即ち『最高司令官が、先に列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、諸改革が連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである』(半藤p.244)
半藤の著書からの引用をさせて頂く。
『昭和二十五年のはじめ、朝鮮戦争の直前のころ、来日した米出版業者を迎えての昼食会の席上で、マッカーサーは豪語している。
「もしも将来、アメリカで私の銅像が建てられるようなことがあるとしたら、それは太平洋戦争における勝利のためではなく、また日本占領の成功のためでもなく、日本国憲法第九条を制定させたことによるであろう」(R.マーフィー著「軍人の中の外交官」)
ところが、トルーマン大統領による罷免後の昭和二十六年五月五日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の公聴会において、彼は突然に「戦争放棄は日本人の発案なり」と強調する。(中略)
「日本人は世界中のどこの国民にもまして原子戦争がどんなものだか了解しています。・・・彼らは自分の意見でその憲法の中に戦争放棄の条項を書き込みました。首相が私のところに来て『私は長い間考えた末、信じるに至りました』といいました。彼は極めて賢明な老人でした。・・・『長い間考えた末、この問題に対する唯一の解決策は戦争をなくすることだと信じます』といったのです。さらにこういいました。『軍人としてのあなたにこの問題を差し出すのは非常に不本意です。なぜならあなたがそれを受け容れないものと信じているからです。しかし、私は今われわれが起草中の憲法にこのような条項を挿入するように努力したいと思います』。そこで私は立ち上がってこの老人と握手し、彼に向かい、それこそはおそらく講じ得る最も偉大な建設的措置の一つだと考えるといわないではいられませんでした」』(p.252)
この証言について半藤氏は当時朝鮮戦争が激化し、アメリカ議会は日本国憲法に第九条を制定したマッカーサーの責任を追求する雰囲気にあったから、彼には幣原にその責任を転嫁する意図があったのだろうと見ている。
それはともかく昭和二十一年一月二十四日幣原は自らの肺炎にペニシリンを分けてもらったお礼にマッカーサーを訪ねた。このときに「戦争放棄」が正午から三時間の会談で提議されたといわれている。この訪問は儀礼的なものであったから公式の記録はない。首相辞任の直前幣原の吐露した真情を記録した「羽室メモ」には、「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人(マッカーサーと幣原)は大いに共鳴した」「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う」、「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」と幣原首相は述べたと伝えられている。
松本案を受け容れることは出来ないと考えたマッカーサーは昭和21年2月3日民政局に対して憲法草案を作成するよう命じた。その際、マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3項目を提示した。いわゆるマッカーサー・ノートである。この原則の T項天皇、V項封建主義と並んで、U項には次のように戦争放棄が書かれていた。
War as a sovereign right of the nation is abolished.
国家の主権としての戦争は廃止される。
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.
日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。
It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。
No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。
第九条について幣原自身はその著『外交五十年』で、
『私ははからずも内閣組織を命ぜられ総理の職に就いたとき、すぐ私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これはなんとかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと堅く決心したのであった。それで憲法の中に未来永劫そのような戦争をしないようにし政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃してどこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか見えざる力が私の頭を支配したのであった』
と述べているのであるが、半藤は、これはGHQ作成の憲法原案を受諾せねばならなかった責任者としてこういわざるを得なかったのだと考えざるを得ないと述べている(p.261)。この論拠には、例えば昭和二十七年七月七日の松本蒸治元国務相の証言を挙げている。
『私が書いた小さい説明書(軍縮を含む松本私案)を[GHQ]に出す時には、幣原さんはもちろん賛成して出せというので出している。その時にそういう考え(戦争放棄)を持たれる道理はないですね。後日あるいはお世辞に軍隊のことは自分で最初から考えていたというくらいは言ったかも判らない。しかしそれはお世辞であって、あれは向こうから出したものなのです』(自由党憲法調査会速記録による)(p.261)
