田宮は明治44年東京で生まれた。三高から東大に進み、卒業後は都新聞社に入社したが、その後は国際映画協会その他を転々とする。昭和22年小説「霧の中」を発表、これが出世作となり、その後は作家生活を送る。「落城」「鷺」などの歴史小説の他「足摺岬」「絵本」「銀心中」「異端の子」「沖縄の手記」など多くの作品がある。亡き妻との往復書簡集「愛のかたみ」を発表したのは昭和32年であった。昭和63年1月脳梗塞で倒れ、4月9日病を苦にして自殺した。享年76才。
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私の三高入学は昭和五年、おそらくは三高最後の生徒ストライキのあった年であった。私は当時、健康あまり秀れず、家庭的な事情からも暗く、考えてみると、さう幸福な時期でもなかったはずなのだが、その頃のことを思いかえすと、まるで三高在学の三年間が、七彩の虹につつまれているような、この上なく愉しかったように思い出される。それに、私の若さのせいでもあっただろうが、何といっても、やはり、三高の生活そのものが愉しかったからであろう。
ストライキのすんだあとのことであったが、体操の太田先生が、ストライキの原因の一つであって学校側の弾圧ということについて---中学から三高へ来て、不自由だなどと感じるわけがないと、皮肉まじりに言われたことを思い出す。まことに、その通りであった。私の卒業した中学はカーキ色の制服に挙手の礼といった軍国調の学校であったのだから、それに、親のもとから離れて下宿生活にはいったのだから、三高に入学したとたんに、私は、実に自由な、のびのびした感じを味わったものである。満喫という言葉があるが正に自由を満喫したわけであった。自由という海を、泳ぎまわっていた感じである。
もっとも、保証教授という制度が、私たちの入学した春から実施されて、---それが、前述の学校の弾圧というストライキ理由の原因であったのだが、例えば図書館から本を借り出すにも保証教授の印が必要であったのだから、上級生からみれば、私たち新入生は哀れな存在であったに違いない。だが、私の保証教授は森総之助先生で、中学時代の怖い先生しか知らない私には、実に寛容な先生と思えた。(中略)私はそんなわけで、保証教授制度も、別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった。
自由といえば、森外三郎校長が、何かの式の日に、教育勅語を半分で止めてしまった記憶がある。このことは、今に至るまで、覚えていて、三高の自由の象徴のように、人にも語ってきかせるのだが、皆、---そんな無茶なことが当時あってたまるものか、という。話す人ごとに、皆、そういいかえすので、あるいは、私の記憶ちがいかと、思ってみるのだが、勅語をムニャムニャと飛ばし読みにして、御名御璽だけはっきり読んだ森校長の声が、今でも私の耳には、はっきり残っているようである。そんな校長を排斥したのだから、ストライキが惨敗(?)したのも無理はない。
自由といえば、教練の時間に、八割草履で別にしかられなかったことも思い出深い。もっとも、その後軍国調に急激に変調したので、卒業の頃には、八割(草履)はさすがに遠慮せねばならぬようになった。それでも、教練の実地訓練は、まだまだのんびりしていた。Yという後に外交官になった友人がいて、行進する時、左脚と同時に左手を前に出し、右足と同時に右手を出すのであったが、一時間の教練の時間中、藤森少佐が、そのYだけを、オイチニ、オイチニと歩かせ、私たちは鐘が鳴るまでゲラゲラ笑いくずれていた記憶もある.
