転轍記・東北篇 〜1991年(平成3年)冬・東北旅行記〜
今日が昨日の続きでなく、明日は未来だった頃のこと。翌朝自分の魂が別の誰かに入れ替わっているのではないかと、私は毎晩不安でした。そうして目覚めれば、記憶の繋がりにホッとする一方、ちょっとだけ新しく生まれ変わったような感じがしたものです。
前夜からの雪が降り積もった朝は、その想いを一層強くしました。冷気に首をすくめ、静けさに耳を澄ませ、眩しい天井に気付き、跳ね起きて窓を開ける。その瞬間の空気の、なんと森厳なことでしょう。半分は北陸・富山県人の血を引き、雪国の苦労を聴かされてきたとはいえ、温暖な川崎に生まれ育った私にとって、雪は見慣れた街並みや通い慣れた通学路を一夜のうちに別世界へ変えてしまう魔法でした。そのときの驚きのかけらが、窓の枠や電柱の陰に今なお残っているような気がします。
やがて中学、高校へ進むと、私は鉄道写真を撮り歩くかたわら、雪見の一人旅へ出掛けるようになりました。残雪の信州を皮切りに、勤め始めてからも北陸、東北、北海道と、今日に至るまで私の雪見旅は続いています。厳冬期から桜の咲く頃にかけて、季節が移っていく様を私は特に好むのですが、そうした自分を意識するようになったのは、旅先で見た雪景色によるところも大きいでしょう。
この東北旅行記「深雪(みゆき)」は、1991年2月に東北地方を旅したときの記録で、私の書いた長文の紀行としては北海道旅行記「北紀行」に続くものです。国鉄は既にJRへ移行していましたが、その後も新幹線の延伸や在来線の経営分離など、鉄道を巡る状況は大きく変わりました。それらは補遺としてまとめます。
ご意見、ご感想がありましたら、sakharov@mua.biglobe.ne.jp までお願いいたします。
2000.05.25 (記) / 2013.11.19 (改)
上野〜黒磯〜福島〜北上 (東北本線)
2月8日(金)、上野駅地平ホームは、連休をスキーで楽しもうという若者たちであふれていた。私の乗る東北本線の夜行急行「八甲田」青森行きは、すでに14番線へ入線している。あらかじめ指定券を取っておいたので座席の心配はないが、そのためにかえってゆっくりしすぎ、危うく乗り遅れるところだった。
急いで車内に入り、自分の席に着く。2号車18番A席。この切符を最後に、今夜の「八甲田」は満席となった。後ろから2両目、左側最後部の窓側で、スキーをしに盛岡へ向かう賑やかなグループが周りを囲んでいる。どうやら彼らのグループに欠員ができ、その分が私に回ってきたらしい。
客車はもともと特急用に作られた14系で、近年では急行や長距離の快速用に格下げされ、各地で活躍している。そう言うといかにもお古という感じだが、内装は更新され、座席も肘掛けに折り畳みテーブルを仕込んだ緑色のバケットシートに取り替えられている。
21時45分、「八甲田」は上野を定時で発車した。しかし、線路の輻輳する構内から本線上に出ても、助走のような走り方を続けている。大宮までは高崎線の列車も走っているため、ダイヤが立て込んでいるのだろう。
旅の無事を祈ってお茶など飲んでいると、荒川鉄橋に差し掛かったところで早くも検札である。ポーチの底からあたふたと切符を探り出したのだが、車掌さんは私をグループの一員と勘違いしたのか、代表らしい人に「みんな一緒ね?」と聞いただけで、行ってしまった。
大宮を発ち、進路を北北東へ取ると、「八甲田」は速度を上げた。
東北本線は全長739.2キロ、西の東海道本線に対する北の動脈として、今からちょうど100年前の1891年(明治24年)に全通した日本最長の幹線鉄道である。しかし、戦後いち早く全線電化された東海道本線に対し、東北本線の電化・複線化完成は東海道新幹線開業の4年後、1968年(昭和43年)を待たねばならなかった。
黒磯着、2月9日(土)、0時07分。ここから先は電化方式が変わるので、機関車を付け替えるために7分停車する。黒磯駅は直流1500Vと交流20000Vを分ける鉄道の要衝で、栃木県と福島県の県境にも近いことから、JR東日本では上野・黒磯間を「宇都宮線」と通称している。
黒磯からは名実ともに「東北本線」の旅だ。天井の灯りが減光され、にわかに車内が静まって、「八甲田」も夜行列車らしくなる。構内が一面銀世界の郡山で、年輩のビジネスマンが一人、下車していった。列車は金谷川を過ぎ、左手に福島盆地の灯を見下ろしながら、25パーミルの急坂を駆け下りる。並行する東北自動車道に、テールライトの列が赤い大きな弧を描いている。
