Page - Mr Hajime Haruka does not have a family. Six days after
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6 days after.


 丑三つ時。
 希亜が眠っている部屋の前の縁側で、月を見上げ時間を過ごす者がいた。
 希亜の使い魔、子猫の姿を持つクラムが、その瞳を月のある空へと向けていた。
「なー」
 どこか悲しそうな鳴き声が、静寂を保つ境内へと染み込んで行く。

 それからしばらくして、希亜の寝ている部屋の障子張りの戸が開かれた。
 月明かりを浴びてみなぎる魔力と、望郷を伴った心を穿つ寂しさ。その両方がクラムから伝わり、目がさえてしまった希亜は、縁側にいるクラムの側にふわり と座り込んだ。
 長い尻尾と、青御影のような体毛、生後二週間の子猫の姿を持つ。希亜の使い魔。
 作られて数ヶ月経ち、かなり安定してきたとはいえ、その身はまだ希亜からの魔力供給によって、整合性を保つ必要性があった。
 萌葱と浅葱のチェックのパジャマを着た希亜は、そのまま何を言うこともなくクラムと同じように月を見上げる。
 クラムもその長い尻尾で答えるでもなく、一人と一匹はただ月を見上げていた。
 風が境内の大木の枝葉を優しく揺らす。
「うまく、行きますよね?」
 一人と一匹の視界に、一筋の流れ星がすっと空に光の線を引き消えた直後、希亜はそう呟いていた。
「なー」
「そですね」
 一人と一匹は、端から見れば奇妙な会話を交わす。
 主人である魔法使いと、その魔法使いに作られた使い魔の会話は、端から見れば成立しているようにはあまり見えない。
 ただそれは、言語以外でも同時にコミュニケーションを取っているからなのだが。
端から見れば風変わりな会話に見えることは間違いなかった。
「なぁっ」
「えっ、それは今話題にすることじゃないと思うんですけどぉ」
「なー」
「出来ればそうしたいと思っています」
「なぅ?」
「そうなんですけどね」
「うなっ」
「あ〜…、そう言えば一度もデートに誘ったことがありませんでしたねぇ」
「なぁぁぁーーー…」
「ううっ、今のわざとため息っぽくしたでしょう?」
「なー」
「ううっ、クラムがいじめるぅ」
 結局、希亜は自分が起きる事になった原因の、クラムから伝わってきた強烈な寂しさに関しては訪ねることをしなかった。希亜にとってクラムは自分の使い魔 である以前に、敬うべき曾祖母であったからだ。


 月がその姿を空高くに映し、雲が時折月明かりを陰らせる。
 深い森の中を流れる沢の近くで、朔は仮眠を取っていた。
 沢を下る冷気が彼の睡眠をゆっくりと覚まして行く。
 ぼやけた視界には、揺らめく薪の炎が、彼の陰をゆらゆらと森へと落としているのが見て取れた。
 ふと、空気の流れが変わった。
 覚醒しきらない意識の中で、悠朔は辺りに注意を向ける。
 人の気配はしない、動物の気配でもない、だが何かがいる。そんな勘のようなものを信じてゆっくりと視線を動かす。
 すぐに複数の人間が水を汲んでいるのが見えた。
 まるで大昔の装束を纏ったその一行は、こちらには何の注意も向けては来なかった。
 違和感を感じて朔はその身を起こす。
 せせらぎを挟んだこちらと向こう、お互いにハッキリ見える距離にいるはずだが、一行の誰もがこちらに気付いた様子は無い。
 こちらがたき火を焚いているにもかかわらずにである。
(幽霊でも見ているのか?)
 そんな思考が脳裏をよぎるが、即座に否定した。
 これが相手、つまりご神体が起こしたリアクションだと判断したからだ。
 持ち物を確かめ、足でたき火に砂をかけ、火を消し止めると、一行の後を追うべくこの場を後にした。


