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2003年12月7日

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 ◆今週の記事

◆西部戦線事情あり

 えー、もちろん某名作映画の駄洒落。山田洋次監督の松竹記念映画「キネマの天地」では「生徒全員異常あり」って駄洒落が出てきていたな(笑)。
 「発掘」というと考古学レベル、つまり古代以前の時代の遺跡に対するものを想像しがちだが、中世、近世そして近代においても発掘対象となる「遺跡」は結構多い。日本では最近の汐留地域の再開発に先立ち、明治時代の最初の鉄道駅である旧新橋駅が発掘されたりしていた。
 今度のネタは海外だが、それよりもあとの時代のもの。ベルギーの第一次世界大戦時の戦場の発掘作業の話題である。元ネタは12月2日の読売新聞記事。

 ベルギー北西部フランドル地方に「イーベル」という土地があるそうで。ここは第一次世界大戦の折、イギリス軍とドイツ軍が対峙、ほとんど泥沼の消耗戦を展開した戦場だったという。第一次世界大戦といえば機関銃などの銃火器の進歩により、敵味方ともに長い塹壕(ざんごう)を掘って鉄条網を張り、にらみ合いながら時々突撃を行って多数の犠牲者を出すという、まさにお互いに消耗としか言いようのない戦闘が行われるようになった戦争だ。そういう戦況を打破しようと毒ガスやら戦車(タンク)やら飛行機やらが戦場に投入され、現代戦の形がととのっていくことになる。

 さて、やはりそんな塹壕戦が展開されたイーベルの戦跡なのだが、今はただっぴろいイモ畑の一角になっているそうで。このイモ畑をさきごろフランドル考古学遺産研究所が地主の農家から一年契約で借りて発掘し、第一次大戦当時の塹壕跡におよそ90年近くぶりに日の光を当てたのだった。この発掘には戦闘の当事者であったイギリス関係者も協力し、当時の航空写真や地図など軍関係の資料を提供して専門家のアドバイスも加えてバックアップしていた。
 発掘の結果、イギリス軍の塹壕はかなり良好な保存状態で掘り出され、武器貯蔵庫や排水施設、砲台など用途が確認できるものが多かったとか。ついでにイギリス軍の遺体5人分も掘り出されたそうだ(うーん、こういうところでも遺体回収には漏れがあるようだなぁ)
 発掘はひとまず年内で終了し、塹壕も埋め戻して地主の農家に帰すとのこと。

 ところでこの発掘が今頃実施された事情だが、実はこの地域の高速道路の延長建設計画が背景にあったりする。つまり遺跡破壊の可能性があるため、事前に調査を行ったわけで、このあたりは日本の遺跡発掘調査事情とさして変わらないようだ。フランドル地方の経済界は高速道路延長による経済効果を期待しているが、一方でこの戦場発掘の報道を聞いてイギリスからの観光客も来ているそうで、遺跡を保存したほうが利益があるんじゃないかという考え方も出てきているようだ。遺跡保存か開発か、日本でもよくモメるところでありますね。



◆老兵は死なず?

 ちかごろ訳の分からぬうちに「戦争」に巻き込まれてる気がする日本であるが(すでに「戦死者」が出ている…) 、とりあえず日本が最後に直接的に経験した戦争は「太平洋戦争」あるいは「大東亜戦争」と呼ばれる戦争だ。教科書などの図版を見ていても、この戦争はつくづく無茶してるよなぁ…と思えるほど、アリューシャン列島、南太平洋、さらには東南アジア全域、と大変な広範囲に日本軍は進出している。個人的な話であるが、僕の父方の祖父もビルマ(ミャンマー)戦線に出て九死に一生を得て還ってきている。
 こういう戦争であるから、当然祖国に帰れなかった兵士も多い。戦死した人はもちろんだが諸般の事情で帰国せずその地にとどまった人も多い。インドネシアやビルマで現地の独立戦争に参加した人もいるし、はたまた日本が敗戦で荒廃したと思ってそのまま現地で暮らすことにした人もいる。あるいは敗戦を知らず、もしくは信じず、ジャングルの奥にこもり続けた人もいた。
 最後に挙げたケースで有名なのが1972年にグアム島で発見された横井庄一さん(「恥ずかしながら…」を流行語にした)、そして1974年にフィリピンのルバング島で発見された小野田寛雄 さんだ。特にこの小野田さんはあの日本版特殊工作員養成組織である陸軍中野学校の出身で、軍撤退後も居残るよう上官に命じられたため一人で「戦争」を続け、日本人冒険家による発見後もなかなか投降せず最終的に元上官の作戦中止命令書を受けてようやく投降したという凄まじい人だ(映画「ランボー」の1作目のラストはこれをヒントにしてるんじゃなかろうか…と勝手に思ってるんだが)

