持田の名前は私の中に何故か印象深い。親しかったのでもなく後年彼が青函トンネルを造り上げたからでもない。三高在学中からどこともなく聞こえて来る同期の持田の挙措が高校生離れをした印象を私に残した。何かやる人間だと言う予感があった。2002年5月16日の夕刊は彼の死を報じた。「元日本鉄道建設公団海峡線部長・15日肝不全のため死去。葬儀は20日午前11時。」毎日新聞では“青函トンネル建設に地質調査の段階からかかわり「ミスター海底トンネル」と呼ばれた。高倉健が演じた映画「海峡」の主人公のモデル。英仏を結ぶドーバー海峡トンネルの技術指導も行った。”と書かれている。やはり大きい仕事をした。ここに紹介する文章の全文は『神陵文庫・紅 萌 抄』合本Tの第4巻に出ているが、昭和60年7月20日の「会館のつどい」での講演記録である。講演には詳しく建設過程が述べられており神陵文庫でお読みいただけるが、ここでは彼の人間と技術の関係についての哲学と抱負していた夢を中心に抄録した。お読み下さればわかるようにまだ現実化していない構想が世界中にたくさんある。彼の夢が実現しないままに彼の死を迎えたのは世界全体にとっても損失であり、彼の無念さを想っている。
天野和子さんは国鉄入社後持田が特に親しくしていた天野禮二氏(故人)の夫人だが、最近いただいたお便りの中に持田の思い出が散見でき、持田の人柄が偲ばれるのでここにも少し転記させて頂く。
「青函トンネル他の海底の地質調査のため、ずっと潜水艦に乗って研究しておられましたので、家庭を持つわけにいかないと長いあいだ独身。私たちが結婚して二児を持ち東京の官舎住まいの頃、週末には必ずお出でになり、天野と楽しく話しをしながら、質素なわたしの手料理を召し上がり、当時5才と3才の長男、長女には考古学の話しをわかりやすくしてくださり、粘土でナウマン象とか恐竜を作ってくださり、その夜は,亡夫と子供達と並んで休まれ、私はその辺りに寝場所を作って休み、翌日、また・・・・・という親戚以上の親しさでした。」
「持田さんも音楽がとても好きで、亡夫もそうでしたので“音楽談義”も夜更けまで。“持っちゃんがひどい黄疸になって、役所の壁まで黄色になった!”時は亡夫の別の友人が厚生年金病院の医者でしたので、そちらへの入院を決め、まるで女房のように、今一人やはり青函トンネルのために働かれ、亡夫より先に癌で亡くなられた方と一緒に、一生懸命世話しておりました。」
「青函トンネルの調査も初期のものとしては一応終わり、いよいよ函館に調査事務所というしっかりしたものができました。その時やっと持田さんも家庭を持つ決心をされ、困難な任務を持つ「夫」と、その家庭を守っていく主婦の生活もokという方を主人たち回りのものも探し、東北出身・スポーツウ−マンで明るく、とても可愛らしい方、持田さんとは相当年齢差のある裕子さんに決まりました。亡夫始め皆の祝福を受け、結婚されました。
あの「海峡」という映画はよくできていたと思いましたが、一つだけ現実と違ってしまったことは、最後の方で持田さん役の男性(高倉健)の夫人が、厳しい環境はお断りと同行しなかったところです。女優が大谷直子さんでしたし、文句をいう人はあまりいなかったようですが、私や他のトンネル屋の女房たちは裕子さんのために少々腹立たしく思いましたし、本州側の技術者、トンネル内で働いた方々の奥さん方も、実に前向きに夫を励まして大苦闘を立派に果たされました。この映画は天野が亡くなった後にできたのですが、天野が生きていたら「持っちゃん」のためにさぞかしウルサク文句を云ったでしょうし、当の「持っちゃん」は「気にするほどの価値はないですな。アハハ・・」だったと思います。」
「函館時代は天野家が4階建てのマンション風官舎の1F,持田家2Fでした。当時は持田さんも結婚され、若くて可愛らしい裕子夫人とパパ大好きの二人の小さいお嬢さんたちと楽しい家庭を築かれていました。音楽が大好きのあの方は毎朝出勤前にベートーベンのシンフォニーを1番から毎日変えてフルステレオで高らかに響かせておられました。私はただ嬉しくて、心の中でブラボーと叫んでおりました。」
「天野の旧国鉄下関工事局時代(天野氏は“第2関門”の初代所長も勤められた)にも出張でお見えになり、一応クラブなるものがありますのに、夕食と朝食は我が家で召し上がりました。当時下関教会の婦人会の仕事もしておりましたので、持田さんのために(ケーキもお好きでしたので)フルーツケーキやシュークリームを用意しましたら“ボクの大好物!ほんとうは止めた方が体にいいけれど−−折角奥さんが作ってくださったのだから、まあ〜食べますか!”と。天野は嬉しそうにニコニコと一緒に食べていました。」
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