三高歌集

逍遙の歌

明治三十八年  澤村胡夷 作詞   k.y. 作曲

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紅もゆる岡の花
早緑匂ふ岸の色
都の花に嘯けば
月こそかゝれ吉田山  


くれないもゆる おかのはな
さみどりにおう きしのいろ
みやこのはなに うそぶけば
つきこそかかれ よしだやま  


緑の夏の芝露に
殘れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつゝ
我等が胸に湧返る

みどりのなつの しばつゆに
のこれるほしを あおぐとき
きぼうはたかく あふれつつ
われらがむねに わきかえる


千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通へる夢は昆崙の
高嶺の此方ゴビの原

せんざいあきの みずきよく
ぎんかん そらに さゆるとき
かよえるゆめは こんろんの
たかねのこなた ごびのはら


ラインの城やアルペンの
谷間の氷雨なだれ雪
夕は辿る北溟の
日の影暗き冬の波

らいんのしろや あるぺんの
たにまのひさめ なだれゆき
ゆうべはたどる ほくめいの
ひのかげくらき ふゆのなみ


嗚呼故里よ野よ花よ
ここにももゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯き見ずや古都の月

ああ ふるさとよ のよはなよ
ここにももゆる ろっぴゃくの
ひかりもむねも はるのとに
うそぶきみずや ことのつき


それ京洛の岸に散る
三年の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐

それけいらくの きしにちる
みとせのあきの はつもみじ
それけいらくの やまにさく
みとせのはるの はなあらし


左手の文にうなづきつ
夕の風に吟ずれば
砕けて飛べる白雲の
空には高し如意ケ嶽

ゆんでのふみに うなづきつ
ゆうべのかぜに ぎんずれば
くだけてとべる はくうんの
そらにはたかし にょいがだけ


神楽ケ岡の初時雨
老樹の梢傳ふ時
檠燈かゝげ口誦む
先哲至理の教にも

かぐらがおかの はつしぐれ
ろうじゅのこずえ つとうとき
けいとうかかげ くちずさむ
せんてつしりの おしえにも


嗚呼又遠き二千年
血潮の史や西の子の
榮枯の跡を思ふにも
胸こそ躍れ若き身に

ああまたとおき にせんねん
ちしおのふみや にしのこの
えいこのあとを おもうにも
むねこそおどれ わかきみに

10
希望は照れり東海の
み富士の裾の山櫻
歴史を誇る二千載
神武の兒らが立てる今

きぼうはてれり とうかいの
みふじのすその やまざくら
れきしをほこる にせんざい
じんむのこらが たてるいま

11
見よ洛陽の花霞
櫻の下の男の子等が
今逍遙に月白く
静かに照れり吉田山

みよ らくようの はながすみ
さくらのもとの おのこらが
いましようように つきしろく
しずかにてれり よしだやま

以上が三高同窓会会報98号まで毎号載せられていた歌詞である。この歌ははじめ一部三年乙のクラス歌であったが、やがて全校で謡われるようになった。後で示すように会報99号からは元の歌詞が採用されている。澤村胡夷は本名専太郎。作詩年代は明治三十八年九月から三十九年七月の間である。この歌は三高の象徴として今なおドラマにも使われ、1957年三高創立九十周年を記念して、吉田山上に「紅もゆるの碑」(写真資料室参照)が建てられた。三高寮歌の数々を象徴するものとイメージして20個の石が配され、主峰の石に「紅もゆる 丘の花」と彫り込まれている(同窓会報14 内藤資忠氏(1958))。石は四国吉野川の緑泥片岩、文字は同窓会の当時の会長阪倉篤太郎先生の筆になる。

余談になるが、この歌は1946年10月に封切られ一世を風靡した黒澤明監督の映画「わが青春に悔いなし」の挿入歌に使われた。この映画を通じて、一般の人たちにも広くアピールしたものである。さらに関川秀雄監督の「きけわだつみのこえ」、戦中1942年の映画「新雪」、1951年の新藤兼人の監督第一作「愛妻物語」、松林宗恵監督の「連合艦隊」でも使われた。旧制高校をイメージさせる代表的名歌であるためであろう。


