海上史論文室
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16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について
(その3)



(2)倭寇活動への参加の諸形態


<1>客兵の参加

 客兵とは反乱などの鎮圧にあたって、他の地方から動員されてくる兵士を指す。これについては『籌海図編』巻十一・経略一に詳しい説明があり、広西の狼兵、湖広の土兵、河南兵、鉱夫、打手、北方兵、僧兵、福兵・ショウ{シ章}兵、坑兵などが列挙され、それぞれに長じた技を持ちそれが「倭寇」鎮定に利用されていたことが知られる。特に広西の狼兵部隊の活躍については『倭変事略』等にも詳細な記述があり、戦力として大いに活用されていたことがうかがえる。

 しかし一方で官憲においてこれら客兵に対して警戒し、危険視する意見も少なくなかった。特に狼兵(チワン族?)や土兵(ミャオ族など)といった少数民族の戦力動員については「夫れ苗を以て倭を攻める、なお毒を以て毒を攻めるがごとし。軽しく用いるべからず、また久しく用いるべからざるなり」(『籌海図編』調客兵に載る都御史章煥の意見)といった、民族的偏見から来るとも思える警戒感が見え隠れする。また他地方から来た客兵が江南の軍民とトラブルを起こし「婦女を淫し貨物を劫し良民を殺す。かくの如ければ則ち客兵の乱は倭夷と等し」(同上)といった事態も懸念、あるいは事実として起こっていたようである。

 いくつか挙げられている客兵動員の弊害の中で、徐宗魯のいう「客兵の附党」すなわち「倭寇」鎮圧にきたはずの客兵が「倭寇」側に参加してしまうという事態も確かに存在した。特に警戒されたのは福建から動員された福兵・ショウ兵で、『籌海図編』の客兵附録には「嘗て水戦を習う間に、その内多く海寇に従い奸利を行う者なり。多く海寇に習い闘う所諸兵中において最たり。特に令を知らず、調するところの者は若干のみ」 とあり、その水戦における戦闘力を利用しつつも、彼らが「海寇」と深く関わる者たちであることから警戒視していたことをうかがわせている。これら福建方面の客兵たちが実際に「倭寇」側と内応した実例としては嘉靖33年4月の孟家堰の戦闘が挙げられる。『倭変事略』によればそれは以下のような経緯をたどった。

  (盧ドウ{金堂}) は徽商の舎に宿る。一ショウ兵、銀ハイ{木否=杯}を竊め、盧、橋に斬らしめ以てとなう。士卒皆悦ばず。軍中にショウ兵有り、遂に盧を怨み、乃ち陰かに賊と通じ、先に伏を設けて陣に臨んで佯って潰せしめ、且つ賊の撃殺を助けんとす。兵の孟家堰に至りて、河を夾みて戦う。賊、我軍を誘いて伏内に入らしめ、四面攻殺し、掌印指揮李元律、処州薛千戸及び千総劉大仲、皆立ちどころに之に戦死す。盧に馬の能く渡江する有り、一家丁が馬を控え、盧、附馬して渡り、免を獲る。…(中略)…議する者謂う、孟家堰の役、戦の罪に非ず、ショウ兵の己を売るに由ると。倭党中に多くショウ人の有る故に縁るなり。

 盧ドウは福建出身の武官であり、双嶼攻撃にも参加した当時の有力指揮官の一人である。彼の陣営で盗みを働いたショウ兵があり、これを軍律において処刑したところ士卒とくに同郷の兵士たちが怨みを抱いて「倭寇」側に内通し計略を授けて官軍を打ち破らせたという。この文の末尾にあるように、この孟家堰の敗戦理由について「議者」は戦闘における失敗ではなくショウ兵が指揮官への怨みから「倭寇」に内応したことにあり、しかもそもそもその「倭党」中に同じ土地の出身であるショウ人が多いためにこうした事態が起こったと分析している。この文のみからでは判然としないところもあるが、これらショウ兵も単に「倭寇」側に内応しただけでなくそのまま「倭寇」集団に合流した者がいたとみるべきだろう。

