7.新しい同窓会誌から

同窓会報 101 沢村胡夷と紅萌抄
福重博(2006)

ここまで「逍遙の歌」作曲者として吉田恒三と見る岸田説を中心に挙げてきたが、沢村胡夷説を挙げている人もあるので、読者に公正に考えて頂きたいので改めてこれから紹介していこうと思う。沢村胡夷・吉田恒三の両氏ともに今は亡く、直接確かめることはできない。両説ともに推察を含んでいるので、その推察が崩れると成り立たない。もはや決定的な新しい資料や複数の検証が得られない限り、断定することは不可能と思われる。k.y.が誰か謎のまま三高の歴史を閉じるのも良いではないかと思っている。


私は(財)三高自昭会刊行の『神陵文庫・紅萌抄』(以下『紅萌抄』という)合本の編集を手伝っている。その『紅萌抄』は三高生がいなくなった後にも資料として役立つようにと考えて原稿を選び、テ−プ起こしををした原稿を筆者に送るとき、具体的で正確な記述をお願いしている。また、校正して頂いた原稿をただ入力して印刷会社に送っているのではなく、微力ながら正確を期すための調査をしている。その中で、沢村胡夷の作曲について調べ、考えたことを書かせて頂く。

岸田達也氏は2003(平成15)年1月の三高十八日会で「紅もゆる」の最初の印刷物にある「k.y.」の頭文字は吉田恒三の可能性もあるのではないかとおっしゃった。(『紅萌抄』合本X)
国会図書館で吉田恒三の著書を検索すると11件検出された。その中で唱歌の楽譜が記載されているのは『若越郷土唱歌、第一編』(明治31.7)と『唱歌作曲法』(大正9)の二つである。前者は五曲、何れも五線譜と数字譜が併記されており、そのうち「柴田勝家」(ト調)、「藤島の社」(ホ調)、「常宮浦」(ヘ調)の三曲が吉田恒三作曲である。「覚醒の歌」と「紅もゆる」はどちらも「ハ調」で、「調」も音の動きもこの三曲とは違っていた。後者はポピュラ−な曲が多数例示されているが、吉田恒三作曲のものは見当たらなかった。

国会図書館の索引によれば
吉田恒三(1872−1957)ヨシダ・ツネゾウ
となっている。つまり生まれは明治五年で胡夷が明治十七年の生まれであるから吉田恒三は十二才年上、もちろん親族でも友人でもない。吉田恒三について岸田氏は「東京音楽学校出身でピアノをよくし、・・・・・吉田恒三が主となって設立された「京都音楽会」(明治三五年創立)と書いておられる。『京都音楽史』(昭和17.6)に編纂主任の吉田恒三は、京都音楽会の明治三六〜三八年に行った演奏会では第一回と第五回の演奏会のプログラムを掲載している。それを見ると第一回では「発会の歌」の指揮をし、「角倉了以」と「小松宮殿下頌徳の歌」の作曲を発表しており、第五回ではバイオリン独奏のピアノ伴奏をし、四部合唱でテナ−を歌っている。

この『京都音楽史』の序文に元三高教授の成瀬無極氏は「吉田翁は本邦音楽会の耆宿であり京都楽壇の恩人である。京洛の楽人にして直接間接翁の息のかからぬ者は皆無だと言うも敢えて過言ではあるまい。」と書いておられる。吉田恒三は当時の京都の音楽愛好家なら誰でも知っている音楽家なのだ。だから同じ明治三八年に水上部歌を作曲してもらったのだと思う。

胡夷が吉田恒三に「覚醒の歌」と「紅もゆる」の作曲を依頼したか、吉田恒三が作曲した曲を使わせてもらったのであれば、水上部歌同様「吉田恒三作曲」と明記したと思う。吉田恒三の曲を本人に無断で使って、作曲者名をイニシャルまがいの「K.Y.」「k.y.」と書くことは道義的に考えられない。もし本人にことわったとして「コウゾウ」と読むことを諒承したろうか。

もちろん本人がペンネームや別名で作詞、作曲することはよくある。知る人ぞ知ることだが、加山雄三氏は団伊玖磨と山田耕筰を足して二で割った「弾厚作」(だんこうさく)のペンネ−ムで歌謡曲の作曲をしている。このように見てくると、原譜にある「K.Y.」と「k.y.」は「覚醒の歌」と「逍遙の歌」という歌の性格の違いによって、自分で区別して付けた沢村胡夷の別名と考えるのが最も妥当であると考える。