この歌の原譜・原歌詞が残っている。細かく見ていくと変化が見られる。作曲者のk.y.については不明であるが、会報 99(2004)所載の海堀昶氏の論考によれば、岸田達也(昭17・9文乙)氏提唱の「吉田恒三」説は「極めて有力な仮説である」とのことである。吉田氏は三高在籍者ではなく、狩野直禎氏調査によれば、明治5年2月3日福井県小浜市の生まれ、明治30年東京音楽学校卒(現・東京芸大)、 福井師範を経て明治35年〜昭和8年京都師範在勤。京都音楽界の中心人物であったという。吉田氏は大正末期から仏教音楽(声明)の研究も行い、昭和25年には中山玄雄氏、大祭邦雄氏らと延暦寺に音律研究所も創った。昭和32年5月16日85歳で亡くなった。海堀氏は、吉田氏が三高歌集の明治38年水上部歌、同43年水上部歌、同44年野球部歌の作曲者でもあったことも仮説を支える論拠の一つとしている。三高歌集を見ると澤村胡夷も明治39年、41年、42年に水上部歌を作詞しているので、澤村と吉田のタイアップが明治38年あったとしても、まんざら事実無根の話でもなさそうに思える。狩野直禎氏によれば、京都音楽協会を組織指導していた吉田氏を取り巻く文化人の一人として澤村胡夷がいたことことが明らかになっている。作曲者k.y.についての論考は「紅もゆる」の作曲者について−以下を参照されたい。

閑話休題、次に掲げたのが原歌詞である。内容的に遙かに優れているというので会報99号からはこちらの歌詞が掲載されるようになり、「紅もゆる百年」を記念して建てられた吉田山歌碑苑の副碑もこれを採用している。


紅もゆる丘の花
狭緑匂ふ岸の色
都の春に嘯けば
月こそ懸れ吉田山。


くれなゐもゆる をかのはな
さみどりにほう きしのいろ
みやこのはるに うそぶけば
つきこそかゝれ よしだやま  


緑の夏の芝露に
殘れる星を仰ぐ時
希望は高くあふれつゝ
われらが胸に湧きかへる。
<
みどりのなつの しばつゆに
のこれるほしを あほぐとき
きばうはたかく あふれつゝ
われらがむねに わきかへる


千載、秋の水、清く
銀漢、空に冴る時
かよへる夢は崑崙の
高嶺の此方戈壁の原。

せんざいあきの みずきよく
ぎんかんそらに さゆるとき
かよえるゆめは コンロンの
たかねのこなた ゴビのはら


ラインの城や、アルペンの
谷間の氷雨、なだれ雪
夕はたどる北冥の
日の影、暗き冬の波。

ラインのしろや アルペンの
たにまのひさめ なだれゆき
ゆふべはたどる ほくめいの
ひのかげくらき ふゆのなみ


ああ、故郷よ、野よ、花よ
此処にはもゆる六百の
光も、胸も、春の扉に
嘯く水や、故都の月。

ああふるさとよ のよはなよ
ここにはもゆる ろっぴゃくの
ひかりもむねも はるのとに
うそぶくみづや ことのつき


それ、京洛の岸に散る
三歳の春の花嵐
それ、京洛の山に咲く
三歳の秋の初紅葉。

それけふらくの きしにちる
みとせのはるの はなあらし
それけふらくの やまにさく
みとせのあきの はつもみぢ


左手の書にうなづきて
夕べの風に吟ずれば
砕けて飛べる白雲の
空には高し、如意ケ嶽。

ゆんでのふみに うなづきて
ゆふべのかぜに ぎんずれば
くだけてとべる しらくもの
そらにはたかし にょいケ(が)だけ


神楽ケ丘のはつしぐれ
老樹の梢傳ふ時
穂燈かゝげ、吟む
先哲至理の教にも。

かぐらケ(が)をかの はつしぐれ
ろうじゅのこずえ つたふとき
すゐとふかゝげ くちずさむ
せんてつしりの をしへにも


ああ、また遠き四千年
血潮の史や西の子の
榮枯の夢を思ふにも
胸こそ躍れ、若き身に。

ああまたとおき しせんねん
ちしおのふみや にしのこの
えいこのあとを おもふにも
むねこそをどれ わかきみに

10
希望は照れり。東海の
み富士の裾の山櫻
歴史を誇る二千歳
神武の子らの起てる今。

きばうはてれり とうかいの
みふじのすその やまざくら
れきしをほこる にせんざい
じんむのこらの たてるいま

11
見よ洛陽の花がすみ
櫻のもとの健児らが
今、逍遙に、月白く
静かに照れり。吉田山。

ああらくようの はながすみ
さくらのもとの をのこらが
いませうえうに つきしろく
しづかにてれり よしだやま

現在の同窓会報には「ああ洛陽の花がすみ」の部分は「見よ洛陽の花がすみ」となっている。これは「発表後直ちに変更されたもので、全体の構成から見ても修正が当然」とされている(同窓会報106 16ページ)。

澤村は三高卒業後京大に進み、東洋美術史を専攻した。終焉の地は京都で時に四十七才、助教授として活躍中であったが、逝去と共に京都帝国大学教授に昇任。東山二条の仏光寺に眠る。

