ニュースな
2010年2月13日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆これから遠くへ参ります

 「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の吉良邸討ち入りが実行されたのは元禄15年12月14日。このため今なお「忠臣蔵」といえば年末の風物詩なのだが、現在のグレゴリオ暦で換算すると討ち入り決行の日は1703年1月30日となる。東京では12月よりは1月末から2月にかけてがよく雪が降り、なるほど今年も2月1日にかなりの雪が降っている。もっとも討ち入りイメージと切っても切り離せない「雪」だが、あれは歌舞伎の演出で導入されたもので実際には当日は晴天だったそうである(雪の東京の大事件というと、「桜田門外の変」(1860年3月24日)、「二・二六事件」(1936年2月26日)があり、それらとイメージがダブってる気もする)

 その1月30日付の産経新聞に「大石主税(ちから)の書状見つかる」という記事が載った。大石主税といえば、赤穂浪士討ち入りのリーダー・大石内蔵助の長男で、討ち入りの日には裏門を固めて指揮にあたっている。このとき数え年で15歳というから満年齢ではまだ中学二年生というお年である。なお、過去の数多く制作された「忠臣蔵」映画・ドラマでは大物歌舞伎役者の子役が主税役をつとめることが多く、大人になってから今度は内蔵助役をつとめるというパターンがみられる(このため実の父子で大石父子を演じるケースも多い)
 記事ではその書状の存在が「29日に分かった」とあるが、これは「関係者の話によると」同様に新聞特有の表現と言うやつで、とっくに分かっていたのを29日に記事がまとまったとするのが正しい。ともかくこのたび奈良県高取町の民家から、討ち入りの少し前に書かれた大石主税の書状が出て来たという話で、これがなかなかに面白い内容を含んでいたのである。

 主税の母、つまり内蔵助の妻・りくの叔母に当たる香(こう)という女性が高取藩の筆頭家老・中谷(なかねや)清右衛門に嫁いでいた。今回見つかった書状は主税がこの香に宛てたもので、「元禄十五年閏八月廿七日」日付があるという。討ち入りが実行されるのはこの年の12月14日だから、四ヶ月弱前のものということになる。書状は「私は近いうちに父内蔵助と同道し遠方に参ります。それにつきまして、まことに結構な品をお送りくださり、かたじけなく思います」との趣旨だそうで、この親戚の香が内蔵助と主税が「遠方への旅」に出るに際して何か贈り物をしたことが読み取れる。もちろん「討ち入りに行きます」なんて書けるはずもないが、この文面からするとこの香という親戚の女性は大石父子が何をしようとしているのか承知していたようにも読み取れる。もちろん、単に旅行に行く親戚に餞別を贈って「おみやげよろしく」なんて落ちだったという可能性もゼロではないが、大石たちが討ち入りをしようとしてるのではないかとの噂は当時すでに世間で広くささやかれていたとの見方もあるし、信用のおける親戚にはひそかに打ち明けていたかもしれない(妻子ら残される家族たちの面倒をみてもらう都合もあるだろう)。討ち入り実行の前に内蔵助は妻りくを離縁している(連座を防ぐため)ので、主税が父の代わりに挨拶の書状を書いたとも思える。

 この年の12月14日に吉良邸討ち入りは実行され、赤穂浪士たちはその本懐を遂げた。そして主税は父とは引き離されて松山藩の松平家に預けられ、翌元禄16年2月4日(1703年3月20日)に幕府から切腹を命じられ、その日のうちに切腹して果てた(恐らく実際に腹を切ることはなく形ばかりであったと思われるが)。まだ数えで16歳、現在なら高校受験の結果も出て卒業式を迎える中学生といった年頃だった。



◆あの人の著作権の切れる時

 著作権が切れるのはいつなのか、という問題を僕はルパンシリーズで気にしている。アルセーヌ=ルパンの生みの親、モーリス=ルブランがこの世を去ったのは1941年11月6日である。日本国内の著作権法では文学作品の著作権についてはその作者の死後50年は保護されることになっており、大半の国が加盟し国際的な著作権保護ルールとなっている「ベルヌ条約」でも著作者の死後50年の保護期間を置くことが明記されている。したがってルブランの死から50年が経った1992年から著作権フリーのパブリック・ドメインになる……のかというとそう単純でもないらしい。
 第二次世界大戦のあいだ、日本国内では敵国(連合国)の著作物についてしっかり保護できなかい状況だったという理由から、「戦時加算」というやつがつくのだ。つまり1941年12月8日から1952年4月28日(サンフランシスコ平和条約発行日)までの期間について「著作権消滅カウントダウン」が止められていたと解釈する。このため著作者の死後3794日が加算される。だから日本国内におけるルブランの著作物の著作権は2002年から消滅した…と考えられる。かつて「日本領」であった韓国で2002年にルパン全集が相次いで発行(なんと4バージョンも同時に出た。詳しくは本サイト内の「怪盗ルパンの館」の各国ルパン本コーナーを参照されたい)されたのもこのためだと思われる。