 けたたましい目覚ましの音が鳴り響く。ゆっくりと伸びた手がその目覚ましの音を止めた。
 まだ眠気で思考が霞むが、芹香は昨日のことを思い出す。
 朔が跳ばされてから、すぐに神社に向かい。そこで彼の様子をトレースしていた。空間的な距離が近いせいか、学園の時よりも朔の様子が分かった、その為彼 が睡眠を取った後に彼女も床についたのだった。
 本来なら24時間体制で準備するべきなのだろうが、一人で行っている上に、集中力の限界も考慮して。彼よりも早く起きるつもりで目覚ましを仕掛けていた のだった。
 布団ごとむくりと起きあがった芹香は着替えて居間に向かう。居間に差し掛かった所で、台所からガスコンロに火をつける音が聞こえてきた。
「今、コーヒーをご用意いたしますお嬢様」
 そんなセバスチャンの声が聞こえたので、芹香は安心して居間に置きっぱなしにしていた水晶玉の前に向かう。
 背後で綾香とセバスチャンの会話が聞こえるが、彼女はそれを聞き流して水晶玉の前に座り込んだ。
 眠気を振り払い、術式を始める。
 窓の外に見える空はまだ暗く、朝が遠いことを物語っていた。


 空が白み始める。あの幽霊のような一行の後を追い続けて、そろそろ一時間が経とうとしていた。
 森を抜け、現在は灌木と熊笹が辺りを取り囲む道を歩いている。
 しっかりと踏み固められた道ではあったが、所々草が生えており、あまり人通りは多くなさそうに見える。
 時折木立の間から見える稜線は、神社から見えるものと同じに思えた。
 やがて三辻にたどり着いた。一本の大木の根本で道は分かれおり、先を行く一行は小径と言える細い道へと入って行った。朔もその後をつかず離れずに追って 行く。
 程なく道と一行は深い森の中に入った。
(植生は相変わらず、日本の本州のものだろう)
 辺りの様子を観察しながら、前を進む一行からあまり離れないようにして朔も森の中へと入る。
 ふと斜面の傾斜と、辺りの様子に見覚えがあるような気がした。
 なだらかな登りがしばらく続き、それからは比較的平坦な森林の中を蛇行しながら道は続く。
 日が昇ったのだろうか、時折見上げた木々の枝葉の先は眩しいまでに光を浴びているが、森の中は時折光が射し込む程度で、薄暗く鬱蒼とした雰囲気の中を朔 は歩き続けている。


 昨夜は比較的遅くまで起きていたせいもあり、少し寝過ごしたはじめが着替えて部屋を出た。
 ふと、廊下の向こうから話し声がするのに気付いた。
 どれほど寝坊したのだろうかと、慌てたはじめは、朝食の用意をしようとまだ眠い頭でメニューを考えながら、急いでキッチンに向かう。
「お早うございます、はじめ様。僭越ながら朝食をご用意させていただきました」
 そのセバスチャンの言葉に、頭の中にあった朝食のメニューが吹っ飛んだ。
 見ると香ばしく焼かれたアジの開きと、添え物の塩茹でしたものだろうブロッコリーが、六人分の皿に綾香の手によって盛りつけられているところだった。
「お早うございます、はじめさん」
「おはよう、綾香ちゃん」
 今から手伝いを申し出ても、かえって邪魔になりそうな気がしたはじめは、そのまま洗面所へと向かう。
 ここが自分の家だと再確認するのは、顔を洗い眠気を振り払った後だった。
 お味噌汁も出来上がり、そろそろ朝御飯と言うところで台所に綾芽が戻ってきた。
「綾芽、希亜見つかった?」
「ううん、神社にはいなかったよ」
「そう言えば姿を見かけませんな」
「なー」
 綾芽の足下で、たしたしと綾芽の足を右前足でたたきながら、尻尾の長い青御影の子猫クラムが鳴いた。
「どうしたの?」
 そう問いかけた綾芽に、クラムは得意げに一鳴きすると。綾芽のそばから離れ、玄関の方へと歩いて行く。
「ママ、ついて行ってみるね」
「ごゆっくり」
 綾香にそう言われて、一瞬キョトンとする綾芽だったが。玄関からのクラムの鳴き声に催促されて、慌てて駆け出して行った。


