ニュースな
2004年3月24日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事


◆あの戦争から○周年

 さてと、「史点」の長期中断は思えばちょうど一年前ぐらいから始まっていた。秋頃に一時復活したけどやっぱりまたストップし、気が付いたらもう3月末。いろいろと仕事が忙しくなって、というのもあったんだけど、一回中断するとなかなか書くペースを取り戻せないものだということもある。キーボードに立ち向かえなくなってしまうんですよね。
 その中断の間に。
 イラクではサダム=フセイン元大統領(「元」とついてるが考えてみると辞めさせる手続きはとられたのだろうか?)が拘束され、アゼルバイジャンのアリエフ前大統領が死去して息子が跡を継ぎ、ベートーベンの「第九」がEUの国歌に決定したけどEU憲法制定は大難航し、ライト兄弟 の飛行百周年とそれに合わせたスミソニアン博物館のエノラ=ゲイ号展示があり、ドイツからは3万年も前の人間によるマンモスの牙を加工した「芸術作品」が発見され、サハリン(樺太)の日本統治時代に作られた鉄道が今頃になってロシア標準の広軌に変更されることが決定し、NASAは無人探査機で火星を探索して岩石に「スシ」「サシミ」「ワサビ」などと命名して遊んでいるうちに太古の火星に水があった証拠を発見し、韓国・済州島からは5万年前の人間の足跡が発見され、イランでは改革派が不公平総選挙で惨敗し、天正少年使節・千々石ミゲルの墓石らしきものが見つかり、ハイチでは反乱が起こって大統領が亡命を余儀なくされ、恐竜絶滅の「巨大隕石衝突説」に否定的な証拠が発見され、マケドニアのトライコフスキ大統領が飛行機事故で死亡し、旧石器捏造発覚以後はじめて岩手県で国内最古の中期旧石器遺跡が確認されて日本に旧人がいたことが改めて認められ、僕自身も多大な影響を受けた歴史家・網野善彦氏が亡くなって…
 …などなど、まぁ、いろんなことがあったのだった。

 「あの戦争」のことだが、まず日露戦争から去る2月8日でまるまる百周年となった。ついでながら今年はいろいろと歴史上の大事件の「○○周年」があって、ペリーとの日米和親条約締結から150年(3月31日)、ビキニ水爆実験から50年(3月1日)という年でもある。
 日露戦争という日本史だけでなく世界史的大事件から百年という大きな節目だったにも関わらず、日本国内では特にこれといったイベントは行われなかった(その10年前の日清戦争100周年もほとんど騒がなかったような)。せいぜい目に付いたのが超党派の国会議員による議連「日露戦争を偲ぶ会」なるものが作られ、なぜか議員でもないはずの中曽根康弘元首相を先頭に明治天皇を祭る明治神宮にみんなで仲良く参拝していた(2月10日)。自民党と民主党保守派(鳩山由紀夫氏含む)の合同行動で、中曽根さんがかんでることから政界再編をにらんでの動きではとも見られている。これに自民党から中心的存在として参加していたのが平沼赳夫氏だが、自民党の機関誌『自由民主』3月号で「私は現憲法の第96条に準拠して憲法改正をすることに反対である…現行憲法を失効して、その無効を確認した上で、旧帝国憲法に復原したのち、法の手続きに従って改正すべき」などと書いてるんだから凄い。こういうのが首相候補だったりもするんだから、やっぱり日本の保守政界は旧憲法下の貴族院の気分のまんまであるようだ。

 日露戦争は一応ロシア帝国が負けて日本帝国が勝った戦争。一応、というのは「試合終了の笛が鳴ったとき日本が優勢だった」と言わざるを得ない状況があるため。実際講和条約では賠償金は一銭も取れず国民が激怒して日比谷焼き討ち事件が起こったぐらい。まぁそれでも少なくともロシアが勝ったという人はいない。そしてまたロシアでもあまりいい思い出ではないようで、その戦争後まもなく滅んだロシア帝国を倒した形のソ連においても「日露戦争」は負の記憶で、スターリンは日露戦争で失われた権益を取り戻そうとしていたし、日露戦争について歴史の授業などでもあまり深入りはしなかったみたいだ。
 日露戦争百周年でいろいろとイベントをしたのはむしろロシア側だった。2月6日に外務省の情報局長が談話を発表し、「日露戦争は長年にわたって、2国間関係の発展に否定的な基調をもたらした」「双方に大量の人命と物質的損害を招いた。ロシアは戦争の結果、南サハリンを奪われた」 とこの戦争を日露双方にとって否定的と振り返っていた。また2月11日には韓国の仁川港に親善訪問していたロシア太平洋艦隊の将兵らが、日露戦争海戦時に日本軍の奇襲を受けて戦死した将校らを悼む慰霊碑の除幕式を行っている。しかし日露戦争は朝鮮半島をめぐる両国の勢力争いという性格があるわけで、争奪の対象となった韓国にとっては決していい思い出ではない。この日も慰霊碑建立に抗議する韓国人ら数十人が式場に押しかけて警察に連行されるという騒ぎにもなっている。