作詞、作曲者名が本人にとって如何に重要であるかを痛感させられたのは、戦後から今日まで歌い続けられている「異国の丘」によってである。この歌が初めて歌われたのは、昭和23年8月1日(日)NHKの「素人のど自慢」だそうで、このときには作詞、作曲者が不明だった。NHKでは放送を通じて、作詞、作曲者の名乗りを待ったところ、自薦、他薦で50人もの名乗りが出たが決まらなかった。 増田孝治氏が作詞者と分かったのは、詞を手帳に書き留めておいたからであり、その後厳しい審査の後吉田正氏が作曲者として認知されたと聞いた。

旧制高等学校記念館刊行の『記念館だより』第34号に海堀氏は「屡々耳にする「紅もゆる」の作者が実は不明なのだと聞かされた澤村さんが「それは俺だよ」と言ったに違いありません。この時に作曲者には触れた形跡が無いのが残念です」と書いておられる。だが、もし作曲者が吉田恒三であれば「作詞は俺だが作曲は吉田恒三氏だ」と、むしろ誇らしげに言ったと思うし、作詞作曲が自分であれば、わざわざ「作詞も作曲も俺だよ」と言うとは思わない。とすれば昭和九年に発行された『寮歌集』で「沢村胡夷作歌作曲」と書かれたのは正しかったのではないだろうか。
吉田恒三は明治35年に京都に来て京都の音楽界に尽くして昭和32年まで生きていたのであるから、三高生が「覚醒の歌」や「紅もゆる」を歌っていることを知らなかったとはとても思えない。また、自分の作曲を明記した部歌が三つも掲載されている『三高歌集』を目にしたことが全く無かったとも思えない。もし二つの歌の作曲が自分であれば黙っていなかったであろうことは、「琵琶湖周航の歌」の作曲者発見の際のフィーバーぶりから想像がつく。

2003(平成15)年10月12日、小口太郎顕彰碑建立十五周年式典の後、飯田忠義氏は小口太郎が葉書に「寧楽の都」(文部省唱歌)の曲で歌ったらと書いていると言って、その曲で歌った第二の「琵琶湖周航の歌」の一番をテ−プで流された。
「琵琶湖周航の歌」の作曲者吉田千秋は明治28年生まれで、新潟と東京で生活して大正8年2月に24才で亡くなり、作詞者小口太郎は明治30年生まれで、大正8年三高卒業、大正13年26才で没した。小口太郎と吉田千秋が接触した可能性は限りなく小さい。

岸田氏は「沢村胡夷と吉田恒三が接触交流した可能性は高いと思います」と発言されている。 昭和二十七年の『三高歌集』は「逍遙の歌」沢村胡夷 作歌作曲、「琵琶湖周航の歌」 小口太郎 作歌作曲と同じ「作歌作曲」だが、その事情は全く違っていたのである。

岸田氏はまた、「紅もゆる」の前年、1904(明治37)年に作られた「林下のたむろ」の原譜について、それは京極流箏曲で五線譜は吉田恒三が作曲したかと推定しているとおっしゃった。(『紅萌抄』合本X)
岸田氏は「五線譜の楽譜『新箏曲第一編』(明治三八年一月出版)を作譜した吉田恒三」と書いておられ、このことを根拠にこの推定をされたようである。ところが資料に使われた和田一久編著『京極流三代年譜』(2002)は、この楽譜出版を紹介したすぐ後に「第一編の大原女だけはヴァイオリン、歌、箏と分かち記譜されてある」と書いてある。この『京極流三代年譜』の目次には、 鈴木鼓村が作曲した曲名が書かれている。明治年間に三〇曲が入っていて「大原女」は明治三六年五月鼓村作曲となっている。それを基に吉田恒三が三つのパートに分けて記譜し、同年一一月の京都音楽会演奏会で合奏した。その時使った楽譜を出版したのだと思う。
和田一久著『京極流歌譜』(1990)に「鼓村は陸軍戸山学校の剣道教官をしていた明治二五年頃に、当時軍楽次長であった永井建子(けんし1865〜1940)などから洋楽の基礎やピアノ、ヴァイオリンの基礎を学んでいたから、五線譜で「秋風の曲」など作譜するのはおてのものであった。」と書かれている。
国会図書館で鈴木鼓村の著書を検索すると二〇件検出され、その中に先の三〇曲の内九曲が入っていた。『新箏曲第一編』も「大原女」の入った楽譜も無かったが、明治四三年七月に古今堂から刊行された五線譜六冊はあった。いずれを見ても他人の作曲を五線譜にした楽譜には作曲者と作譜者が併記されていた。鈴木鼓村のなまえの入ったものは千鳥の曲(作譜)、おもひで・紅梅(作曲)、静(作曲)、秋風曲(作譜)の四曲で、鼓村作曲の楽譜の声の部分を「林下ののたむろ」と比較したが、類似個所を見つけることはできなかった。

