ニュースな史点2002年5月13日
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◆史点inロンドン
私ごとではあるが、僕は2002年の5月1日から5月8日にかけてグレートブリテンオヨビホクブアイルランドレンゴウオウコクという長ったらしい名前の国に行っていた。仮にここではA国としておこうか、って英国ですね、それは(笑)。最初の三日間はロンドンから高速バスで二時間ぐらいかかる田舎の町で過ごし、その後はロンドンに移動して4泊5日を過ごした。この間も、僕はTVだの新聞だので何か史点ネタを探そうと努力はしていたのだが、なにせ全部英語の世界。新聞の方は読めるといえば読めるんだけどTVの英語はヒアリングが大変で。TVのニュースで明白に分かったのはフーリガンと騎馬警官が衝突している映像ぐらいだったかな(笑)。パレスチナ情勢は相変わらずで
(ロンドン滞在中にまた自爆テロで大勢人が死んでいた)、日本のニュースなどはまず目にすることが無い。
ロンドンの宿はTVが壊れていて(笑)、直せとか部屋変えろとか言うのも面倒くさかったのでTVによるニュースはほとんど見る機会が無かった。新聞については地下鉄の中に置き忘れた奴などを拾って読んでいたものだ
(日本とおんなじことしてるなぁ…)。
あちらの新聞は大衆紙と高級紙があって見出しはそれによりいろいろなのだが(大衆紙だとまだダイアナ妃関連ネタがトップだったりした)
、史点的視点としては一面にフランス大統領選の話題が多いのが目に付いた。そう、前回書いた極右のルペン
候補が決戦投票に残ったことがEU諸国ではやはり最大の関心事なのだった。決戦投票にあたってはもともと
シラク現大統領を推している保守派は当然として、「極右を許すな」と社会党・共産党系の左派も結束して「シラク投票」を呼びかけたため、決戦投票はやる前からシラク圧勝が確実視&当然視され、勝負的関心はまるで呼んでいなかった。これがホントの「シラクムード」だ、なんちゃって(^^;
)。
で、結果はシラク候補が得票率82%の圧勝。「極右台頭」というの事態に投票率も80%にはねあがっていた
(前回時は最低の71%だった)。しかしその後の投票動向調査でルペン候補がこれまで極右に対する抵抗感の強い地域などで新たに票を獲得するなど、むしろ決戦投票においてその勢いを増していたという側面も指摘されている。もちろんことは単純ではなくEU統合強化への不満やらグローバル経済に対する農家の不安感などがあえてシラク以外に票を投じたというところもありそう。
この結果の直後、ロンドンの地下鉄駅の売店に立ててあった新聞一面に「右翼政治家が殺された」うんぬんという見出しがあるのが僕の眼に飛び込んできた。「まさかルペンが殺されたんじゃあるまいな」と思ってよく見れば殺されたのはオランダの極右政治家であった。まぁなんやかんやとEU共通の政治的関心事は「極右」ということになるのかも。
ロンドン名物国会議事堂の前には「反戦」「イラク爆撃反対」といった横断幕やプラカードがゴチャッと固めて置かれていた。そういやぁこの国はEUの中にあってアメリカと一番つきあいのいい国なんだよな。ついでに有名なダウニング街十番地、首相官邸
(ご存知の方も多いだろうが、外見は普通の住宅地みたいなところなのだ)にも史点特派員として「突撃取材」を試みたのだが、やっぱり一般人はダウニング街そのものにも入れてもらえないんですね。50mぐらいしか近づけなかったな。
その後ロンドン市内をぶらついていたら、繁華街でイスラエルの国旗を掲げたデモ隊にも遭遇した。「平和を!」「テロ反対!」といったプラカードを掲げていたが、僕などはイスラエルの旗を掲げてデモやってる時点で嫌気が差しちゃったもんですけどね。その後、なにやらこのデモ隊とひと悶着やったらしいいかついアンチャン(?)たちがドドドッと裏通りを駆け抜けていくのを目撃。さらにその少し後に繁華街のゴミ箱に先ほどのデモ隊が掲げていたプラカードが、イスラエルの旗の中心にある「ダビデの星」をブチ破られた状態で捨てられているのを発見。今回の旅行において唯一気分の悪い思い出となった。