福島着、1時51分。12分の停車時間にホームへ降りてみる。さすがに寒い。向かいのホームには、20系寝台車を連ねた秋田発上野行きの寝台急行「おが」が停まっている。雪深い雄勝峠や板谷峠を越えてきたため、巻き上げられた雪が全身に貼り付いて物凄い形相だ。雪崩から生還したかのような「おが」は、機関車の付け替え作業を待って、深夜のホームに静まりかえっている。
自分の車両に戻りながらホームを歩き、「八甲田」の混み具合を調べる。指定席は切符の通り満席、自由席も110から120パーセントくらいの乗車率で、デッキにまで人が立つ盛況だ。やはリ大荷物を抱えたスキー客が多い。
仙台、一ノ関を夢の間に過ぎたが、時計を見ると、まだ4時ちょっとである。西の空低く、木星が輝いている。
北上〜陸中川尻〜横手〜大曲 (北上線・奥羽本線)
北上着、5時08分。ここで北上線の一番列車、陸中川尻行きに乗り換える。
地下道をくぐり、1番線に待機中の新鋭ディーゼルカー、キハ100-1に乗り込んだ。天井の蛍光灯が車内を煌々と照らし、薄暗い夜汽車から移ってきた身を眩しく包む。すでに何人かの先客がいたが、左側の上席に座れた。運転台の脇には料金箱が備えられ、1両きりの単行運転とあってワンマンバスの趣だが、この列車は2人乗務である。
景色の良い路線だからという訳でもなさそうだが、ボックスの窓はやたらと大きな1枚ガラスだ。しかも、よくある巻き上げ式のスクリーンではなく、両側から布のカーテンが吊ってある。これなら向かいの人が日差しを避けるためにカーテンを引いても、はるばる景色を眺めに来た人が残念な思いをするといったことは減るだろう。
5時14分、列車は夜の続きのような北上駅を後にした。北上線は奥羽山脈越えの隘路に加え、日本でも有数の豪雪地帯を行く路線だが、今はまだ平野部なので、新型ディーゼルカーは快調に飛ばしている。あおられた雪が暗闇に乱舞し、車窓から洩れた灯りでキラキラと輝く。
横川目を過ぎると20パーミルの上り勾配に掛かり、エンジンが唸りを上げる。「パーミル」とは千分率のことで、20パーミルなら1000メートル進むごとに20メートル上る(または下る)坂道であることを示す。百分率にして2パーセント、自動車には何でもない数字だが、鉄道にとっては相当な急勾配だ。
鉄道は鉄の車輪と鉄のレールから成り、走行時の摩擦が小さいという特徴を持つ。これは平地を長距離にわたって慣性で走れるという長所を生むが、坂道では逆に仇となり、空転して登れない、滑走して止まれないなどの形で車両と乗務員を苦しめる。しかも山間部は往々にして豪雪・多雨地帯であるため、雪崩や崖崩れをはじめとする災害が保線係の前に立ちふさがっている。
突然、屋根からドサドサッと大きな音が響いてきた。何事かと肝を冷やしたが、車掌さんは平気な顔で運転士さんと談笑している。朝一番の列車なので、トンネルの入り口付近など、不安定な場所に積もった雪が、通過する列車の振動で落ちてきたものらしい。
列車は全長1514メートルの仙人トンネルを抜け、勾配が緩くなった。進行右側には和賀川を堰き止めて造った錦秋湖が寄り添っているはずだが、まだ夜明け前なので何も見えない。紅葉の季節に再び訪れたいと思う。
陸中川尻着、5時54分。ここで横手行きに乗り継ぐ。横手行きの発車まで時間があるからと、駅員さんが待合室に招じ入れてくれた。ストーブが置かれ、改札待ちの人が暖をとっている。
この駅は近年駅舎を新築した際、温泉が併設されて話題になった。駅の温泉といえば、中央東線の上諏訪駅が知られている。私は入ったことがないが、ホームに仕切りをした程度では、雑踏やベルの音で落ち着かないだろう。その点、こちらは本格的だ。
ややあって改札が始まり、横手行きのディーゼルカーに乗り込む。ここまで乗ってきたのと同型の100系単行である。駅の裏手から線路を乗り越えてきた人が、改札を通らずに直接乗り込んできた。見知った顔なのか、車掌さんは何も言わない。
ようやく空が白み始めた6時12分、陸中川尻を発車した。次の岩手湯田を過ぎると勾配が下りに変わり、岩手県から秋田県に入る。
いよいよ雪は深く、窓の高さにまでなった。2メートルはあろうかという堀割のような線路を列車は辿っていく。小松川ではホームに雪がうずたかく積もっていて、向こう側を見通すことができない。駅名標まで埋もれたままではさすがに困ると見えて、そこだけはポッカリと雪がくりぬかれていた。
