筆名胡夷について 由来考察   岩辻賢一郎

たびたび紹介してきたように「逍遙の歌」の作曲者が誰なのかは同窓会 の大きな懸案であり、いろいろの意見が出ているが、未だに決め手が無い。 私はこの曖昧さをそのまま後世に残すのも三高らしくて良いとも考えて いるのだが、 岩辻賢一郎氏から標記の投稿があった。この中には作曲者 k.y.についての澤村胡夷説をサポートするような論述も見られる。岩辻 氏は三高創立150周年記念出版に『逍遙の歌注解』(仮題)を志して おられるようで、そこでの論考抜粋を寄稿してくださった。詳細はいず れ成書で公にされるであろう。


専太郎・胡夷がいつから旧制彦根中学の校友会雑誌『崇廣』や、商業誌に投稿 採用されるようになったのかは不明である。
ペンネーム胡夷を商業誌に使用したのは『中学文壇』(三巻十一号、明治三十 四年五月号)に掲載された評論「元の世祖を論ず」からである。澤村は自分の 著作の胡夷の読み方にルビを付けたことは無いが、昭和二十五年、『文庫』編 集者だった河井酔茗が『文庫詩抄』で(こ い)とルビを振っているから、こ の読み方に間違いは無いだろう。また、『崇廣』二十号(明治三十七年三月) 掲載の「京だより」という彦根中学後輩への通信文のペンネーム(こ い生) があるから、胡夷の読み方は(こい)で決まってくる。

評論「元の世祖を論ず」では「滋賀県彦根京 澤村胡夷」とあり、中学四年一 学期前後となる。元の世祖も中華思想から見れば胡であり夷である。

しかし、校友会雑誌で胡夷を使用したのは「北の荒磯」と新体詩「晩秋の幽谿 」(いずれも明治三十五年十二月)であり、遅れること一年七ヶ月。「あゝ、 樺太から吹き寄せる浪風に、わがかなしき友は小さいその胸に、いくその寂し い思を抱いて、わが湖國の空を望んで居るであろう。また君は君の幻影を追ふ て、北見の空に夢神をかって居る友、われ胡夷の痩せた面輪を偲んで ゐて呉れるであろうか。」北見は現在の北海道網走市庁北見市である。


             
              韻文            散文
        一般投稿   明治三十五年三月      明治三十四年五月
    校友会雑誌  明治三十五年十二月     明治三十五年十二月

胡夷が主催した蘆笛会の同人誌『呂て貴』は一冊しか保存されていないが、こ れを見ると馬場孤蝶以外の同人は全てペンネームを用いている。孤蝶を除くと 十三名であるが、胡または夷を使った人は誰もいない。一方、中学の校友会雑 誌『崇廣』に掲載されている小品漫録『うすひげ日記』には、夕映子、胡風子 、三嶺子、胡笳子、仙蓼兄、芹畝子、鐵舟子、花藻子、群咲子、塘華子、〇〇 子、淡々子、呉水子という登場人物が出てくるが、このうち同人のペンネーム と一致するのは芹畝だけで、後は全て創作された可能性が高い。それにしても 、胡風、胡笳が出てくるところを見ると、胡夷はやはり胡という文字が好きだっ たのであろう。

胡、夷。いずれも元来、異邦人を意味する。それぞれ北、東の異民族と解釈す れば、京都から見て彦根は北東の田舎であるから筆名の由来としては当たって いるかもしれない。つまり、胡夷という筆名を用いたときには既に、三高進学 を意識していたのであろう。彦根はそれほど田舎臭さを強調するほどの町でも ない。胡は中国では粟特あるいはソグディアナ(Sogdiana)を指し、胡人、商 胡、あるいは賣胡はソグド人を指す。ソグディアナは中央アジアのアム川とシル 川の中間に位置しサマルカンドとブハラを中心的な都市とするザラフシャン川 流域地方の古名で、大半が現在のウズベキスタン中央部で、一部がタジキスタ ンの北西部に当たる。また、胡夷が結成した同人の会名を「蘆笛会」といい、 蘆笛は別名“胡笳”とも言われるから、胡を使用した可能性もある。
唐詩選にある岑参の詩はもちろん旧制中学生として知っていただろう。ここに は既に「逍遙の歌」三番にある崑崙が出てくる。胡笳子というペンネームの出 典かも知れない。


胡笳歌送顔真卿使赴河隴 岑参

君聞かずや 胡笳の聲尤も悲しきを 紫髯緑眼 胡人吹く
崑崙山南 月斜めならんと欲す 胡人 月に向かって胡笳を吹く
胡笳は怨みて 将に君を送らんとす 秦山 遙かに望む隴山の雲
邊城の夜夜 愁夢多し 月に向かって胡笳 誰か聞くを喜ばん

胡、夷いずれも中国からすれば反逆者である。中学四年の胡夷がこれを既に読 んでいたかどうかは不明であるが、胡夷は五世紀の『後漢書』に見える。巻七 十三 劉虞公孫サン(サンは讃の言偏を王偏に変えた文字。字は伯珪;以下同 様)陶謙列伝第六十三[劉虞伝]に出てくる。劉虞所賚賞典当胡夷、サン数抄奪 之(劉虞が胡夷に当てて与えた褒賞などについて、公孫サンは何度も之を略奪 した。)

