三高歌集
寮歌(沫雪ながれ)昭和十五年 南一 谷長 茂 作詞 北一 山邊 武麿 作曲
|
現在Realplayer(無料)をダウンロード後インストール(Netscapeなら\Netscape\Communicator\Program\Pluginsに)されますと、Realplayerが組み込まれます。三高の旗をクリックして、お待ち下さい(Java起動に1〜2分かかります)。realの画面がでましたら左側の三角をクリックしてください。もちろんRealplayer plusでも歌が流れます。最新のRealplayerは音質が大変よくなりました。
一
沫雪ながれ 夕陽影 あわゆきながれ ゆうひかげ
泛きつつとほく 待つきみの うきつつとおく まつきみの
瞳のいろに しばしとて ひとみのいろに しばしとて
うすれもあへず 佇まふ うすれもあえず たたずもう
|
二
たそがれ星よ あこがれの たそがれぼしよ あこがれの
あふれし泪 ひといづこ あふれしなみだ ひといづこ
茜くれない 空よりも あかねくれない そらよりも
したたり落つる 草の雨 したたりおつる くさのあめ
|
三
ふるさと山に 木の實ふる ふるさとやまに このみふる
秋ぞ偲びつ このひと夜 あきぞしのびつ このひとよ
匂やかにく 沫雪に におやかにとく あわゆきに
なごりのしらべ 流れ消ゆ なごりのしらべ ながれきゆ
|
四
あゝ若き日よ 愁ひあり ああわかきひよ うれいあり
ひとみ翳こく ひそびそと ひとみかげこく ひそびそと
運命を喞ち さりげなく さだめをかこち さりげなく
ほゝゑまんとて 露ちりぬ ほおえまんとて つゆちりぬ
|
五
かたる言の葉 夜露にも かたることのは よつゆにも
うち濕めらしつ ひと去りぬ うちしめらしつ ひとさりぬ
星ぞ流るゝ 今宵かな ほしぞながるる こよいかな
薄氷の路 影とほく うすらいのみち かげとおく
|
六
花さく丘に 花ちらふ はなさくおかに はなちろう
三年にかぎる 若き日や みとせにかぎる わかきひや
いま咲きつがむ よしなくに いまさきつがん よしなくに
耳かたむけよ 春の唄 みみかたむけよ はるのうた
|
七
野いばらひらく 野べはるか のいばらひらく のべはるか
早春のこゑ 花やぐも そうしゅんのこえ はなやぐも
雪くしらべ 清らけく ゆきとくしらべ きよらけく
草の葉すべる 和みあり くさのはすべる なごみあり
|
八
花の名つぐる かのひとよ はなのなつぐる かのひとよ
風におくらむ 若き子よ かぜにおくらん わかきこよ
やさしき歌を さゝやかむ やさしきうたを ささやかん
かなしき歌を さゝやかむ かなしきうたを ささやかん
|
神陵史の記述の通りこの寮歌は優れた寮歌だと思う。ことに曲が音楽的にも引きつけるものを持っている。しかし、私は寮に入らない生徒であったためか、在学中この歌に接したことも、まして自分で歌った思い出も全くない。この歌は三高で最後に作られた寮歌だというからこの三高歌集にも収録しておきたい。なぜ私が在学中に耳にした思い出がないのか? 私の答えは終戦という未曾有の敗北の時期ではあったが、悲しみよりも、自由の復活に明るい希望が世の中にはあり、国家による抑圧からの脱却があったから、この曲の湛えている抑圧から逃避して、自己を凝視するしかなかった昭和15年の雰囲気はもはや合わなくなっていたからだろうと思う。
この時期は、三高生の遺書も手記も残すこともない自殺が相次いだという。自分の理想のままに生きることを許さない時代の抑圧と閉塞が、彼らの絶望を極度にまで高めたのであろう。あるいはまた、作詞者谷長の個人的な経験と心境も反映しているのであろう。神陵史はこの寮歌を「佳き人の去り、失恋の運命をかこちながら、なおしばし、自然のやさしいうつろいに、慰めと癒しを見いだそうとする人の心情に託した」と記している。作詞者谷長のこの曲についての稿はこの後に紹介する。作曲者山邊はドイツ民謡やドイツ学生歌にくわしく、この曲も南ドイツ・シュワーベン地方の民謡にヒントを得たという。
芹洋子さんがこの歌を歌っておられるのを知った。最近森田穣二氏が詠唱テープを恵送くださったからである。芹さんは「三高の淡雪ながれでございます」と紹介されている。
寮歌への訣別(沫雪ながれ) 谷長 茂 (同窓会報 7 (1955))
両親に対して甚だ面目ない次第で、ぼくは二年の時に落第した。高校生活を一年余計やれるとか、人生行路から見て一年の足踏みはなんでもないとか、との先輩や友人の慰めはあったが、現実はもっと厳しく、あのときの一年分の経済負担は両親にとっては限界をこすものだった。(中略)
制度はきびしく、もっとも安値に賄える寮は落第生を閉め出した。別に寮に愛着は何もなく、あんな雑居生活など真っ平だくらいの気でいたが、何しろ閑静な下宿で心静かに詩作(当時ぼくは詩人気取りで、心静かに学業に励むなどの気はなかった)に耽るのが理想だったが、とても家からの送金では採算のとれないことは明白の事実だった。寮を閉め出されたことが何にもまして痛かった。(中略)ぼくはひたすら、寮への復帰を願った。