6時52分、横手に着いた。今度は奥羽本線の快速「もがみがわ」で大曲へ向かう。跨線橋を渡り、隣のホームで待っていると、ED75に牽かれた赤い50系客車が静々と入線してきた。通勤・通学列車で5両も連結しているが、今日は土曜日なので空いている。7時03分発車、車内に陽が差し込んできた。
大曲〜角館〜阿仁合〜鷹ノ巣〜東能代 (田沢湖線・秋田内陸縦貫鉄道)
7時21分の大曲で、今度は田沢湖線の特急「たざわ4号」に乗り継ぐ。
改札を待っていると、上野からの寝台急行「おが」が到着した。福島で見た上り「おが」の下り列車である。かつては「走るホテル」と持てはやされ、東京と九州を結ぶ寝台特急として活躍した20系客車だが、幅52センチの3段寝台を快適に思う人は今時いないだろう。窮屈な一夜を過ごした人たちが、ぼんやりとこちらを眺めている。
7時42分発の「たざわ4号」は485系電車の5両編成で、乗車率は約70パーセントと少し混んでいる。出張の途次らしい初老の男性と相席になった。
雪原が冬の陽を撥ね、驀進する特急の窓を射る。
眩しさに目を細め、それでも窓外に見入っていると、隣のおじさんが話しかけてきた。しかし、発音が当地のものであるらしく、よく聞き取れない。「秋田県の山間部は雪が多くて大変だ」という主旨は分かったものの、済まないと思いつつ、後は曖昧に返事をするばかりである。
7時55分の角館(かくのだて)で降り、秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。JRとは駅舎が分かれているので、いったん駅前へ出なければならない。すぐ脇だが、その小さな駅舎を見るや、思わず身がすくんだ。子供の背丈ほどもある氷柱(つらら)が軒から下がり、鬼が牙を剥いたようになっている。暖地に育った身には氷柱自体が珍しく、まして、これほど大きいのは見たことがない。感心して暫し眺める。
秋田内陸縦貫鉄道は、北部の阿仁合線と南部の角館線を国鉄から引き継ぎ、当時未開通だった中間部分を統合して誕生した第三セクター鉄道である。角館・松葉間は国鉄時代に乗ったことがあるが、当時の運転本数は1日3往復で、私同様に乗るだけが目的と思しき旅行者が数人、行って戻っただけだった。今では同じ区間を1日11往復が走っている。
奥羽本線に接続する終点、鷹巣(たかのす)までの切符を求め、改札を通ってホームへ上がる。これから乗るのは途中の阿仁合まで行く普通列車で、すでに入線していたが、先客は一人もいない。適当な座席に荷物を置き、JRの駅舎に戻って、キオスクで100円のあんパンを買う。今日の朝食である。
8時17分、氷柱の駅舎を後に、小柄なディーゼルカーは数人の客を乗せて角館を発車した。
第三セクター鉄道には、レールバスを走らせているところが多い。「レールバス」とはバスの部品を多用した小型ディーゼルカーで、輸送力は小さいが、車両の製作費や維持費を節約でき、線路の傷みも少ないので総合的にコストダウンが図れる。しかし、ここはそうでなく、より大きな軽快ディーゼルカーを投入し、急行まで運転している。
山間に敷かれたレールを列車が辿って行く。深い雪道ではあるが、今朝通ってきた北上線のような厳しさはない。閑散とした車内に、駅名を告げるテープの声が明るく響く。
その案内放送がやけに長く、だんだん気になりだした。耳を傾けると、駅ごとに特産品や行事を細かく解説している。観光バスのような趣向だが、地元の人は聞き飽きているだろう。そういえば、熱心に景色を眺めているのも、日本中どこであろうと旅人だけである。
戸沢を過ぎ、峠道を登り詰めると、列車は十二段トンネルに進入する。全長5697メートル、日本で11番目に長いと、テープの声が教えてくれた。通過タイムを計ったところ、4分55秒だったので、時速70キロくらいで通り抜けたことになる。
トンネルを出て、「阿仁マタギ」という凄い名前の駅に着いた。「またぎ」とは東北地方の山間に住む、古い伝統を持つ狩人のことだという。一体どんなところなのか、時刻表に記された駅名から想像を巡らせていたのだが、実際に来てみれば人家が所々にあるし、山奥ではあるが秘境というわけではなかった。北海道・深名線の天塩弥生(てしおやよい)〜北母子里(きたもしり)〜白樺辺りのような眺めなら、もっと説得力があったかもしれない。
比立内から旧阿仁合線の区間に入り、客がポツポツと乗ってくるようになった。阿仁川の谷を左に見下ろし、山一面の秋田杉に囲まれて、列車は坂道を下っていく。