夷も大和朝廷から見れば「まつろはぬ者ども」である。独立不羈である。自由 である。「元の世祖を論ず」でペンネ−ム胡夷を初めて用いたが、元の世祖 “忽必烈(フビライ)”も中華、鎌倉幕府から見れば国敵、不遜の蛮奴であり 、いわば胡夷である。そうであっても、胡夷という筆名の由来を元の世祖に重 ねたかったのであろう。詩人とはそもそも時代の先駆者である、よって反逆者 たらざるを得ない運命である。そんな意味を込めているのだろうか。
あるいは、謡曲好きな専太郎にとって、謡曲『昭君』に出てくる「胡国の夷は 人間なり、今見る姿は人ならず、目には見えねども音に聞く、冥途の鬼が恐ろ しや。」あたりを参照したのか。胡国の夷とは呼韓邪単于(匈奴第十四代単于 )のことである。
胡夷が「胡国の夷」に由来する可能性は高い。というのは、これはKokoku no Yebisuに通じ、三高同窓会会員を悩ます作曲家k.y.のペンネ−ムの 可能性が あるからだ。「わたしゃ湖国の夷(彦根の田舎者)」!。

なお、『文章世界』に掲載された「赤き花」(四巻十六号 一九〇九年十二月 )では、澤村好夷となっているが、これは誤植か。
三高同窓会会員には、胡夷=いづくんぞ夷ならんや という説、胡=老 説を 出された方がいるが、詩集『蝦夷の花』を計画していた胡夷である。前者は 有り得ないだろう。
胡夷は恋多き人生だったというから(大嶋知子氏論考。胡夷下宿先住職の話) 、胡夷=恋という中学生の駄洒落だった可能性もなきにしもあらず(蛇足)。

胡夷以外のペンネームでは眇胡夷、一世鐵梃と帰鞍子がみられる。眇胡夷は明 治三八年五月『文庫』に発表された「壇の浦」と「門に立ちて」、同年十月同 誌発表の「哀歌」(友と亡き母とに捧ぐ)、明治三九年十月発表の「夏草野路 に」で使用された。眇とはすがめ、眇眼のことで、『長流』によると内縁の妻 にも明かさなかったが、隻眼に近いほど片目の視力は悪かった。
一世鐵梃は『嶽水会雑誌三十號』(明治三七年十二月號)「途上人語」、明治 三十八年五月「覚醒之歌」にのみ用いられた。
帰鞍子は『國華』(二七六号(一九一三年五月))に掲載した「朝鮮古墳発見 の壁画」、同誌三一八号(一九一六年十月)所載の「團氏所蔵の古画地蔵菩薩 像」で筆名として使われている。 

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モクさん    三木一郎

海堀昶氏から第三高等学校野球部神陵倶楽部編「三高野球部史ー創部100年記念ー」をいただいた。その中に林茂久氏の思い出を三木一郎氏が寄稿しておられるので林 茂久先輩のこと 大岩 泰と併せてお読みいただければと思いここに収録させて頂くことにする。


林茂久氏(モクサン)の経歴を詳しく知る人は少ない。だがその顔は三高関係者なら誰でも知ってゐる。文字通り三高グランドの主である。

午后三時、野球の練習が始まると一塁側校舎前の木陰には必ずモクサンの姿があった。
中折帽にステッキとパイプと云ふ特徴があるのですぐモクさんと分った。
日没練習が終るまでじっと無言で見守って居られるのだが、部員一同は叱咤激励されているようで、身の引締まる思いであった。

吉田中大路のお宅には藤田等と共によく伺って、何かと教えを乞うことが多かった。
モクさんは古武士のように全く清廉にして剛直な人柄で、その言は若い者には相当きびしいものであった。
昭和十年、一高戦で十九対〇といふ大敗を喫した時、我々は如何にして部を強化すべきかといろいろ協議した。その結果モクさんにお願いしてお宅の一室を提供して頂いたゞき、勉学塾を開講することにした。
二年にわたり毎週土曜には十数名の若者がモクさん宅に集合して受講した。
モクさんには勿論のこと、奥さんにも大変なご厄介になり、ご迷惑をかけたものである。
幸い後年、塾出身者が野球部の中核になって、対一高五連勝の偉業達成の端緒を作ったのであるが、その陰にはモクさんご夫妻の並々ならぬ熱意があったことを忘れてはならない。
モクさんはスポーツ以外では碁が好きで、お宅には立派な碁石が備えてあった。
奥さんは平素碁のことを口にされなかったが、その腕前はプロ級とのこと、モクさんも相当な打ち手ではあったが奥さんには到底及ばないようだ。
私は特別に奥さんに何局かご指導を受けたことがあるが、モクさんは盤側で煙草を燻らせ乍ら嬉しそうに目を細めて見て居られる、その温顔は今もって忘れることはできない。

私は昭和十二年、木下道雄先輩のご紹介によって日本レイヨン(ユニチカ)に入社することが出来たが、入社後間もない頃、常務室に呼ばれた。常務は私に次のようなことを話された。「実は入試前のある日、突然、林茂久と云ふ人が 来社され自己紹介の後、この度三木と云ふ者が貴社を受験するようだが、彼は信頼できる男であるから貴社に於いては是非採用されるよう希望すると申された。自分はその強引さと、迫力に驚くと共に後輩思いの心情には感銘を受けた」と云ふことであった。
私はこの事を全く知らなかったのであるが、今更乍らモクさんのご盡力に感謝すると共に、将来その期待を裏切るような言動は厳に慎まなければならないことを心に誓った次第である。

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英国皇太子 三高校庭でラグビー御観戦  鶴澤輝彌

京都下鴨の下鴨神社糺の森の一角に「第一蹴の地」という記念碑がある。これは明治43年9月堀江卯吉(のち眞島姓:明治44年三部医卒)を慶應蹴球部の眞島進が訪れ、持参したラグビーボールで下宿近くの糺の森で堀江が蹴球部「最初の一蹴」を試みた。記念碑は三高蹴球部発祥の記念碑である。大正11年4月英国皇太子が三高校庭にご来訪されたときの事を鶴澤さんが三高野球部史104頁に書いておられるのでご紹介する。