 滝壺に叩きつけられる水の音が辺りを染め、朝の光を受けて飛沫が輝いている。
 ここは九鬼神社の境内から森の奥の方へと続く道、その途中の滝のある場所。
 希亜の使い魔のクラムに連れられるままに、綾芽はこの場所に来ていた。
 この子なら希亜の居場所を知っている。そんな確信が綾芽にはあったからこそ、比較的離れたこの場所まで足を運んでいた。
「なー」
 先を歩くクラムがその歩みを止め、岩陰の方を向いて一鳴きする。
 綾芽がその方向に目を向けると、こちらに背を向けて座り込んでいる希亜の姿が見えた。
「本当にいた…」
「なー」
 何となく信じられない綾芽と、当然とばかりに鳴くクラム。
 希亜の方へと歩き出した綾芽の足下で、クラムは静かに神社の方へと駆け出していった。
「希亜、こんな所で何しているの?」
 呼びかけられた希亜は、若干の間をおいて振り返りこちらを見てふわりと立ち上がり、そのままふよふよと綾芽の側へと来た。
「呼びました〜? 滝の音で声は聞こえなかったんですがぁ」
「朝御飯が出来たから呼びに来たんだけど …あれ? クラムちゃんいなくなってる」
 足下から辺りを見渡す綾芽だが、尻尾の長い青御影色の子猫の姿はどこにも見えなかった。
「クラムなら、神社に戻っていると思いますよ」
「分かるの?」
「だいたいの方角と距離だけなら、あまり離れなければなんとか。クラムからの方が、多分正確に分かると思いますよ」
「ふーん、便利だね」
 感心して綾芽がそういった直後、希亜のお腹の鳴る音が二人の耳に入った。
「戻りましょうか」
「うん」
 二人は神社に戻るべく歩き出す。
「竹箒でも持ってくればよかったかな、そうしたら飛んで戻れるよね」
「あ、出しましょうか? 急いでいるのならですけど」
「大丈夫だと思うよ、ママが『ごゆっくり』って言ってたから」
「それは、多分別の意味で言ったんだと思いますよ」
「そうかな?」
「多分ですけどね」
「ふぅん、じゃあどんな意味?」
 綾芽の言うママ、綾香の言葉の意味に希亜の思考が及んだ直後、彼の顔が赤くなった。
 綾香に行動を見越されるというのもあったし、より強く綾芽を意識してしまったためでもあった。
 もう一つ、希亜も男の子だったわけで…
「そ… それを、私の口から言わせるんですか?」
「えっと、わたし変なこと言った?」
 戸惑って考え込んでしまう綾芽は、どうして朝御飯に呼びに行くのに「ごゆっくり」
なのか、と相対する綾香の言葉の意味に思い悩んでいた。
 もしかしたら、おかずをもう一品作るかもしれない、とも考えたが、そう言った節は感じなかった。
「希亜は分かるの?」
 未だに綾香の言葉の意味が分からない綾芽が、振り向いて問いかけた。
 ふと、いつもよりも赤い希亜の横顔がある。
「あれ? 顔赤いよ? 風邪引いたりしてないよね?」
「こ、これは恥ずかしいから顔面の毛細管が膨張しているだけです!」
 顔を真っ赤にしながら綾芽と視線を合わせ、声を荒げて言った希亜は、そのままプイッとそっぽを向いてしまった。顔と同じように赤くなった耳が、希亜の長 い髪の毛の間から見え隠れしている。
 先程の希亜の仕草が、綾芽の琴線に触れたのか、頭の中で繰り返される。
「希亜君、可愛い…」
 それは自然とこぼれた綾芽の本音だった。
 一方、その綾芽の言葉を聞いて恥ずかしさの頂点に達した希亜は、一刻も早く逃げ出したかった。それをしなかったのは、相手が綾芽だったからだ。
 同時に恥ずかしさを無視しようとは思うが、耳まで真っ赤に火照った顔の感覚がそれを許さなかった。
「でも、どうして恥ずかしいの?」
「それはですねぇ…」
 思わず希亜は口ごもった。綾芽の質問には、少なくとも今回邪気は全くない。その事が「二人っきりの時間を邪魔はしないから」との意味に取った思考を恥 じ、同時に後悔もしていた。
 毛細管が戻って行くのか、顔から火照りが引くのを感じる。
「あー、でも。少しぐらい遅れても良いから、二人でゆっくり帰ってきなさい。っていう意味だったら辻褄が合うかな」
 そんな綾芽の呟きに、希亜は笑うこともできず。その場にへたり込んでしまった。
 急にへなへなとへたり込んでしまった希亜に驚いた綾芽が、驚いて振り返る。
「大丈夫!?」
「もう降参ですよぉ」
 まだ少し赤い顔を綾芽に向けて言った希亜の表情は、綾芽にとって可愛いと感じるようで。
「何が降参なのか分からないけど、恥ずかしがっている希亜って可愛いよ」
 それを聞いた希亜の顔は、再び音を立てて茹で上がるのだった。