9時43分、阿仁合に着いた。山間の小駅ながら、この鉄道の拠点で、車両基地も備えているため、大きな駅に着いたような感じがする。ここで10時09分発の接続列車に乗り継ぎ、鷹巣を目指す。駅ごとに乗客が増え、2両編成の車内が賑やかになった。雪の照り返しが強く、目が痛む。
合川で角館行きの急行「もりよし1号」と行き違った。普通列車の当方とは異なり、大きな窓と良い座席を備えた急行用車両が使われている。次の機会があれば急行に乗りたいなと思ううち、終点、鷹巣に着いた。
鷹巣でもいったん駅舎の外へ出てから、改めてJRの鷹ノ巣駅に入り直す。どちらも「たかのす」と読むが、秋田内陸のほうは町名と同じ「鷹巣」を名乗っている。
鷹ノ巣から奥羽本線に乗り継ぎ、日本海に程近い東能代へ向かう。11時23分の上り特急「いなほ10号」は、定刻より5分遅れて来た。あいにく自由席に空きがなかったので、デッキに立ち、扉の小さな窓から外を覗く。
程なく東能代に着いた。駅のスタンドで昼食のそばを啜る。
東能代〜深浦〜鰺ヶ沢〜川部〜青森 (五能線・奥羽本線)
東能代からは五能線の旅になる。
12時29分の深浦行きは2両のディーゼルカーにわずかな客を乗せ、東能代を後にした。最後部にもう1両、回送車を繋いでいるが、これは次の能代で切り離される。
右にカーブを切って走ると、沿線が市街地に変わる。能代では沢山の乗車があり、座席が埋まった。人口約6万人の能代市は、幹線上の東能代でなく、支線の途中にある能代を市の代表駅としている。
能代を出ると、列車は米代川鉄橋に差し掛かる。河口に近いため、516メートルと長い。2両になったディーゼルカーが、単線の橋桁を心細げに伝って行く。
渡り終えると、列車は低い丘陵地に入る。午後の日差しはいよいよ容赦がなく、一面の雪原と化した田圃からは光の圧力さえ感じるほどになった。メモを取るための手帳で視界の下半分を遮り、目をギリギリまで細め、半ば意地になって車窓に見入る。
東八森を過ぎて短い鉄橋を渡ると、眼下に冬の日本海が広がる。ここから鰺ヶ沢まで、約80キロの区間が、人々を魅了してやまない五能線の「海の道」である。
岩館で上りの「ノスタルジック・ビュー・トレイン2号」と出会った。凸の字の片側を引っ張ったようなDE10を先頭に、50系普通客車2両、展望車1両という編成で、車体の上を黄色、窓下を葡萄色に塗り分け、間に白帯を巻いている。最後部の展望車はレトロ調の内装と開放型のデッキを備え、潮風に吹かれながら日本海に沈む夕陽を堪能という趣向だ。
岩館を出て海沿いの崖に上がり、秋田・青森の県境を示す標柱を過ぎた。海岸には巨岩がそそり立ち、波と対峙している。
狭い浜辺まで線路が下ったとき、点々と転がる灰色の塊が目に留まった。ごろた石かと思ったが、よく見ると、羽をたたんだ鳥たちだ。何をするでもなく、波打ち際にうずくまるばかりで、列車にも動じない。入り組んだ海岸線を小さなカーブでなぞり、ひとけのない番屋の脇をかすめて、ディーゼルカーは坦々と走る。
思いのほか乗っていた客たちも陸奥岩崎で降り、車内は閑散としてしまった。大きく張り出した岬を超えるため、列車は再び急勾配に挑む。難読駅の艫作(へなし)を過ぎたところで灯台を遠望、ぱらぱらと雪が舞った。14時21分、深浦に着く。
接続列車まで、1時間ほど間がある。前回来た時のように、近くの海岸にある大岩へ行ってみたかったが、寒風を突いて登るほどの気力は湧かない。第一、危ないだろう。青森へ電話をかけて今夜の宿を確保し、小さな待合室でおとなしく改札を待つ。
15時29分の弘前行きで深浦を出発、件の大岩の近くをかすめ、さらに北を目指す。通りかかった車掌さんが、車窓に見入る私に深浦海岸の説明をしてくれた。列車は海岸をなぞるように、S字カーブを切っていく。
五能線は戦前に建設された、古い鉄道である。幹線ではないから、トンネルや鉄橋を少なくし、建設費を安く上げなければならない。その結果、背後の山に押され、海岸線ぎりぎりを曲がりくねって通ることになった。災害も絶えず、高波に線路が洗われて列車が転覆、犠牲者を出したこともある。風光明媚な路線には、悲劇的な過去を秘めたものが少なくない。
驫木(とどろき)、風合瀬(かそせ)と、難読駅が続く。岩館、艫作、横磯、深浦、追良瀬、鰺ヶ沢。海に因んだ駅名が多い。千畳敷では、海岸にドンと聳える巨岩を、道路を挟んで間近に見ることができる。