実は吉田恒三が主となって設立されたと岸田氏が紹介された京都音楽会は、演奏会を明治36年に3回、その後毎年2回、京都府立第一高女(現在鴨沂高校)講堂で行っている。曲目は和洋音楽の混成であった。その最初の二年間における京極流創始者鈴木鼓村の演奏会活動を『京極流三代年譜』から拾うと

  第一回(明36・03・15)「千鳥の曲」を合奏、「厳島詣」を独奏、新作「春の行衛」を発表
 第二回(明36・05・25)新作「大原女」を発表、「桜井」を独奏  
  第三回(明36・11・25)ヴァイオリン、ピアノ、箏の合奏で「大原女」を合奏
 第四回(明37・05・29)新作「阿新」(作詞者不明)及び「菖蒲」(鈴木鼓村作詞)を発表
 第五回(明37・11・13)「秋風の曲」を合奏、「海女」を発表

同書にはこれ以外にも京都市内、大阪市内で活動していることが記されている。作曲活動も書かれているが、その中に「林下のたむろ」は見当たらなかった。
『京都音楽史』に吉田恒三は「鈴木鼓村は生田流即ち京都一般の箏曲界よりは指弾されて居た奇嬌の人であったが、非凡の楽才をを抱いてその作品が旧態を脱して新鮮味があり常に明朗の情趣に富み、多くの新人に歓迎されたものである。・・・惜しむらくは十年前に物故したが今にして居らしめんか、蓋し新進作家の首班であろう。」と書いている。
多くの三高生がこの会場につめかけ、胡夷もそうした聴衆の一人で、第三回の演奏会では自分が習っているバイオリンと箏曲の合奏を目の当たりにしたのではないだろうか。曲目「大原女」の作詞は師と仰ぐ薄田泣菫である。新しいものに聡い胡夷は創作意欲にかられ、いわゆる寮歌ではない歌詞の「林下のたむろ」を作って、「大原女」に似た京極流箏曲のメロディを付けたのではなかろうか。それが寮歌とは全く異質のものであったからこそ『嶽水会雑誌』に楽譜を付けて投稿したと推察する。

胡夷の作家活動にとって吉田恒三・鈴木鼓村は確かに大きな存在であった。だが、作曲は天賦の才による。モ−ツァルトは五歳で作曲したと言われるが、記譜は多分父親が手伝ったと思う。メロディ−ができてもそれにピアノやオ−ケストラの伴奏を付けたり、合唱曲のように幾つかの声部に分けて作譜するにはそれなりの知識と素養が必要である。箏曲の楽譜は右手と左手と声と三つの部分があり、そのテクニックを書き込まねばならないので箏曲の専門知識が必要である。
ところで問題の「林下のたむろ」の五線譜、「覚醒の歌」と「逍遙の歌」の数字譜は、単に歌のメロディを記譜したものである。バイオリンなりピアノなりを習っている者が、自分が作ったメロディを弾きながら五線譜の上に落としたり、数字で書いたりすることはそんなに難しいこととは思えない。胡夷と同様にバイオリンを習っていた小野秀雄氏も、胡夷が作詞した水上部歌(羅陵の衣乱れ打つ)の作曲をされている。どうしてメロディを記譜するだけのために専門家の手を煩わせる必要があるだろうか。

(注−以下は「逍遥の歌」作曲者の論考と直接関係がないようなので省略する)(昭24・一修理)

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同窓会報 105 “虎脚気”校医・鈴木宗泰先生のこと   廣谷 速人(2009)

賄征伐の歌に登場する“虎脚気”こと鈴木宗泰先生の実像が廣谷氏のご苦労で報告されました。広い範囲にわたって事績の収集が行われています。

京都市内の開業医で構成される京都医事会の明治36(1903)年度総会で、荒木寅三郎教授(医化学教授、のち京都医科大学学長、京都帝国大学総長)とともに特別講演した方に鈴木宗泰という先生がおられました。