大正11年4月、英国皇太子の来日を機に、「英国の国技ラグビーを、日本でも立派にやっている事実を、三高でお見せしようではないか」という主将奥村竹之助の提案により、京都府庁に願い出たが、もちろん一蹴された。しかし「ロンドンでは市民がキングに手紙を出す。皇太子に直接手紙を出すがよい」と英語教師エルダーのすすめにより、巌栄一が手紙を書いて懇請した。まもなく三高へ試合を見にゆくという電報の朗報がきた。

当時としては空前の快事であったが、ここに自由に徹した三高魂が遺憾なく現れている。しかも当時三高は校長排斥ストの最中であったが、しばらく休戦して皇太子をお迎えした。殿下は終始立ったままで選手の一人一人に握手をたまわり、三高対全神戸外人とのラグビーを熱心に御観戦された。のちのエドワ−ド8世である。

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昭和20年度 野球部の復活に向かって 海堀昶

三高野球部史−創部100年記念−が海堀理事から贈られてきた。この本によるとアメリカに留学されていた折田校長自身、ベースボールを楽しまれたようで、早くも明治19年(1886年)にベースボールを学校に取り寄せられた。アメリカに世界最初の野球チームが誕生したのは1845年9月で当時の野球ルールは今日とはずいぶん違っていた。明治20年頃、アメリカ帰りの平岡氏が新橋鉄道工場に新橋倶楽部を作られたのが我が国でのベースボールのはじめである。それ以後徐々に普及発展し、一高にもベースボールが導入された。信州高遠の出身で明治25年三高本科卒の伊澤多喜男は東京の暴れん坊を自称し、野球は東京から三中(三高のこと)へ自分が移入したと語った。三高野球部の記録の最初は、明治25年3月に発刊された「壬辰会雑誌」(嶽水会雑誌の前身)で、その創刊号に壬辰会にベースボール部を置くとあり部の規約も示されている。4月17日には校内ベースボール部大会が催され33名の部員が参加した。選手の中には伊澤の名も見える。野球という言葉を作ったのは一高ベースボール部出身の中馬 庚(ちゅうまん かなえ)氏でその後この言葉は全国に広まって定着した。対一高戦は三高からの挑戦状発送により明治39年4月6日に実現した。以後第二次世界大戦の昭和16年から当局の通達で対外試合は禁止され一高戦も中止された。しかし昭和17年には文部省主催のインターハイが復活し一高戦も5月29日に西京極球場で復活した。昭和18年には新体制に踏み切っていた三高は5月1日紀念祭の日4部訣別式を行い野球部も解散した。昭和20年8月15日敗戦のうちに戦争が終わると10月末頃野球部再会の動きがあった。このあたりの事情を海堀理事が2編三高野球部史に記しているので終戦直後の世情の記録という意味からもここに続けて収録しておきたい。  


敗戦後の学校の状況

昭和20年8月15日、戦争は終わった。工場から兵営から、また戦いの山野から生徒は学校に戻った。幸いにも戦災を受けなかったので、学校は懐かしい姿のままで我々を迎えてくれた。しかし野球部員は昭和20年卒業の並木(康彦)を最後にすべて卒業して一人ものこっていなかった。
ここで昭和18年4月、野球部解散以降の学校の状態に触れておきたい。戦時体制下の特殊な事情を理解しておいて頂きたいと思う故である。
17年秋には繰上げ卒業が始まり、18年4月から高等学校は2年制となった。入学と卒業時期の変化は次の表の如くである。


       入学                卒業       修業年限
   14.4   平常           17.3            3ヶ年
   15.4  繰上げ卒業        17.9      2年半
   16.4      〃           18.9      2年半
   17.4    〃          19.9      2年半
   18.4   2年制                    20.3      2ヶ年
   19.4    〃         (21.3予定)   
              学制復旧         22.3      3ヶ年
   20.4  9月初登校        23.3      2年半
   21.9  合格決定遅れ       24.3      2年半 
   22.4   正規           25.3      3ヶ年
   23.4  学制変更のため1年終了時点で改めて入試を経て新制大学に移る 
20年3月にはそれまで卒業を延ばしていたものを含めて2年生以上は全部卒業させた。

4月に入学すべき1年生は三高に合格決定後も引き続きもとの中学の動員先に留置かれて登校できず、2年生はそれぞれの工場や農村に動員されて、20人程度の極く少数の生徒が学校に残っただけであった。
学校は9月に再開され、学舎に帰った2年生と、初めて三高のキャンパスにはいる1年生が顔を合わせた。生徒の不在中から食糧営団が校舎の一部を 使用していたが、看板が時々姿を消したそうである。
最初に学校で行われたのは北運動場を芋畑にする作業であった。平坦なグラウンドに忽ち無数の畝が立ってられたが、何を植えたか記憶が無い。元来ここの地層は白川砂が堆積したもので、水はけが極めて良く、肥料分もあるとは思えない。計画中止が正解であったのではなかろうか。
スポーツ復活の灯を最初に掲げたのは戦争中も実質的に存在を続けた蹴球部である。9月23日の全三高対関西ラグビー倶楽部戦がスポーツ復興の魁となったのをはじめ、京大、同志社とも順次対戦し、年末には一高戦さえ早くも復活したが、三高北運動場の上記の事情によって何れも京大グラウンドで行われた。
解散したうえ、旧部員が一人もいなくなっていた野球部の復活には暫くの時間が必要であった。
当時の三高生でいち早く野球復活の狼煙を揚げた古玉の追想記を掲げてその模様をお伝えしたい。

野球部の復活

大阪桜島への動員中、海岸の防空壕の中で、B29の爆撃で炎上する工場を目のあたりにしたのが、昭和二十年の七月であった。長い白木の箱の行列、そして一歩まちがえたら、そんな運命になったかもしれない。吹き飛んだ防空壕のあとの水溜まり。苛酷な状況を脱して、布団袋をかつぎ、京阪電車の駅へ向かう行く手には、ガソリン・タンクの爆発が天空高く火柱を立てていた。
あくる日、京都の空は黒く煤煙が流れ、真っ赤な太陽がその中にあった。そして終戦。