私は、自由をはき違えて、授業時間中、先生に無駄話を強請することに熱中した。勿論、私の強請など、軽くあしらわれてしまうのが常だったが、それでも時には成功したこともある。文甲の第二外国語はフランス語をえらんだので、フランス語は七、八人で授業をうけたが、その七八人の友人と共謀して、机をまるくならべ、ポータブルの蓄音器をもちこみ、菓子のたぐいを買って来て、フランス語ならぬシャンソンの時間を先生にひらいてもらったりした。桑原武夫先生の試験の時間に、私一人、答案はかかず、先生と話して一時間すごしたこともあった。今から思いかえすと、冷汗三斗の思いである。
山本修二先生、久保虎賀壽寿先生、湯浅廣好先生、伊吹武彦先生、・・・・というように書いてみると、全部の先生の名前をかきつらねてみたいほどなつかしい気持である。「紅もゆる」や、「桜の若葉」や、「静かにきたれ」などといった歌の思い出とまつわりあって、そうした諸先生の思い出が、私の心にうかんで来るのである。
山本修二先生は、二年の時、私たちの担任になられたのだが、その年の初夏、組のもの九人さそいあって、琵琶湖周遊に出かけたことがあった。当時、クラスは全部で四十人に三四人欠けていたのだから、九人も休むと残りは二十六、七人になる。長期欠席者もいたし、私たちが九人一時に休んでしまったので、学校へ出るのが馬鹿らしくなって休むものも続出する始末で、一週間あまりのその間、クラスには二十人足らずしか出席者はいなくなった。ちょうどその時、文部省か陸軍省から、学校視察に来た人がいて、教練の実地訓練をすると、私たちの組は、右向け右で、四列縦隊になると、組全体が四角にもならず、これは問題になって山本先生は困られたらしい。だが、先生は、帰ってきて私たちに、それについては何もいわれなかった。これは、今でも思い出して、申しわけない気持ちである。
深瀬基寛先生にも思い出がある。ある時、英語の講義をされていて先生が、突然、絶句された。何か考えこまれている様子で、私たちはどうしたことかと、顔をあげると、やがて教卓の方から、気持ちよさそうな鼾が聞こえてきたのであった。先生は、正に、豪傑中の豪傑であると、和達は舌をまいたものであった。
私と同級生には、森本薫君がいた。その頃から、巧みな戯曲を書いていたが、文学青年とは、およそかけはなれた真面目一方の青年であった。チャタレー裁判の弁護人であった環昌一君も同級生で、たしか、成績一番の秀才であったと記憶する。近頃、辻清明君と時々あう機会があるが、辻君は文乙で、なかなかの好青年であった。文丙は木村徳三君がいて、演劇研究会を牛耳っていた。脚本朗読会では、女の役をやっていたらしい。
文乙に北川夬君という応援団副団長がいて、ある晴れた日、私は授業に出るのがいやになり、学校をぬけ出して鞍馬に登ったのだが、廊下で北川君にあって、同行をさそった。ところが、北川君は、欠席届の理由のところに、本日、天気晴朗にして、勉学に適せず、たまたま田宮虎彦、余を鞍馬に誘う、仍って欠席すと書いて生徒課に出したので、私は、早速、佐藤秀堂先生から注意をうけた。
もっとも、単に注意をうけたにすぎず、叱られた記憶はない。三年の在学中、叱られたといえば、独逸語の小田切先生に叱られたことがあるきりである。放課後、数人で、教室で、机の蓋をバタバタさせて調子をとり、「紅もゆる」を放歌合唱していたが、階下の校長室では、何か相談会でもやっていたらしく、それは、おそらく小田切教授が不利な立場にたっていた時であったのだろう--先生が、突然、私たちのうしろに立ち、「静かにしろっ・・・・」と怒鳴った。今から考えてみれば、怒鳴られるのも道理というべきであろう。
森外三郎校長の後任としてこられた溝渕進馬校長についても書きたいのだが、こうして書きつづけると、際限がない。(昭・八、文甲卒・作家)
同窓会報 5 「織田作之助の思い出」 森本 喜重 (1954)
織田は大正2年大阪市で生まれた。三高在学中から作家活動を始めていたが昭和11年に三高を中退した。14年「俗臭」が芥川賞候補となる。世間の人々は親しみを込めてオダサクと呼んだが、大阪の街の雰囲気を一杯湛えている名作「夫婦善哉」が発表されたのはその翌年15年であった。戦後はデカダンスな生活をし、ヒロポンに溺れた。その中でも「世相」「競馬」などの小説、「二流文学論」「可能性の文学」などの評論を発表して行ったが、昭和22年33才で大喀血して肺結核の生涯を閉じた。この稿には後年の不羈奔放な彼の姿が三高在学中既に躍動している。注に遠山桜子さんの略伝を収載させていただいた。
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吃驚した。いや、織田作之助という人物に対してである。その異教徒的風貌に対してである。