 対する「戦勝国」日本では、その国会議員連中の神社参拝ぐらいしか記念イベントも何もなかったみたい。これは「敗戦国」ロシアからするとかなり奇異に映ったようで、そのことを取り上げて「記念パレードの一つも無いのか」と驚いて報じるマスコミもあったそうだ。ま、これはやはり太平洋戦争で懲りた戦争アレルギーの表れではあっただろう。保守系・右派系な人たちの間でもあんまり目立った動きはなかったあたりはさすがに「風化」という面もあるのかも。
 日露戦争と現在を重ね合わせる文章などもいくつかあった。面白かったのが開戦の日2月8日の読売新聞一面コラム「編集手帳」。「当時、世界最強の陸軍国だったロシアに、軍事力で劣る日本がなぜ勝てたのか。様々な理由が挙げられるが、日英同盟の存在も大きかった。戦費の多くはロンドンで調達され、ロシアや国際情勢に関する情報もイギリスから寄せられた」と日英同盟の意義を強調するあたりは異論は無いのだが、その後日英同盟を解消してから日本は誤った道を進んだ、的な記述が出てきて「自衛隊のイラク派遣に「対米追随」との非難が依然としてある。世界のリーダー国との良好な関係を失うと、どうなるか。同じ過ちを繰り返してはならないという思いにかられる。」とまとめるあたり、さすがはブッシュ政権べったりの読売らしい論調ではある。太平洋戦争あたりを「過ち」と認めているのは率直でいいと思うのだが(そこを突っ込まれるとそこだけ取り消しに走りそうな気配もあるが(笑))、「世界のリーダー」がどう横暴であろうとついていく、ということなのか?


 さて、そのイラク戦争勃発から3月21日でちょうど一周年となった。フセイン政権はアッサリと倒されたが各地で混乱は相変わらず続いており、実質的に「戦争」はちっとも終わっていない。開戦の根拠にアメリカ・イギリスが上げていた「大量破壊兵器」とやらは一向に見つからず、いやもう「無かった」と昨年内に断言されてる始末である。まぁあろうがなかろうが米英はイラク戦争起こしたろうから別に意外でもないしその意図するところはワカランでもない(賛成はしないが) 。僕がむしろ興味深くこの一年見ていたのはなぜか躍起になって米英軍への協力を唱え「戦争の大義」を下手すると御本家以上にブチ上げていた日本の保守系・右派系の論調だった。こういう人たちがおおむね「鬼畜米英と戦った大東亜戦争」を称揚していたりするわけだが、靖国の英霊ってのがいたら絶対祟って出るぞ、などと今年元旦の小泉首相の靖国参拝を見ながら思ったものだ(笑)。
 例えば12月8日、その「大東亜戦争」の開戦の日の産経新聞コラム「産経抄」。このコラムらしく日本が「大東亜戦争」をしたのは自衛のためであるとし戦争責任についても「もし戦争を起こした側に責任があるとすれば、戦争を起こさせた側にもそれがあるはずである」と書き、「おや、珍しくアメリカ批判か」と思わせておいて、 「イラク戦争を見ればはっきりするだろう。先制攻撃をしたのはアメリカだが、ではその単独行動主義の戦争責任だけが責められるのか。サダム・フセイン政権のクルド人虐殺やテロ支援や独裁や専制に問題はないのか。戦争責任をいうなら戦争を起こさせた側にもあるというべきだろう。」とアメリカ弁護のウルトラCをかましてくれていた。そのアメリカ様は明らかにイラクのフセイン政権をかつての日本に見立て、戦後の占領政策も産経抄氏が憎んでやまない日本占領政策をモデルに進めようとしているわけなのだが…いや、これは正直凄いと思った。
 「大量破壊兵器がない」ことで国際的にもアメリカ国内ですらも「戦争の大義」があれこれ言われだすと、2月の産経抄氏は今度は「中国の孟子は古くから「春秋に義戦なし」と喝破した。」と書き出し、塩野七生氏の「歴史を振り返るならば戦争にはやたらと出会するが、そのうちの一つとして、客観的な大義に立って行われた戦争はない」「もとからして大義なるものが存在しないからだ」といった言葉も引用して「え?そりゃごもっともだがついに戦争批判?」と思わせておいて「かつて大東亜戦争は日本にとって“皇戦”だった。それが東京裁判では“侵略戦争”に一変し、しかしいままた東京裁判への疑問が起きて戦争の意義が問い直されている。」としっかり例の戦争については何やら歯切れの悪そうな言い訳をした上で、「不毛で無用なレッテル張りは後世のひまな史家にまかせ、日本の国会は国益を踏まえたイラク復興の現実的論議をすべきなのである。」とまとめてくれていた。あー、つまり「やったもん勝ち」だと(ただし「勝ち」とはまだ言えない状況とも思えるが) 。この恥というものを知らないらしいご老人は極端なケースかもしれないが、ざっと見たところでは同じような事を言ってる自称保守派論客は結構多い。変な理屈をつけないで、「アメリカ様の子分ですからついていくしかないんです」と正直に説明してくれればまだ可愛げがあるってもんなんだが…。
 この一年、当初からイラク戦争に反対していたフランス・ドイツは依然としてイラクには派兵していない。これについても読売だの産経だのイラク戦争大賛成のマスコミの記事にこの一年を通して何度となく「フランスとドイツが折れてきた」「米英に協力の姿勢を示した」といった表現が出てきたのがまた興味深いところだった。もちろんフランスとドイツはそれぞれの思惑で動いているわけで彼らが正義だとかそんなことを言うつもりはないが、なんか思い切り「願望」を記事にしていた気はする。