 森の中、先を行く幽霊のような一行を追いかけている朔は、いまだに森の中を歩き続けていた。
 時折開けた空間に出る、その際に見える山並みから判断して、神社の敷地と同じならばかなり奥の方へと入り込んでいるように見えた。
 しばらくしてまた開けた空間に出た、辺りを見渡し、見え隠れする山並みからだいたいの位置を確認する。
 そして視線を前に戻すと、前を進んでいたはずの幽霊のような一行の姿はどこにも見あたらなかった。
「むぅ…」
 思わず唸るが、特に驚くことはなかった。
 ここが彼らの誘導する目的地だと思い、もう一度注意深く辺りを見渡す。
 行き止まりなのか、ここから先に続く道はどこにもなかった。その代わりに、大きな切り株の上に、石で出来た小さな社がぽつんと佇んでいる。まるで大きな 切り株の一番手前側に、可愛くちょこんと乗っているように見えた。
 ふとそれが、以前夢のような感覚の中で見た、石の祠とそっくりの姿だと気づいた。
 近くまで歩み寄りその中に目を向けると、水で磨き上げたような細長い石が奉られているのが見える。
「これが御神体か?」
 そういっていぶかしげに覗き込む朔。
 狭い内部はきれいに掃除されており、誰かの手によって管理されているようにも見えた。
「姉さんか? いや…」
 目を凝らして中の様子を観察した朔の言葉が詰まった。
 人の手では到底たどり着けない、まるで無のような清浄の空間がその内部にあったからだ。
 埃一つ付着しておらず、虫のような生物の存在も微塵も感じさせない。あきらかに自然の理からかけ離れたその様子に、朔は少し離れて周囲とを見比べる。
 注意して見ると、切り株の断面も不自然なまでに平面を保っていた。最新技術を持って木を切ったか、神懸かり的な匠の技で切ったか… そんな非現実な想像 がよぎるが、その断面はつい先程切られたかのように水々しい物だった。
 その生木のような切断面に触れようと手を伸ばす、触れた指先がわずかに湿った感覚を伝える。
「時間が止まっている!?」
 あり得ない、そう思いつつも可能性の一つを口に出さずにはいられなかった。
 以前読んだSF小説の中に、時間の概念が止まった空間に迷い込んでしまう、と言う物があったことを思い出す。その話では、炭酸飲料はすっかり気の抜け た、無味無臭の色の付いた液体でしかなかった。
 だが、朔がいるここが単純に時間が止まった世界と仮定するには無理があった。ここには少なくとも森に生息する動物はいるし、風もそよいでいる。
 手を戻し指先の感覚を確かめた、わずかな粘り気を持つ樹液の手触りと、そこから広がる香りを感じた。
 思わず唸る。
 ふと視界の端で動く物があった。とっさに振り向くと、大きな壷を道具を使って四人で抱え、切り株の方へと歩いて来る一行が見える。
 一行の装束は、先程悠朔が後を付けた人々と同じような、とても古い装束をしていた。朔の知りうる限り、それは古代日本の一般服とでもいう物に見えた。
 その四人は切り株など始めから無いのか、切り株と重なりながら、その切り株の真ん中辺りに大きな壷のような物をゆっくりと下ろした。
 悠朔の立っている地面よりもかなり深くに下ろされたのか、下の方で手を使って指図している人物の頭がかろうじて切り株の上に覗いている。
「縄文か弥生のお墓か?」
 少ない考古学の知識から、そんな言葉がこぼれるが。悠朔の言葉は誰にも届かないのか、目の前で埋葬だと思える作業は淡々と続けられた。
 全てが終わった後、切り株に重なって一本の細長い石が、丁度壷のような物を下ろした真上に立てられていた。
「本当に墓だったのか?」
 今一つ現実感が伝わってこないのか、半信半疑に呟く。