陸奥赤石の手前で、赤石川という小さな川を渡った。鉄橋の下の川面には、薄い雪がシャーベット状に積もり、波を消して静まりかえっている。
16時27分、鰺ヶ沢に着いた。列車交換のため、15分停車する。以前から、ここの入場券が欲しかったので、早速買いに出てみたが、目当ての硬券はなかった。つい先日、2月1日に切符の販売がコンピュータ化され、硬券の入場券は廃止されてしまったのだという。聞けば鰺ヶ沢だけでなく、多くの駅で一斉に置き換えが行われたそうだ。硬券の切符は旅の記念によく買うので、少し淋しい。窓口に鎮座した小さな端末、キーボードにバーコードリーダー。突然あてがわれたハイテクマシンを前に、年輩の窓口氏と、もう一人の職員が首を捻っている。
上りの「ノスタルジック・ビュー・トレイン 4号」が入ってきた。岩館で交換した2号とは異なり、こちらは展望車が機関車の次位に来ている。立ち上るスチームに包まれた客車を、傾いた冬の陽が透かして見せた。
鰺ヶ沢を出た列車は右にカーブを切り、津軽半島へ続く海岸線に別れを告げて、内陸へ向かう。黄昏の田園を行くこと暫し、木造(きづくり)という、ホーム1面だけの小さな駅に止まった。待合室のストーブに、学校帰りの女生徒が集っている。
17時15分、岩木川を渡って五所川原に着くと、津軽鉄道の列車に接続するため、20分停車する。
津軽鉄道は、三菱石炭鉱業・大夕張線が廃止された今、現役最後のストーブ列車が走る鉄道だ。JRの駅に隣接した側線には、除雪車や客車、元国鉄のキハ22形ディーゼルカーなどが見える。乗車率50%ほどのディーゼルカーが2両、津軽中里へ向けて発車していった。
五所川原を出る頃には、日もとっぷりと暮れた。列車は平坦な津軽平野を快調に飛ばす。18時15分、川辺に着いた。
川部で18時19分の奥羽本線・青森行きに乗り継ぐ。赤い電気機関車ED75の後に、青い12系客車が3両連なっている。12系客車は、いわゆる急行形客車としては最後の形式で、ボックスシートのシートピッチが158センチと広い。しかし、普通列車用へ格下げされた後、青い車体に巻いていた白帯が消され、デッキ付近の座席がロングシートに改装されている。
雪中の客車列車は静かだ。ホームに滑り込むと音が失われ、時間が停止したように、乗客は声をひそめる。やがて、駅の灯りが後方へ滑り、車輪がレールの継ぎ目を刻むと、それを合図に世界が再始動する。
19時02分、青森に着いた。
青森〜蟹田〜三厩〜蟹田〜青森〜野辺地 (津軽線)
2月10日(日)、6時02分。まだ暗い青森駅を、津軽線・蟹田行きの列車は発車した。朝一番の下りで、車内は無人に近いが、車両には特急用の485系電車が使われている。「間合い運用」といって、特急用車両の空き時間や回送などを利用し、普通列車として運転されるものだ。
青函トンネルは新幹線を通す設計で建設されたが、肝心の東北新幹線は盛岡で足止めの状態にある。函館や札幌へ延ばそうなど、国鉄の大赤字が許すはずはない。そこで、本州側の津軽線と、北海道側の江差線をトンネルへのアプローチとして整備、接続し、両島間直通の在来線列車を走らせることになった。
かつての津軽線は、青森から津軽半島東岸を北上し、竜飛崎近くの三厩(当時は「みうまや」と読んだが、1991年3月16日付けで村名に合わせ「みんまや」に変更)に至るローカル線に過ぎなかった。ディーゼルカーが数往復するだけだった線路に、上野と札幌を結ぶブルートレインや、長大な貨物列車が疾駆する。その重責を担うため、津軽線は途中の中小国までが電化され、軌道も強化されて、花形列車が行き交う大動脈の地位に就いた。
奥内付近で夜が明け始めたものの、空はどんよりと曇っている。すれ違う列車は意外に多いが、そのほとんどは、色とりどりのコンテナを満載した貨物列車だ。
凍り付いたような津軽半島の山並みが、左の窓に連なっている。蓬田を過ぎると、右窓に陸奥湾の眺めが開けた。昇ったばかりの朝陽が、対岸の下北半島の上から、弱々しい光を投げかけてくる。しかし、それもたちまち雲に隠れてしまった。6時56分、蟹田に着く。
接続する三厩行きはまだ入線していないので、ホームにある小さな待合室に入る。暖房はない。特急電車で温存してきた体温は急速に奪われ、ジンジンと凍み上がって、両足を魔法で氷の棒に変えられてしまったような気持ちになる。足踏みしながら待つこと数分、キハ22の2両編成が入線してきた。ガランとした車内に入り、古びた座席に腰を下ろすと、冷たいすきま風が、窓枠から容赦なく吹き込んでくる。
