その中のひとりは、愛知県病院(現・名古屋大学医学部)初出版の『米国雍翰斯氏講義 原生要論』(明治9〔1876〕年)
の口訳者でして、同書には“東京・鈴木宗泰“と記載されています。雍翰斯(ヨングハンス)とは、愛知県病院(現・名古屋大学医学部付属病院)初のお雇い外国人教師(明治6〔1873〕年5月雇用)のヨングハンス(T.W.Yunghans)のことです。彼はドイツ系アメリカ人で、解職、帰国後ニューヨーク近郊で開業したようです。
なお“原生論“とは、同書によれば“有機体(動植二物)ノ常態変化ヲ論ズル所ノ者”で今日の生理学のことです。本書は二冊からなり、第一冊では血液と循環系、第二冊では汗、胃液、乳汁などの外分泌系について、その生理学が詳述されています。
この書物はヨングハンスによる市中開業医、学生への公開講義(愛知県病院では初)の記録で、愛知県医学校の出版物としても初めてとのことです。一般にも市販され、また定期試験の成績最優秀学生に褒賞として授与された様です。この“鈴木宗泰”は明治7(1874)年9月に医員兼訳官として雇われ、明治9(1876)年4月、ヨングハンスの退職とともに雇を解かれたと、名古屋大学医学部の記録に出ています。
ネット上のもう一人の“鈴木宗泰”の名前は、東京の“農学校”(東京大学農学部の前身)の明治12(1879)年の夏期学科表(2月16日〜7月10日)に出ていて、獣医学科二・三年生に「原生薬物学訳講」の講義を担当しています。当時の農学校もやはりお雇い英国人が中心の授業で、講義は英語で行われていたようです。この年通弁として獣医学1名ほか5名が採用されて“助教”となっていますが、鈴木宗泰の名前が明記されています。
これらお三人の“鈴木宗泰”は、名古屋(明治7〜9〔1874〜76〕)年−>東京(明治12〔1879〕年2月〜7月)−>大阪(明治12年4月以降)−>京都(明治45年6月まで)と、時系列的には同一人物として辻褄が合います。しかも、英語に堪能であることも三人に共通しています。ただ本籍地が東京と京都で、違いがあります。
これらお三人の“鈴木宗泰”の“点“を繋ぐ“線”が存在していて同一人物と言えるかどうか、もしそうなら大坂専門学校着任までの鈴木先生はどのような経歴であったのか、さらにこのお三人に共通する堪能な英語力はどのように培われたのかなど、その興味は尽きません。
思いあぐねていた時フト思い付いて、京都大学文学文書館所蔵の三高関係資料を検索しましたところ、「校員履歴 自明治四年 至明治十五年」
という絶好の資料(資料番号・・三高−1−24)を見つけました。
早速その中の「明治初年 旧職員履歴書」
を閲覧しましたところ、
折田彦市校長の履歴書の次の次に、果たして鈴木宗泰先生の二通の履歴書を発見しました。一つは公職の履歴書であり、他は出生からの履歴書です。それらによると、先生は弘化4(1847)年7月4日(新暦では同年8月15日)江戸両国橘町二丁目(現・東京都中央区東日本橋三丁目)に生まれ、幼名を泰造と名付けられました。13歳の万延元(1860)年から三ヶ年、横浜のフランス公使館の英人ブラックマン氏に英語学、地理学を学び、慶応元(1865)年からおよそ二年間蘭医ヨング氏に博物学の大意を教えられておられます。このヨング氏とは、上述の愛知県医学校のヨングハンス教師と同一人物であると思われますが、“蘭医”ではありません。彼は愛知県病院へ赴任する前には横浜の外人居留地に居ましたし、着任時に病院側が用意した通弁に代わって途中から鈴木先生が訳官になられたのも、このときの師弟関係によるものと解釈できます。
いずれにせよ、若いときから六年間もネイティブな英語で地理学、博物学と言った西欧の新知識を教えられれば、お雇い外国人の通訳が十分できる程の英語の実力が付いたのであろうと、納得できます。