高校生というものは 、夏は寒いからと軍艦ラシャを着用し、冬になると暑うてかなわんと霜降りの胸をはだけ、かむってもかむらんでも同じことながら天井の全くない帽子に三本の白線をひけらかし、一本歯や三本歯のマナ板をガラガラ履き回して、何のことはない、昔江戸の街をわがもの顔にのしていた旗本奴の現代版みたいなものと思いこんでいたのだが--
織田は違う。がらっと違っていた。彼は、つまり、大人であった。
三高の味を満喫するため、再度の滞留をきめこんで、わが文甲二へ天孫の如く悠々降臨した彼織田は、久留米絣に黒の袴をゾロンと着流し、(実際、袴をはいていながら、着流したみたいに見えたのは不思議である)剥き出しの教科書を原稿用紙と一緒にふところへ半ば突っ込み、二人の相棒を伴っていた。白崎君と瀬川君。彼等は三高在学の期間まで共にしたキンミツな同志であった。
三人とも顔色が変に蒼白く、何かしら薄笑みみたいな皮肉の影を口辺に漂わせ、風の如くひょうひょうと、夢の如くもうろうと、教室に入ってきた。その物静けさにも拘わらず、侵入する三人の像は、忽ち教室を一杯に占領するのではないかと思ったぐらいである。ボクは、ふと「牧羊神の入場」というレコードの題名を連想した。
再び眼の焦点を織田の面貌に合したとき、(オヤ・・・何とこれは・・・・・・)芥川龍之介じゃないか!あくまで背高く、あくまで痩せ、あくまで蒼く、長い顔を、油気のない、そのくせ妙に手入れの行き届いた長髪が包み、ツヤというものを持たない皮膚が神経質にピリピリ震えていた。あるかなきかの薄い眉毛が神経質な感じを一層ひどいものにしていた。
どうも立ち上がりに位負けしたようだ。ボクのみならず、文三甲二の全員が。
これが最初の顔合わせだが、文士の卵である彼等は滅多に教室へは顔を出さなかったし、現れても、何となくクラスの連中とは、双方とも頭から人種が違う然たる取り扱いで敬遠し、そのくせクラスの連中の方は、離れたところから三人の上に好奇と興味にかられた眼を投げていた。こっそりと尊敬さえ混えて。
織田は、いわゆる秀才組を軽蔑していた。ことに四年修了三高攻略組を見下げていた。別に過激な言葉を弄したわけでもなく、ただチラチラ光る小さな眼の周囲に小皺を寄せ、何か扁平な感じのする唇をニヤニヤひきゆるめて、さも気の毒な餓鬼どもだといわんばかりに冷笑を浴びせるのである。
ボクは四修組の一人だったが、それまで自分を真の秀才と思いこみ、自分の将来を、空には高し如意ヶ嶽にもなぞらえて、(いや、汗顔の極みである。全く見当違いの最たるものであることは、今日が証明している)心たかぶっていた。
そのボクを、織田は、全然埒もない子供扱いだった。俄然反発をおぼえたボクは、直ちに彼等の向こうを張って、自称昭和三人組を組織した。新宮中学出身の草香君と、熊本の坊主の子の本田君、そらからボク。
織田一派が学校をサボり、祇乙(編者注:祇園乙部)や円山や銀閣界隈を逍遙していたのに対し、ボクらは、高校生の滅多に行かない千本方面を野良犬みたいにうろつき回っては、昼なお暗い喫茶店で五銭のコーヒを飲んだり、三番煎じの映画を見たり、そして口を開けば、文学及び文学青年どもを糞味噌にケナしていた。
あるとき文士どもと衝突した。衝突といってはやや大げさになるのだけれども、何のことはない、要するに織田に一本ニヤリとさげすまれて尾を巻いたのだが---
当時クラスに豪傑がいた。高知県出身の広末君。回線問屋の息子で金がふんだんに仕送ってもらえる上に、腕力がすごい。そのくせバンカラ一辺倒かというと、イキ筋にも片足かけてる・・・・・・・・・・といったその広末が、百万辺のお寺の境内で大学生をコテンコテンに殴り倒した揚げ句、豪傑に対するお世辞半分そばで口先だけの貧弱な応援を送っていたボクに
「おい、酒飲ましたる。これからリッチモンド・グリルへ連れていったる」
「リッチモンド・グリルて何や」
「こいつ、リッチ知らんのか。ちょろいぞ、おい。銀閣寺のバーや」
そこで、ビクビク、ワクワク生まれて初めてバーなるものに入ったのだが、豪傑は慣れたもので、デンと一番上等の場所にあぐらをかくと、「ウイスキー」とか「コニャック」とか出鱈目に注文を乱発した。
そこへ、デートリッヒもどきにチェリーを斜めにくゆらし、背のスラッと高い女が斜めに僕らを見下ろしながら、斜めに接近し、豪傑の横へ斜めに滑り込んだ。
不思議な意味をこめて青くきらめいている眼が、人の魂を吸い込むようだったのを、今もはっきり憶えている。
エジプト美人の神秘に満ちた彼女に、ボクはテもなく感嘆した。広末と美人はよほど馴染みらしく、しきりに玄妙な会話のやりとりをし、すこぶる仲が良かった。その女性が、つまり、織田の心身ともに許し合った恋人であったわけで、彼は後日、場所を大阪にすり替えて彼女のことを小話に書いている。ところが豪傑は突然その人の前で、織田の人身攻撃をおっぱじめた。何を喋ったか今は忘れたが、とにかくエゲツないものだった。