 同じ『倭変事略』同年5月28日の記事には官軍の攻撃を受けて追い詰められた「賊」が巡司の後堂に入って抵抗し、張参戎が「部下四ショウ兵」に説得させようとしたところ彼らが賊と約して偽ってこれを逃がしてしまったという事件が書かれている。この「四ショウ兵」は間もなく賊の賂を受けていたことが判明して斬刑に処されたが、ここでも『倭変事略』の作者は「賊中に故よりショウ人多し。ショウ兵を用いてこれを勦す、焉んぞ事をフン{イ賁}とさざるを得んや」とショウ州人の客兵を用いることの危険性を指摘している。

 ただし徐宗魯の言うような「客兵の附党」の明確な事例はこの二件しか史料中には見出せない。しかもその具体的な規模も不明であるし、「倭寇」にも多く含まれていた福建人、とくにショウ州人の客兵以外で同様のことが起こるとはやや考えにくい。「客兵の附党」は事実としてあったであろうが、それはあくまで「倭寇」の急激な拡大と変質という大きな流れの中での小さな一要素であり、徐宗魯が強調するほど大きな現象であったとは考えにくい。


<2>奸細・土寇

 「奸細」とはスパイあるいは内通者といった意味合いで使われる言葉であり、大明律などでは周辺異民族や外国と内通する者、あるいはその行為を指して使用されてもいる。明末の混乱期に全土に「流賊」が横行した際、その手先となって攻撃先の城市で内応や工作活動をした「奸細」の実態については、吉尾寛氏による多くの実例を検証した研究(4) もある。

 江南地方を襲った「嘉靖大倭寇」においても「倭寇」の手先となって各種の工作を行う「奸細」の存在が史料中に散見されるが、その活動形態は吉尾氏が検証された明末の「流賊」のそれに近いのではないかという印象を受ける。

 鄭若曽『江南経略』巻二・崑山県倭患事蹟には「知県祝乾寿大いに奸細を城中に索めこれを獲る」(嘉靖33年4月)と題する記事があり、以下のような経緯が記されている。

  賊至りて三日、城郭を犯さず。人皆これを疑う。十六日、諸生の夙に興る者有り、馬鞍山嶺に白衣の人二を望見す。皆白扇を以て指揮す。其れ奸細を為すと意うなり。人を遣りて遍くこれを索めるも得ず。卒にベツ{鼈の魚}殻洞中に之き、執えてこれに訊するに曰く、未だ至らざる時、先遣の十輩を城内に伏せ、十五日を期して火を放ち夫の下城を誘い、間に乗じて登らんとするも、雨に因りて約を改む。今夕の白は吾の暗号なりと。祝公亟めて令を下し、およそ来歴不明の人、悉く獄に下す。枉有るを慮り、獄卒に命じて善くこれを護る。
  …(中略)…
  是の夕、奸細火を放ち、縛を受ける者八人。始めて擒える者は尽く奸細に非ざるを知る。奸細は或いは橋下に伏せ、或いは樹杪に棲み、或いは菴刹に隠れ、或いは林墓に潜み、夜聚まり暁に散じ、其の踪常無し。西倉の脚夫五十人、自ら相盟誓して要路に分伏し賊を俟ち、奇行する者これを擒う。劇賊一人を得る。祝尹、百方もてこれを誘うも終に言わず。肢觧し以て狥う。既にして賊の流矢を得る。其の翎の細書に云う、「陸成已に殺さる、阿荒仔細」と。乃ち復た大いにこれを索む。数日、阿荒を濠間に得る。蓋し即ち県傍に狗を屠る者なり。来たりて已に三年…。


 この記事に現れる「奸細」を整理すると、(1)馬鞍山嶺から作戦中止の暗号を送った二人(2)城内に潜入し放火した先遣の十人(3)脚夫らに捕われた「劇賊」一人=恐らく「陸成」(4)矢文で仲間と連絡をとろうとしていた「阿荒」、と分けられる。彼らの活動からすれば恐らくこれ以外にも多くの「奸細」が崑山県城を攻略するべく活動していたことがうかがえよう。