 悠朔の視界が霞み暗転した。
 意識が途切れる事はなかったが、再び視界が開けると空から森を見下ろしていた。
 見渡す限り舗装された道はなく、その代わりに一つの集落が見て取れた。
 視界はゆっくりとその集落へと降りて行く。
 人々の風俗から、先程の人物達とそう時代は経ていないようにも見えたが、幾人もの村人がやせ細り、生気無く座り込んでいるのが目を引いた。
 その中を一人の、特にこれと言った特徴のない男が山へと分け入るのが見えた。
 視界はそれを追うように暗転した。再び視界が開けると、先程の男が切り株の前に立ち、幾分か浸食を受けてはいる物の、あの立てられた細長い石と話してい るのが見て取れた。
 男は会話を終えると、深々と石に向かって頭を下げ、この場から離れ山を下りていった。

 また視界が暗転した。
 開けた視界に社を建てているのが眼下に見える、場所は丁度森の入り口付近だろうか。
 森に食い込むようにして広がっていた田畑が潰され、木が植えられているのも見えた。
 そうしてまた視界が暗転した。


 九鬼神社、住居内ダイニング。
「あっ……」
 芹香の声が居間から聞こえてきた。その場にいた皆が驚いて注意を向ける。
 少しして居間の戸が開かれ、芹香が出てきた。
「……帰ってきました、悠朔さん?」
「えっと?」
 芹香の声を反芻した綾香自信も、その声を聞いていたはじめも、狐に摘まれたような表情をしていた。
「そうみたいですね、森も彼の現世への帰還を告げているようです。ただ…」
 芹香の言葉を肯定する希亜だが途中で言葉を濁す。
「ただ?」
「どうも山のかなり奥の方で、今は戸惑っているようですね」


 九鬼神社、敷地内。
 朔の目前。深い森の中に、その存在を誇示するかのように、大きく枝葉を広げた巨大な木がそびえ立っている。
「今度はなんだ?」
 問いに答えるのは、木々が風にざわめく音と、鳥のさえずりのみ。
 見上げた木々の間から覗く空に、一筋の飛行機雲が伸びて行くのが見えた。
「…帰ってきたのか?」
 半信半疑のままに辺りを見渡す。
 少なくとも周囲に今までのような違和感を持つような存在は、何も感じる事はなかった。
 目の前の大木も樹齢数千年を経てはいるだろうが、手つかずの原生の森の中では、異彩を放ってはいても、違和感を感じる存在ではなかった。
「取りあえず神社へ向かってみるか」
 そう言って引き返そうとして、少し前に見ていた切り株と、大木の丁度切り株に当たる部分の形が似通っていることに気付いた。
 まさかと思って、近づいて観察してみる。
 それは似通っていると言えるほど生やさしいものではなく、うり二つだった。
「注連縄一つないこの木が、御神木だというのか?」
 記憶に新しいあの切り株と、目の前にある大木の形状は、完全に一致した。
 驚いてはいるものの、既に驚き慣れたのか、本人にも不思議なくらいに平静を保っていた。
「今まで見た物は、この大木か、あの遺体の記憶なのか…」
 朔は、おそらくこの大木の中に、あの小さな祠のような社があるのだろうと思いながら、この場を後にした。
 今まで見た物を今度は分析する必要があったが、今度こそ家にたどり着けるのではないかという期待が再び膨らんでいたからだ。


