ニュースな史点
2002年5月28日
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◆今週の記事
◆シンヨウに関わる大騒動
ああ、また更新をサボってしまった。最近すっかり隔週更新が板についてきているような…
前回の更新から二週間、日本国内のニュースのメインはすっかり「瀋陽領事館亡命事件」一色になってしまっていた。僕の帰国直前に発生した事件だが、その後ずうっとニュース番組(ワイドショー含む) この話題ばかりだったような気がする。とにかく次から次へと新情報が出るし、なかなか解決せずに話を引っ張りまくるし、登場人物も多彩なもんだから観客はグイグイと引き込まれてしまっていたのだった。案外みんな面白がってたのかもしれませんな(笑)。この事件を外務省の権威が失墜しただの何だのとコメントする人が結構いたが、もうとっくに失墜してるんだから、みんなおなじみの光景として楽しんじゃってたんじゃなかろうか。
事件の推移はいまさらここで書くまでもないだろう。というかキッチリ展開をまとめるのが困難ですよ、この事件は。不透明なところもまだまだあるし。個人的に気になったところなどつれづれなるままに書くことにしたい。
実は今回の騒動で僕が一番気になったのは他ならぬ福田康夫官房長官の次のコメントだ。
「外国政府の言うことと自国の政府の言うことのどちらを信用するんですか、という問題ですよね」
領事館敷地内への侵入について日本と中国の主張が食い違っていることに関して記者が質問した際の答えだ。こういう二者択一論で相手を黙らせてしまうというやり方はハッキリ言って感心しない。その後例によってボロボロと隠されていた話が暴露されていってしまいこの発言はますます空虚なものとなっていったのだが、小泉首相の「自虐的」発言と言い、安部晋三 官房副長官の「中国の拡声器」発言と言い、日本側のミスにツッコミを入れる日本のマスコミや野党に対する口封じ的とも言える批判が目立った。交渉中に身内からゴチャゴチャ言われてイライラしているのはよく分かるが、「日本政府の味方をしなきゃ非国民」みたいな言い方はやめてもらいたい。中国みたいに言論の自由が無い国じゃないんだから。やはり日本人は「大本営発表」の時代に懲りていて政府の言うことを素直には信じない体質が出来ているようで、これはこれで健全だと思うところもあるのだよね(まぁ中国人も政府の言うことを余り信用しているとは思えないが)。
それにしても役所と言うところは何か調査報告をしても、その後から取りこぼされた(意図的に取りこぼした)重要な事実がポロポロと出てくるものらしい。隠蔽をするならするであとからバレないようにちゃんと手を打つべきなんだが、そういうことをする能力すらないらしい(危険な忠告をしているな(笑))。最初のうちは中国側もかなり苦しい説明をしているように見えたのだが(98年の東京の中国大使館「侵入」の一件を持ち出したときなんかはかなり弱腰に見えた)、次第に日本側が下手な隠蔽をしていることに気づいたか、日本にとって不利となる新事実を小出しに出してきて一気に主導権を握ってしまった。
特に痛かったのは外務省の調査報告書ではまるで触れられていなかった、亡命希望者が領事館員に渡していたという「手紙」の件だな。ちなみに中国語では「手紙」はティッシュペーパーのことだ(っていきなり脱線) 。その手紙が英語で書かれていたので「読めなかったので返した」ってのには大笑い。よくよく下手な英語だったって可能性もあるが、何か物品を渡されるとややこしくなると思って返したってあたりが真相じゃなかろうか。領事館員がいかにこの件を面倒に思ったかというのはその重大事を報告書に書かなかったことでかえってよく分かる。