7時17分、蟹田を発車した。ディーゼルカーは海岸を離れ、内陸へ分け入っていく。やがて、雪原の曲線上に傾いて停車すると、そこが中小国だ。片面だけのホームには、乗る人も、降りる人の姿もない。名目上ではあるが、この小さな無人駅が青函トンネルを擁する海峡線の起点である。
中小国を出て少し走ると、津軽線と海峡線の本当の分岐点、新中小国信号場だ。4線が並ぶ大きな信号場で、三厩へ向かう津軽線のディーゼルカーは、一番左の線路を通過していく。海峡線の線路は高架橋へ駆け上がり、右の山に穿ったトンネルへ吸い込まれていった。津軽線は青函トンネルへのアプローチという使命を終えて、昔のままのローカル線に戻る。
大平(おおだい)を過ぎると列車は速度を落とし、小さな山越えに掛かる。人家のない、淋しい谷筋に沿って登り詰め、左股トンネルに入ってもなお上り勾配が続く。トンネルを出て峠を下ると、先ほど分かれた海峡線に出会った。津軽線の津軽二股駅に隣接して、海峡線にも駅が設置されたが、あちらは津軽今別という別の駅名になっている。新幹線規格の巨大な高架橋を、2両のディーゼルカーは遠慮がちにくぐっていく。
やがて車窓に津軽海峡が広がり、8時01分、終点の三厩に着いた。
三厩は竜飛崎への玄関口だ。よほど風の強い土地らしく、駅舎は正面に木造の風除けを構えている。駅前広場の竜飛行きバスに乗ってしまいたいところだが、今回は余裕のない旅程を組んでいるため、乗ってきた列車で引き返す。鈍色の海峡に、雪が舞っている。
8時10分発の折り返し列車は、若者から年輩の人まで、たくさんの地元客で混雑した。三厩ですでに70%、途中からもどんどん乗ってきて、立ち客が出る盛況だ。日曜日でもあるし、青森まで買い物に出掛けるのだろう。車掌さんから切符を買う「青森往復」の声が、あちこちから聞こえる。
8時52分、蟹田着。ここで盛岡行きの特急「はつかり10号」に乗り継ぐ。今朝、函館を発ち、青函トンネルを抜けてきた列車だが、時間帯がまだ早いためか、乗客は少ない。9時14分の発車直前、隣のホームに大阪発・函館行きの寝台特急「日本海1号」が入線してきた。こちらから窓越しに車内をうかがうと、むこうは満席である。そういえば、札幌では雪祭りが開催中だ。新油川信号場で交換した快速「海峡3号」も、9両編成の14系客車が結構埋まっていた。
9時37分の青森で乗客がドッと増え、列車は進行方向を変えて、東北本線へ入る。右に八甲田山を見て快走し、10時09分、野辺地に着いた。
野辺地〜大湊〜野辺地〜八戸〜久慈〜八戸 (大湊線・八戸線)
野辺地駅の山側には、鬱蒼と茂った杉林がある。線路を地吹雪から守る鉄道防雪林だ。雪国でよく見掛けるものだが、ここは日本で最も古く、明治26年(1893年)に創設された。鉄道記念物で、大きな標柱が誇らしげに立っている。
大湊線は野辺地から下北半島を北上し、むつ市の大湊に至っている。恐山の麓まで行くものの、観光路線としては全く期待されていない。経費節減のためワンマンで運行されているが、さらに一歩進めてホームを専用とし、その入り口には内改札が設けられている。一見すると、別会社のようだ。
程なく、単行のキハ40が入線。10時40分、大湊行きとなって野辺地を発車した。右にカーブして北野辺地を過ぎ、すぐ陸奥湾に出るが、線路の海側は延々と続く防雪林だ。その中には、陸側へ向けて幹を反り返らせ、林ごと傾いてしまったような一団もある。
人の育てた樹林が途切れると、草と灌木が点在する雪原になった。大地は海に容赦なく断ち切られ、ここは地の果てだと風が叫ぶ。此岸と彼岸の境目に線路が真っ直ぐ延び、単行のディーゼルカーが雪煙を上げて走る。
車窓から見える恐山が徐々に大きさを増し、陸奥横浜に着いた。大湊線は単線なので、ここで上りの快速・青森行きと交換し、互いにタブレットを受け渡す。
単線に両方から列車が進入すると、途中で正面衝突してしまう。そこで、ひとつの区間、例えば、すれ違いの可能な駅と駅の間に、ひとつの通票(タブレット)を用意し、それを持たない列車は進入させないという安全策が考案された。これを通票閉塞といい、日本でも明治以来、広く採用されてきたが、近年は集中制御による信号やポイントの自動化、駅の無人化が進み、少数のローカル線でしか見られなくなった。