澤村の『日本絵画史』所載の略伝が、同窓会報94(2001)に転載されている。注に載せる。
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美術史家 元京都国立博物館長 土居 次義(昭3・文丙卒)は同窓会報16(1959)に次の記事を寄稿している。

私たち三高出身者にとって一番懐かしい歌『紅萌ゆる』の作者胡夷澤村専太郎先生は、私が京大で東洋美術史の指導を受けた恩師である。(中略)
澤村先生は、亡くなる直前に教授になられたが、それまで長く助教授として東洋美術史を担当しておられた。先生は明治三十六年九月三高第一部に入学、同三十九年九月三高から京大の美学美術史へ進まれ、東洋美術史では、東大から来られていた瀧精一博士の門下である。そんな関係から、明治四十二年京大を出られると、すぐ東京へ行かれて、瀧博士の主宰していられた国華社へ入り美術雑誌『国華』の編集に従事されるようになった。そして東洋美術史家ならびに美術批評家としての位置を築き上げられたのである。
先生が美術史の助教授として京大に赴任して来られたのは大正八年であった。私が始めて先生にお目にかかったのは、先生の晩年期で、私は当時三高の二年生であった。大学で美術史を専攻したいと思っていたので、その頃三高で東洋史を講義していられた那波利貞先生にお話ししたところ、それでは京大の澤村君に相談したまえというわけで、紹介の名刺をいただいて北白川口にあった澤村先生のお宅を訪ねたのであった。幸い先生は在宅せられて、快く会って下さった。何でも大分寒い日で、大きな火鉢をはさんで、いろいろ親切に話して下さったことを覚えている。この時に私は、高校を終えたら京大に入って先生の指導で東洋美術史を専攻することに方針を決めたわけである。昭和三年、私は京大の美学美術史に入り、澤村先生の教えを受けることとなった。そして教室での受講以外に個人的にも色々指導を受けたのであったが、不幸にして先生は四年末から発病されて、翌五年五月二十三日に四十七才で亡くなられた。

私が知った頃の先生は、頭髪にはすでに白きものがかなり多く、若かった私の眼には老大家という感じに見えた。(中略)

澤村先生の美術史家としての業績の一斑は、われわれ弟子が先生の没後編纂上梓した遺稿集『日本絵画史の研究』『東洋美術史の研究』で窺いうるが、日本、印度、西域等の絵画の模写事業にも大きな功績を残された。先生は、早く法隆寺金堂壁画の模写も計画されたのであったが、遺憾ながらこのことは実現されずに終わった。もしこのことが実現していたら、先年のあの悲しむべき金堂罹災のこともなかったかも知れないのである。

美術史学者としての先生の足跡は大きいけれども、しかし先生は単なる学究ではなかった。人としての先生を特色づけていたのは、その詩人的資質であった。胡夷とは、詩人としての先生の早くからの号であった。詩人胡夷の名は学生時代から相当知られていたらしい。あの『逍遙の歌』は、先生が三高在学中に作られたもので、単に三高生だけではなく、多くの若人たちによって愛誦せられた。三高歌集を見ると、先生の作られた歌は、『逍遙の歌』のほかにも入っている。『林下のたむろ』、『水上部歌』二種などがそれである。

琵琶湖畔の城下町彦根で明治十七年に生まれ、中学時代までをそこで送られた先生には、琵琶湖は青春の日の数々の思い出に繋がるものであった。だから詩集にも『湖畔の悲歌』と題するものがある。先生にこの詩集のあることは、かねて耳にしていたけれど、久しい間見つからなかった。しかし先生の没後十数年して偶然知人の一人が愛蔵していて私に譲ってくれた。先生の詩集には他に蒲原有明等との共著『マンダラ』があるが、この詩集は私は持たない。

私が接した頃の先生は美術史学者として重きをなされ、詩作はもはや試みられてはいなかった。けれども折に触れて詩人としての片鱗がうかがわれ、アカデミックな学究とはおよそ感じがちがっていた。ときどき先生のお宅で若い人々が集まって談笑したことがあり、学生の私も末席に加わったが、学問の弟子よりも先生の風格を慕う人の方が多く、その中には画家も何人か見られた。

私が先生にお目にかかった最後は大阪の赤十字病院においてであった。その時、先生は病気がよくなって退院したら、しばらく六甲山麓あたりで静養したいとも言っておられた。その翌日大学の美学研究室へ行ったら先生の訃がもたらされていた。

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藤 修氏(昭9・文甲卒)は同窓会報21(1962)に次の記事を寄稿している。

(前略)