サイレンも敵機の音も途絶えたる
真昼の道を歩み行きつつ

そして三ヶ月。十月の末か、十一月の初めだったと思う。マントを着ていたから、そのころにまちがいない。
化学教室での授業まえ、前田博康さんに呼び出された。野球部再開の誘いであった。
前田さんから聞いて、嶋村隆次君に会ったのは、今はもう取り壊されてしまった、グランド東側の合同教室の横だった。上田耕治、高辻幸一君もいた。
それから次第に、人集めをした。物もなかった。ある日、共済会の上にあった倉庫に入ってみると、古いボール、バット、そしてスコアブックもあった。開くと長坂猛君の名があった。そのときはそのままにしておいたのだが、あとで捜しても二度とスコアブックは見つからなかった。
十二月になると、部員は二十名もあつまっただろうか。須原均君、金森君もいたと思う。一度集まって練習をしたが、軟式ボールを使ってのものだった。
十二月末、休暇に入ることになったが、食糧事情きわめて悪く、授業の再開は全くめどの立たない状態であった。このままでは、やっと形になりかけたものが消え失せるのではというので、嶋村・上田・高辻君と四人で、とにかく練習を続けることにして、新年早々、グランド西南隅の銃器庫のまえに集まった。
ある日、激しく雪が降った。大きな雪が、絶え間もなく降りしきった。四名は黙々と、キャッチ・ボールをしたり、トス・バッティングをしたりした。
こんな日が、十日つづいたか、二十日つづいたか、今はもうまったく憶えがない。しかし、野球部が、こうして始まっていくのだという、ささやかな感慨があった。
それから、二月の末までのことだろう。僕の脳裏には、雪の降りやんだあと、早春の陽光のふりそそぐ校庭が浮かんでくる。
先輩の西村氏が海軍の草色の服を着て、短靴でやってくる。丸岡氏がノックをしている。
先輩も在校生もなく、みんな夢中でボールを追っている。大橋氏もいる。中口氏もいる。−−戦争は終わった。野球もやれるんだ−−そんな思いが、みんなの心の中に溢れていた。
三月に入ってからか、部員もふえて、ある日、京都師範のグランドで試合をした。キャッチャーは後年、四国の剣山で遭難した馬場俊郎君だった。生真面目な男だった、ショートは嶋村君。木山・田畑君もいた。
三月中旬、秋月先生からの話で、キャプテンを川上君に譲るようにとのことだった。ぼくはすぐそのようにした。ただし、ぼくが事実キャプテンであったのか、今になって考えるとわからない。そんな話はしたこともなかった。

(古玉敬三記)
戦後復興の動き

戦争中の抑圧に反発して学校当局を非難する運動は全国的に蔓ったが、三高では殆ど影響なく、英語の先生が一人退職されるに止まった。秋月前部長も批判の対象になりかかったが、それ以上に進むものでは無かった。
歳が明けて2月には高等学校の修業年限は旧の通り3年制に戻されたため、この年は卒業生が出なかった。また戦争中の極端な文科軽視、理科偏重を改めて希望者には転科試験が実施され、高校本来の姿に戻ろうとした。多くの友人たちの級分けが変わり、外地、軍関係諸学校からの編入も続き、校内の雰囲気は新生日本の前途を象徴するかのように希望に溢れる一方では、学年末の試験で大量の原級留め置きが出て混沌の気配も強かった。進級試験の厳しさが三高の自由を支えるというのは先生方の共通の認識であったらしい。

そのような中で野球部復活の運動が根強く進められた。幸いなことに戦後は野球が花形スポーツになり、入部希望者は多くなった。しかし解散時に倉庫に入れた筈の諸道具は21年はじめ頃までは確かにあったが、その後記録類とともに行方知れずになってしまい、復活に当たって大きな障害となった。盗難であろう。

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昭和21年度 第36回戦、復活第一戦に無念の敗退 海堀昶

嶽水会に復帰

野球部の復活は先ず再生した嶽水会に於いて承認を得る必要があり、続いて予算の配分を受けなければならなかった。
現役では誰も知らない事ばかりであったが、先生方や各先輩の指導、助言を得てどうやら形が整い、4月には正式に嶽水会に復帰した。部長は当然のように秋月先生、コーチは池垣(前田)博康が就任した。6月の予算委員会では各部の理事が丁々発止とやりあって何とか分配もすんだ。野球部は他の部と違う特殊事情を訴えて極力沢山頂戴したが、それでも原資が少ないこととて希望額には程遠く、辻、川端、小泉など諸先輩の尽力で復活しつつあった神陵倶楽部の援助で漸く一息つく有様であった。近所にお住まいの林茂久は屡々練習場を訪れて無言の訓戒を垂れてくださった。
バックネット裏の野球部ボックスは部の解散後は蹴球部が使っていた。それも返して貰い、蹴球部は軍事教練の廃止で不要になったグラウンド西南隅 の元銃器庫(昭和11年設置)に移転した。