終点ひとつ手前の下北で、沢山の乗客が降りた。むつ市の代表駅は大湊だが、中心部は下北のほうが近い。ここからかつての大畑線、現在の下北交通が、本州最北端の駅である大畑まで通じている。国鉄時代には大湊まで乗り入れていたが、第三セクターへの移行後、渡り線が撤去されてしまったため、もう直通運転はできない。狭いホームには、接続する列車の姿もなかった。
下北半島はこのあたりで大きくくびれ、まさかりの刃のように西へ張り出している。列車は地形に従って向きを変え、11時51分、大湊に着いた。
大湊の駅舎は木造で、大きく、風格があるが、列車を待つ客は少ない。12時24分の折り返し列車に乗り、野辺地へとんぼ返りする。風を切るビュウビュウという音が、閑散とした車内に響く。
大湊線と並行して、国道279号線が通っている。「むつはまなすライン」という、観光地らしい名前が付けられているが、どろどろで薄汚い。路肩に除けられ、排気ガスを浴びせられた雪が、その仕返しとして、自動車からの眺めを奪ったのだろう。そこへ行くと、鉄道の線路端は真っ白のままで、うさぎの足跡が華を添えている。
13時37分、野辺地に戻った。
東北本線のホームに出ていると、レールバスがとことこ走ってきて、半ば雪に埋もれた南部縦貫鉄道のホームに停まった。南部縦貫鉄道は野辺地と七戸を結ぶ全長20.9キロの私鉄で、列車は1日わずか5往復しか走っていない。廃止の噂が絶えず、ぽつんと客待ちする単車も、心なしか淋しげに見える。
それにしても、レールバスとはうまく名付けたものだ。バックミラーを備え、ドアは2枚折戸。車輪は前後2軸だけで、バスのゴムタイヤを鉄輪に付け替えたようなデザインである。小柄な車体はベージュと赤をベースに白帯を巻き、無骨な連結器をジャンケンの「グー」みたいに前へ突き出している。
次は八戸線に乗るべく、14時01分の特急「はつかり18号」で八戸へ向かう。乗り込んだのは583系特急電車だ。各ボックスが昼間は座席、夜は寝台になる構造で、昼夜の別なく、効率良く運用できる。もっとも、昼行特急として見た場合、向かい合わせのボックスシートは居住性に劣り、時代遅れの感が否めない。アメリカ軍の三沢基地を遠望し、14時35分、三沢に着いた。
八戸線は青森県の八戸と岩手県の久慈を結び、三陸縦貫線の最北部を構成している。三陸地方は断崖と入り江が続く地形によって、長い間、他の地域から隔絶されてきた。津波の被害が大きい上、災害救助も容易ではなく、鉄道は明治以来の悲願だったと言える。その夢が実を結んだのは1984年(昭和59年)のことで、現在ではJRと三陸鉄道が路線を分け合い、列車を運行している。
15時52分、ディーゼルカー3両編成の久慈行きは、八戸を発車した。乗車率は30%程と少ない。人口24万人の八戸市にしては空いているが、実はここも奥羽本線と五能線の関係に似ていて、幹線鉄道が市の中心部を通っていないのである。このため、かつては八戸線の本八戸が「八戸」を、東北本線の八戸が「尻内」を名乗っていた。
列車は馬淵川(まべちがわ)を渡り、市街地に入った。八戸線は非電化の単線だが、この辺りは高架化され、連続立体交差になっている。本八戸に着くと、予想どおり沢山の人が乗ってきて、立ち客も出た。高架橋から降りても住宅地は続き、乗り降りが多い。鮫付近では工場と港に臨み、その雑然とした眺めは、京浜工業地帯で生まれ育った私に懐かしく映る。
ところが、鮫を過ぎると風景が一変する。街も港も尽きたかと思うと、列車は断崖の上に登り、海を見下ろして走るようになった。八戸線は鮫を境に、都市の臨港線から海沿いのローカル線へ変身するわけで、列車本数もぐっと少なくなる。
海猫の大繁殖地、蕪島を過ぎると、車窓には荒れ模様の太平洋が広がった。大波が岩にぶち当たり、波消しブロックを乗り越えて、岸に打ち寄せている。いつの間にか、小雨がぱらついてきた。16時53分、種市に着くと、外はもう夕闇に包まれている。
有家(うげ)から急な上り勾配になり、やがて列車は海岸を離れて、真っ暗な峠道を辿り始めた。陸中海岸は北部と南部で成り立ちが異なり、南部の沈降海岸に対して、北部は隆起海岸になっている。海岸から内陸へ入るのは、その隆起によって生じた断崖を避けるためだ。サミットの侍浜で一息ついたが、浜など何処にも見えない山の中で、標高は156メートルある。侍浜を出ると25パーミルの急勾配を一気に下り、久慈市の市街地に入った。17時41分、終点の久慈に着く。