 3月11日、スペインの首都マドリードで列車を狙った連続爆破テロがあり、200人を超える多数の死者を出す惨事となってしまった。事件発生直後、スペイン当局はバスク地方の独立運動でテロ活動を続けている「バスク自由と祖国(ETA)」 の犯行とただちに断定した。しかし僕もそうだったのだが、ETAにしてはずいぶんやり方が大規模・無差別だし、何やら大慌てで断定を発表したことに不自然さを感じた人は少なくなかった。やがてこの爆破テロに関してアルカイダ系の団体が犯行声明を出し、またモロッコ人など数名が関係者として逮捕された。現時点でもまだ背後関係が明白になったわけではないのだが、どうやらイスラム原理主義系のテログループによる犯行ではないかと見られるようになっている。

 問題になったのは、同国のアスナール首相の政府がテロが発生したとたんにこれを「ETAの仕業」と情報操作を行ったのでは、との疑惑がスペイン国民の間に起こったことだ。あとから明らかにされたがアスナール首相は実際にテロ発生直後に各報道機関の社長に直接電話し、「ETAの仕業だ」と必死に吹き込んでいたという。ちょうどスペインは総選挙を控えており、EU内でも米英寄りでイラクに派兵もしているアスナール政権の国民党としては、このテロがイスラム過激派系によるものだと判明するのは命取り。そこで必死に「ETA説」に固執したわけだが、これはかえって逆効果で、総選挙は当初の予想から逆転して与党の敗北、左派政権に交代という結果になってしまった。結果的にはテロは「実に効果的」であったといえる。この結果を受けてアメリカのラムズフェルド国防長官がアスナール政権の対応のまずさについて愚痴愚痴言っていたが、思い返せば一年前のイラク戦争開戦直前、このラムズフェルド氏が次々と繰り出す失言に怒って「あいつを黙らせろ」といったのがアスナール首相だったりする(笑)。
 次期首相となる事が確実になったサバテロ社会民主党党首は当初の公約どおり「6月までに国連主導でイラクの主権が回復されなければ撤兵する」 との方針を打ち出し、アメリカ・イギリスのイラク政策を手厳しく批判した。これは当初の想像以上に世界的に波紋を広げたようで、その直後に開戦一周年の反戦運動が全世界で繰り広げられた事もあって強いインパクトがあった。その直後に東欧でやたらに米英に協力的だったポーランドのクワシニエフスキ大統領が「大量破壊兵器に関する情報でだまされたことに、不愉快さを感じている」などと発言し、これまた波紋を呼んだ(なにを今さら、って気もしたが)
 慌てたのは米ブッシュ政権で、ブッシュ大統領が一周年記念の演説で日本など協力的な国をやたらに持ち上げて結束を呼びかけていたのが印象的だった。さらには中東民主化の大構想に日本に参加するよう必死に呼びかけているらしいが、持ち上げられていい気になって痛い目に遭わないことを切に祈りたい。