練習と試合

主将の川上が硬球を手にするのは始めてであったほどで、中学時代に若干でも経験のある者は僅かに3人。理事の海堀に至っては生まれて始めて野球に接し、全く何も知らなかった。しかし川上や兄の親友であった丸岡から頼まれ、尊敬する秋月先生から膝を曲げて口説かれれば引き受けざるを得なかった。野球を知らないからと断る海堀に川上が「これを読めばよく判るよ」と示したのはザラ紙の色変わりしたル−ルブックであった。これは正解と誉めるべきか、窮余の一策と言うべきか、40余年を経ても未だに判り難い。ともあれ、このようなメンバーで野球部はスタートした。この幼稚さがこの年の特長であったと言えるかも知れない。
本格的な練習をはじめたのは6月からと思う。定員調整が縺れたため合格発表が遅れて1年生は入って来ず、2,3年生のみの時期であった。同じようなレベルの相手を求めて試合もした。京都一中には勝ったが、甲子園で大活躍する田丸のいた二中には負けたが、その田丸君を三高に入らせるべく三輪などが懸命に英語の特訓に努めたことも懐かしい。記録は殆ど残っていないと聞く。昭和26年秋、同窓会報の復刊第一号に嶋村の助力で寄稿した野球部報は、未だ生々しい記憶に基づいているので、今回も根拠とした。

食糧難、インフレの昂進、器材難、学校の休暇など、混乱の時代の特殊な事情はさまざまであった。折柄復活した職業野球の阪神タイガースからボールなど中古資材を貰い受けてはという話も出たが、自分の方が欲しい位だという返事でチョン。日常の細部に至っては思い出すのも難しくなってしまった。
ル−ル解釈や戦術の研究も初歩から必要であったが、角帽先輩は没我的と言えるほど熱心に指導してくれ、部員もまたそれに応えて練習に励み、技術は漸を追って向上した。
8月の末には大高、浪高、甲南の諸校とリーグ戦を行ったが、戦争中も練習を続けたと聞く甲南が好投手、好打者を揃えて三勝ゼロ敗でトップ、三高は二位であった。(編注:表は略す)

一高戦の復活交渉

一高戦は前述のように蹴球戦が前年末に再開していたが、この年3月に生徒総代や寮総代などの有志が一高を訪ね、天野校長や生徒代表と会って復活の構想を話し合い、今年は秋に野球を東京で、庭球を京都で行い、12月に蹴球は東京での対戦を取り決めた。
8月の末、丸岡、鳥海の両名を一高に送って野球試合の細部を協議した結果、日は10月27日、試合場は前回最後に西京極球場で行われているので当然東京遠征の番に当たり、上井草球場と確認した。選手の宿泊は一高同窓会館、食事は寄宿舎の食堂でお世話になることになった。一高の向陵誌では三高から海堀が来たとなっているが、当時海堀は病気のため長時間の旅行が出来る状態では無かったし、後記の事情もあって京都を離れられなかった。

グラウンドの整備と米軍との交渉

グラウンドが凸凹になっていたことは前に述べたが、4月に米軍の一将校が学校を訪れ、三高側で使わない時間にグラウンドの使用を申し入れて来た。拒否できる状況ではないし、平滑化などの整備はやって呉れると言う事で、学校側は了承した。京都には当時第8軍がおり、四条烏丸の大建ビル(現在丸紅ビル)に司令部があった。戦争も終わったので兵隊の娯楽のためか、太平洋全域に亘る大規模な野球大会の計画があって、その為の練習場が欲しかったらしい。三高に申し込んで来たのは岡崎にいた第58通信大隊で、とても上手なプレーヤーもいた。
彼等は早速、石材を積んだ大きな材木をジープで引き回して畝を踏み潰し、見る見る間にグラウンドらしく仕立てた。ダグアウトにはベンチを置いて屋根を掛け、両サイドには観覧席スタンドも設けた。米国風の高いピッチャーマウンドは我々を驚かした。
はじめ頃は友好的な関係であったが、朝から施設隊が来て整備し、水を打った後は巨大なシ−トを掛けて彼等の練習開始までキープするなど、漸次当方の練習に差し障りが出るようになったので、返還を提訴することになった。

この問題の経過は今迄公表したことは無いが、占領下の特殊な問題であり、下手すれば翌年もまた必敗の要素を含んでもいたので、今回の部史に記録を留めることとする。諸記録が失われて記憶によるしか無く、文書の詳細は省略せざるを得ないのが残念である。