お父さんがあの終戦内閣の陸相で割腹自決した阿南惟幾であることも史点的話題であった阿南惟茂大使のいわゆる「阿南発言」、「亡命者が来ても追い返せ」と指示を出していたという話(表現についてはあれこれ言い訳しているが、煎じ詰めればそういうことで間違いない)は日本側から出た。この話を最初に聞いたとき、僕などは「これが事実だとしたら内閣が吹っ飛ぶぞ」と半分マジで思った。だって官房長官がああまで見得を切っちゃってるんだもん。しかしこの話、その後事実上事実(変な表現だが)と認められたようなものなのだが、内閣が吹っ飛ぶどころか一人の大臣も辞めていないし、亡命騒動そのものも中国側が拘束した亡命希望者たちを「人道的配慮」で第三国経由で亡命させてしまったことで「一件落着」の形となり(あの中国が彼らを「身元不明者」扱いで送り出した直後に「北朝鮮人」だったと確認発表をわざわざしたあたりは面白かった) 、政府としてはもうこの件については「棚上げ」にしてしまう格好だ。マスコミもちょうどうまい具合にワールドカップに没入してしまい、国民レベルでこの件は忘れてしまうおつもりらしい。大使らは何らかの処分がされるだろうが、結局はほとんどウヤムヤ。ただ小泉内閣の支持率は着実に下がり、不支持率は着実に上がったけどね。焦った小泉さんはダービーに出かけて久々のパフォーマンス。いっそのこと騎手に変装して出走していれば大受けだったろうに。
と、日本の悪口ばっか書いててもしょうがないので案外見落とされていた話を。
実は今度の一件で日本の外務省とさして変わらぬ対応を見せていたのがアメリカ国務省だったりする。亡命した5人は当初日本領事館の隣のアメリカの領事館に駆け込むことを予定していたとも聞くが(日本領事館の扉が常にちょっと開けてあったからそっちにしたとか…無用心なのか門戸が広いのか)、そっちに駆け込んでもひょっとするとさして変わらぬ展開だったかもしれない。
元ネタは読売新聞のワシントン発の記事(まぁたぶんこれにも元ネタ記事があるんだろうけど)。実は北朝鮮からの亡命を支援するアメリカのNGO「ディフェンス・フォーラム基金」があの5人の亡命者のアメリカへの亡命希望を訴えた手紙を事件の直前にアメリカ国務省の次官宛に電子メールとファックスで届けていたというのである。しかしアメリカ国務省はこの手紙を事実上無視してどっかにほったらかしてしまった。さらに事件後の17日にこのNGOメンバーたち5人がその次官の補佐役に面会して日本領事館に駆け込んだ5人のアメリカ亡命希望を伝えたが、この補佐役はまるで無言でまともな応対を見せなかったという。
業を煮やしたNGO側が23日に手紙の存在を公表すると、翌24日に国務省の副報道官が「省内を調べてみたら手紙がみつかった。ミスであった」という間抜けな発表を行って「遺憾の意」を表していた。それでも「手紙は正式な亡命申請ではない」とか、NGOメンバーとの面会についても「私的な面会でありコメントできない」と取材した読売新聞に回答するなど、なんだ、日本の外務省とさしてかわらねーんじゃねぇか、と何やら安心させられる(?)ドタバタをやっていたりするのだった。
正直なところアメリカ政府だって亡命者が駆け込んできて騒動に巻き込まれるのは迷惑なんだろうな。あの5人はアメリカ行きを熱望していたと言われるが、結局韓国へ行っているあたり、アメリカもこの問題をデリケートに受け止めていたことを示しているようにも思える。ここで中国との間にドタバタをやりたくないし、という空気もあっただろう。不思議と大きなニュースになっていなかったが、4月末から5月あたまに次期中国リーダーが確実視される胡錦濤国家副主席が訪米していて、ブッシュ大統領をはじめとする政権閣僚、経済団体関係者から大変なもてなしを受けていたりする(ついでに付け加えるなら日本へのあてつけみたいに真珠湾訪問をしたりしてるんだよなぁ)。この会談の際にブッシュさんが退任間近の江沢民国家主席を10月にテキサスの私邸に招いた(これまで招かれたのは英首相・露大統領・サウジ皇太子の3人だけ)なんてのも気になるところ。
◆192番目の独立国家