 さて、そんな残留日本兵が、まだフィリピンの山奥にいるのではないか…との報道があった。実際に情報にもとづいて厚生労働省社会援護局が調査をするということを毎日新聞が報じている。
 その記事に拠れば、話の出所はフィリピンで遺骨収集事業などを進めている「慰霊事業協力段連合会」。会長の寺嶋芳彦さん(82)はご自身がフィリピン山中で終戦を迎えたという方だが、「マニラ東方の山岳地帯に元日本兵が5、6人いる」との情報を得て、今年9月に現地に赴いたのだそうだ。結局これは確認できず現地の人に情報収集を依頼して引き上げたのだが、その後、日本の旅行会社の人の調査で1996年まで生きていたペドロ=ブアドと名乗る、元日本兵と見られる人物の存在が判明したのだ。
 このペドロさんが住んでいたのはマニラから車で3時間ほどの山の中にあるボソボソ村(いかん、つい笑ってしまう…)ルシアさんというけっこう年下の奥さんと一緒に暮らしていたが、この奥さんの話によると生前山を指して「ヤマカラサン」と言った事があり、また「ニシカワ」「タナカ」と名乗るどうも日本人としか思えない人が訪ねてきたりしたという(もっともフィリピンには「アキノ」大統領の例もあるし、そのむかしアメリカに抵抗した「サカイ」という運動家もいた)。そして本人も「日本人に会って来る」といって山の中に入っていくこともたびたびあったという。彼自身が日本人であることをちゃんと告白したのは死の床についたときだったそうだが、日本にいる家族のことなどについては一切語らなかったという。

 この話が確かだとすると、ペドロさんの本名は「山川」であり、その「ニシカワ」「タナカ」といった日本人がまだフィリピン山中に生存しているのかもしれない。寺嶋さんたちもそう考えて11月20日から始められた遺骨収集と共にこの元日本兵の情報を確認する意向だそうだ。
 その毎日記事に出ていたが、米軍の記録によると敗戦時、フィリピンで投降しなかった日本兵が4000人ほどいるんだそうな。だとすればまだまだ未確認の生存元日本兵がいるのかもしれない。敗戦からすでに58年が経過しており、当時一番若い兵士でも80代にさしかかっているはず。生きているなら確認しておきたい、と思うには思うのだが、ペドロさんもそうだが半世紀以上母国と連絡をとらずに日本人という正体を隠し、そのままフィリピン人として暮らしてきたという面もある。まさかその後の日本や世界の状況を全く知らなかったわけでもないと思うので、「そっとしておいてくれ」って気分も強いのかも…



◆司馬遷、今度はウソ判明?

 先週、始皇帝陵に「地下宮殿」があることが確認されて、改めて司馬遷の『史記』の記述の正確さを認めさせられたというネタを書いたところだったのだが…次の週でもう修正を余儀なくされそうな話が中国から流れてきた。今度もまた始皇帝がらみだ。