しかし幣原の「外交五十年」は彼の亡くなった3月10日に極近い3月2日付で序が書かれていて、正に彼の遺書とも言うべきものとなった。序文の中で幣原は「ここに掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記憶に存する限り、正確を期した積りである。若し読者諸賢において私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸に御指教を賜わるよう、万望に堪えない。」と書いている。「外交五十年」には、半藤氏の引用した部分に続けて次の文章も見られるのである。すこし長いが全文引用しておく。
「よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意志に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。
軍備に関しては日本の立場からいえば、すこしばかりの軍隊を持つことは、ほとんど意味がないのである。将校の任に当たってみればいくらかでもその任務を効果的のものにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっているような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目に軍人となって身命を賭するような気にはならん。それでだんだん深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。
も一つ、私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に取り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らに協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕えて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。暴漢が来て私の手をねじって、おれに従えといっても、嫌だと言って従わなければ、最後の手段は殺すばかりである。だから日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って、天下の公論に訴える、これ以外にないと思う。
あるイギリス人が書いた「コンディションズ・オブ・ピース」(講和条件)という本を私は読んだことがあるが、その中にこういうことが書いてあった。第一次世界大戦の間、イギリスの兵隊がドイツに侵入した。その時のやり方からして、その著者は向こうが本当の非協力主義というものでやって来たら、何もできるものじゃないという真理を悟った。それを司令官にいったということである。私はこれを読んで深く感じたのであるが、日本においても、生きるか殺されるかという問題になると、今の戦争のやり方で行けば、たとえ兵隊を持っていても、殺されるときは殺される。しかも多くの兵力を持つことは、財政を破滅させ、従ってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの外にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」(幣原p.213)
というのである。ここには本心幣原が軍備の全廃を考えていたことが感じられる。そうでなければわざわざ「コンディションズ・オブ・ピース」を引用してまで自分の議論を補強するとは思われない。幣原の真情が伝わってくる。
半藤氏は、戦争放棄条項が幣原の発想によるとする説には終始懐疑的な見解を示している。いよいよこれからは堤尭「昭和の三傑」の検証に入る。
この書を貫く堤氏の判断は『専守防衛の「戦争放棄」は、日本が世界に向けた保証書となる。安心感を与える。鈴木貫太郎・幣原喜重郎・吉田三代のココロでもある。第二項「戦力放棄」は当用の時限立法だった。』『兵を海外に送るのは国家の一大事である。これを避けるために幣原は憲法九条を策定し、吉田以下歴代政権担当者が堅持した。戦後日本の基軸である。これあるために朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵たりとも「使役」されずに済んで来た。』の二句に尽きる。
戦力放棄幣原説を補強して,この本で堤氏が挙げているものを見ておこう。
堤の書には幣原平和財団が1955年刊行した“伝記「幣原喜重郎」”(非売品:古書店で比較的容易に入手可能)がたびたび登場してくる。堤氏はこれを「幣原伝」として引用するので、私もそれに倣うことにする。先にも述べたマッカーサーとの3時間に及ぶ会談について「幣原伝」には次のように記されている。(堤p.53)
“その時の談話の内容をGHQ側から仄聞すると、幣原は日本の国体や天皇と国民の特殊な関係を述べ、日本はどうしても天皇制でなければ平和に治まらないことを諄々と説き、さらに彼が病中において霊感した所管だといって、
「原子爆弾が出来た今日では、世界の情勢は全く変わってしまった。だから、今後、平和日本を再建するには、戦争を放棄して再び戦争をやらぬ決心が必要だ」
と述べたところ、この幣原の主張は痛く元帥を動かした。それから間もなくマ元帥の、日本天皇制維持の指令が出されたのであった。” |
幣原の秘書官、岸倉松の証言(堤p.53)
“そのときの会談内容に関しては、首相からは何もお話はありませんでしたが、その後GHQ側の人びとから聞いたところを総合しますと、首相は、「今度病気をして寝ているうちにいろいろなことを考えたが、原子爆弾のようなものが出来たこんにち、日本は今後ふたたび戦争を起こさないよう、戦争を廃棄する決心をしなければならない」ということを衷心から披瀝された。マ元帥も大いに共鳴し、満腔の賛意を表わし
その実現方を激励されたということでありました” |