 ただフランス本国を含めたEU加盟国においては「死後70年は保護」という原則が定められている(ベルヌ条約はあくまで「基本」であってそれ以上著作権保護期間を延ばすのは各国の自由である)。そのためフランスにおけるルブランの著作権消滅は2011年末日まで待たなくてはならない。現在ネット上でルブラン著作の原文や往年の英語訳文が公開されているところが複数あるが、これはアメリカやカナダの国内法ではルブランの著作権が消滅しているためだ。
 ところで日本では前述のとおり2002年でルブランの著作権は消滅したと考えられる。フランス本国ではまだだというが、ベルヌ条約では「相互主義」の原則がとられ「両国間で期間が異なる場合は短い方が優先」となるらしいので日本国内に限れば著作権は消滅したと考えていいらしい(ちょっと自信がないんだけどね)。ただし日本で刊行された訳文についてはもちろんそれぞれに著作権が発生しているのでルパンシリーズの訳本をみんなが勝手に使っていいというわけではない。なお、先日発表された「奇巌城」の翻案映画(日本を舞台にし、ボートルレが女子大生だそうで)は「原作」を菊池寛の訳文としていると報じられていたが、これは1928年(昭和3)に刊行されたもので1948年没の菊池寛の著作権が消滅しているためだと思われる(「青空文庫」でも公開されている)。ただしこれは菊池寛が編集にかかわった「小学生全集」中の一編であり、菊池自身が訳したとはとても思えないので注意のこと(一部の報道じゃ「奇巌城」を最初に訳したのは菊池寛のように報じられちゃってたからなぁ…あれは保篠龍緒の名訳題なのだが)

 さて、枕が長くなった(笑)。
 そんなわけでEU国内では著作権は作者の死後70年経つとフリーになる。よって2015年末日をもって、ついにあの男の著作権が消滅する――1945年4月30日に自殺した、ナチス・ドイツの総統、アドルフ=ヒトラーだ。それを機に、ドイツ国内でヒトラーの著作でナチスの「聖典」となった『我が闘争(マイン・カンプ)』を再出版しようとする動きがある、という話が2月6日の東京新聞記事で報じられていた。
 ヒトラーが『我が闘争』を書いたのは「ミュンヘン一揆」に失敗して獄中にあった1924年のこと。1925年に出版され、やがてナチスの聖典としてドイツ国内で総計1000万部が発行されたという。戦後のドイツではナチスを賞賛したり擁護したりする行為そのものが法律で禁じられているため、『我が闘争』もドイツ国内では発禁本で、一般にはまず手に入らない。かつての同盟国である日本ではどうかというと、角川文庫でいたって普通に売られていて、「まんがで読破」シリーズにも「資本論」「共産党宣言」「古事記」「蟹工船」なんかと一緒に並べられている。そういやその角川書店の元社長の自伝本のタイトルも「わが闘争」だったっけな(笑)。
 