僕らがぼちぼち帰国だと行動を起こしていたその頃。「史点」取材陣の虚をつく形で日本がらみの大事件が起こっていた。そう、瀋陽の日本領事館に北朝鮮からの亡命を求める人々5人が駆け込み、中国の武装警察に引きずり出されたあの一件だ。帰国の途上であり帰国後もバタバタしていたのでこれに関する報道はかなりあとからまとめて見ているのだが、それにしても正直なところ日本政府としては「迷惑な話を持ち込んでくれちゃって」という気分でしょうな。まるで駆け込み寺方式
(日本の江戸時代に縁切り寺ってのがあって離婚希望の女性がそこへ駆け込むと離婚成立だった。なお、本人の体が駆け込まなくても草履を門内に投げ込めば「駆け込んだ」ことになったらしい…まるっきり余談か) の亡命には批判もあるようだし、バッチリ撮影までしているあたりにも「アピール行動」という性格が見えちゃってあまり感心しない。まだ不透明な部分があるとはいえ領事館の職員たちの対応も同じ日本人としては「あ、おれもああなりそうだなぁ」となんとなく理解できちゃうところもあったりする。なんか気がつくと日本が一番悪者にされている観すらありますな(笑)。
まぁ中国側もかなりムチャな強弁をしているところからすると(「館員の安全を考えて踏み込んだんだから条約違反ではない」「98年に日本の警察もうちの大使館に入ったじゃないか」etc)
、内心のところマズったとは思っているんだろう。そんなわけで5人の身柄は結局亡命希望先へ送ることになるんでしょう。一番貧乏くじ引かされるのが日本というところで(笑)。
この事件の対応をめぐり、名は体を現さない人・政界代表の亀井静香ちゃんが
川口順子外務大臣の辞任を求める発言を行って小泉首相に揺さぶりをかけていたりする。なんか最近妙に「政局」ムードが流れているような…
◆ついに解放スーチーさん
僕がイギリスへ出かける直前に「近々何か動きがあるな」という気配を見せていたのがミャンマーだ。4月末の段階で「
どうやらアウンサン=スーチーさんの軟禁が解かれるらしい」という話が流れ、案の定僕の帰国の直前に解放が実現していた。スーチーさんを軟禁しているのはミャンマーの軍事政権だが、その後見人的立場であるマレーシアの
マハティール首相がミャンマーの孤立化を避けるよう働きかけたところがあるらしい。それと、思い返せば「史点」3月17日付で
ネ=ウィン元大統領の親族が「クーデター未遂」で逮捕されるという、ちと不可解な事件があり、これがミャンマー軍事政権内で何か静かな変化が起こっているんじゃないかと僕も書いていた。この事件の直後にEUやら国連やらの代表団がミャンマー入りし、スーチーさん側と軍事政権側の対話を促しており、それがここに来て形となったということであるようだ。
さて、では歴史のおさらい。
スーチーさんというのはなぜか南アジア・東南アジア圏で多く見られる「大物政治家をお父さんに持つ人気女性指導者」
の一人。日本だと田中真紀子さん…よりはずっと大きい影響力を持っているんだろうな。スーチーさんのお父さん、
アウン=サンさんというのはミャンマー(ビルマ)独立運動の志士で第二次大戦時に日本に赴き訓練を受けて、太平洋戦争が開始されると日本軍の先棒を担ぐ形でビルマからイギリス勢力を追い払った。ところが間もなく日本軍を侵略者とみなし「反ファシスト人民自由連盟」を決し、今度はイギリスと手を組んで日本軍を追い払う。しかし戦後の真の独立にいたるドタバタのなかで1947年7月に暗殺されてしまっている(享年32歳)。まぁとにかく短くも波乱に富んだ革命家によく見られる劇的な人生である。
こういう人の娘ということでスーチーさんはビルマ→ミャンマーの民主化運動の指導者・シンボルとして担ぎ出されていった。1988年にネ=ウィン政権の崩壊とクーデターによる軍事政権が成立すると、スーチーさんは「全国民主連盟」を結成して民主化運動を進めるが翌89年7月に軍事政権によって自宅軟禁させられてしまう。1990年の総選挙で「全国民主連盟」が圧勝するが、軍事政権側はこの結果を無視して民政移管を拒絶する。これに国際的な非難の声が上がり、1991年のノーベル平和賞はスーチーさんに贈られることになった。1995年にいったん自宅軟禁を解かれたが、2000年9月からまた軟禁状態に。で、ようやく解放ということになったわけ。