 数時間後。
 朔は玄関の前に佇んでいた、中からはお昼ご飯の用意をする喧噪が聞こえている。
(誰も出迎えに来ないのは、もしかして気付かれていないのか?)
「ひづきちゃんゴメンね、急に呼び出したりして」
「いえいえ」
(なんでひづきが来ているんだ? 彼女は隆雨神社にいるはずだが)
 玄関前でそんな考えをしていると、何かが足を叩いているのに気付いた。
「ん?」
 思わず足元を見ると、子猫が前足でタシタシと自分の足を叩いているのが見えた。
 長い尻尾と、青御影のような毛並みを持つシャム猫の子猫。確かあいつの使い魔だっよなと思いながら呼びかける。
「クラムだったな」
「なー」
 まるで人間の返事のように鳴き声を返すと、子猫クラムはふわりと宙に浮いた。朔がその様子に呆気にとられている間に、クラムは器用に右前足でインターホ ンを押す。
 ポーン、とインターホンが押され、単純な電子音が広がる。
「おいおい」
 呆気にとられたままの朔が、地面に降り立ち去って行くクラムを追いかけようとした矢先、インターホンから声が届いた。
『はーい』
 初めて懐かしいと思った。まだ会ってそう長くは過ごしていない姉の声が、酷く大きく聞こえた。
 同時に改築してからインターホンを押すのは、初めてだなと気付いた。
「帰るべき所か…」
『はい? ごめんなさい、声が小さくて聞き取れなかったの、もう一度お願いします』
 思わずこぼした呟きを聞き取られていたのに苦笑した朔は、インターホンに向かい、
「今帰った!」
 ハッキリした声でそう言った。
 程なくインターホンが驚いた声を伝える。そして玄関の向こうから、廊下を走ってくる音が近づいてきた。


