三高とその寮歌の紹介 奥貫 賢一

津田政男氏の「三高歌集 英仏独語訳集」(1987)は三高の寮歌を海外に紹介しよう とのお気持ちから自費出版されたもので、その序文として西堀栄三郎、安部英夫、奥貫賢 一諸氏が寄稿しておられる。ここには1927年(昭和二年)文丙卒の奥貫氏の序文を 紹介する。

日本の三高(旧制第三高等学校の略称)は1869年に舎密(セーミ)局の名において、当時東の東京大学に対して西の大阪に最高学府として、高度の教育目標の下に創設され、次いで1889年に京都に移転し旧大阪校の伝統を維持しつつ運営されてきたが、第2次大戦終了後の1950年に学制改革により遂に廃校の止むなきに至った。その間校名や学制にも若干の変遷はあったが、創設以来廃校に至るまで実に81年の永きに亘り、その光輝ある伝統を誇る日本最古最高の学校の一つとして存続したのであった。

三高は創設以来日本における最高の教授たちの指導の下に、学生に対しては強制を排しその個性と能力を自由闊達に伸張させることを教育目標としていたので、若き学徒はこれにあこがれて日本全国から参集し、従って入学には熾烈な競争が行われたから、学生達の間には自然にエリートの友情による集団的機運が醸成され、これが次第に既成制度に束縛されない自由闊達な校風を一層育成助長することとなった。

三高81年の歴史は、戦前の日本が欧米の文化特に自由の思想を摂取して成長する過程にあって、将来日本が国際社会の一員として対処すべき正しい方向を大局的見地から先取りした形において、学生達が一体となって自由の思潮を維持、強化、普及するために、言論に文筆に行動に全力を傾注し、その後半期は、日本の政治を実質的に支配していた国軍の独裁的風潮に対して頑強に抵抗し続けたレジスタンスの歴史であった。

三高の学生が欧米の文化を吸収するにあたり、最も強烈な影響を受けたのは1789年 のフランス大革命における自由、平等、博愛の3精神であった。学生達は自由と友情を中心として自然に強固な同志的きずなに結ばれ、心の通った交友を通じて幾多の格調高く絢爛多彩な詩歌を作成した。従って三高の寮歌は友情に溢れ自由闊達な青春の気風に満ちているから、これらは現在、日本国民の間に民謡としても広く一般に愛唱されているのである。

私はこの寮歌が人間社会の自由と友愛と平和の象徴として世界の学生達の間にも広く歌われることを心から願っている。(昭和2・文丙)

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遠い花    I.T.

「神陵史」697頁に次のような記述がある。

 ”さて、七月二十六日、第六回陸上定期戦は開始された。  連敗脱出の悲願にもえる三高選手は、激しい闘志で走り、跳び、そして投 げた。−−−午前中の六種目で一点のリード。午後の部に移って一高は激し く追い上げた。十二種目が終わったところで得点は並んだ。  こうして最終種目の千六百メートル・リレーに、この年の勝敗がかけられ ることになったのである。湯浅佑一の一文を再度引用して、その模様を再現 してみよう。  「我が軍は馬場・岸上・神山・鈴木清という苦しいメンバーでのぞんだ。 第一走者の馬場は先頭をきったが、第二、第三走者でおくれ第四走者の鈴木 清が、先を走る一高小池を追って、その十数メートル差を挽回せんとする必 死の力走はものすごく、まったく超人的であった。最後のコーナーをまわっ てラスト・ストレッチで小池を抜きさってゴールイン」  劇的な幕切れであった。  総得点は三高四十三点に対し、一高四十一点。文字通りの接戦のすえ、陸 上部は長いトンネルからやっと抜け出したのである。  一時期校内に渦巻いていた「陸上部解散」の極論に対し、部員達は厳しい 練習を自らに課し、“打倒一高”というみごとな答を出した。そして、この 一戦をスタート台として黄金期に向けての着実な一歩を踏み出したのである”