2002年5月20日。長い間インドネシアの支配を受け続けていた東ティモールはこの日をもって正式に独立を達成し、「東ティモール民主共和国」なる、世界でも192番目の「国家」としてスタートを切った。 東ティモールの独立記念式典は19日の夕方から始まり、アナン国連事務総長やクリントン前米大統領、ハワード・オーストラリア首相、旧宗主国・ポルトガルのサンパイオ大統領、そしてこれまで支配してきたインドネシアのメガワティ大統領など約90カ国からの要人が出席して盛大にとりおこなわれた。なお、日本は杉浦正健外務副大臣が日本代表として出席している。実は金銭的には日本が最大の援助国だったり自衛隊の施設部隊によるインフラ整備協力が行っていたりするのだが、副大臣クラスの出席のため式典ではまるでめだたなかったというのが実状らしい。
アナン事務総長の演説と国旗搬入に手間取って25分遅れで「独立宣言」がグテレス憲法制定議会議長により読み上げられた。何語を使うんだろうと思っていたら、これがポルトガル語。続いてシャナナ=グスマン氏が初代大統領就任の宣誓を行ったが、これもポルトガル語だった。さらに続けて行われた大統領の演説はテトゥン語(この地域の現地語)、ポルトガル語、英語、インドネシア語の4言語パターンで話されたという。この国の苦闘の歴史を象徴するような演説ではある。
さんざんポルトガル語が出てくることでも分かるように、「東ティモール」という領域はもともとポルトガルの植民地として設定されたもの。インドネシアの方はオランダの植民地として作り出された枠組みだ(だから統一した国家を構成するのにやや無理があるとも言えるんだが)。ティモール島はもともと香辛料・白檀(びゃくだん)の産地で、それを求めて「大航海時代」を爆走していたオランダとポルトガルの争奪の地となった。で、結局東西にわけてそれぞれの勢力圏を決め、それがそのまま植民地支配の枠組みになっていったという経緯がある(このため東ティモールは住民の90%がカトリックだったりして、それがよけいにインドネシアとの軋轢を生んだところもあるみたい)。だから今回の独立は旧オランダ植民地に併合されていた旧ポルトガル植民地が「復活」しただけだというひねた見方もできる。第二次世界大戦時には日本軍に占領された時期もあった。
第二次大戦後、インドネシアはオランダからの独立を達成したものの、東ティモールは依然としてポルトガル植民地でありつづけた。しかし1974年にポルトガルの軍事独裁政権がクーデターで倒されて新政権が植民地放棄の方針を決めると、東ティモールでも独立への機運が高まる。ところが1975年、隣国インドネシアのスハルト政権が東ティモールに軍隊を侵攻させて1976年にインドネシアの27番目の州として併合を強行(東ティモール内のインドネシア併合支持派を利用して「併合」を民意が求めたように演出したあたり、日本の韓国併合ともよく似ている) 。以後この地域はインドネシアの一州として四半世紀を過ごすことになってしまうのだが、一応国連が1975年から8年連続で非難決議を採択しているにも関わらず、主要国の大半がインドネシアの顔を立てるために棄権したため東ティモールは見捨てられた形にしまっていた。当時はベトナム戦争の直後であり東南アジアの「赤化」が本気で恐れられた時代であり、インドネシアのスハルト政権は「反共の盾」として西側諸国に重宝がられたところもあるんだよね。日本だってインドネシアの最大の支援国であり続けてやはり非難決議には棄権していたわけだから他人事ではない。
独立への転機が訪れたのが1998年のスハルト政権の崩壊だった。後を引き継いだハビビ政権が東ティモールの独立を容認する方向を打ち出し、旧宗主国のポルトガルも絡んできて住民投票で独立の是否を決めることになった(このあたりからは「史点」でリアルタイムで見てきたんだよなぁ)。しかしこの住民投票をめぐってインドネシア残存派の民兵(その背後には明らかにインドネシア国軍の影があった)が独立派住民を無差別に殺しまくるなど大混乱の状態に陥ってしまい、すったもんだの末に国連平和維持軍の派遣となり、なんとか今日までこぎつけたという次第になる。