 とかなんとか書いているうちに、イスラエルがパレスチナの武装闘争組織「ハマス」のリーダー、ヤシン師をミサイル2発もぶち込んで「暗殺」したことが報じられた。さすがは「ノーベル迷惑賞」を受賞したシャロン首相、まさに面目躍如といったところか。さすがの日本もこれには参ったようで、珍しく駐日イスラエル大使を呼びつけて厳しい口調でイスラエルの行動を非難していたぐらいだが…もう中東はグチャグチャですぜ、これじゃ。シャロン政権閣僚からはアラファト議長暗殺をチラつかせた発言も出たようだし、実際やりかねない(と言いつつここまで土壇場で手を出さなかったのだが…)
 ヤシン師を殺された「ハマス」は報復全面戦争と唱え、シャロン首相の暗殺も口にしているらしいが、不穏な発言と自覚しつつ、これだけは成功した方がいいんじゃなかろうか、って気もする。



◆東アジアの大騒ぎ

 東アジアといえば日本もそこに入ってるわけで、当たり前だがここに含まれる国はいずれも日本の周辺国。てっとりばやく世界からの視野で言えば中国一帯、ということになっちゃうだろう。漢字・漢語を使用する文化圏とまとめることもできそう(モンゴルは例外になるが、ここが東アジアなのかどうかはちと疑問もある)。だからいろんな面で一体感や共通認識もあるんだけど、近いがためにかえってお互いのささいな差異が気になってケンカになったりもするのだ。
 韓国と台湾、それぞれ大統領と総統がいろいろと大変なことになっている。そもそも「大統領」と「総統」ってのは英語にすりゃまったく同じ事なんですがね。元の訳をしたのが日本か中国か、って程度の違いで。それにしてもこの両国の政治の乱闘模様を見ていると、少なくとも表面的にはよく似た気風にも見えてきますな。で、対して政治風景が表面的にはおとなしい点で共通するのが日本と中国。そういえば長年の実質的一党独裁とか社会主義的官僚機構だとか、似ている点は結構多い(笑)。


 さてと、まずは韓国。
 前から思ってるんだけど、世の中にはみんなで競ってなろうとするがならないほうが身のため、という地位がある。それは韓国大統領だ(笑)。歴代を振り返るとかなりの確率でロクなことにならない。暗殺された人もいるし、候補時代に殺されかかった人もいるし、大統領をやめてから在任中のことで訴追されたりするケースが多い。そして今度は「弾劾」で一時的にせよ権力を停止させられる、という史上初めてのケースが現出した。
 現在の韓国大統領はごぞんじ盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏。2002年年末の大統領選挙で新千年民主党の候補として出馬、大方の予想を裏切りまさかの大逆転で大統領に選出されてしまった。このとき当初支持していた鄭夢準(チョン・モンジュン)氏が投票直前の土壇場で「支持撤回」を表明、これがかえってあれこれ憶測を招いて若者を中心に票が盧武鉉に流れてしまったなんて経緯があった。当時韓国内で米兵の絡んだ事件があって反米感情が高まっていたことも背景にあったと言われている。
 その後僕自身が「史点」執筆をストップさせているうちに韓国政界はドタバタと変転を繰り広げており、気が付いたら昨年11月に盧武鉉大統領らは新千年民主党から離脱して「開かれたわが党(ヨルリン・ウリ党。略して「ウリ党」と呼ばれる)なんて政党を結成していたりしたのだった。それにしても「ハンナラ党」だの「ウリ党」だのと日本だったらひらがな政党が出てくるようなもんだが(「さきがけ」ってのはあったが)、今の韓国ではこういうのがオシャレなのであるようだ。
 政界に不正資金疑惑が出てくるのはどこの国でも同じようだが、韓国では日本よりもおおっぴらというか韓国流の「なれあい」感覚というのか、しばしば激しく噴出して政界の騒動の種になる。このところの新千年民主党、ウリ党の分裂騒動もあってお互いに不正資金疑惑の追及合戦をやっていて、盧武鉉大統領自身が「(大統領選での)自陣営の不法資金がハンナラ党陣営の10分の1を超えたら政界引退の用意もある」 なんて発言をするってのも隣国から見ていると凄いというか滑稽と言うか…。結局10分の1は超えちゃったようなんだけど、「誤差の範囲」ということらしくとりあえず「引退」表明はしていない。4月に総選挙があるのをにらんでのハンナラ党・新千年民主党に対する揺さぶりという面もあった。