 2015年が終わればヒトラーの著作物はパブリック・ドメインとなるので出版は可能、として再出版に動き出した人たちというのは別にネオナチなどではない。企画したのはミュンヘンの現代史研究所で、同研究所の歴史学者エディト=ライム氏は「ナチス時代を知る上で最も重要な資料。極右やネオナチの扇動に悪用させないことも出版の目的」と説明し、読者に誤解を与えないよう内容を否定する詳細な解説をつける予定ともいう。これはこれでごもっともと思う。
 しかしミュンヘンのあるバイエルン州政府は「そうはさせない」という声明を発表している。実はヒトラーの著作権を現在管理しているのはバイエルン州政府なのだ。なぜかといえばヒトラーの住所がずっとミュンヘンにあり、ナチス・ドイツ崩壊時に「ナチス幹部の財産は政府が没収」という措置が行われたためヒトラーの著作権もバイエルン州政府が管理する形になっちゃってるからなのだそうで。
 確かに著作権法的にはヒトラーの著作権は2015年をもって消滅し、あとはどうしようと勝手ということにはなる。だがバイエルン州政府はドイツ国内法の「ナチス賞賛行為の禁止」を根拠として出版を断固阻止する構えで、ドイツ連邦政府ともその方向で合意しているとのこと。
 もっとも現在はネットで外国のサイトにアップされたものを読むこともできるわけで、あまり意味がないと思うのだがなぁ。ドイツ本国ではナチスについてはいろいろ気を使うことは多いとは思うのだが、先年の映画「ヒトラー〜最期の十二日間」公開の騒ぎにも見えたようにどうもあちらでは「ナチスについてはいっさい見せちゃダメ」という考えが根強くあるように感じる(ナチスに限らずこの手の「元から根絶しよう」という発想〜どうせ無理なんだけど〜は欧州に強い傾向のような)。賞賛は問題があるが、目もふさぎ耳もふさごうという姿勢も何の解決にもならないんじゃないのか。
 


◆日本の北から南から

 受験産業という商売柄、歴史教科では「これを絶対覚えろ」とエッセンスを絞り込んで教えることが多いのだが、そんな中に「覚える遺跡は岩宿、三内丸山、吉野ヶ里」というものがある。つまり旧石器時代の遺跡が岩宿遺跡(群馬県)、縄文時代が三内丸山遺跡(青森県)、弥生時代が吉野ヶ里遺跡(佐賀県)というわけだ。実質これ以外の遺跡が問題に出ることはまずないというぐらい。
 僕自身が中学生のころは三内丸山も吉野ヶ里も注目されていなかった。弥生時代の代表的遺跡といえば静岡県の登呂遺跡が定番だったのだが、最近はその規模の大きさと小国家群の形成の説明上便利なせいか吉野ヶ里遺跡が圧倒的に多くとりあげられている。そして縄文時代に関しては長い間「貝塚だけ覚えておけ」といった状況だったが、1990年代以降はすっかり縄文といえば三内丸山一色という状態になっている。それだけ三内丸山遺跡の発見というのは大きなものだったのだ。
 三内丸山遺跡は、それまで狩猟・採集中心で定住をしないと想像されていた縄文時代に栗の栽培など「農業」らしきものがあり、なおかつ1000年以上にわたって一か所に大規模な「集落」(都市、とすら言っちゃう人もいる)があり、そこにかなり大規模な建築物まであったという驚くべきものであった。これが縄文時代のイメージを大きく変えてしまったことは間違いない。
 だが三内丸山だけをクローズアップして縄文時代のイメージを語るのも危険だろう。むしろかなり特殊な事例であったと見た方がよさそうだ。また三内丸山のシンボルとなっている「六本の柱の巨大建造物」だって実際にはなんだったのかわかりゃしない(現在ある復元建造物はあくまで複数の意見の折衷案にすぎない)。また多くの人が住んだといっても最大に見積もって五百人ぐらいであり、集落といっても常時定住する場所ではなく時々人が集まる宗教的な「聖地」だったのではとの見解もある。
 危険、という言葉をあえて使ったのは三内丸山の発見以降、「縄文文明」としてこれを持ち上げ(最古の土器が日本から出るという話と結びつきやすい)、「日本にも古代文明が〜」みたいな変な「自慢史観」みたいなものが実際にかなり見られたことを念頭に置いている。三内丸山は縄文でもかなり特殊な事例だろうし、だいいち現在の日本に直結する「文明」にあたるものは大陸文化が伝播してきた弥生時代以降と見た方がいい。そしてそもそも三内丸山自体がある時期急激に衰退して「その後」に引き継がれていないことに注意しなければならない。

