§古い同窓会誌から

同窓会報 25 師を選ぶなら第一流の人を  矢野峰人(1964)

矢野峰人は三高の名歌「行春哀歌」の作詞者である。この文は元々ジャパンタイムズ社発行the Student Times 十三巻十一号(昭・三八・三・一五日付)に発表されたものという。矢野が三高時代にどのようなすばらしい先生方に接したか、また今日若い人たちが進学に当たって学校と師を選ぶに当たって参考になればと思うので、昔の人がこのようなことを考え、また教育から貴重なものを得ていたことを知ってもらうよすがになればと収録した。


むかし与謝野鉄幹がはじめて上京し、久しく敬慕していた落合直文の書生をしていた時のことである。
ある日直文は鉄幹に対して次のように言った−−「もはや自分には君を指導する力がないから、誰か他の人に教えを乞うたらよかろう。しかし、師を選ぶならば第一流の人を選ばなければならない。さもないと、一生涯、つまらぬ人を師と呼ばねばならない」。こういって直文は二、三の名を挙げて忌憚のない批評を加えた後、鉄幹をば森鴎外に紹介したのであった。

むかしは方々に「塾」というものがあり、そこで書を講ずる人を慕う者は、千里の道をも遠しとせず馳せ参じて入門を乞うたものである。
ところが、今は、教育は普及したけれども、質的には必ずしも向上したとはいえないにもかかわらず、親も子も、いわゆる「名門校」に殺到するようになった。つまり「実」よりも「名」を重んずる風潮が日を逐うて盛んになったのである。
なるほど「名門校」は歴史が古いだけにスケールも大きく、設備もととのっているかもしれない。しかしそこの教授陣が、他校に比してはるかにすぐれているか否かの点に至っては、疑わしいものが多いのではあるまいか。

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私は明治の終わりに中学を卒業したのであるが、はやくから京都の三高を志願することに定めていた。というのは、当時全国にあった七つの高等学校の中、三高ほど多くの知名の文学者を教授陣に擁していた学校はなかったからである。私は過去を顧みる毎に、自分が青年時代を三高で過ごしたことをこの上もない幸福と感ずるのである。

私はここで、博覧強記、世界的な学者とも評すべきエドワード・クラーク先生に二ヶ年、『近代文学十講』によって天下に声名を馳せた厨川白村先生に一ヶ年教えを受けたのである。クラーク先生はケインブリッジ出身の秀才で、何をたずねても、それこそ打てば響くように、たちどころに明快に答えてくれる人であった。

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厨川先生には第三学年になってはじめて教室で教えを受けることになった。しかもそれは、先生が文部省留学生として海外に出張される直前だったので、正味は二学期程度という短いものであった。

しかし、その短期間の授業によって、われわれは、はじめてほんとの本の読み方というものを教えられたのである。それは「大意をつかむ」ことの訓練であるが、それは決して容易なものではない。このやり方の経験のないわれわれは、訳読が当たると、在来のやり方に従って第一行の第一語からていねいに逐語訳を試みはじめる。すると先生は、「私が求めているのは、逐語訳ではなく、その一節の大意なのだ」といって肉迫される。そこで、今度は、「何でも大意で行こう」とその方面に主力を注いで準備していると、先生は「そこの何という単語はこの場合何と訳せばよいのか」と問われる。そして「大意派」が間に合わせの訳語でも当てようものなら、先生は間髪をいれず、「そんな訳語でこの一節の大意がつかめるはずがない」と頭から否定される。
一方において個々の単語をおろそかにしないと共に、他方、全体としてのまとまった意味を正しく確実につかむこと−−この訓練は、実にこの上もなくありがたいものであった。

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そのころ京都大学英文科の主任教授は上田敏先生であった。先生の著書にはやくから親しみ、陰ながら尊敬していた私は、大学は京都大学と定めていた。同級生の中には東大英文科に入学したものも二、三あったが、京都に残るものもまた二、三あった。
上田先生もまた、私が二年生に進んだ夏、東京の自宅において急逝された。大正五年七月九日のことである。私はこの悲報に接した時の失望落胆を今なお忘れない。
しかし、私は、この一年足らずの間に単位には数えられないにもかかわらず、上級生のための講義講読に出席し、先生から与えられる限りのものを吸収するように努めた。私は先生の講義により、大学における文学の講義が如何に在るべきかを身をもって知ることが出来た。
私は、実に、先生の講義を聴いた最後の学生の一人であるが、たとい一年足らずとはいえ、先生の講筵に列し得たことを、生涯の最大幸福と信じている。

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上田先生の長逝により、私の卒業論文は、外国から帰られた直後の厨川先生および三高から迎えられたクラーク先生によって審査されることとなったが、最後の口頭試問の時、厨川先生から与えられた苦言は、これまた私にとって研究上の最高指針となるものであった。
何を問われてもろくろく満足に答えられず、穴あらば入りたい気持ちであった私が、多少恨めしそうに「今日はさんざんな目に会いました」といったのに対し、先生は「しかし、君、大学の英文科を出るのだからね」と、まさに頂門の一針とも評すべき言葉を持って酬いられた。そして、この言葉もまた、その時以来、学究としての私の指導原理となって今日におよんでいる。

, 私は自分の意志を貫くために、高校にも大学にも、師を選んで入学したが、この選択を誤らなかったことを、心ひそかに誇りとし幸福としている。(大正四・一部乙卒、都立大学名誉教授、文学博士、英文学)

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同窓会報 25 寮(北五)の想い出  山崎季治(1964)

私が三高に入学したのは敗戦の年で、食糧事情が大変悪かったので京都市内出身者は寮には入れなかった。当時の雰囲気としても学校生活の中核は寮生達であった。三高の動きを語る場合、寮生活を抜きにしては語れないと思うので、少し古い時代ではあるが、山崎先輩の想い出を収載させていただく。


私が寮の北五に住んだのは、昭和三年四月から翌年三月卒業までであった。多くの人は三年になると寮を出て下宿する傾向だったが、私は、二年中途から寮に入って卒業まで過ごしたのだった。その為三年生の時は北五の室長という有り難い役目で楽しい一年を生活した。此の一年に私は終生までの益友兼親友を持つことが出来て、今でも心の底から感謝している。

