 「何でもないのぉ」 それに対して萌はできる限り平静を保って答えた。 そして、再び思考を再開する。 「あのままだったら、わたしはあの化け物に殺されるためだけにこの世に生まれてきたって事になのか……。 これまで自分が何をして生きるのかっていうことは考えたことがなかったなぁ……これを機に『なぜ自分がこの世に生まれてきたのか』っていう自分の存在理由を考え直してみようっと」 とりあえず、少しは気持ちの整理が付いたのか、足のふるえだけは止まっていた。 体の汚れが落ちると、傷口が露わになったが、それはかなり治癒していた。しかし、その傷の深さを物語るには十分だった。 「魔法っていうのは便利なものね……」 呟きながら、今度は髪を洗い始める。 倒れた時にしみこんだ血が固まってばさばさになった彼女自慢の髪が元のサラサラした状態になるまで少々時間がかかったが、その間に湯船には十分なお湯が溜まった。 お風呂に浸かっていると、湯船の中に体と心の疲れの両方が溶けでていくような気持ちのいい感触を感じ、うとうとと眠気が襲ってきたので、早めにでることにした。 ●
「はあ、さっぱりしたぁ」 萌は、体にタオルを一枚巻いただけの姿で、ようやく風呂場から出てきて、由羅のいる部屋に入ってきた。 その仕草には、先ほどまで恐怖に震えていた様子はなかった。 萌は由羅の部屋の中のものを一通り見回して、一つ小さな溜め息をついた。 「しっかし、由羅ちゃんの部屋っていつ見ても……」 由羅の部屋には軍艦の模型やポスター、無線機、そしてそれらについての雑誌があり一般的な”女の子”の部屋からはほど遠いものであった。 「いじゃねえか。誰に見せるってわけでもねえし……」 萌の姿をもう一度見直す由羅。 「それにしても、相変わらずタオル一枚とは無防備だな。仮にも二十過ぎた女の子なんだから、もう少し恥じらいってもんはないのか?」 「いいじゃないの。どうせここは由羅ちゃんの部屋なんだから……それともわたしに襲いかかるつもり?」 挑発したつもりではなかったのだが、どうやら今の萌の台詞にかちんときたようである。 「ほーう?あたしに襲いかかってほしいのか?」 うっすらと妖しげな笑みを浮かべながら由羅は萌にじわじわとにじり寄る。 「じょ、冗談よ。わたしだってそんな趣味はないし、されたくもないから!」 萌は顔を引きつらせながら、後ずさったが、すぐに壁に突き当たり、暑さだけではない汗を流して狼狽した。 その時、裸身に巻きつけてあったタオルがはだけそうになったので、萌はあわてて抑えた。 そんな萌を見て、由羅は思わず吹き出してしまった。 「ぷっ、あははは……冗談だって。あたしだってそんな趣味は持っていないからな」 萌も冗談だとわかり、乱れたタオルをまき直しながら、ほっと一息ついた。 「でも、さっきの由羅ちゃんの眼は冗談には見えなかったけど?」 「萌、あんたもしかして、あたしがそんな変な趣味を持っていると思っていないか?」 「うん!」 元気に断言する萌であったが、人の感情を気にしながら行動をする萌にとって、ここまでおちょくれる人物は、昔から気心が知れた由羅を除くと、あとは知り合いに数人いるだけでほとんどいなかった。 当然、由羅もそのことは知っていたのだが、状況が状況だけに何となく気まずい思いをしていた。 「じょ、冗談よ、冗談。私が由羅ちゃんをあやしい人だって思ってるわけがないでしょ?」 雰囲気を察した萌がフォローを入れる。 「そうだよな。そういえば、この服どう思う?」 由羅が出してきたのは、デパートの袋に入ったままの服だった。 萌がその中身を確認してみると、由羅にはとうてい着られそうもない小さな服とミニスカートだった。 「由羅ちゃん、何でこんな小さな服を持っているの?」 「あ、これか?あさって誕生日だろ?そのプレゼントで買っていたんだ。当日に驚かせてやろうと思っていたんだが、こうなってはしょうがないな」 「そうだったの?うれしい。本当にありがとう」 萌は心からうれしそうな表情をして由羅に感謝したが、それと同時にふと気になることもあった。 「だけど、よくこのサイズの服を見つけたわねえ。普段だと合うサイズを見つけるだけでも一苦労なのに」 「まあ、偶然に見つけたものだからな」 「ふ〜ん、そうなの」 由羅の言ったことに相槌を打ちつつ、萌はあることを思いついた。 