1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握李氏朝鮮の第25代国王の哲宗は、1863年に実子のないまま死去した。李氏朝鮮では、跡継ぎのない場合は王妃に後継者指名権があり、さらに大妃(先代の王の妃・王の父の妃)が生存している場合には大妃に指名権があった。当時、第24代憲宗王の父である孝明世子(翼宗)の妃(神貞王后)が生存しており、この豊壌趙氏の一族であった大妃は、傍系王族の李昰応(のちの興宣大院君)の次男である命福を次の王に指名した。これが第26代国王の高宗で、当時11歳(注:12歳としている文献もある。)であったため、指名した大妃(神貞王后)が摂政として垂簾聴政を行った。また、豊壌趙氏一族は、高宗の父に国王を補佐させて政治の実権を行使させることにした。直系でない国王の実父を「大院君」と称していたので興宣大院君と呼ばれたが、その後政治的な采配を振るって大きな影響をあたえたため、単に大院君といえばこの興宣大院君を指すようになった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 死去した哲宗の妃は安東金氏の一族であった。安東金氏は、高麗建国の功臣である金宣平を始祖とする一族で、慶尚北道の安東を本貫(注)とする。金祖淳の娘が第23代の純祖王の后となり、純祖の摂政を務めていた貞純王后が死去すると、第24代の憲宗王・第25代の哲宗王にも妃を送って、およそ60年間にわたり外戚として権勢を振るっていた(勢道政治と呼ばれる)。のちに登場する金玉均も安東金氏である。 (注:本貫とは、中国・朝鮮半島で氏族集団の発祥の地を指す。) ![]() 豊壌趙氏の一族である神貞王后は、これまでの勢道政治で権力を振るっていた安東金氏を抑えるために、傍系王族で実力のある外戚を後ろ盾に持たない命福(高宗)を指名したのである。命福(高宗)を自身と孝明世子の養子にし、即位後は高宗の母としてまた王室最高位の大王大妃(王の祖母・先代の王の母)として影響力を保持した。 さらに、高宗の妃を豊壌趙氏から出そうとしたが、興宣大院君の反対で失敗に終わった。結局、高宗 の妃となったのは、興宣大院君の夫人(高宗の実母)であった驪興閔氏一族の娘である。当時の驪興閔氏はあまり有力な家門ではなかった。この高宗の妃(閔妃・のちの明成皇后)は、後に大きな権勢を振るったが乙未事変で殺害される。 ![]() ![]() ![]() ![]() 高宗は1864年1月に即位して、第26代の王位に付いた。 即位後2年間は摂政となった大妃(神貞王后)による垂簾聴政が行われた。摂政は1866年初めで終了したが、大院君は閣僚の最高位である三政丞(領議政・左議政・右議政)をはじめ官位を一存で決定する権力を握った。 大院君が政治の実権を握ると、権勢を振るっていた安東金氏の一族を政権から追放するとともに、これまでの慣例を破って派閥・出身・身分・年齢を問わずに旧知の商人や下級官吏などからも才能ある人材を大胆に登用て、王権の強化を目指した。 また、政治機構や王室・国家の典礼などの復古的な整備に着手し、李氏朝鮮初期の統治体制を復旧させていった。これらは当時の疲弊した政治を立て直そうとしたという意味で「改革派」ではあったが、西欧文明を取り入れて諸制度の近代化を図ろうとするものではなかった。 当時は、西洋の外国船が開国要求をもって来航したが、大院君はキリスト教を弾圧するとともに、一貫して攘夷を強行した。猟師や中小商人などの民衆の力もかりて西洋船の進入を撃退している。西洋列強も朝鮮に全力を投入することはなく、日本が先に朝鮮を開国させることを期待しているところがあった。 高宗が即位して9年後の1873年11月、高宗王の妃に連なる閔氏一族によって政権が奪取された。大院君の改革は否定され、旧来の大地主化した両班官僚の支配体制に戻す保守的な政治が行われた。 その後、大院君は、1882年に閔氏政権に不満を抱く兵士らが起こした壬午軍乱の際にかつぎだされたが、閔氏一族の朝鮮政府は清国に派兵を要請、清国は3000人の軍を派遣して暴動を鎮圧した。この際、大院君はとらえられて中国へ連れ去られている。 また、1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こって日清戦争となる直前に、日本の後押しによって閔氏政権を転覆させた開化派の金弘集政権が発足したが、このとき大院君が執政となっている。この金弘集政権は、高宗が1896年にロシア公使館へ逃げ込んだ(露館播遷)ため、崩壊した。 なお、次のページも参照のこと。 ![]() ![]() 【大院君の政治】 書院の整理 「書院」は儒教の学問所で各地方に置かれており、これを維持するために田地が支給されていた。地方両班が土地を寄進して事実上の荘園化が進み、多くの儒生を抱え込むとともに、文化振興・道徳倫理普及の名のもとに地域住民からさまざまな徴用を行っていた。この書院の大部分を廃止し、書院に属した土地の免税・免役の特権を奪って国家の管理下に戻した。 角田房子著「閔妃暗殺」(p79)によると、高宗即位のころは約680の書院があり、大院君は1865年に書院の粛正に着手したが十分な効果を出せず、さらに1868年に厳しい取締りを行い、1871年に47か所を残して他のすべての書院に撤廃令を出した。また、「世界の歴史教科書シリーズ1 新版 韓国の歴史 第二版 国定韓国高等学校歴史教科書」(明石書店、2000年)p325 にも、「600余ヵ所の書院を撤廃し47ヵ所だけを残した。」との記述がある。 景福宮の再建 景福宮(王宮)は、1592年の豊臣秀吉による一度目の朝鮮出兵(文禄の役)の際、日本軍の入城の前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となって焼失し、その後再建されていなかった。大院君はこの景福宮の再建に着手する。 まず寄付(願納金)がつのられて、その代償として官爵が与えられた。京畿道内の国民を徴発して労役を課し、工事が進められた。労働意欲向上のために、舞童隊・農楽隊・演芸団などが工事現場をまわった。工事の途中で火事が発生し、仮小屋800余りと資材のすべてを焼失した。その後財源確保のために、田税の引き上げ、京城(ソウル)の都城門を出入りする人に通門税をかけた。さらに、実質価値が二十分の一という悪貨(当百銭)を発行、物価が急上昇して庶民の不満がつのると清国から銭貨を輸入して通用させた。 ともかくも完成に至り、1868年に高宗王が昌徳宮から景福宮へ移った。 ![]() ![]() 税の確保 地方官吏や豪族たちへの監視を強化して不正や専横によって侵されていた税の確保をはかるとともに、従来は平民だけに課せられていた事実上の人頭税を両班階級からも徴収するようにした。(注)また、高利の貸稲制度に縛られていた農民に対する一定の救済制度も実施している。 (注:従来常民からだけ徴収してきた軍布法(兵役の代用として布を納めさせる法)を廃止して、両班からも徴収する戸布法を実施した。) 農民の反乱 安東金氏の勢道政治によって綱紀が乱れていたため、以前からたびたび農民反乱が起こっていた。大院君の執権期にも光陽民乱(1869年)、李弼済の乱(1871年)、明火賊の活動などがあった。 ![]() ![]() キリスト教の弾圧 ほとんど黙認状態にあったキリスト教(天主教)を徹底的に弾圧した。当時、朝鮮国内には12人のフランス人宣教師が布教しており、信者は2万3000人を数えた。大院君が政権を握った1866年から1873年の間に、9人のフランス人神父が処刑され、8000人以上の信徒が殺害された。 ![]() ![]() 外国船の来航 ・1865年、ロシア船が来航。 ・1866年、ドイツ船が二度に渡って来航。 ・1866年、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めるために大同江をさかのぼって平壌市内に侵入した。平壌の平安道監司(長官)は、慣例に則って食糧・薪・水を支給して退去を命じる方針であったが、派遣した使者の小舟が転覆させられ使者は連れ去られた。さらにジェネラル・シャーマン号は沿岸に砲撃を加え、平壌側は火矢などで応じたが効果はなく10余名の犠牲者を出したが、ジェネラル・シャーマン号が浅瀬に乗り上げると硫黄と火薬を積んだ小舟をぶつけて炎上・沈没させ、逃げまどう乗組員のことごとくを殺害した。 ![]() ・フランス人宣教師の殺害を受けて、1866年に、フランス極東艦隊の戦艦3隻が中国から来航し、江華水道を通って侵入したが1隻が座礁したためいったん引き上げた。1カ月後に7隻の軍艦で再度来航し、江華島の北端に上陸して各地で略奪を行った。李朝側は猟師を集めて500名の小銃隊を編成して一斉射撃を加えるなどの攻撃を加え、フランス側は30人ほどの死傷者を出して全艦隊を引き上げた。 ![]() ・1868年、2年前に通商を拒否されたドイツ人のオッペルトが上海から汽船チャイナ号を借りて来航した。この一行は朝鮮から脱出したフランス人宣教師ペロンが案内役を務め、アメリカ領事館の元通訳官が資金を出していた。まず忠清道の牙山湾に来航し、忠清道徳山郡にあった大院君の父親の墳墓を盗掘した。