先ず最初に追い出しを言い出したのは練度の向上に不満を持ったコーチの前田と丸岡であったと思う。そこで海堀と三輪が日本語で原案を作り、部員の中で当時三高随一の英語の使い手と証された鳥海が翻訳したものを手書きして、7月はじめ三輪と二人で京都府庁にあった終戦連絡事務所に持参した。
所長は一応説明を聞いてくれただけで取り上げて貰えず、自力で軍政部と交渉するように言われ、書面はタイプ印書に改めるよう忠告してくれた。暗澹とした気持ちで外に出たが、三輪の白麻の単衣が灼熱の太陽に眩しかった。
しかし先輩は容赦してくれない。早くしろと矢の催促である。タイプ一つにしても打てる所を探さねばならない。学校の図書館は教職員の資格審査の書類作りに忙殺されていて頼める余裕がなかった。漸く日仏会館のオシュコルヌ夫人に辿りつき、事情を話してお願いしたところ、初対面にも拘わらず早速協力して頂いて書類は出来上がった。彼女の義侠心と、上手な日本語には今以て感謝する次第である。何しろ、用紙粗悪のため一度では必要枚数が打てず、同一文を力一杯、二度打たねばならなかった時代である。
提出者の名を誰にしたか覚えていないが、学校の判も、校長の署名も貰ったことは無い。
軍政部の部長はシェフィールド少佐といい、自宅の表札に瀬野と書く程日本通であったが、訴状を読む間に何度か怒り出すなど、手のつけられない状態であった。練達の通訳も少佐の言い分に忙しく、こちらの話は半分も伝えてくれない。しかし練習時間の必要さを思えば、ここで引き下がる訳にはいかない。漸く願書の内容や表現を改めれば、まだ脈が無いこともないのを知っていったん帰校した。
ここで登場して頂くのが山修先生である。北白川のお宅で海堀の話を聞き終えた先生は丹念に訴状に目を通され、僅かに1,2カ所を直すようお教え頂いた。原文で「最初は約束をよく守ったのに、段々守らなくなった」と訴えている部分を「時が経ち、人が変わった。そして約束と違うことも起こる・・・・・」とあらためるようとに言われたのである。「Man changed,と一言入れなさい」と言われたその声音を今も覚えている。
原文では相手が紳士でない、嘘つきであると言っていることになる。怒るのも已むを得ないと言われるのである。文化としての英語を教えて頂いた気がした。校内における米軍関係者の風紀の悪い点を非難した箇所など、本質的で無い条項は削除した。
再度オシュコルヌ夫人にお世話願って、この願書は受け付けられた。そして直接担当した若い中尉、名はパーカーだったか、も机の上に大きな軍靴を投げ出す特有のスタイルで、こちらの言い分の気に入らない点は手厳しく反論攻撃されたが、それでも全体としては占領軍の威光をやたら振りかざすことなく、我々の学問と運動に対する情熱をよく理解して公平に処理を進めてくれたと思っている。
夏の間中の交渉ののち、9月13日に最終決着を申し渡すから学校代表者も出席せよと言う連絡が来た。はじめて出席を求められた学校代表者は、校長も部長も都合が悪く生徒課の中本さんが代理出席した。
シェフィールド軍政部長が一から話を蒸し返して「生徒が勝手なことを言うなら学校ごと接収する」と言い出したのには吃驚仰天した。もはや一運動部の問題では無い。今こそ三高自由の精神の真価を高揚したいと願っている矢先に学校が丸ごと接収されるような事態になっては身の措き所が無い。血の気が引いて冷や汗が滲み出るのを覚えながら、三高接収の是非をめぐって必死でやりとりを重ねた。
「学問の尊厳を蹂躙するような行為は米国の正義に合わないのではないか」とか「一部隊のメンツの為に不正義を強行するのは米国の利益に合うまい」とか、果ては「日本の自由と民主主義のシンボルのような三高をこのような理由で接収するなら、国民全階層の反発を受けるであろう。米軍が今後平穏に日本を占領し続けられると思うな」とまでいったことを覚えているが、ついに少佐が全面的にこちらの言い分を認めて「今後一切米軍は立ち入らせない」と言ってくれた時には正直、ホットした。もし、こちらが負けたら、生徒の一人が腹を切ってお詫びが叶うものでないのは言う迄もないが、生きて学校に帰れるものではなかった。
勇躍して学校に戻った時は入学式は済んで午後になっており、入寮式に向かう途中の前田校長に追いついて無事完了を報告した。謹直な校長は有難うの一言とともに微笑まれたが、破顔一笑とはあのようなお顔を言うのだと思っている。
先生方が中本さんを代理としたのは気後れしたためではない。この日は三高の入学式と重なったのである。
山本先生に親しむあまりか、「俺達の英語がまずいのは山修に習ったからだ」と嘯く不心得者の話は聞くたびに腹が立つ。
後になって、あのとき少佐は最初から結論を持っていながら悪戯気を出して、始めて出向いてきた学校代表者を驚かしてやろうとしたのかも知れないと思う事もあったが、律儀な中本さんはさぞかし目を白黒させたことであろう。そもそも最初に米軍が来校した時に応対したのが中本さんであった。それでも彼は約束通り黙っていてくれて話が混乱することはなかった。
米軍の来た間は何彼と不便であったが、彼等は叢に入ったファウルボールをあまり熱心に探さなかったので、随分多くの球を手に入れることが出来た。馬革の上等のボールであった。一高では先輩から引き継いだウイニングボールを練習に流用したことを当事者が懺悔しているが、この当時の者でなければ理解に苦しむようなことはいくらもあった。
夏休みの間に新入部員の勧誘に努めた結果、竹中はじめ多数の新部員が9月から参入し、月余に迫った一高戦を控えて練習に熱が加わった。転入試験で入学するや大西も直ちに野球部に入ってきた。この連中は最後の試合まで勝利に向かって大いに活躍した。

インターハイ復活

10月にはインターハイが帝大野球部の主催で復活した。昭和11年以来の高校野球連盟は途絶して伝統がなくなっていたので、大学にいた先輩達が代わって面倒を見てくれた形である。交通、食糧事情を考慮して全国を4区に分けて地区大会を行い、各地区の優勝校1校が京都に集まって全国大会で優勝を争うことにした。
関西地区大会は八高から西、広島以東の12校が参加し、8,9,10の3日間、三高と京大で開かれ、三高は松山を9vs6で破ったが、二回戦は甲南にまたも敗れインターハイへの望みを失った。全国大会は20,21の両日三高校庭で二高、学習院、浪高、福岡の4校が争い、学習院が優勝した。
昭和17年の大会に優勝した広島は優勝旗をはじめ、多数の記念品を獲得していたが、昭和20年秋の枕崎台風による洪水で仮校舎が流され、それらは全て失われていた。そこで急遽、10年以上も眠っていた四帝大野球部連盟主催の全国高専大会時代の優勝旗を引き出して授与したと聞いた。そしてこの旗は翌々年の最後の大会に優勝したわが三高が永遠に保持することになるのであるが、今回本誌の編纂を機に改めて熟視すると、口絵写真で御覧のように、中央のボールに重なって東京の2字がある。反対面も京都ではなく、同じ東京である。
してみると、この旗は四帝大時代に全国を4地区に分けて行っていた当時の東大担当区の優勝旗ではなかろうか。10年のブランクをこえて生き延びたのが東大所蔵分のみであったのかも知れない。