「そうだ、ちょっと由羅ちゃんのタンスの中を見せてよ。こんな時でないと、由羅ちゃんがどんな服を実際持っているのか分からないから」 「まあ、かまわないぞ。見られて困るような服は持っていないからな」 由羅がそう言うが早いか、萌は由羅のタンスの中を物色し始めた。 それからしばらくして、萌が発見したのは、由羅の普段のイメージとは合わないようなおしゃれな服だった。 「あら、由羅ちゃんってこんないい服を持っていたんだ」 「悪かったな。買ったはいいけど、似合いそうになかったからタンスのこやしになっていたんだ」 「そうだったの?結構似合うと思うけどなあ……由羅ちゃん、ちょっとその服を胸に当ててみて」 「こうか?」 由羅は、萌に言われるがままに、服を自分の胸元に当ててみた。 「あら、似合うじゃないの。自分ではそうでもないと思っているかもしれないけど、由羅ちゃんは結構美人だから、何でも似合うって」 「そ、そうか?」 そう言われた由羅はまんざらでもない表情だった。 「そうだよ。後はきちんとお化粧をして、口調をもっと女の子らしくおしとやかにすれば、男だって振り向くようになるわよ。いまさらだけど、何でもっとおしゃれをしないの?」 「萌、あたしが男嫌いなことを忘れていないか?……でも、なんだかそう言われるとむず痒いな。さあさあ、とっと着た着た」 言われるままに服を着ようとする萌を見て、由羅はあることに気がついた。 「そういえば……萌、胸が大きくなってきていないか?」 「そ、そうかな?」 「ああ、すこしだけど大きくなってる。やっとそれらしくなってきたな。あとは背が伸びるだけだが、それはもう手遅れか?」 意地悪そうに由羅が言ったことは、萌が最も気にしていることだった。 「大きなお世話です!あたしだってやりたくてこんな小さな体でいるんじゃないんだから」 「ごめんごめん」 「もう由羅ちゃんったら…………どうかな?」 着替えが終わった萌は、その場で軽く一回転して見せた。 「うん、結構似合ってるな」 「ありがとう……だけどなんだか恥ずかしいな。普通の服を着て似合うって言われたことは最近ではあまり無かったから」 はにかみながらうれしがっている萌を見て、由羅は内心では「いまさら言えないよなあ。その服も、実は子供服だってこと……。最近の小学生は結構おしゃれだから……」と思っていたが、口に出すことだけはさすがにしなかった。 「それならあたしだって同じさ。さっきは言われ慣れないことを言われたから、なんだかむず痒かったんだ」 そんな萌にばれたら危ない内心を悟られないように、由羅は萌の言ったことにさりげなく突っ込みを入れた。 「まあ、お互いそういうことには慣れていた方がいいのかもね」 「ああ、だけど、萌と一緒にいると、自分は女の子なんだって思いだしてほっとするよ」 「そうなの?……さて、それじゃあ遅くなる前に早々と退散しますか」 そういうと、萌はぼろぼろになった自分の服も含めた自分の荷物をまとめ始めた。 「泊まっていかないのか?」 「うん、いくつか用事もあるし、由羅ちゃんも今日は大変だったでしょ?」 「まあ……な。だが、夜もふけたし、またあんな奴に襲われるかもしれないんだぜ?」 「さすがにあんなものが何回も出るわけないでしょ? 「そりゃそうだ。じゃあな、萌」 「お・や・す・み。由羅ちゃん」 萌は冗談のつもりでわざと可愛らしく言ったのだが、なぜか由羅は顔が真っ赤だった。 「何だよ?そのあやしげな言い方は」 「うふふっ、由羅ちゃん顔が赤いわよ。どうしたの?」 「どうでもいいだろ。さあ、帰るならとっとと帰った帰った」 「それじゃあ由羅ちゃん、おやすみなさい。足と手のほう、おだいじにね」 「ああ、おやすみ、萌。気をつけて帰るんだぞ」 ●
由羅には大丈夫とは言ったものの、さすがに萌も用心したのか、周りをきょろきょろ見回しながら家路についた。 自分が住んでいるアパートに着いた萌は、帰るとすぐに押入から布団を引き出した。 「ふう、今日はいろいろとあったな。みょうに眠いから今夜はとっとと寝ようっと……」 そう呟くと萌は布団に倒れ込んで、次の瞬間にはすでに夢の世界へと旅立っていた。 それからしばらくして小さな地震が起こったり、電話のベルが何度か鳴り響いたが、それらに萌は気が付かず、すやすやとかわいらしい寝息を立てていた。 第一章 終 |