3.三高私説

思い返せば、三高時代の一番大きい収穫は、一見無駄な事、遊びの持つ効用を後年一生を通じていつも頭の片隅に置かせてくれていたということだろう。三高時代は立ち止まって自分をじっくり眺め、考える時間−いわばモラトリアムの時間−であった。同年代で専門学校に行った連中は、それぞれ卒業すればすぐに使いものになる専門教育を詰め込まれていたのだから、三高の三年というものは一言でいえば壮大な足踏みの時間であり、すぐに役に立たないという意味では“無駄な”“贅沢な”時間なのであった。ギリシャ語のscholeという語はschoolの語源であるが元々“ひま”、いかようにでも自由に使える時間という意味だ。暇だから思索し互いにディスカスもするのである。そこから何かが生まれた。この時間が私たち卒業生のその後の生き方の原型を造ってくれた。現代の学校には欠けてしまったものの一つである。早川崇(昭和12文甲)氏は「つまり人間形成において、従来の価値を一端否定するという段階を経て、今度は改めて、本当のものを自らの自主性において、把握していくという課程として、高等学校がある。ナンバー・スクールはみな同じである。この非連続というか、一度価値を否定して、更に大学を経て、社会人に入っていくという、その課程が貴いのであると、私は思っている。」と述べている(「寮歌は生きて居る」p.6)が同感である。

しかし、同じ三高卒業生であっても時と共に三高は流れ動いているから、それぞれの時代の卒業生が異なる印象を抱くのは当然である。

私は終戦の年の入学で、入学と同時に7月19日大阪桜島の住友伸銅に学徒動員され、7月24日空襲にあったが奇跡的に命長らえたクラスである。8月15日は新しい動員先の話が有ると言うので登校したら、どうやら戦争は敗北の中に終わったらしいという状態に直面した。運動場に集った私たちを前に生徒主事であった大城富士男教授がフィヒテの”ドイツ国民に告ぐ”を引用されながら一場の演説があった。第一次大戦で敗れたドイツ国民が再興していく時の精神的な気構えの話であった。

何しろ卒業後50年余を経て、記憶も怪しく、この話をはじめ、いろんな誤りを犯していることだろうが、私の三高を描いていく。

私は京都出身だから寮に入ったことはなく、住み込みと通いほどの違いがあって、どちらかと言うと生粋の三高生活を送り、三高にどっぷり浸かっていたと言うよりも、多少外から眺めていたような三高生でもあった。それでもどの時代かに毛色の違う三高生活を送ったとしても、恐らく共通した何ものかを受け取って卒業していったに違いない。京都は今も学生の街だが、これも元はといえば1889年(明治22年)第三高等中学校---三高---が京都に移転してきたことが、広く全国から学生を京都に集める糸口となった。京都の人の三高生に対する愛情と尊敬の気持ちは深く、われわれの時代でもなおその気持ちには変わりがなかった。出世払いで一流の料亭に乗り込んで楽しんだ生徒もわれわれの先輩には居たのである。

入学してまず驚いたのは、私の中学時代4年くらい上の学年に居たKさんが、まだピッチャーとして三高に在学しておられたことだ。普通中学5年あるいは4年を終わって入学するから、17,8才なのだが、私の在学中にも奥さん子供もあるという生徒も居たし、裏表6年は在学できたから三高生活を楽しんでいる生徒もずいぶんいた。裏表6年でも卒業せず規則上は退学になる場合でも、校長に嘆願すればおられるのだという話も聞いた。

当時の高校は理科と文科に分かれていて私は理科甲類に入学した。もっとも卒業時にはこの甲類という語はとれて、私は理科の卒業生である。甲類というのは英語を第一外国語にし、乙類はドイツ語、丙類はフランス語が第一外国語であった。甲類は大学理学部・工学部へ進学を予定するものを主とし、乙類には将来医者になろうとする生徒が多かった。しかし、理科を出ても大学では文学部に行くという生徒も結構あった。大学に行ってから勉強しない奴は駄目、三高で勉強ばかりする奴も駄目、理甲の生徒は外国語(英・独)と数学さえやっておけば良いということであった。事実学校では誰も勉強はしていないぞという顔ばかりだった。

市原道三君などは朝早く学校にきて、クラスメートとひとしきり雑談を交わして、授業が始まる頃には”映画見てこう”と飛び出していく。二十歳前でも酒、タバコは自由だった。風呂へ一ヶ月も入っていないという生徒もずいぶんいた。弊衣破帽は高校生の象徴であり、すべて日常的な常識の世界を離脱して、本元的なことに取り組もうということなのだろうが、これも一種の三高生の特権的なお洒落ではあった。