一 高 戦

インターハイ全国大会を他所に一意専心準備を進め、壮行試合にも先輩に花を持たせてもらって気を良くし、復活した応援団の声援に送られて京都駅を出発した。駅前広場に響き渡る太鼓と大喚声に驚いたMP(編注:米軍憲兵)が拳銃を引き抜いて駆けつける一幕もあった。列車は先輩のお陰で連結車をお願い出来た。
東京に着いてからは雨で練習も意に委せぬ日が続いたが、26日夜には恒例のミーティングが寮食堂で開かれ、並木に教えられて1行半に書いた挑戦状を送った。前回の敗者が挑むものである。
学校の規模、寮や食堂の整備、さらに食糧の豊富さなど、我々を驚かせるのに十分で、戦う前に気を呑まれるような気配があったかも知れない。
応援団の諸君も一足遅れて東上し、戦機は熟して27日、快晴の上井草球場に相見えた。試合前にグラウンドに両チームが並んで記念写真を撮った。平和の再来を祝い、これからはスポーツらしく対校戦を続けようと言った気持ちだったと思う。


                                                         試 合 経 過

一  高 0 6 0 0 0 0 0 0 1            三  高  0 0 0 0 0 0 0 0 1      対戦成績   17勝18敗 1分け 

(以下試合の詳細記事を省略する(編集者))

2回の攻防がすべてと言っても良いような試合であった。突如乱れた投手をバックアップすべき時に凡失を重ねて6点を失い、大差がついたほかは両投手の好投に終始した戦いであった。

米軍との交渉が長引いて夏の練習が不十分であったかと臍を噛む海堀に、山修さんは「三高が最後に1点を取ったことは大変良い。珍しい。これは来年に繋がる1点なんです。」と慰めてくれた。
応援団は西の庭球戦よりも東の野球戦に主力を注ぎ、加藤団長以下70余名が応援旗を手に東上してくれた。数は少なかったが一高の全生徒が来たかと思われる大応援団に対して一歩も譲らず、終始熱烈な応援を展開してくれたことは感謝に堪えない。
戦いが終わり、薄暮の迫った球場で最後の紅もゆるを歌ったあと、加藤団長は「来年は勝ってくれ」と絶叫した。その彼が翌年西京極の勝利を見届けたあと、薬師寺境内に自裁したことは悼ましい。

翌年を目指して

我々も敵を甘く見ていた訳では無い。しかし我々には敵を観察する余裕も無いのが実情では無かったろうか。前夜のミーティングで一高の主将は解散前からの生き残りと聞き、何となく嫌な感じがしたが、こんな所に伝統の伝え方の差が出たのだろうか。
敗残の旗を巻き、燃え熾る復讐の思いを胸に秘めて京都に戻った我々が一高戦を経験して始めて判ったことも大きかった。ゲームに負けて泣くなんてと思っていた私も、グラウンドで三輪と相抱いて一高勢の乱舞を睨みすえながら、湧き出る涙を止めることが出来なかった。
一高戦は勝ちたいのではなく、勝たねばならんのだ。これだけやったんだから、これ位で良いだろうという話では駄目だ、と言うことも判った。
東京から帰ると11月10日に第78回紀念祭、20日から試験と遽しい(あわただしい)日は過ぎたけれど、如何にして一高に勝つべきかと言う一事が我々の胸中から消えることは無かった。一高戦はどうすれば勝てるのかを巡って野球部のみならず、全三高に一高戦への情熱が沸騰した。三高にとって最も苦しい時期であった。この苦悩と明年に賭ける決意の裡に歳は改まった。

米軍再び来る

2月のはじめ頃、卒業試験が終って、寮に戻ったら担任の先生から伝言があり、「米軍がまた来た。今回はとても強硬で、とても歯が立たんと思うからお前も諦めるよう」と言うことである。今度も同じ部隊の連中らしい。
しかし何で此処へまた米ゾル(編注:ドイツ語のSoldat(兵士)から米兵を米ゾルといっていた)が出てくるんだ、練習不足で誰が泣くんだと、悪夢の再来に戦きつつも再度この交渉に臨まねばならなくなった。
昨年よりも厳しいという話を聞いて心配した蹴球部の友人が、満州から帰国して京都植物園で米軍住宅の建設に当たっておられた相馬先輩に知恵を出してもらえないかと紹介してくれた。いろいろ御尽力頂いたが、結局は諦める他無いとのことであった。
彼等が来れば昨年の轍を踏むことは必至である。どうしても水際で撃退しなければならないと腹を括って先方のキャプテン何某(逸名)と直接交渉することとし、彼等が将校クラブに使っていた京大の楽友会館のロビ−で何度も談判した。会話に自信のない海堀に土屋涼一(昭和20年理甲卒、京医在学中、長崎医大名誉教授、島根医大副学長)が何時も同行してくれた。彼には昨シーズンの健康管理についてもずいぶん世話になった。隠れた恩人の一人である。
キャプテンの英語はひどい訛りで聞き辛く、筆談しても判読困難な文字を書き連ねるので困ったが、何度か談判している間に彼等が軍政部の了承を取り付けていないことが判ったので、こちらから昨年の決定を錦の御旗ように振り翳して高飛車に逆襲、マンマと撃退することが出来た。
もし安易に引き下がっておれば、この年も勝つことは出来なかったかも知れない。新年度の開始を前に最大の障害は未然に防ぐことは出来た。

しかしこのような動きとは全く別に、運命と云うのか、21年秋に発足した教育制度刷新委員会は12月末から4回に亘って6・3・3制を中心とする新学制を建言し、それに基づく学校教育法は我々の反対も虚しく、22年3月末に公布され、高等学校の運命は残すところ2年と窮まった。 INDEX HOME

序文   早川崇

「寮歌は生きて居る」(昭和38年11月1日初版発行、昭和40年11月1日改訂増補、発行所:旧制高校寮歌保存会)の序文に早川崇氏が寄稿しておられる。著作権の問題があることは承知の上でここに引用しておきたいと思う。異議を受ければ抹消する。