当時は前年末に寮に残る者の室の割当をして、新入生の入寮希望者は新たに申込順か何かで各室に割り当てられてやって来た。北五には私の他二年生の 楠原竜爾君が残留者で、それに一年生が割当られて入ってきた。その中の一人に 藤本武君がある。早生まれで舞鶴中学四年から入学した紅顔可憐の美少年だった。同君が入って間もなくして、同中学出身の 田畑茂二郎君、次いで大塚喜一郎君が北五入寮を希望して入ってきた。此の頃は室長がよろしいと言えば何人でも入れる制度で当時北五には以上の諸君の他喜多、葛山君等もいたので七名に達した。
よく遊び時に学ぶと云う寮生活は日曜毎に弁当を賄いに作って貰って、三々五々京都周辺を散策した。大原、三千院、鞍馬貴船神社、高雄嵯峨など殆ど名所旧跡は見て歩いたような気がする。また毎日のように夕食後寮を出て、荒神橋を渡り、寺町に出て「かぎや」菓子舗の二階に寄り十五銭で、おいしい菓子と茶を飲んで駄べり、京極四条、時に縄手で焼いもを買った。また或る時皆で乏しい小遣銭を集めて焼酎を買い、ビンに入れて貰って将軍塚まで駆け上がり、その勢いでこれを飲み効率を上げ、犬に吠えられた想い出も昨日のことのように懐かしい。皆金に恵まれぬ室員達だったが至って朗らかであった。
このようにして、一年を過ぎ私は京大法科に進んで直ぐ三高寮裏の大学寮に入ったので、毎日三高の裏庭を通り抜け京大に通った。その為か京大に入ってからも三高時代と同じように三高を懐かしんで過ごした。

北五を別れる時は、つらかった事を今でも覚えている。北五に居れば落第しないと云うような妙な噂が立って、舞中出身の藤本君達の先輩で、当時二年生だった、佐藤輝雄君まで北五に希望して他の室から入ってきた。しかし右の噂の他北五は眉目秀麗な一年生揃いだと云うので希望者が出て来たのではないかとさえささやかれる位だった。(今は田畑、藤本氏とも頭髪は頂上に追い上げられ、よく見なければ嘗ての秀麗さは想像もむつかしいが)
前記噂の通り一年生諸君の成績は素晴らしく、田畑君がクラス一番とか他の諸君も優秀だったこと聞いて、私は同君達に引きずられて無事卒業できたことを悟った。

昭和五年三高ストライキが起った、私は卒業の時「将に将たるの器」として右の大塚喜一郎君を寮の総務に推薦しておいた。ところがストライキは寮が中心となり、寮に皆籠城して闘った。ストライキは終わったが大塚君は寮総務であった立場と責任上最中心人物と学校当局に見なされ放校処分を受けた。放校というのは、一切の官立学校への入学資格の剥奪であった。私は平田先生その他の自宅を廻って復校を懇願して廻ったが駄目であった。某先生は私に対し「なぜそんなにも大塚君の事を頼むのか」と云って叱られた事を今でも忘れることが出来ない。
然し、大塚君は矢張り人物であった。いろいろの困難を乗り越え、三高卒業の検定試験をパス。但し官立学校入学禁止の処分は解けず中央大学法科に学び在学中高文司法科パス、卒業と同時に東京丸ビルで弁護士になった。今や元日本弁護士連合会事務総長、法学博士で将来の日弁連を背負うホープの一人である。

三高卒業後も北五で結ばれた兄弟以上のきずなは、益々強くなるばかりであった。田畑君は今や国際法学者として日本の泰斗、藤本君は経済学博士で賃金問題の日本の権威。両君とも日本学術会議員で活躍している。
私は同君達の著作の出る度に恵送を受け、その書物を手にして、北五時台の面影をその紙背に浮かべ乍ら文字の裏にひそむ同君達の誠実と人間性を温かく感じている。

私は斯くの如き益友を北五生活で得た事を何処までも感謝している。そして、三高生活に感謝する気持ちで三高同窓会の為に微力を尽くしたいと念じている。(1963・11・2  於鳥取にて、昭4年文丙卒・弁護士)

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同窓会報 25 恩師のこと たわいないこと  園 頼三(1964)

三高には個性的な先生が多かった。この文章には明治四十年頃の三高の先生達のことと寮生活のことが書かれている。私が在学した昭和二十年当時も先生方の雰囲気はそんなに変わっていなかったように思う。寮生活の一端も窺えよう


逝きし人去りし事などを思いおこす事は、とかく渋り勝ちなものである。儚くも心をとどめるものがあるからであろう。三高に在学した明治四十二三年は、もう五十三、四年の昔の事で、同窓の友は誰も七十の齢を重ねている。名簿を繰っても歯が抜けたように、亡くなった人が多い。当時の先生でご存命の方は寥々たるもので、阪倉先生位のものであろうか。先生の篤実さは申すまでもないことで、却ってエピソードと言ったものが思い出せない。ご専門の国文学を教わったほか、フランス語も課外で有志の者がお願いしたことが記憶に残っている。文科の先生方には御世話になった。どの先生も今から思えば一種の風格がある。人物の桁が今と大分違っていたようだ。大らかで朗々たる美声をもって国文学を朗読された林森太郎先生、中国人そっくりの茫洋たる風采の大野徳孝先生から中国現代文を教わった。その読み方が奇妙で滑稽味を帯びていて忘れられない。それと対照的なのは平田禿木先生で英詩を講ぜられたが、先生が藤村や上田敏のグループのえらい人だと思ったからだけでなく、不思議にも教室がしんとして詩的な香気が漂っていた。