 こうまでされては黙ってはいないぞ、とハンナラ党・新千年民主党は「大統領弾劾」という賭けに出た。「弾劾」の理由は盧大統領が総選挙でのウリ党への支持を呼びかける発言を行ったこと(国家元首である大統領自身は議会選挙で特定政党への支持を明言してはいけないらしい)、腐敗不正で国政運営を誤ったこと、国民経済と国政を破綻させたこと、などが挙げられている。弾劾決議にあたってはウリ党議員が激しく抵抗し、乱闘国会模様になったが結局は数の勝負で弾劾は成立(在籍議員の3分の2以上で成立する)、盧武鉉大統領は韓国史上初の弾劾決議をうけ、その権力を停止させられた。最終的な判断は憲法裁判所でなされるが、それまでは高健(コ・ゴン)首相が職務を代行することになる。
 しかし当初から言われてはいたのだが、この「弾劾」はかなりの賭けだった。野党陣営としてはいちかばちか、やってみればそこそこ賛成の声もあると判断してやったのだろうが(そうでなければ単に感情的判断でやったことになるが) 、弾劾の強行は韓国国民の想像以上の反発を受けることとなってしまった。不正疑惑で支持率が大幅に低下していた盧武鉉大統領だったのだが、実際に弾劾が強行されると激しい反対運動が沸き起こり、国民のなんと70%が弾劾に反対という調査結果まで出てしまった。このまま総選挙に突入するとウリ党が結果的に大きく議席を伸ばしてしまう可能性も出てきて、賭けに出た野党側は大慌て、というところだ。まぁこればっかりは選挙結果が出て見ないとわかりませんけどね。


 さて次に台湾。
 台湾総統選挙はいつもながら話題が多い。前回の総統選挙のときも「史点」でさんざんネタにしたものだったが、当時は蓋を開けてみるまでは陳水扁さんなんて意識にもありませんでした(笑)。国民等が分裂して「漁夫の利」を得た形で出てきた、って感じだったが、この時期はちょうど中国が全人代を開いていることもあって「台湾独立は認めない」発言が強く出がちなのも若干影響があった気もする。
 前回の総統選では本来「本命」で戦っていて結局2位と3位に終わった宋楚瑜連戦 の両候補が今回は手を組み、連戦総統・宋楚瑜副総統という形で現職に挑むことになった。前回同様に激しい選挙戦になり、お互いに強烈なネガティブキャンペーンを繰り広げ、大規模な人員動員のイベントを挙行するなど、なかなかにアメリカンな選挙戦を展開していた。あれを見ていると、仮に将来中国が民主化して直接総統選挙なんかやるようになったら壮絶なことになるんじゃなかろうか、と思ったりもする。
 選挙戦の情勢はなかなか判然としなかったが(直接的な報道が控えられていたせいもあるけど)、なんとなく連戦陣営優勢、という調査結果が多かったように思う。それでもギリギリまで僅差、との見方が多く、投票の二日前に「明日は選挙戦最後の日だから、スキャンダル報道などが飛び出して情勢が急変する事もありうる」と書いた日本の新聞があったりもした。僕も選挙前日だと何かブチ上げがあるかもしれんなーと思ってはいたのだが、まさか銃撃事件が起こるとは…