かつての支配国インドネシアの大統領が独立式典に参加するのは東ティモールとインドネシアのわだかまりを少しでも和らげようという政治的演出だ。しかし大統領がわざわざその役を演じている一方で、独立式典の直前の17日に東ティモールの首都ディリの湊にインドネシアの軍艦が2隻も入港して一時市民が騒然となるという一幕があった。当初東ティモール側は「メガワティ大統領の護衛」ということで船舶の入港を認めていたが、実際には軍艦だったのでビックリ、退去を要請したということだったらしい。ラモス=ホルタ外相は「軍事力の誇示だけを考えた、傲慢な措置だ」と怒りのコメントを出していたが、どうももともと独立には反対のインドネシア国軍による鬱憤晴らしの恫喝デモンストレーションであったようだ。
この一件はインドネシアの政権内で相変わらず国軍が大きな影響力を持っていることを改めて示している。騒乱を避けて西ティモールに逃れた東ティモール難民の問題もあるし、東ティモール内に一定数いるインドネシア併合派住民との共存の問題もある。またインドネシアと無縁で経済が成り立つとも思えない。東ティモールがまず直面する外交課題はやはりインドネシアとの関係をどうするかということなんでしょうな。とりあえず東ティモールはポルトガル語圏の国々(もとポルトガル植民地のブラジルなど)が加盟している国家連合に加盟し、今年秋の国連総会で国連加盟を果たす予定だ。
外交だけでなく内政でも難問は山積している。先述のように経済がとてもひとり立ちできる状態ではないと言われ、期待されている海底油田による収入もあと数年先からの話と言う。また独立運動の指導者として人望を集め、初代大統領になったグスマン大統領と、その彼自身が率いてきた最大政党の「東ティモール独立革命戦線(フレテイン)」が方針をめぐって対立しているとか、マリ=アルカティリ首相が「この国の大統領はアメリカのような行政府の長ではない。特定の人物が注目を集めるワンマンショーの時代は終わった」として露骨にグスマン大統領を批判し、大統領は象徴的地位にとどめて実際の政治は首相以下に任せろと主張していたりする(読売新聞のインタビュー記事より)。まぁとにかく前途多難であることには違いない。
ところでこの独立を報じるニュースで「今世紀最初の独立国」というフレーズがやたらに流れていたけど、今世紀中に果たしていくつの「独立国」が誕生するのだろう?一方で国家の合体・融合が進んでいくという見方もあるわけだけど。
◆歴史的大発見!…のはずが
5月13日付朝日新聞の一面にこんな見出しがおどっていた。カラー写真付きで特ダネスクープ扱いの目立つ記事である。
「イランで仏像19体見つかる 西方への伝播を確認」
「史点ネタ候補には入れておくか」と僕はこの記事の内容をコピーして史点ネタ用テキストファイルに入れておいた。だが前回更新分(13日付)でとりあげるにはちと時間が近すぎたということもあり、またネタ的にも今ひとつ地味であったために実際に史点に書くことは無かったのである。その後こういう展開が待っているという予感はまるで無かったのだが、今となってはすっかり捏造ということが明らかになってしまった上高森遺跡発掘のネタをなんとなく見送った前例を思い出してしまったものだ。そういやあの藤村新一氏が関わった遺跡は全て学問的には全滅ということにされたようで。
この朝日の記事の見出しが目を引くのは、これが本当なら仏教および仏像の発生・伝播の研究に新しい光をあてる可能性があったからだ。