 これまでの調査によると、三内丸山の集落はおよそ5900年前に成立し、およそ4200年前に突然消滅した(放棄された)と見られている。その間1700年と思えばかなりの時間が流れてるわけだが(今から1700年前といえば邪馬台国に近くなってしまう)、それだけ続いていたものがなぜ突然終焉したのかについては謎とされている。ただ有力な仮説として気候が急激に寒冷化したためではないかとの意見はあった。そもそも本州最北端といっていい地にあれほどの規模のものがあるのだから、当時そこはより温暖だったのではと推測されるからだ。
 2月2日付の読売新聞に出ていた記事によると、東京大学で古気候学を研究している川幡穂高教授が三内丸山から近い陸奥湾の海底の堆積物を採取し、プランクトンがどんな物質を作っているかを調べることで当時の海面水温を推定するという調査をしたのだそうだ。その結果、およそ5900年前から1700年間、つまり三内丸山が栄えたいた時期には水温が22度から24度まで上昇していた。堆積物中の花粉を調べるとこの温暖期に陸上では栗がよく育つ環境があったことも確かめられるという。ところが4200年前からまた水温が22度まで下がっていることも確認でき、気温もこれと同じく2度下がったと推定され、この寒冷化によって三内丸山を支えていた豊かな環境が失われてしまったのではないか……というのが川幡教授の推理だ。寒冷化の原因は季節風の変化ではないかとのこと。わずか2度でも第一次産業では多大な影響が出る、というわけで従来言われていた説を補強するものとはなりそうだが、さて。


 続いて打って変って 今度は沖縄は石垣島に舞台が移る。
 沖縄教育庁などが2月4日に発表したところによると、石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から2007年〜2009年に発見された人骨片が約20000〜15000年前のものであり、日本国内で直接調査された人骨の中では最古のものであることが確認されたという。発見された骨片は6点で、そこにふくまれる有機物の放射性炭素年代測定をやってみたところ、20〜30代男性の頭骨片が約20000年前(データの解釈により24000年前になるとか)、性別不明の成人の中足骨が約18000年前、成人男性の腓(ひ)骨が約15000年前と推定されたとのこと。これまで直接調査された最古の人骨は静岡県浜北市で発見された浜北人の推定14000年前で、これを大幅に上回るケースとなる。
 もっとも
、骨そのものではなく近くで見つかった木炭などの分析からもっと古い骨と推定されている例はすでにある。やはり沖縄の洞窟から発見され日本最古の全身骨格として知られる港川人の推定18000年前の例がある。さらにこれまた那覇の洞窟から出た山下町第一洞人の骨片の例では近くにあった木炭の年代測定から32000年前という推定がなされたことがある。

 なんだか沖縄ばっかりだな、と不思議に思う人もいるだろう。これは日本列島の多くが酸性の火山灰土で覆われていて、人骨の大半が長い年月のうちに「溶けてしまう」一方で、沖縄の石灰質の洞窟の中では骨が保存されやすいためだ。沖縄以外の日本列島でこれまで「旧石器人の骨」と見られていたものの多くが縄文時代、下手すると古墳時代や鎌倉時代のものだったと判明したケースもある。石器は残っていることから日本に旧石器時代から人がいたことは分かるのだが、人そのものを発見できない。あの「旧石器捏造事件」だってこの日本の特殊事情につけこんだものといえる。
 今回の発表をした研究チームによると、約20000年前は最終氷期でももっとも寒冷な時期にあたり、海面が低くなって日本列島と大陸が地続きで人が移動しやすかったとみられ、より調査を進めて周辺諸国の骨と比較できれば日本人のルーツの検証にも役立つだろうとのこと。石垣島のその洞窟にはまだまだ人骨が埋まっているとのことで、これからサンプルが増えることが期待される。