その後さらに司馬凌海の下で慶応3(1867)年から四ヶ年間、医学七科(理化学〔理学[物理学]と化学〕、解剖学、生理学、内科学、外科学、産科学、薬剤学)を学んでおられます。司馬はその頃医学校(東京大学医学部の前身)に勤務していて、お雇い英人医師ウイリスの通訳をしていたようですが、別途に医学塾を開いていたかどうかは不明です(ドイツ語塾「春風社」を開いていたことは確かですが)。
その後先生は明治2(1869)年6月(22歳)に医学校(東京大学医学部の前身)教授試補同7月に少助教に任じられ、同10月には博物学専門科を仰せつかったのち、明治3(1870)年大阪医学校へ転じておられます。そこで同4(1872)年4月大学中助教、同8月文部権大助教、9月に中助教、同5(1872)年2月に文部大助教に進まれましたが、同年10月に大阪医学校が廃止されました。
この大阪医学校勤務中に、先生はお雇いオランダ医師、ヱルメリンス(Christian Jacob Ermerins) に実地解剖学、生理学、内外科を二ヶ年学ぶとともに、大阪理学所で同ドイツ人教師リットル(Helman[n] Ritter)の理化学二科の実地、講義を一年間傍聴しておられました。
大阪医学校とは、大阪府立病院(明治元〔1868〕年創立)に明治2(1869)年併設された医学校で、明治3(1870)年に官立になりました。また大阪理学所とは、三高の源流である舎密局(明治2〔1869〕年5月開講)が明治3〔1870〕年5月に理学校と改称され、同年10月に洋学校が開成所と改称されて開成所理学局となってからの便宜上の名称です。
大阪医学校廃校後、鈴木先生は文部省へ帰られ、明治6(1873)年3月に第一大学区医学校(上記医学校の後身)へ勤務されたのち、同年7月には府下病院医局兼通弁となられました。その頃の記録によれば、東京府芝愛宕町に東京府病院の本院(明治7〔1874〕年創立、同14〔1881〕年廃止)があって二人の外国人医師が勤めていたので、そこで診療とともに通訳をされたものと思われます。
その後は、前述のように愛知県医学校(明治7〔1874〕年9月)、内務省勧業寮農学校(明治9〔1876〕年)8月を経て、明治12(1879)年10月1日に大坂専門学校に採用されたことが、履歴書に書いてあります。
ここで初めて“点”がすべて一本の“線”で見事に繋がりました。お三人はまさしく同一人物であったわけで、ようやく鈴木先生の生涯を鳥瞰することが出来たことになりました。なお名古屋大学や大阪大学の年表を改めて丹念に見ると、“鈴木宗泰“の名前が確かに出ていました。
すなわち、鈴木宗泰先生は江戸両国にお生まれになり、維新前後の激動の中で英語、博物学、医学を学ばれました。そして大学校に採用され、言うなれば文部技官兼教官として大阪を含む各地で勤務されました。そして明治12(1879)年に第三高等学校の前身である大坂専門学校へ赴任されてから同45(1912)年までの34年間
、65年の人生の後半すべてを「本校とあゆみをともに」(『神陵史』)されました。ただし本籍地は最後まで東京で、最初に引用した文献の記載は誤りです。
三高同窓生で“虎脚気“のことを知らない者はいませんが、“医師 鈴木宗泰“についてはこれまであまり語られてきませんでした。維新前に生を受け、明治を三高とともに生きられた先生の全生涯を顕彰して、ご冥福を祈りたいと思います。(昭和24年 理科)
付記ここには京都大学文書館の資料「鈴木宗泰公職履歴書」「鈴木宗泰私的履歴書」のコピーが掲載され、また次の追記があるが、詳細は省略した。
本稿脱稿後鈴木宗泰先生が少なくとも明治33(1910)年秋と同35年(1912)年春の医術開業試験委員に任命されておられたことが判明しました。 (以下略)