先生によって、それぞれ教室の空気が違うのも面白い。漢文の山内先生や倫理学の野々村先生が教室へ来られると、学生は何かのいと口を見つけて先生に尋ねる。先生はつられて話し出す。話題はそれからそれへと移っていく。学生は先生に講義をさせないことが目的なのだが、しかし、その無駄話のうちに先生の人格や識見が辛辣な警句となり、又は軽妙な洒落となってこぼれる。無駄話の時間に学生はくつろぐ。この二人の先生の時間はそんなわけで講義は殆ど進まない。
先生は講義を大切と考えて進めようとする。学生はこれを妨げようとする。英語やドイツ語の授業時間は、学生に訳読を当ててやらせる建前になっているが、当てられて困る学生が尠くない。それで誰かに質問させて厄を免れ時間を稼ごうとする計画から、その役目を負わされた者が立つ。先生もこのたくらみを感知しその質問を簡単に片づける。すると、もう一人が立つ。その駆け引きがなかなか面白い。
成瀬無極先生は、こうした学生の質問戦術を巧妙にさっさと払いのけて、ドイツ語の講義を進める。そして微笑される。細面の顔に浮かぶその皮肉な微笑が学生にはうれしい。教室のボールドは先生方の似顔ないし戯画の競技場でもある。戯画の名手がその技能を揮う。成瀬先生は屡々取り上げられる。足袋の裏に目鼻を付けたのがそれである。入ってきた先生はそれを見て、空とぼけた様子をしている。先生の歩き方は飄々乎としていて足を内輪にして跳ねるようだ。それが面白くていたずらっ児は真似をしてやってみる。
厨川白村先生は教室で学生の戦術なぞてんで寄せ付けない。しかめ面をして椅子にどっかと腰を下ろし前屈みになって机に肘をかけ、幾人もの学生に訳をつけさせる。或る時、一人の学生が下調べの不充分か又は皆無のためにか、よちよちと渋滞しつつ拙い訳をつけていた。先生は白い横目を投げ、「君、そんな語学力でよくも三高へ入学出来たね」その学生がしょげたのは言うまでもないが、学生は恐れをなしていた。又ある日、ベルが鳴って講義が終わった。先生は椅子から立ち上がろうとしたが立てない。誰かが先生どうされましたと尋ねると、先生は小声で「座骨神経痛でねえ」という、これにはさすがの腕白な学生達も気の毒そうな面持ち。そのころ、学生の委員がお願いして先生に講じて貰った「近代文学」は素晴らしいもので、まさに近代文学への開眼であった。
橋本青雨先生は教室へ来るとき、何の原因でかいつも不機嫌な顔をして口を尖らし肩を聳やかしている。学生にやらせようとしても皆が頭を下げて反応がない。そうなると先生は、その尖らした口でドイツ語を読み始める。やがて得意のドイツ語が鮮烈なアクセントで響くと、その機会を捉えて誰かが質問すると、自分で気をよくされたのか、先生は口辺を綻ばせ、ヒ、ヒ、ヒッと鹿の鳴くような声で笑う。お天気ものと見てか人の悪い学生は、青雨の雅号を青サメと呼んでいた。
自分の専攻の学問が文科関係のものである関係で、大学を卒えてから、親しくご交誼を忝のうした先生が尠なくない。留学中ドイツで無極先生と伯林のウンテル・デン・リンデン街で酒盃を挙げたり、青雨先生とは伯林で同じ宿に下宿して、度々郊外の森を一緒に散歩した折りなど、以前教室での先生とは全く違って皮肉や気むつかしさのない人間味溢れる先生であった。話がややしんみりして来た。ここらで騒々しい話を。

寮生活の一椿事、たわいない「ライス・カレー騒動」の一くさり。

三高の寮は三棟あって文科の学生は北寮で私はその六号室にいた。三棟の中に舎監室や委員室があり、食堂は南寮の端にあった。二階建の三棟が前後に並び中央に南北をつなぐ廊下が板敷きになっていて、踏むとガタガタ音を立てる。階下の各室に五六人ずつ割りあてられ、そこで学生は勉強しているが、夜、時間が来ると二階の寝室に入る。消灯後、突然、大音響と共にこの建物が震動する。人造地震なるもので−−それは、二階廊下の一隅におかれてある縄梯子を闇のなかで引きずり出して二、三人が力任せに振り回し揺り動かすのである。その物音を聞いて舎監の教師が提灯下げて昇ってくる。一方の階段口にその灯を見つけると、いち早く下手人達は寝室の蒲団に潜り込む。こうした人造地震にも馴れて、もはや興奮を覚えなくなった頃、ここに勃発したのが「カレー騒動」である。

その原因は或る日の昼食に出されたカレーにある。カレーが汁茶碗に容れられ、飯は小さい飯櫃にある。飯と汁とが別々に並んでいる。平たい皿に飯を容れカレー汁をかけて出す現在普通に行われている遣り方ではなかった。学生は毎度でる蜆汁と同じように、カレー汁を吸うと、すごく辛い。濃いその液体はうまくもなく、ねとねとして無気味でさえある。「これは何だ」「まづい汁だ」と食堂に不平の声が挙がった。
それだけで済めばよかったが、その夜、苦情が炊事委員の処へ持ち込まれた。委員は寮生の中から選出され、食堂の炊事係が提出する週間の献立を委員は吟味し、せいぜいおいしい食事を作らせる責任をもっている。今日のカレーも委員が承認したのだ。不平の連中は委員室へ押しかけて行き、なぜこんなまづい変な汁を食わせたと詰め寄った。委員は詰問に対し、自分達は既にカレーを飯にかけて食う食い方を知っている文化人だと言わぬばかりの素振りで、「君たちはライス・カレーというものを知らないのか。食い方一つ知らないか。それじゃ山家の猿だ」と言ったのである。
これを聞いた連中、どうして憤慨せずにいられよう。殊さら立腹したのは九州から来た学生で、猿とは何だと顔を真っ赤にしてわめき立てたものだ。板敷きの廊下に乱れる足音騒々しく、寮生達は口々に叫びつつ駆け集まり、委員室の辺りはいっぱいだ。沸きかえる怒号のなかで九州男児が委員を殴ったというのを私は耳にした。舎監の教師が仲に入ってこの騒ぎを鎮めたのは、消灯時も夙くに過ぎた頃であった。(明治四十四年第一部文科乙類卒、同志社大学名誉教授、文博)

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同窓会報 25 ありがたかった
           重沢先生と級友達 武市一夫(1964)

在りし日の三高生活の一コマかと思うので収載した。


往年の美少年島津亮二君から二十三年ぶりの便りがやってきて、寄稿を頼まれた。筆無精の私も思わず嬉しくなって、二十五年ぶりに三高に一文を寄せる次第。(中略)

さて思い出は数々あれど、新入学の初夜、猛烈な歓迎ストームを先輩の猛者どもから浴びせられて思わず貞操の危機を感じたこと。(小生は可憐なる四修生だったから)。返礼ストームで逆襲的に寮の窓硝子を二十枚ばかり肘で押し割りしかもその証拠をうまく、くらまして中国式のホクソ笑みを浮かべたこと。

山本修二先生のクラスで休み時間にスパスパ煙草を吸っていると怖る怖る近づいた美少年(当時は皆美少年に見えたものです)松本十郎氏が「武市君。君四修だろう。」「そうだ。」「いつから煙草吸ってるの。」「三年の一学期からだ。」「へえ!驚いた。よく退校にならなかったもんだねえ。」「何しろ要領がいいんだから・・・・・・・。」というわけで煙草に関する限りは大杉正雄氏(目下当県の高校長としてご自分のようにならないようにと罪滅ぼしに少年の教育につとめてくれている)と小生の二人が同じ徳島中学でイニシャチブをとってしまい、無理に煙草を吸ってムセている奴を大杉氏と一緒にニヤニヤ見ていたのは痛快だった。