下駄はこのごろは見かけない太い鼻緒の朴歯下駄、校舎内でもカラコロと闊歩するのが普通だったが、私の頃は陸士、海兵からの終戦に伴う転入生がおり、完全に三高に同化するものもいたが、やや普通の三高生と違った雰囲気を持ったり、行動をするものもいた。概してまじめで校舎内では下駄を脱いで手に持ち裸足で歩いたり、軍服を依然として着用していたりで、勉学の徒としてはまじめであった。しかし我々は多少敬遠気味に「あいつはゾル(Soldat:兵隊)だからな」と話し合うこともあった。当時は”デンケン(denken)”せよと先輩たちから常に聞かされた。デンケンというのはドイツ語の思索するということである。各界で働いてきた私の友人を見ると、生涯、デンケンしてきたものが多いが、三高以来の慣習であろう。三高には自由寮があり、戦争中の動員先の寮でも自由寮の自治体制は守られた。桜島への動員先で1週間ほど寮生活を私も経験したが、ここでも上級生が部屋にやってきて、議論をふっかけ、この本を読んでおけ、また議論に来るというのであった。

学校が始まると"自由の鐘"が始業を告げた。第一高等学校(一高)の“自治”に対して“自由”が誇り高き三高の標識であった。時代が終戦後の解放と自由謳歌の時代であったこともあって、学校の拘束は全くなかった。私の学んだ中学校は、軍からきた配属将校が、朝礼の時には校長のそばに立ち、生徒の態度が悪いと飛び降りてきて殴るという風であり、校長も戦争に協力的であった。軍から募集割り当てが来る予科練への志願にも、校長が積極的に協力していた。戦後復員した生徒の中には校長を殺してやると息巻くものもいたくらいだ。生徒の方も三高や京工専(現在の京都工芸繊維大学)を志望する私たちは愛国者ではないと軍の諸学校に進む連中から、軽蔑されていた。京都一中(現洛北高校)からきた級友に、三中とは対照的な三高の自由な雰囲気を話すと彼は、京都一中時代とそれほど変わらないといった。一中の歴史は三高の歴史と重なるところがあるから、戦争中でも自由の空気が呼吸できたのであろう。伝統の重みである。

あの戦争を経過しているのに、“自由”がなぜ三高に不滅であったのかは在学中も卒業後も、長く私の心に引っかかる疑問であったが、この“自由”は折田先生がアメリカで呼吸され、そのまま帰国されてから30年の長きにわたって信念を持って実行育成された正真正銘の“自由”なのであった。このことは、板倉創造先輩が同窓会誌上に発表された検証に接してはじめて納得できた。同窓会誌に発表された論考は、その後一冊の本「一枚の肖像画−折田彦市先生の研究(三高同窓会(1993)発行)」に纏められた。

わたしにとって、もっとも印象深いのは、生徒の自治組織の中核、総代会の権威である。生徒にとって重要な問題は生徒総代を通じて総代会で論じられ、よく急に生徒大会が開かれた。生徒大会は大正天皇の即位に際し、使用された建物の建築資材を利用して建てられた新徳館で開かれた。新徳館はいわば講堂であった。生徒大会は当時学校当局からおそらく常に異議なく承認されていたものと思われる。先生方も多くは卒業生であったから、生徒大会に先生方の中からも一弁士として演説に参加される方があったように記憶する。

戦後見られた公職追放、戦時中の責任追及の風潮が影響しているのであろうが、三高の諸先生方への責任追及論に対し、入学当時の前田校長は再建への展望の上で「諸先生方の戦時中の行為についての責任は、すべて私が負うから皆さんは安心して今後の再建に努力して下さい」と語って退任された。その後に落合太郎氏が校長としてこられるといわれるようになって、生徒の中に生徒自身で校長としての適不適を審査し、選任しようという動きが出てきた。いろいろの情報が収集され、その中には落合さんはデカルトの『方法序説』の翻訳者として著名であったが、実はご本人の翻訳でなく門下の方が訳されているというものもあった。そういうことは学者としてあるまじきことで、まして三高の校長として不適当ではないかというので、生徒の代表として総代がいわば面接に行った。その結果校長として迎えることになり、一件落着したのではあったが、生徒主催の新校長歓迎大会でもまだ余波が残っていて、落合校長反対演説を壇上に駆け上がって堂々と始めるものがあり、制止されることもなく続けられた。

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