◆裁判ばなし三連発

 1月27日、ソウル中央地裁で日本人ジャーナリスト太刀川正樹さん(63)に対する無罪判決が言い渡された。太刀川さんは1974年に韓国での「民青学連事件」に関与したとして懲役20年の判決を受けていた人物であり、実に36年ぶりに冤罪を晴らすこととなったのだ。
 「民青学連事件」というのは、当時の韓国の朴正煕政権下で起こった民主化活動家らに対する弾圧事件だ。朴正煕政権は前年の1973年に政敵の金大中(のち韓国大統領)を東京で拉致し殺害を図る「金大中事件」を起こしており、内外で大きな批判を浴びていた。特に韓国国内では知識人・学生らによる民主化運動が盛んとなったが、その中心となった学生運動団体「民主青年学生総連盟(民青学連)」の構成員ら多数をKCIA(韓国中央情報部)が拘束、彼らが北朝鮮や朝鮮総連、人民革命党(この数年前に国家転覆を計画したとして弾圧された団体だが、その事件自体がKCIAの捏造だった)らと共謀して国家転覆を謀ったとして180名を起訴した。このうち反体制詩人として知られた金芝河氏らに死刑判決がくだり、国際的な非難もあって金芝河氏らは無期懲役に減刑され1975年までに「大統領特別措置」という名の実質的恩赦により多くは釈放されたのだが、それでも「人民革命党再建」にかかわったとされた8人は死刑を執行された。
 太刀川氏はこの民主化運動を取材中に学生運動家に取材の謝礼金(当時の5000円程度という)を渡したことが「反政府運動への資金提供」とみなされ逮捕され「内乱扇動罪により懲役20年」の宣告を受けてしまった。これはさすがに日韓間の問題となり、他の多くの有罪とされた人々と共に1975年に「恩赦」で釈放されている。
 金大中政権の成立後、「過去事件の真相究明委員会」が国家情報院に設置され、かつての軍事政権時代の民主化運動弾圧の再調査が進められた。そして2005年12月に「民青学連事件はKCIAによる捏造」との調査結果が出されている。これを受けて太刀川さんについても再審が行われ、このたび地裁で無罪判決が出されたわけだ。検察もこれを争わない方針なので、これで無罪が確定する見通し。太刀川さんは韓国政府に損害賠償を求める訴訟を起こす意向とのこと。
 先日「大統領の理髪師」という韓国映画を見た。朴政権時代を「三丁目の夕日」的にノスタルジックかつコミカルに描いた作品だが、この時代のムチャクチャな政治状況も濃厚に描き出されていた。今やずいぶん親しみやすい国のイメージが広まった韓国だが、こういう時代があったということを日本人の多くが忘れている気がする。繰り返し書いてることだが手塚治虫「ブラックジャック」の一編「パク船長」は1974年5月に執筆されたものであり、そのモデルが韓国であることは明らかなのだ(北朝鮮のこととするブラックジャック本があったのでしつこく書いてしまう)


 1月29日の毎日新聞に、ちょうど100年前の1910年に起きた「大逆事件」で処刑された女性・管野スガ(1881-1991)が事件の首謀者とされる幸徳秋水について「彼は無関係だ」と主張する秘密の書簡が見つかったとのニュースが報じられていた。
 まず幸徳秋水という人物について。日本最初の社会主義者の一人といっていい人物だが、彼の師匠があの中江兆民。この人のハチャメチャな人生については「しりとり歴史人物館」コーナーでも見ていただくとして、こういう師匠をもったからこそ秋水という人物がいる、ということは知っておいてもらいたい。さらにいえば兆民は長崎でほんのちょっとだけ坂本龍馬と面識があり、龍馬に「中江の兄さん、煙草を買うてきておーせ」と声をかけられたことを兆民は秋水に懐かしく語っている(それだけのことなのに龍馬について「なんとなくエラき人なり」と思ったそうで)。僕などは龍馬−兆民−秋水の流れを「土佐変人の系譜」などと勝手に呼んでいる(笑)。
 幸徳秋水は日本初の社会主義者として「帝国主義」を批判し、日露戦争にも一貫して否定的だったことは中学生の歴史教科書で今もおなじみ。そしてその彼が明治も押し迫った1910年(明治43)に明治天皇を暗殺しようとした容疑(大逆罪)により逮捕され、翌年死刑に処せられたことを歴史の授業で習った人も多いだろう。そしてその事件自体が社会主義者弾圧のための官憲によるデッチあげであったということも聞いた人が多いはずだ。
 念のため言えば明治天皇暗殺計画自体がまるきり架空のものだったわけではない。今回書簡が見つかった管野スガを含めてほんの数名が実際にそうした計画を持っていたのは事実のようで(どこまで本気だったかはわからないが)、彼らが秋水とつながりのある人物であり、もしかすると秋水自身もチラとそんな話を耳にしていたかもしれない、という程度のことだ。しかし官憲は幸徳秋水を首謀者とし、彼以下社会主義や・無政府主義者とされる人々を数百人検挙、うち26人を起訴した。そして秋水を含めて24人に死刑判決が下り(大逆罪は大審院での一審のみ)、うち12名が死刑執行され、5名が獄中死した。発端となった計画を根拠に事件を拡大し、それによって目障りになってきていた社会主義勢力の根絶を図った、というのが真相とみられている。
 今回発見された書簡というのは管野スガが獄中から知人の杉村楚人冠にあてたもので(獄中からどうやって出したのかは不明)、和紙に針で穴をあけ、光にかざすと字が浮かび上がるという仕掛けのもの。そこには「爆弾事件ニテ私外三名 近日死刑ノ宣告ヲ受クべシ 御精探ヲ乞フ 尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話ヲ切ニ願フ  六月九日」と記されていて、自分たちに死刑宣告が下ることを覚悟する一方で幸徳秋水については「ぜひ弁護士を探してほしい」と懇願している。そして日付のあとに「彼ハ何ニモ知ラヌノデス」とわざわざ一行付け加えている。この文面からすると、やはり秋水はまったく計画も知らず無関係であったとみてよさそうに思う。だがとてもこの手紙に応じられる雰囲気ではなかったのだろう、この手紙を送られた杉村はいっさいそのような行動をした様子はない。ただこの手紙を保存しておいて、一世紀も後に歴史の証拠を一つ残すことになったわけだ。
 秋水自身は裁判ではもう達観してしまっていたのか、ヤケクソのように「大逆というが、いまの天子は南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」という趣旨の発言をしている。これは幕末の志士たちが南朝正統論を掲げながら北朝の天皇を擁した大矛盾を痛烈に突いてしまったもので、これがきっかけでそれまで「南北朝」と同等併記していた歴史教科書が攻撃され、政治問題化して明治天皇自ら「南朝正統」と明言しなければならないハメになり、その後の南朝を正統としてむやみに称揚する観念的皇国史観につながっていくという副産物を残してしまうことになる(と、南北朝マニアとしてはこの件にやっぱり触れざるを得ない)