とにかく九百の健児の集う神陵で何とかして、コンプレックスを克服しようと涙ぐましい努力をしたものだ。

小生は煙草で、大杉氏は酒タバコで、杉本君はテニスで、中村桃太郎は江戸っ子弁で(バスケットはオマケらしい)亡くなった松尾君は直勝先生への挑戦で、もう一人の四修の塩谷秀夫君はナマメかしい京都弁で、片足の悪かった酒井君は競争で、故島本八郎、水口肇の両君は剣道で、鈴木博章さん(私はこの人を先生と間違えた)は悠々たる同級生への父性愛で、朝鮮からやってきた金星縺A廬永穆、崔潤模の三君は素晴らしい英会話で、はるばる広東からやって来た李漢民君はタドタドしい日本語で−という具合である。
も一つ忘れていた。会津若松出身の大須賀隆輔君は紺の袴に三本歯の下駄を履いた白虎隊スタイルでーその白皙の美貌とグッと胸に来るサムライ、或いは稚児ムードには「僕もかなわん」と真実思ったものだ。

これからの話はこの大須賀君につながる。この全同級生を薙ぎ倒す慨のあった隆輔君にもこわいのが一人いた。これこそこれからご登場願う重沢俊郎先生その人である。
当時、重沢先生は漢文ー厳密には支那哲学の先生、寮の食堂の壇上に立って、白虎隊の詩を堂々と吟ずる隆輔君が漢文は常に落第点、暮夜、ひそかに北白川を訪れては涙を流して、再起を誓い、叩頭して憐れみを乞うこと、二度や三度ではなかった。
不憫な子供ほど可愛らしく、当時お子さんのなかった重沢先生が我が子の如くいつくしんだものである。大須賀君には小生恩を売ってある。ー彼の最も苦手の漢文の時間に。−これこそ奇しき因縁と申すべきか。
さて、小生も三高自由の精神にゆあみして骨の髄まで泌みこんだのが二年生時代。
楽々と一年から二年に進級し、標準語も「若草」のメッツエンに笑われない程度に話せるようになるし胸は自信に溢れている時代。

当時は理由の如何を問わず一年の総授業日数の三分の一までは欠席自由、遅刻と早退は二分の一日の計算、同級生どもも鼻紙を持たなくても、手帳を持っていた。
鼻紙は寮のトイレットペーパーで間に合うが、手帳に欠席日数をシカと書き留めておかないと大変なことになるからだ。正確に三分の一まで欠席すると後は絶対に遅刻しても早退しても、アウトドロップである。その瀬戸際まで小生が来たのが二年生の三学期。

親父やおふくろの悲しむ顔を思い浮かべては、早朝敢然と寝床から飛び起きては八つ割れ草履をつつかけて、教室に駆けつけたものである。
ところが一朝、眼覚むれば傍らに人なし、アイヤーと思ったが後の祭り、時計を見ると十分遅刻−−何故そうなったかは原因が未だにわからない。敢えて今になって推定すると、盟友大杉氏が百万遍の「美里音」当たりへ小生を連れ出し、女の子にさわらせたり、さわってもらったりした身労?の結果かも知れない。
とにかく事はすでに終わった。矢は弦を離れて今や落ちる以外にない。こうなると度胸が出来て、再びグーグーと寝入りこんだ。
それを無理に揺り起こす野暮な奴!と思ったら大須賀君、「武市!起きろ。」何だ。」「早く教室へ一緒に行こう。」「お前も遅れたのか。」「馬鹿俺は教室から戻ってきたんだ。」「俺は今朝で落第が決まった。万歳して寝るつもりだ。」「とにかく出てこい。これは重沢先生の命令だ−−。」とばかり無理矢理に教室へ引っ張り出された。

その朝の小生のフテくされた顔を自分で見たかったものと今でも思う。

「つれて参りました。重沢先生。」とばかり大須賀はまるで凱旋将軍気取りである。
ポカンと先生の顔を眺めているうちに授業が終わった。羽織袴でしずしずと出て行かれる先生を呼び止めて「先生、僕は落第に決まったんです。それを何故呼びつけたんですか。」とその時の僕の面相はつきつめたものだったろうと思う。エレガントに振り返られた重沢先生は黙って私に出席簿を手渡された。パラパラとめくって僕の名前の欄を見ると何と完全出席のマークが付いているではないか!「万歳!」

それ以来私は重沢先生を心から尊敬している。正に大須賀君のランクに成り下がってしまっても!という気持ちだ。

良き師、良き友−良きメッツエンの時代だった。

島津君も今や重沢先生同様の良き師になっていることと確信する。(昭和三八、七、一五)(昭十四年文甲二卒、徳島県副知事)

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同窓会報 26 よき時代のよき先生方  大西芳雄(1964)

大西による「三高茶かぶき」(同窓会報10(1957))の記事中に三高のプールがどうしてできたのか、そのいきさつが語られている。いかにも三高でしかあり得ない事実なのであるが、同窓会報26に改めて自分の三高時代の思い出とともに取り上げている。よほど大西にとっては忘れられない思い出なのであろう。


僕が三高に居たのは大正十五年から昭和四年までの三年間である。「居た」というのは、ほとんど勉強しなかった、ということである。本当は「学んだ」と言いたいところだが、そうは義理にも言えないところが情けない。しかし学校に出なかったということではない。教室に出ることは出たのだが(代返をも含めて)、自分から積極的に学校の勉強をした記憶がないのは、先生方に対しても申し訳ない次第です。その結果、当然ながら、成績はよくなかった。一年生の時にはあやうく落第しそうになったし、とにかくクラスの中程より以上の成績順になったことはない。

しかし学校の勉強をしなかったのは、何も僕だけではない。勉強優秀な二、三の諸君をのぞいては殆どクラスの皆がそうだった。その証拠に、僕の親友のある男で、いつもクラスの底辺あたりをうろついていた男があったが、この男が何を思ったのか、突然或る学期の試験前一週間ほど猛烈に勉強した。結果は覿面、一躍五、六番に躍進したのである。もってクラスの連中が殆ど皆学校の授業をサボっていたということは明瞭である。その男は、「ああこれで安心した」と言って、次の学期から再びクラスの底辺を低迷したことは申すまでもない。