晴れて三年に進級し、やっと寮に戻れるようになった時には、室長という厳めしい役が振り当てられていた。年少の何人かの秀才がぼくの室に入って来、初めはその若さと張り切り方を茫然と傍観するだけだった。甘いノスタルジイがふんだんに盛られた寮歌が、明るい将来を歩いている思いに胸をふくらませた彼らに、未来からの回想のような倒錯を与え、快い感傷に浸りながら歌われている。ぼくは自分の後姿の影をはっきり見せつけられたようで、寮歌を歌う彼らが疎ましくなっていった。まもなく彼らもぼくと同じ思いを抱くにちがいない。手放しに寮歌の感傷にひたれる気持ちになるまでには、一度は寮歌を口にするのを拒否する時期が来る。
ぼくは叙情のしめりが堪えきれなかった。怒号にも等しい壮大な言辞の応援歌にさえ、叙情が裏付けとなっている。寮総代から寮歌を依頼された時に、ぼくはにべもなく断った。それから思い返して改めて引き受けた。断ることは自分も同じような叙情的寮歌を作らねばならないという暗示にかかっていることに思い到ったからである。寮生活の愉しさを回顧する気持ちよりも、ぼくは寮生活という現実に痛めつけられすぎていた。寮歌は愉しさと憂い(青春の!)の象徴として一応は認めながらも、苦渋は全部濾過されてしまっている。ぼくは寮を出る機会に(卒業のために)寮歌を作るようにと命じた総代に、むしろ感謝した。一月二月と卒業を前にぼくは街をさまよい、一節づつノートに書き溜めていった。寮歌への訣別への寮歌を−−−
出来上がったものはやはり寮歌だった!ぼくの薄弱な心情がすっかり露呈してしまったのだ。ぼくはやけくそに総代に手渡し、間もなく三高を去ったのである。
発表会が吉野であり(編者注:寮生は新緑の頃、吉野に清遊した。旅亭「桜花壇」に一泊し気勢をあげるのが恒例になっていた。)、全寮生によって歌われたことをずっと後になって知った。ぼくの関知しないことで、どう受け容れられようとぼくの脱皮の後始末まで気に病むこともあるまいと、ぼくは努めて自分の寮歌を忘れようとした。東大に来た後輩が時たま歌って聞かせてくれても、ぼくはそっぽを向きたい気持ちを我慢するのが苦痛なくらいだった。作曲も全然ぼくの知らない間につけられていた。秀れた作曲にちがいないが、歌詞を耳にするのが堪えられない故、曲にまで関心は持ち得ないのだ。
奇しくもこれが最後の寮歌となり、間もなく旧制高校は廃止された。寮歌への訣別が現実のこととなってみると、去った女に対するような未練が胸をかすめる。それでいいのではなかろうか? 過去の感傷を感傷として温存するのはよいとして、新しい感傷を生み出すことを非常に疑問に思っている。訣別が感傷にすりかわることはぼくとして到底堪えきれない。ぼくの寮歌が感傷の衣を纏いきっているがためにも!・・・・(昭和15・文丙卒)
「沫雪ながれ・・・」 山辺武麿(津田政男:三高歌集p.183より)
三高三年間の楽しい思い出は、尽きない。しかし三高在学中私は、何をしていたのかと自問すれば、ほとんどなにもしていない。それでは三高に入る前には、なにをしていたかと問われても何もしていないと答えるほかはない。また三高卒業後六十六才の今日までなにをしてきたか、問われても答えに窮する。しかし、ただ一度だけ、しかも一時間だけ三高在学中になにかをしたことがある。
それは、卒業を目前にしたある寒い冬の日自由寮の二階に閉じこもって、優れた詩人谷長茂君(昭和15年文丙卒)の珠玉のような詩篇「沫雪ながれ・・・」になんとかふさわしい曲を付けようと苦闘した一時間であった。
谷長君の詩には吉田山も神楽岡も出てこない。そこにあるのはおそらく失恋により心の痛手を受けたのであろう多感な青年の甘く悲しい思いと考える。私としても三高を去るに及んで痛感した青春への決別の悲しみを十分に曲の中に織り込んだつもりである。おおげさにいって申し訳ないが、これは神陵史に残る一時間でもあった。
幸いにしてこの歌は、私の稚拙な作曲にもかかわらず、昭和十六年卒業の三高生以後次々に歌い継がれてきた。この歌を愛してくださる方々の推挙で、神陵史の数ページに、その名を留めることとなった。私の名誉はこれに過ぎるものはない。ある口の悪い同窓生が、「山辺、もって瞑すべしだよ」という。
同窓生の方々よ。あなた方が、コンパなどで「沫雪ながれ・・・」を、歌ってくださるときは、今は故人となった谷長君と私の青春の思いは、ここによみがえり、あなた方とともに唱和しているのです。どうかいつまでも歌ってください。
伝え聞くところによれば、「沫雪ながれ・・・」は、京大の歌として、三高消滅後も、京大生の一部で学生歌として、代々歌い継がれ現在も歌われているそうである。やはりもって、瞑すべしか?(昭和15・文甲卒)