旧知の服部喜久雄氏が、この度“寮歌は生きている”という、全官公私立の旧制高校三十七校の代表的寮歌、逍遙歌はもちろん、部歌や応援歌など、五百数十曲を集めた書物を作られたについて、何か序文を書いて欲しいとの申出を受けた。

服部氏とは、十年ばかり以前、同氏が『一高三高野球戦』を作られた当時からの知り合いである。

私は和歌山県田辺中学の四年から、三高に入学したのであるが、その時の喜びは、先頃、自治大臣になった時よりも、もっとうれしかったのである。

とにかく旧制高等学校の生徒の生活は、非常に自由であって、特に、三高は自由の精神に貫かれていたのである。三高生は夕食が済むと、必ず寮生の三々五々が加茂川辺りから京極、東山のお寺を廻って、帰ってくるのが“レギュラー・コース”と言って,『紅萌ゆる』を歌いながら、例の厚歯の下駄を引きずり、よく通ったものである。

先年、大臣に就任したおり、三高の同窓生が、祝賀会を催して呉れた、相当年輩の先輩の方も、皆この歌を歌って、子供心にかえるところを見ると、この歌は、実によい歌である。その詞の中に“かよへる夢は昆崙の、高嶺の此方ゴビの原”という文句があるが、そのようにロマンチックで雄大な夢を、高校時代はよく見たのであるが、最近は見られなくなったのが、残念である。

概して、三高の寮歌にはロマンチックなものが多い。芸術的で詩的であると、いうのは、矢張り三高が自由の精神に貫かれていることと、京都の美しい光景が、あのような歌を沢山作らせたのではないかと思ふのである。その点は、一高と少しばかり異なっている。三高の『自由』に対して、一高は『自治』ということが、主体である。その校風、伝統の関係からか、一高の寮歌は固苦しいもの多いように感ぜられる。

高等学校の時代というのが、何ぜ印象に残るかというと、それまでの小学校や中学校では、その学科が押しつけられ、型にはめられて教えられて来たのが、高校入学と同時に、一度に破られ変わったからである。洋服なども身なりかまわないで、帽子を破ってみたり、寮では万年床で、ひどいのになると、寮の二階の窓から小便をする奴もある。また未成年のくせに酒をのんだり、それから、今ならば道路交通法にひっかかるのであるが、町中で校歌を高唱したものである。他人の迷惑を構わぬようだが、それは既存の価値を一遍に破壊するのである。そこに良いところがあったのだと、私は考えている。そこで哲学の書を読み、文学を論じ、応援団をやり、寮生活をする。つまり人間形成において、従来の価値を一旦否定するという段階を経て、今度は改めて、本当のものを自らの自主性において、把握していくという課程として、高等学校がある。ナンバー・スクールはみな同じである。この非連続というか、一度価値を否定して、さらに大学を経て、社会人に入ってゆくという、その課程が尊いのであると、私は思っている。

私には寮生活を通じて、非常に思い出深いことが、二つある。その一つは自由寮の総代に推されていた二年生の時である。その当時、室戸颱風で、寮舎がひどく破壊され、今でいう危険校舎の状態になり、三、四十度ぐらい傾いた。所が、非常に無茶な話であるが、寮生達は寮と生死を共にするといって、いくらわれわれが忠告、勧告しても頑張っていて、退避しようともしない。これらの寮生を、いかにして多の下宿に疎開させるかという事に、私は大変に苦労したことがある。

それからもう一つは、一高三高戦の応援団長の時である。ご承知のように一高三高戦というのは、長い歴史と伝統を誇った試合である。私が応援団長を引き受けた前年には、野球は十九対〇で、ボートも十五艇身差で敗れ、陸上、庭球と全部惨敗したのである。その翌年だけに私の責任は、非常に重かった。選手にも随分、過激な練習を強いた。五百名ほどの応援団を組織して、上京した。今度野球は三対一と惜敗し、ボート、陸上ともに価値を譲り、最後の庭球も大接戦を演じたのである。ところが、三高の選手が足にコブラカエリを起こし、もう一球誤れば、四部全敗という段階に陥り、すると五百人の応援団の連中が我慢しかねて、負けてかえるならば、一層のこと、試合をつぶしてしまえというわけで、ドーツとテニスコートになだれ込んで、コートを占拠したのである。実に無茶な話である。そこで一高と三高の応援団の団員が対峙し、夕暮れ迫る頃になって、遂に大乱闘が始まった。一高三高戦というのはいつも喧嘩がつきものであったが、これが一番大きな乱闘となったのである。現在、香川県の総務部長の田中守、朝日新聞のロンドン支局長の後藤基夫、自治省財政局長の柴田護の諸君とか十五、六名の重軽傷者が出たのであるから、私はその責任を感じて、自発的に退学届を学校側に提出し、身を引いたのである。

ところがその後、三高はもちろんのこと一高の生徒大会でも、その引き際が潔かったというので、早川を見殺しにするな、三高に戻れということになった。私は戻る気もなかった。一高に受験するのも嫌であるから、五高に入学しようと考えた。このような経緯もあって、三高に復校した。これが有名な早川事件である。

私にとって、この二つの大きな事件が、懐かしい思い出であって、コレラのことを通じて、このような政治家になったことにも、何か縁があるように思える。

思えば、終戦の時、内務省の引き留めを振り切って、学歴、職歴を捨てて、裸一貫になって和歌山の田舎に帰った時も、丁度、応援団長の責任を取って、退学したと同様に余り拘泥せぬ精神、打算とか立身出世主義に囚われず、いつでも裸に慣れるという精神は、矢張り、私は三高の体験、自由の精神によって、培われたもののような気がしてならぬ。

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