注   電車の中

幣原の残したものの中には次の一文が見られる。

(前略)忽ち玉音は朗々と響き渡った。一分か二分経つと、日本は大東亜戦争に敗れて、無条件降伏に決したことが明らかになり、満堂愕然として色を失い、万感胸に迫って、頭を垂れたまま、放送が終わっても、一語を発するものがなかった。女子事務員の立っていた一隅よりは頻りに啜り泣きの声が聞こえた。私も思わず手巾を取り出して眼を蔽うた。最早平常の如く雑談に打興ずる気分になれない。黙々として倶楽部を出で、都営電車に乗込んで、帰宅の途に就いた。
電車内の一乗客は対座する他の一名を呼びかけ、元来自分は我が国が何故に今回の戦争に突入しなければならなかったのか、納得し得られない。政府や軍部の発表せる所は事態を糊塗して、国民を愚弄するものである。又戦局の進行に付いても、着々順調な経過を辿っているが如き楽観の報道のみを掲げ、無条件降伏を必要とするような悲惨な状況に迫っていたことなど、一言も公表せられたことがない。国民は目隠しして屠殺場に追い込まれる牛馬と同様の取扱を受けているのであると、涙を揮って悲憤慷慨していた。これを静聴していた満車の乗客は悉く同感の叫声を揚げた。この光景は私に深刻な印象を与え、これを思出しては夜半夢平らかなることを得なかった。
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grenz