 夕刻、道場。
 静かな道場に、はじめ、綾香、綾芽、希亜、ひづきの5人が、芹香と向かい合う朔を囲んでいた。
「……結局、今回の原因が何であるのか、そこまでは分かりませんでした」
 道場に広がるそんな芹香の声は、外からの虫の鳴き声や木々の羽音にかき消された。
「そうか」
 かろうじて聞き取れた朔がそう答える。
「ママ、通訳した方がいいと思うよ」
 蚊の鳴くような、もしかしたらそれよりも細い芹香の声だ。芹香と向かい合っている朔以外は、必死にその声を聞こうとするのだが、神社を取り巻く夜の森が 持つ、ノイズに紛れた声を判別するのは、慣れている綾芽や綾香にも難しかった。
「そうね」
 綾香は綾芽にそう答えて、芹香の隣へと場所を移す。
「通訳するわね、姉さん」
 芹香が綾香と視線を合わせて、静かに頷く。
「あなたは、あの時、自分に起きた事に気付いていますか?」
 同時通訳される綾香の声を聞くと、朔の視線が綾香の口から、芹香へ移る。
「自分に?」
 コクコク。
「あの時に起きたのは、人格の統合です」
「それは分かっている。だが人格が統合されたのなら、力は自由に使えるはずだろう。少なくとも力の管理者の人格は統合されていないと思うのだが?」
 フルフル。
「統合されたからこそ、力が使えなくなったのです」
 コクコク。
「人格は二つの物が一つになっても、足し算では計算できません。朔さんの場合は、いつも表面に出てきた人格に吸収されるような感じて統合されたと思われま す。ただ一つ、式神として分かれた久遠を除いてですが」
「あれからしばらくの間、力が使い放題だったのは?」
「それは、人格の統合が完全に終わるまでの間の、残っていた人格で行っていたのでしょう。元は一つの人格だったのです。それを無理矢理仕切を設けて分割し ていたのが以前の朔さんです」
「じゃあ、今の俺は久遠とは分かれた物の、元に戻っただけと言う訳なのか?」
 コクコク。
「第一人格に引っ張られたのなら、力の管理についても、一から修練のやり直しと言うことになるのか…」
 朔は思わずため息を付く。
「これからの修練は、思い出すことを前提にした方が効率がいいかもしれません。少なくとも統合される前の力が消えてしまった訳ではありません。例えるなら 悠朔という人格が、力を司っていた人格の領域に、今よりも深く触れられるようになれば自然と使えるようになるはずです」
 むうと唸る朔に芹香は言葉を続ける。
「話しを戻します。久遠はあなたの一部であると同時に、あなたの力の一面でもあります」
 綾香を通してではあるが。芹香の言葉を聞いていた朔の脳裏に、先日聞いた芹香の言葉がよぎる。曰く「知ではなく識で、理屈ではなく本能で感じてもらいま す。自分自身を…」と。
「俺自身というのは、その事なのか?」
「それも含めて、力が漏出して澱みを生んでいる事も、ちゃんと自分で管理できるようになれば、一番いいのですが…」
「面倒をかけるな」
 フルフル。
「……もう一つ、ご面倒でも選んでもらうことがあります」
「それは?」
「……あなたを守る者を選んでもらいます」
「先輩、俺は自分の身くらい自分で守れる」
「……ではどうして、私に助けを求めたのですか?」
「それは必要だと判断したからだ」
「……あなたの無力は、自分自身に対して無知である事です。選びなさい、あなたを護る者を。選びなさい、人間の魔術師か、空である魔法使いかを」
「つまり先輩か希亜かを選べと言うのか?」
「……魔族の者を選ぶという選択もあります」
「誰にしても魔女じゃないか、以前希亜から聞いたが破滅させられるんだろう?」
「……あの子は、あの子の為にあなたを破滅させるような事はしないと思います。私に関しては信じてもらうしかありません。もう一人についてはご想像にお任 せします」
「希亜」
「なんでしょ?」
 振り向くことなく呼びかけた朔に、希亜はいつものようにのほほんと答える。
「なぜあの時そんな言葉を吐いた?」
 朔の質問に、希亜はその言葉が指す言葉を記憶から掘り起こす。
 記憶の中に浮かぶのは、希亜が届けることが出来た最後の言葉だった。
「私から届いた最後の言葉でしたら、それはとても簡単ですよ。無防備すぎるんです、お前さんはね」
「他にも言い回しがあるだろうが」
 振り返った朔の視線が希亜の視線に重なる。
 希亜はのほほんとした表情のまま、朔の瞳の奥を覗き込むようにして口を開く。
「ありません。いかなる補足も訂正も、何一つ私の言葉を受け入れなかったお前さんにはね。 …それに、私は届かないことが分かってしまった言葉を、届ける 気にはなれなかった。それだけだよ」
 途中、朔にはやや芝居がかった様に感じたのか、言葉が終わる前に希亜から視線をはずしていた。