 上記の「大逆事件」は戦後再審を求める動きもあったのだが、1967年に最高裁は再審請求を棄却している(なお、この時点では有罪とされたうち坂本清馬一名だけが存命だった)。戦前の裁判については法律も違うし…その他うんぬんという理屈をつけて判断を出さずに「門前払い」するのが定番だ。戦後の事件についてだって過去に出た判決をひっくり返すのは容易なことではない。
 そうした「門前払い」を食った一例が「横浜事件」だ。これは戦時下の1942年に雑誌「改造」に載った論文が「共産主義的」であるとして発禁処分をくらたことを発端に、「共産党の再結成計画」なるものがデッチあげられて多くの言論人が治安維持法違反容疑で検挙され(上記の韓国での事件に瓜二つ)、特高警察による激しい拷問で死者も出た末に敗戦直後に30数名に執行猶予つき有罪判決が出された。大騒ぎの割に妙に軽い判決なのは、敗戦により治安維持法が廃止される見通しとなり司法界が後難を恐れたためとみられ(それでも無罪にはしない)、実際裁判の証拠は直後に焼却され隠滅されてしまっている(大逆事件もそうである)
 この戦時下最大の言論弾圧事件で有罪とされた人々や遺族は名誉回復のため、そして戦時下の特高捜査の実態調査のための再審請求を繰り返した。そしすでに関係者が全て故人となった1998年に始まった第三次再審請求で2005年になってようやく再審開始が決定されたが、2006年に横浜地裁は有罪か無罪かの判断を避け「戦後に治安維持法もなくなり恩赦も受けてるから免訴(=裁判打ち切り)」という、いったいこれまでの経緯はなんだったんだと思うばかりの判決が出て、この線のまま2008年3月に最高裁で確定、第三次再審請求は幕を下ろされてしまった。
 2008年10月から第四次再審請求が起こされる。そして2009年3月に横浜地裁はこれまで通り「免訴」という判決を下しつつも、事件が不当な捜査によるものとほぼ認めたうえで「無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、「刑事補償請求の審理で実体的に判断し、名誉回復を図れる」との指摘をした。要するに「まず無罪なんだけど、裁判でそう判決は出せない。ただ不当な捜査だから補償請求があれば補償して、実質名誉は回復しますよ」ということである。これを受けて元被告側は控訴を取り下げ、検察側も控訴しなかったので免訴判決は確定。そして直後に元被告の遺族による刑事補償請求が行われた。
 そして今年の2月4日、横浜地裁は遺族らの請求どおり4700万円の交付を決定。重要なのは決定理由において「有罪判決は、特高警察による思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認で完結した。警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」として特高警察の不当捜査、さらにそれを追認した司法の責任を明確にしたことだ。これを「実質的無罪判決」と遺族は受け止める意向という。


 昔の話ばかり並べたようにも見えるが、たとえばつい先日、中国では民主化を唱えた「零八憲章」(2009年1月29日付「史点」参照)を起草した劉暁波氏に対して「国家政権転覆扇動罪」により懲役11年の判決が先日の2月11日に確定している。この手の話は今だって健在だし、それが今も国外や他人事とは限らないということは常に頭に入れておいた方がいい。


2010/2/13の記事

<<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る