そうすると一体クラスの連中は何をしていたのかと言えば、それは各人各様で皆勝手なことをしていた、とより言いようがない。僕自身は夏は(というより泳げる程度に水温が上がれば)泳いでばかり居た。水泳のシーズン以外はと言えば、大体は何となく暮らしていたという記憶しかない。しかし、当時唯一の洋書店であった丸善から英語の小説を買ってきては、割によく読んだと思う。学校で習った英語の教科書もそれぞれに面白そうだったが、その方はあまり読まないで、自分勝手に選んだ本ばかり読んだのは、どういう心理状態だったのだろうか。

しかし、当時はよい先生が沢山居られた。その中でも、英語の深瀬先生、山本修二先生、日本史の中村直勝先生、地理の藤田元春先生などは特に印象に残っている。深瀬先生の名訳、山本先生の芝居のお話などは興味深々、楽しみにして聞いたものだった。

藤田先生の軽妙洒脱な講義には参った。第一、僕ら地方の田舎から出てきた者には、先生の京都弁が、それだけでも面白いのに、そのお話たるや、何処までが真面目なのか、何処からが冗談なのか判らない。試験の前にノートを読んでいると、「地震の時には机の下に隠れるが良い」などという文章が出てくるのだから、苦笑せざるを得ない。ある時、先生は授業の冒頭に「こんど立派な地図の書物が出た。こんな良く出来た本は未だかって無い。著者は藤田元春」と言ってすまして居られるのには、一同唖然、茫然、爆笑した。

中村直勝先生の講義も面白かったし印象に残っている。先生の尊氏忠臣論も面白かったが、ある時、某クラスメートが「阿彌陀さんは男ですか女ですか」という途方もない質問をした。僕らは先生の答えや如何にと固唾を呑んでいた。ところが先生は間髪を入れず「さあ、誰も前をまくって見た者がないから判らん」と答えられた。皆の爆笑が続いたことはいうまでもない。その中村先生は今も壮者をしのぐ御元気で、ライオンズクラブのガバナーなどでご活躍をして居られるのは慶賀の至りである。

「代返」というものはいまだに何処でもあるらしいが、僕らの三高ほど利用されたところはないのではなかろうか。僕自身は人に代返をしてもらった記憶はあまりないが、僕が代返をしてやったことはしばしばある。ひどい時には四、五人のを引き受けたこともある。同じ声ではバレるおそれがあるので、人ごとにオクターヴを上げたり下げたり、相当に技巧を要する仕事である。ある時、それがあまりにひどかったので、さすが寛仁なる先生も気付かれたらしくてバレそうになった。そこで僕は急遽、用便の急を告ぐるを理由として退席し、代返依頼者を狩り集めにまわったこともある。ところが、これはたしか、国文法の亀田先生の時間だったと思うが、狩り集めてゾロゾロ教室に入ってきた結果の總出席人数が、返事をして出席簿に記入された人数よりも多くなったという、珍妙な現象が生じたこともあった。

エルダー先生ご夫妻も印象に残っている。Mrエルダーは見るからにイギリス紳士で、キングズイングリシュで話される発音には、いかにも本場の英語という感銘を受けた。僕が後年イギリスで多少とも自分の意を表わし得たのは、先生のおかげが大きいと今でも感謝している。ミセス・エルダーには僕ら悪童連中は随分御迷惑をかけた。先生はスコットランド出身とみえて、良く僕らにスコットランドの民謡を教えて下さった。図に乗った僕らは先生が授業をしようとされるのに、歌をうたってくれとせがんで、よく先生を困らせた。一度などは遂に先生が泣き出されたこともあった。今もって誠にすまないことをしたと思っている。たぶん僕らは母親に甘えるような気持ちだったので、先生もどうかこれを諒とされたい。エルダー先生の試験は先生が英語で質問され、それに僕らが英語で答えを書くというやり方だったと記憶するが、中には実に大胆不敵な奴がいて、どんな問題を出されようが、そんなことには全然お構いなしに、あらかじめ「紅もゆる」を英訳してきて出した奴がいた。 考えてみれば「紅もゆる」は日本語としても文章になっていない箇所が多いのに、よくも兎も角英語の文章にしたものだと感心する。その方がよっぽど骨が折れたことだろうにと思う。それでも先生は60点だけは下さったそうだ。つまり努力賞というところか。但しそんなことをしたのは僕ではないことだけは保証する。

こわかったのは数学の児玉鹿三先生、通常ドテカン先生だった。特に僕は一年に入ったばかりの時で、サイン、コーサインだなんてものがさっぱり判らなかった。したがって当然注意点をもらった。「大西君!注意点ですわな−落第ですわなー」と言われた時はゾーッとしたものである。それが名簿順では僕が大森の次だったので余計に損をした。大森は良くできるのでいつもほめられる。その次が「大西くん」とくるのだから、対照的に益々僕の出来の悪さが目立ったのである。だから僕はいつも、数学の時間は前の奴の影にかくれるように、先生から見られんように、体を小さくしていたものである。今だに数字や数学にコンプレックスを感じるのは、けだし習い性となったに違いない。

それに恐かったのは漢文の湯浅廉孫先生。よく漢詩の朗詠を命ぜられた。ところが僕らのは朗詠などといったものではない。とにかく節らしいものをつけて長く引っ張って読むだけのものだった。最も先生ご自身のも僕には調子外れで、お義理にも上手とは思いかねた。それでも先生は大真面目でやっておられるので、笑うわけにもいかない。気の弱い僕なんかは、あてられはせんかと戦々恐々として、神仏の加護を念じたものだった。ところが先生は教室をはなれると、実に心の温かい人だった。僕なんかは先生のお宅にお邪魔したことはないが、クラスの連中のなかにはよくお邪魔をした奴が居た。御一家をあげて歓待して下さったそうだ。もっとも、その連中も、御馳走が目当てだったか、美しいお嬢さんが目当てだったか判りはしない。

そのほかにも、こうやって往時を思い出していると、懐かしい先生方のお顔が頭に浮かんでくる。それを書いていると、とても紙数が足りそうにもない。そこで、先生方の追憶はこれくらいにしておいて、最後に森外三郎校長先生の想い出を書こう。