 3月20日のまさに選挙前日の午後、台南で遊説中の陳総統と呂副総統が狙撃された、との一報を見たときは「げげっ」と思ったものだ。よりにもよって選挙の前日。万一のことがあればそれこそ大騒動だし、犯人の背後関係によっては緊迫の事態も予想された。しかし夜に入って陳総統・呂副総統ともに命に別状はなし(というよりほとんど軽傷)、犯人も捕まっておらず選挙は予定通り実行、ということになって、ついつい何やら謀略めいたものを感じたりもしたものだ。まぁ自作自演でああいう撃ち方は無理じゃないかとは思ったが。
 そして翌21日の選挙。日本時間夜7時には判明すると言われていた結果はなかなか発表されず、結局夜の9時ごろになってようやく陳水扁陣営の勝利が判明した。それも3万票を下回る大僅差(0.22%)の結果である。一緒に行われたミサイル防衛などをめぐる国民投票は不成立だったが、なんとなく今の台湾の「平均値」をバランスよく表現した選挙結果という気もしなくはなかった。まぁ「連戦連敗」となっちゃった連戦氏(誰もが思ったギャグである)としては「銃撃さえなけりゃ…」という気分ではあるだろう。この人、どういう経緯で国民党党首にのぼりつめたのかよく知らんのだが、なんか不運がつきまとう相があるような気がする(笑)。
 こうやって書いている時点でもまだ台湾では選挙結果に不満の人々が大騒ぎしている。銃撃事件はともかくとして、無効票が得票差の10倍の30万票もあるってのはちとマズイんじゃないかなぁ…(しかも前回の選挙の3倍もあるとか)。投票用紙がいまいちわかりにくかったのも一因らしいが、なにやらブッシュ現米大統領を選出した4年前の大統領選を髣髴とさせる話だ。
 まぁこういう結果でもあるし、台湾関係もしばらく思い切った事はできなさそうな気はする。



◆あれ、文豪が歩いてる

 「文豪」という言葉があるが、この称号を冠して呼ばれる小説家というのはそうそういない。トルストイだのドストエフスキーだのゴーリキーだのといったロシア文学の巨星たちはたいていこの称号をくっつけて呼ばれているようだが、ヘミングウェイがそう呼ばれる事はあまりない気がする。日本だと夏目漱石は問答無用で文豪呼ばわりされてると思うが、その直弟子的存在であり今なお文学界最大の登竜門文学賞(今年も結局大騒ぎしていたけど、日本人はそんなに純文学好きなんだろうか…)の名前にも冠されている芥川龍之介 が「文豪」呼ばわりされることは無いような。「文豪」の定義については判然としない部分も多く、ただ単に良質のものを量産すればいいってわけでもないらしい。まぁなんとなく昔の人につける呼称という感覚もあるので、百年もすればいま活躍中の作家の中にも「文豪」呼ばわりされる人もいるのかもしれないが。

 書いた作品は決して多くはないと思うのだけど、「文豪」と関せられることが多い小説家に森鴎外がいる。恐らく彼の書いたもので一番有名なのは、ドイツに留学した日本人青年とドイツ人の美少女との悲恋を描いた『舞姫』ではないかと思われるが、これ、僕は高校時代に国語の教科書で読んだのだがかなり短い作品、しかもこの時期で文語文(つまり古文です) で書かれていて、不思議な小説が有名になったものだなと思ったものだ。確かに印象にはかなり強烈に残る結構ひどい展開の話ではあるが(笑)。この物語はよくあるパターンだが鴎外自身のドイツ留学経験が元ネタになっており、ヒロイン・エリスのモデルも実在するのだそうだが、このモデルの女性は小説のような美しい悲劇には終わらず、鴎外を追いかけて日本まで押しかけてきたのだから、事実はまさに小説より奇なりというやつ。大騒動のすえドイツに帰って行ったそうだが、聞くところでは小説のような美少女容貌の女性ではなかったようである。

 この鴎外という人、この時代にあってドイツで医学を学んで軍医を務めつつ作家業をしていたという人であるから、大変な多才であったのはもちろんのこと、ある意味相当な変人でもあったようだ。面白いのが子供達に「於莵(オト)」「茉莉(マリ)」「杏奴(アンヌ)」といったように、ドイツ風の名前をつけちゃっている。「茉莉」なんかは今の流行を先取りした感もあるけど。お孫さんも「真章(マクス)」さんというそうだから、徹底したものだ。
 その次女の小堀杏奴さんが「回想」というエッセー集の中で「映画」という文章を書いている。1921年(大正10年)、森鴎外が亡くなる前年のことだが、ヨーロッパ外遊から帰って来た皇太子(つまり昭和天皇)が東京駅に降り立つ式典の様子を映したニュース映画を見ていた当時小学校5年生の杏奴さんは、そこに父親の姿が映っているのを発見した。当時鴎外は帝室博物館(現・国立博物館)の館長を務めていたのでこの式典に参列していたのだ(鴎外自身が9月3日の日記に記してもいる)。帰宅してその日の夜にそのことを父親に話すと、鴎外は「さうか、活動に撮るんならもつと前の方へ出て歩けばよかつた」と言ったそうである。「活動」とは当時の映画の呼称「活動写真」のこと。TVカメラがあるとついVサインを出しちゃう心理のルーツであったかもしれない(笑)。