この鈴木先生のことを調べるべく、明治42(1909)年発行の医師名簿を見ましたら、「【履歴明治17年5月】京都平民、弘化4(1848)年生、●油小路椹木町北入」と出ていました。ここに言う(奉職)履歴医師とは、「維新以来官庁あるいは地方公立で医学校で教授または治療に専念し一家をなす者」はその奉職履歴によって、帝国大学や公立医学校卒業者以外に課せられていた医業開業試験を免除されて医術開業免状が与えられるという制度に基づいた医師のことです。

ところがインターネットの『三高私説』というサイトで、校医の鈴木宗泰先生が寮歌「賄征伐の歌」(明治36(1903)年)に出てくる“虎脚気”であることを知りました。そうであるならば、前記の住所は二条城の西南あたりですので、鼻をうごめかされたかどうかは別にして、吉田の三高まで“人力車で駆けて行く”にはちょうどよい距離です。

このサイトに紹介されている文献(吉原隆之介「「虎脚気」の由来」三高同窓会編『会報』25号、4〜5頁、昭和39年。なおこの『会報』は海堀昶先輩の寄贈で、京大人間。環境学研究科・総合人間学部図書館が所蔵しています)によると、“虎脚気”というニックネームの由来は明治35年9月に寮の賄夫がコレラ(当時は虎列拉、時に虎列剌と表記されていました)に罹ったときのエピソードからだそうです。

この賄夫は京極で暴飲暴食した翌日から下痢しましたが、先生はそのことをご存じないままに、脚気治療のためにそれまで与えていた下剤(瀉利塩[硫酸マグネシウム])が効き過ぎたと初め判断されたそうです。しかし結局コレラであることが分かり、寮は消毒や寮生の外出禁止などで大騒ぎになったそうです。

実はこの年の7月頃からコレラが京都市内で大流行していたのです。が、当時の医学常識に従えば便秘は万病の元であって、またそのころなお原因不明であった脚気にも、まず緩下剤を投与するのが普通であったようです。従来想像されていたように、先生がどんな病気でもトラホームか脚気としか診断されていなかった訳ではありません。なおトラホーム(トラコーマ)は明治時代でもカタカナで書かれていましたので、“虎脚気”の“虎”はトラホームではなかったわけです。

当時の『京都日出新聞』(京都新聞の前身)を見ますと、明治35(1902)年9月14日には“第三高等学校賄方香山辨次郎雇人梶本芳男(20歳)が、翌日には“吉田町第三高等学校寄宿舎賄方東京府平民辨次郎弟香山音吉(29歳)”、それぞれ発病したことが報ぜられています。これでこのときのコレラ罹患賄夫は実は二人だったことが判明しましたが、両名が一緒に京極に出かけたのか。ともに下剤を投与されたのか、コレラは果たして治ったのかといった詳細は、不明です。

そこで改めて『神陵史』を見ますと、鈴木先生のお名前はしばしば出てきます。その初出は、三高の前身が大坂英語学校から大坂専門学校と改称された明治12(1879)年4月以降に、予科雇教員(博物)として採用されたときです。その後先生はすぐに教諭、さらには教頭となっておられます。

爾来明治26(1893)年に至るまでの十数年間、大坂専門学校が大阪中学校、大学分校、第三高等中学校と名前を変える中を、先生は一貫して生理、動物、植物、地文を担当されておれれることが、各年度の『第三高等中学校一覧』の「職員」欄に出ています。

第三高等中学校は明治27(1894)年6月に第三高等学校と改称されましたが、他の四つの高等学校(第一・第二・第四・第五高等学校)と異なって法学、工学、医学の三専門学科だけとなり、大学予科は廃止されました。それに伴って鈴木先生ら一般科目を担当する教員の多くの名前は『一覧』から消えました。ある意味では学制改革の犠牲になられたわけです。しかし翌年だけは嘱託として博物を担当されています。その後は“嘱託”として“医員”“校医”を続けておられます。そして“従五位勲六等 鈴木宗泰 東京平民”と出ているのは大正元(1912)年12月発行の『一覧』(明治44年9月起 明治45年8月止)までです。

明治16(1883)年(大坂中学校時代)入学の高安道成先輩が学校に国書科が出来て邦文の教科書が増える中で動植物担当の鈴木教諭がときどき一時間も英語で講義されるので筆記に困ったと言うことが『京都大学百年史』の「創立前記」の項に出ています。