僕らは校長を失礼にも、森ガイと呼んでいた。この先生は入学式の訓示の時から、何だかモガモガ言われて、何を言われたのかトンと記憶にないが、僕には忘れられないことが一つある。それは僕が三高を卒業してからのことだが、在学中からヤイヤイとせがんでいたプールをやっと造ってもらった。水泳部の連中が喜んだのは勿論である。僕らは在学中校長宅を訪問して、プールを造ってほしいと陳情したが、いつでも先生はモガモガ言われて一向に要領を得ない。いつも狐につままれたような気持ちでしおしおと引き下がる外はなかった。本当のところは僕らは半ばあきらめていた。それが二、三年してプールが出来上がったのである。現役の連中は勿論、僕ら先輩も大いに喜び、プール開きの日には喜々として泳いだものである。

それから話は二十数年後になるが、ある時僕は偶然中村直勝先生に京阪電車の中でお目にかかり、隣の席に座る光栄に浴した。その時何かの話のついでにプールの話が出た。直勝先生は例の調子で、プール建設の時の裏話を聞かせて下さった。その時の夏のボーナス袋を先生方が貰われて、開けてみたところ何も入っていない、というのである。これは怪しからんというので、校長室に押し掛けて、どうしたわけかと詰め寄ると、校長の曰く、「いつかの教授会でプールを造るについて皆さんにご協力を願ったところ、皆さんは賛成なさったから、このたびのボーナスは全部御寄付願いました」という返事だった、というのである。先生方は唖然として、開いた口がふさがらなかったそうである。そして直勝先生曰く「あの校長はひどいやっちゃ、へへ・・・・」。僕はこれを聞いて,熱いものがグッと胸にこみ上げてきた。

よき時代の良き先生方であった。

 こんな良い学校を三年間で卒業してしまったのは、今でも残念である。(昭・4,文甲卒)

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同窓会報 21 内外一如の湯浅廉孫先生のことなど
 高木 右門(1962)

この稿は筆者が弁護士であるだけに、少しその職業を思わせるような文体であるが、年を取っても三高生気質の抜けないいわゆる“三高音痴”の考察を、三高の“自由”の性格の分析をふまえて展開しているので取り上げた。編者も同感で、三高の自由は単なるスローガンでなく、ほんとうに脇の深い、許容幅の広い、それぞれがそれぞれの自由を保ちうる真の自由であった。そのことはここに収載した多くの卒業生の寄稿の中に窺えるのである。

後半、筆者に深い感銘と影響を与えた三高時代の師、湯浅廉孫先生の思い出が、心熱く描かれている。いわば一人の師の人柄に終生惚れ込んだ人の話である。


秋の小日和の日曜日、武蔵野の一角にある閑宅の庭に、もう大分葉の落ちた柿の木の枝に残った、艶やかな柿の実に当たる日差しを追っていると、何となく「山紫に賀茂川や、流れは清ら平安の、古都に三年の春秋を、われおくりきぬ、その三年」の寮歌(henn(編者注:蹴球部歌)が胸の深奥部から流れ出て、はては果てしなく拡がってくる。限りない望郷の念と似たものであろうか。

三高を出て足かけ三十三年、弁護士になって丸二十八年、その間まずまず人並みの人生の波風にもまれ、急激な歴史の変転に遭い、まずは一応の人生体験を経てきたと言いうるであろうが、不思議なことには、年経るにしたがって深くなるのが三高時代の思い出である。それは、いい学校を出たという想いとつながっているのであろうが、それより強くかつ深く私の人間形成の端緒と基本が三高時代に与えられたからに違いない。
その証拠には肝心の三高在学中には正直に言ってそんなにいい学校という感じを持ったことがなかったのに、年を重ねるごとに、また他校出身の連中と付き合うに従って、その感を強くしていき、そしてこういっている現在、私の心の中に牢固として抜くことの出来ない確信といっていいほど、確率の高い気持ちにまで定着しているからである。いわば三高音痴とでもいうのであろうか。たしかに三高音痴となったのであろう。しかしその底には、三高の「自由」の校風、良き先生方、丸裸で付き合った良き友達の影響・感化・立身出世主義とはおよそかけ離れた純粋な理想主義に奉仕した正義感情の発露等々の交錯・結合による人間形成が、三高という土壌の上に培われ、そこからそのまま現在の私が出てき、かつ存在するという、つまり人間形成の系譜が構成されているからに他ならない。
私の周囲にも、意外に多くの三高音痴が見かけられる。その中には七十、八十の老齢の方々が案外に多い。それはおのがじし、その人間形成の三高的土壌での成長過程の思い出が、年を経るに従って昇華され、透視されてくるからであろう。

私の学んだ三高は、自由をモットーとし「自由の鐘」が日夕「時」を告げ、三高のシンボルであった。「自由」が三高の誇り高い校風であった。しかしその「自由」とは一体いかなる具体的内容のものであるかは、ついに教えられることがなかった。が、生徒は何となく伸び伸びとした空気の中で、伸び伸びと自由に育ったことには間違いない。そこで強いて当時の三高の「自由」とは何であったかと質問するとすれば、受け取る方の自由に委ねられたものそのもの、つまり受け取る方に選択の自由が残された自由そのものといって過言ではないような気がする。良心に従って自由に振る舞えと言ってもいいし、だからカント流の自由の格律的な考え方も出来るし、新憲法的な社会的法律的な意味内容を持つ自由でもいいし、あるいはプライヴァシー的な自由、また学生生活を百パーセントに享受する自由でもよかろうし、一高との対抗マッチに勝利することが自由の獲得であると考えていたような応援団的自由も存したわけである。
そう見てくると、結局当時の三高の自由は、どうやら十八世紀初期の啓蒙期の自由であるレッセ・フェールであったようである。

何にしても校内的には、まったく何の制約もないような伸び伸びした、果てしない広がりを持ったような雰囲気と環境であったことは確かだ。このような中での学生生活は、特に家郷を離れて自由というものを確立する青年期に入ったばかりの生徒にとって、まことに天馬空を行く感懐を与えると共に、奔放な学問・人生の探求の場として、その純粋な発展を発揮せしめざるを得ないであろう。三高時代に形成された私たちの人間=人格の基礎工程がそれぞれの一生のバック・ボーンを形作るのも、まことに宜なりと云わなければならないし、またそれ故に年と共に三高音痴の度合いが強くもなっていくのではあるまいか。

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このような背景のなかに、私は自分自身を投入して、そして湯浅先生をいつも思い浮かべるのである。三高生活を通じて湯浅先生が私に投影したその人格的片鱗がかなり強いものであることを、事に処して感ぜざるを得ない。