 中国を統一した秦の始皇帝が、その威勢を天下に示すために建造した大宮殿が阿房宮(あぼうきゅう)である。まぁとにかくデカくて派手な宮殿であったらしく大変な費用もかかったのだが、それでいて結局始皇帝の死後まもなく秦帝国が崩壊してムダになってしまい、これが「アホウ」の由来となった…という俗説がある(笑)。なお俗説つながりならこの阿房宮に住んだ始皇帝の子の二世皇帝・胡亥の時代に、権勢を振るった宦官の趙高が自分の威勢を示そうと官僚たちに鹿を見せて「これは馬だ」と言わせた故事が「バカ」の由来というのもあるんだけど…先日「笑っていいとも」でこれを真説として紹介してしまっていたが、かなり怪しい話なんだよな。その番組内で「爆笑問題」の太田光「そのとき家臣の中で『それは鹿でしょ』と言うのがいたので、思わず『バカッ!』と叫んだのが由来」と紹介していたのにはウケたんだけど(文章で書くと面白くないんだよなぁ、こういうのは)

 さてその阿房宮のある秦の都・咸陽(現在の西安付近)であるが、秦帝国崩壊の過程で紀元前212年にまず後に漢の高祖となる劉邦が占領した。彼は自軍の兵士達に略奪を禁じ、秦の国民にも「法三章」に代表される緩やかな統治方式で臨んで民衆の支持を得たが、その後追いかけて入ってきた項羽は劉邦から支配権を奪い(ここでかの有名な『鴻門の会』の場面が挟まる) 、略奪・放火なんでもありの占領を行ったとされている。このときに阿房宮も火が放たれ、なんと三ヶ月にもわたって炎上した…と『史記』は記しているのだ。この阿房宮炎上は項羽と劉邦の戦いを描いた小説・ドラマ・映画などでは必ずやるといってもいいスペクタクル場面で、僕が見た香港製映画だと燃え盛る阿房宮の中から項羽が虞美人を救い出したり、ミニチュアの阿房宮を盛大に燃やしたりしておりましたね。

 12月6日に中国マスコミが一斉に報じたところによると、中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所が共同で一年がかりで実施した「阿房宮」跡発掘調査の結果、始皇帝在位時代に完成したとされる阿房宮前殿部分の輪郭が確認され、その土台は東西1270m、南北426m、総面積541020平方mという大変な規模であることが判明した。
 しかし、大量の灰や焼けた土といった「火災の痕跡」とされるものは全く確認されなかったとのこと。つまり「三ヶ月炎上」はおろか炎上そのものすら事実かどうか疑わしい、ということになっちゃったのだ。前回でこの時代は司馬遷のころからすれば近代史だからそうそうデタラメなことを書くようなことはしばせん、とか書いたのだが…(^^;)
 


◆失われたツキを求めて

 …って、ホントに“ツキ”を求めて、なのだろうか。
 12月5日にワシントン・ポスト紙やCNNテレビなどがブッシュ大統領が月への有人探査計画を検討しているらしい」との大統領周辺からの情報を一斉に報じている。もちろん今すぐに実行、というような手軽なものではないが、今後15年から2、30年後までを見据えた宇宙開発計画を「国家の目標」として大々的に発表するのではないか、そのひとまずの「目玉」がアポロ計画の再現ともいうべき月への有人探査だ、という話なのだ。まだ不確定な話ではあるが、複数のマスコミから流れているところをみると、ブッシュ政権内で実際にそうした動きがあるのは確かなのだろう。
 実際に進められるとなると、アメリカの有人宇宙探査はアポロ計画の月面着陸以来、ほぼ30年ぶりということになってしまう。その間はもっぱら無人探査機による惑星調査やスペースシャトルによる宇宙開発・研究に集中し、ひところ言われていた火星有人探査はすっかり先送りになってしまっていた。もちろん最大の原因は予算問題。人を送り込むことによる国威発揚効果なんてアポロ11号の月面着陸で事実上終わってしまっていたから、その後は金のかかる有人の遠出は敬遠されてしまっていたのだ。
 ここにきていきなりこんな話が飛び出したことについて、先日の中国の有人宇宙飛行に触発されて、との観測もないわけではないが、かつてのソ連を相手にしたときのような競争心があるはずもないだろう(差がつきすぎてる)。大方の見方は「来年の大統領選再選をにらんだ宣伝作戦」といったものだ。言ってみれば「新たなる国威発揚」をブチ上げようと躍起になっているわけで。つまりそれだけ現状が選挙上マズイことになっている、との認識があるのだろう。今年の春に対イラク開戦、勝利して来年の大統領選に楽勝で再選、との目論見が実に昨年ぐらいから噂されていたのだが、どうも目算が狂って来ているのは事実だ。だからこそ先日のあの「電撃訪問」のパフォーマンスまでやってみせてるわけで。

