§古い同窓会誌から |
同窓会報 16 ミュレット神父のこと 大浦 幸男(1959)
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同窓会報 16 ◯ 岩子 良一(1959)
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同窓会報 16 とむらい合戦 山本 修二(1959)
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同窓会報 16 及落会議と森満先生 深瀬 基寛(1959)太平洋戦争紀元前十年(注;ママ)前後の風景である。教授会で教授たちにとって一番怖い先生が湯浅廉孫先生。及落会議で生徒たちにとって一番怖い先生が森満先生ではなかったかと思う。教授会で温厚そのものの森外三郎先生までが湯浅先生にはさんざ悩まされた。教授の卵に過ぎなかった私は、あまりにも正しい正論というものの存在を湯浅先生によって知った。ところで生徒の立場、殊に文科の生徒の立場から感じたに相違ない森満先生の怖さは、鳴神が生徒の眼には目隠しされている及落会議の雲の上だけに、さらにも一つ不気味だったことだろう。当時の三高の及落決定の不文律として最後の決断は該当学科の担任の教授に一任されることになっていた。例えば代数が落第点だとすると、その他の学科で優秀な成績を示しているなら、その学科の担任の先生たちがその点を基礎として盛んに弁護したあげく、それらの意見を参考にした上で最後に代数の先生が断を下すのである。 ところで森満先生の場合、弁護論は半時間でも一時間でも文句なしにしゃべり放題である。弁護論が終わってから不気味な沈黙約三分。−−−教授連の欠伸が出かかるころ、沈痛な落雷一声−−−「ラ・・・ク・・・ダ・・・イ」。「及第」と聞こえた記憶は一回もない。
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同窓会報 16 落第希望の秀才 吉川 泰三(1959)昭和三年四月に私が担任したクラスに榊原帯刀君がいた。彼は陸上部の理事として活動していたためか第一学期中しばしば欠席した。その頃無届欠席の回数何回以上は特及、日数何日以上は除籍というような罰則があった。それで私は寄宿舎や運動場に彼のいそうな処を追って欠席届を出すようにと幾度も注意して回った。学期末には成績や出席率の悪いものに対して教務課から担任教官名で、この調子では進級おぼつかない云々との注意書が父兄宛に差し出されることになっていた。彼の父兄にも無論この注意書が行ったはずである。彼は夏休みに帰省したとき、軍人である厳格な父君に大分油をしぼられたらしい。第二学期は陸上部の準先輩として第一線を引いたためか欠席も少なくなり成績も大いに挙げた。第三学期もよく勉強していたようであったが、試験の前の日に私の宅に彼が突然やってきた。そして私に自分を落第させてくれという。学年末になると年々歳々進級させてくれと悲壮な決意で本人が直接頼みに来るのもあるし、また非常に出来の良いのが来て自分の成績はどうでしょうと尋ね、君などは心配ないよというと、すかさず友人の誰彼は会議に掛かるでしょうか、その節はよろしくなどと友情を発揮して進級を頼んでいくのもある。また私たち運動部の部長をしている教官−−−私は柔道部長をしていた−−−は部員が落第すると、一年間それを選手として試合に出せない規則があり、また部の志気にも影響して困るので、お互いにこんな成績なのは駄目かしらなんて意味深長なナゾめいたことを尋ねあって危ない部員の進級に努力したものである。ところが彼の申し出では落としてくれという全く予想外のもので私はビックリしてしまった。見たところ神経衰弱的な様子もなく彼は大変に真面目なのである。
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