米上院公聴会証言は半藤の項で引用したが、この他堤の書にはマッカーサーの七十五才誕生日を祝う会での席上マッカーサーは次のように挨拶したと書かれている。(p.56)
“日本人は恐るべき経験によって、未来の戦争が自殺行為であることを知っている唯一の国民である。私は日本人が新憲法を作るに当たって、まざまざとこれを思い起こした。島国という限られた地理的条件にあり、二つのイデオロギーの間の、いわば無人地帯にされた日本の国民は、勝者、敗者いずれの側に付こうとも、今後またしても戦争に参加すれば、おそらく民族の破滅をもたらすだろうことをよく理解している。当時の賢明な幣原首相は私を訪れ、日本国民は国際的紛争解決の手段として戦争を廃止すべきであると要望した。私がこれに同意すると、彼は私の方に向き直って、いいました。
「世界はわれわれが現実に即さない夢想家だといって、あざけり笑うでしょうが、百年後にはわれわれは予言者と言われるようになるでしょう。” |
同じ年(1955年)マッカーサーの回想記が出版されたがその中には
"幣原男爵は私の事務所を訪れ、ペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵が何となく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気が付いた。私は男爵に何を気にしているのかと尋ね、それが苦情であれ、何か提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないと言ってやった。
首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折言われるほどカンが鈍くて頑固なのでなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
首相はそこで、新憲法を書き上げる際に、いわゆる「戦争放棄」条項をふくめ、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことを決めたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対にないことを世界に納得させるという二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。”
”首相はさらに、日本は貧しい国で軍備にカネを注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらず挙げて経済再建に当てるべきだ、
とつけ加えた。
私は腰が抜けるほど驚いた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息も止まらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。
現在生きている人で、私ほど戦争と、それが引き起こす破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生き残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時には一緒に、時には向かい合って戦った経験を持ち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。
私がそういった趣旨のことを語ると、今度は幣原氏がビックリした。氏はよほど驚いたらしく、私の事務所を出るときには感きわまると言った風情で、顔を涙でクチャクチャにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑い嘲るかも知れない。しかし百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と言った。”と記されているという。(堤p.56)
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堤氏はこの会談をどう見たのであろうか?次のように書かれている。(p.59)
「このときの「密談」は、のちに「マッカーサー三原則」のもとになったと思われる。「三原則」とは、象徴天皇制・戦争放棄・華族制廃止である。GHQ草案を作る際、幕僚に「マッカーサー・ノート」として示された。「象徴天皇制」についても、「人間宣言」を自ら英文で書いた幣原の提案だった。と想像するのも容易である、天皇の位置づけに苦慮するマックにヒントを与えた。要は統治権を取り上げ、神聖を廃して象徴とする、平たく言えば昔ながらの天皇に戻す意である。・・・・
すでに見たように、幣原はマックに述べている。
「起草中の草案に、その(戦力放棄の)条項を入れたい」
「象徴天皇制」についても合意があった、にもかかわらず、幣原はこれらの重要事項を腹中に秘めて、起草責任者の松本に告げなかった。「象徴天皇制」といい「戦力放棄」といい、二つながら閣議を通るはずもないと見ていたからだ。事実、のちに二つは閣議でも議会でも紛糾する。このような大事はガイアツを利用しなければ通らない。
GHQは松本草案を旧態依然と見なしてハネた。幣原は、松本案がマックにハネラレることを知っていた。いや、ハネさせた。いうなら、まずは味方を欺け。流れから見て、そうとしか思えない。」
当時アメリカにも、また極東委員会にも特にソ連とオーストラリアには天皇弾劾の空気が非常に強かったことも指摘されている。堤によれば、住本利男「占領秘録」には内閣書記官長楢橋渡が次のように言ったと書かれているという。
「あの憲法は、当時の国際的要求を辛うじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話しをしていたことがある」