軍事政権が軟禁解除に踏み切ったことについてはいろいろと見方が出ているが、やはり国際的孤立化による経済状況の悪化を切り抜けることが最大の目的だろう。また「全国民主連盟」がすでに再起不能の状態にまで追い詰められており、スーチーさんを自由にしたところで政権交代はあるまいとタカをくくっているじゃないかとの見方がある。
ところでこの「スーチー解放」に意外なほど素早い反応を見せた国があった。そう、我らが日本である。スーチーさんが解放された当日の5月6日に
川口順子外相が、「民主化と国造りに向けた支援」との観点から、同国のバルーチャン水力発電所の改修への援助を実施するとの声明を発表している。この発電所と言うのがそもそも日本の援助で1960年に建設されたものだそうで、ミャンマーの電力の4分の1を担うとか。10日に調印された文書ではまず6億2800万円の無償援助が日本からミャンマーに送られるとのことで、今後数年かけて30億円余りを分割でお払いするとのことである。
新聞の記事によるとこの援助話、昨年4月の段階で「軍政下でも人道支援をしよう」と持ち上がったのだが、欧米諸国やNGOの反発で見送られていた経緯があるとか。「スーチー解放」を受けて「それっ」と話を進めちゃったわけであるが、まだミャンマーがどうなるかわからんところもあるのに欧米諸国に比べて妙に素早いその対応には「?」マークを頭に浮かべる人も多いとのこと。
◆第一次大戦の極秘作戦
なんかよくある歴史の「IF小説」みたいな話だなぁ、と思ってしまった。
5月8日発売のドイツの高級週刊紙「ツァイト」が報じたところによると(それを報じた共同通信の記事によると)
、ドイツの公文書館から19世紀末に当時の皇帝ウィルヘルム2世が、アメリカ本土への
侵攻計画を立てていたことを示す資料が発見されたという。もちろん実行はされなかったのだが、やっていたらアメリカは外国の軍隊を本土に迎え入れての戦争を経験していたことになる。そしたら大幅にその後の歴史は変わっていたろうなぁ…
くだんの計画は1897年に立案が命じられ、1900年に完成していたという。そのころ世界は何をやっていたかというと、まさに「帝国主義時代」の真っ最中…というか終盤に近づいていたかな。最強国・イギリスは南アフリカでブーア(ボーア)戦争を戦うなどアフリカ縦断政策を推し進め、フランスもアフリカを横断する形で征服を行い、英仏両軍がその交差点で衝突する「ファショダ事件」が起こったのが1898年。アジアや太平洋、カリブ海などでも分割競争が繰り広げられ、英仏だけでなくドイツ、そしてアメリカも植民地獲得競争に参入していった。アメリカがスペインを破ってキューバやフィリピンを支配下に置くのもこのころ。日本も1894年に日清戦争を戦ってから帝国主義的な勢力拡大を目指すようになり、同様のロシアと1904年から日露戦争を戦うようになるわけだ。まぁそんな時代というわけ。
こんな状況の中で英仏に比べると統一国家形成に一歩遅れて植民地獲得競争に出遅れた形のドイツ帝国だった。ドイツ帝国は「鉄血宰相」
ビスマルクが作っちゃったといってもいい国だが、ビスマルクは2代目皇帝のウィルヘルム2世には疎まれて1890年に辞任している。うるさい爺さんがいなくなったとばかりにウィルヘルム2世は積極的な「世界政策」
(この語も彼の発明らしい)を推進して積極的に植民地獲得競争に参加し、やがて英仏と対立、結局第一次世界大戦を引き起こすことになって
(まぁ彼の政策だけが原因じゃないでしょうけど)ドイツ帝国を滅亡させる結果となってしまう。
とまぁこんな背景を頭に入れた上で見てみると、このドイツ軍のアメリカ侵攻作戦は少なくとも計画自体は立てておくのが自然だろうと思えるものだ。当時のアメリカはぼちぼち強国となりつつあったとはいえ、まだまだヨーロッパ列強からみれば田舎の国という印象があったろうし。あそこをポコッと叩けば太平洋・カリブ海などに進出できるぞと思ったんだろう。
報道されたこの作戦の内容だが、艦艇60隻で10万人の兵士をコッド岬に上陸させてニューヨーク・ボストンなど主要都市を奇襲、アメリカ東海岸の中枢部を占領したうえでドイツに有利な講和条約の締結を迫るというものであったらしい。上陸作戦を立てた理由については
「アメリカ軍の士気や練度は低い」という分析を立案者がしていたとのことだ。
◆「ドラキュラ王国」独立宣言!?