ここに書かれた鈴木 清氏とその御父母には小説のような運命が関わっていた。 事実ご一家のことはノンフィクションとして刊行もされ、またその演劇としての上演もあったのである。


昭和4年文丙の卒業生鈴木清氏とその父母がモデルの演劇「遠い花」文化座によ って2003年4月16日(水)から27日(日)迄、俳優座劇場(六本木)で再演され ました。    三高時代の鈴木氏の友人役を演ずる田村智明 さんからメールを頂きました。劇中で 「紅もゆる」が印象的に使われているそうです。田村さんは役作りに三高のことをいろいろ調べられている過程で、この「三高私説」に 出会われ、参考にしていただけたようです。 この劇の原作は「ピーチ・ブロッサムへ―英国貴族軍人が変体仮名で綴る千の恋文」 (葉月 奈津 , 若林 尚司 共著:藤原書店(1998) ¥2,400)で、昭和62年 夏NHKラジオの特別番組「日本人になりたかった男」として物語が放映されたこともあって、鈴木氏一家の波瀾に満ちた人生は、 真実の重みをもって多くの人達の胸を衝き、大きな反響を呼びました。

   1902年駐日武官として赴任したアーサー・シノットは桃花の下に佇む下町育 ちの鈴木まさ(劇では小川まき)を見初めピ−チ・ブロッサムとあだ名して愛するよう になる。武官は赴任先の女性と結婚を禁止されていたので、正式な結婚はできなかったが ひとときの幸せな世帯を持つ。退官後の正式結婚を考えていたアーサーであったが、その 後アジア各国へ転任 させられ、日本語による千通に及ぶ手紙がまさに送られる。第一次 世界大戦勃発に伴いアーサーは従軍し、西部戦線で師団長・旅団長として ドイツ軍と 死闘のうちに砲撃を受けて両足を失い日本へ行くことができなくなり、身の回りの世話を してくれる女性と結婚する。二人の子供である清は留学先のフランスでアーサーと会うが 、日本へ戻らない父を恨み頑な態度を取る。しかしアーサーがまさの写真を部屋中に 貼って、変わらぬ愛を持ち続けているのを知って心も和む。まさはその後アーサーの 病死と清の戦死で最愛のものをすべて失うが、膨大なアーサーの手紙を嫁の清の妻哲子 (劇では麻理子)に託し一生を終える。という筋です。 田村智明さんからのその後のメール・便りから: (3月27日のメール)"鈴木清さんについてもう少し書かせて頂きますと 三高に入学後陸上部に入られ、第六回の一高対三高戦で1600mリレーのアンカー で出場し、この競技で四連敗していた三高を奇跡の逆転勝利に導きました。 その後、未公認ながら日本新記録を出すなど三高陸上部の黄金時代を湯浅祐一氏や 鈴木茂氏と共に築いたそうです。 卒業後は京都帝大法学部、東京帝大文学部と学びソルボンヌ大学の哲学科に留学しました。 帰国後に召集され、太平洋戦争後にシベリアで抑留中に亡くなりました。 以上は葉月奈津さんの著書からの抜粋なので、御存知でしたら大変失礼致しました。 僕が演じるのはこの第六回対一高戦の場面なのです。と言っても勝利後の話なので、三高 生は清を含め三人しか出ませんが。衣装は二人は学生服ですが、僕はTシャツに短パンと いったいでたちです。Tシャツは当時の写真を参考に、胸に大きく校章が描かれています。 場面は「紅萌ゆる」の歌で始まります。 「紅萌ゆる」は他にも、父子が和解するきっかけに使われたり、ラストシーンで流れた りします。ラストで流れる物は三高私説で聞けるのと同じ物です。 長々説明してしまって申し訳ありません。 以上が芝居中の三高に関する大まかな内容です。