その後、仁川の永宗島へ向かい、「盗掘行為はフランス人宣教師殺害への報復である」と述べるとともに通商を求めた。 ・1867年1月にアメリカの軍艦ワチュセットが、1868年4月に同軍艦シェナンドアが、消息を絶っていたジェネラル・シャーマン号の調査のために来航したが、成果を得られずに引き揚げた。 ・1871年、ジェネラル・シャーマン号事件への謝罪要求と武力で威嚇して朝鮮に開国を求める目的で、アメリカのアジア艦隊司令官ロジャースが軍艦5隻で来航した。江華島近海で測量を行ったが、これに対し江華島守備兵が砲撃を加え交戦となった。アメリカ側は3か所の鎮台を陥落させて江華島を占領した。この戦闘による朝鮮軍の死傷者は77人、アメリカ軍の死傷者は13人。アメリカ側はこれ以上の死傷者を出してまで開国を強要することを見合わせて引き揚げた。 勝利を収めた大院君は、鎖国攘夷の意志を示した「斥和碑」を全国各地に建てた。 (注:ペリーが同じように武力による威嚇で日本に開国を求めたのは、18年前の1853年である。) ![]() 日本との外交 ・1868年、明治政府の樹立を通告するための使節として対馬藩家老らが釜山浦に入港したが、朝鮮側は、文面上の文字使いや従来の形式と異なることを理由に、文書の受け取りを拒否した。 ・ ・1870年(明治3年10月)、日本は使節を派遣し、外務卿からの書簡を示して国交を求めた。対馬藩を介しない最初の国書である。この書簡には「皇」「勅」「朝廷」などの文字は避けて使っていなかったが、朝鮮はこれも拒否し、旧例に倣(なら)って対馬藩を介すべきと主張した。(出典:中村粲(あきら)著「大東亜戦争への道」(展転社、1990年) p26-27) ・1872年、外務丞の花房義質が軍艦春日と歩兵2個大隊を乗せた汽船で釜山に来航し、釜山にあった倭館(和館)を接収して日本公館に改称した。これに対して朝鮮側は強硬に退去を要求し、倭館での交易中止を宣言して、一切の交渉を拒否した。こうした情勢を受けて、日本では征韓論が台頭した。(注:征韓論は、朝鮮を占領しようということではなく、武力を使って停滞している交渉を打開しようという意見です。) ![]() ![]() ![]() 【李氏朝鮮】 李氏朝鮮の成立は1392年で、高麗の武将であった李成桂が恭譲王を廃して、自ら王に即位した。 国号を「朝鮮」に改め、明のちに清に服属して、王族と両班(貴族階層)が儒教道徳に基づく統治を行った。 『 李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。 』 ( ![]() 李氏朝鮮末期の社会は、王族と両班(朝鮮の貴族層)たちの権力闘争などによって、極度に疲弊していた。呉善花著「韓国併合への道」には、次のような記述がある。 『李氏朝鮮末期の政治は、支配者たちの紛争の明け暮れでまったくの麻痺状態にあった。まともな軍事力はなく、国家財政も社会の経済も破綻し、慢性的な農民一揆が頻発していた。1860年代の李朝の国力は、まさしく衰亡のきわみにまで至り、崩壊寸前にあったのである。』 (参考文献に掲げている呉善花著「韓国併合への道」から。) ![]() 【大院君(人)】 1820-1898年。本名は李昰応。興宣大院君。 ・1820年に王族の一人として生まれるが、安東金氏などの外戚が権力を振るう「勢道政治」が行われ、あまり重用されず不遇な生活を送っていた。 ・彼の次男が国王に指名されて1864年に高宗として即位すると、大院君として政権を取り仕切った。 ・1873年、高宗の王妃である閔氏一族に政権を奪われて失脚。 ・1882年の壬午軍乱のときに担ぎ出されたが、清国軍に鎮圧されて、大院君は中国へ連れ去られた。 ・1885年に清から帰国。 ・1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、日本は、日清戦争となる直前に閔氏政権を転覆させて親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させ、大院君を執政にすえた。 ・1896年に、高宗がロシア公使館へ逃げ込み(露館播遷)、金弘集政権は崩壊。 ・1898年に、79歳で死去。 ![]() 【李昰応(のちの大院君)が政権を握るまでの工作】 角田房子著「閔妃暗殺」(p34-41)に、李昰応(のちの大院君)が政権を握るまでの工作などについて、おおむね以下のような内容の記述がある。なお、太字は、当サイト管理人がほどこしたものである ・豊壌趙氏は、一時、安東金氏と勢力を競ったが、「熾烈な暗闘」の結果勢力を失い、再び安東金氏の天下となっていた。 ・安東金氏の勢道政治において、王族は常に抑圧されていた。 第24代憲宗が世子を残さずに死去した際に後を継いだ第25代哲宗は、当時江華島に住んでおり、「漁師の子らと交わりながら教育も受けずに育ち、王位につくまではまともな衣服をつけたこともなかった」。新王を迎える正使が江華島にて書状を差し出した際、19歳の彼は、「私は書中の文字をよく解し得ない」と答えたという。 「王族の一人である慶平君李世輔が、勢道政治の中心人物である金左根、金汶根らを中傷、誹謗したという理由で爵位を剥奪され、孤島に流刑となった。無実を叫ぶ声は黙殺された。」 「李夏銓は王族中の俊英とうたわれ、憲宗没後には次の王の候補に挙げられた人物であった。金氏一族から危険視された李夏銓は、彼の支持者が失脚したのを機に、“大逆不道罪”の名で処刑された。」 ・こうした王族への抑圧のなか、李昰応も危機感を持っていたであろうと思われる。李昰応は、王家との血縁はあまり近くないが、「幼少のころから父南延君に才能を認められて高い教育を受け、早くから秀才のほまれ高く、成人ののちはその見識とさわやかな弁舌で“王族中の傑物”といわれてきた。金氏一門の勢道政治下に生きる王族にとって、“傑物”という評価はきわめて危険である。」 ・李昰応は、「町の酒家に姿を現わし、庶民と共に酒をあおり、彼らと膝をまじえて語り合うようになった。王族はもとより、両班階級の末端の者さえ、決して足を踏み入れない場所である。」「しかも、美声の持ち主である昰応は酒家の客たちを前に巧みな節まわしで歌謡や民謡を歌い、満座はうっとりと聞きほれて、やがて盛大な拍手を送った。また彼は妓女たちとたわむれ、その何人かと浮名を流した。」 ・「さらに昰応は、金左根、金汶根など勢道政治の中心人物の邸宅を訪れて、生活の困窮を語りながら金品をねだり、時には深く頭を下げて長男のために仕官を頼みもした。」「人々は嘲笑しながら、彼を“宮乞人”と呼んだ。乞食貴公子という意味である。顰蹙を買うこうした昰応の態度は身を守るためのかくれ簑であったのか、と人々が気づくのは、ずっと後のことである。」 ・哲宗没後の王位継承者の決定権が神貞王后趙大王大妃にあることを知る李昰応は、彼女の甥であり若い官僚でもある趙成夏と趙寧夏に接近した。また、「元老の筆頭である鄭元容や実力者の朴珪寿など、選びぬいたごく少数の人々にも本心をほのめかし、趙大王大妃への“売りこみ”のため慎重で着実な手を打った。」 ・李昰応は、宮廷の女官たちにも人気があり、趙大王大妃に仕える女官たちにも接近していた。 ・「昰応は布石の最後の仕上げとして、極度に危険な賭けに挑んだ。彼はかねてから、金氏一族の有力者の一人である金炳学を“見こみある人物”と注目していた。昰応はこの人物に近づき、本心をあかして協力を求めた。彼の切り札は、「わが子が王位についたら、あなたの娘を王妃として迎える」というものであった。もし金炳学がこれを暴露したら、昰応は命を落とす破目になったであろう。しかし金炳学は、黙って昰応の申し出を呑みこんだ。」 ・こうして、1863年に哲宗が死去した。趙大王大妃が王位選考のために重臣一同を集めた時、そこに王族の男性は一人もいなかった。趙大王大妃が「国事は多事多難な状況で王位の選考は急を要する」旨を述べたが、金氏一族の間ではまだ意見がまとまっておらず応える発言はなかった。元老の鄭元容が「慈聖の大妃のご明旨にしたがって、決定いたしたいと存じます」と述べて、これが黙認されると、趙大王大妃は落ち着いた声で、「興宣君昰応の第二子、命福に大統を継承させることに決します」と述べた。 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「韓国併合への道」呉善花著、文春新書、2000年 「閔妃暗殺」角田房子著、新潮社、1988年 「大東亜戦争への道」中村粲(あきら)著、展転社、1990年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「年表式世界史小辞典」文英堂、1988年 「世界の歴史教科書シリーズ1 新版 韓国の歴史 第二版 国定韓国高等学校歴史教科書」大槻健・君島和彦・申奎燮 訳、明石書店、2003年(韓国の第6次教育課程による教科書「国史」(1996年?)の日本語訳)(注:日本語訳の初版は2000年で、第二版では誤訳の訂正が行われている。) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 更新 2015/5/11 |
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