 このエッセーに出てくる「鴎外が偶然映っている映像」が現存するに違いないと探していたのが東京都文京区立鴎外記念本郷図書館の記念室担当の大沢恵子さん。確かに昭和天皇に関係する映像だけに残っている可能性は高かっただろう。大沢さんはついに昨年の秋、この映像が日本映画新社に保存されている事を突き止め、3月になってからこのことが報じられ、映像も公開された。この鴎外がたまたま映っている映像は「皇太子殿下御外遊実況」なる2時間半のニュース映画の最後の方に含まれていた。
 その動画自体は僕は見逃しているのだが、東京駅で特別列車から降りてくる皇太子を出迎える正装の人物たちの中に混じっている鴎外は、フロックコートを羽織り、シルクハットを片手にして首を右にかしげ、やや前傾姿勢で生真面目な顔のままフレーム内を横切っていくという。その時間、わずか3秒。新聞記事によると孫の真章さんの奥さんの証言では歩き方が真章さんとソックリとのことであった。

 この発見により日本の文学者を映した「最古の映像」の記録が大きく更新される事になる。これまで最古とされてきたのは1927年(昭和2年)に撮影された芥川龍之介の映像で、なぜか庭の木によじのぼって遊んでいる様子などが記録されている(評判になったNHKの「映像の世紀」の最終回にも紹介されてましたね)。鴎外はわずか3秒の「出演」とはいえ、思わぬところで龍之介氏を6年も抜き去ってしまったのであった。このあたりが「文豪」の差なんだろうか(笑)。



◆さよならするのはつらいけど

 2004年3月21日夜、正確に言えば午後11時55分ごろ、僕は例によって就寝前のウェブサーフィンなんぞ楽しんでいた。そろそろ風呂入って寝るかとしていたころだったが、ふと最後のニュース確認に、と入った新聞サイト(確か産経新聞サイト。別に深い意味は無い(笑))「いかりや長介さん死去」の大見出しが出ているのが目に飛び込んできた。
 昨年ガンに罹っていることが公表された時点でこういう瞬間を覚悟していたところはある。しかしやはりこの見出しを見た瞬間の衝撃度と喪失感はかなりのもので…同様に「覚悟していたところもあったがやはり大きな衝撃と喪失感を覚えた」のが先月の歴史家・網野善彦氏の死去の速報を見たときだった(これもネットで見たんだよな)。いかりや長介と網野善彦。全然無関係なんだけど、僕の中ではかなり共通した感慨があったのだ。

 この死去の一報が伝わるや、もうネット上は大騒ぎ(もちろん日本国内限定だが)。その後数日にわたっていたるところで「いかりや死去」関連の話題がアップされ、某巨大掲示板などはその全てが「いかりや一色」と化したような瞬間すらあった。僕自身、直後に自分とこの「史劇的伝言板」に書き込み、さらに大河ドラマファンBBSにも書き込んでいた(大河ドラマ「独眼竜政宗」で老将・鬼庭左月を演じていた)。そういう様子を見ていて、いま一番インターネットをバリバリ使っている世代ってのはまさに「ドリフ世代」「全員集合世代」であるのだな、と改めて思ったものだ(細かいことを言えばドリフ世代の中でも「志村ー!うしろー!世代」というのがあると僕は以前勝手に定義していたことがある)