彼女はさも面白そうに、やっぱり織田の悪口をいいながら、笑いころげていた。
そこでボクだが、1/3は岡焼き半分、1/3は豪傑かつ奢り主への付和雷同半分、そして1/3は織田への反撥から、やった。悪口雑言を。
ところが、その翌日----
珍しく織田が登校してきた。例の着物で、例の薄笑みを浮かべて・・・・・・そしてボクを見ると、いきなり、隣の席へ腰かけて
「ゆうべはオレの女にええ話してくれたそやね」
とたんに、騙された!と思った。女に。見事背負い投げを喰らった格好だ。
ボクはこのとき、女の心理の複雑さに驚きの眼を見張り、爾来夫婦喧嘩は犬も喰わんを固く固く信奉することになったが、そのときは全く、どぎまぎし、苦しい息の下から哀れな声をかすらせて、
「・・・・・・・・・・・済まん」
「ヘッヘッヘッ、済まんで済むかい」
それだけいうと、こっちの心の底をチカチカ光る眼でザラッと一回逆撫でして彼は立ち上がり、教授の入ってこないうちに早々いづれへか引き上げてしまった。
それ以来織田に頭が上がらなくなった。
二度吃驚したのは、紀念祭のときだ。例によって、各クラスが智慧を絞って催し物を出すのだが---
運動場では土人や化け物に仮装した生徒が太鼓に合わせて黒いドラ声を上げ、東門にコテコテと張り上げた赤褌のアーチを潜って、後から後から押しかけているメッチェンの大群が、黄色い歓声でこれに応えているのを遠雷の轟きと聞きながら、文三甲二の教室で、にわか役者どもがメーキャップをやっていた。演出兼監督は、他でもない、織田作之助。
窓外には桜の花びらがチラチラ舞い、教室の空気はそこはかとなく酒の香おりをはらんで---
鏡の前で何十回となく宗匠頭巾のかむり方を修正しながら自分の姿にしげしげ惚れこみ、満更でもないわとへんにスタイリストぶってるうちに出番。題は、「古池や」。
短冊を手に十人あまりの宗匠が(衣装は下鴨撮影所より借用)早くも腰を曲げヨチヨチと、しかし心は弾みに弾んで出ていった運動場には、真ん中に池を型取った水色の幕がしいてあり、池の端に拵えものの柳がションボリ一本--たわいなさは最もドサの田舎芝居よりもなお貧弱だ。
気抜けの顔を宗匠どもは見合わせながらも、どうにか池の周囲に辿りついた。そして情けない声で「古池や・・・・」「古池や・・・・」
校舎の脇から、河童みたいな異形のものが、四ん這いの姿を現わした。京一中出身の小松君というチャキチャキの秀才かつ慌て者が蛙に化けているのだけれど、その顔はまるでもう河童だったから、覗いた瞬間、ピンときたのは蛙より河童だった。
傍らから織田が手を振って、早すぎると蛙を引っ込ました。
宗匠どもは「古池や・・・・」を連呼しながら、イライラと池のまわりを廻り始めた。
はやりにはやった蛙は、四、五遍も校舎の横から覗いたりすっこんだり。遂に織田の許可がおり、いとも不格好な足どりで、ドサドサ跳び出してきた。ボクがそいつを発見し、忽ち、俳人どもは喜びの歓声を上げた。
屈んだ腰を伸ばし、杖を振り上げて蛙に殺到した彼らは、一刻も早くこの不細工な生き物を池に追い落としてToppongとあの澄んだ音を立てさせようとする。蛙はいうことをきかない。ここに不粋極まる追撃戦が展開された。
結局蛙は、池と俳人と俳句を尻目にさっさと引き揚げてしまい、老人どもは一斉に尻餅ついて幕。
万雷の拍手。メッチェンもオッチェンも。英語主任教授の安藤さんが大口開いて笑ったのが見えた。
勿論ボクも演りながら感極まった。後で考えてみると、この辺に早くも、異様な身構えで開き直ったいわゆる日本純文芸なるものに対する、つまりシブサや枯レに対する彼の反逆、土足の文学の萌芽が現れていたのかもしれない。
彼は三十五で死んだのだが、晩年近く、可能性の文学ということを盛んに唱えていた。やたらに偶然を積み重ねて行く。昔のチャンバラ大衆小説よりも、もっと多く偶然がヒョイヒョイ飛び出し、読んで面白いが、後でスカみたいに頭が軽くなる。そんなもので、あんまり感心できんが、夫婦善哉は、けだし、傑作だ。
第三の吃驚は、夫婦善哉である。彼は井原西鶴に傾倒していた(編者注:織田には評論「西鶴新論」もある)。西鶴同様、大阪の市井生活を絶妙の筆をもって書きまくっている。そのヒラヒラした文体に接すると、眼の前を織田が着流し姿でヒラヒラ歩いているみたいな錯覚に、ふと襲われるのはボクだけだろうか。
ボクは織田を愛する。日本の作家でも最も好きな一人だ。(昭11・文甲卒)
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