ブッダことお釈迦さんことゴータマ=シッダールタが仏教伝道を開始したのは紀元前5世紀ごろのことと言われるが、当初仏教は仏像なんてものを造る趣味はなかった。仏像製作が開始されたのはようやく紀元1世紀頃に入ってからであると言われ、通説ではインド世界北西部のガンダーラ地方に住み着いていたギリシャ人の子孫たち(前3世紀のアレクサンドロス大王の大遠征にくっついて来た人々の子孫)が仏教に染まった際に、ギリシャ人お得意の彫刻美術を結びつけて仏像を製作し始めたと言われている(だから初期の仏像はやたらに髪がウェーブし、西洋人ヅラをしている) 。そこから仏像製作はインド、東南アジア方面、そしてシルクロードを通って中央アジア、東アジアへと伝播して今日にいたったものとされている。しかしインドから西方、イラン方面へ伝わったという形跡は見当たらず、仏教の西伝というのはほとんど無かったものと考えられてきていた。
13日付朝日新聞の記事の内容は以下のようなものだ。イラン文化遺産庁の研究者が同国ファールス州の古代遺跡(ガンダーラの西約1700q)で仏頭や仏教特有の指の組み方をした体の部分など合計19体を発見したということで、、これを樋口隆康・京都大名誉教授(考古学)が現地で確認、「ギリシャ風と、東西の要素が融合されたものとがあり、北部インドで西暦1〜3世紀に隆盛を誇ったクシャン朝時代の特徴を持つ遺品」と判断、「こんなに西にも古い仏像があったとは驚きだ。これで仏教は早くから西へと広がったことが考えられ、ガンダーラ起源説に疑いもはさめる」とコメントしている。記事はこれがアフガニスタンより西での初めての仏像発見とし、「これまで歴史学界では西からの文化的影響が優勢だと考えられており、逆方向への流れは念頭になかった。今後の研究の進展によっては、仏教の伝わった経緯など、新たな学説が生まれる可能性がある」と結んでいる。
歴史学会が本当に「西からの文化的影響が優勢」と考えていたかどうかは疑問だが、確かにイランの遺跡から古い時代の仏像が出たとなれば仏教史を塗り替えかねない大発見ではあった。
ところが。
15日付のイラン英字紙テヘラン・タイムズがこの朝日の記事の内容を当のイラン文化遺産庁当局者が「そんな事実はない」 と完全否定していることを報じた。その後朝日新聞のほうでも文化遺産庁の広報に確認をとったところ、くだんの仏像はいずれもアフガニスタンで発掘されイランに密輸された物品であることが資料から確認できることが分かった。密輸業者が逮捕されたのちこれらの仏像はファールス州州都の博物館に収められ、その後テヘランの国立考古博物館に移されていたが、1979年のイラン・イスラム革命によってイスラム政権ができると偶像崇拝禁止を徹底する意図から展示されずに倉庫にそのまま「お蔵入り」となっていたものだということが博物館の資料から明らかになったというものである。
朝日新聞は取材の経過をまとめてこれが「誤報」であったことを事実上認める形で弁解記事を出している。それによれば今年四月からその樋口氏の文化財・遺跡調査(イラン政府の要請による)に記者が同行してイラン政府の許可のもとに取材を行っていた。国立考古博物館で問題の仏像を2回にわたって調査することになったのだが、1回目の調査の際に博物館の管理責任者が「ファールス州の遺跡から出土したもの」と説明し、また仏像の状況が出土したままの状態であると思われたしアフガニスタンの仏像に似たところもあるものの異なる様式のものがあったため、2回の調査の末に樋口氏はこれを「イラン独自のもので新発見」と判断したのだという。
してみると、その管理責任者がいい加減なことを言ったからだと朝日側としては弁解したいのだろうが、訳する上での誤解があった可能性もあるような。ま、どっちにしてもあんまりセンセーショナルに「新発見!」と騒いで報道するもんじゃないなと思わされる話である。
◆「ゴッドとーちゃん」の死去
以下の記事を読む方は、映画「ゴッドファーザー」のサントラCDでもかけて(持ってない人は脳内演奏をして)ニーノ=ロータの名曲を聴きながらお読みください(笑)。チャ〜チャララ〜ラ、ラ〜ラ〜〜♪っと。ちなみに「ゴッドファーザー」関連ネタを史点で取り上げるのは二度目なんだよな。