久慈から先の線路は、第三セクターの三陸鉄道が引き継ぐ。駅構内には、横浜博で走ったレトロ風デザインのディーゼルカーが停まっていた。いつか、仙台から八戸まで、三陸縦貫線を乗り通してみたい。
18時21分の列車で、八戸へ引き返す。空いているし、外は暗いので、夜汽車の雰囲気だ。鮫付近まで戻ると、夜空にもうもうと湧き上がる赤い煙が見えて、思わずぎょっとする。ずっと向こうの工場から吐き出されているようだが、列車の行く手に立ちはだかり、魔物のように見える。20時15分、八戸に着いた。
八戸〜盛岡〜黒磯〜上野 (東北本線)
21時21分の急行「八甲田」上野行きで、小雨の降る八戸を発ち、帰路に就く。
指定された座席は、1号車7番A席。14系客車の先頭、進行右側で、2列分ある大窓の後ろ側という上席だ。空調など、編成のサービス用電力をまかなうため、ディーゼル発電機を床下に吊り下げた車両なので、その騒音が足許から響いてくる。
夜行列車は景色が見えないから、席などどうでも良いかというと、もちろんそんなことはない。山の稜線や街並みなど、目に映るものは多いし、砂利や草木が後方へ流れていく様は思索を誘うものだ。東海道本線や東北本線などの大幹線では、列車は昼夜の別なく頻繁に行き交い、大きな駅や貨物ターミナルも活動を続けているので、観察したいと思えば眠ってなどいられない。
列車は馬淵川(まべちがわ)を何度も渡り、カーブを切りながら少しずつ高度を稼いで、標高149メートルの一戸まで登ってきた。東北本線が電化されていなかった頃、機関区が置かれ、峠越えの補機が配置されていた駅である。一息ついた「八甲田」は、いよいよ東北本線最大の難所である十三本木峠、通称「奥中山」に挑む。雨は雪に変わっていた。
22時01分、小鳥谷(こずや)を通過。24パーミルの上り勾配が始まる。電気機関車のモーターが低く唸り、列車の速度もぐっと落ちた。
かつての奥中山は、蒸気機関車D51の三重連が峠に立ち向かう「聖地」だった。煙が天を突き、動輪が地響きを立て、力行や絶気の合図を伝える汽笛が、昼も夜も谷間にこだましていたという。電化され、蒸気機関車が去った後も、急勾配はそのまま残された。重い貨物列車は、今日でもED75が重連で牽引にあたっている。
22時08分、小繋(こつなぎ)を通過。窓からこぼれた灯りが雪の上を滑り、生き物のようにうねりながら、どこまでも追いかけてくる。22時14分、列車は標高453メートルに達し、サミットの中山トンネルに進入した。
トンネルを出ると、勾配は下りに変わった。急に速度が増し、それを抑えるためにブレーキが掛かって、ガクガクと衝撃が伝わる。22時15分、奥中山をゆっくりと通過。速度の均衡を保ちながら、列車は急坂を慎重に降りていく。
22時22分、御堂を通過。22時27分、沼宮内(ぬまくない)に着いて、雪中の峠越えは終わった。
22時53分、盛岡着。スキー帰りらしい人たちが乗り込んできた。盛岡から先では、北海道を目指すブルートレインと立て続けにすれ違う。「北斗星」の金帯が流れ、ダウンライトの食堂車が車窓をかすめていく。
2月11日(月)、0時08分。一ノ関を発車。天井灯が減光され、車内は薄暗くなった。利きすぎの暖房と、ここまでの疲れで、少しウトウトする。仙台でも、郡山でも、深夜だというのに乗ってくる人は多く、それまで目立っていた空席が埋まっていく。
黒磯で、機関車が直流機のEF65に付け替えられた。電化方式の境目に位置する黒磯駅は、かつて関東と奥州を分けていた「白河の関」のような存在かもしれない。
5時12分、宇都宮に着くと、それまで空いていた隣席にビジネスマンが座った。広い構内には濃い霧が立ち込め、霞んだ灯りが眠そうな光を投げている。
6時38分、8分遅れで大宮着。列車は荒川鉄橋を渡り、東京都に入った。窓から朝日が差し込み、半睡の乗客たちの顔を照らす。広大な尾久客車区の脇を通ると、洗浄線から湯気が立ち上り、影絵のようになった客車群が迎えてくれた。輻輳する線路を渡るうち、列車は次第に速度を落としていく。
終着と乗り換えのアナウンスが流れると、にわかに車内のざわめきが増す。まだ夜の気を留める上野駅13番ホームに、「八甲田」はゆっくりと滑り込んだ。
(終)
制作・著作 佐藤純一(サハロフ) 2002, 2013年
Produced and Written by Jun'ichi Sato (Sakharov) 2002, 2013.
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