 死去後の報道も単なる有名芸能人の死去の扱いとはかなり異質なものとなっていたように思う。ワイドショーやニュースショーの芸能ネタコーナーはいつもどおりだったが、天下のNHKもニュースの枠内で大きく報じ、僕がこの文章を書いている直前にも今夜の通夜の模様がかなりの時間を割いて紹介されていた(映った参列芸能人の中に香取慎吾クンがいたあたりはNHK流のイヤミではあったが)。僕の記憶ではNHKの全国ニュースが一芸能人の通夜の模様(葬儀ならともかく)を報じたなんて前例はあまりない気がするのだが…(石原裕次郎、美空ひばりあたりかな?)。思えばNHK職員の主力も今や「全員集合世代」なのだ。
 小泉首相までがコメントをしていたのにも驚いた。まぁ記者に聞かれたから答えたんだろうけど(ハルウララ106連敗についてもコメントしてたもんな)「残念だなあ。いい役者だったのにね」とのお言葉だったが、僕などには小渕恵三元首相が黒澤明監督死去の際に言った「『生きる』は面白かったな」と同じぐらいの違和感があったものだ。小泉さんぐらいだとお子さんが「全員集合世代」にひっかかるぐらいだから「俗悪番組」と眉をひそめた親の世代になるわけで、お笑いの人というよりその後の俳優としての印象を語ったのであろうけど。そういや息子の小泉孝太郎さんは「踊る大捜査線2」で「共演」した形にはなってるんだな。一緒のシーンは無かったような気がするけど。
 僕も含めた「全員集合世代」がまず気になったのがドリフターズの他のメンバーが何を言うか、だっただろう。弔問に来た高木ブーさんの「『ばかやろう!』と言いましたよ」 と吐き捨てるように言う場面ばかりが流れていたが、その後メンバー四人のコメントが文書の形で発表された。当たり前だが実に真面目な、かつシンプルで拍子抜けするほどごくありがちなコメントが並んでいたが、こういうお悔やみ言葉の発表の仕方もなにやら「歴史上の人物」の死を感じさせる厳かさがあった。この文章を書いている時点で翌日の葬儀はメンバー全員がそろって盛大に挙げる事になるが、なにやら「国民葬」の雰囲気も感じている。

 そう、やはりいかりやさんは「歴史上の人物」だったのだろう。「8時だよ!全員集合!」が最高視聴率50%などというとんでもないお化け番組となっていた1970年代、高度経済成長が一応止まりはするけどバブルなんて妙な熱気も無く、日本が一番落ち着いていい時代だったんじゃないかという気もする。ちょうどベビーブームにも当たっており、やたら子供の多い活気ある時代だったと見ることもできる。その子供達のほとんどが見ていた番組が「全員集合」だったわけだ。この時期のTBSは凄まじいもので、当時の多くの家庭で「まんが日本昔話」→「巨泉のクイズダービー」→「8時だよ!全員集合」→「Gメン75」というコースができていたのではなかろうか(笑)。
 
 「全員集合」は当時としても珍しい生放送番組で、関東各地のホールや市民会館などを巡回して収録を行っていた。僕は茨城県取手市の住人なのだが、ここの市民会館も「全員集合」が巡回してくる場所のひとつだった。確か2、3ヶ月に一度は来ていたのではないかと思う。そんなわけでこの番組とドリフターズにはまた格別の愛着があったりする。
 そして僕自身、小学校のときに「全員集合」の生収録を家族総出で見にいったこともあるのだ。番組でいつも観客の募集をしていたが、一度試しに応募はがきを出してみたら一発当選、家族全員で市民会館に見に行ったのだ。あれは今思い返してもいい思い出で、TVには映らない番組収録の舞台表(裏は見えない、さすがに)を見て今でも細かいところをよく覚えている。もっともコントそのものはほとんど覚えてないのが不思議。あのころからマイナー方向に目が行きやすかったのだろうか(笑)。
 「全員集合」生収録を見に行ったのは結局これきり。確か応募はがきもその後は出さなかったように思う。しかし今でもこれは自慢ネタの一つで、「いかりやさん逝去」のニュースを見ながら「ああ、俺はこの人と同じ空間で歴史を共有していた時間があったのだなぁ」などと大げさな感慨を抱いたりしたものだ。

 先述のとおり、いかりや長介さんの「俳優業」は「全員集合」放送終了後のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」での老将・鬼庭左月役から始まった(ドリフのNHK進出はそれに先立つ水曜時代劇「武蔵坊弁慶」での加藤茶出演があった)。当時を知る多くの「全員集合世代」が言うことだが、当初はドリフのリーダーが時代劇で大真面目な役を熱演しているのがすっごく可笑しかったりした(笑)。それでも人取橋の合戦で壮絶な戦死を遂げるシーンは強烈で、息子に「わしのように若死にはするなよ」と言って事切れる場面はいまなおよく覚えている。左月の戦死は73歳という設定になっており…ああ、なんだか絶妙に今の状況とかぶるんだよなぁ。とにかく合掌…ご苦労様でした。


2004/3/24の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

「ニュースな史点」リストへ