ぼちぼち東ティモールが独立し、世界の国の数は192個となるわけなのだが、ここに来て「ドラキュラ王国」なる国が独立宣言をしてしまったとの冗談としか思えない話が報じられている。ところはドイツ東部のブランデンブルク州シェンケンドルフ村。
「ドラキュラ」といえばルーマニアが元祖なんですけどね。なんでこんなことになっちゃったのかはおいおいと。
「ドラキュラ」と言えば「吸血鬼」。黒いマントをはおった紳士の姿でコウモリたちを従え、牙をむいて美女の生き血を吸うというのがおなじみの姿だが、こうしたドラキュラ像を創作したのは19世紀末のイギリスの大衆作家・
ブラム=ストーカー。この本が売れまくってからそれを元ネタにした数多くの映画によりこうしたイメージが作り上げられていったのだが、実は「ドラキュラ」にはモデルとされた実在の歴史人物がいる。15世紀に生きたルーマニア(ワラキア)公国の領主・
ブラド=ツェペシュ=ドゥラクル(1431〜1476)という人物だ。まぁその生涯はかなり伝説的ではあるのだけど。
ツェペシュとは「串」を意味するあだ名で、彼が敵の捕虜や自分を裏切った貴族などを串刺しにして殺して楽しむ趣味があったからだと言われている。また「ドラキュラ」のルーツとなった「ドゥラクル」という名称は彼の父がオスマン・トルコと戦う「竜騎士団」の一員であったことに由来するのだが、ルーマニア語でこの「竜(ドラゴン)」を意味する「ドゥラクル」が同時に「悪魔」の意味ももつことがあるためブラド=「ドゥラクル(悪魔)」というイメージが付け加えられてしまったものらしい。
このブラド=ツェペシュが生まれた頃、ルーマニアはオスマン・トルコの攻勢に耐えかねてその臣従国となってしまっていた。そんなわけでツェペシュは少年時代に人質としてオスマン宮廷で過ごした時期もあるそうだ。その間に母国では彼の父と兄が暗殺されてしまったのだが、1456年に彼は母国の君主の座につくと、ただちに父・兄の暗殺に関わった貴族たちを「串刺しの刑」で処刑してしまっている。15世紀後半に書かれたドイツ語の民衆本では彼はドイツ系住民に対して残虐行為を行ったとされており、このあたりが後世ブラム=ストーカーが吸血鬼伝説と結びつけて「吸血鬼ドラキュラ」を創作し、さらに「悪魔城ドラキュラ」あたりへ影響を与えているような…あ?話が飛躍か
(余談ついでだがこれのPCエンジン版はドイツ語ナレーションだったなぁ)。
その一方でロシア語の伝説本ではその暴君ぶりも描きつつ彼のオスマン・トルコに対して勇敢に戦った英雄としての側もが描かれており、第二次大戦後には本国ルーマニアで民族の英雄みたいに持ち上げられるなど肯定的評価も無いわけではないようで。しかしトルコとの戦いは敗北に終わり、さらに貴族に裏切られてハンガリー王に逮捕され、12年間ブダ近くに監禁されている。晩年の1475年に釈放されルーマニア君主の座に戻ったらしいが、その際ギリシャ正教を捨ててカトリックに改宗したなんて話もある。まぁとにかく結構波乱に富んだ人生のお方であったようだ。
(参考文献:直野敦「ドラキュラ伝説の虚実・ブラド串刺し公」朝日百科「世界の歴史」第63号所収・1990)
さて、元の話に戻ると。
「独立騒動」の言い出しっぺはこのブラド公の末裔と名乗るオトマル=ロドルフェ=ブラド=ドラキュラ=プリンツ=クレツレスコ
氏(61)という実に長いお名前のお方(たぶん「史点」史上最長のお名前であろう)。彼はこの人口1200人ほどのシェンケンドルフ村でレストランなどを経営しており、村長らと結託して「ドラキュラ王国」の独立宣言をしちゃったのだった。ご本人はブラド公の紋章の入ったパスポートも作り、
「官僚主義とは無縁の税金の安い国づくりをする」と政策を掲げ、自ら元首である「国王」を名乗るなど、冗談にしてはかなり本気らしい。これに村長以下村の重役たちも同調して、村長が「王国大統領」
(国王と大統領が一緒にいる国ってのも…)を名乗り、副村長が「王国内相」を名乗っていると言うから面白い。
実はこの話には現実的な裏事情があるそうで。実はブランデンブルク州が町村の合併政策を進めており、このままだとこの村は周囲の7村といっしょくたにされてしまうのでありますな。この計画に反対する村の重役たちがドラキュラの子孫の話に乗っかって「独立維持」をアピールしているってことらしい。
元ネタにした共同通信の記事では、州政府側は「独立などもともと違憲だ。相手がドラキュラならこっちはニンニクを投げ付けてやるさ」
と動じていない、というオチがついていたが、記者がつけたオチと違うか。
日本でもこうした市町村合併を政府が推進していて、全国あちこちで合併ばなしがある。理由は簡単で地方自治体の数が少なくなった方が国から分けるお金が減らせるから
(笑。もちろんそれだけでもないけど)。僕が住む市も隣の町との合併話が90%ぐらいまで煮詰められているらしいのだが、さしずめこのドイツの話は僕の地元の出身者である
平将門の子孫が登場して「新皇」を称して町ごと独立宣言をしてしまうようなものだろう。なお、僕の地元の「○○音頭」には
「わしがお国で自慢のものは なんといっても将門さまよ 国を作った人だもの〜♪」という戦前だったら不敬罪ものの歌詞があったりする。あれ?なんでこんな話に(笑)。
2002/5/13の記事
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