5月11日、アリゾナ州南部のトゥーソンでジョゼフ=ボナーノという人物が97歳の高齢でこの世を去った。このボナーノ氏、「ジョー・バナーナ(バナナ)」 なるあだ名をマスコミから受けたイタリア系マフィアの大ボスだったのである。大ボスってどのくらい大ボスなのかというと、彼が率いるボナーノ・ファミリーはニューヨーク5大ファミリーの一つであり、この5大ファミリーを中心とする在米マフィア派閥の利害調整機関「コミッション」のトップを彼が務めていたことがあった。「5大ファミリー」及び「コミッション」と言えば映画「ゴッドファーザー」でも描かれているが(直接的表現は避けてるんだけどね)、あの映画の主人公であるドン・ビトー・コルレオーネのモデルは他ならぬボナーノだという話もあったらしい(まぁ何人かのボスから複合的に作り出したものなんだろうけど)。ま、とにかく「最後に残った大物ボス」であったわけだ。
97歳で亡くなったということは彼が生まれたのはまさに20世紀初頭。小説・映画のドン・コルレオーネよりはひとまわりほど年下ということになる。シチリア生まれのビトー=コルレオーネは9歳で家族を殺されニューヨークに旅立ちそこでマフィアのボスに成長するが、ボナーノは同じくシチリアに生まれ名が幼少期の数年間をニューヨークで過ごしたあとシチリアに戻り、19歳で再びシチリア島を飛び出しキューバ経由でアメリカに入るという複雑な過程をたどっている。彼はニューヨークのブルックリンを拠点にファミリーを築き、やがてアリゾナやカリフォルニア、さらにはカナダにまでその勢力を広げた。その活動は主に非合法ギャンブル、高利貸し、ヘロイン密売などが中心であったと言われ(彼自身は売春と麻薬など非人道的な犯罪には手を出していないと主張しているらしいが) 、ファッション業界や乳製品販売などの合法のビジネスでも成功していた。彼が率いた「ボナーノ・ファミリー」は「ガンビーノ」「ルチーズ」「コロンボ」「ジェノベーズ」とともにNY5大ファミリーと呼ばれるようになり、ボナーノ自身が「コミッション」のトップを務めていたのは1950年代だったというから、これまた「ゴッドファーザー」と重なってくるところだ。
「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネは麻薬売買をめぐるトラブル(本人は麻薬に手を出す気は無いのだけど)で他のファミリーと抗争になり狙撃されて重傷を負うものの結局は勝利するんだけど、このドン・ボナーノは60年代末に抗争(「バナナ戦争」と呼ばれたそうで…)に敗れてアリゾナ州へと引っ込んでいる。小説「ゴッドファーザー」が書かれ映画化もされて大評判になるのがそれから間もない70年代初頭ことで、当時の読者・観客にはフィクションながら結構生々しい話だったんだなと思える。
その後76年から6年がかりでFBIのビストーネ捜査官がファミリー内部に覆面潜入捜査を行って組織の犯罪を暴き立てる、なんてことも起きている。こちらはジョニー=デップ主演の映画「フェイク」の元ネタとなった(こっちにもアル=パチーノが出てるんだよな)。そんなこんなの1983年にはボナーノご本人が自伝を発表、マフィアのドン自らが組織と自身の内幕を初めて明かすことになるのだが、そこで彼は「自分はファミリーのファーザーとして国家元首のようだった」と回想しつつ「自分はもうドンではないしボナーノ・ファミリーも存在しない」として完全に犯罪業界から手を引いた(足を洗った?)ことを明言していた。ちなみに彼自身は80年に司法妨害罪で8ヶ月服役、85年に法廷侮辱罪で1年2ヶ月収監といった程度の「前科」しか公式にはないそうで。
読んだ記事によるとこのボナーノ氏にはビリーという息子さんがいるそうで(存命なのかどうか?)、これが「ゴッドファーザー」の一方の主役(映画だとこっちがメインかな)・マイケル=コルレオーネのモデルだという。だとするとこのビリーさんはカタギになれたのであろうか、映画のファンとしては気になるところである。
あ、葬式に他組織との話し合いを持ちかけてくる部下には要注意ね(笑)。まぁ最近はイタリア系マファアなんてのも昔話になっちゃったらしいが。