先生は一口に言って、無私の人である。

かって三高同窓会の東京支部大会で、伊澤多喜男先輩濱口雄幸、幣原喜重郎元首相と同期)が、「私心なくして事を行えば何事をもなし得る」と語って、何回か内閣を造っては瓦解せしめ、内閣製造者視された同先輩が、自分自身ついに大臣となることがなかった所以のものを知ると同時に、それなればこそあれだけの芸当ができるのであろうと感嘆したことであった。
また後年、同じ大会で首相となられた片山哲先輩が、その時の伊澤先輩の言葉を紹介された上、「首相になってみて、伊澤先輩のあのときの話が痛切に貴く、身にしみて感じられる」と述べられたのも忘れ難い。
私はこのいずれの場合も、すぐに湯浅先生の面影が胸に浮かんだ。無私という言葉と湯浅先生とは、常に私の頭の中では直結しているのである。だから事に処するに当たって心中無私的態度が自己要請されるとき、決まって湯浅先生の面影が真っ先に浮かんできて、自分の態度決定を促されるような気がする。このことは、いつも私を勇気づけてくれるのである。

湯浅先生は、孟子の「不動心」を説かれ強調されたが、無私という言葉を先生直接の言葉として、私は聞いたことがない。先生は日常の態度や言動の仕方で、つまり身をもって無私とは何ぞやを示され、かつ果敢に「無私」にアプローチされたのである。
先生には、たしか一、二年の二年間漢文を教わった。孟子、大学、春秋左子伝その他であったと思う。先生の解釈は、巷間の解説書とちがった独特の解釈があったこと、そしてそれが先生の深い学殖と世界観から構成され、根元的なものから引き出されてくるものであることは朧気ながら察知できたが、漢文に余り興味のなかった私には、先生の講義が時々チカッと光が射すような箇所があるという程度の印象が残った程度であり、また電信の「信」は「伸」に通ずという同音同義(?)の法則が頭にある以外余り覚えていない。むしろ先生からは、講義そのものよりも、講義や教室での態度、さらにはより多く教室外での先生の諸言動に強い印象と感激を与えられた。

文甲一、二組の合併授業の或る時間であった。この時はあまりにも例の代返が多すぎた。図書館や喫茶店やそこらへの逃避行で、教室にいたのが半数に満たなかったろう。さすが物事にこだわらない先生も、返事の数と人間の数との違いに気付かれたらしい。もう一度出席を取り直した。結果は全員出席である、先生は怒った。そして誰が誰の代返をしたかを追求された。みんな先生に承伏しているのだが、さすがに友誼を重んじて一語も発しない。それのみか窓際やうしろの席にいる連中がこっそりと抜け出して逃避者たちに急報という次第。先生は誰も答えないので、あらためて出席簿順に氏名を読み上げしては席に着かしめる手順を取り出した。悪童どもは滑り込みセーフの形で、全員起立のドサクサ紛れに間に合った。しかしこの時、先生の怒りは最高潮に達したらしく
「貴様たち!代返した者、された者、共に正直に名乗り出よ!!」
と、大声一番された。続いて二回三回と催促されるが、後は深山幽谷の静けさである。やがて先生は、
「卑怯者に用はない。代表立て!」
とのことである。クラス代表は当時一クラス二人だから、二組で四人であった。立つと、先生は四人に向かって、代返者の名前をいうか、代返の理由の正当性を追求され、かつ、いずれもいえなければ、代表を罰する旨告示された。たまたまクラス代表の一人であった私が、何人目かに詰問され、おこがましくもまた生意気にも、後者について理由にならぬ理由を仮定的抽象的に述べたところ、一言
「黙れ!」
で小休止。
そのあと残り時間の十分足らずを講義に費やされ、その時間は終わりとなった。

私は処罰云々が気にかかっていたので、引き上げようとされている教壇の先生のところに走り寄って「先ほどのことはどうすればいいですか」と恐る恐るお聞きすると、先生はケロッとした顔色で、
「何の事だ」
と、答えられたのである。まさに台風一過、私は秘かに用意した次の言葉を急いで呑み込んだ。

先生は予習を怠ることを非常に嫌われた。当てられてできないと、ツカツカと教壇を降りて、その生徒の机に行き、ときには頬ッペタを、ときには机を平手打ちされ、
「どっちが鳴った?」
と聞かれる。まさに禅問答の隻手片言である。さすがの悪童も頭を深く垂れて一言無しである。

たしか野外演習反対のストライキを試みたときのことである。結局教授会に生徒総務が列席せしめられた。私も総務の一人として出席していた。はじめ大学出たての生徒主事補が立って説明中、突如先生は、
「若造!黙れ、生徒監立て!」
といわれる。平田元吉先生が替わって例の調子で説明を始められた。わけが分からない。シビレを切らされた先生は。
「校長立て!」
森外三郎校長が立って説明を続けられていたが、また先生が立たれて、
「矛盾しとる。豎子(じゅし:小僧というところか)何をかいわん」
で校長の説明が腰を折られる。ついで先生は、私の方を向いて、
「高木立て!」
そこで立つと、
「貴様は反軍国主義者か?そんな奴はロシアへ行け」
というようなことで、結局この日の教授会はうやむやに終わった。

先生の奇行に関するエピソードは数え上げればきりがないであろう。先生の奇行は私心を持つ常人から見てはじめて奇行なのであって、先生は漢学者式に内容的にも論理的にも曲がったことを排斥されたのである。従って自ら納得されないことは、あくまで肯定するわけにいかなかったのであろう。 その代わりといっては語弊があるが、先生が自己主張されたことは一度もない。

私達がコンパに先生を呼び宴終わって先生から大枚二十圓(編者注:この当時大学卒の初任給が六、七十圓の時代)を喜捨されるのをお断りして、大喝され、感銘して頂いたり、卒業式に先生が卒業生の間に来て、ともに二合の酒を酌まれ、最後に先生を胴上げして別離の感慨に耽るのが行事となっていたことが懐かしく思い出される。

学年末クラスの点数を頂きに、先生のお宅を訪れ、上座に坐らされて、快く点数を頂いた上、しんみりとした四方山話のうちに、教室とちがった慈父のような先生の温顔を打ち仰いだのも昨日のような気がする。

卒業後起こったいわゆる校門占領ストライキの舌禍事件で先生が学校を辞められたと聞いて、私は先生の無私の広さを今更ながら知った思いだった。生徒みんなから怖がられながら一途に親しまれたのも先生の徹底した無私の心境からであろう。