 「国威発揚」を狙うといえば、間もなく12月7日(日本時間は12月8日)の「真珠湾攻撃の日」がやってくる。外国から攻められた経験が実はあまりないこの国にとっては「パール・ハーバー」はやはり強烈な記憶であるらしく、「9.11」の時も「リメンバー・パール・ハーバー」の言葉が引き合いに出されていたものだ。この真珠湾攻撃の日は「真珠湾追憶の日」と法的に定められていて(それでも決めたのは1994年と最近だが)、政府の建物では半旗が掲げられ、前もって大統領が国民に対してこの日に「適切な儀式と活動」を行うよう宣言文を出すのだが、今年はやはりブッシュ政権が抱える「今」の状況が文面に濃厚ににじみ出ることとなった。
 宣言文で大統領は「真珠湾での厳しい攻撃による痛手から立ち直ったように、我が国はまっすぐ進み、敵を圧倒する」と述べ、真珠湾のことにかこつけて「テロとの戦い」の続行の意思を強調した。「米国のあらゆる世代は自由と民主主義の恩恵を守るという使命を果たしてきた」とも述べたそうだが、こういうのを見ていると日本の保守層というより右派層の多くが「大東亜戦争」を賛美しつつブッシュ政権の対テロ戦争とやらの強攻策に手放し…って言うより何やら心酔したように賛成しているのが非常に滑稽に思えてくる。
 もっともこの宣言文では史上初めて真珠湾攻撃をした「日本」の国名をカットしているのだそうで。自衛隊のイラク派遣など日本の協力を期待しているブッシュ政権が日本に気を使ったということなんだろうが、カットしたところで誰でも知ってることだろうに。

 その真珠湾から始まった太平洋戦争を通して、日本人の蔑称として定着した言葉が「ジャップ(JAP)」だ。先ごろ国連で北朝鮮の国連大使が日本の国連大使が「北朝鮮」という表現を使ったことに対して抗議し、「じゃあこちらはジャップと呼んでやる」などと幼稚なことを言い出して失笑をかっていたりもする。
 六日付の朝日新聞に出ていた話題だが、ブッシュ大統領の出身地でもあるテキサス州の、南東部ジェファーソン郡に、その名も「ジャップ通り」なる5kmほどの道路があるんだそうな。別に侮蔑的な意味でつけた地名ではなく話はむしろ逆で、およそ100年前にこの地に入った日本人移民一家が稲作に成功したことを称えてつけられた名前なのだそうで。そう聞くと「ジャップ」ももともとは差別語ではなかったんだな、ということが分かる(「支那」のパターンとも似てますな)。その後この「ジャップ」という言葉が明らかに侮蔑語と認識されたのちもこの通りの名前は変わらず、そのまんま100年間続いてきたのだった。
 全米日系市民協会(JACL)や人権団体などがこの通りの改称を郡当局に求めたのは10年前。しかし郡側は「郡には地名改称権限はない」と地元民の判断に任せ、地元民は「なじみのある名前だし、差別感もないから」という理由でそのまんまとされたのだった。この問題が今年また再燃し、JACLは郡当局が相手にしないので連邦政府の運輸省・住宅都市開発省に訴える策をとることになったのだった。
 ただ記事によると地元の日系人達は10年前の折の経験から日系以外の地元民と感情的対立になることを恐れているとのこと(ってことは、多少あったんだな)。妥協案として「ジャップ通り」の発音は残し、「J.A.P」とつづって「Japanese American Pioneer(日系アメリカ人開拓者)」の略語とするという案が出ているそうで(笑)。

 なんだかイマイチまとまりのない記事になっちゃったなぁ…


2003/12/7の記事

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