また湊川神社折田年秀宮司の明治20(1887)年5月の日記には、大坂中学校の“鈴木宗泰”に神社主催の園芸会の審査委員を依頼したことが出ています。

さらに明治21(1888)年4月に行われた第三高等中学校初の修学旅行で、奈良郡の要請によって極楽院(現・元興寺[極楽坊])で学術講演会が開催された際、鈴木先生は「鶏卵二口虫の説」という演題で講演されています。二口虫(ジストマ)を当時研究されていたと推察されます。研究と言えば、明治38(1905)年7月の第17回京都医学会例会で「催眠術ニ就テ」という演題を被術者三人とともに発表されています

その後『京都医事衛生誌』という京都の医師会が発行していた月刊雑誌(先生はこの雑誌の同盟社員〔維持会員〕でした)に「明治45(1912)年6月死去」という先生の訃報が掲載されていますので、亡くなられるまで校医を勤められたと考えられます。

これで鈴木先生の三高にかかわるストーリーは終わりますが、インターネット上では、さらにお二人の“鈴木宗泰“が明治初年に活躍しています。

その中のひとりは、愛知県病院(現・名古屋大学医学部)初出版の
『米国雍翰斯氏講義 原生要論』(明治9〔1876〕年)
の口訳者でして、同書には“東京・鈴木宗泰“と記載されています。雍翰斯(ヨングハンス)とは、愛知県病院(現・名古屋大学医学部付属病院)初のお雇い外国人教師(明治6〔1873〕年5月雇用)のヨングハンス(T.W.Yunghans)のことです。彼はドイツ系アメリカ人で、解職、帰国後ニューヨーク近郊で開業したようです。
なお“原生論“とは、同書によれば“有機体(動植二物)ノ常態変化ヲ論ズル所ノ者”で今日の生理学のことです。本書は二冊からなり、第一冊では血液と循環系、第二冊では汗、胃液、乳汁などの外分泌系について、その生理学が詳述されています。
この書物はヨングハンスによる市中開業医、学生への公開講義(愛知県病院では初)の記録で、愛知県医学校の出版物としても初めてとのことです。一般にも市販され、また定期試験の成績最優秀学生に褒賞として授与された様です。この“鈴木宗泰”は明治7(1874)年9月に医員兼訳官として雇われ、明治9(1876)年4月、ヨングハンスの退職とともに雇を解かれたと、名古屋大学医学部の記録に出ています。

ネット上のもう一人の“鈴木宗泰”の名前は、東京の“農学校”(東京大学農学部の前身)の明治12(1879)年の夏期学科表(2月16日〜7月10日)に出ていて、獣医学科二・三年生に「原生薬物学訳講」の講義を担当しています。当時の農学校もやはりお雇い英国人が中心の授業で、講義は英語で行われていたようです。この年通弁として獣医学1名ほか5名が採用されて“助教”となっていますが、鈴木宗泰の名前が明記されています。

これらお三人の“鈴木宗泰”は、名古屋(明治7〜9〔1874〜76〕)年−>東京(明治12〔1879〕年2月〜7月)−>大阪(明治12年4月以降)−>京都(明治45年6月まで)と、時系列的には同一人物として辻褄が合います。しかも、英語に堪能であることも三人に共通しています。ただ本籍地が東京と京都で、違いがあります。

これらお三人の“鈴木宗泰”の“点“を繋ぐ“線”が存在していて同一人物と言えるかどうか、もしそうなら大坂専門学校着任までの鈴木先生はどのような経歴であったのか、さらにこのお三人に共通する堪能な英語力はどのように培われたのかなど、その興味は尽きません。

思いあぐねていた時フト思い付いて、京都大学文学文書館所蔵の三高関係資料を検索しましたところ、

「校員履歴 自明治四年 至明治十五年」
という絶好の資料(資料番号・・三高−1−24)を見つけました。

早速その中の

「明治初年 旧職員履歴書」
を閲覧しましたところ、

折田彦市校長の履歴書の次の次に、果たして鈴木宗泰先生の二通の履歴書を発見しました。一つは公職の履歴書であり、他は出生からの履歴書です。それらによると、先生は弘化4(1847)年7月4日(新暦では同年8月15日)江戸両国橘町二丁目(現・東京都中央区東日本橋三丁目)に生まれ、幼名を泰造と名付けられました。13歳の万延元(1860)年から三ヶ年、横浜のフランス公使館の英人ブラックマン氏に英語学、地理学を学び、慶応元(1865)年からおよそ二年間蘭医ヨング氏に博物学の大意を教えられておられます。このヨング氏とは、上述の愛知県医学校のヨングハンス教師と同一人物であると思われますが、“蘭医”ではありません。彼は愛知県病院へ赴任する前には横浜の外人居留地に居ましたし、着任時に病院側が用意した通弁に代わって途中から鈴木先生が訳官になられたのも、このときの師弟関係によるものと解釈できます。