 注目されるのは彼ら「奸細」が橋下、樹杪、菴刹、林墓といった人目につきにくい各所に潜伏し、夜間に集合したり白衣を来て暗号を送ったり矢文を放ったりと様々な手段で密に連絡をとりあう、神出鬼没ともいえる隠密活動ぶりである。こうした活動をするからには当然彼らは「倭寇」の「奸細」とは言いながら現地の事情に相当に詳しい人間でなければならない。彼らはもともとこの地域の住民ではないにしても「阿荒」のように三年前からここに居ついてある程度定着していた人間であったと思われる。この「阿荒」にしても県傍で狗を屠っていたとあるが、「大倭寇」の発生する三年も前から「倭寇」の奸細となる目的でこの崑山に流れてきたものとも思えず、本来「倭寇」と深い繋がりのある人間であったのかどうか疑問を持たれるところである。

 先に挙げた吉尾氏の明末流賊の「奸細」に関する研究では、それら「奸細」の多くは流賊の攻略目標となる現地の人間であり、彼らが抱える貧窮などの諸問題を流賊に呼応することによって一挙に解決しようとしたものだと見なされている。この崑山県への「倭寇」のケースにおける「阿荒」や「陸成」といった「奸細」たちの素性はほとんど明らかではないが、彼らもまたこの地域において何らかの不満や問題を抱えて連携をとっていた集団であり、前年来の「倭寇」の襲来に呼応する形でこうした「奸細」活動を行ったものとみてよいのではないだろうか。

 「大倭寇」の開始二年目となるこの嘉靖33年にはこのほかにもいくつか現地の住民が「倭寇」に協力したと見られる活動を確認できる。例えば『倭変事略』の同年6月14日の記事では「太倉・劉家河の寇」が「約千余」の規模で儀亭に到来したことを記して、

  譚姓の家有り、米万石余を貯す。賊、居民を諭して石ごとに四銭を価す。民、往きて羅し、約の如くす。是に由て旬日にして米売尽くす。

 と、「倭寇」集団が住民に金を払って有力者の家の米を奪わせこれを買い占めていたいう事実をさりげなく記している。これは必ずしも「奸細」活動とは見なせない事例であるが、現地住民が「倭寇」という事態に被害者になるどころかこれに呼応・協力して利益にありつこうとしていた例として注目されるところであろう。またこの集団が「千余」というそれまでにあまりない大規模な集団であることも、これに参加する現地の人間が存在したことを予想させる。

 同じ『倭変事略』のこの年の末の記事では「其れ沿海の窮民、また夜におかし倭状を冒して劫掠す。海寇未だ除かれず、土寇継いで作る」と記しており、沿海の貧民の中に「倭寇」の姿を借りて(こが具体的にどのような「倭状」なのか不明だが)便乗ともいえる劫掠活動をする者があったことを示している。こうした「土寇」については『江南経略』も巻一・兵務挙要の中で「土寇」という項目を挙げて「凡そ海賊一起すれば、陸地の賊、機に乗じて竊かに発す」とその冒頭に記している。こうした「土寇」はあくまで「倭寇」「海寇」に便乗した活動と見なされているが、中には実際に「倭寇」に糾合されていった者も少なくなかったのではないだろうか。

 『籌海図編』の各倭変紀や『嘉靖東南平倭通録』にはまだ数十から数百人程度の段階の集団を率いる者として「二大王」「八大王」「劉鑑」といった「賊首」の個人名(あるいは呼び名)が記されていることがある。しかしその名前だけを記してその出自などに説明は無く唐突な印象を受ける。あくまで推測に過ぎないが、これらはもともとこの地域では名を知られていた塩徒や山賊の賊首であったものが「倭寇」に加わっていったものであったかもしれない。

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(4)吉尾寛「明末における流賊の「奸細」について」(名古屋大学東洋史研究報告書7、1981)