先生の没後お嬢さんが本誌に、「父の思い出」を書かれたが、お嬢さんが子として家庭で受けられた先生に対する印象と私達が学校で得た先生の印象とがまったく同一であることを痛感して、一層心が悼み、急に立って京都へ行き、先生の元のお宅の近辺を暫くさまよったことを思い出す。

ご自分のサラリー袋の中身がいくらかも調べず、また知らずにそのまま奥さんに手渡され、そして要るだけその都度要求されていた先生、−−先生こそその無私のゆえに、内と外とが一に化していられたのである。(昭4・文甲卒)

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同窓会報 4 「感慨新たなり」 来間 恭(1954)

三高は「自由」の学校である。これは折田先生に由来する基本精神であるが、自由とは何か誰も教えられたものはいない。三高のすべてに自由が横溢していて、じわっと生徒の心の中に一生巣くってしまうのである。卒業してから年を経て改めて「三高の自由」とはと問い直したくなってくる。答えは一つではなく、それぞれが自分の心の中に生き続けている奴を自分なりに引き出すようなものなのである。前稿の筆者も“自由”の性格の分析を試みたが、この稿には来間の答えが述べられている。


(前略)さて改まって云えば、三高で教えられた「自由」の精神とは何でしょうか。いろいろむつかしい解釈は京大の哲学の先生にでもお願いしなさい。僕は極めて無造作にこう思います。真個の自由とは、各人が自分の胸に持ち合わせている良心の命令のままに、何人にも命令されずに自分の思うままに思い、そしてそれを実行すること、それが僕にとってほんとうの自由だと思っています。
ああ、なつかしいかな、僕自らの三十余年前の若き姿、心、よ。(後略)(大・8、一部甲卒)

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同窓会報 4 「三高の自由」 上林 澄雄(1954)

前項に引き続き今度は上林の答えを見てみよう。ここにはライバル校「一高」との比較の視点から、三高の特性を展望展示している。


(前略)徹頭徹尾なになにスベカラズという禁止事項がなかった三高の教育方針は、途方もない自由を与えられて途方に暮れた楽園のアダムのように、絶対の自由意志を委ねられて取り返しのつかない決断を迫られる失楽園のサタンのように、なにか空おそろしい開放感で僕に近寄ってきました。徹頭徹尾なになにスベカラズの軍隊生活の圧力が、絶対の自由の三高生活の真空に、どこか似ている気がします。低気圧の中の颱風の眼のように、どちらも行動の中心を自分の責任としなければならない故でしょう。(中略)
学校も軍隊も「娑婆」を離れた別世界、学生も軍人も出世間の特権者です。僕は帽子の白線に、大いに気取って、SANKOと書きました。これが安っぽい喫茶店の看板のように思えて、あとで、SANCOと書き直しました。ラテン語のつもりなのです。ビールを飲めば「ガウデアームス・イギテル」と呼び、ありもせぬアルト・ハイデルベルクの酒に酔うことができました。ありもせぬ青春の酩酊と夢とは、確かに現実にあったようです。たしかに黄昏の時には、吉田の門をさまよい出る、中世修学僧の群、欧州遍歴学生の輩は存在していました。  

現在から顧みると、三高と青春とが、混然と一体になり、おしなべて甘美な過去の源泉になるようです。すべてが許され、万事が可能だった楽園を追憶するように、ありえない自由の日々が悩ましく胸に迫ってきます。
失って初めて、失ったものの価値が分かるように、青春の自由、過去の自由が、ありありと生き返ります。現代の社会の人間としての自由の喪失の中で、しみじみ青春の存在、三高の存在、そしてあり得ぬ自由のあり得ることを語りかけます。非人間的な歴史の中で、人間的な伝統−−−三高の先生方が代表されたアルテス・リベラレス(人文教養)の伝統の意義と実在を悟るように。
三高と、その三年間の人文的教養に、真の自由がありました。まるで奇蹟のように−−−。この奇蹟には、また山城の国の民主的政治の伝統と、京都の学芸の歴史とが、与ってはいませんか。たとえば、一高の地理学的特質と比べて、どうでしょう。

武断の東夷と文弱の京男という対立の他に、東京は近来、政治の中心となり、一高=赤門のコースは日本官僚の旅程の始まりです。京都にあればこそ、現実政治の潮を離れて、プラトンやカントを友達のように言及し、西田哲学に親しみ、永遠の真理や文化の実在を疑わずに信じられたのでしょう。一方、一高の自治とは政治上の概念であり、三高の自由とは、どこまでも哲学的観念です。自治は実践と方法に関し、自由は願望と静観に関します。
そこで、同じ三年間の自由を与える高校でありながら、学校と軍隊との夢のような類似から、一高の場合、その自治が、ひょっとしたら日本陸軍内務規定に似そうになるのではないでしょうか。

成瀬無極氏によると(新潮50年6月)、一高の寮生活にあっては、先輩が絶対権を握り、大部分が運動部員からなる寮委員は、夜間校庭の一隅に「新兵」を呼び出してリンチを加え、食事の際にこれらの「下士官」の疳にさわることがあったり、また「班員」になにか行き届かないことがあったりすれば、「古兵」は憤然食卓ごと倒してしまい、すべてボスがハイカラと見なす風体の柔弱者は徹底的な制裁を受け、一高生はしたがって皆丸刈り頭であった、とのことです(「 」印内以外は成瀬氏の記述による)。
司法ファッショ・官僚独裁といわれたものの淵源また実にここに存す、のでなければ幸いです。日本の軍隊、旧警察の非人非業の行いは、輝かしいモットオのもとに学ばず、人文の伝統を離れ、あり得ぬ自由をあり得ぬものと斥けたからかも知れません。いわば、現実政治の強弱−−上下関係の他に、観念や文化の存在、とくに人間個人の尊厳を教える人文的教養を知らなかったからかも知れません。

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古代や中世の滅びるとき、ヴァンダル(注:5世紀頃のゲルマン民族の一つ。文化の破壊者)の侵入を前にして消えた最後の灯は、僧院のものでした。現代のクレルク(聖職者)の灯もまた消えるものなのでしょうか。
青春はいづれたそがれ、自由は、やがて不可能でしょう。しかし、青春の望み、自由の願いは、限りなく続きます。三高の灯は消えましたが、その灯を見た数多い眼に残る灯の姿は、ああいつまでも消えませんように。「桜の若葉吹く風も」の紀念祭の歌が、いつまでも歌われ、懐旧の情を、できれば未来への意志に固めてくれますように。(大・12 文乙卒)

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