さらに堤氏はいう。(p.70)
「さらに『幣原伝』は続ける。
(幣原首相は、この頃から「戦争放棄」と「軍備全廃」とは決して総司令部から押し付けられたものではなく、これは私の「不動の信念」だと語り、さらに「中途半端な軍備を持っていても何の役にも立たない。国民が一致して自分が正しいと考えて進んで行けば、徒手空拳でも何ら恐れることはない。戦争放棄は自分が言い出してマ元帥が採用したのだ」と言い切るようになった。」
「さきに見たマックの三つの証言と合わせて、何度読み返しても、二人が揃って嘘偽りを言い立てているとは、当方にはどうしても思えない。「密室」の当事者二人の、それぞれの公の場における発言である。そこに平仄の合わないところがあるか?決定的な齟齬は当方には見当たらない。マックが嘘をついているなら、幣原も嘘をついている。逆に幣原が嘘をついているなら、マックも嘘をついていることになる。二人とも口裏合わせて嘘をついている?ならばいったいなんのために?」
幣原総理がペニシリンのお礼にマックを訪ねたのは昭和46年1月24日のことであったがマックと幣原の最初の会見は昭和45年10月11日で、この日マックは憲法改正を示唆した。
「マックは幣原に五項目の見解を示した。婦人参政権、労働組合の育成、自由主義的教育、検察・警察の改革、経済機構の民主化の五つである。
翌日の閣議で幣原が報告した。
「五項目の目的が達せられれば、必ずしも憲法改正の要はない。例えば婦人参政権にしても、選挙法の改正でコト足りる。」
この発言をもって、幣原は憲法改正なんぞ考えていなかった、いわんや「戦力放棄」など念頭になかったとする論者がいる。これは当たらない。
幣原が大命を拝した日から、すでに腹中に抜本的改革案を宿していたことは前に見た。すなわち、
「国民が子々孫々、戦争に引きずり込まれることのないよう、憲法の根本的改正によって、国民の指導権(主権在民)を強化する。」
象徴天皇制と戦力放棄−−二つをすでに腹蔵していた、と当方は見る。(p.72)
さらにもうすこし読み進めよう。
「マックが示した基本方針五項目に「戦争放棄」はない。六日後(1946年1月7日)、アメリカ本国からマックのもとに国務省訓令が届いた。日本の憲法改正につき、アメリカ政府の方針を示す。「SWNCC228」と呼ばれる。多項目にわたるが、日本の非武装化、すなわちのちの九条を思わせる項目は存在しない。むしろ軍隊の存在を前提に、
「天皇は軍事に関する一切の権能を剥奪される」
とある。つまり「軍事」の存在を予定した。これと前後して「日本非武装化条約案」が連合国の間で進行していた。国務長官の名を取り「バーンズ条約案」と呼ばれる。つまり『非武装化』を憲法に盛り込ませるのではなく、条約によって日本を非武装化する。憲法へ盛り込ませる意識は、さきのマックの証言を見ても、全くなかった。ために幕僚らは、のちにマッカーサー三原則を手渡され、そこに「戦力放棄」を見て驚くのである。」(p.73)
以上長々と堤の考えを見てきた。同氏の著書にはこの他にも注目すべき点が見られるが、ほぼ論点の大要は引用できたようなので、あとはお読み下さる方のご判断に委ね-たいと思うが、入手した幣原伝には枢密院での幣原の演説などがでているのでこれを紹介して終わることにする。
昭和21年3月20日枢密院非公式会合での幣原の見解表明
「戦争放棄は正義に基づく大道で、日本はこの大旆をかかげて国際社会の原野をひとり進むのである。・・・・・原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促したが、今後、更にこれに幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も発明されるであろう。今日のところ世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲しているが、他日新たなる兵器の威力により、短時間のうちに交戦国の大小都市悉く灰燼に帰するの惨状を見るに至らば、その時こそ諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるであろう。その頃は、私はすでに命数を終わって墓場の中に眠っているであろうが、その時、私はその墓石の蔭から後ろをふりかえって、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたい。」
ついで憲法改正案が第九十議会に提出されたときには、幣原は吉田内閣の国務相となっていたが、貴族院において(昭和二十一年八月二十七日)次の如くその所信を述べている。
「改正案の第九条は戦争の放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的役割を占むることを示すものである。今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、ある範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするがごときは、過去における幾多の失敗を繰り返す所以であって、最早わが国の学ぶべきところではない。文明と戦争とは結局両立し得ないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまづ文明を全滅することになるであろう。私は斯様な信念をもってこの憲法改正案の議に与ったのである。」(p.694)
外交官としていろいろの場面に対応してきた老練の幣原の言葉は今読んでも宝石の如く燦然と輝いている。次世代の大規模戦争が原子エネルギーによる凄惨な悲劇をもたらす危険を忘れるわけにはいかない。
ラッセル・アインシュタイン宣言が公にされたのは1955年であった。