いずれにせよ、若いときから六年間もネイティブな英語で地理学、博物学と言った西欧の新知識を教えられれば、お雇い外国人の通訳が十分できる程の英語の実力が付いたのであろうと、納得できます。

その後さらに司馬凌海の下で慶応3(1867)年から四ヶ年間、医学七科(理化学〔理学[物理学]と化学〕、解剖学、生理学、内科学、外科学、産科学、薬剤学)を学んでおられます。司馬はその頃医学校(東京大学医学部の前身)に勤務していて、お雇い英人医師ウイリスの通訳をしていたようですが、別途に医学塾を開いていたかどうかは不明です(ドイツ語塾「春風社」を開いていたことは確かですが)。

その後先生は明治2(1869)年6月(22歳)に医学校(東京大学医学部の前身)教授試補同7月に少助教に任じられ、同10月には博物学専門科を仰せつかったのち、明治3(1870)年大阪医学校へ転じておられます。そこで同4(1872)年4月大学中助教、同8月文部権大助教、9月に中助教、同5(1872)年2月に文部大助教に進まれましたが、同年10月に大阪医学校が廃止されました。
この大阪医学校勤務中に、先生はお雇いオランダ医師、ヱルメリンス(Christian Jacob Ermerins) に実地解剖学、生理学、内外科を二ヶ年学ぶとともに、大阪理学所で同ドイツ人教師リットル(Helman[n] Ritter)の理化学二科の実地、講義を一年間傍聴しておられました。

大阪医学校とは、大阪府立病院(明治元〔1868〕年創立)に明治2(1869)年併設された医学校で、明治3(1870)年に官立になりました。また大阪理学所とは、三高の源流である舎密局(明治2〔1869〕年5月開講)が明治3〔1870〕年5月に理学校と改称され、同年10月に洋学校が開成所と改称されて開成所理学局となってからの便宜上の名称です。

大阪医学校廃校後、鈴木先生は文部省へ帰られ、明治6(1873)年3月に第一大学区医学校(上記医学校の後身)へ勤務されたのち、同年7月には府下病院医局兼通弁となられました。その頃の記録によれば、東京府芝愛宕町に東京府病院の本院(明治7〔1874〕年創立、同14〔1881〕年廃止)があって二人の外国人医師が勤めていたので、そこで診療とともに通訳をされたものと思われます。

その後は、前述のように愛知県医学校(明治7〔1874〕年9月)、内務省勧業寮農学校(明治9〔1876〕年)8月を経て、明治12(1879)年10月1日に大坂専門学校に採用されたことが、履歴書に書いてあります。

ここで初めて“点”がすべて一本の“線”で見事に繋がりました。お三人はまさしく同一人物であったわけで、ようやく鈴木先生の生涯を鳥瞰することが出来たことになりました。なお名古屋大学や大阪大学の年表を改めて丹念に見ると、“鈴木宗泰“の名前が確かに出ていました。

すなわち、鈴木宗泰先生は江戸両国にお生まれになり、維新前後の激動の中で英語、博物学、医学を学ばれました。そして大学校に採用され、言うなれば文部技官兼教官として大阪を含む各地で勤務されました。そして明治12(1879)年に第三高等学校の前身である大坂専門学校へ赴任されてから同45(1912)年までの34年間 、65年の人生の後半すべてを「本校とあゆみをともに」(『神陵史』)されました。ただし本籍地は最後まで東京で、最初に引用した文献の記載は誤りです。

三高同窓生で“虎脚気“のことを知らない者はいませんが、“医師 鈴木宗泰“についてはこれまであまり語られてきませんでした。維新前に生を受け、明治を三高とともに生きられた先生の全生涯を顕彰して、ご冥福を祈りたいと思います。(昭和24年 理科)

付記ここには京都大学文書館の資料「鈴木宗泰公職履歴書」「鈴木宗泰私的履歴書」のコピーが掲載され、また次の追記があるが、詳細は省略した。

本稿脱稿後鈴木宗泰先生が少なくとも明治33(1910)年秋と同35年(1912)年春の医術開業試験委員に任命されておられたことが判明しました。 (以下略)

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