「ああ、そうだ。一つ、あなたに謝らないといけない事があります」
「今度は何だよ」
 まだあるのか、とでも言いたそうに朔は視線だけを希亜に向ける。
「あなたの近くに私がいると、あなたの力に反応して微弱な悪寒を感じるようにしていたのです。元々はあなたがあなた自身の力に気づけば、簡単に対抗策が打 てるようにしておいたのですが…」
「パパ、最後まで気づかなかったんだ」
「お前な、それは逆効果だろう」
「そですね。ですからその件については私の失敗です。ごめんなさい」
 そう言って深く頭を下げる希亜。
「俺の力に反応して、俺が悪寒を感じる。また妙な事をしてくれたものだな」
 呆れながら悪態を吐く朔に、希亜は頭を上げて、いつものようにのほほんと言葉を続ける。
「まぁ、魔力の初歩の修練で使う事がある物だったんですけど、効果が確認できるまでは何度も失敗しましたけどね〜」
「他には?」
「他? …ですか?」
「お前のことだから、まだあるんだろう?」
「これ以上は動機になりますから、行動としてはもうありませんよぉ」
「どうだか」
「朔ちゃんは希亜君の事、信用してないんだね」
「良いんですよ、これで。私は結果を出す事はありませんでしたから〜」
「…え? それは私も同じです?」
「そうよね、結局二人とも調べている間に終わっちゃったもんね」
 綾香の言葉に芹香も希亜も頷く。
「結局、何をしたいのか分からなかったな。あの大木の中の社の主は」
「朔ちゃん、大木の中の社の主って!?」
 一息着いて呟いた朔の言葉に、はじめは慌てて聞き返していた
「ああ。ここに戻る前に見てきた事なんだが、後回しになっていたな」
 朔は、昨夜跳ばされてからの事を話し始めた。
 今にして思えば道案内だと思える、大木の元へ向かう一行との遭遇、その後を着いて行った事。
 不自然な切り株の上に鎮座する小さな社。
 埋葬ととれる一連の儀式。
 そして戻ってきた事。
「そんな事があったんだ」
 朔の言葉が尽きると同時にはじめがそう呟く。
「朔ちゃんが見たのは、朔ちゃんが考えたとおりの物だよ。森の中深くにある御神木の中に御神体があるの、拝殿に奉ってあるのはその欠片だから。きっと知っ て欲しかったんだね」
 安心してそう言ったはじめの視線の先の朔が、複雑な表情を浮かべている。
「伝えたい物があれば言葉で伝えれば良いだろうに…」
「昔の言葉は現代人には全く通じませんよ」
「…それはそうかもしれんが」
「こうして無事に帰ってこれたんだから良いじゃない」
「それもそうだが」
「何か不満でもあるのパパ?」
「結局あれだけの騒ぎで、中身がこれだけかよー!」
 希亜、綾香、綾芽の指摘に、そう叫んで道場に大の字になる朔。
「そう言えば、文献にはその大木が御神体だとは書かれていなかったですねぇ」
「そうなの?」
「ええ、村とか神社の起こりとかはありましたけど。大木ではなく石碑のような物と書かれていたはずです」
「私は先代から聞いたから、口伝と文献とでずれが出来たのかな」
「なるほど〜、そですねぇ」
「神様の考える事なんて人間には分からないわよ。ね、姉さん」
 コクリ。
「そうなのかもしれませんね」
 綾香の言葉に頷く芹香に、はじめは屈託無くそう答えた。
 疲れた表情で大の字になっている朔をよそに、それぞれに雑談を始める。そんな中希亜はクラムを呼び、その子をいつものように肩にへばりつかせるように乗 せると、ふわりと立ち上がった。
「私はこれで帰りますね〜」
「ええっ!もう帰っちゃうの?」
 はじめの驚く声に、希亜は静かに頭を下げる。
「では〜 また月曜日に学園で〜」
 のほほんと言いながら、ゆっくりと外へとふよふよと飛んで行く。
「またねー」
 綾芽だけがそう言いながら希亜に手を振り、はじめは残念そうに希亜に手を振る。
「え? 逃げられてしまいました?」
 コクコク。
「そうかな」
「え? 最後までつきあわないのは少しずるいと思います?」
 コクコク。
「そうかもしれませんね」
「希亜は目的を果たしたから帰ったんだと思うよ」
「目的って、姉さんに悠朔の管理をさせるってヤツ?」
「うん」
「でもまだ悠朔は認めてないんでしょ?」
「だって押しつけても聞く人じゃないし」
「朔ちゃん天の邪鬼だからねー」
 コクコク。
「お前らな、本人がここにいるのに話すことか?」
「だって、本当の事じゃない。人の話は聞かないし、何でも一人で抱え込むし」
「本当にねー」
 間髪入れずに肯定する綾香に、はじめも綾芽も同意する。
 その様子に反論する気力もなくした朔は、道場の天井を見上げたまま。
「好きにしろ」
 そうめんどくさそうに呟くのだった。



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