(2003年4月7日のメール) 御参考までに初演時の『遠い花』の舞台を録画した物を送らせて頂きました。 何分、実際の舞台の臨場感もないし、芝居自体もいいとは言えない日の物ですので お見苦しいとは思いますが、話の中身はわかって頂けると存じます。 僕の演技も未熟でお恥ずかしいのですが。 今回はヂンヂロゲの歌と、応援歌の最後に入っている対一高のエールを 使う事になりました! ビデオでは帰る時に紅萌ゆるを歌っていますが、今回はヂンヂロゲです。 (2004年9月20日 サンフランシスコから)   今、僕は公演でアメリカに来ています。     来年「遠い花」の地方公演が決まりまして、また三高生を演じることになりました。             (昭和23・理)

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78歳で京大から博士学位 伊原千秋さん 
毎日新聞・野上 哲

2004年4月7日の毎日新聞"京の人−今日の人”欄に、野上記者による伊原千秋さんの記事が出た。伊原さんは昭和20年三高理科甲類卒業である。戦争中のことで勤労動員に忙しく、三高での教育は中止状態であったが、その学生生活にも三高の基本は生きていたと思われる。この記事には、その後の伊原さんの生き方に、三高の本質的なものが生きていたという意味で、喜多源逸に代表される在りし日の京大工学部と三高だけが育てることができた貴重なものが、氏の中に脈々と生き続けたと感じさせるものがある。転載の了解を得るべく8日野上氏を通じて御願いしたが、レスポンスがないのでここに一応転載する。他日何らかのコンタクトが毎日新聞からあれば考える。


今年1月に京都大時計台であった博士学位授与式。初々しい若手研究者の中に、伊原千秋さん(78)=左京区=の姿があった。この日集まった「博士」たちの最高齢だ。

京都大名誉教授。理学に加え、工学の学位を受けた。学位論文は「金属の疲労破壊に関する理論的研究」。針金を何度も曲げると突然、断裂する。この金属疲労の現象を、原子レベルの微細な損傷が確率論的に累積して破断が起きるという数学モデルでピタリと説明した。30年来の研究の集大成だ。「論文の審査はかっての教え子」と笑う。

戦時下の旧制三高に学んだ。敗戦の年に京大工学部に入学。「焼け野原を復興させる。キャンパスに熱意がみなぎっていた」と振り返る。

ある講義で工学の先生が金属疲労を「何のこっちゃ分からん現象」と説明した。「そんなはずはない」。理学部に潜り込んで物理の勉強を開始すると、こっちが面白くなった。卒業後は故湯川秀樹博士の下で14年間、素粒子論に没頭した。湯川先生は『捨て育て』。何も教えてくれない。しんどかった」と振り返る。「でも先生は天才肌じゃない。懸命に考えてアイデアをひねり出す。それなら私だってと」

64年に工学部教授に。工学力学を教える一方、素粒子も研究する二足のわらじを続けた。ただ限界も感じていた。そんなころ、ある数学理論と出会い、金属疲労への適用を試みた。時に50歳。仕事場で、独り朝から数式を書いては夕方シュレッダーにかける毎日。数学モデルを物理モデルに変える努力を重ね、ついに理論を構築した。「理学か工学か、苦渋の選択もあったが、実は一つの道を歩いていた。紆余曲折は必要だったんですね」

今も昼食は京大の学食でとる。学生があふれるキャンパスを歩くと元気が出るという。「さらに理論を拡張できないか。うまず、たゆまず、怠らず。まだまだやることはある」。研究者魂を垣間見た。

専門は材料強度学など。48年、京都大工学部機械工学科卒業。62年に素粒子論で理学博士号。工学部教授を経て89年に京大を退職。92〜99年には福山大に勤務した。金属疲労の研究は、鉄道の車軸折損が多発した19世紀に始まったが、疲労過程の理論化は進んでおらず、今回の研究は画期的成果だ。

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