◆歴史を残すのも一苦労
あれこれといった話題をこのテーマでひとくくりにしてみた。
アメリカの教育省の全米の小・中・高生に対する調査で、彼らの自国の歴史に関する知識が非常にお寒い状況であり、教育関係者がショックを受けている、なんてな話がどっかの新聞に出ていた(前にもあったな、この手の話題は)。高校三年生に対する調査では教育相がたてた歴史知識の目標水準に達した生徒は11%に過ぎず、実に過半数の57%が最低水準にすら届かなかったとのこと。その記事では高校生の半数以上が第二次大戦でアメリカとソ連が同盟関係であったことを知らなかったと驚きをもって書いていたが、そりゃー知らないんじゃないかなぁと歴史教育の現場の端っこ(日本のだけど)ぐらいにはいる僕などは思ってしまう。たぶん日本の高校生でも半数近くがアメリカや中国と戦争した歴史があることを知らないんじゃないかと思うことがあるし。
さらにこの記事によれば、小学4年生にアメリカの政治理念である「生命・自由・幸福の追求」が何に由来しているか、という質問をしたところ(正解は「独立宣言」だそうで)、小学校一年生から繰り返し教える話にも関わらず3分の1が回答できなかったと言う。ページ教育長官は「アメリカ民主主義を標的にしたテロ攻撃の後で、こうした質問で子供が詰まるとは」と嘆いて見せたという。アメリカ人以外には寒い空気が流れる発言だな。
なお、これも以前新聞の記事で見かけた話だが、ブッシュ大統領ご本人が「日米同盟関係は100年以上に及ぶ」などと公式の場で平気で発言していたとか。
CNNサイトの記事で僕も初めてその存在を知ったのだが、中世ヨーロッパのユダヤ人の間で話された「イディッシュ語」なる言語があるんだそうである。主にドイツ語圏のユダヤ人の間で日常的に話されたものが起源でヘブライ文字で表記するという。この言語を使った出版物も刊行されるなど一時は結構普及していたものらしく、、この言語の単語の中にはアメリカ英語の中に紛れ込んでいるものもあるという。しかし現在はすっかり話す人もいなくなり、絶滅の危機に瀕しているとのこと。
この状況に危機感を持った「アメリカ・イディッシュ語書籍センター」なるところが22年前からイディッシュ語書籍の収集。・保存を行っていたのだが、書籍そのものが老朽化していること、また対象が限定されていたためか発行部数がやたらに少ない書籍もあり(一例として「白鯨」のイディッシュ語版は世界に3冊しか残ってないとか)、同センターは4年前から書籍のデジタル化による保存活動を進めていたという。すでに12000冊の本のデジタル化を終え、注文すれば500年はもつ特殊な用紙に印刷してくれるんだそうだ。
書籍を保存する団体があれば、ぶち壊してしまう団体もある。
昨年皇太子による王族乱射射殺事件があり、その後も毛沢東主義派による暴力事件が後をたたない上に政情不安が続くなど物騒な話ばかりが聞こえてくるネパールだが、去る5月11日の夜にこの毛沢東派の兵士数百人が同国南西部のサンスクリット語系大学を襲撃、火を放ったためにこの大学は全焼してしまった。歴史をやってるものとして余りにももったいないと嘆いてしまうのが、この大学の所蔵していた15万点に及ぶサンスクリット語の歴史書などが焼失してしまったということ。
サンスクリット語といえば古代インドの言葉で僕らも仏教用語などを通して慣れ親しんでいるものがある(一説には「バカ」もサンスクリット語であるという)。このネパールではなぜか上流階級ではサンスクリット語が必須教養なんだそうで、この大学が国内唯一のサンスクリット語が学べる重要な大学だったりしたのである。まただからこそ上流階級への恨みやら何やらが毛沢東主義派が襲撃したんだろうな。だいたい毛沢東の文化大革命ってのがそういうものだったわけだし。
2002/5/28の記事
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