二、寮  歌

紅もゆるを歌わなくなってから三十年、一人で終わりまで歌えといわれると、もう途中でわからなくなる個所がきっと誰でもあるだろう。出欠名簿の方は、三年間毎時間の条件反射でいまだに耳の底に残っていて、今でも呼び上げられるのに、寮歌の方はどうしたことか同じところを行きつ戻りつしてしまう。でも皆で歌えば、老若を問わず若き日の思い出を引きずり出す効能を持った、いつまで経っても懐かしい歌である。

寮歌は合唱をその本領とする。たとえ一人で歌っても、誰かがそばで合唱しているものと想定されているのが普通である。ところが、諸君、この歌が独りでいて、思わず知らずくちびるに上ったという経験を持つ人がいるだろうか。

先輩の島田 叡沖縄県知事は紅もゆるを高唱しつつ玉砕されたと聞いた。満州国の司法次官前野茂氏の「生ける屍」によると、同氏がソ連の裁判で二十五年の禁錮に処せられたその理由がわからなかったが、結局「日本は今まで民主的愛国者を苦しめてきたから、今度は君が苦しむ番だ」といわれて、初めてソ連当局の本心が分かって、それならわかったと急に爽快な感じがして「真っ暗な箱車に押し込められて監獄へ帰る道すがら自分は高等学校のころの寮歌を歌い続けていた」とある。(前野氏はどこの高校か知らない)。

玉砕のまぎわに歌うのがなぜ紅もゆるでなければならないか、二十五年の判決を受けてなぜさわやかに寮歌を歌ったのか。大学の時、商工政策の講義を四、五回聞いただけで、大内兵衛教授は検挙され、私は差し入れに飛んで行こうかとさえ思ったのであったが、教授は留置場の中で五高の寮歌集を読んでおられると新聞に出ていた。私は官僚は罪のない寮歌集しか許さないものと憤慨していたが、今にして思えば教授はこれを所望されて心さわやかに、之をひとりで愛唱されていたのではなかろうか。誰かがリーダーになって紅もゆるを高唱するとき、それは楽しい青春の賛歌である。しかし孤独で思わず口をついて出る紅もゆるは悲惨の極、運命を克服するさわやかな青春のゆめの歌である。山下奉文大将は比島で銃殺の前夜副官に対して楽しそうに自分の初恋の物語をして聞かせたという。いまわの際になぜ初恋の物語がでて来るのか。陸士(編者注:陸軍士官学校)には寮歌はなかった。紅もゆるは我々の初恋の歌であるといっては奇矯だろうか。

私はこうした偉い人たちの苛烈な運命には幸いにも出会わなかった。でも生木の枝を裂いてみたまえ。その裂け目から非情の樹木でも涙を流しているだろう。世界中で俺のいうことを聞いてくれるのは、お前だけだと愛馬の首を撫でながら、ものに憑かれたようにひらりと馬の背にまたがって、さわやかな春風をきって走り出したとき、気がついたら紅もゆるを口ずさんでいるではないか。ああこういう歌もあったんだと、軍歌やさもなければ「支那の夜」などといった流行歌ばかりの中で、すっかり忘れてしまっていた寮歌を歌いながら、果てしない曠野を馬を馳せていた。あのときから二十年、弾を篭めたピストルもとうとう引かずに無事還っては来たものの、そのときからTB(編者注:結核(tuberculosis))と仲良く同棲を続け、時に「熱血胸にあふれ」(編者注:紀念祭歌の一節)つつ今日に及んでいる。

松ちゃんはその後何もわからないのであろうか。松ちゃんは今ごろきっとどこかで、ひとり「桜の若葉」(編者注:紀念祭歌)を歌っているだろう。では諸君彼と一緒に歌いましょう。(昭9・文甲)

梅田義孝(昭19・文丙卒) の寮歌管見も参照されたい。acrobatで表現される。一度ファイルとして別に保存してから、用紙に合わせた大きさで印刷すると読みやすい。

桑原武夫(大14・文丙卒)は「寮歌は生きて居る」(昭和38年11月1日初版発行、昭和40年11月1日改訂増補、発行所:旧制高校寮歌保存会)の11頁に次のように記している。

チョゴリザ登頂に成功して、明日は五〇〇〇メートルのベース・キャンプを撤去するという前夜、からになった本箱などを燃やして、豪勢なキャンプファイヤーを囲んで、合唱した際も『紅萌ゆる』がうたわれた。隊長に敬意をはらってくれたのかも知れないが、京大にはそういうときに合唱する歌がないのだ。

youtubeでもこの歌を聴くことが出来る。こちらは歌よりも繰り広げられる昔の写真が貴重と思われる。 INDEX HOME